船おや長じの横顔をジッと見ていると、だんだん人間らしい感じがなくなって来るんだ。骸骨を渋しぶ紙がみで貼り固めてワニスで塗上げたような黒いガッチリした凸おで額この下に、硝ガラ子スだ球まじみたギョロギョロする眼玉が二つコビリ付いている。マドロス煙パイ管プをギュウと引ひっ啣くわえた横一文字の口が、旧式軍艦の衝しょ角うかくみたいな巨おお大きな顎あごと一いっ所しょに、鋼鉄の噛バ締イ機トそっくりの頑固な根性を露むき出だしている。それが船ブリ橋ッジの欄クロ干スに両肱ひじを凭もたせて、青い青い秋空の下に横たわる陸お地かの方を凝み視つめているのだ。
そのギロリと固定した視線の一直線上に、巨大な百貨店らしい建物の赤い旗がフラフラ動いている。その周囲に上シャ海ンハイの市ま街ちが展開している上をフウワリと白い雲が並んで行く。
……といったような無事平穏な朝だったがね。昭和二年頃の十月の末だったっけが……。
足音高く船ブリ橋ッジに登って行った俺は、その船おや長じの背うし後ろでワザと足音高く立停まった。
﹁おはよう……﹂
と声をかけたが渋しぶ紙がみ面づらは見向きもしない。何なんしろ船長仲間でも指ゆび折おりの変人だからね。何か一心に考えていたらしい。
俺は右手に提げた黄色い、四角い紙かみ包づつみを船長の鼻の先にブラ下げてキリキリと回転さした。
﹁御註文の西チベ蔵ット紅茶です。やッと探し出したんです﹂
船おや長じはやっと吃びっ驚くりしたらしく首を縮めた。無言のまま六尺しゃく豊かの長身をニューとこっちへ向けて紅茶を受取った。
﹁ウウ……機おや関か長たか……アリガト……﹂
とプッスリ云った。コンナ時にニンガリともしないのがこの渋紙船長の特徴なんだ。取とり付つきの悪い事なら日本一だろう。こんな男には何でも構わない。殴られたらなぐり返す覚悟でポンポン云ってしまった方が、早わかりするものだ。
﹁……昨ゆん夜べ、陸お上かで妙な話を聞いて来たんですがね。今度お雇いになったあの伊い那な一郎って小僧ですね。あの小僧は有名な難船小僧っていう曰いわく附きの代しろ物ものだって、皆みんな、云ってますぜ﹂
俺はそう云いさしてチョックラ船おや長じの顔色を窺うかがってみたが、何の反応も無い。相も変らず茶色の謎スフ語ィン像クスみたいにプッスリしている。無ぶあ愛いそ相うの標本だ。
﹁あの小僧が乗組んだ船はキット沈むんだそうです。Iアイ・IイNナAって聞くと毛けと唐うの高級船員なんか慄ふるえ上るんだそうです。乗ったら最後どんな船でも沈めるってんでね。……だから今度はこのアラスカ丸が危あぶねえってんで、大変な評判ですがね。陸お上かの方では……﹂
これだけ云っても船長の渋紙面は依然として渋紙面である。ネービー・カットの煙けむをプウと吹いた切り、軍艦みたいな顎あごを固定してしまった。しかし黒い硝ガラ子スだ球まは依然として俺の眼と鼻の間をギョロリと凝視している。モット俺の話を聞きたがっているらしいんだ。
﹁あの小僧は小ちっちゃくて容よう姿すが美いいので毛唐の変す態け好べ色え連中が非常に好すくんだそうです。あの小僧も亦また、毛唐の高ハイ級クラスに抱かれるとステキに金が儲もうかるんで、船にばっかり乗りたがるんだそうですが、不思議な事にあの小僧が乗った船で、沈まない船は一艘そうも無いんだそうです。初めてあの小僧を欧州航路に雇チャ傭ータした郵船のバイカル丸が、ジブラルタルで独ハ逸ンのU何号かに魚ヤキ雷イモを喰くわされた話は誰でも知っているでしょう。そん時に漂なが流れボ端ー舟トに這はい上ってハンカチを振ったのが彼あ小い僧つのSOSの振ふり出だしだそうですがね。……それから第二丹洋丸がスコタラ沖でエムデンにアッパーカットを喰わされた時も、あの小僧は丁度、新式救命機の着込み方のモデルにされていたところだったそうで、そのまんま飛込んで助かっちまったんだそうです。……まあ運の良いい奴といえばいえましょうが、彼あ小い僧つの運が良いいたんびに船全体の運命がメチャメチャになるんだから敵かないません。……まだ他にも二三艘、大きな船やつを沈めているんだそうですが、そんなに大きな船でなくとも、チョット乗った木こっ葉ぱぶ船ねでも間違いなく沈めるってんで、迚とても凄すごがられているんです。早い話が房州通がよいの白しら鷺さぎ丸にチョイと乗組んだと思うと、直ぐに横須賀の水雷艇と衝突させる。毛けと唐うの重役の随おと伴もをしてブライトスター石オ油イ社ルの超速自モー働ター艇ていに乗ると羽田沖で筋とん斗ぼ返りを打たせるといった調子で、どこへ行っても泣きの涙の三りんぼう扱いにされているうちに、運よく神戸でエムプレス・チャイナ号のAクラス・ボーイに紛れ込んで知らん顔をして上海まで来た。そいつを、どこかで伊那の顔を見み識しっていた毛唐の一等船客が発見して、あの小ボー僧イと一所なら船を降りると云って騒ぎ出した。そこで今度は事務長が面めん喰くらって、早速小僧を逐おい出だしにかかったが、小僧がなかなか降りようとしない。食堂の柱へ噛かじり付いて泣き叫ぶ奴を、下級船員が寄ってたかって、拳ピス銃トルや鉄パイ棒プを突つき付つけてヘトヘトになるまで小突きまわして、泥棒猫でも逐おい出すようにして桟橋へたたき出してしまった。そこで小僧はエムプレス・チャイナの給ユニ仕フォ服ームのまま生いの命ちか辛らが々らの手バス提ケッ籠ト一ひと個つを抱えて税関の石垣の上でワイワイ泣いているのを、チャイナ号の向い合わせに繋か留かっていたアラスカ丸の船長……貴あな下たが発みつ見けて拾い上げた……チャイナ号へ面つら当あてみたいに小僧の頭を撫なでて、慰め慰め拾い上げて行った……という話なんです。現在、陸お上かでは酒のみ場やでも税関でも海ふ員ねの奴やつ等らが寄ると触さわるとその噂うわさばっかりで持もち切きってますぜ。アラスカ丸の船おや長じはそんな曰いわく因縁、故事来歴附の小僧だって事を、知って拾ったんだか……どうだかってんでね。非ひ道どい奴はアラスカ丸が日本に着くまでに沈むか、沈まないかって賭かけをしている奴なんか居るんですぜ﹂
俺は元来デリケートに出来た人間じゃない。君きみ等らみたいな高等常識を持った記者諸君に﹁海上の迷信﹂なんて鹿しか爪つめらしい、学者振った話なんか出来る柄じゃ、むろんないんだ。尤もっとも若いうちは不良の文学青年でバイロンの﹁海の詩﹂なんかを女学生に暗あん誦しょうして聞かせたりなんかして得意になっていたもんだがね。しかしそれから後のち、永年荒っぽい海上生活を続けて来たお蔭で性しょ根うねが丸で変ってしまった。身から体だこそこんなに貧弱な野郎だが、兇きょ状うじ持ょう揃もちぞろいの機関室でも、相当押え付けるだけの腕うでッ節ぷしと度胸だけは口くち幅はばったいが持っているつもりだ。現に船ふね員じ連ゅ中うから地獄の親方と呼ばれている位だ。……けども、その俺が、この渋紙船おや長じの前に出ると、出るたんびに妙に顔負けしてしまう。いつもこうしてペラペラと安っぽく喋しゃ舌べらせられるから妙なんだ。しかも忠告する気で云っている話が、ツイお伽とぎ話ばなしか何ぞのようにフワフワと浮うわ付ついてしまう。圧おしの利かない事夥おびただしい。
﹁何も御ごへ幣いを担ぐんじゃありませんがね。そんな篦べら棒ぼうな話が在あるかって反対もしてみたんですがね。今まであの小僧が乗った船が一艘残らず沈んだのが事実だったら、今度沈むのも事実に違いない。乗組員全体の生いの命ちにも拘かかわる話だ。何もあの小僧が居なけあ船が出ねえって理りく窟つもあるめえし……お前めえんとこの船おや長じがいくら変かわ者りものだってそんな無鉄砲な酔狂をして乗のり組く員みを腐らせるような馬ば鹿かでもあんめえ。あの小僧の曰いわく因縁、故事来歴を知らねえから平気で雇ったに違ちげえねえんだ。悪い事こたあ云わねえから早く船おや長じに話して、あの小僧を降してもらいな。多おお人ぜ数いの云う事こたあ聴いとくもんだ。あとで必きっ定と後悔するもんだから……てな事を皆みんなして色々云うもんですからね……ハハハ……﹂
船長の表情は依然として動かない。渋紙色の仮マス面クが、頭の上の青空に凍り付いたように動かない。無表情もここまで来ると少々精き神ち異が状い者じみて来る。俺は思い切りブツカルように云った。
﹁今の中うちに降しちゃったらどうです﹂
船長の左の眼の下にピクピクと皺しわが寄った。同時に片目を半分ほど細くして、唇の片隅を上の方へ歪ゆがめた。これがこの船おや長じの笑い顔なんだが、知らない人間が見たらとても笑い顔とは思えない。単なる渋紙の痙ひっ攣つりとしか見えないだろう。
