この一篇を綴つづるに先だち断わり置くは単に兎と書いたのと熟なん兎きんと書いた物との区別である。すなわちここに兎と書くのは英語でヘヤー、独名ハーセ、ラテン名レプス、スペイン名リエプレ、仏名リエヴル等が出た、アラブ名アルネプ、トルコ名タウシャン、梵名舎さ々さ迦か、独人モレンドルフ説に北ペキ京ン辺で山兎、野兎また野猫児と呼ぶとあった。吾輩幼時和歌山で小児を睡ねむらせる唄うたにかちかち山の兎は笹ささの葉を食う故耳が長いというたが、まんざら舎さ々さ迦かてふ梵語に拠よって作ったのであるまい。兎を野猫児とはこれを啖肉獣たる野猫の児こぶ分んと見立てたのか。ただしノルウェーの兎は雪を潜くぐって鼠はつかねずみを追い食う︵一八七六年版サウシ﹃随コン得モン手プレ録ース・ブック﹄三︶と同例で北京辺の兎も鼠を捉るのか知れぬ。日本では専ら﹁うさぎ﹂また﹁のうさぎ﹂で通るが、古歌には露つゆ窃ぬすみてふ名で詠よんだのもある由︵﹃本草啓蒙﹄四七︶。また本篇に熟兎と書くのは英語でラビット、仏語でラピン、独名カニンヘン、伊名コニグリオ、西名コネホ、これらはラテン語のクニクルスから出たので英国でも以前はコニーと呼んだ。日本では﹁かいうさぎ﹂、また外国から来た故南とう瓜なすを南ナン京キンというごとく南京兎と称う。兎の一類はすこぶる多種でオーストラリアとマダガスカルを除き到る処産するが南米には少ない。日本普通の兎は学名レプス・ブラキウルス、北国高山に棲すんで冬白く化けるやつがレプス・ヴァリアビリス、支那北京辺の兎はレプス・トライ、それから琉球特産のペンタラグス・フルネッシは耳と後脚がレプス属の兎より短くて熟兎に近い。一八五三年版パーキンスの﹃亜ライ比フ・西イン尼・ア住ビシ記ニア﹄にもかの地に兎とも熟兎とも判然せぬ種類が多いと筆し居る。熟兎はレプス等の諸兎と別に一属を立てすなわちその学名をオリクトラグス・クニクルスという。野生の熟兎は兎より小さく耳と後脚短く頭骨小さくて軽い。しかのみならず兎児は毛生え眼開いて生まれ、生まるると直ぐに自ら食を求めて親を煩わさず自活し土を浅く窪くぼめてその中に居るに、熟兎児は裸で盲で生まれ当分親懸り、因って親が地下に深く孔あなを掘り通してその裏うちで産育する、一八九八年版ハーチングの﹃熟ゼ・兎ラビ篇ット﹄に拠ると原もと熟兎はスペイン辺に産しギリシアやイタリアやその東方になかった。古ユダヤ人もこれを知らずしたがって﹃聖書﹄に見えず、英訳﹃聖書﹄に熟コニ兎ーとあるはヘブリウ語シャプハンを誤訳したのでシャプハン実は岩ヒラ兎クスを指すとある。岩兎は外貌が熟兎に似て物の骨こっ骼かくその他の構造全く兎類と別で象や河か馬ば等の有蹄獣の一属だ。この物にも数種あってアフリカとシリアに産す︵第三図は南アフリカ産ヒラクス・カベンシス︶。巌の隙すき間まに棲み番兵を置いて遊び歩き岩面を走り樹に上るは妙なり、その爪と見ゆるは実は蹄ひづめで甚だ犀さいの蹄に近い︵ウッド﹃博イラ物スト画レー譜テッド・ナチュラル・ヒストリー﹄巻一︶。却さ説て兎と熟兎は物の食べようを異にす、たとえば蕪か菁ぶを喫くらうるに兎や鼠は皮を剥はいで地に残し身のみ食うる、熟兎は皮も身も食べて畢しまう。また地に生えた蕪菁を食うに鼠は根を食い廻りて中心を最後に食うに熟兎は根の一側から食い始めて他側に徹す︵ハーチング、六頁︶。ストラボンの説に昔マヨルカとミノルカ諸島の民熟兎過ふえ殖すぎて食物を喫くい尽くされローマに使を遣つかわし新地を給い移住せんと請うた事あり、その後熟兎を猟かり殲つくさんとてアフリカよりフェレット︵鼬いたちの一種︶を輸入すと、プリニウスはいわくバレアリク諸島に熟兎夥おおくなって農穫全滅に瀕しその住民アウグスッス帝に兵隊を派してこれを禦ふせがんと乞えりと、わが邦にも狐狸を取り尽くして兎跋ばっ扈こを極め農民困くるしむ事しばしばあるが熟兎の蕃殖はまた格別なもので、古く地中海に瀕せる諸国に播ひろがり十九世紀の始めスコットランドに甚だ稀まれだったが今は夥しく殖えイングランド、アイルランドまたしかり、オーストラリアとニュージーランドへは最初遊猟か利得のため熟兎を移すとたちまち殖えて他の諸獣を圧し農作を荒らす事言語に絶し種々根絶の方法を講じ居るが今に目的を達せぬらしい。しかしおかげで予ごとき貧生は在英九年の間、かの地方から輸入の熟兎の缶詰を常食して極めて安値に生活したがその仇をビールで取られたから何にも残らなんだワハハハ。日本に熟兎を養う事数百年なるもかかる患うれ害いを生ぜぬは土地気候等が不適なはもちろん、生存競争上その蕃殖を妨ぐるに力ある動物が多い故と惟おもう。しかし熟兎はなくとも兎ばかりでも弱る地方多きは昔よりの事でその害を防ぐ妙案が大分書物に見える。