円燈
飢渇
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 わが熱き炎の都、 都なる煉瓦の沙漠、 沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、 饑うゑにたるトリイトン神の立たち像すがた、 水涸れ果てし噴ふき水あげの大水盤の繞めぐりには、 白はく琺はう瑯らうの石の級きだただ照り渇き痺しびれたる。 そのかげに、紅あかき襯しや衣つぬぎ 悲しめる道化芝居の触ふれ木ぎうち、 自や棄けに弾くギタルラ弾ひ者きと、癪しや持くもちと、 淫たはれの舞の眩めく暈るめき、 さては火ブラ酒ンデイかぶりつつ強ひて転ころがる酔ゑひ漢どれと、 笑ひひしめく盲めくららは西瓜をぞ切る。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 既に見よ、瞬たま間ゆらのさき、 仄ほのかなる愁うれひの文あやにしみじみと 竜りう馬めの羽うらにほひ透き、揺れて縺もつれし 水盤の水ひとたまり。 あるはまた、螺を吹く神の息づかひ 焔に頻し吹ぶきひえびえと沁みにし歌も 今ははや空からびぬ、聴くは饑うゑ疲れ 鉛になやむ地の管くだの苦しき叫さけ喚び。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 虚こく空うには銅あか色ねいろの日の髑どく髏ろ転まろびかがやき、 雲はまた血のごと沈し黙じに鎔とろけゆき影だに留めず。 ただ病める東シロ南ツ風コのみぞ重たげに、また、たゆたげに、 腐れたる翼つばさの毒を羽ばたたく。 七月末の長なが旱ひでり、今しも真昼、 煉獄の苦熱の呵かし責やくそのままに 火くわ輪りん車しや駛はしり、石油泣き、瓦斯の香か喊わめき、 真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。 誰たれぞ、また、けたたましくも、 朱あけの息引き切るるごと、 狂気なす自動車駆るは。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 狂きち気が者ひよ、人轢ひき殺せ。 癪しや持くもちよ、血を吐き尽せ。 掻き鳴らせ、絃いと切るるまで。 打ち鳴らせ、木の折るるまで。 飛びめぐれ、息の根絶えよ。 酔へよ、また娑しや婆ばにな覚めそ。 盲めしひらよ、その赤き腸はらわたを吸へ。 あはれ、あはれ、 この旱ひでりつづかむかぎり、 汝なが飢きか渇つ癒えむすべなし。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。わかき喇叭
苦しげに喇らつ叭ぱ吹く息いき、 苦しげに喇らつ叭ぱ吹く息いき、 汝はゆきていづくにかへる。 心臓のあかきくるめき そを洩れて吹きいづるなる。 なやましき霊たまのひとすぢ いと冷ひやき水の音ねい色ろに。 毒どくふかき邪じや欲よくの谷に 淫いん楽らくの蝮くちばみまとふ、 はたや身は痺しびれとろけて 断たちがたきほだしに悩なやむ。 狂きや念うねんのめくらむ野の辺べゆ 挑いどみ搏うつ硫いわ黄うの炎ほむら、 また苦にがき檻をりのおびえに くれなゐの破はめ滅つをさそふ。 さまだるる恋れん慕ぼのあへぎ 蒸しよどみ、かくてなやめど われは吹く、息もほつほつ うらわかき霊たまの喇らつ叭ぱを。 かげ暗くらき恐おそ怖れの垂たり葉は そのなかに赤き実熟るる。 わが夢ゆめはあなその空に 濡ぬれつつも燃もゆる悲かな愁しみ。 濡れつつも燃もゆるかなしみ そが犠に牲えに吹きいづるなる。 かぎりなき生いの命ちの苦くつ痛う かぎりある胸むねの力ちからに。 あはれ、なほ、喇らつ叭ぱ吹く息いき、 あはれ、なほ、喇らつ叭ぱ吹く息いき、 汝なはゆきていづくにかへる。青き葉の銀杏のはやし
青き葉の銀いて杏ふの林、 細ほそらなる若わか樹きの林。 はた、青き白ひ日るの日ひかげに、 葉も顫ふるふ銀いて杏ふの林。 そのもとを北へかすめる、 ひややけき路みちのひとすぢ、 かすかにも胡こき弓ゆうまさぐり、 ゆめのごと、われはたどりぬ。 青き葉の銀いて杏ふの林 行き行けど路みちは尽きなく。 細ほそらなる若わか樹きのはやし、 頬ほほ白じろの鳴なく音ねもきかず。 すすりなく愁うれひの胡こき弓ゆう、 葉の顫ふるひ、青き日かげ。 さはひとり、われとさすらひ、 われと弾ひき、聴ききもほれつつ、 日もすがら涙さしぐむ、 青き葉のかげをゆく身は。 それとなきもののかぜにも、 弱よわごころ耳しかたむけ。 たちとまり、ながめ、みかへり、 あはれさの絃いとをちからに。 ひそやかに、また、しづやかに、 にほやかに尋とめもなやめば。 薄うすらなる青の絹すず衣しも、 いつしかに露にしなえぬ。 さあれ、なほ弾ひきゆく胡こき弓ゆう、 はてもなき路みちのゆく手に。 いつまでかかくて泣きつつ、 いつまでかかくもあるべき。 あはれ、あはれ、銀いて杏ふの林、 青き青き若わか樹きの林。森の奥
森の奥ほのかにくらし。 夏のすゑ、長月はじめ、 あはれ、日も薄らうすらに、 薄うす黄ぎなる歎なげき沁みゆく 浮は羅う爛の勤きの広葉の青み、 あるはまた大おほ木きの胡くる桃み、 憂わづ愁らひのかげのふかみに、 燃もえのこる熱き日ざしは 黄に透かし暮れて薫れる。 そのなかに妙たへにしづかに 物おもふ白はく馬ばのあかり。 それやはた、夏の日の神 夕ぐれに騎のりやわすれし。 紅くれなゐの手綱の色も、 白がねの鐙も、鞍も、 いとほのに夢の照てる妙たへ ただ白し、ほのかに白し。 そをめぐり秋の笙しやうの音ね 蕭しめやかにひそかに愁ふ。 響かふは角つぬの音ねい色ろか、 病める果みか、饐すえゆく歌か。 かくてまた暗き葉越に 鳩の笛沁みはわたれど。 薄うす黄ぎなる光の透かし、 ひとすぢの昨きそのほめきに、 ほの白う暮れてたたずむ 物おもふ色のしづけさ。 森はいまほのかにくらし。円燈
薄くれ暮がたの谿たに間まの恐おそ怖れ。 今こよ宵ひまたかなたに点ともる 紅くれなゐの円まろき燈ともしび。 そを知るや、知らずや、なほも なやましきにほひの奥おくに うづくまり黙つぐむひとむれ。 真まし白ろなるゆめの水すゐ牛ぎう、 しかはあれど、なべて盲めしひし 獣けものらの重おもき起おき伏ふし。 盲めしひしは瞳のみかは、 ものにぶく、闇やみにくぐもる もろもろのこころごころも。 かくてあな幾いく夜よか経へにし。 言ものいはず、かうべもあげず、 さあれども物もの待まつごとし。 深ふかみゆく恐おそ怖れの沈しじ黙ま。 そのなかに今こよ宵ひも消きゆる 紅くれなゐの円まろき燈ともしび。 四十一年六月尋とめゆくあゆみ