﹁郵船名物のS・O・S・BOYだろう﹂
と船長が嗄しゃがれた声でプッスリと云った。同時に眉まゆの間と頬ほっペタの頸くび筋すじ近くに、新しい皴が二三本ギューと寄った。冷笑しているのだ。
﹁エヘッ、知ってるんですか。貴あな方たも……﹂
﹁ムフムフ……﹂
と船長が笑いかけて煙たば草こに噎むせた。船ブリ橋ッジから高らかに唾つ液ばを吐いた。
﹁ムフムフ、知らんじゃったがね。皆みんな、そう云うとる﹂
﹁皆みんなって誰がですか。どんな連中が……﹂
﹁船ふね中じゅうで云うとるらしい。水夫の兼かねの野郎が代表で談判に来た。ツイ今じゃった﹂
﹁ヘエエ……何と云って﹂
﹁下おろさなければあの小僧をたたき殺すが宜ええかチウてな。胸の処の生なま首くびの刺いれ青ずみをまくって見せよった。ムフムフ﹂
﹁ヘエ。それで……下さないんですか﹂
船長が片目を静かに閉じたり開いたりした。それからネービー・カットの煙けむを私の顔の真まし正ょう面めんに吹き付けた。
﹁……迷信だよ……﹂
﹁それあそうでしょうけどね。迷信は迷信でしょうけどね﹂
﹁ムフムフ。ナンセン小僧をノンセンス小僧に切り変えるんだ。迷信が勝つか。俺達の動かす器械が勝つかだ﹂
﹁つまり一種の実験ですね﹂
﹁……ムフムフ。ノンセンスの実験だよ﹂
﹁……………﹂
二人の間に鉄壁のような沈黙が続いた。船長は平気でコバルト色の煙をプカプカやり出した。俺は、どうしたらこの船長を説き伏せる事が出来るかと考え続けた。
﹁君はいつからこの船に乗ったっけなあ﹂
と船長が突然に妙な事を云い出した。
﹁一昨年の今頃でしたっけなあ﹂
﹁乗る時に機械は検査したろうな﹂
﹁しましたよ。推スク進リュ機ウの切きっ端ぱしまで鉄ハ槌マでぶん殴ってみましたよ。それがどうかしたんですか﹂
﹁ムフムフ。その時に機械の間に、迷信とか、超科学の力とか、幽霊とか、妖ばけ怪もんとか、理外の理とかいうものが挟まったり、引っかかったりしているのを発見したかね。君が検査した時に……﹂
﹁それあ……そんな事はありません。この船の機械は全部近代科学の理論一点張りで出来て動いているんですがね﹂
﹁現い在までもそうかね﹂
﹁……………﹂
﹁そんなら……宜ええじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱たい風ふうや、竜スパ巻ウトや、暗リー礁フをこの船の前コー途スに招よび寄よせる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す﹂
﹁……………﹂
﹁元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最は初なから船に乗らんが宜ええ﹂
俺はギューと参ってしまった。一いち言ごんない……面めん目ぼくない……と思って残念ながら頭を下げた。
﹁ムフムフ。シッカリし給たまえ。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上あがっち来い﹂
船おや長じを探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈かけ出だして行く青服の少こど年もを船おや長じは手招きして呼び上げた。俺が買って来た西チベ蔵ット紅茶の箱を、鼻の先に突つき付つけて命令した。
﹁これを船ケ長ビ室ンへ持って行いて蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ﹂
﹁CAPTAIN﹂と真しん鍮ちゅ札うふだを打った扉ドアを開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異にお臭いがムラムラと顔を撲うつ。その中に厚あつ硝ガラ子スば張り、樫オー材クざいの固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素瓦ガ斯ス筒、電気鎔よう接せつ機、天てん秤びん、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八よう日か巻の時計の下の折おれ釘くぎに、墨メキ西シ哥コかケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物もの凄すごい銀色の拳銃が二挺ちょう、十数発の実弾を頬ほお張ばったまま並んで引っかかっているのだ。
話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独ひ身と生り活も者ので、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅めっ多たにしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏フラ蘭ン西スの大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数すうでも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員擁よう済さい会かいに寄附して、胃いが癌んで死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹きぬ巻まき線せんが気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄すて、作っては切り棄てる事二万哩マイル。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上じょ甲うか板んぱんに駈かけ上る。主メー檣ンマストに群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙ねらい撃うちにして﹁アハハハハ﹂と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引ひき返かえすという変りようだからトテモ吾われ々われ凡俗には寄より付つけない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲デッ板キに持って行くと、﹁アリガトウ﹂と云って、見る片かた端はしから一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後のちになって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗そ記らでペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲まいちまう。……そうかと思うと独ドイ逸ツの潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨にらんで﹁モウわかった。彼きゃ奴つ等らの根拠地と、通信網と、速力がわかった﹂と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛けと唐うの嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震しん駭がいさせながら出しゅ帆っぱんする、倫ロン敦ドンから一気に新シン嘉ガポ坡ールまで、大手を振って帰って来る位の離れ業わざは平気の平左なんだから、到底吾われ々われのアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。
そうした一種の鬼すご気みを含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見みく比らべると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。