例せば﹃中陵漫録﹄五にいわく﹁兎蕎そ麦ばの苗を好んで根本より鎌で刈ったごとく一畦うねずつ食い尽くす、その他草木の苗も同じく食い尽くす事あり、いかようにしても防ぎがたし、これを防ぐには山下の粘土を取り水にてよく泥に掻き立てその苗の上より水を灌そそぐがごとく漑そそぎ掛くれば泥ことごとく茎葉の上に乾き附いてあえて食う事なし、苗の生長には障さわらず、およそ圃ほの周り二畦三畦通りもかくのごとくすれば来る事なし、圃の中まで入りて食う事を知らず、米沢の深山中で山農の行うところなり﹂と、これより振ふるった珍法は﹃甲子夜話﹄十一に出で平ひら戸どで兎が麦畑を害するを避けんとて小さき札に狐の業わざと兎が申すと書く、狐これを見て怒りて兎を責むるを恐れ兎害を止めると農夫伝え行う、この札立つれば兎難必ずやむは不思議だとある。英国にも兎ヘヤ径ー・パスという村や野が数あり兎が群れてその辺を通ったからこの名を生じた。兎の通路は熟兎のよりも一層判はっ然きりするという事だが、わが邦の兎う道じなどいう地名もこのような起因かも知れぬ。それから支那で跳兎、一名蹶げっ鼠そというはモレンドルフ説にジプス・アンタラツスでこれは兎と同じ齧歯獣だが縁辺やや遠く、﹃本草綱目﹄に︿蹶は頭目毛色皆兎に似て爪足鼠に似る、前足わずか寸ばかり、後足尺に近し、尾また長くその端毛あり、一跳とび数足、止まるとすなわち蹶つまずき仆たおる﹀と出いづ、英語でジャーボアといいて後脚至って長く外貌習慣共にオーストラリアのカンガルーに似た物だ︵第四図︶。﹃孔こう叢そう子し﹄にこの獣甘かん草ぞうを食えば必ず蛩きょ々うきょうとて青あお色う馬まに似た獣と※きょ※きょ﹇#﹁馬+巨﹂、U+99CF、97-3﹈﹇#﹁馬+墟のつくり﹂、U+9A49、97-3﹈とて騾らのごとき獣とに遺のこす、二獣、人来るを見れば必ず蹶を負うて走る、これは蹶を愛するでなくて甘草欲しさだ、蹶も二獣の可愛さに甘草を残すでなく足を仮るためじゃとある、まずは日英同盟のような利害一遍の親切だ、﹃山せん海がい経きょう﹄に︿飛兎背上毛を以て飛び去る﹀とあるも跳兎らしい。
東洋でも西洋でも古来兎に関し随分間違った事を信じた。まず﹃本草綱目﹄に﹃礼記﹄に兎を明めい※し﹇#﹁目+示﹂、U+770E、97-8﹈といったはその目瞬まばたかずに瞭然たればなりとあるは事実だが兎に脾臓なしとあるは実際どうだか。また尻に九孔ありと珍しそうに書きあるが他の物の尻には何いくつ孔あるのか、随分種いろ々いろと物を調べた予も尻の孔の数まで行き届かなんだ。ただし陳ちん蔵ぞう器きの説に︿兎の尻に孔あり、子口より出づ、故に妊婦これを忌む、独り唇欠くためにあらざるなり﹀、ただ尻に孔あるばかりでは珍しゅうないがこれは兎の肛門の辺ほとりに数穴あるを指さしたので予の近処の兎狩専門の人に聞くと兎は子を生むとたちまち自分の腹の毛を掻きむしりそれで子を被うと言った。牛が毛玉を吐く例などを比較してこの一事から子を吐くと言い出たのだろ。しかして支那の妊婦は兎を食うて産む子は痔持ちになったり毎度嘔は吐いたりまた欠いく唇ちに生まれ付くと信じたのだろう。﹃雅﹄に咀嚼するものは九竅きょうにして胎生するに独り兎は雌雄とも八竅にして吐生すと見え、﹃博物志﹄には︿兎月を望んで孕み、口中より子を吐く、故にこれを兎とという、兎は吐なり﹀と出づ。雌雄ともに八竅とは鳥類同様生殖と排穢の両機が一穴に兼備され居るちゅう事で兎の陰具は平生ちょっと外へ見えぬからいい出したらしい、王おう充じゅうの﹃論ろん衡こう﹄に兎の雌は雄の毫けを舐なめて孕むとある、﹃楚辞﹄に顧兎とあるは注に顧兎月の腹にあるを天下の兎が望み見て気を感じて孕むと見ゆ、従って仲秋月の明暗を見て兎生まるる多少を知るなど説き出した。わが邦でも昔は兎を八竅きょうと見た物か、従来兎を鳥類と見み做なし、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由、古ギリシアローマの学者またユダヤの学僧いずれも兎を両性を兼ねたものとしてしばしばこれを淫いん穢え不浄の標識とした︵ブラウン﹃俗プセ説ウド弁ドキ惑シヤ・エピデミカ﹄三巻十七章︶。ブラウンいわくこれは兎の雌雄ともに陰具の傍そばに排泄物を出す特別の腺せんその状睾こう丸がんごときあり、また肛門の辺に前に述べた数孔あり、何がな珍説を出さんとする輩これを見て兎の雌に睾丸あり雄に牝戸ありとしたらしい。しかのみならず、兎の陰部後うしろに向い小便を後へ放つもこの誤説の原もとだったろうと。一七七二年版コルネリウス・ド・バウの﹃亜ルシ米ャー利シュ加・フ土ィロ人ソフのィク研・シ究ェル・レー・アメリカン﹄巻二、頁九七には兎にも熟兎にも雌の吉クリ舌トリス非常に長く陽物に酷似せるもの少なからず、これより兎は半ふた男な女りといい出したと出づ。