ああ……すっかり酔っちゃったわ。……でも、もう一杯カニャックを飲ましてちょうだいね……。
あんたもお飲みなさいよ。今夜は特別だからサア……ええ。妾わたしの気持ちが特別なのよ。今夜は……。
……そのわけは今話すわよ。話すから一パイお飲みなさいったら……それあトテモ恐ろしい話なのよ。……ダメダメ。いくらあんたが日本の軍人だって、妾の話をおしまいまで聞いたら屹きっ度とビックリして逃げ出すにきまっているわよ。
……ああ美お味いしい。妾もう一パイ飲むわ。へべれけになるわよ今夜は……ニチエウオ!……レストラン・オブラーコのワーニャさんを知らないか……ってね。管くだを巻くわよ今夜は……オホホホホホホ。……でも、あんたはその話を聞く前に、妾にいくらでもお酒を飲ましていい理わ由けがあるのよ。何故って妾はこの間から何度も何度もあんたを殺したくなった事があるんですもの……マア。あんな顔をして……ホホホホホホ。まあそんなに怖い顔をしないでもいいから一杯お飲みなさいったら、シャンパンを抜いたからサ……。
……アラ……何故いけないの。おかしな人ねあんたは……まあ憎らしい。妾、そんな薄情物じゃないわよ。あんたを殺してお金を奪とったって、いくらも持ってやしないじゃないの。亜ア米メ利リ加カの水兵の十分の一も持っていないこと妾チャンと知っているわよ。ホラ御覧なさい。ホホホホホ。だからそんな余計な心配をしないで一パイお飲みなさいったら……飲まなけああんたを殺したいわけを話さないからいい……寝てる間まに黙って殺しちゃうから……さあ……グッと……そうよ。サアも一つ……これは妾を侮辱した罰よ。ホホホホホホホ。
今夜もそうなのよ。チョット電でん燈きを消すから、その窓から向むこ家うの屋根を覗のぞいて御覧なさい……ホラ、あんなに雪が斑まだらになって凍り付いているでしょ。妾はあの屋根の雪の斑を見るたんびにあんたを殺したくてたまらなくなるのよ。……だからそのたんびにお酒を飲むの。ウオツカでも、ウイノーでも、ピーヴォでも何でもいいの。そうすると忘れちゃってね。あんたを殺すのを忘れちゃって寝てしまうから……ああ美お味いしい。妾もう一杯飲むわ。
……イイエ真剣なの。ホントウに真剣なのよ。そうして今夜こそイヨイヨ本気になってあんたを殺そうと思っているのよ。だから今夜は特別なのよ……だってあんたはちょうどこんな晩に、妾わたしを生いの命ちがけの旅行に連れ出して行った男にソックリなんですもの……背せの高さと色が違うだけで、真ま正と面もから見ているとホントに兄弟かと思う位よ。だからコンナに惚れちゃったのよ。……イイエ……ちっともトンチンカンな話じゃないの。妾、そんなに酔ってやしないわよ。カニャックなんかイクラ飲んだって管なんか巻きやしないから……その訳はこうなのよ。まあお聞きなさいったら……トンチンカンでもいいからサア……。
あんたはツイこの頃来たんだから知らないでしょうけども、この間、此こ浦こ塩を引き上げて行った亜ア米メ利リ加カの軍艦ね。あの軍ふ艦ねの司令官の息子でヤングっていうのが、その男なのよ。……ええ……司令官と同じにヤングっていってね。名前だか苗字だかわからないけど、只そういっていたの……そうネエ。年は三十だって云っていたけど、あんたと同じ位に若く見えたわ。六尺位の背丈けの巨おお男おとこでね。まじめな、澄まアした顔をしていたわ。あの軍ふ艦ねの中でも一等のお金持ちで、一番の学者だって、取り巻きの士官や水兵さん達がそう云っていたから本当でしょうよ。もっとも学者だっていうけど、あんたと違って歌も知っているし、音楽も出来るし、お酒はいくら飲んでも平気だし、ダンスでも賭ばく博ちでも、あんたよりズット巧かったわ……それからもう一つ……お話がトテモ上手だったの。イイエ。そんな六むず箇か敷しい話じゃないの。それあステキに面白い……トテモ恐ろしい恋愛の話よ。ヤングはその方の学者だって、自分でそう云っていた位だわ。
……ええ……そのヤングは軍艦が浦うら塩じおに着くと間もなく、このオブラーコの舞踏場へ遣やって来て、一番最初に妾を捉つかまえて踊り出したの。そうしたら妾の身から体だが、ヤングの半分位しかなかったもんだから、一緒に来た士官や水兵さん達が、みんなでワイワイ冷やかして、ピューピュー口笛を吹いたりしたの。……そうしたらヤングも一緒になって笑いながら、妾をお人形さんのように抱き上げて、この室へやへ逃げ込んだと思うと、妾の内ポケットから鍵を取り上げて扉ドアをピッタリと掛けてしまったの。……その素早かった事……でもその時は、妾が店に突き出されてから、まだやっと二日目位だったし、男ってどんなものか知らない位だったもんだから、ホントウにビックリしてしまって、一生懸命ヤングの軍服の胸に獅し噛がみ付いていたわ。だけどヤングは、この室へやで二人切りになると、トテモ親切に妾を慰めてくれたのよ。落おち魄ぶれ男爵の娘から、こんなレストランの踊り子にかわった妾の身の上話を、シンカラ同情して聞いてくれたり、お料理やお菓子を色々取ったり、お酒をいくらでも飲んでくれたり、お金を持っているだけ、みんな置いて行ってくれたりしたので、妾ホントウに嬉しかったわ。それはみんな亜ア米メ利リ加カの貨おか幣ねだったけど、主人は大ニコニコで私の頭を撫で、
﹁大手柄大手柄……あのお客人を一生懸命で大だい切じにしろ……﹂
って云ってくれたわ。
それからヤングは毎晩のように妾の処へ遣って来たの。そうして妾とだんだん仲よしになって来ると、いろんな事を妾に教え初めたの。亜米利加の言葉だの、ABCの読み方だの、キッスの送り方だの……誕生石の話だの……花言葉だの……だけど、その中でも一等面白くて怖かったのは、やっぱり、そのステキな恋愛のお話だったわ。妾ホントに感心しちゃったのよ。ヤングが何でもよく知っているのに……。
それは亜米利加のお金持ち仲間で流は行やる男と女の遊び方で、お金持ちになればなる程、そんな遊びの方しか法たが乱暴なんですってさあ。……ええ……それはトテモ贅沢な室へやの仕掛けや、高た価かいお薬や、お金のかかる器械や、お化粧の道具なぞが、いくらでも要いるので、貧乏人にはトテモ出来ない遊びなんですってさあ。そうして亜米利加の若い男や女は、そんな遊びがしたいばっかりに、一生懸命になって働らいて、お金を貯ためているんですってさあ。
その遊び方か法たっていったら、それあ沢山あるわよ。みんなお話しするのは大変だけど、一ちょ寸っと云って見ればね……紅べにで作ったチューインガムや薬みたようなものを使って、相手を血まみれの姿にし合いながらダンスをしたり……天井も、床も、壁も、窓掛けも、何もかも緋ひい色ろずくめにした部屋の中に大きな蝋ろう燭そくをたった一本灯ともして、そのまわりを、身から体だ中にお化粧して、その上から香にお油いあぶらをベトベトに塗った素すっ裸ぱだ体かの男と女とが、髪かみ毛のけを振り乱したまま踊りめぐったりするんですとさあ。そうするとその蝋燭の光りの赤い色が、壁や、天井の色に吸い取られて、まるで燐おに火びのように生白く見えて来るにつれて、踊っている人達の身体の色がちょうど、地獄に堕ちた亡もう者じゃを見るように、赤や、緑色や、紫色に光って見えて来るんですって。それと一緒に身体じゅうの皮膚がポッポと火ほ熱てり出して、燃え上るような気持ちになって来るもんだから、その苦し紛れに相手をシッカリと掴まえようとすると……ホラ、油でヌラヌラしていてチットモ力が這は入いらないでしょう。そのうちに、死ぬ程苦しくなって、ヘトヘトに疲れて倒れてしまうんですってさあ……ねえ。ずいぶんステキじゃないの。……だけどまだ恐ろしい話があるのよ。
……エ……もう解ったっていうの……。嘘ばっかり……わかるもんですか。ズットおしまいまで聞いてしまわなくちゃ、解りやしないわよ。妾があんたを殺したがっている訳は……まあ黙って聞いてらっしゃいったら……上等の葉巻を一本上げるから……。