いと高くいと深くいと静しづにいと蕭しめやげる 夜よの森のかげ、暗くらく冷ひやゝなる列つらねのもとを、 われはあゆむ。 いと高くいと暗くいと密みつにいとほのかなる 細ほそらなる赤はん楊のきの列つらね、そのもとの底の底を われはあゆむ。 いと高くいと深く沈みたる憂うれ愁ひのもとを、 真ます素は肌だのましろなる、衣きぬつけぬ常とこ若わかの矜ほこりもて われはあゆむ。 赤はん楊のきのとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、 あはれその枝に色紅き小鳥の如ごとも星の見ゆる。 あはれひとつ いと高くいと深くいと静しずにいと蕭しめやげる 夜よの森のかげ、暗く冷ひややなる列つらねのもとを、 われはあゆむ。 さあれ今言ものいはぬ獣けもの忍びやかに蹤つきぞ来きぬる。 昨きの日ふより去こ年ぞより生あれしより、否あらず、前さき世のよより 蹤つきか来ぬる。 かかる夜よのとある梢哀あはれその空に星の見えつ。 紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、 かかるゆめも。 いと高くいと深くいと冷ひやにいと蕭しめやげる 夜よの森のかげ、ふとし、あな、路みちは落つる。 あらぬ谷間。 哀あはれ哀あはれあらぬ谷にいと暗くらく霊たまや落つる。 真ます素は肌だの悲かな哀しみよ血の香かする荊いば棘らのなかを いかにわけむ。 足あの音とのす、言ものいはぬ獣けもの忍しのびかにひき帰かへすらし。 哀あはれまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたに はたや消ゆる。 忽たちまちにものの呻うめ吟き、やはらなる足に触ふれつつ そこここの血の荊いば棘らあなやその暗くらき底より 赤子啼きいづ。 四十一年六月我子の声
われはきく、生うまれざる、はかりしれざる 子この声こゑを、泣なき訴うたふ赤あかきさけびを。 いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐おそ怖れに。 かの野の辺べよ、信シグ号ナ柱ルは断くび頭きりの台だいとかがやき、 わか葉ば洩もる入いり日ひを浴あびてあかあかと遙はるに笑わらひき。 汽きし車やにしてさてはきく、轢しかれゆく子らの啼なき声ごゑ。 はた旅たびの夕まぐれ、栄はえのこる雲くもの湿しめりに、 前さき世のよの亡なき妻つまが墓はかの辺べの赤あか埴はにおもひ、 かくてまた我われはきく追おも懐ひでの色とにほひに、 埋うもれたる、はかりしれざる子この夢ゆめを、胎たいの叫さけびを。 帰かへりきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、 手たぢ力からのほこりも尽つきて弱よわ心こゝろなやむひととき、 たちまちに心こゝろつらぬく 赤き子の高たかき叫さけびを。 四十一年六月声なき国
声こゑもなき薄くれ暮がたの国、 追おも憶ひでのこなたなるほの暗くらき闇やみ、 哀あはれ、さは冷ひややけき世の沈しじ黙ま、恐おそ怖れの木こかげ、 何いづ処こより見ゆるともなく出いでて来こし思おもひの女をみな 清きよらなる真ます素は肌だの身の独ひとりほのかに暮くるる。 声こゑもなき国の白はく楊やう、 列つら長ながう両もろ側がはに顫ふるへわななき、 色いろ青あをき蝋らふの火のほの暗くらみおびゆるごとく、 広ひろきより狭せばみ暮れゆく其その果はての遠とほき切きれ目めに、 仄ほのかなる噴ふき水あげの香かぞひとり密ひそかに泣ける。 声こゑもなき国のさかひに すすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢ かすかにも色いろ映うつり消えも入る吐とい息きする時、 哀れ、さは光ひかり匂にほはぬ色いろもなく声こゑもなき野に、 ただ寒さむう涙垂れ熟み視つめぬる女をみなの思おもひ。 声こゑもなき国のかなたは あかあかと色いろわかき追おも憶ひでの空。 歓くわ楽んらくの楽がくの音ねよ、悩なやみ添そふ甘き悲ひあ哀いよ、 猛たけり狂くるふ恋れん慕ぼの夢ゆめの此こな方たには聞きこえこそ来こね、 雲くもはただ昨きそのごと紅くれなゐの色にただるる。 声こゑもなき女をみなの思、 熟み視つめつつ、ややにまた暮くれもいためど、 ただ密ひそに頼たのみてし噴ふき水あげのにほひとだえて、 存なが命らへし悩なやみの夢の曲めろ節ぢあも見るによしなみ、 真ます素は肌だの身は悲し冷ひややけき石いしになりゆく。 声こゑもなき薄くれ暮がたの国。 かくていま、追おも憶ひでの空そらはあかあか、 血のごとも雲くもは顫ふるへ楽がくの音ねの慄わななくなかに、 閃ひらめくは聖せい体たい盒ごうの香かの曇くもり、骨も斑まばらに 白しら白じらと浮うかびちり、あはれ早や沈み暈くるめく。幽潭
あはれ、こはもの静しづかなる幽いう潭たんの 深ふかみの心こゝろ――おもむろに瀞とろみて濁る 波もなき胎たいのにほひの水の面おも。 をりをり鈍にぶき蛇のむれ首もたぐれど いささかの音おとだに立てず、なべてみな 重おもたき脳なうの、幽いう鬱うつの色して曇る。 さるほどに日も暮がたとなりぬれば、 あたりの樟くすの薄うすら闇やみしのびにつのる 灰色の妖えう女ぢよの冷ひややきうすわらひ。 さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ 底そこの主ぬし面おもてはかたく縛しばられて、 ただほの白しろき身をなかば、水よりいづる。 ややありて、息いぶ吹きのゆめもやはらかに、 盲めしひし空をうちあふぎ、管くだかたぶけて 吹きいづる石しや鹸ぼんの玉たまの泡あわのいろ ひとつびとつに円まろらかに紅あかみてのぼる、 これやかの若わかくいみじき血のにほひ。 かくしてものの静しづやかにひとときあまり。 ふと、ひらく汀の瞳ひとみくろぐろと、 冷やにならびうかがへる妖えう女ぢよのつらね 肋ろつ骨こつの相あい摩するごとき笑わらひして 灰はひ色いろの髪かみ音おともなくさばくと見れば、 そこここに首もたげゆく蛇のむれ、 ああまたもとの幽いう鬱うつに主ぬし消えしづむ。 かくてまた、鈍にぶく曇れる水の面おも、 濁れる胎たいのもの孕はらむ音おとともなしに、 静じや寂うじやくの深ふかみに呻うめく夜の色。 ほど経へて声も消えゆけば、ああ見よ、いまし 幽いう潭たんの鈍にぶめる空にあかあかと のぼれる玉か、数しれぬ幾いく千せん万まんの新にひ星ほしの華はな。 四十一年六月急瀬
﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、夜に叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 熟み視つむるは死よりも暗き鴆ちん毒どくの 発ほつ作さに頻し吹ぶく水の面おも、 聴け、わなわなとかたかたと千ちよ万ろづ歎く。 時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、 峡かひの底。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、はや叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石。 さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流 真まく黒ろに滴したる音ささと はた、きしきしと泡たぎち噎むせびぬ、まさに 丑満の黒くろ金がね雲ぐもの棺たれ衣ぎぬは七なな岳たけめぐり、 風顫ふ。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、また叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 熟み視つむれど喚わめけど、水は蝮くちばみの 腹なし、縞もひた黒に 磨りては走る夜よの恐おそ怖れ、この夜よもさらに 琅らうの断きり崖ぎしづたひ投とあ網みうつ漁いさりの翁おぢの 火も見えず。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、ひた叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 今はかの末まつ期ごの苦くげ患んひたひたと わななきほそる一刹那、 鯱しやちより疾はやく、棹あげて闇より闇へ、 火もつけず、声せず、一ひと人り丈たけ長ながの髪吹き乱し 舟ふねきたる。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、今叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 一ひと斉ときに驚す破はと慄くひたおもて かとこそ噛めば竜骨は 血の香か滴る鋸を鑢やすりの刃はもて 磨る如く、白歯をきしと一文字に、傷きながら 逃れさる。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、なほ叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 瞬たま間ゆらの膏油と熱き肉ししの香かに 狂へる慾は護謨の火の 断ちぎるるがごとひたわめく、呪のろ詛ひと飢うゑと 悔くいと死と真黒に噎むせぶ血の底に歯を噛みながら 熟み視つめたる。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、なほ叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 熟み視つむれど天てん蝎かつ宮の光だに 影せぬ冥みや府うふ、わなわなと 喚わめけどさらに蝮くちばみは腹磨り奔り、 絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦わな慄なきに 噎むせぶのみ。 ﹃暗い。﹄﹃暗い。﹄ 聴け、夜に叫ぶ髑され髏かうべ、急はや瀬せの小石、 熟み視つむるは死よりも暗き鴆毒の 発ほつ作さに頻し吹ぶく水の面おも、 なほ、きしきしとかたかたと嘆けど、哀あはれ、 億おく劫ごふの窮きはまりあらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく 人の群。二つの世界
色あかき世界のなかに うららにも小鳥さへづり、 色白き世界のなかに ものにぶき駱らく駝だは坐すはる。 ものにぶき駱らく駝だの見るは 白き砂、白き思の星、 えもわかぬ髑どく髏ろのなげき、 ピラミドのたそがれの色 うららなる小鳥のうたは また遠く、ひと世よへだてて 脳なうの内、もだえの熱ねつに、 謔うは言ごとのかずかずうたふ。 かなたには隊カラ商バンの鈴、 こなたにはあかきさへづり。 今け日ふもまた境し立てる スフインクスひとりしづかに。 スフインクス、恐おそ怖れの沈しじ黙ま、 そが胸の象しや形うけ文いも字じの 謎なぞも、あな、半なかばしろく、 はた赤く、聴きき耳みみ澄すます。 あはれ、いま、白き世界の ゆふまぐれ。しかはあれども 色あかき世界の真まひ昼る。 スフインクス、こころは惑まどふ。 四十一年八月暮れなやむ心のあそび
晩おそ夏なつの暮れなやむ日のわがこころ 球びり突ああどをばもてあそぶ、脳のくもりに うしろより煙草のくゆり病ましげに、 なにともわかぬ思きて覗のぞく心地す。 玉ふたつわれの好このめる色したる、 また玉ふたつうち曇る白の円まろみす。 棒きうとりていづれか突かむ。うち見れば 萌黄の羅紗の台だいの面おもほのに顫へる。 その嘆なげき、おぼろげながらわれぞ知る。 いつのゆふべとわかねども負て傷おひし胸の そのにほひ、棒きうとりながらわれぞ知る。 かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。 そを見つつ後うしろにけぶすかの思 なにしか笑わらふ。さあれども暮くるるこころは 色あかき玉もてあそびうちなやむ。 重き煙草にまどはしく眩めく暈らみながら。 いづこにかものなやましきはなしごゑ あるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。 わが脳のなかにか、室むろのうつつにか、 火と点もるごときそのけはひ、遊あそ戯び夜に入る。 四十一年八月工
静しづやかに泣きつつあれば、 わがこころ工もざいくなしぬものとなく、―― 正せい方はう形けいの工もざいくのその壁かべをしも見まもれば そはものにぶき顔の面おも、 面おものなかばを、やはらかき茎のうねりや、 あかあかと蔽おほひ燃もゆめる罌け粟しのゆめ そのかげに、 そのかげに、 盲めしひたる白き眼ふたつ。 あはれその 白き眼ふたつ、 なにか見る、 夕ゆふぐれのもののしじまに。天幕の中