支那にも似た事ありて﹃南山経﹄や﹃列子﹄に︿類自ら牝牡を為なす、食う者妬まず﹀、類は﹃本草綱目﹄に霊じゃ狸こうねこの事とす。﹃嬉遊笑覧﹄九にいわく﹁﹃談往﹄に馮相詮という少年の事をいって﹃異物志﹄にいわく霊狸一体自ら陰陽を為す、故に能く人に媚ぶ皆天地不正の気云々﹂。これは霊狸の陰辺に霊シヴ狸ェッ香トを排泄する腺孔あるを見て牡の体に牝を兼ぬると謬あやまったので古来斑ヒエ狼ーナが半男女だという説盛んに欧州やアフリカに行われたのも同じ事由と知らる。またブラウンは兎が既に孕んだ上へまた交会して孕み得る特質あるをその婬獣の名を博した一理由と説いたが、この事は兎が殖ふえやすい訳としてアリストテレスやヘロドツスやプリニウスが夙とく述べた。それから﹃綱目﹄に︿﹃主物簿﹄いう孕よう環かんの兎は左腋に懐いだく毛に文采あり、百五十年に至りて、環脳に転ず、能く形を隠すなり、王相の﹃雅述﹄にいわく兎は潦を以て鼈と為なり鼈は旱を以て兎と為る、惑けいわく明らかならざればすなわち雉ち兎を生む﹀と奇あやしい説を引き居る。﹃竹ちく生ぶし島ま﹄の謡曲に緑りょ樹くじゅ影沈んで魚樹に登る景色あり月海上に浮かんでは兎も波を走るか面白の島の景色やとあるは﹃南なん畝ぽい莠うげ言ん﹄上に拠ると建長寺僧自休が竹生島に題せる詩の五、六の句︿樹影沈んで魚樹に上り、清波月落ちて兎流れに奔はしる﹀とあるを作り替えたのだ。予が見たところ兎を海へ追い込んだり急流に投げ込んだりすると直ぐに死んだので右の句はただ文飾語勢を主とした虚構と思っていたが、仏経に声しょ聞うもんを兎川を渡る時身全く水に泛うかぶに比し、ウッドの﹃博イラ物スト画レー譜テット・ナチュラル・ヒストリー﹄巻一に兎敵を避くるに智巧を極め、犬に嗅ぎ付けらるるを避けんとて流水や大湖に躍り入り長距離を泳いで遠方へ上陸し、また時として犬に追究されて海に入り奔波を避けずして妙に難を免るるある由記せるを見て、件くだんの謡や詩の句はまるで無根でないと知った。 上述のごとく兎は随分農作を荒らしその肉が食えるから、兎猟古くより諸国に行われた。﹃淵鑑類函﹄四三一に后こう巴山に猟し大きさ驢うさぎうまほどなる兎を獲た、その夜夢に冠服王者のごとき人が、にいうたは我は扶えん君ふくんとしてこの地の神じゃ、汝我を辱めた罰としてまさに手を逢蒙に仮らんとすと、翌日逢蒙を弑しいして位を奪うた。今に至ってもその辺の土人は兎を猟とらぬと見え、また後漢の劉昆弟子常に五百余人あり、春秋の饗射ごとに桑そう弧こ蒿こう矢しもて兎の首を射、県宰すなわち吏属を率いてこれを観みたとあり、遼の国俗三月三日木を刻んで兎とし朋くみを分けて射た、因ってこの日を陶とう里り樺か︵兎射︶と称えたと出いづ。これは兎害を厭まじ勝ないのため兎を射る真似をしたのだろ。天主僧ガーピョンの一六八八至より一六九八年間康煕帝の勅を奉じ西韃だっ靼たんを巡回した紀行︵アストレイ﹃新ア・編ニュ紀ウ・行ゼネ航ラル記・コ全レク集ション・オヴ・ウオエージス・エンド・トラウェルス﹄巻四、頁六七六︶に帝が露人と講和のため遣わした一行がカルカ辺で兎狩した事を記して歩卒三、四百人弓矢を帯びて三重に兎どもを取り巻き正使副使と若干の大官のみ囲中に馬を馳はせて兎を射、三時間足らずに百五十七疋取った。兎雨と降る矢の下に逃げ道を覓もとめ歩卒の足下を潜くぐり出んとすれば歩卒これを踏み殺しまた蹴り戻す、あるいは矢を受けながら走りあるいは一足折られ三足で逃のがれ廻る、囲中また徒士立ちて大なる棒また犬また銃を用いて兎の逃げ出るを防いだとあって、兎狩も大分面白い物らしいが、熊楠はこんな人騒がせな殺生よりはやはり些さし少ょうながら四、五升飲む方がずっと安楽だ。文政元年より毎年二月と九月に長崎奉行兎狩に託して人にん数ずお押さえを行うた由︵﹃甲子夜話﹄六四︶、いずれそれが済んだ後で一盃飲んだのでしょう。﹃類函﹄四三一に︿﹃張潘漢記﹄曰く梁りょ冀うき兎苑を河南に起す、檄を移し在所に生兎を調発す、その毛を刻んで以て識しるしと為す、人犯す者あれば罪死に至る﹀、何のためにかくまで兎を愛養したのか判らぬ。英国でもゼームス二世の時諸獣の毛皮を着る事大流行じゃったが、下等民も御多聞に洩もれずといって銭ちゃんはなし兎の皮を用いたので、ロンドン界かい隈わいは夥しく兎畜養場が立ったという︵サウシ﹃随コン得モン手プレ録ース・ブック﹄一および二︶。 ﹃礼記﹄に兎を食うに尻を去ると見ゆるは前述異様の排泄孔などありて不潔甚だしいかららしい。兎肉の能毒について﹃本草綱目﹄に種々述べある。