そうしてね……そんな恐ろしい楽しみを続けて行くとそのうちには、とうとう、どんなに滅茶苦茶な遊びをしても直じきに飽きるようになってしまうんですって。そうして最おし後まいには自分が可愛いと思っている相手を、自分の手にかけて嬲なぶり殺しか何かにして終しまわなくちゃ、気が済まないようになるんですってさあ。……つまり自分の相手をまだ可愛がり飽きないうちに殺しては又、新しい相手を探し探しして行くのが、亜ア米メ利リ加カで流は行やる一番贅沢な遊びなんですってさあ……ホホホホホ。ビックリしたでしょう。ねえあんた。誰だってそんな話ホントにしやしないわねえ。妾もそん時には嘘だって笑い出した位よ。だってそれあ男だったらそんな事が出来るかも知れないけど、女がそんな乱暴な遊びをしようなんて思えやしないわ。ねえ。何ぼ何でも……。
だけど、妾それから温おと柔なしくしてヤングの話を聞いていたら、それがだんだん本当らしくなって来たから不思議なのよ。亜米利加の女ってものはそんな遊びにかけちゃ男よりもズット気が強いんですってさあ。亜米利加の男や女に独ひ身と生り活も者のが多いのは、そんな遊びのステキな気持ちよさを知っているからで、そんな人達に、方々から誘かど拐わかして来た、美しい男や女を当てがって、いろんなステキな遊びをさせる倶く楽ら部ぶだの、ホテルだのいうものが、大きな街に行くとキットどこかに在るんですってさあ……つまりお金さえあれば、ドンナ事でも出来るのが亜米利加の風ふうだっていうのよ。だから恋愛の天国っていえば、今の世界中で亜米利加よりほかに無いってヤングは自慢していたわ。
……でもね……その中でたった一つ、ドンナお金持ちでも滅多に出来ない、一番ステキな、一番贅沢な、取っときの遊びがあるっていうのよ。ねえ……面白いでしょう……それはねえ。今云ったようにお金ずくで出来るいろんな素敵な遊びにも飽きてしまって、どうにもこうにも仕しよ様うがなくなった人の中の一人か二人かがやって見たくなるステキなステキな、この上もない無鉄砲な遊びで、それこそホントにお金ずくでは出来ない生いの命ちがけの愉快な遊びなんですってさあ……そう云ったらあんたはわかるでしょう。その遊び方が……え……わからないって……まあ。……
……だってその遊びの本家本元は日本だってヤングはそう云ったのよ。世界中のどこにも無くて日本にだけ昔から流は行やっているのを、この頃亜米利加の学者たちが大騒ぎをして研究を始めているので、トテモ有名な遊びなんですとさあ……そう云ってもわからない?……まあ……じゃもっと云って見ましょうか。
ヤングはそう云ったのよ。日本の芸術ってものは何でもかんでも世界中の芸術の一番いいとこばかりを一粒選えりにして集めたものなんですってさあ……イイエ、オベッカじゃないのよ。ヤングがそう云っていたんだから……妾なんかは解らないけど……だから日本では恋愛の遊びだって、ほかの色んな遊びの仕方は、もうすっかり流は行やり廃すたっている代りに、その一番ステキなのがタッタ一つだけ、今でも残っているんですって。一つは日本人はお金をそんなに持たないから、ほかのお金のかかるのはみんな諦らめてしまって、その一番ステキなのだけで満足しているのかも知れないって云うのよ。それをこの頃になって亜米利加の学者たちが八やか釜ましくいって研究しているけども、それはただ学問の研究だけで、本当にやって見ようなんていう度胸のある人間は、まだ一人も亜米利加に出て来ないんですってさあ……そんなステキな遊びが日本に在るのをあんた知らない……マア……そんな筈はないわ。ヤングは学者だから嘘なんか吐つきやしないわよ。あんたは知っているけど気が付かないでいるのよ。日本ではそんなに珍らしくないから……。
……エ?……その遊びの名前ですって……それを妾スッカリ忘れちゃったのよ。イイエ本当よ……今に思い出すかも知れないけど……おぼえているのはその遊びの仕方だけよ。それあトテモ素敵な気持ちのいい遊び方で、聞いただけでも胸がドキドキする位よ。何でも亜米利加の言葉で云うと﹁恋愛遊びの行き詰まり﹂っていったような意味だったわよ。日本の言葉で云うと、もっと短かい名前だったようだけど……え?……その遊びの仕方を云ってみろって?……厭いや々いや。……それは妾わざっと話さないでおくわ。あんたが思い出さなければ丁度いいからね。おしまいの楽しみに取っとくわよ。……ええ……今夜は妾はトテモ意地悪よ。ホホホホホホ。
……でも、そんな話を初めて聞いた時には、妾わたしもうビックリしちゃって髪かみ毛のけをシッカリと掴みながらブルブル慄ふるえて聞いていたようよ。その頃の妾は今よりもズッと初う心ぶだったもんですからね……そんな話を平気でしいしい、青い顔をしてお酒を飲んでいるヤングの軍服姿が、だんだん恐ろしいものに見えて来て、今にも妾を殺すのじゃないか知らんと思い思い、その高い薄っペラな鼻や、その両脇に凹くぼんでいる空色の眼や、綺麗に真まん中なかから分けた栗色の髪か毛みを見つめていたようよ。何だか悪魔と話しているような気がしてね……。
だけど、そのうちにヤングから、そんな遊びの仕方を、一番やさしいのから先にして一つ一つに教おそわって行くうちに、妾はもう怖くも何ともなくなってしまったのよ。……え……それあ本当の事はどうせ亜ア米メ利リ加カの本場に行って、色んな薬や器械を使わなくちゃ出来ないのが多かったし、一番ステキな日本式の遊びや、そのほかの生いの命ちがけの遊びは相手が無いから、只真まね似か方たと話だけですましたの。妾の身から体だに傷が残るようなのも店の主人に見つかると大変だから、ヤングと一緒に亜米利加に行って結婚式を挙げてからの楽しみに取っといたけど、ほかのは大抵卒業しちゃったのよ。……それも初めのうちは、妾がヤングからいじめられる役で、首をもうすこしで死ぬとこまで絞しめられたり、縛って宙釣りにされたり、髪かみ毛のけだけで吊るされたりして、とても我慢出来ない位、苦しかったり痛かったりしたのよ。だけどそのうちにだんだん慣れて来たら、その痛いのや苦しいのが眼のまわるほどよくなって来てね……妾があんまり嬉しそうにして涙をポロポロ流したりするもんだから、おしまいにはヤングの方が羨ましがって、いつも持っている小さな鞭むちを妾に持たして、それで自分の背中を思い切り打ぶってくれって云い出した位よ。
ええ……妾思い切り打ってやったわ。ヤングなら背中に鞭の痕きずが付いていても誰も気付かないでしょうし、妾も自分でいじめられる気持ちよさを知っていたんですからね……イイエ、音なんかいくら聞こえたって大丈夫よ。妾ヤングから教おそわった通りに呑のん気きそうに流はや行りう歌たを唄いながら、その調子に合わせて打ぶっていたから、外から聞いたって何かほかのものをたたいているとしか思えなかった筈よ。……でも、そうして寝台の上に長くなっているヤングの脂あぶ切らぎった大きな背中を、小さな革かわの鞭で、力一パイにたたいている間の気持ちのよかったこと……打てば打つほどヤングが可愛いくなって来てね……そうしてもう、ヤングと一緒に亜ア米メ利リ加カへ行ったら、そんな遊びが本式に大ピラで出来ると思うと、楽しみで楽しみでたまらなくなっちゃったの。だから……妾は毎晩そんな遊びをする時間をすこしずつ裂さいて、ヤングを先生にして一生懸命に亜米利加の言葉を勉強し続けたのよ。