毬いが栗ぐりの丸い恰かっ好こうのいい頭が、若い比び丘く尼にみたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁ふちと頬ほおがホンノリして唇が苺いちごみたいだ。睫まつ毛げの濃い、張りのある二ふた重えま瞼ぶた、青々と長い三日月眉まゆ、スッキリした白い鼻筋、紅あかい耳みみ朶たぼの背うし後ろから肩へ流れるキャベツ色の襟えり筋すじが、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給ユニ仕フォ服ームが身から体だにピッタリと吸すい付ついているが、振ふり袖そでを着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生きむ娘すめに見えるだろう。なるほど毛けと唐うが抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐あわれみを乞こうようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。
俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背うし後ろの暗くら闇やみから襲いかかって来たように思ったもんだよ。
俺は紅茶もバナナも良いい加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも﹁オホホホ﹂と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛あい嬌きょ顔うづらと向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣面づらと睨にらみ合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。
ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否いな、恐怖が、予想外に酷ひどいのに驚いた。船おや長じが是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水デッ夫キ連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶ふかを釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽ボイ鑵ラに突つっ込こんで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣やりかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の﹁向むこう疵きずの兼かね﹂がわざわざ鉄梯ばし子ごを降りて、俺に談判を捻ねじ込んで来た位だ。
﹁向う疵の兼﹂というのは恐ろしい出で歯ばだから一名﹁出でば歯か兼ね﹂ともいう。クリクリ坊主の額おでこが脳天から二つに割れて、又喰くい付つき合った創きず痕あとが、眉まゆの間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出でば刃ぼう包ちょ丁うを啣くわえた女の生なま首くびの刺ほり青ものの上に、俺達の太も股もぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝ねだ台いにドッカリと腰を卸おろして出でッ歯ぱをグッと剥むき出したもんだ。
﹁チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船おや長じの処とこへ行って来たんでがしょう。親方ア﹂
﹁ウン。行って来たよ。それがどうしたい﹂
﹁すみませんが船おや長じがあの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水デッ夫キ連中の代表になって、船おや長じの云い草を聞かしてもらいに来たんですが﹂
﹁アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ﹂
﹁お前さん何にも船おや長じに云わなかったんけエ﹂
﹁ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船おや長じは……﹂
﹁ヘエー。何も返事をしねえ﹂
﹁ウン。いつもああなんだからな船おや長じは……﹂
﹁あの小僧を大でえ事じにしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ﹂
﹁馬鹿。頼まれたって引受けるもんか﹂
﹁エムプレス・チャイナへ面つら当あてにした事でもねえんだな﹂
﹁むろんないよ。船おや長じはあの小僧を、皆みんなが寄って集たかって怖がるのが、気に入らないらしいんだ﹂
﹁よしッ。わかったッ。そんで船おや長じの了りょ簡うけんがわかったッ﹂
﹁馬鹿な。何を云うんだ。船おや長じだって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ﹂
﹁インニャ。何も船おや長じを悪く云うんじゃねえんでがす。此う船ちの船おや長じと来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪しゃくに障さわるのはあの小僧でがす。……手前の不い吉やな前こう科らも知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触さわるんで……遠慮しやがるのが当あた前りまえだのに……ねえ……親方……﹂
﹁それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰つぶす気で乗った訳じゃなかろう﹂
﹁顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ﹂
﹁まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ﹂
﹁折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵きずは承知しても他はたの奴やつ等らが承知出来ねえ。可かわ哀いそ相うと思うんなら早くあの小僧を卸おろしてやっておくんなさい。面つらを見ても胸むな糞くそが悪いから﹂
﹁アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか﹂
﹁担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生いの命ちがねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ﹂
﹁よしよし。俺が引受けた﹂
﹁ヘエ。どう引受けるんで……﹂
﹁お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生いの命ちを俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前めえ達たちが勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……﹂
﹁ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私あっ等しらあ手を引きましょうが、しかし機こ関っ室ちの兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲デ板ッ組キの者もんですからね﹂
﹁わかってるよ。それ位の事こたあ﹂
﹁ありがとうゴンス。出でし娑ゃ婆ばった口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ﹂
と会釈をして兼は甲板へ帰った。生いの命ち知らずの兇きょ状うじ持ょうもちばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝へ室やの入口一パイに立たち塞ふさがって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼めつ付きをしながら扉ドアの蔭に犇ひしめいていたものであるが、兼が﹁兄貴達も容赦してくれ﹂と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を開あけて通してやった。平ふだ生んなら甲板から塵ちり一本、機関室へ落し込んでも、只ただはおかない連中であるが……。