色にぶき毛けお織りの天てん幕と、 そがなかにわがおもひひとりしあなる、 あはれ、盲しひたる白き目に花とりあてて、 そが紅あかき色見むものと燥あせりつつ、さは燥あせりつつ、 色にぶき毛けお織りの天てん幕と いつまでかわれの思おもひのひとりしあなる。 四十一年八月髑髏は熟み視つむ
髑どく髏ろは熟み視つむ、きゆらそおの血の酒さか甕がめの間あひだより、 髑どく髏ろは熟み視つむ、命いのちなくただうち凹くぼむ眼まなこして、 髑どく髏ろは熟み視つむ、忘わすれたる思ひいでんとするが如ごと、 髑どく髏ろは熟み視つむ、寝ねそべりて石しや鹸ぼん玉だま吹く女めが面かほを。 四十一年六月樟の合奏
樟の合奏
初しよ夏かの空そら。 灰くわ白いは色くしよくの雲のもと。 水みぬ沼まのほとり。 ひと叢むらの樟くすのわか葉ばの黄こが金ねいろ 梢こずゑも高く、 濡ぬれ濡ぬるる雨う後ごの夕ゆふべのひとあかり、 入いり日ひに燃えて 潤しめやかに、華はなやかに、 調しらべあはする かなしみの、 よろこびの、 くるしみの 香かも狂くるほしき生せいの曲きよく……夢ゆめの合がつ奏さう…… そのかげに、 赤あかき煉れん瓦ぐわの 変へん圧あつ所じよ、心こゝろ盲めしひし 高かう圧あつの電でん気きの叫わめ喚き音おともなく、 斜ななめに走はしる銅はり線がねの かきむしりゆく火の苦なや悩み。 はたやオゾンの香かのしめり、渦うづ巻まき縺もつれ、 昼ひるも、夜よも、 間まなく、時ときなく、 ひたぶるに暈くるめき、醸かもす死しの恐おそ怖れ、 列つらね立てたる柱はしらには、 ﹃触ふるる者ものかく死しすべし。﹄と 髑どく髏ろあり、ひたと黙つぐめる。 また、見よ暗くらくとろとろと、 曇くもり濁にごれる鈍にび色いろの水みぬ沼まの面おもを。 病やめる壁かべ、 樟くすの調てう楽がく 映うつせども映うつすともなきものの色。 ただに声こえなく、 命いのちなく、 鈍にぶく、重おもたく、 波なみたたず、 淀よどみもせなく、 なべてこれこの世よならざる日の沈しじ黙ま。 鈍にぶく、ぼやけし 忘ばう却きやくの護ご謨むの面おもてを圧おすごとく、 掌てに圧おすごとく、 たまにのみ、太ふとき最ベ低ー音スぞ呻うめくめる。 しかあれ、初しよ夏かの夕ゆふあかり、 灰くわ白いは色くしよくの雲くもの裏うらゆ金きん覆ぷく輪りんに噴ふきいづる 光の楽がくのさと赤あかく、 照てりかへし、湿しめ潤りに燃もゆるひとときよ、 あはれ斉ひとしく、はた高たかく、 しめやかに、華はなやかに、 調しらべいでぬる管オオ絃ケス楽トラの生せいの曲きよく―― かなしみに、 よろこびに、 くるしみに 狂くるひかなづる、 狂くるひかなづる、 狂くるひかなづる 狂くるひかなづる 樟くすの合がつ奏さう……死しのオゾン……… さてしもあはれ、夜よとならば 夜とならば如い何かにかすらむ。 いま、夕ゆう焼やけの変へん圧あつ所じよ 嘲あざけるごとく、 はたや、かの虐ぎや殺くさつの血ちを浴あびしごと、 あかあかと笑わらひくるめく…… 四十四年五月晩夏
くわと照らす夕ゆふ陽ひの光、 噴ふき水あげの霧のしぶきよ。 湿しめらひぬ、蒸むしぬ、ひかりぬ、 さは、苑そのの若木のたわみ、 花の叢むら、草葉のかをり、―― さまざまの薫るおもひに。 こぼれちる水のにほひよ。 日のひかり、雲のうつろひ、 栄はえしぶく麝香の真また珠ま、―― 絶えず、わが夢かしたたる。 ふくらかに霧にうもれて 燃えたわむ色のうれひよ、 うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、―― ゆふぐれの胸のなごみを。 くわと照らす晩夏の光、 尽きせざる夢のしぶきよ。蜩
胸に、はた、 夕日の幹みきに、 つと来り、蜩かなかななげく。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… 黄こが金ねなす細き旋律 せはしげに、また、かなしげに。 かなかなかなかな……かなかなかなかな……。 かくて、また鳴きつつ熟み視つむ、 栄はえあかる思より、 梢より、 実のひとつ落ちむとするを。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… 四十一年六月夏の夜の舟
虫むし啼なける。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… あはれわが小をぶ舟ねぞくだる。 痍きずつけるわかうどの舟ふね。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… はてもなう向むかひてかすむ 白しら壁かべのほのかなる列つら。 そのかげを小舟はくだる、 蒸むし挑いどむ靄のふるへに。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いまし、また水すゐ路ろのはてに、 落ちかかる 弦げん月げつあかく、 そこここのくらみの奥おくに 寝ねおびれて倦うめるものごゑ。 りんりん……すりりん…… 某それの夏なつ、 かかる夜よの港みなとにききし 二にあ上がりの音ねじめはすれど、 あはれそをいづことわかむ。 あたりやや暗くらみふけつつ、 血のごとく 顫ふるふ月つきしろ 沈しづみゆくその香かのなごり。 あなしばし、虫啼なきしきる。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いつしかと真まや闇みのにほひ、 深ふかみゆく恐おそ怖れにつれて はたと虫むし息いきをひそめぬ。 蒸むしあつし、また息いきぐるし。 ……………………………………………… 舟はなほ重おもたくくだる。 ふとに蝋らふの火ひあかり、 病やま人うどの顔ぞいでたる。 内うち部らには時計の響ひびき。 ぎいすちよつ…………………… 重おもき咳せきふたたびみたび、 真まく黒ろなる帷とばりは落ちぬ。 あはれ闇やみ夜よ。 ぎいすちよつ……………………ぎいすちよつ…………………… かくてなほ小をぶ舟ねはくだる。 いづくにかはてなむ旅たびぞ、 そも知しらね、水みづのひとすぢ、 白しら壁かべのはてしなき夜よを。 ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ…… たちまちに閉とざしの扉とびら、 かげ暗くらき大おほ黒くろ金がねの壁かべのもと、小をぶ舟ねはなづむ。 あなあはれ、 ものなべて見わかぬ闇やみよ、 内うちにはた悩なやみか伏ふせる 幾いく百ひやくの沈も黙だの大おほ牛うし。 最いや終はてか、恐おそ怖れの淀よどか、 舟は、あな、音なく留とまる。 りんりん……………………すりりん…… 否あらず、また、おのづからなる 抵あら抗がひのすべなき力 その水に舟押しながる。 ぎいすちよつ………ぎいすちよつ……… がちやがちやがちや……ぎいすちよつ…… がちやがちやがちや……がちやがちやがちや…… がちやがちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや…… はてもなう小をぶ舟ねはくだる。大曲﹃悶絶﹄