陶弘景は兎肉を羹とせば人を益す、しかし妊婦食えば子を欠唇ならしむと言うた。わが邦でも﹃調味故こじ実つ﹄に兎は婦人懐妊ありてより誕生の百二十日の御祝い過ぐるまで忌むべしと見ゆ。スウェーデンの俗信ずらく、木に楔くさびを打ち込んで半ば裂けた中に楔を留めた処や兎の頭を見た妊婦は必ず欠唇の子を生むと、一体スウェーデン人はよほど妊婦の心得に注意したと見えて妊婦が鋸台の下を歩けば生まるる子の喉が鋸を挽くように鳴り続け、斑紋ある鳥卵を食えば子の膚くて羽を抜き去った鶏の膚のごとし、豚を触さわれば子が豚様に呻うめき火事や創きずある馬を見れば子に痣あざあり、人屍の臭いを嗅げば子の息臭く墓場を行くうち棺腐れ壊れて足を土に踏み入るれば生まるる子癲てん癇かん持もちとなるなど雑多の先兆を列つらねある︵一八七〇年版ロイド﹃瑞ビザ典ント小・ラ農イフ生・イ活ン・スエデン﹄九〇頁︶。しかし母が妊娠中どうしたら南方先生ほどの大酒家を生むかは分らぬと見えて書いていない。一六七六年版タヴェルニエーの﹃波ペル斯シア紀行﹄には拝ゴウ火ル教徒兎と栗り鼠すは人同様その雌が毎月経水を生ずとて忌んで食わぬとある。果して事実なりや。﹃抱朴子﹄に兎血を丹と蜜に和し百日蒸して服するに梧きり子のこの大きさのもの二丸ずつ百日続け用ゆれば神女二人ありて来り侍し役使すべしとある、いかにも眉唾な話だが下女払底の折から殊に人間に見られぬ神女が桂庵なしに奉公に押し掛け来るとはありがたいから一つ試ためして見な。欧州にもこれに劣らぬ豪えらい話があってアルペルッス・マグヌスの秘訣に人もし兎の四足と黒マー鳥ルの首を併あわせ佩おぶればたちまち向う見ず無双となって死をだも懼おそれず、これを腕に付くれば思い次第の所へ往きて無難に還るを得、これに鼬いたちの心臓を合せて犬に餌えばその犬すなわち極めて猛勢となって殺されても人に順したがわずと見ゆるがそんなものを拵こしらえて何の役に立つのかしら︵コラン・ドー・ブランチー﹃妖ジク怪ショ事ネー彙ル・アンフェルナル﹄第四版二八三頁︶。米国の黒人は兎脳を生で食えば脳力を強くしまたそれを乾ほして摩すれば歯痛まずに生えると信ず︵一八九三年版﹃老オー兎ルド巫・ラ蠱ビッ篇ト・ゼ・ヴーズー﹄二〇七頁︶。陳蔵器曰く兎の肉を久しく食えば人の血脈を絶ち元気陽事を損じ人をして痿いお黄うせしむと、果してしからば好色家は避くべき物だ。また痘瘡に可否の論が支那にある︵﹃本草綱目﹄五一︶。予の幼時和歌山で兎の足を貯え置き痘瘡を爬かくに用いた。これその底に毛布を着たように密毛叢そう生せいせる故で予の姉などは白おし粉ろいを塗るに用いた。ペピイスの﹃日ダイ記ヤリー﹄一六六四年正月の条に兎の足を膝関節込みに切り取って佩ぶれば疝せん痛つう起らずと聞き、笑い半分試して見ると果して効いたとある。鰯の頭も信心と言うが護符や呪じゅ術じゅつは随分信ぜぬ人にも効く、これは人々の不サブ自リミ覚ナル識・セルフに自然感受してから身体の患部に応通するのだとマヤースの﹃ヒューマン・パーソナリチー篇﹄に詳論がある、私なんかも生来の大酒だったが近年ある人から妻が諫いさめて泣く時その涙を三滴布片に落しもらいそれを袂たもとに入れ置くと必ずどんな酒呑みもやまる物と承りましてその通り致し当分めっきりやみました。プリニウスの﹃博ヒス物トリ志ア・ナチュラリス﹄八巻八一章に兎の毛で布を織り成さんと試みる者あったが皮に生えた時ほど柔らかならずかつ毛が短いので織ると直ぐ切れてしもうたと見ゆ、むやみに国産奨励など唱うる御役人は心得て置きなはれ。﹃塩しお尻じり﹄巻三十に﹁或る記に曰く永享七年十二月天あま野のみ民んぶ部のし少ょ輔う遠幹その領内秋葉山で兎を狩獲信州の林某に依りて徳川殿に献ず、同八年正月三日徳川殿謡うた初いぞめにかの兎を羹としたまえり松平家歳さい首しゅ兎の御羹これより起る、林氏この時蕗ふきの薹とうを献ぜしこれ蕗の薹の権はじ輿まりと云々﹂とあるは可いい思い付きだ、時節がら新年を初め官吏どもの遊宴には兎と蕗の薹ばかり用いさせたら大分の物入りが違うだろ。本邦では兎に因ちなんだ遊戯はないようだが英国には兎ヘヤおー・よエンびド・猟ハウ犬ンドちゅうのがあって、若者一人兎となってまず出立し道中諸処に何か落し置くを跡の数人猟犬となってこれを追つい踪そう捕獲するので一同短ジャ毛ージ褐ーを着迅はやく走るに便にす、年中季節を問わず土曜の午後活溌な運動を好む輩の所しわ為ざだが余り動きが酷ひどくてこれに堪えぬ者が多いという︵ハツリット﹃信フェ念ースお・エよンドび・フ民ォー俗クロール﹄一九〇五年版巻一、頁三〇五︶。予はそんな事よりやはり寝転んで盃ぱい一いちがいいというと読者は今のさき妻の涙で全然酒がやんだといったじゃないかと叱るだろ。