五年九号四二頁に宮本君が書いた、周防大島願行寺にむかし住んだ、非常に強記な僧の話は、和漢諸方に古来類話が多い。今ほぼその話を添えられた本人どもの時代の新古に順次して、左のごとく列ね挙げる。 ﹁蜀山人は、︵中略︶伝えていう、かの人江え都ど小田原町辺の魚肆に因みありて往きかいけるが、一日かの家に往きけるおり、店みせにありける帳を把とって、漫すずろに披閲しけれども、その身に無用の物なれば、熟視するというにはあらず、物語などする間まに間に、始めより終りまでくりてみたりしが、そのままに掻いやり捨てて気にもとめず。かくて帰り来たりしが、その家祝融氏の怒りに触れて、たちまち灰燼となりぬ。よって蜀山も彼かし処こへゆき、その無事に火を避けしや否をとうに、主答えて、おのおの無事なり、さわれ不慮なる急火にして、家財は大半失いぬ、そはとまれかくもあれ、店にありつる帳を焼きつ。こは浜方より運送の多寡、かつ諸方への出入り勘定、みなことごとく帳に託す。しかればかの帳はわが家しん産だいなるを、遽あわただしき騒ぎに紛れ、焼き失いしや弗ふつにみえず。これ身においての大難なりと、眉をひそめて吐息をつけば、蜀山しばしありていうよう、そは例いつもこの店先にある日用諸雑記の帳なるか、もしそれならばわれ覚えたり、いざいざ書いて得させんとて、新しき帳を開き、ことごとく写し認とどめて与えにければ、主の男はかつ感じかつ歓びけり、云云﹂︵嘉永三年、中村定保輯﹃松亭漫筆﹄二︶。 ﹁林道春、︵中略︶二十五歳の時、江戸に下り、日本橋辺に旅宿せられけるに、本町の呉服屋家いえ城き八十郎という者、道春を招き、よりより性理の旨を尋ねければ、道春常に心やすく彼が家に出入りせらる。折から夏のことなるに、道春、家城が家に居ながら、しきりに眠りを催しければ、側そばにありたる大福帳を引きよせ、枕にして、宰予が楽しみに周公をや夢みられしと思わる。ややあって目をさまし、暮れがたき日を憾みながら、かの帳を披ひらき、端から奥まで一通り繰り返してもとのごとくに収め、暇乞して帰られける。その年の冬不慮に出火ありて、かの家城も類火にあい、難儀の中の小屋掛けへ、道春見舞に来たられ、︵中略︶まずはおのおの怪我もせず立ち退かるること珍重なり、して財宝は残りしか。八十郎申すよう、家財をやくこと少しも苦には存ぜねど、苦々しきことには、大切なる懸け帳を焼き失い候て、大分の金銀を捨て申したること残念に候という。道春聞いて、その帳とはいかなる物ぞ。家城答えて︵中略︶当夏私わたくし店みせへ御出での時、取り敢えず枕にして昼寝をなされた大福帳のことで厶ござります、︵中略︶もはやかの帳を失い申す上は、病やみ目めに茶を塗ったごとく、座頭の杖に離れしように、便りなく覚え、これからは身代潰し申すより外なく候と、うろうろ涙の悔みを聞いて、道春手をうち、われいつぞや一睡さめての後、かの帳をくり返し、さらさらと一通り披見せしが、その帳の付け自然と心に止まり、今もって忘るることなし、︵中略︶まず何にもせよ書いてみん、ひらさら帳をとじよとて、しきりに催促せられければ、是非なく紙を差し出だす。道春筆を執って、何月何日何貫目、何屋誰へ、縮緬五巻、晒し五反、代幾いく何ら、何某誰殿へ、使い誰と、一字一点毛頭まで、うの毛ほども違いなく、両手に提さげる大帳を半日ばかりに書きしまい、これでも銀かねにならぬかと、空嘯いておわしければ、家城大いに肝を潰し、絶ぜつ入じゅするほど我がを折りけり。まことに羅山の記臆古今に稀なり。﹃古文類聚﹄などをば、暗に覚えて語られける、云々﹂︵元禄十五年板﹃元禄太平記﹄七巻一章︶。 