妾は言葉を覚えるのが名人なんですってさあ。ヤングがビックリしていた位よ。ヤングとこんな話が出来るようになる迄でには一と月とかからなかったし、水兵さん達と悪態のつきっこをする位の事なら、初めっから訳なかったわ。おしまいにはヤングがよくポケットに入れて持って来る英アン字グリ新ウス聞クユガゼドが、すこうしずつ読めるようになったから豪えらいでしょう。自分の国の字だと聖書もロクに読めないのによ。ホホホホホホホ。だって妾の両親はトテモ貧乏で、妾を学校に遣やる事が出来なかったんですもの……お化粧の道具なんかも、両親から買ってもらった事は一度も無かったのよ。だけどこの時ばかりは学者の奥さんになるのだからと思って、ずっと前から欲しくてたまらなかった型の小さい、上品なのを別に買って、バスケットの底に仕し舞まっておいたわ。ええ。それあ嬉しかったわよ。だってどうせ両親に売り飛ばされて、こんな酒レス場トランの踊り子になっている身の上ですもの……おまけに生れて初めて妾を可愛がってくれて、色んな楽しみを教えてくれたのが、そのヤングなんですもの……その頃の妾は今みたいな、オシャベリの女じゃなかってよ。どんな男を見ても怖ろしくて気味がわるくて、思うように口も利けない中に、たった一人そのヤングだけが怖くなかったんですもの……アラ……御免なさいね。泪なみだなんか出して……妾……男の方の前で、こんな事を云って泣くのは今夜が初めてよ。ネ……笑わないでね。
そうしたら……そうしたらね、ちょうどあと月げつだから十月の末の事よ。ヤングがいつになく悄しょ気げた顔をして這は入いって来て、この室へやで妾と差し向いになると、何杯も何杯もお酒を飲んだあげくにショボショボした眼付きをしながら、こんな事を云い出したの……。
﹁可愛い可愛いワーニャさん。私はいよいよあなたとお別れしなければならぬ時が来ました。あなたを亜米利加へ連れて行く事も思い切らなければならぬ時が来ました。私は明あ日すの朝早く、船と一緒に浦うら塩じおを引き上げて布ハワ哇イの方へ行かなければなりませぬ。そうして日本と戦争を始めなければなりませぬ。そうなったら私は戦死をするかも知れないし、あなたを連れて行く訳にも行かなくなりました。昨夜不意打ちに本国からの秘密の命令が来たので、どうする事も出来ないのです。……しかしもしも戦争が済むまで私が死なないでいたらキット貴あな女たを連れに来ます。ですから何どう卒ぞ今度ばかりは諦めて下さい﹂
……って……そう云っているうちに、ポケットからお金をドッサリ詰めた革袋を出して、妾の手に握らせたの。
妾、その革袋を床の上にたたき付けて泣いちゃったわ。
﹁そんな事は嘘だ﹂
って云ってね。それあ日本が亜米利加と戦争を初めそうだっていう事は、ズット前から聞いているにはいたけれども、ヤングの話はあんまりダシヌケ過ぎて、どうしても本当とは思えなかったんですもの。だから、
﹁あんたは妾を捨てて行こうとするのだ。何でもいいから妾はあんたを離れない。一緒に軍艦に乗って行く﹂
……って云って死ぬ程泣いて泣いて泣いて泣いて何と云っても聴かなかったの。しまいには首ッ玉に獅し噛がみ付いて、片手で軍服のポケットをシッカリ掴んで離さなかったの……。
ヤングは本当に困っていたようよ。軍服の肩の処に顔を当ててヒイヒイ泣きじゃくっている妾を膝の上に抱き上げたまま、暫らアくジッとしていたようよ。けれどもそのうちにフイッと何か思おも出いだしたように私の顔を押し離すと、私の眼をキット睨にらまえながら、今までと丸で違った低い声で、
﹁ワーニャさん。いい事がある﹂
って云ったの。私はその時、何だかわからないままドキンとして泣き止みながらヤングの顔を見上げたら、ヤングは青白――イ、気味の悪い顔になって、私の眼をジ――イと覗き込みながらソロソロと口を利き出したのよ。前とおんなじ低い声でね……。
﹁ワーニャさん。いい事がある。貴あな女たがそれ程までに私の事を思ってくれるのなら、一つ思い切った事を遣やっつけてくれませんか。私が今から海岸の倉庫へ行って大きな麻の袋を取って来ますから、その中へ這入ってくれませんか。毛布を身から体だに巻きつけておけば、人間だか荷物だかわからないし、寒くもないだろうと思いますから、そうして私の荷物に化けて軍艦に来て物置の中に転がっていてくれませんか。そうすれば、そのうちに私がうまく父親の司令官に話して、貴女を士官候補生の姿にして、私の化粧室に住まわせて上げますから……その話が出来るまで三度三度の喰べ物は、私が自分で持って行って上げます。随分窮屈で辛つらいでしょうけれども、暫くの間と思いますから辛しん棒ぼうしてくれませんか﹂
……って……ネエあんたどう思って……トテモ、ステキな思い付きじゃないの……イイエ、ヤングは本気で、そう云っていたのよ。妾を欺だましていたんじゃないの。もうすこし先までお話するとわかるわ……ええ今話すわよ。話すからもう一杯飲んで頂戴……曹そう達だを割って上げるからね……。
妾わたし、この話を聞くと手をタタイて喜んじゃったわ。だって今までに活動や何かで見たり聞いたりした﹁恋の冒険﹂の中うちのどれよりもズット素敵じゃないの。女の児こが支しな那ま米いの袋に這入って、軍艦に乗って戦争を見物に行くなんて……ねえ……妾あんまり嬉しかったもんだから、思い切りヤングに飛び付いてやったわ。そうして無茶苦茶にキスしてやったわ。
ヤングも嬉しそうだったわよ。今までになく大きな声を出して歌を唄ったりしてね。そうして妾に、
﹁……それではドッサリお酒を飲みながら待っていて下さい。今夜は特別に寒いようだから、袋の中で風邪を引かないようにね。私はこれから袋を取りに行って来ますから﹂
って、そう云ううちに帽子を冠かぶって外套を着て、どこかへ出て行ってしまったの。
妾、そん時に一ちょ寸っと心配しちゃったわ。ヤングがそのまんま逃げて行ったのじゃないかと思ってね……だけど、それは余計な心配だったのよ。ヤングは間もなくニコニコ笑いながら帰って来て妾の顔を見ると、
﹁……おお寒い寒い……一ちょ寸っと、その呼ベ鈴ルを押して主人を呼んでくれませんか﹂
って云ったの。妾、ヤングの足があんまり早いのでビックリしちゃってね。
﹁まあ……今の間まにもう海岸まで行って来たの……そうして袋はどこに持って来たの……﹂
って聞いたらヤングは唇に指を当てて青い眼をグルグルまわしながら妙な笑い方をしたの。
﹁シッ……黙っていらっしゃい……近所の支那人に頼んで外に隠しておいたのです。今にわかりますから……﹂
ってね……そう云ううちに主人が這入って来たら、ヤングはいつもの通りその晩妾を買い切りにして、お料理やお酒をドンドン運び込ませて、妾に思い切り詰め込ましたのよ。……途中でお腹が空すかないようにね……そうして主人にはドッサリチップを呉くれて、面めん喰くらってピョコピョコしている禿はげ頭あたまを扉ドアの外へ閉しめ出すとピッタリと鍵をかけながら、
﹁明あ日すの朝十時に起してくれエッ﹂
……て大きな声で怒ど鳴なったの。そうしておいて妾の手をシッカリと握ったヤングは、あの窓を指さしながらニヤニヤ笑い出したのよ……。
妾ヤングの怜りこ悧うなのに感心しちゃったわ。あの窓はその時まで、もっと大きな二重硝ガラ子スになっていて、その向うには、あんな鉄かな網あみの代りに鉄の棒が五本ばかり並んでいたんだけど、その硝ガラ子ス窓を外はずして、鉄の棒のまん中へ寝ベッ台ドのシーツを輪にして引っかけて、その輪の中へ突込んだ椅子の脚を壁のふちへ引っかけながら、二人がかりでグイグイと引っぱると一本一本にみんな抜けちゃったの。……ええ……電燈を消していたんだから外から見たってわかりやしないわ。……その穴からヤングが先に脱ぬけ出して、あとから這い出した私を抱え卸おろしてくれたの。
それは浦こ塩こ附い近らに初めて雪の降った晩で、あの屋根の白い斑まだ雪らゆきもその時に積んだまんまなのよ。風は無かったようだけど星がギラギラしていてね……その横路地に白い舞踏服姿の妾が、寝ベッ台ドから取って来た白い毛布にくるまってガタガタに寒くなりながら立っていると、ヤングは大急ぎで、向むこ家うの横路地の間から、隠しておいた支那米の袋を持って来て妾の頭の上からスポリと冠せてくれたの。そうしてそのまんま地びたの上にソッと寝かして、足の処をシッカリとハンカチで結ゆわえるとヤットコサと荷かつぎ上げながら、低い声でこんな事を云って聞かせたのよ。