それから﹃今昔物語﹄に大やま和との国くにに殺生を楽しんだ者ありて生きながら兎の皮を剥はいで野に放つとほどなく毒瘡その身を腐爛して死んだと載せて居る。故ロメーンスは人間殊に小児や未開人また猴さるや猫に残忍な事をして悦楽する性ある由述べた。すなわち猫が鼠を捉えて直ちに啖くわず、手てま鞠りにして抛げたりまた虚眠して鼠その暇を伺い逃げ出すを片手で面白そうに掴んだりするがごとし。わが邦の今も小児のみか大人まで蟹の両眼八足を抜いて二つ※め﹇#﹁契﹂の﹁大﹂に代えて﹁虫﹂、U+86EA、104-6﹈のみで行あるかせたり蠅の背中に仙サボ人テ掌ンの刺とげを突っ込み幟のぼりとして競争させたり、警察官が婦女を拘留して入りもせぬ事を根ね問どいしたり、前和歌山県知事川村竹治が何の理由なく国会や県会議員に誓うた約束をたちまち渝ほぐして予の祖先来数百年奉祀し来った官知社を潰しひとえに熊楠を憤おこらせて怡よろこぶなどこの類で、いずれも仏眼もて観みれば仏国のジル・ド・レッツが多数の小児を犯姦致死して他の至苦を以て自分の最楽と做なしたに異ならぬ。川村の事は只ただ今いまグラスゴウ市の版元から頼まれて編み居るロンドン大学前総長フレデリク・ヴィクトル・ジキンス推奨の﹃南方熊楠自伝﹄にも書き入れ居るから外国までの恥曝さらしじゃ。とにかくかかる残忍性多き者が平気でおらるるこの世界はまだまだ開明などとは決して呼ばれぬべきはずだ。さて一寸の虫にも五分の魂でマヤースの﹃ヒューマン・パーソナリチー﹄に犬にも幽霊ある事は予も十数年研究していささか得たところあるが不幸にも観る人の心を離れて幽霊という物ある証拠を一も得ない。しかしもし人に幽霊あらば畜生にも幽霊あるべしで、﹃淵鑑類函﹄四三一に司農卿揚よう邁まいが兎の幽霊に遇った話を載せ、﹃法苑珠林﹄六九に王将軍殺生を好んでその女兎鳴の音のみ出して死んだとある。 ﹃治じぶ部し式き﹄に支那の古書から採って諸多の祥瑞を挙げた中に赤兎上瑞、白兎中瑞とある、赤兎はどんな物か知らぬが、漢末に︿人中に呂布あり馬中に赤兎あり﹀と伝唱された名馬の号から推すと、まずは赤馬様の毛色の兎が稀まれに出るを上瑞と尊んだのだろ、﹃類函﹄に︿﹃後こう魏ぎし書ょ﹄、兎あり後宮に入る、門官検問するに従って入るを得るなし、太祖崔さい浩こうをしてその咎きゅ徴うちょうを推せしむ、浩以おも為えらくまさに隣国嬪ひんを貢する者あるべし、明年姚よう興こう果して来り女を献ず﹀すなわち白兎は色皙の別嬪が来る瑞しる兆しで、孝子の所へも来る由見え、また︿王者の恩耆老に加わりまた事に応ずる疾はやければすなわち見あらわる﹀とあって、赤兎は︿王者の徳盛んなればすなわち至る﹀と出いづ。﹃古今注﹄に︿漢の建平元年山陽白兎を得、目赤くして朱のごとし﹀とあれば、越後兎など雪中白くなるを指したのでなく尋常の兎の白子を瑞としたのだ。熟兎に白子多きは誰も知る通りだが明の崇禎の初め始めて支那へ舶来、その後日本へも渡ったらしい︵﹃本草啓蒙﹄四七︶。黒兎は以前瑞としなかったが石せき勒ろくの時始めて水徳の祥とした。プリニウスいわく越後兎冬白くなるは雪を食うからと信ぜらると。何ぼ何でも雪ばかりじゃあ命が続かぬが、劉向の﹃説苑﹄一に弦章斎景公に答えた辞中、尺しゃ蠖くとりむし黄を食えばその身黄に蒼あおきを食えばその身蒼しとあれば、動物の色の因をその食物に帰したのは東西一轍と見える。ただし只今いわゆる保護色も古く東西の識者に知れいたは、唐の段成式の﹃酉ゆう陽よう雑ざっ俎そ﹄に顛つち当ぐも蠅を捉えて巣に入りその蓋を閉じると蓋と地と一色で並ともに糸隙の尋ぬべきなしと自分の観察を筆し、またおよそ禽獣は必ず物影を蔵匿して物類に同じくす、これを以て蛇色は地を逐い茅かや兎うさぎ︵茅の中に住む兎︶は必ず赤く鷹の色は樹に随うと概論したはなかなか傑えらい。明治二十七年予この文を見出し﹃ネーチュル﹄へ訳載し大いに東洋人のために気を吐いた。その時予は窮きゅ巷うこうの馬小屋に住んでいたが確か河瀬真孝子が公使、内田康哉子が書記官でこれを聞いて同郷人中井芳楠氏を通じて公使館で馳走に招かれたのを他人の酒を飲むを好かぬとして断わったが、河瀬内田二子の士を愛せるには今も深く感かん佩ぱいし居る。前に述べた川村竹治などはまるで較べ物にならぬ、その後プリニウスを読むと八巻三十五章に蛇が土と同色でその形を隠す事は一いっ汎ぱんに知らる、九巻四八章に章た魚こ居処に随って色を変ずとあった。 ﹃本草啓蒙﹄に﹁兎の性狡こうにして棲所の穴その道一ならず、猟人一道を燻ふすぶれば他道に遁のがれ去る、故に﹃戦国策﹄に︿狡兎三窟ありわずかにその死を免れ得るのみ﹀という﹂。