そんな訳で、風前の燈とも火しびみたような小僧の生いの命ちを乗せたアラスカ丸が、無事に上シャ海ンハイを出た。S・O・Sどころか時し化け一つ喰くわずに門も司じを抜けて神戸に着いた。それから船おや長じ一流の冒険だが六時間の航コー程スを節つ約めるために、鳴なる戸との瀬戸の渦巻を七千噸トンの巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄ふるえ上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。
横浜で印イン度ド綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩バン香クー坡バゆ行きの木綿類を吃きっ水すい一パイに積つみ込こむ。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石す炭みを、船が割れる程突つっ込こむ訳だが、その作業は平いつ生もの通り二三日がかりで遣るのでさえ相当忙せわしいのに、向むこ岸うぎしの晩バン香クー坡バから突だし然ぬけに大至急云うん々ぬんの電報が来て、二十四時間以内の出しゅ帆っぱんという事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影おか響げとかで、臨エキ時ス人ト夫ラが間に合わないと来たので、機関部の石す炭み運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。
それも一口に地獄と云っただけじゃ局しろ外う者とにはわからないだろう。普通の客メイ船ルボートは別であるが、外国通いの気の利いた荷カー物ゴボ船ートになればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空すき隙まのあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭すみ庫ぐら以外に殆ほとんど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪ゆがみ曲った空くう隙げきに石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世よの生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背うし後ろの空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水タン槽クの鉄てつ蓋ぶたまで突き抜けた鉄骨の隙すき間まに、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸スチ気ームの鉄パイ管プが一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼い吸きが詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後大おお火やけ傷どだ。そこに濛もう々もうと渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊つるした二百燭しょ光くの電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石すみ炭か籠ごを担いで往復してから急に上じょ甲うか板んぱんの冷つめたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒たおれるんだ。ところがブッ倒たおれたと見ると直ぐに、兄イ連れんが舷ふな側ばたに引ひきずり出して頭から潮しお水みずのホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。
﹁見やがれ。コン畜ちく生しょう。死くたばるんなら手際よくクタバレ﹂
といった調子である。残酷なようであるが、限られた人にん数ずで限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽こけ券んにかかわるんだから止やむを得ない。所いわ謂ゆる、近代文明って奴の裡りめ面んには到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。
その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積つみ込こむ石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜なっ葉ぱふ服くを真黒にした二セ等カ機ン関ド士のチャプリン髭ひげが、喘あえぎ喘ぎ駈け降りて来て﹁トテモ手が足りません。何とかして下さい﹂と云うんだ。
﹁馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか﹂
と一いっ喝かつすると﹁それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから﹂と泣きそうな顔をする。
﹁馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ﹂
﹁……でも船長室のボーイが遊んでいます﹂
﹁あんな奴が何の役に立つんだ﹂
﹁……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……﹂
﹁君から船長にそう云い給え﹂
﹁ドウモ……そいつが苦手なんで﹂
﹁よし。俺が云ってやろう﹂
忙がしいのでイライラしていた俺は、二チ等ャ運プ転リ手ンの話が五う月る蠅さかったんだろう。そのまま一気にタラップを馳かけ上あがって、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜すすっていた。傍の鉛なま張りばりの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。
俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。
﹁この小僧を借してくれませんか﹂
伊那少年の横顔からサッと血の気が失うせた。魘おびえたように眼を丸くして俺と船長の顔を見みく比らべた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心愕ぎょ然っとしたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。
﹁どうするんだ﹂
﹁石す炭み運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……﹂
﹁臨時は雇えないのか﹂
﹁急には雇えません。二十四時間以内の積つみ込こみですからね。明あし日たの間まになら合うかも知れませんが……皆みんなモウ……ヘトヘトなんで……﹂
船長の額ひたいに深い竪たて皺じわが這は入いった。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。
それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮てい寧ねいに拭ふいた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳めを一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。
その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。
船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。
﹁大丈夫だろうな﹂
俺は無言のまま無造作にうなずいた。
俺と一いっ所しょに静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝ガラ子スのような眼めだ球まをギラリと光らした。決然とした低い声で云った。
﹁……ヨシッ……行けッ……﹂