﹁さあ……ワーニャさんいいですか。暫くの間辛いでしょうけども辛棒して下さい。私がもう宜しいって云うまでは、決して口を利いたり声を立てたりしてはいけませんよ﹂
ってね……。だけど妾は、その袋があんまり小さくて窮屈なのでビックリしちゃったわ。妾の身から体だは随分小さいんだけど、それでも足を出来るだけグッと縮めなければ袋の口が結ばらないのですもの。おまけにその臭かったこと……停車場のはばかりみたいな臭いがしてね。ホコリ臭くて息が詰りそうで、何なん遍べんも何遍も咳せきが出そうになるのをジッと我慢しているのがホントに苦しかったわ。
それからどこを通って行ったのか、よくわからないけど、何でもこのスウェツランスカヤから横路地伝いに公園の横へ出て、公使館の近くを抜けながら海岸通りへ出たようなの。途中で下腹や腰のところがヤングの肩で押えられて痛くてしようがなかったけど、やっとの思いで我慢していたわ。ええ。それあ怖かったわ。ヤングが時々立ち止まるたんびに誰か来たのじゃないかと思ってね……。
海岸に来るとヤングは、そこに繋いであった小さい舟に乗り込んで、妾をソッと底の方へ寝かして、その上に跨またがって自分で櫂かいを動かし始めたようなの……そこいらは、まだ暗くて、波の音がタラリタラリとして、粗あらい袋の目から山の手の燈あか火りがチラリチラリと見えてね……妾は息が苦しいのも、背中が痛いのも、それから足を伸ばしたくてたまらないのも忘れて、時々聞える汽笛の音に耳を澄ましながら胸をドキドキさせていたわ。これが故郷のお別れと思ってね……そうかと思うと亜ア米メ利リ加カの町をヤングと連れ立って散歩している自分の姿を考えたり……ヤングと妾の幸福のために、イーコン様にお祈りを捧げながら、ソッと小さな十字架を切ったりしていたわ。
そうすると間もなく、今までと丸で違った波の音が聞え出して、小舟が軍艦に横付けになったようなの。その時に妾は又ドキンとして荷物のつもりで小さくなっていると、こっちからまだ何も云わないのに、上の方から男の足音が二人ほど、待っていたようにゴトゴトと音を立てて降りて来たの。そうしてその中うちの一人が低い声で、
﹁へへへへへ。今までお楽しみで……﹂
って云いかけたら、ヤングが同じように低い声で、
﹁シッ。相手は通じるんだぞ……英語が﹂
って叱ったようよ。そうすると二人ともクツクツ笑いながら黙り込んで、妾の袋をドッコイショと小舟の中から抱え上げたの。
その時に妾はチョット変に思わないじゃなかったわ。何だか解らないけど、その二人の男の抱え方が、袋の中に生きた人間が居るって事をチャンと知っているとしか思えなかったんですもの。一人は妾の肩の処を……それから、もう一人は腰の処を痛くないようにソーッとネ……だけどこれは大方ヤングが今の間まに手真似か何かで打ち合わせたのかも知れないと思っているうちに、一度階段を降り切った二人の足音は又、別の段々を降り始めて、今度は波の音も何も聞えない、処々に電燈のついた急な階段を二ツばかり降りて行ったの。
その時にヤングは、もうどこかへ行っていたようよ。……いいえ船の中はシンとしていたけど、いつヤングが消えてしまったのか解らなかったわ……まあそう……出帆前ってそんなに忙がしいものなの……じゃ矢やっ張ぱりあんたの云うように、あの軍艦はずっと前から出発の準備をして命令が来るのを待っていたんだわ。ね……そうでしょう……ヤングが出帆の日を知らなかったのは無理もないわ。そうして本当に日本と戦争をする気で出て行ったんだけど、途中で日本が怖くなったから止しちゃったんでしょう。……アラ……どうしてそんなに失ふき笑だすの。
イイエ、あんたがいくら笑ったってそうに違いないわよ。だってヤングはおしまいまで一度も嘘を吐ついた事なんぞ無かったんですもの。妾がヤングに欺されているように思うのはソレアあんたの嫉やき妬もちよ……まあいいから黙ってお酒を飲みながら聞いていらっしゃい。あんたの気もちはよくわかっているんだから。もっとおしまいまで聞いて行くうちには、ヤングが云った事が本当か嘘かわかるから……ね……。
……そうしたらね……。
そうしたら、あとに残って妾を抱えている二人の足音が又一つ、急な段々を降りて行くと、どこか遠い処に黄色い電燈がたった一つ点ともっている、暗い、板張りらしい処に来たの。それと一緒に二人の男は、イキナリ妾を固い床の上にドシンと放り出したもんだから妾は思わず声を立てるところだったわ。だけど又それと一緒に、これはどこか近い処に人間が居るからで、妾を荷物と見せかけるために、わざとコンナ乱暴な真似をしたのに違いないと気が付いたの。それでやっと我慢して、放り出されたなりにジッとしていたら、そのうちに誰も居なくなったのでしょう。二人の男は大きな声で話をしいしいユックリユックリと室へやを出て行ったの。
﹁アハハハハハ。もう大丈夫だ。泣こうが喚わめこうが﹂
﹁ハハハハハハ。しかしヤングの智恵には驚いちゃったナ。露ロ西シ亜アの娘っ子なんて、コンナに正直なもんたあ思わなかったよ﹂
﹁ウーム。こんな素晴らしい思い付きは、彼あい奴つの頭でなくちゃ出て来っこねえ。何しろ革命から後のちってものあ、どこの店でも摺すれっ枯からしを追い出して、いいとこのお嬢さんばかりを仕入れたっていうからな……そこを睨んだのがヤングの智恵よ﹂
﹁成る程ナア……ところでそのヤングはどこへ行きやがったんだろう﹂
﹁おやじん処とこへ談判に行ったんだろう。生きたオモチャをチットばかし持込んでいいかってよ﹂
﹁……ウーム。しかしなア……おやじがうまくウンと云えあ良いいが……﹂
﹁それあ大丈夫よ。それ位の智恵なら俺だって持っている。つまり時間が来るまでは、他の話で釣っといて、艦ふねの中を見まわらせねえようにしとくんだ。そうしてイヨイヨ動き出してから談判を始めせえすれあ、十が十までこっちのもんじゃねえか。……まさか引っ返す訳にも行くめえしさ﹂
﹁ウーム。ナアルホド。下手を間ま誤ご付つけあ、良い恥はじ晒さらしになるってえ訳だな﹂
﹁ウン……それにおやじだって万まん更ざらじゃねえんだかんナ……ヤングはそこを睨んでいるんだよ﹂
﹁アハハハハ違ちげえねえ。豪えれえもんだなヤングって奴は……﹂
﹁アハハハハハハハ﹂
﹁イヒヒヒヒヒヒヒ﹂
……妾こんな話をきいているうちにハッキリと意味はわからないまま、もうスッカリ大丈夫なような気になって、グーグー睡ってしまったのよ。
ええ……それあ大胆といえば大胆なようなもんよ。だけど、その時の妾はもう大胆にも何にも仕しよ様うのない位ヘトヘトに疲れていたんですもの。最前からオブラーコで飲んだお酒の酔いと、今まで苦しいのを我慢していた疲つか労れが一いち時どきに出ちゃって、いつ軍艦が出帆の笛を吹いたか知らないまんまに睡っていたわ。
だけど、そうして眼が醒めてからの苦しくて情なかった事……軍艦の器械のゴットンゴットンという響きが身から体だに伝わるたんびに、毛布ごしに床板に押しつけられている背中と、腰骨と、曲ったまんまの膝っ節ぷしとが、まるで火が付いたように痛むじゃないの。妾はもう……早くヤングが来てくれればいい。そうしたら水か何か一パイ飲ましてもらわなくちゃ、咽の喉どがかわいて死ぬかも知れない。そうしてモット大きな袋に入れてもらわなくちゃ……と、そればっかり考えていたわ。そうして人にわからないように少しずつ寝がえりをしかけていると、不意に頭の上で誰かが口を利き出したので、妾は又ハッとして亀の子のように小さくなってしまったの……それは何でも三四人の男の声で、妾のすぐ傍に突つっ立たって、先さっ刻きから何か話していたらしいの……。
﹁まだルスキー島はまわらねえかな﹂
﹁ナニもう外そと海うみよ﹂
﹁……ワン。ツー。スリー。フォーア……サアテン。フォテン……おやア……一つ足りねえぞこりゃア……フォテン。フィフテン。シックステン……と……あっ。足あし下もとに在ありやがった。締めて十七か……ヤレヤレ……﹂
﹁……様さまと一緒なら天国までも……って連中ばかりだ﹂