色赤きものごゑあまた 脳なうをいで、とどろと奔はしる。―― 逃れゆくわれの足あの音とか、 もの鈍き毛けお織りの黝ねずみ 蹈みにじり、蹈みにじり………… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲ひば雀り。 あはれいま砥とい石しのひびき、 鈍なま刀くらのすべるひらめき。 そのなかを赤きものごゑ 血を滴たらし、とどろと奔はしる。 もの鈍き毛けお織りの夢を 蹈みにじり、踏みにじり………… ら、りら、ら、りら、 かすかに雲雀。 はたと、あな、足あの音と絶え入り、 ただひびく緩ゆるく鈍なま刀くら。 しづかなる皐さつ月きの真昼、 白雲はゆるかにのぼり、 軟なよら風ゆらにゆらるる。 ら、りら、ら、りら、 さへづる雲雀。 いづこにかいづこにか揺ゆら曳びける絃いとの苦なや悩みの……… ﹃……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、 かなしきその日の接くち吻つけにも………﹄ 緩ゆるやかにねぶたき砥とい石し。 ﹃……かなしきその日の接くち吻つけにも、 さまたげ難がたかる﹁我﹂のほこり、 ひたぶる抱きて涙すれど恐おそ怖れと苦なや悩みの………﹄ さあれなほものうき砥とい石し。 ﹃……ああはれ、よしなや、肉にくのおびえの―― 汝なが火のまなざし、 わが血のいどみ、 殺さむ死なむと朱あけに顫ふるふ………﹄ ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 ﹃………殺さむ死なむと朱あけに顫ふるふ………、﹄ 聴くとなき黒オロンの火のきざし 見る見る野の辺べに渦巻きて悶もん絶ぜつすれば、 くわとあがる血しほの烟けむり、 そのなかをわれのものごゑ また見えてとどろと奔はしる。 忍びかにひややかに清きよらなる水のさらめき―― さらめきに角つのあかり、 かなしみの音ねの吐とい息きほのかにおこる。 はたと、また、足あの音と絶え入り、 野はなべて黄たそ昏がれの色。 ほのかなるにほひのそらに、 やや赤く地平は光り、 そこここの水みの面もより 水すゐ牛ぎういづる。 水すゐ牛ぎうのしづけさや、 しづかなる角つのの音ねに物をしおもふ。 しかあれ、鈍なま刀くらの すべる音おと、――砥とい石しのひびき―― ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 しづかにも坐すはる水すゐ牛ぎう、 戦わな慄なきの、かなしみの唸うなりあげつつ、 おもむろにおもむろにあかる不ふ思し議ぎの いと赤き西さい天てんながめ、 恐ろしき、あるものの迫せまりにふるふ。 いづこにか洩れきたるオロンのゆめ……… ﹃……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ 恋の帆ほぶ船ねの―― 空そら色いろの帆もちぎれ、波にぬれて―― 今け日ふまた二ふた人り、 今日また二人、 かなしき島根をさしてかへる………﹄ また鈍き砥とい石しのひびき かなしき光に艫ろのためいき、 かなしき海ゆくわかき夢ゆめの みそらにほのめく星の光、 ああいますべなく、われら帰る。……﹄ ふと起る、この面も彼かの面もに嘲あざ笑わらふ人の諸もろこゑ。 ﹃……苦くるしき挑いどみにせきもあへぬ 恋れん慕ぼの吐とい息きに顫ふるふこころ、 嗚あ呼あこのなやみをいかにかせむ。 さあれど、すべなく帰る二ふた人り。……﹄ 高みゆく砥とい石しの響――鈍なま刀くらの増ふえゆくすべり―― ﹃……朱あけなる接くち吻つけ、痛いたき怨かご言と、 ああまた再ふた度たび抱き泣けど………﹄ また近く暗くらき嘲あざ笑けり。 ﹃……ああかなし、 かなしき光、 われらの光、 内ない心しんのかなしき瞳………﹄ たと跳をどり逃にぐる水すゐ牛ぎう あな、赤あかき血浴びしごとも啼き狂ひ絶ぜつ望まうの唸うなりに奔はしる。 大空は見る見る月の面おもとなり、 たちまち赤き半円の盲めしひし如ごとも広ひろごれば、 一いち時じに響く野の砥石、数かずかぎりなき刃はのにほひ―― はた、赤き此この面も彼かの面もの嘲あざ笑わらひ……あまる空なく おほらかに広み尽くせる、大たい月げつの恐おそ怖れの面おもて、 爛ただれたる眩くる暈めき三みた度び、くわつとして悶もん絶ぜつすれば 見るが間まに血ちけ烟むりあがり、 逃のがれゆく我われのものごゑ また見えてとどろと奔る。 水すゐ牛ぎうの声………千せん万まんの砥石の響……… 苦にがき嘲あざ罵けり………はたや、なほ奔はしる足あし音おと……… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 はたといま聾ろうしぬる。 色…………音…………光………… 四十一年八月大太皷の印象
跳おどりいづ、赤き獣けだもの、 どんどん……… とみかう見、円まろらに笑ひ、はた跳おどる。 どんどん……… あなやいま街まちの角かどより人曲まがる。 どんどん……… また来きたる。 どんどん……… 赤き獣けものはふと消えて幼をさ子なごとなり、 どんどん……… 電車線路を匍はひめぐる。人また見ゆる。 どんどん……… あな、うち転まろぶ人のむれ、音おともころころ。 どんどん……… 幼をさ子なごのうへに重なる。また転まろぶ。 どんどん……… 逃げんと呻うめく間ひまもなく、ひびきものうく、 どんどん……… 鈍き電車は唸うなり来くる。はた、轢しき過すぐる。 どんどん……… 時に真まし白ろの雲の団たま街まちよりのぼり、 どんどん……… かき消きゆる人のあとより どんどん……… また跳おどる赤き獣けだもの どんどん……… とみかう見、盲めしひて笑ひ、はた、傲おごる。 どんどん……… 四十一年八月眼ふたげば