﹁ウワア――アッ……﹂
と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響ひびき、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否いな、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交まじっているのを予感していたのだね。
しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。
﹁ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……﹂
﹁アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ﹂
﹁許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家うちに居るんですから……﹂
伊那少年は濡ぬれたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。
﹁ウハハハハ。何を吐ぬかすんだ小僧。心しん配ぺいしるなって事……俺おらが引受けるんだ。この兼かねが受うけ合おうたら、指一本指ささしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ﹂
兼は横に在った露ロ西シ亜ア製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊つるした。小こさ雨めの中で金モール服がキリキリと廻転した。
﹁致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい﹂
﹁知ってやがったか。ワハハハハハハハ﹂
兼は大口を開あいて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛こわばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額ひたいの向むこ疵うきずまでが左右に開ひらいて笑ったように見えたので……。
﹁……サ柔おと順なしく働らけ。誰も手てめ前えの事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ﹂
小雨の中に肩をすぼめて艙ハッ口チを降りて行く伊那少年の背うし後ろ姿は、世にもイジラシイ憐あわれなものであった。
そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。
犬いぬ吠ぼう埼さきから金きん華かざ山ん沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢やた鱈らに吹くので汽きか鑵んの圧ゲ力ー計ジがナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事夥おびただしい。
一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。
﹁今度は霧が早く来たようだね﹂
﹁すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……﹂
﹁そういえば少し寒さむ過すぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……﹂
﹁紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降おろしたんですか﹂
船長は木像のように表情を剛こわばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。
﹁おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ﹂
﹁ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ﹂
﹁ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう﹂
﹁殺やったんじゃねえかな……兼が﹂
と云ううちに一チー等フ運メ転ー手トが自分でサッと青い顔になった。
﹁……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ﹂
﹁しかし降りるなら降りるで挨あい拶さつぐらいして行きそうなもんだがねえ﹂
﹁ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……﹂
と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺しわを寄せて……硝ガラ子スだ球まをギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。
こうした俺たちの会話は、どこから洩もれたか判わ然からないが忽たちまち船の中へパッと拡がった。
﹁捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ﹂
と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向むこう疵きずの兼かねが、この時に限って妙に落付いて、
﹁居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居おれるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ﹂
と皆みんなを制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆みんなの気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗のぞきまわって行くようであった。
船を包む霧は益ます々ます深く暗くなって来た。
モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千哩マイル近くは来ている。ソロソロ舵かじをE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈はげしいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八浬ノットの経エコ済ノミ速カル度スピードの半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千噸トンの巨体が蟻ありの匍はうようにしか進まなかった。
﹁オイ。どこいらだろうな﹂
﹁そうさなあ。どこいらかなあ﹂
といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。
﹁汽ふ笛えを鳴らすと矢やた鱈らにモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋さびしいもんだなあ﹂
﹁アリュウシャン群島に近いだろうな﹂
﹁サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ﹂
﹁どこいらだろうな﹂
﹁……サア……どこいらだろうな﹂
コンナ会話が交換されているところへ、老人の主しゅ厨ちゅうが飼っている斑まだらのフォックステリヤが、甲板に馳かけ上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立たち停どまった。クフンクフンと空中を嗅かぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠ほえ初めた。
﹁オイ。陸おかだ陸だッ﹂
とアトから跟ついて来た主厨の禿はげ頭あたまが叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。
﹁ウワッ……陸おかだッ……大変だッ﹂
﹁後ゴス退タン……ゴスタン……陸おかだ陸だッ﹂