﹁惜しいもんだなあ……ホントニ……おやじせえウンと云えあ、布ハワ哇イへ着くまで散さん々ざっぱら蹴たおせるのになア﹂
﹁馬鹿野郎。布ハワ哇イクンダリまで持って行けるか。万一見つかって世界中の新聞に出たらどうする﹂
﹁ナアニ。頭を切らして候補生の風ふうをさせとけあ大丈夫だって、ヤングがそう云ってたじゃねえか﹂
﹁駄目だよ。浦うら塩じおの一粒選えりを十七人も並べれあ、どんな盲めく目らだって看みや破ぶっちまわア﹂
﹁それにしても惜しいもんだナ。せめて比ヒリ律ッピ賓ンまででも許してくれるとなア﹂
﹁ハハハハまだあんな事を云ってやがる。……そんなに惜しけあ、みんな袋ごと呉れてやるから手てめ前え一人で片づけろ。割り前は遣らねえから﹂
﹁ブルブル御免だ御免だ﹂
﹁ハハハ見やがれ……すけべえ野郎……﹂
そんな事を云い合っているうちに一人がマッチを擦すって葉巻に火を点つけたようなの。間もなく美いい匂いがプンプンして来たから……。
だけど妾はそのにおいを嗅かぐと一緒に頭の中がシイーンとしちゃったの。身から体だが石みたように固くなって息も吐つけない位になっちゃったの。……だって妾みたようにしてこの軍艦に連れ込まれた者は、妾一人じゃないことが、その時にやっとわかりかけて来たんですもの……。妾のまわりにはまだ、いくつもいくつも支那米の袋が転がっているらしいんですもの……。おまけに、それをどうかしに来たらしい荒くれ男が三四人、平気で冗談を云い合いながら葉巻を吹かしているじゃないの……あんまり恐ろしい、不思議な事なので、妾は、あと先を考える事も何も出来やしなかったわ。ただ眼をまん丸に見開いて鼻っ先に被かぶさっている袋の粗あらい目を凝みつ視めながら、両方のお乳を痛いほどギュッと掴んでいたわ……夢じゃないかしらと思って……。
でも、それは夢じゃなかったの……そうして歯を喰い締めて、一心に耳を澄ましていると、ゴットンゴットンという器械の音の切れ目切れ目に、ドド――ンドド――ンっていう浪なみの音が、どこからか響いて来るじゃないの。……ええ……おおかた外ほかの女ひと達も妾とおんなじにビックリして小さくなっていたんでしょう。呼い吸きをする音も聞えない位シンとしていたようよ。
そうしたら又その中うちに、その葉巻を持っているらしい男が、一としきりスパスパと音を立てて吸い立てながら、こんな事を云い出したの。
﹁待て待て。片づける前に一ツ宣告をしてやろうじゃねえか。あんまり勿もっ体てえねえから﹂
﹁バカ……止せったら……一文にもならねえ事を……﹂
﹁インニャ。このまま片づけるのも芸のねえ話だかんナ……エヘン﹂
﹁止せったらヂック……そんな事をしたら化けて出るぞ﹂
﹁ハハハハ……化けて出たら抱いて寝てやらあ……何も話の種だ……エヘンエヘン﹂
﹁止せったら止せ……馬鹿だなあ貴様は……云ったってわかるもんか﹂
﹁まあいいから見てろって事よ……これあ余興だかンナ……俺の云う事が通じるか通じないか……﹂
って云ううちに、そのヂックって男は、又一つ咳払いをしながらハッキリした露ロ西シ亜ア語で演説みたいに喋しゃ舌べり出したの。
﹁エヘン……袋の中の別べっ嬪ぴんさんたち。よく耳の垢あかをほじくって聞いておくんなハイよ。いいかね。……お前さん達はみんな情いい人ひとと一緒になりたさに、こんな姿に化けてここへ担かつぎ込まれて来たんだろう。又……お前さん達の情いい人ひとも、おんなじ料簡で、お前さん達をここまで連れて来たんで、決して悪気じゃなかったんだろうが、残念な事には、それが出来なくなっちゃったんだ。いいかい……だからね。……エヘン……だから怨むならばだ……いいかい……怨むならば、お前さん達の情いい人ひとにこんなステキな智恵を授けた、ヤングという豪えらい人を怨まなくちゃいけないんだよ。……それからもう一人……この艦ふねに乗っている俺たちの司たい令しょ官うを怨みたけあ怨むがいいってんだ。……イヤ……事によると、その司たい令しょ官うだけを怨むのが本筋かも知れないがね……どっちにしても、お前さん達のいい人や、そんな連中に頼まれた俺達を怨んじゃいけないよ。いいかい……という訳はこうなんだ。先さっ刻きヤングさんが司たい令しょ官うに、お前さん達を亜ア米メ利リ加カまで連れてっていいかって伺いを立ててみたら、亜米利加の軍艦の中には、食たべ料も品のより以ほ外かに肉に類くを一切置いちゃイケナイってえ規則になっているんだッてさあ……だからね……折せっ角かくここまで来ているのをホントにお気の毒でしようがないけど、ちょうど風も追い手のようだから、お前さん達はその袋のまんま、海を泳いで浦うら塩じおの方へ……﹂
ここまでその男が饒しゃ舌べって来たら、あとは聞えなくなっちゃったの。だって妾のまわりに転がっている十いくつの袋の中から、千ち切ぎれるような金切声が一どきに飛び出して、ドタンバタンとノタ打ちまわる音がし始めたんですもの。中には聞いたような声がいくつもあったようだけど、そんな時に誰が誰だかわかりやしないわ。ただ耳が潰れるほどキーキーピーピー云うだけですもの。
だけど私は黙っていたの。声を出すより先にどうかして、袋を破いてやろうと思って、一生懸命に藻も掻がいていたの。だけど袋が小さい上にトテモ丈夫に出来ているので、噛み付こうにも噛み付けないし、力一パイ足を踏ん張ると首の骨が折れそうになるし、その苦しさったらなかったわ。だけど、それでも生いの命ちがけの思いで、力のありったけ出して藻掻いているうちに、妾のまわりの叫び声が一ツ一ツに担ぎ上げられて、四ツか五ツ宛ずつ行列を立てながら階段を昇りはじめたの。その時にはチョットの間まみんなの叫び声は止んだようだけど、その階段の音が聞えなくなると、又前よりも非ひ道どい泣き声や金切声がゴチャゴチャに聞え始めたの。めいめいに男の名を呼んでヒイヒイ泣いていたようよ。
だけど妾それでも泣かなかったの。そうして死に物狂いになって、両手で頭をシッカリと抱えながら、足の処の結び目を何度も何度も蹴ったり踏んだりしていたら、身から体だ中が汗みどろになって、髪かみ毛のけが顔中に粘り付いて、眼も口も開けられなくなってしまったの。その中うちに袋の中は湯気が一パイ詰まったように息苦しくなって来るし、髪の毛は顔から二の腕まで絡まって、動くたんびにチクチク抜けて行くし、おまけに着物と毛布が胸の上の処でゴチャゴチャになって、袋の中一パイにコダワリながら、お乳を上へ上へと押し上げるので、その苦しさったら……もう死ぬかもう死ぬかと思った位よ。そうしてそのうちに……御覧なさい。この臂ひじの処が両方ともこんなに肉が出てピカピカ光っているでしょう。この臂はヤングが﹁猫キャのツエ臂ルボウ﹂って名をつけて、紐ニュ育ーヨーク婦人の臂くらべに出すって云っていたくらい柔らかくてスンナリしていたのが、知らないうちに擦すり破れてしまって、動くたんびにヒリヒリと痛み出して来たんですもの。……それに気が付くと妾はもう、スッカリ力が抜けてしまって、意地にも張りにも動けなくなったようよ……両方の臂を抱えてグッタリとなったまま、呼い吸きばかりセイセイ切らしていたようよ。
そのうちに又、上の方から四五人の足音が聞えて来ると、みんなの叫び声がまた、ピッタリとなっちゃったの。それに連れて降りて来る男たちの話声がよく聞えたのよ。器械の音とゴッチャになったまま……。
﹁アハハハハ。非ひ道でえ眼に会っちゃったナ。あとでいくらかヤングに増してもらえ﹂
﹁ヂックの野郎が余計な宣告を饒しゃ舌べるもんだから見ろ……こんなに血が出て来た﹂
﹁ハハハハ恐ろしいもんだナ。袋の中から耳みみ朶たぼを喰い切るなんて……﹂
﹁喰い切ったんじゃねえ。引き千ち切ぎりかけやがったんだ。だしぬけに……﹂
﹁俺あ小便を引っかけられた。コレ……﹂
﹁ウワ――。あれあスチューワードが持ち込んだ肥ふとっちょの娘だろう。彼あい奴つの鞭で結ゆわえてあったから……﹂
