元祿三年版枝珊瑚珠は江戸咄の元祖鹿野武左衞門を初め浮世繪師石川流宣等の噺を集めた物。其卷三に百姓ほめ言葉を出す。曰く﹁錢とぞ契る御契錢︵傾城︶百姓の身にし有ば、たよふ格子の詰開き、其と斗りもきせちなし、まつた讃茶のやかばねの、てるばちない二階にて、丁子圓をくやらかし、わんぼうに香を留て、いしくも有ぬいき張合ひ、局の君がおと骨の、えこせぬくぜつもかしがまし、一疊半のおへや住、足を斗りに一里塚、つかの間君と伏見町、かしのいよこの女郎達、煙管くはへてつぼつこい、まなこの鹽のしほらしや、ゆへば結るゝ江戸鹿子、こくも薄くも紫の、色をぞ頼む單帶、五尺手拭ひ中染て、染も染たよ京町の、三浦まがきの筋向ひ、稻荷屋敷でうつ惚た、思ひは是もおれがつれ、ことづてもてこい暖簾、色をも香をもしる人よ、但しいんにやかそれ迚も、せず樣がないやぼ助の、滅多矢鱈の太鼓持、うつ程伸るそば切か、けんどんの君にほだされて、西國西國西國順禮、胸に木札の絶るまもサンヤレ﹂と。 此言葉に誤字もあるべく、分らぬ事も多いが、要するに賣女の稱呼や其方の用語が多きに居る。けんどんの君迄は判つてゐたが、西國順禮とは何か一向分らなんだ。處が三月號三一頁に出た鳶魚先生の﹁女順禮﹂を讀んで、賣女の一群に西國順禮も有つたと判つたから厚く御禮を申し上げておく。 件の詞はけんどんの君にほだされて胸に思ひの絶間なきを、西國順禮が順拜所の棟に打付ける木札の絶る間なきに比したので、胸を棟に通はし言ん爲に、傾城、讃茶、けんどん等と同じく賣女の一群たる西國順禮の稱呼を出したので、捻くつていはゞ、貫之が﹁早くぞ人を思ひそめてし﹂と云んとて﹁岩波高くゆく水の﹂と構へ、その前置きに﹁吉野川﹂とよみ出した如し。扨鳶魚先生が言れた通り、足薪翁記に寛文の頃女巡禮﹇#﹁女巡禮﹂はママ﹈夥しくはやつたとあるは此事の沿革を知る材料になる迄であるが元祿三年出版の本既に西國順禮を賣色女の列に入れあるをみると、先生が示された寶永元―七年に此の賣女群が始まつたでなく、多からぬ違ひ乍ら、寶永の初めよりは少なくとも十三年前、はや西國順禮の出立ちで如何はしい業をする女群が歩いたと知る。 序でに申す。紀伊國東牟婁郡勝浦港へ、明治卅四年冬より三年程の間だ屡ば往來逗留した。彼の邊で船饅頭をサンヤレと呼んだが今はどうか知らぬ。船をこぐ懸聲にヨーイ、サンヤレ、是はヨイサ、ヤレを長く呼ぶに出たらしい。船饅頭連が泊り船を目懸けてこぎ付る時一と際面白くこの懸聲を連呼したから其輩をサンヤレとよんだ事と察し居た。然るに右に引いた枝珊瑚珠の卷一をみると﹁惣別何にてもはやり事をし出せば設ける物也、織物にさへイチノヤ織サンヤレ織云々﹂とある。是でサンヤレは本と流行織物の一種と知た。只今は聞かぬが吾輩幼時迄、サントメといふ綿布が有た。和漢三才圖會二七に、按ずるに三止女は南天竺の國名、此より出でオクシマと稱す、云々、倭より出る者を京奧じまと名け、眞物に似ずとあり。惟ふに外國から渡つたサントメ乃ち奧縞に擬して和製のサントメ乃ち京奧縞を作り出した時、サントメの留とめに對して遣やれなる動詞を用ひ、サンヤレ織と稱へたで無らうか。扨元祿初年又其前に、專らサンヤレ織の綿布を衣た賣女をサンヤレと名づけ、此稱呼が熊野の勝浦港邊に近日迄殘り有るのだらう。サンヤレ亦一群の賣女の稱呼なる故、けんどん、西國順禮等と列して百姓ほめ言葉に編入され、吾輩幼時迄はやつた鈴木主水の口説き唄の終りに﹁出て行くのが女郎買ひ姿、ヤーレ﹂と云た如く、﹁胸に木札の絶る間もなしヤーレ﹂と唄ふ代りに﹁絶る間もサンヤレ﹂と適用したらしい。緋衣、紅裙、青衣、白衣、緇衣、黄巾、青踏、赤前垂れ、白湯文字等、服粧で職業や階級を呼ぶ事多く、明治十年前後和歌山に奧縞ちう淫賣女が多かつた。專ら奧縞を著用したからの名ときくが或は奧縞を著用せずとも、紀州でサンヤレが專ら船饅頭の一名と成つたので本とサンヤレ織と同物異稱だつた奧縞を專ら市中にすむ淫賣女に宛るに及んだ物か。全體近年迄紀州の外にサンヤレの、オクジマのと呼るゝ賣淫女有た處ありや。識者の教へをまつ。︵六月廿八日早朝五時稿成︶
後記。柳亭筆記上﹁順禮がるた考證﹂の條に、﹁京順禮といふは、衣裳にだてを作り、笈摺を絡ひ、胸札をかけ、實の順禮の如く出立ち、洛陽の觀音の靈場を打廻りし也﹂とあれば、拙文に棟札とせしは間違ひで胸札が正しい。予幼時棟裏に順禮札を打つたのをみたが、是は好奇者の所爲で有たらう。嬉遊笑覽七に﹁應永以後の札多くあり、札は木にて作れるのみならず、眞鍮も銅もあり、好事家之に據て札をうつ事は應永頃より專ら也と云へるは非なるべし、花山院御札に書せ給へりと新拾遺集にあるをや﹂とあり。扨柳亭筆記に京順禮の始より萬治三年と寛文五年と二説ある由を示し、寛文四年の印本に、老婆物語と題する洛陽三十三所觀音の縁起を聚めし册子あれば、此事寛文の初より起り、寶永正徳の頃迄も有しなるべしとある。萬治三年の次が寛文元年だからさう言つたのだらう。順禮が札を打つ事、後奈良帝の弘治頃成りし桂川地藏記に、御地藏へ所詣物萬般也、先有御所的之役人云々、或有三十三所順禮行者打簡とみゆ。︵六月三十日早朝︶
大正十年の初冬の頃、南方熊楠先生、高野一乘院ありし時の狂歌とて、人の見せられけるに、
心なき身にも豆腐はあかれけり高野の山の秋の夕めし
(樂々子)