眼めふたげば鳥は囀さへづる。 盲めしひたる色赤き世界のなかに、 疲れたる鳥は囀さへづる。 盲めしひたる色赤き世界のなかに、 また見るは肋あばらのにほひ 光なく、力なく、さあれほのめく。 肋あば骨らぼね泣なきかつ訴うたふ。 ﹃わが骨ほねはわが骨ほねは色いろあかき心こころの楯よ。 かくてはや終つひの墓おく碑つき。﹄ 鳥とりは囀さへづる。 ﹃婆ばら羅も門んの婆ばら羅も門んの塩を嘗なめつる 咎とがゆゑに昼ひるも夜よもかくは啼なくめる。﹄ いづこにか、さはきりぎりす。 盲めしひたる色赤き世界のなかに、 力なきうめきのやから 騒さはぎ立たち、鳥はさへづる。 はた消えてふと見ゆる顔。 その顔はあてに痩せたるかの少をと女め。 少をと女めのなげく。 ﹃あはれ、君、われはもや倦みも死しなまし。﹄ 鳥は囀さへづる。 少をと女めの顔はややありて白き手となり、 疲れたる、葡萄酒を注つぐ顫ふるへして ﹃紅あかき酒、そはわが血潮、 ほどほどに吸すひて去いねかし。﹄ 鳥とりは囀さへづる。 はと眼めひらけば、わがまへに赤あかくちりかふ 光くわ線うせんの光ひかりの団たまのめくるめき。 鳥とりは囀さへづる。 また眼とづれば、泣なきいづる骨ほねの揺ゆら曳びき、 人の顔かほ。はた、きりぎりす。 鳥とりは囀さへづる。かうほね
きけ、あけぼのの香炉に、 連つれ弾ひく夜よ半はのそらだき 薄らひ、ほのにあかれば、 清すが掻がき、やがてもはらに ひとつの香かうのいろのみ 薫くゆりぬ、――あはれ、水みの面もの 後きぬ朝ぎぬ、――誰たをかかへすと、 さは水みな無づ月きのつくゑに 香かうの火くや、かうほね。青き酒
十呂盤
大いなる―― 聞け、大いなる黒くろ金がねの巨きよ人じんの指は 絶えずわが紅こう玉ぎよくの数かぞへの珠たまを 弄ぶ。 何い時つよりか、知らず、 左の掌たなぞこの脈搏うつ上に 水晶の星彫きざむ白壇の桁けた 横たへつ。 見るは、ただ、 蛇じや腹ばらに似たる掌たなぞこの暗き彫ほり刻もの 弾はじく指、また昼ひると夜よとも分かたぬ 天そらの色。 わが珠たまの 上あがれば、ひとつ、劫がふの世に惑星うまれ、 下る時、億おく年ねんの栄えい華ぐわは滅ぶ 加かげ減んそ則く。 斯くて、わが 運はこび正しき紅玉の妙音楽は 極みある命めい数すうの大歓楽に 鳴りひびく。 光明の 大千世界ひとときに叫喚つくる 恐おそ怖れの日、はた、知らず、われと音ねに酔ふ 星の桁。 聞くは、ただ、 宏大無辺天空の寂じや寞くまく遠く 筆走り、たまたまに﹃差引﹄記しるす 夢の音。 さては、また、 わかき巨人が黒くろ金がねの高たか胸むねへだて われは聞く、おほどかに鼓つづみうつなる 心しんの臓ざう。はばたき
聞けとある大おほ海うな原ばらのただなかは 終ひね日もす重おもきあかがねの霧たちこめて ゆたゆたに濤なみこそうねれ、日輪は 凄まじ、黒き血の塊くれと焦げて暈くるめく。 みるかぎり赤道下の炎熱に 鉛のごとき鹹しほ水みづは炎ほのほと燃えて、 海うみ蛇へびの鎌首高く、たまたまに 煌きらめき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。 物なべて気けだ懶るし重し、わだのはら 溶とろけたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ 夜のごとも深まる吐息。しかすがに、 大だい寂じや静くじやうの空高く濃のう霧むをわけて 東より霊智の光しらしらと 見え、かつ、消えぬ、大おほ鳥とりの強きはばたき。青き酒
青き酒、―― など、汝は否いなむ。これやわが深みの炎ほのほ、 また永と久はの秘密の徴しるし、われと聴く 激しき恋の凱かち歌うたに沈みにし色。 ただ刹那、 千ちと年せに一いち度ど現るるかの星こそは、 われとわが醸かみにし酒の火の飛しぶ沫き、―― 濃き幻のしたたりに天そらさへ燬やけむ。 こを飲まば 刹那の刹那、歎く血の歓よろ楽こびにこそ、―― 痛ましき封ふう蝋らふ色いろの汝なが胸も、 焦げつつ聴かめ、 この夜よ半はに音おとなく響く管オケ絃スト楽ラ、 虚無より曳ける青き火の丈たけ長なが髪かみを。空罎
葡萄酒罎の上うは包づつみ、霊たまなるころも、 何の魔か、飽くなき慾の痙ふる攣へもて かく引き裂ちぎり、むざむざと歩み棄てけむ。―― 火の片きれぞ素足にわれと泣かしむる。 いづくに行かば得らるべき命の糧かてぞ。 踏むはただ鉛の路の火の飛しぶ沫き、 死の色つづく高たか壁かべのつらねのそこを 蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。―― たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば 赭あから頬ほの想おもひの族ぞうらとりどりに、 はや、酔ひしれて狂たはれきぬ、あな、わが血にぞ。 かくて、見よ、わが幻まぼろしに転まろぶもの 吸い尽くされし空からの罎びん、――空からなる命、 最いや終はての辻の恐おそ怖れに、ふと青む。炎上
焦げに焦がるる我わが心こころ、そことしもなく聞ゆるは 執しふ着ちやくの日の喚さけ叫びごゑ、黒ずむ悪の火の羽ぶき、 油あぶ日らひ照でりの四よつ辻つじは凄惨として音もなく、 雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。 もそろもそろに滞とどこほる鉛の電車、一ひと片ひらの 命の紙と蝋づけの薄ぶ葉り鉄きの人を吊るしつつ、 黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽むせぶ輪のほめき。 事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。 驚破、炎えん上じやうの火の光、見れどもわかぬ日ざかりに みるみる長く十字劃かきゐすくむ帯の色さなだいろ、 あなと、昏くらめば、後しりへより、戞かつ戞かつ戞かつとふませ、 隙すきこそあれや、たとばかり、鞭ひらめかし、驀まつ然しぐら、 黒き甲かぶとと朱の色の蒸汽喞ぽむ筒ぷの馬ぐるま、 跳をどりぞ過ぐれ、湯は釜に飛しぶ沫きくわつくわと沸たぎりたる紅火
夜よるなり。二人、臨りん終じうの寝ね椅い子すに青み、むかひゐて 毒どく酒しゆを杯はいに。紅くれなゐの燭しよくこそ点ともせ。まのあたり、 無むご言んに凝み視つめ赫かく耀えうの波はど動うを聴きけば、夢ゆめ心ごこ地ち、 浄じや華うげのわかさ、身みも霊たまも紅あかく縺もつるる赤しや熱くねつよ。 火ひは葡えび萄ぞ染めの深ふか帳とばり、花はな毛もう氈せんや、銀ぎんの籠かご、 また、羅らのころも、緑みど髪りがみ、わかき瞳に炎えん上じやうの 匂にほ香ひが熱あつく、﹃時とき﹄の呼い吸き、瞬またたき燻くゆる﹃追おも懐ひでよ。 ﹃恋こひ﹄は華けご厳んの寂じや寞くまくに蒸し照る空気うち煽あふる。 時とき経へぬ唇くちは﹃楽げう欲よく﹄の渇かわきに焦こがれ、心しんの臓ざう 喘あへげば、紅こう火くわ﹃煩ぼん悩なう﹄の血ちい彩ろ薫くんずる眩くる暈めきよ。 朱しゆの蝋ろふ涙るいは毒どく杯はいの紫むらさき擾みだし照り雫しづく。 今こそ蝋ろふは琺はう瑯ろうに炎ほのほのころもひき纏まとひ、 音おとなく溶とくる白びや熱くねつに爛ただれ艶えんだつ弱よわごころ、 無むご言んに泣けば﹃新しん生せい﹄の黄わう金ごん光くわうぞ燃もえあがる。暮愁