﹁ウン。あのパン屋のソニーさんよ。おかげで高た価けえ銭ぜにを払ったルパシカが台なしだ。とても五弗ドルじゃ合わねえ﹂
﹁まあそうコボスなよ。女の小便なら縁えん起ぎが宜いいかも知れねえ﹂
﹁人をつけ……ウラハラだあ……﹂
﹁ワハハハハハ﹂
……だってさあ……こんな事を云い合って呑のん気きそうに笑いながら、その男たちは又四ツばかり叫び声を担ぎ上げたの。
﹁サア温おと柔なしく温柔しく。あばれると高い処から取り落しますよ。落ちたら眼の玉が飛び出しますよ﹂
﹁小便なんぞ引っかけないように願いますよだ。ハハハハハハ﹂
﹁ドッコイドッコイ……どうでえこの腹ポッ部ポのヤワヤワふっくりとした事は……トテモ千せん金きんこてえられねえや﹂
﹁アイテッ。そこは耳みみ朶たぼじゃねえったら……アチチチ……コン畜生……﹂
﹁ハハハハ。そこへ脳天を打ぶっ付けねえ。その方が早はええや﹂
﹁アイテテ……又やりやがったな……畜生ッ……こうだぞ……﹂
って云ううちに、……ギャーッて云う声が室へや中じゅうにビリビリする位響いて来たの。
その声を聞くと妾は又夢中になってしまって、身から体だ中にありたけの力を出しながら、床の上を転がり始めたの。そうして出来るだけ電燈の光りの見えない方へ盲めく目らさ探ぐりに転がって行って、何かの陰を探して隠れよう隠れようとしていたの。そうすると今度は男たちの靴の音が離れ離れになって、一人か二人宛ずつあとになったり先になったりしながら――次から次に担ぎ上げて行くうちに、とうとう、室へやの中の叫び声が一ツも聞こえなくなってしまったのよ。ただ軍艦の動く響きと、微かな波の音ばっかり……人間の居るらしい音は全く無くなってしまってね……。
その時に妾はやっと、すこしばかり溜息をして気を落ちつけたようよ。妾の袋はキット何かの陰になって、見えなくなっているのに違いないと思い思い、顔中にまつわっている髪の毛を掻き除のけながら、なおも、ジッと耳を澄ましていたようよ。
そうすると、それから暫く経って、もうみんなどこかへ行って終しまったと思う頃、今度はたった一人の、重たい、釘だらけの靴の音が……ゴトーン、ゴトーンと階段を降りて来たの。そうして室へやのまん中に立ち止まって、そこいらをジーイと見まわしながら突つっ立たっているようなの。
……その時の怖かったこと……今までの怖さの何層倍だったか知れないわ……妾の寿命はキットあの時に十年位縮まったに違いないわよ。……もう思い切り小さくなって、いつまでもいつまでも息を殺していると、そこいら中があんまり静かなのと、気味がわるいのとで頭がキンキン痛み出して、胸がムカムカして吐きそうになって来たの。それを我慢しよう我慢しようと藻も掻がいていたために身から体だじゅうが又、冷汗でビッショリになってしまったの。
そうすると、もうどこかへ行ったのか知らんと思っていたその男が馬鹿みたいにノロノロした、変テコな胴どう間まご声えで口を利き出したの。
﹁……どうしても一ツ足りねえと思うんだがナア……みんなは、おらが三人担いだというけんど、おらあ二遍しけあ階はし子ごだ段んを昇らねえんだがなあ……﹂
その声と言葉付きを聞いた時に、妾は又、髪の毛が一本一本馳け出したように思ったわ。歯の根がガクガク鳴り出して、手足がブルブル動き出すのをどうする事も出来なかったわ……だってその声っていうのは、ずっと前に一度オブラーコの酒レス場トランへ遊びに来て、散さん々ざっパラ水兵たちにオモチャにされて外に突き出された、大きな嫌いやらしい黒ん坊の声だったんですもの。……その時にその黒ん坊が恨うらめしそうな、もの凄い眼付きで妾たちをふり返った顔を、袋の中でハッキリと思い出したんですもの……怖いにも何にも、妾は生きた空がなくなって、もうすこしで気絶しそうになった位よ。今にもゲーッと吐きそうになってね。そうするとその黒ん坊は、
﹁どうしても無いんだナア……可お笑かしいナア……﹂
って云いながらマッチを擦って煙草を吸い付け吸い付け出て行きそうに歩き出したの。……そん時の嬉しかったこと……妾は思わず手の甲に爪が喰い入る程力を籠めてイーコン様を拝んじゃったわ。
……だけど矢っ張り駄目だったの……階段の方へノロノロと歩いて行った黒ん坊は間もなく奇妙な声を立てながらバッタリと立ち止まったの。
﹁イヨーッ。あんな処に隠れてら。フヘ、フヒ、フホ、フム……畜生畜生﹂
と云うなり、ツカツカと近づいて来て、妾の袋へシッカリと抱き付いちゃったの。それと一緒に黄きな臭くさい煙草のにおいと、何ともいえない黒ん坊のアノ甘ったるい体にお臭いとがムウーと袋の中へ流れ込んで来たようなの。
妾、その時に、どんな風に暴れまわったか、ちっとも記お憶ぼえていないのよ。……ただ、ちっとも声を立てなかった事を記お憶ぼえているだけよ。誰か加勢に来たら大変と思ってね。……だけどその黒ん坊も、ウンともスンとも云わなかったようよ。おおかた一人で妾をどこかへ担いで行って、どうかしようと思ったのでしょう。暴れまわる妾を何遍も何遍も抱え上げかけては、床の上に取り落し取り落ししたので、そのたんびに妾は気が遠くなりかけたようよ。
だけど、それでも妾は声を立てなかったの。そうしてヤッサモッサやっているうちに、どうした拍子か袋の口が解けて、両足が腰の処までスッポンと外へ脱ぬけ出した事がわかったの……。
それに気が付いた時に妾がどんなに勢よく暴れ出したか……アラ又……笑っちゃ嫌いやって云うのに……ソレどころじゃなかったわよ、ソン時の妾は……何でもいいから……足が折れても構わないからこの黒ん坊を蹴殺して、その間に袋から脱け出してやろうと思って、頭でも、顔でも、胸でもどこでも構わずに蹴って蹴って蹴飛ばしてやったわ。……ええ……黒ん坊も一生懸命だったようよ。袋の上からシッカリと組み付いて来て、片っ方の手で妾の両足を押えようとするのだけども、妾の両足を一緒に掴まえる事はなかなか出来ないし、片っ方だけ捉つかまえても妾が死に物狂いで蹴飛ばしてやったもんだから、しまいにはセイセイ息を弾はずませて、妾の足と掴み合い掴み合いしながらあっちへ転がり、こっちへ蹴飛ばされしていたようよ。……だけど、そのうちに妾の着物と毛布が両手と一緒に、だんだん上の方へ上って来て、息が出来ない位に切なくなって来ると、黒ん坊はとうとう妾の両足を捉まえて、足首の処を両手でギューと握り締めちゃったの。
そん時に妾は、初めて、大きな声を振り絞ったわ。両手を顔に当てて力一パイ反そりかえりながら、
﹁助けて助けて助けて。ヤングヤングヤングヤング﹂
ってね。ええ……それあ大きな声だったわよ。咽の喉どが破れる位呶ど鳴なってやったんですもの。そうして両足を押えられたまま、起き上っては反そりかえり反りかえりして、固い床板の上に頭をブッ付け始めたの。死んだ方がいいと思ってね。
そうしたら黒ん坊もその勢いに驚いて、諦らめる気になったんでしょう。
﹁……ウウウウ……そんなに死にてえのかナア……﹂
って喘あえぎ喘ぎ云いながら、妾の両足を掴んで、床の上をズルズルと、片隅に引っぱって行くと思ったら、そこに置いてあったらしい細い針はり金がねで、足首の処から先にグルグルグルグルと巻き立てて、胸の処まで袋ごしに締め付けてしまったの……。
その時の苦しさったら、それあ、とてもお話ししたって解かりやしないわよ。だってチョットでも太い息をするか、動くかすると、すぐに長い細い針金が刃物みたいに喰い込んで、そこいら中の肉が切れて落ちそうになるんですもの……それでいて、いくら喘あえいでも喘いでも喘ぎ切れない位息が切れているんですもの……妾はそのまま直ぐに気が遠くなっちゃった位なの。だけども又すぐに苦しまぎれに息を吹きかえすと、又もや火の付いたように針金が喰い込むでしょう。地獄の責め苦ってほんとうにあの事よ。そうして息も絶え絶えにヒイヒイ云っているうちに今度は本当に気絶してしまったらしいの。