兎は後脚が長くてすこぶる迅はやく走りその毛色が住所の土や草の色と至って紛らわしき上に至って黠ずるく、細心して観察した人の説にその狡智狐に駕がすという。例せば兎能よく猟犬がその跡を尋ぬる法を知り極めて巧みに走って蹟あとを晦くらます。時として長距離を前すすみ奔はしって後同じ道筋を跡へ戻る事数百ヤードにしてたちまち横の方へ高たか跳とびして静かに匿かくれ居ると犬知らず前へ行ってしまう。その時兎たちまち元の道へ跳ね戻り犬と反対の方へ逃れ去る。また自分の足に最も適し、犬の足に極めて不利な地を択んで走る事妙なり︵ウッド、同前︶。されば米国の黒人は兎を食えばその通り狡黠敏捷になると信じ︵オエン、二三〇頁︶、アフリカのバンツ人の俗譚に兎動物中の最も奸智あるものたれば実際を知らざる者これを聞きき書がきする時スングラ︵兎︶を狐と誤訳した︵一九〇六年ワーナー﹃英ゼ・領ネチ中ヴス央・オ亜ヴ・非ブリ利チシ加ュ・土セン人トラ篇ル・アフリカ﹄二三二頁︶。露国の話に兎熊児を嗤わらい唾を吐き掛けたので母熊怒って追い来るを兎旨うまく逃げて熊穽に陥るとあり、蒙古に満月の夜兎、羊と伴つれて旅立つを狼襲うて羊を啖わんとす、その時兎偽ってわれは帝たい釈しゃくの使で狼千疋の皮を取りに来たと呼ばわり狼怖れて逃げた物語あり、わが邦の﹁かちかち山﹂の話も兎の智計能く狸を滅ぼした事を述べ、﹃五雑俎﹄九に︿狡兎は鷹来り撲うつに遇えばすなわち仰ぎ臥し足を以てその爪を擘はくしてこれを裂く、鷹すなわち死す云々、また鷹石に遇えばすなわち撲つあたわず、兎これを見てすなわち巌石の傍に依って旋転す、鷹これを如いか何んともするなし云々﹀、﹃イソップ物語﹄に鷲に子を啖われた熟兎樹を根抜きに顛てん覆ぷくし鷲の巣中の子供を殺した話見え、インドに兎己れを食わんとする獅子を欺き井に陥るる話あり。またいわく月つき湖のう辺みべに群兎住み兎の王を葬ヴィ王ガヤダソタと号なづく。象群多くの兎を踏み殺せしを憤り兎王象王に月諸象を悪にくめりと告ぐ。象月を見んと望みければすなわちこれを湖畔に伴れ行き水に映れる月影を示す。象月に謝罪せんとて鼻を水に入るるに水掻き月影倍ふ多えたり、兎象に向い汝湖水を擾みだせし故月いよいよ瞋いかると言い象ますます惶おそれ赦ゆるしを乞い群象を帥ひきいてその地を去る、爾じ後ご兎群静かに湖畔に住んで永く象害を免ると︵一八七二年版グベルナチス﹃動ゾー物ロジ譚カル原・ミソロジー﹄巻二章八︶。かく狡智に富む故兎を神とした人民少なからず。すでに﹃古事記﹄に兎神を載せ、今も熊野で兎を巫みこ伴ともと呼ぶは、狼を山の神というから狼の山の神に近侍し傳令する女み巫こと見立てたのだろ。﹃抱朴子﹄に︿山中卯日丈じょ人うじんと称える者は兎なり﹀。和漢ともにこれを神物として直ちに本名を呼ぶを忌むのだ。兎神が逢蒙をして后こうを殺さしめた話は既に上に述べた。南米のチピウヤン人信じたは大兎神諸獣を率いて水に浮び大洋底より採った砂粒一つもて大地を造り部下の諸獣を人間に化なした。しかるに水王たる大虎神これを拒んだので二神争闘今に至るも息やまぬと︵コラン・ド・ブランチ、二八四頁︶。また北米住アルゴンキン人は兎神ミチャボを最高神とし東方に住むとも北方に棲むともいい、人死すればそこへ往くと信ず︵﹃大エン英サイ類クロ典ペジア・ブリタニカ﹄十一版二巻︶。仏教薬師十二神中兎神あり。﹃大集経﹄二十二に浄道窟の兎天下を遊ゆぎ行ょうして声しょ聞うも乗んじょうを以て一切兎身衆生を教きょ化うけし離悪勧善せしむとあるは兎中の兎仏ともいうべきものありと説いたので、﹃宝星陀羅尼経﹄三に仏が首しゅ楞りょ厳うご三んざ昧んまいに入ると竜に事つかうるもの象に事うるものの眼には竜象と見え兎神に事うるものは仏を兎形に見るとあるから、察するにその頃インドに兎を族トテ霊ムと奉尊する民俗があったらしい、別項虎に関する伝説と民俗とに述べた通り、族霊とは一族とある物との間に切るに切れぬ縁ありと信ずるその物をその一族の族霊というので、予は先年﹃人類学雑誌﹄上でわが邦諸神の使い物は多くその神を奉ずる一族の族霊たりし由を説いた。例せば確か兎は気比宮か白山の神使だった、ローマのカイゼルが英国に討ち入った時兎雄鶏鵞を食わぬ民あったと記したが、その風近世まで残り兎を畜こうてこれを殺さんとする者その由を兎に告げると兎自殺したという。ビッデンハムでは九月二十二日ごとに白兎を緋の紐で飾り運んでアガサ尊者の頌ヒムンを歌い村民行列す。未婚の女これに遇わば皆左手の拇おや指ゆびと食指を伸して兎に向い処女よ処女よ他かれをここに葬れと唱う。その意味十分に判らぬが昔兎を族霊として厚く葬った遺風とだけは確かに知れる︵一九〇八年版ゴム﹃歴史科学としての民俗学﹄二八七頁︶。