﹁大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……﹂
ワアワアワアワアと蜂はちの巣を突つついたような騒ぎの中うちに、船は忽たちまちゴースタンして七千噸トンの惰力をヤット喰くい止とめながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断だん崖がい絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額ひたいには皆生なま汗あせが滲にじんだ。
﹁あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽ふ笛えを鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸おかに近いのが知れなかったんだ﹂
﹁機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ﹂
﹁今の島はどこだったろう﹂
﹁セント・ジョジじゃねえかな﹂
﹁……手てめ前え……行ったことあんのか﹂
﹁ウン。飛行機を拾いに行った事がある﹂
﹁何だ何だセント・ジョジだって……﹂
﹁ウン。間まち違げえねえと思う。波なみ打うち際ぎわの恰かっ好こうに見おぼえがあるんだ﹂
﹁篦べら棒ぼうめえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか﹂
﹁ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突つん抜けて白ベー令リン海グへ這は入いっちゃったんだ﹂
﹁間抜けめえ。船おや長じがソンナ半はん間まな処へ船を遣やるもんけえ﹂
﹁駄目だよ。船おや長じにはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟たたられてんだ﹂
﹁でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか﹂
﹁居るともよ。船おや長じがどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗のぞいたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ﹂
﹁ゲエッ。ホントウけえ﹂
﹁……真まっ実たくだよ……まだ驚く話があるんだ。主カカ厨ンの話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島芳よし子こッてえ女知らねえか﹂
﹁知らねえね。○○女優だろう﹂
﹁ウン……あんな女だっていうぜ。毛けと唐うの船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝ねだ台いの下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰くい物ものを領わけてね﹂
﹁フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違ちげえねえ﹂
﹁だからよ。この船の船ふな霊だま様さまア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ﹂
﹁ああ嫌いやだ嫌だ。俺おらアゾオッとしちゃった﹂
﹁だからよ。船みん員なは小僧を見みつ付け次第タタキ殺して船ふな霊だま様さまを浄きよめるって云ってんだ。汽か鑵まへブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ﹂
﹁おやじの量見が知れねえな﹂
﹁ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這は入いってると思うかって機関長に喰くってかかったんだそうだ﹂
﹁機関長は何と云った﹂
﹁ヘエエッて引き退さがって来たんだそうだ﹂
﹁ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威おどかしゃあいいのに﹂
﹁駄目だよ。ウチの船おや長じは会社の宝ほう物もつだからな。チットぐれえの気きま紛ぐれなら会社の方で大目に見るにきまっている。船のり員くみだって船おや長じが桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ﹂
﹁それあそうかも知れねえ﹂
﹁だからよ。晩バン香クー坡バに着いてっからS・O・Sの女めろ郎うをヒョッコリ甲デッ板キに立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰くらわせようって心つも算りじゃねえかよ﹂
﹁フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生いの命ちがけじゃねえか﹂
﹁まったくだよ。船おや長じはソンナ事が好きなんだからな﹂
﹁機関長も船おや長じにはペコペコだからな﹂
﹁ウムウム。この塩あん梅ばいじゃどこへ持ってかれるかわからねえ﹂
﹁まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな﹂
﹁そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか﹂
﹁ああ。いやだいやだ……ペッペッ……﹂
コンナ会話を主メイ檣ンマストの蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃のう霧むに鎖とざされたような気になって……。
それから三日ばかりした真夜中から、波な濤みの音が急に違って来たので眼が醒さめた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年寝ベッ床ドの中に起たち上あがった。
同時に船ブリ橋ッジから電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧むて笛きをやめる。探照燈を消す。機関室は生き上あがったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。
﹁石炭はドウダイ﹂
﹁桑シス港コまで請け合うよ。霧は晴れたんかい﹂
﹁まだだよ。海コー路スは見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ﹂
﹁位置も方角もわからねえんだな﹂
﹁わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女カシ帝オ星ペ座ヤが、ちょうどそこいらと思う近きん処じょへウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ﹂
﹁アハハハ。S・O・Sはどうしたい﹂
﹁どっかへフッ飛んじゃったい。船おや長じは晩バン香クー坡バから鮭さけと蟹かにを積んで桑シス港コから布ハワ哇イへ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ﹂
﹁安心したア。お休みい……﹂
﹁布ハワ哇イでクリスマスだよオオ――だ……﹂
﹁勝手にしやがれエエ……エ……だ……﹂
﹁アハアハアハアハアハ……﹂
ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。
夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩バン香クー坡バとは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被かむった聖セントエリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆あきれ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外はずれてしまっていたのだ。
そればかりではない。