それから何分経ったか、何時間経ったのかわからないけど、又自然と息を吹き返した時には、妾はもう半分死んだようになっていたようよ。手や足の痛さがわからなくなってしまってね。……そうして眼だけを大きく見開いてどこかを凝み視つめていたようよ。だからその時に聞いた話も、夢みたように切れ切れにしか記お憶ぼえていないの。
﹁……どうでえ。綺麗な足じゃねえか﹂
﹁ウーム。黒ニ人ガの野郎、こいつをせしめようなんて職しょ過くすぎらあ﹂
﹁面つらが歪ゆがんだくれえ安いもんだ。ハハン﹂
﹁しかし、よっぽど手てひ酷どく暴れたんだな。あの好すけ色べえ野郎が、こんなにまで手て古こ摺ずったところを見ると……﹂
﹁フフン、勿もっ体たいなくもオブラーコのワーニャさんだかんな﹂
﹁ウーム。十九だってえのに惜しいもんだナア……コンナに暴れちゃっちゃ、ヤングだって隠しとく訳に行くめえが……﹂
﹁……シーッ……来やがった来やがった……﹂
って云ううちに、又一人、スパリスパリと煙草を吹かしながら、軽い、気取った足取りで階段を降りて来て、悠ゆっくり悠っくりと妾の傍に近づいた者が居るの……。
その足音を聞くと妾は気もちが一ペンにシャンとなっちゃったわ。飛び上りたい位嬉しくなって……ヤング……って叫ぼうとしたのよ……。
だけど妾が起き上ろうとすると、手や足が、胸の処まで氷みたようになって、動かなくなっていることがわかったの。それと一緒に、声がピッタリと咽の喉どに閊つかえてしまって、名前を呼べる位ならまだしも、声を立てる事すら出来なくなっているじゃないの。何だかそんな夢でも見ているように胸の処が固こわばってしまってね。もしかすると、あんまり怖い眼に会い続けたので気が変になっていたのかも知れないけど……。
そうするとヤングは、長い長い大きな溜め息を一つしてから、静かな、猫撫で声かと思うくらい優しい口調で、こんなお説教を妾にして聞かせたの。上品な露ロ西シ亜ア語でね……。
﹁ワーニャさん。温おと柔なしくしていて頂戴……。私は貴あな女たが憎いから、こんな事をするのじゃありません。よござんすか。よく気を落ち着けて聞いて頂戴……ね。私は貴女が可愛いくて可愛いくてたまらない余りにコンナ事をするのです。私は貴女が、あんまり綺麗で可愛いから、亜ア米メ利リ加カの貴婦人と同じようにして殺してみたくなったのです。ね。いつぞやお話して上げた恋愛ごっこの事を、まだ記お憶ぼえていらっしゃるでしょう、ね、ね、わかったでしょう。……私は最も早う近いうちに日本と戦争をして戦死をするのです。ですからもう、貴女以外の女の人と結婚する事は出来ないのです。貴女と一緒に天国に行くよりほかに楽しみは無くなったのです。ですから満足して、私の云う事をきいて頂戴。ね、ね、温おと柔なしく私の云う通りになって死んで頂戴。ね、ね……わかったでしょう。ね、ね……﹂
そう云ううちにヤングは妾の足に捲かった針金を解き始めたの。そうして胸の上までユックリユックリ解ほどいてしまうと、
﹁サアサア。寒かったでしょうね﹂
って云いながら、又、もとの通りに袋を冠かぶせて口をシッカリ括くくってしまったの。
ええ……妾はちっとも手向いなぞしなかったわ。死人のようにグッタリとなって、ヤングのする通りになっていたわよ。
その時のヤングの声の静かで悲しかったこと――ほんの一ちょ寸っとの間まだったけど、妾の胸にシミジミと融とけ込んで、妾に何もかも忘れさしてしまったのよ。……何だか甘い、なつかしい夢でも見ているような気もちになってね……ネンネコ歌にあやされて眠って行く赤ん坊みたように、涙が止め度なく出て来たもんだから、妾はとうとう声を出してオイオイ泣き出しちゃったの。
﹁……ヤング……ヤング……﹂
って云ってね……そうするとヤングは一々丁寧に返事をしいしい妾を袋に入れてしまってから、今一度妾の頭の処を、袋の上から撫でてくれたわ。
﹁……ね……ね……わかったでしょう、ワーニャさん。温おと柔なしくするんですよ。サアサア。もう泣かないで泣かないで。いいですか。ハイハイ。私がヤングですよ。いいですか。サ……泣かないで泣かないで﹂
そう云って妾をピッタリと泣き止まして終しまうと、静かに立ち上って、這入って来た時と同じように気取った足音を立てながら、悠々と階段を昇ってどこかへ行ってしまったの。
だけど妾は、やっぱり夢を見ているような気持ちになって、シャクリ上げシャクリ上げしながらグッタリとなっていたようよ。そうすると、あとに残った三人の男たちは手てん手でに妾の頭と、胴と、足を抱えて、上の方へ担ぎ上げながら、黙りこくって階段を昇りはじめたの。そのゆっくりゆっくりした足音が、静かな室へやの中にゴトーンゴトーンと響くのを聞きながら、妾は何だか、教会の入口を這入って行くような気持ちになっていたようよ。
だけど第一の階段を昇ってしまうと間もなく、一番先に立って、妾の足を抱えていた男が、変な声でヒョックリと唸うなり出したの。そうして何を云うのかと思っていると、
﹁ウーム。ウメエもんだナア。ヤングの畜生、あの手で引っかけやがるんだナア。どこへ行っても……﹂
って、サモサモ感心したように云うの。そうすると妾の腰を担いでいた男も真似をするように唸り出したの。
﹁ウーム。まるで催眠術だな。一ペンで温おと順なしくしちまやがった﹂
そうすると又、妾の頭を担いでいた男が、老とし人よりみたような咳をゴホンゴホンとしながら、こんな事を云ったの。
﹁十七人の娘の中うちで、ワーニャさんだけだんべ……天国へ行けるのはナア﹂
﹁アーメンか……ハハハハハ﹂
こんな事を云っているうちに、又二つばかりの階段を昇ると、ザーザーという波の音がして甲板へ出たらしく、袋の外から冷たい風がスースーと這入って来て、擦すり剥むけた臂ひじの処が急にピリピリ痛み出したの。それと一緒に明るい太陽の光りが袋の目からキラキラとさし込んで来て、眼が眩くらむくらいマブシクなったので、妾は両手で顔をシッカリと押えていたようよ。そうしたら足を抱えていた男が、
﹁サア……天国へ来た……﹂
﹁ウフフフフ。ワーニャさんハイチャイだ。ちっとハア寒かんべえけれど﹂
﹁ソレ。ワン……ツー……スリイッ……﹂
と云ううちに、妾をゆすぶっていた六ツの手が一いち時どきに離れると、妾はフワリと宙に浮いたようになったの。
その時に妾は何かしら大きな声を出したようよ。……やっと夢から醒めたようにドキンとしてね……だけど、そう思う間もなく、妾の頭が、船の外側のどこかへ打ぶつかると一いっ処しょにガーンとなってしまって、いつ海の中へ落ち込んだかわからなかったの……。
それから又、妾が気が付いて眼を開あいたのは、一分か二分ぐらい後のちのようにしか思えないのよ……何だか知らないけれど身から体だ中に痺しびれが切れて、腰から下が痒かゆくて痒くてしようがないように思っているうちに、フイッと眼を開あいてみたら、そこは忘れもしないこのレストランの地下室でね。いつぞや肺病で死んだニーナさんが寝かされていたその寝ベッ台ドの上に、湯タンポと襤ぼ褸ろっ布き片れで包まれながら、素すっ裸ぱだ体かで放り出されているじゃないの。おまけに寝ベッ台ドの横でトロトロ燃えているペーチカの明あかりでよく見ると、妾の手や足は凍傷で赤ぶくれになっていて、針金の痕あとが蛇みたいにビクビクと這いまわっている上から、黒茶色の油あぶ膏らぐ薬すりがベトベトダラダラ塗りまわしてあるじゃないの。その汚ならしくて気味の悪かったこと……妾何だかわからないままビックリして泣き出しちゃった位よ。
……だけど、それから間もなく料理番の支那人が持って来てくれた魚ウハ汁ーの美お味いしかったこと……その支那人のチーっていうのに聞いてみたら、その時は妾が死んでからちょうど二日目だったそうよ。……妾の袋は、ルスキー島から二海里ばかりの沖へ投げ込まれると間もなく、軍艦と擦れちがったジャンクに拾われたので、その船頭の女房の介抱で息を吹き返したんですってさあ。十七番のナターシャさんも同じジャンクで拾われていたし、パン屋のソニーさんも鯨捕り船だったかに拾われて来たのを、白軍の巡じゅ邏んら船せんが見付け出して警察に引き渡したんですって。だけど、みんな水をドッサリ飲んでいたんで駄目だったんですとさあ。そのほかの袋は十日ばかし経ってから、タッタ二個だけ、外そと海うみの岸に流れ付いたそうよ。妾怖いから見に行かなかったけど……ホントに可哀そうでしようがないの……。