このほかに水戸義公父子を離間せんと謀って、義公に手討にされた藤井紋太夫にも、同上の逸話あるを何かで読んだが、その書名を忘れた。天保八年の自序ある日尾荊山の﹃燕居雑話﹄一に、その幼時親交した老人の話に聞いたとて、むかし読書好きの法師が、酒屋で飲みがてら、側らにあった懸け帳を披閲したが、はるか後にかの酒屋類焼して懸け帳を亡失し、かの僧に語ると、僧しばし小首を傾け、やがて筆取って、おのれが見たほどの酒の貸し高を、一つも洩らさず書いて取らせた由を記しおれど、いつごろのことか、支那のことか日本のことか、明記していない。 本邦の例で予が知ったは右の通り。さて支那の例は、﹃松亭漫筆﹄二に引きあるごとく、明の謝在杭の﹃五雑組﹄六にいわく、﹁人一目して数行倶ともに下る者あり。真に倶に下るにあらず、ただ目捷はやきのみ。遅速相去る、はなはだしきものは四、五倍を差う。ただ三のみならざるなり。一覧して遺すなきは、すなわちかつてこれあり。の林誌、雨を避けて染ぜん坊ぼうに寓す。その染ぜん帳ちょうを得て漫すずろにこれを閲し、匆々として去る。二日を越えてその家回禄す。帳を索むる者、紛然として計をなすを知るなし。林またこれを過よぎりていわく、われ能よくこれを記せん、と。筆を取って疾く録しるすに、一字を爽たがえず、云々﹂と。この書は万暦三十七年︵わが慶長十四年︶ごろ成った証がその巻四にある。林誌もたぶんそのころの人であろう。 これより約四百年前、南宋の費袞が書いた﹃梁谿漫志﹄は、予かつて見ないが、﹃燕居雑話﹄に引かれある。いわく、﹁江陰の士人葛君、その名を忘る、強記人に絶す。葛、閭里間に浮沈す。家の傍らに民の染肆を張るあり。簿書その目を識す。葛かつて酒を被り、たまたまその肆に坐し、手に信まかせて繙閲す。一夕民家火作おこり、およそあるところの物、文書をあわせてみな燼す。物主競い来たりて、数倍の売償を求む。民もって質験するなし。憂撓出づるところを知らず。その子諸父に謀りていわく、われ聞く、里中葛秀才、天性よく記すと、渠かれ、昨わが家を過よぎり、かつてこの籍を閲す、あるいはよく記憶せん、なんぞ情をもって叩かざるや、と。即日父子葛に詣いたり、その状をいう。葛笑うていわく、汝が家染肆を張る、かつわれ何に従ってその数を知らんや、と。民拝しかつ泣く。葛また笑うていわく、汝壺酒をもって来たれ、まさによくこれを知るべし、と。民喜んで亟すみやかに帰り、酒を携えて至る。葛飲み畢り、命じて紙筆を取らしめ、ために某月某日某人、某の物若干を染むと疏すること、およそ数百条、書くところの月日姓氏、名色丈尺、毫髪の差ちがいなし、民持ち帰り、物主を呼び、読んでもってこれを示すに、みな頭を叩いて駭き伏す﹂と。この書き振りより推するに、葛君もほとんど﹃漫志﹄の筆者と時を同じうした人と思わる。 それより約三百八十余年前、今年よりは千六百十余年前、唐の李肇が書いた﹃唐国史補﹄は、三十余年前見たがまるで忘れた。かつ自分の蔵中にないから、また﹃燕居雑話﹄から孫引きする。いわく、﹁陳諫なる者、市人にて強記なり。たちまち染人が、歳ごとに染むるところの綾帛の尋丈尺寸を籍して簿となし、合囲するに遇う。諫、泛覧してことごとくこれを記す。州県の籍帳、すべて一閲するところ、終身忘れずと﹂。 もっとも古いところでは、今より約千八百年前成った、班固の﹃前漢書﹄五九の張安世の伝にある。﹁上、河東に行幸す。かつて書三篋を亡うしなう。詔して問うに能よく知る者なし。ただ安世これを識り、︹以下欠文︺