西暦紀元六十二年駐英ローマ兵士がイケニ種の寡后ポアジケアを打ちその二女を強姦せしよりポアジケア兵を挙げた時、后まず懐ふところより兎を出しその動作を見て必勝と卜うらない定め臣下皆そのつもりで勇み立ちてたちまちローマ方七万人を鏖おう殺さつしたがついに兵敗れて後は自ら毒を仰いで死んだ。これ古ブリストン人が兎を族霊として卜占に用いたのだとゴムは論じた。ただしかの后の当の敵たるローマ人また兎を卜に用い食用として殺さなんだ︵ハツリット、同前︶。熊楠その卜法の詳しきを知り得ぬが、プリニウス十一巻七三章にブリレツム辺等の兎は二肝あり他所へ移せば一肝を失うとあるを見るといわゆる肝アン卜チノ法ボマンシーをローマ人専ら兎に施したらしい。アボットの﹃マセドニア民俗﹄︵一〇六頁︶にアルバニア人のある種族は今に兎を殺さずまた死んだ兎に触れぬと見ゆ。キリスト教国で復活節に卵を彩り贈るが常で、英国ヨーク州ではこれを小さき鳥巣に入れて戸外に匿し児童をして捜し出さしむるに、スワビアでは兎の卵とて卵とともに兎を匿し、ドイツの諸部ではこの日卵焼の兎形の菓子を作る。わが邦にも古く伏兎という菓子あり、兎に似せた物と聞くが実否は知らぬ。復活節をイースターというはアングロ・サクソン時代に女神エストルをこの節祭ったから起る。思うにこの神の使物が兎で英国︵ならびにドイツ等?︶有史前住民の春季大祭に兎を重く崇あがめた遺風だろうとコックスが説いた︵﹃民アン俗・イ学ント入ロダ門クション・ツー・フォークロール﹄一〇二頁︶。熊楠謹つつしんで攷かんがうるに、古エジプト人は日神ウンを兎頭人身とす、これ太陽晨あしたに天に昇るを兎の蹶けっ起きするに比したんじゃ︵バッジ﹃埃ゼ・及ブッ諸ク・神オブ譜・ゼ・エジプシアンス﹄巻一︶。兎を月気とのみ心得た東洋人には変な事だ。コックス説に古アリア人の神誌に、春季の太陽を紅また金色の卵と見立て、後のちキリスト教興るにびこれを復活の印相としたという。しからば古欧州にもエジプト同前日を兎と見立てた所もあって卵と見立てたのと合併して、只今復イー活スタ節ーにいわゆる兎の卵を贈りまた卵焼の兎菓子を作る事となったのであろう。けだし冬以来勢い微かすかなりし太陽が春季に至ってまた熾さかんなるを表示したのだ。老友マクマイケル言いしはドイツでは村人この日兎を捕え殺して公宴を張る所多しと。大抵族トテ霊ムたる動物を忌んで食わぬが通則だが、南洋島民中に烏い賊かを族霊としてこれを食うを可よしとするのもある︵﹃大英類典﹄第九版トテムの条︶。ドイツ人がもと族霊たりし兎を殺し食うも同例で、タスマニア人が老親を絞殺して食いしごとく身内の肉を余よ所その物に做して了しまうは惜しいという理由から出たのだろ。サウシの書︵前出︶に若いポルトガル人が群狼に襲われ樹上に登って害を免がれ後日の記念にその樹を伐り倒し株ばかり残して謝意を標しるした。カーナーヴォン卿その株を睹み由来を聴いて、英人なら謝恩のためこの樹を保存すべきに葡人はこれを伐った、所異かわれば品しな異るも甚だし、以後ここの人がどんな難に遇うを見ても我は救わじ、救うて御礼に殺されちゃ詰まらぬと評したとある。先祖来護りくれた族霊を殺し食うてその祭を済ますドイツ人の所行これに同じ。しかし日本人も決して高くドイツ人を笑い得ず、予が報国の微衷もて永なが々なが紀州のこの田舎で非常の不便を忍び身命を賭して生物調査を為なし、十四年一日のごとく私財を蕩とう尽じんして遣やって居るに、上に述べた川村前知事ごとき渝ゆせ誓いしてまで侮辱を加え来る者がすこぶる少なからぬからというて置く。 民俗学者の説に諸国で穀を刈る時少々刈らずに残すはもと地を崇めしより起る。例せばドイツで穀こく母のはは、大おお母はは、麦むぎ新のよ婦め、燕から麦すむ新ぎの婦よめ、英国で収とり穫いれ女じょ王おう、収とり穫いれ貴きふ婦じ人んなど称し、刈り残した稈わらを獣形に作りもしくは獣の木像で飾る、これ穀こく精のせいを標すのでその獣形種々あるが、欧州諸邦に兎に作るが多い、その理由はフレザーの大著﹃金ゴル椏ズン篇・バウ﹄に譲り、ここにはただこんな事があると述べるまでだ。グベルナチス説に月女神ルチナは兎を使い出産を守る。パウサニアスに月女神浪人都を立てんとする者に教え兎が逃げ込む林中に創立せしめた譚はなしを載す。インドにもクリアン・チャンド王狩りすると兎一疋林に入りて虎と化けた、﹁兎ほど侮りゃ虎ほど強い﹂という吉瑞と判じてその地にアルモウー城を建てたという。英国で少女が毎月朔つい日たち最初に言ものいうとて熟ラビ兎ットと高く呼べばその月中幸運を享うく、烟えん突とつの下から呼び上ぐれば効験最も著しく好よき贈品随って来るとか︵一九〇九年発行﹃随ノー筆ツ・問エン答ド・雑キー誌リス﹄十輯十一巻︶。