船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法ほ螺らを吹いても、あの波な濤みのスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺こん青じょ色ういろの大山脈が、海抜五千米メー突トルの聖セントエリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯はてしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千噸トンだから荷カー物ゴボ船ートでは第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木こっ葉ぱも同然だ。
一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰かっ好こうの聖セントエリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗のぞいてもチットも霞かすんで見えない。山腹を這はう蟻ありまで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真まっ逆さか落おとしに七千噸の巨体が黒くろ煙けむりを棚たな引びかせて辷すべり落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推スク進リュ器ウの泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。
……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一刹せつ那な、次の波の横っ腹に艦トッ首プを突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦トッ首プの甲デッ板キをタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜もぐり込む。何なんしろ船ふな脚あしがギッシリと重いのだから一度、大きな波やつにたたかれると容易に浮き上らない。船ケビ室ンという船ケビ室ンの窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖とざされたまま、堅パー板テカルや、内キー竜ルソ骨ンが、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材スト料レン強グス弱・オブ・マテリヤルスの公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮しお煙けむりを捲まき立たてながら、文字通り千せん仭じんの谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝ベッ床ドにジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。
﹁オイオイ。機関長か……﹂
船長室から電話がかかる。
﹁僕です。何か用ですか﹂
﹁ウン。もっとスピードが出せまいか﹂
﹁出せますが、何な故ぜですか﹂
﹁船がチットも進まんチウて一チー等フ運メ転ー手トが訴えて来きおるんだ﹂
﹁今十六節ノット出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ﹂
﹁馬鹿。出せと云ったら出せ﹂
﹁ドレ位ですか﹂
﹁十八ばっか出しちくれい﹂
﹁最フ大ル限ですね﹂
﹁ウン。石す炭みは在るかな﹂
﹁まだ在ります。全フ速ル力で四五日分……﹂
﹁……ヨシ……﹂
ガチャリと電話が切れたと思うと、やがて船ふな腹ばらを震しん撼かんする波な濤みの轟お音とが急に高まって来た。タッタ二節ノットの違いでも波が倍以上大きくなったような気がする。又実際、船体のコタエ方は倍以上違って来るので、石炭の消費量でもチットやソットの違いじゃない。
そのうちに高緯度の癖で、いつとなく日ばボンヤリと暮れて、地獄座のフットライト見たいなオーロラがダラダラと船スタ尾ーンにブラ下った。その下の波の大山脈の重なりを、夜通しがかりで白しら泡あわを噛かみながら昇ったり降ったり、シーソーを繰り返して翌あくる朝の薄明りになってみると、不思議な事に船ふ体ねは、昨きの日うの朝の通り聖セントエリアスとフェア・ウェザーの中間に船首を固定さしている。昨きの日うから固定していたんだか、夜の間に逆戻りしたんだかわからない。
﹁どうしたんだ﹂
﹁シッカリしろ﹂
とか何とか運転手と文句を云い合っているうちに、昨きの日うの朝の通りの白い太陽がギラギラと出て来た。空気が乾燥しているから岸の形がハッキリしている。山腹を這はう蟻ありの影法師まで見えそうである。
流さす石がに沈着な船長もコレには少々驚いたらしい。船ブリ橋ッジに上のぼって、珍らしそうに白い太陽を凝視している。その横に一等運転手がカラも附けないまま寒そうに震えている。
﹁逆戻りしたんだな﹂
﹁イヤ。波に押し戻されているんです。十八節ノットの速スピ力ードがこの波じゃチットモ利かないんです﹂
﹁そんな馬鹿な事が……﹂
﹁いや実際なんです。去年の波とはタチが違うらしいんです﹂
﹁おんなじ波じゃないか﹂
﹁イヤ。たしかに違います﹂
一等運転手と船長がコンナ下らない議論をしているところへ、俺は危険を冒おかして梯ラ子ダを這い登って行った。船長は、真向いの聖セントエリアスの岩山に負けない位のゴツゴツした表情で云った。
﹁モウ……スピードは出ないな。機おや関か長た……﹂
﹁出ませんな。安バ全ル弁ブが夜通しブウブウいっていたんですから﹂
﹁……弱ったな……﹂
この船長が、コンナ弱音を吐いたのを俺はこの時に初めて聞いた。
﹁……妙ですねえ。今度ばかりは……変テコな事ばかりお眼にかかるじゃないですか﹂
﹁あの小僧を乗せたせいじゃないかな。チョットでも……﹂
と一等運転手がヨロケながら独ひと言りごとのように云った。蒼あお白じろい、剛こわばった顔をして……俺は強く咳せき払ばらいをした。
﹁エヘン。そうかも知れねえ。しかし最も早う船には居ねえ筈だからな﹂
船長は何も云わなかった。苦い苦い顔をしたまま十八倍の双眼鏡を聖セントエリアスに向けた。
三人はそのまま気きま拙ずい思いをして別れたが、それから第三日目の朝になっても、依然としてフェア・ウェザーとセント・エリアスが真正面に見えた時には、流さす石がの俺も、ジイイーンと痺しびれ上るような不思議を、脳髄の中心に感じた。同時に何ともいえない神秘的な気持になって、胸がドキドキした事を告白する。自分の魂が、船体と一所に、どうにもならない不可思議な力にガッシリと掴つかまれているような気がしたからだ。
石のように固こわばった俺と、一チー等フ運メ転ー手トと、船長の顔がモウ一度、船長室でブツカリ合った。
﹁ここいらを北上する暖流の速力が変ったっていう報告はまだ聞きませんよ﹂
運転手が裁判の被告みたような口調で船長に云った。船長が他よそ所ご事とのようにネービー・カットの煙を吹いた。
﹁ムフムフ。変ったにしたところが、一時間十八節ノットの船を押し流すような海流が、地球表面上に発生し得うる理由はないてや﹂
と飽くまでも科学者らしく嘯うそぶいた。俺もエンチャントレスに火を付けながら首うな肯ずいた。
﹁とにかく俺のせいじゃないよ。石炭はたしかに減っているんだからな﹂
一チー等フ運メ転ー手トも眼を白くしてコックリと首うな肯ずいた。同時に一層青白くなりながら白い唇を動かした。
﹁……何か……あの小僧の持物でも……船に……残っているんじゃ……ないでしょうか﹂
船長は片目をつむって、唇を歪ゆがめて冷笑した。しかし一等運転手は真まが顔おになって、真剣に腰を屈かがめながら、船長室内のそこ、ここを覗のぞきまわり初めた。おしまいには船長と俺が腰をかけている寝ねだ台いまでも抱え上げて覗いたが、寝台の下には独ドイ逸ツや仏フラ蘭ン西スの科学雑誌が一パイに詰まっているキリであった。ボーイのスリッパさえ発見出来なかった。
とうとう船全体が、動かす事の出来ない迷信に囚とらわれて、スッカリ震え上がらせられてしまった。乗組員の眼めつ付きは皆みんなオドオドと震えていた。
……船が動かない……S・O・S小僧の祟たたりだ……。
晴れ渡った青い青い空、澄み渡った太陽。静かな、切れるような冷つめたい風の中で、碧へき玉ぎょくのような大おお濤なみに揺られながらの海難……。