暮れぬらし。何い時つしか壁も灰はひ色いろに一ひと室まはけぶり、 盤ばん上じやうの牡ぼた丹んく花わひとつ血のいろに浮び爛ただれて、 散るとなく、心の熱も静じや寂うじやくの薫くゆりに沈み、 卓しよくの上両もろ手てを垂れて瞑めつ目ぶれば闇はにほひぬ。 の外とは物もの古ふりし街まち、風湿める香かうのぬくみに、 寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、 行かう人じんの古めく傘に、薄うす灯ひ照り、大おほ路ぢ赤らみ、 柑かう子じだつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。 わが室むろは夢の方丈、匂やかに名みや香うかうなびき、 遠とほ世よなる暮ぼし色よくの寂さびに哀婉の微ゆら韻ぎを湛へ、 髣髴と女ぢよ人にんの姿光さし続く幾むれ、 白はく鳥てうの歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅らの裾。 そのなかに君は在おはせり。緑みど髪りがみ肩に波うち、 容顔の清すがしさ、胸に薔ばら薇い色ろの薄ぎぬはふり、 情界の熱き波瀾に黒くろ瞳ひとみにほひかがやき、 領ひ巾れふるや、夢の足なみ軽らかに現うつゝなきさま。 ああ、それも束つかの間まなりき。花祭ありし夕ゆふべか、 群ぐん衆じゆうのなだれ長閑かに時はや花りう歌た街まちを流れて 辻辻に山だ車し練る日なり、行きずりに相見しばかり、 高華なる君が風みや雅びも恋ふとなく思ひわすれき。 今行くは追おも憶ひでの影――黄金なす幻追ひて、 衰残の心の大おほ路ぢ暮れゆけば顧みもせぬ 人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ 我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。乱れ織
無花果の園
なにか泣く、野より、をとめよ、 無いち花じゆ果くの汝なが園遠く われは来ぬ。いざ眼をあげよ。 今け日ふもまた葉かげ、実みがくれ、 甘き香の風に日あびて 語らまし。いざ手を交せ。 さは泣くや、夜にか、をとめよ。 汝なが園は焼けぬと。草も、 無いち花じゆ果くの樹も実も無しと。 おお、なべて園はいたまし。 葉も幹も、ああ、実も香かもか、 草の床とこ――恋の巣までも。 さあれ、よし。白しらやはに うるはしき汝なが頬ほの涙 まづぬぐへ。すみれのにほひ。 曾て汝なは春のほこりに、 なに誓ひ、いづれ惜みし この恋と、その古ふる園ぞのと。 ああ、園は野の火びに焼かれて 今は無し。――美うまし追おも憶ひで ただ胸の香かにこそにほへ。 さば尋とめむ、恋こひの歓よろ楽こび。 今け日ふよりは、野のや山まに、谷たにに、 百ゆ合り、さうび、花はなの日ひの栄はえ。 ああ、かくて、終つひの愛あい欲よく。 火ひと燃もえて身みを焼やく夜よにも、 汝なは泣なくや、いかにをとめよ。燕
燕は翔かける、水みな無づ月きの 雲の旗はた手ての濡髪に。―― 暗き港はあかあかと 霽はれぬ、滴したたる帆の雫。 燕は翔る、居留地の 柑かう子じい色ろなす玻まど璃がらす ななめに高く。――ほつほつと 霧に湿しめらふ火のにほひ。 燕は翔かける、葉煙草と オロン薫くゆる和おら蘭んだの 酒楼のまへを。――笛あまた 暮れつつ呻によぶ海の色。 燕は翔かける、花はな柘ざく榴ろ―― 濡るる埠は止と場ばの火あかりに。 かくてこそ聴け、艶やし女よめ等が 猥みだらにわかきさざめごと。珊瑚切
午ひるさがり、 渚なぎさに緩ゆるき波の音。 少をと女めはやがてあてやかに ﹃何なぞ。﹄と答いらへぬ、伏ふし眼めして、 紅き珊瑚の枝あまた 撰えらみつ、切りつ、かろらかに 鋸の歯のきしろへば、 ほそき腕かひなと頬ほのうへに 薔ば薇らいろの靄さとけぶる。 ややありて、 渚なぎさに緩ゆるき波の音。 男は燃ゆる頬を寄よせて ﹃君をおもふ。﹄と忍びかに、 さては手てば速やにうしろより 珊瑚細工の車の柄え かろく廻せば、ためらへる 白しろの上うは衣ぎと髪の毛に 薔ば薇らいろの靄さとけぶる。 のびやかに 渚なぎさに緩き波の音。 少をと女めは、さいへ、あからみて ﹃吾も。﹄とばかり、海の日を 玻璃に透かしつ、やうやうに 形かたちととのふ恋の珠たま 磨きつ、吹きつ、をりをりに 車くるままはせば、美しく 薔薇いろの靄さとけぶる。乱れ織 ――天草雅歌――
わが織るは、 火の無いち花じゆ果くを綴りたる 花はなの猩しや猩うじ緋やうひ。 とん、とん、はたり。 さればこそ 絶えず梭をさ燃え、乱れうつ 火の無いち花じゆ果くの百くだ済らご琴と。 とん、とん、はたり。 聞き恍ほれて、 何い時つか、我が入る、猩しや猩うじ緋やうひ 花はなのまぼろしに。 とん、とん、はたり。 乱れ織、 落つる木の実のすががきに ふとこそうかべ、銀の楯。 とん、とん、はたり。 飜へす 貝ばい多たら羅え葉ふの馬じるし 花はなのまぼろしに。 とん、とん、はたり。 また光る 白き兜かぶとの八まち幡まん座ざ、 火の無いち花じゆ果くの百くだ済らご琴と。 とん、とん、はたり。 乱れ織、 つと空ゆくは槍の列つら。 花はなのまぼろしに。 とん、とん、はたり。 さては見つ、 火の無いち花じゆ果くのすががきに 君が鎧の猩しや猩うじ緋やうひ。 とん、とん、はたり。 われは、また 花はなのまぼろしに 白き領ひ巾れふる。百くだ済らご琴と。 とん、とん、はたり。 そのときに、 馬は嘶く、しらしらと、 火のの無いち花じゆ果くに。 とん、とん、はたり。 あはれ、いま 花はなのすががきに 再び擁いだく、君と我。 とん、とん、はたり。 天そらも見ず、 被かつぐは滴したる蜜の音、 君が鎧の猩しや猩うじ緋やうひ。 とん、とん、はたり。 こは夢か、 刹那か、尽きぬ幻まぼろしか、 花はなの梭をさの音。 とん、とん、はたり。高機 ――天草雅歌――
高たか機はたに 梭なげぬ。 きり、はたり。 その胸に 梭なげぬ。 きり、はたり。 その高機に、 その胸に きり、はたり。顛末 ――天草雅歌――