﹃古事記﹄に大おお国くに主ぬしその兄弟に苦しめられた兎を救い吉報を得る事あり、これらは兎を吉祥とした例だが兎を悪兆とする例も多い。それは前述通りこの獣半男女また淫乱故とも、至って怯きょ懦うだ故とも︵アボット、上出︶、またこれを族霊として尊ぶ民に凶事を知らさんとて現わるる故︵ゴム、上出︶ともいう。すべて一国民一種族の習俗や信念は人類初めて生じてより年代紀すべからざる永歳月を経へ種々無限の遭際を歴へて重畳千万して成った物だから、この事の原因はこれ、かの事の起源はあれと一々判然と断言しがたく、言わば兎を半男女また淫獣また怯懦また族霊としたから、兎が悪兆に極きめられてしもうたと言うが一番至当らしい、さて予の考うるは右の諸因のほかに兎が黠かっ智ちに富むのもまた悪獣と見られた一理由だろ。猟夫から毎度聞いたは猟に出懸ける途上兎を見ると追い懸けて夢中になる犬多く、追えば追うほど兎種々に走り躱かくれて犬ために身憊つかれ心乱れて少しも主命を用いず、故に狩猟の途上兎を見れば中途から還かえる事多しと、したがって熊野では猟夫兎を見るのみかはその名を聞くばかりでも中途から引き還す。アボットの書︵上出︶にマセドニア人兎に道を横ぎらるるを特に凶兆とし、旅人かかる時その歩かち立だちと騎馬とに論なく必ず引き還す。熟兎や蛇に逢うもまたしかり。スコットランドや米国でもまたしかり。ギリシアのレスボス島では熟兎を道で見れば凶、蛇を見れば吉とすと見ゆ。英国のブラウン︵十七世紀の人︶いわく当時六十以上の人兎道を横ぎるに逢うて困らざるは少なしと。ホームこれに追加すらく、姙婦と伴れて歩く者兎道を横切るに遭わばその婦の衣を切り裂きてこれを厭まじないすべしと。フォーファー州シャーの漁夫も、途を兎に横ぎらるれば漁に出でず︵ハツリット、同前︶。コーンウォールの鉱夫金掘りに之ゆく途中老婆または熟兎を見れば引き還す︵タイロル﹃原プリ始ミチ人ヴ・文カル篇チュール﹄巻一、章四︶。兎途を横ぎるを忌む事欧州のほかインド、ラプランド、アラビア、南アフリカにも行わる︵コックス、一〇九頁︶。ギリシアではかかる時その人立ち駐どまりて兎を見なんだ人が来て途を横ぎるを俟まちて初めて歩み出す︵コラン・ド・ブランチー、前出︶。スウェーデンでは五メ月イ節デ日イに妖巫黒兎をして近隣の牛乳を搾り取らしむると信じ、牛を牛小舎に閉じ籠め硫黄で燻ふすべてこれを禦ふせぐ。たとい野へ出すも小児を附け遣わさず主人自ら牛を伴れ行き夕ゆうべに伴れ帰って仔細に検査し、もし創きずつきたる牛あらばこれを妖巫に傷つけられたりと做なし、燧ひう石ちいし二つで牛の上から火を打ち懸けてその害去ると信じ、また件くだんの黒兎に鬼寄住し鳥銃も利きかず銀もしくは鋼の弾丸を打ち懸けて始めてこれを打ち留め得と信ぜらると︵ロイド、前出一五︶。以前は熊野の猟師みな命の弾丸とて鉄丸に念仏を刻み付けて三つ持ち、大蛇等変へん化げの物を打つ必死の場合にのみ用いた。伊勢の巨勢という地に四里四方刀斧入らざる深山あり、その近傍で炭焼く男いつの歳か十月十五日に山を去って里に帰らんとするに妻子を生む。因って二里半歩み巨勢へ往き薬を求め還って見れば小舎の近傍に板いた箕みほど大きな蹟あとありて小舎に入り、入口に血滴したたりて妻子なし。必然変へん化げの所為と悟り鉄砲を持ち鉄てつ鍋なべの足を三つ欠き持ちて足蹟を追い山に入れば、極めて大なる白猴新産の子を食いおわり片手で妻の髪を掴み軽々と携えて走り行く、後より戻せと呼ぶと顧みて妻を樹の枝に懸けて立ち留まりやがて片手で妻を取り上げその頭を咬かむ、その時遅くかの時速くその脇下に鍋の足を射込んで殺しおわったが、全体絶大なかなか運ぶべくもあらねばその尾のみ切り取って帰った。白毛茸じょ生うせい僧の払ほっ子すのごとく美麗言語に絶えたるを巨勢の医家に蔵すと観た者に聞いた人からまた聞きだ。すべて化けし生ょうの物は脇を打つべく銃手必死の場合には鉄丸を射つべしというた。スウェーデンと日本と遠方ながら似たところが面白くて書き付けた。英国の一部には兎が村を通り走ればその村に凶事生ずとも火災ありともいう。明治四十一年四月ハロー市の大火の前に兎一疋市内を通り抜けた由︵翌年六月五日の﹃随ノー筆ツ・問エン答ド・雑キー誌リス﹄四五八頁︶。 最後に和田垣博士の﹃兎糞録﹄はまだ拝見せぬが兎糞には種々珍しい菌類を生じ予も大分集め図説を作りある。備びん後ごの人いわく兎糞を砂糖湯で服すると遺尿に神効ありと。また予の乾こぶ児んに兎糞を乾かして硬くなったのを数珠に造りトウフンと名づけて、田辺湾の名物で只今絶滅した彎珠の数珠に代えて順礼等を紿あざむき売った者がある、何してでも儲くりゃ褒められる世の中には見揚げた心底じゃ。
︵大正四年一月、﹃太陽﹄二一ノ一︶