……行けども行けども涯はてしのない海難……S・O・Sの無電を打つ理由もない海難……理由のわからない……前代未聞の海難……。
﹁サアサア。みんな文句云うところアねえ、在りったけの石す炭みを悉みん皆な、汽か鑵まにブチ込むんだ。それで足りなけあ船ダン底ブロの木綿の巻ロー荷ルをブチ込むんだ。それでも足りなけあ俺から先に汽か鑵まの中へ匍はい込むんだ。ハハハ。サアサア。みんな石す炭み運びだ石す炭み運びだ……﹂
事実石炭は最も早う、残りがイクラも無かったのだ。横は浜まで積つみ込こんだ時の苦労を逆に繰返して、飛んでもない遠方から掘り出すようにしいしい、機関室へ拾い集めるのであったが、その作業を初めると間もなく、残のこ炭りを下し検た分みに廻わった二等機関士のチャプリン髭ひげが、俺の部屋へ転がり込んで来た。
﹁……タ……大変です。S・O・Sの死骸が見つかりました﹂
﹁ナニ。S・O・S……伊那の死骸がか……﹂
﹁エエ。そうなんです……ああ驚いた。ちょっとその水を一パイ。ああたまらねえ﹂
﹁サア飲め。意気地無し。どこに在ったんだ﹂
﹁ああ驚いちゃった。料理部屋の背うし面ろなんです。あすこの石す炭みの山の上にエムプレス・チャイナの青い金モール服を着たまんま半腐りの骸骨になって寝ていたんです。イガ栗頭の恰かっ好こうがあいつに違いないんですが﹂
﹁骸骨……?……﹂
﹁ええ。あそこは鉄パイ管プがゴチャゴチャしていてステキに暑いもんですから腐りが早かったんでしょう。白い歯を一パイに剥むき出してね。蛆うじ一匹居なかったんですが……随分臭かったんですよ﹂
俺は黙って鉄てつ梯ばし子ごを昇って、中ちゅ甲うか板んぱんの水夫部屋に来た。入口に掴つかまって仁にお王う立だちになったまま大声で怒鳴った。
﹁おおい。兼かね公こう居るかア。出でっ歯ぱの兼公……生なま首くびの兼公は居ねえかア……﹂
﹁おおおオ――……﹂
と隅ッコの暗い寝かい台こだ棚なから、寝ぼけたらしい声がした。
﹁誰だあ……﹂
﹁おれだあ……﹂
﹁おお。地獄の親方さんか。これあどうも……﹂
﹁済まねえが一ちょ寸っと、顔を貸してくれい﹂
﹁ウワアア。とうとう見付かったかね﹂
﹁シッ……﹂
と眼顔で制しながら兼公を水夫食堂へ誘い込んだ。天井の綱にブラ下りながら兼に金き口ん煙ぐ草ちを一本呉くれた。兼はしきりに頭を掻かいた。
﹁どうも横は浜まじゃ、警察が怖こわーがしたからね。つい秘ない密しょにしちゃったんで……﹂
﹁石す炭み運びの途中で殺やったんか﹂
﹁図ずぼ星しなんで……ヘエ。もっとも最はじ初めから殺やる気じゃなかったんで、みんながあの小僧は女だ女だって云いましたからね。仕事にかからせる前にチョット調べて見る気であすこに引っぱり込んだんで……ヘエ……﹂
﹁馬鹿野郎……そんで女だったのか﹂
﹁それがわからねえんで……あすこへ捻ねじ伏せて洋服を引んめくりにかかったら恐ろしく暴れやがってね﹂
﹁当あた前りまえだあ……それからどうした﹂
﹁イキナリ飛び付きやがって、ここん処とこをコレ……コンナに喰くい切りやがったんで……﹂
兼は菜なっ葉ぱふ服くとメリヤスの襯シャ衣ツをまくって、左腕の力ちか瘤らこぶの上の繃ほう帯たいを出して見せた。
﹁まだ腫はれてんで……ズキズキしてるんですがね……恐ろしいもんですね﹂
﹁間抜けめえ。そん時に手てめ前え裸はだ体かだったのか﹂
﹁エヘヘヘヘヘ﹂
﹁変な笑い方をしるねえ。それからどうした﹂
﹁わっしゃカーッとなっちゃってね。コイツ奴め、降りるといったって他の船へ乗れあ、又、災わ難ざをしやがるんだからここで片付けた方が早道だ。男だか女だか殺おとしてから検しら査べた方が早道だと思っちゃったところへ、血だらけの口をしたS・O・Sの野郎が、私の横ッ面つらへ喰い切った肉をパッと吹っかけて﹁悪魔﹂とか何とか悪態を吐つきやがったんで……手てめ前えの悪魔は棚へ上げやがってね。……おまけに後で船おと長っさんに告いい訴つけてやるから……とか何とか吐ぬかしやがったんでイヨイヨ助けておけないと思って、首ッ玉をギューッと……まったくなんで……ヘエ……﹂
﹁非ひ道どい事をするなあ。そんで女だったかい﹂
﹁……それがその……野郎なんで……﹂
﹁プッ。馬鹿だなあ。それからどうしたい﹂
﹁それっきりでさ。……ウンザリしちゃって放ほったらかして来ちゃったんです﹂
﹁何な故ぜ海に投ほうり込まねえ﹂
﹁それが誰にも見つからねえように放り込みたかったんで……親方や機ダン関ブ室ロの兄あに貴き達にも申し訳ねえし、おまけに上シャ海ンハイで、あっしが談判に行った時に船おや長じが入歯をガチガチさして、こんな事を云ったんです。あの小僧をタタキ殺すのに文句はないが……﹂
﹁チョット待ってくれ。たたき殺すのに文句はないって云ったんだね﹂
﹁そうなんで……しかし死骸は勿論、髪の毛一本でも外へ持ち出したら只ただはおかないぞッ……てね。そう云って船おや長じに白に眼らみ付けられた時にゃ、あっしゃゾッとしましたぜ。あんな気味の悪い面つらア初めてお眼にかかったんで……ヘエ……まったくなんで……﹂
﹁フーム。妙な事を云ったもんだな﹂
﹁そう云ったんで……何だかわからねえけども……万一見付かって首になっちゃ詰まらねえ。事によるとあの二挺ちょうのパチンコで穴を明あけられちゃ叶かなわねえと思って、そのまんまにしといたんです。まったくなんです﹂
﹁案外意気地がねえんだな……手てめ前えは……﹂
﹁まったくなんで……それからっていうものあの死骸の事が気になって気になって今日は運び出そうか、明あ日すは片付けようかと思ううちに、だんだん船にケチが附いて来るでしょう……死骸は腐って手が付けられなくなって来るし、わっしゃもう少しで病気になるところだったんで……もう懲こり懲ごりしました。どうぞ勘かん弁べんしておくんなさい。あやまっても追おっ付つくめえけんど……﹂
﹁ハハハ。そんな事こたアもうどうでもいいんだ。今日は文句はねえ。手てめ前え行って大ビラであの死コ骸ツを片付けて来い。船おや長じには俺が行って話を付けてやる﹂
﹁ヘエッ。本当ですかい親方ア﹂
﹁同じ事を二度たあ云わねえ﹂
﹁……ありが……ありがとう御ご座ざんす。すぐに片付けます。……ああサッパリした﹂
﹁馬鹿野郎……片付けてからサッパリしろ﹂
兼はS・O・Sの金モールの骸コ骨ツを胴どう中なかから真まふ二たつにスコップでたたき截きって、大きなバケツ二杯に詰めて出て来た。甲板に出て生いの命ちづ綱なに掴つかまり掴まり二つのバケツを海の上へ投げ出したが、その骨の一片が、波にぶつかって、又、兼の足元へ跳ね返って来た時、兼は真青になってその骨を引ひっ掴つかむと危あぶなくツンノメリながら、
﹁南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つッ……﹂
と遠くへ投げた。
それは兼の一生懸命の震え上った念仏らしかったが、とてもその恰かっ好こうが滑こっ稽けいだったので、見ていた俺はたった一人で腹を抱えさせられた。
アラスカ丸は、それから何の故障もなくスラスラと晩バン香クー坡バへ着いた。
同じ波の上を、同じスピードで……馬鹿馬鹿しい話だが、まったくなんだ。
ところで話はこれからなんだ。
船長の横顔は見れば見るほど人間らしい感じがなくなって来るんだ。
骸コ骨ツを渋紙で貼はり固めてワニスで塗り上げたような黒光りする凸おで額この奥に、硝ガラ子スだ玉まじみたギラギラする眼めだ球まが二ふた個つコビリ付いている。それがマドロス煙パイ管プを横一文字にギューと啣くわえたまま、船ブリ橋ッジの欄てす干りに両肱ひじを凭もたせて、青い青い空の下を凝視しているんだ。その乾ひか涸らびた、固定した視線の一直線上に、雪で真白になった晩バン香クー坡バの桟橋がある。その向う一面に美しい燈とも火しびがズラリと並んでいようという……ところまで、やっと漕こぎ付けたんだがね。文字通りに……。
その桟橋の上に群がっている人間は、五日ほど遅れて着いたアラスカ丸をどうしたのかと気づかって、待ちかねていた連中なんだ。
﹁S・O・Sの野郎……骸ほ骨ねになってまで祟たたりやがったんだナ……﹂
船おや長じが突だし然ぬけに振返って俺の顔を見た。白い義いれ歯ばを一ぱいに剥むき出して物もの凄すごく哄こう笑しょうしたもんだ。
﹁アハハハハ。イヤ……面白い実験だったね。やっぱり理外の理って奴は、あるもんかなあ……タハハハ。ガハハハハハ……﹂