妾……この話をするのはあんたが初めてよ。いいえ……誰も知らないの……みんな死んでいるから……。
それあ浦こ塩こではかなり評判になっているらしいのよ。……ええ……あんたが知らないのは無理もないわよ。あんたはまだ浦こ塩こに来ていなかったんですからね。おまけに警察でもこの家うちでも、まだ秘密にしているから、新聞にも何も書いてないそうよ。おおかた亜ア米メ利リ加カを怖がっているのでしょう。あの軍艦がしたらしい事は、みんな感づいているんですからね。
ええ……それあ何遍も何遍も訊きかれたのよ。一体どうしてこんな眼に会わされたのかってね。妾が気が付いてから後のちの一週間ばかりというもの、警察の人や、うちの主人や、そのほかにも役人らしいエラそうな人が何人も何人も、毎日のように妾の枕元に遣って来ちゃ、威おどかしたり、賺すかしたりしながら、ずいぶん執しつ拗こく事わ情けを尋ねたのよ。……おしまいには先むこ方うから色んな事を話して聞かせてね……あのヤングっていう士官はトテモ悪い奴で、今年の夏に浦うら塩じおに着いた時に、軍艦の荷物が税関にかからないのをいい事にして、阿あへ片んをドッサリ浦うら塩じおに持ち込んで、方々に売り付けてお金を儲けた事がチャンとわかってるんだ……だけども遣り方がナカナカ上手でハッキリした証拠が上らないために、どうすることも出来ないでいたんだ。……そうしたらヤングの畜生めスッカリ浦うら塩じおの警察を舐なめてしまったらしく、今度は配てし下たの水兵にお金を遣るかどうかして、めいめいの色女を十何人も軍艦に担かつぎ込んで、上シャ海ンハイかどこかの市ころ場しばに売りに行こうとしやがった。……けれども軍艦が沖へ出ると、それが上官に見つかるかどうかしたもんだから、一つ残らず海の中へ放り込ましてしまったのが、やっぱりあのヤングって奴なんだ。……しかもその中で生き残っているのはお前一人なんだからトテモ大切な証人なのだ。俺達は、お前の仲間十何人の讐かたきを取ってやろうと思っているのだから、早く気をシッカリさして返事をしてくれなければ困る。御ごほ褒う美びの金かねはいくらでも遣るから本当の事を云ってくれ……一体お前は何と云ってヤングに欺されたのか。どうして船の中に連れ込まれたのか。そうしてドンナ間違いから海の中に放り込まれるような事になったのか……ナンテいろんなトンチンカンな事を真剣になって訊きくの……。
だけど妾どうしても、それに返事する事が出来なかったのよ。……お前さんたちが云っているのはみんな嘘だ。ヤングはそんなに悪い人間じゃない。悪い奴はあの船の司令官一人だって云ってやろうと思っても、どうしてもその訳を話す事が出来なかったの。……何故っていうと、妾、正気に帰ってからちょうど一週間ばかりというもの、口を利くのが怖くて怖くてしようがなかったんですもの。どうしてもその時の恐ろしさが忘れられなくって﹁ハイ﹂とか﹁イイエ﹂とかいう短かい返事をするのさえ怖くて怖くてたまらない気がしてね。それを無理に口を利こうとすると、歯の根がガタガタ云い出して、すぐに吐きそうになって来るんですもの……仕方がないから丸で唖お者しみたようになって、眼ばかりパチパチさせていたら、警察の人達もとうとう諦らめてしまって、来なくなったようよ。
……だけども、そうして妾が一人ボッチになってから、ウトウトしようとすると、すぐに、あの時の気持が夢になって見えて来て、寝床の中で汗ビッショリになりながら、一生懸命に藻も掻がかせられるの。夢うつつに敷布を噛み破ったり湯タンポを蹴り落したりしてね。その恐ろしさったらなかったわよ。そうして、そんな夢のおしまいがけにはキットあのヤングの悲しい、静かな声が、どこからともなくハッキリと聞えて来て、妾をサメザメと泣き出させたの。眼が醒めてから後あとまでも、妾は、そんな言葉の意味を繰り返し繰り返し考えながら眼をまん丸く見開いて、いつまでも暗い天井を見詰めていたわよ。
そのうちに十日ばかりも経つと、凍しも傷やけの方が思ったよりも軽く済んだし、針金の痕あとも切れ切れになってお化粧で隠れる位に薄れて来たの。それにつれて身から体だがもとの通りに元気付くし、口もどうにか利けるようになって来たので、寝ているわけにも行かなくなって、思い切って舞踏場へ出て見たら、間もなく、あんたが遊びに来たでしょう。
それあ不思議といえばホントに不思議でしようがないのよ。妾はあんたに会ったのが、神様の引き合せとしか思えないのよ。だって初めてあんたに会ったあの晩ね、あの晩から妾はピッタリと、そんな怖い夢を見なくなったのよ。おまけに前と比べると丸で生れかわったように饒おし舌ゃべ娘りになってしまってね……そうしてそのうちに、あんたがたまらない程可愛いくなって来るにつれて、あのヤングが云っていた色んな言葉の本当の意味が、一つ一つに新しく、シミジミとわかって来たように思うの。そうしてヤングから教おそわった色んな遊びをあんたに教えて見たくてしようがなくなって来たの。それも、当り前の打ぶったり絞しめたりする遊びなんかじゃ我慢出来ないの……一と思いにあんたを殺すかどうかして終しまわなくちゃトテモやり切れないと思うくらい、あんたが可愛いくて可愛いくてたまらなくなったのよ。
……妾、それをやっとの思いで今日まで我慢していたのよ。何故って、万が一にも妾からそんな話を切り出したら、あんたがビックリして逃げ出すかも知れないと思ったからよ。……だけど、それがもう今夜という今夜になったらトテモ我慢がし切れなくなっちゃったのよ。
妾はきょうも、いつものように日暮れ前からこの室に這は入いって、お掃除を済まして、ペーチカに火を入れたの。そうしてスッカリお化粧を済ましてから、あんたを待ち待ち昨ゆう夜べの飲み残しのお酒を飲んでいたら、そのうちに室へやの中が静かアに暗くなってね。向むこ家うの屋根の雪の斑まだらと、その上にギラギラ光っている星だけがハッキリと見えるようになって来たじゃないの……妾もうスッカリあの晩と同じ気もちになってしまってね……たまらなく息苦しくて息苦しくて……。アラ……睡っちゃ嫌いやよ。……睡らないで聞いて頂戴ってばさあ……まあ嫌だ。本当に酔っちゃったのね……人が一生懸命に話しているのに……。
……ね……わかったでしょう……あんたにもわかったでしょう。妾のそうした気持ちが……ね……妾、お酒に酔って云っているのじゃないのよ……いいこと……ね。ね。だから妾は今夜こそイヨイヨ本当にあんたを殺そうと思って、ワザワザこの短剣を買って来たのよ。英国出で来きの飛び切りっていうのをサア。一ちょ寸っと御覧なさいってば……このよく斬れること……妾の腕の毛がホラ……ヒイヤリとして……ね。ステキでしょう。いいこと。……この切きっ尖さきであんたの心臓をヒイヤリと刺しとおして、その血のついた刃はさ先きを、すぐにズブズブと妾の心臓に突き刺して死んで終しまおうと思っているのよ……トテモ気持ちのいい心臓と心臓のキッスよ。ヤングが教えてくれた世界一の贅沢な……一生に一度っきりの……。
アラッ……妾今やっと思い出したわ。日本の言葉で、こんな遊びの事をシンジュウっていうんでしょう、ね、ね。
……サア。本気で返事して頂戴よ。睡らないでサア。サアってばサア。……いいわ。妾あんたが睡ってたって構わないから……そのまんま突き刺しちゃうから……いいこと……? ねッ……死んでくれるでしょう。ね……いいこと……殺しても……嬉しい……じゃ……お別れの乾杯よ……ね……そうして寝床へ行くのよ……サア……。