﹃花ありき、われらが薔さう薇び、 摘まれにき、われらが薔さう薇び。 かくて、また、何い時つとしもなく 凋みにき、われらが薔さう薇び。﹄ あはれ、炉ろに凭よればかならず、 顛もと末すゑはかかりきといふ わが媼をうな、その日の薔さう薇び、 ﹃何ゆゑ。﹄と問へば、かくこそ、 火にいぶる紅き韈したうづ つと退ひきて噎むせ入りながら、 ﹃子らよ、そは、ああ、その薔さう薇び あまりにも紅あかかりしゆゑ。﹄ためいき
今しがた、夜やく会わいははてぬ。 花はな瓦が斯すのほそきなげきに 絹きぬ帷とばり紅あかき天びろ鵝う絨ど、 散ちり藉しける花はな束たばのくづ、 おぼろげに室むろは青あをみて、 うらわかき騎き士しが拍はく車しやの 音ねの乱みだれ、舞まひの足あしぶみ、 頬ほのほてり、かろきさざめき、 髪かみあぶら、あはれ、楽がく声じやう、 あたたかに交まじりみだれて ゆめのごと燻くゆりただよふ。 そのなかに、水みづのつめたさ ちらぼひぬ、これや、一ひと夜やを 伴つれもなく青あをみしなへし 女をみ子なごがわかきためいき。時鐘
身にか沁しむ。――﹃わが世がたりも はや尽きぬ。興きようもなき事こと。 わかうどよ、紅あかき炉ろの火に 美しき足袋をな焼きそ。 かの宵の恋にもまして うそ寒き夜にもあるかな。﹄ 老をう媼なかくつぶやきながら 力なう柴折りくべぬ。 そともには雪やふるらむ。 燃ゆる眼にわかきは見あげ、 言葉なく、またうつぶきぬ。 ひとしきり、沈しじ黙まやぶれて、 煤すすけたる江戸絵の壁に 禁軍の紅こう帽ばうあかり、 はちはちと火ひの粉こ飛とびちり、しづまりぬ。 九時にかあらむ。 ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。若し
炉ろの椅子に我ありとせよ、 また火あり熾さかれりと見よ。 棚の上への小さき自めざ鳴ま鐘し 鳩いでて三つと鳴かぬ間、 わが唇くちは汝がくちに、 頸うなじまき、ただ火のもだえ、 また韈たびの焦ぐるも知らね、 さいへ、夏、我やはた、 火の気けなき炉ろに椅子もなし、 人妻よ、安かれ、汝なれも。たはれ女
﹃やよ、しばし、 そのうつくしきわかうどよ、 君はいづこへ。﹄﹃君は、など。﹄ ﹃美うま男しを、あはれ、いつの日か 君に見えけむ。﹄﹃しかはあれ、 われはえ知らず。﹄﹃さな去にそ、 その御みひ瞳とみのうつくしさ、 いかで忘れむ。﹄﹃さあれ、など、﹄ ﹃まづ、おきたまへ、原のぬし?﹄ ﹃いな、﹄﹃さは知りぬ、蜂須賀の 君か。﹄﹃いな、いな。﹄﹃ほ、ほ、さても、 御みと歳しは。﹄﹃十九。﹄﹃はしけやし、 法科のかたか。﹄﹃いな。﹄﹃いなと、 さらばいとよし。さて、君は いづこへ。﹄﹃麻布、君は、また。﹄ ほほ、わすられぬ情こひ人びとを 招ぎに。﹄とばかり、かたへなる 自働電話の火のとびら たわやに開あけて、つと入りぬ。驢馬の列 ――かかる詩の評家に――
驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。 見よ、のろのろの練ねり足あしに、 鼻も眼もなきひとやから 載せて、うなだれ、呻によびたる。 驢馬の列つらねぞ街まちを行く。 鳴くは通あけ草びの変へん化げらか、 また、耳もなきひとやから 口のみあかくただれたる。 驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。 あはれ、終ひね日もす、手さぐりに 生なま灰はひ色いろの怪けのやから、 のへらのへらと鞭ふれる。 驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。 もとより、人の身ならねば、 色もにほひも歌ごゑも 嗅かぐすべはなし、罵れる。 驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。 ただ戸に咲ける罌け粟しひとつ 知らえぬ汝なれ等ら、いかで、さは 深き館やかたの内ない心しんを。 驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。 すでに罵る汝なが敵あだは 白はく馬ばに抱く火の被かつ衣ぎ 千せん里りかなたのくちつけに。落雷
落雷
静まりてなほもしばらく 霧のぼる高たか原はらつづき 爛ただれたる﹁時﹂ははるかに、 恐ろしき苦悩をはこぶ。 驟には雨かあめまたひといくさ、 走りゆく雲のひまより かろやかに青ぞら笑ひ、 日の光強く眩しく 野はさらに酷熱のいろ。 腥なまくさきオゾンのにほひ 雫しづくする穂麦のしらみ、 今裂けし欅けやきの大おほ木ぎ 燥いるがごと疼うづくいたでに 脂やに黒くしたたるみぎり、 油蝉ぢぢと鳴き立つ。 根がたには蝮まむしさながら 髪あかき乞こつ食じきひとり 仰向けに面めん桶つうつかみ、 見よ、死せり。雷らい火くわにゆがむ 土いろの冷ひやき片頬に 血の雫――濡れて仄めく 一輪の紅きなでしこ。長月の一夜︵初稿︶
長月の鎮守の祭まつり 夜もふけて天そらは険しく 雨もよひ、月さしながら 稲妻す、濃雲をりをり 鉛いろ赤く爛れて 野に高き軌道を照らす。 このあたり、だらだらの坂 赤は楊ん高き小学校の 柵尽きて、下は黍畑 こほろぎぞ闇に鳴くなる。 いづこぞや、女声して 重たげに雨戸繰くる音。 大師道、辻の濃こぎ霧りは、 馬やどのくらめきあかりに 幻燈のぼかしの青み 蒸しあつく、ここに破やれ馬車 七つ八つ泥にまみれて、 ひつそりと黒う影しぬ。 泥ぬか濘るみは物の汗ばみ 生なまぬるく、重き空気に 新らしき木もく犀せいまじり 馬うま槽ぶねの臭くさ気みふけつつ、 懶ものうげのさやぎはたはた 夏の夜の悩なやみを刻む。 足音す、生血のにじみ しとしとと、まへを人かげ おちうどか、はたや乞食か、 背に重き佩どう嚢らんになひ、 青き火の消えゆくごとく 呻きつつ闇にまぎれぬ。 嗚呼今か畏おそ怖れの極み、 轡がち虫やがちやは調子はづれに 噪わめきつつ、はたと息絶え、 落ちかかる黄こが金ねの弦ゆづる 心臓の喘あへぎさながら また黒き柩ひつぎにしづむ。 終列車とどろくけはひ。 凄まじき大雨のまへを 赤煉瓦高きかなたは 一面に血潮ながれて 野は紅あかく人死ぬけしき、 稲妻す、――嗚呼夜は一時。蹠
海ちかき真まや闇みの狭はざ間ま、 夜よの火の粉まひふるなかに 酒の罎びんとりて透かしぬ、 はしりゆく褐くり色いろの顔、 汽車ぞいま擦れちがひぬる。 かたむけぬ、うましよろこび、 いな、胸にしらべただるる 煉獄の火のひとしづく。 時に、誰たぞ、こん、こん、か、かん、 槌つらね、蹠あなうらうつは。 糸崎と子らがよぶこゑ。そぞろありき
風寒き師しは走すづ月き、それの港を われひとり、夕暮のそぞろありきす。 薄闇のほのかなる光のなかに 老しに舗せ立つひと町は寡やも婦めのごとく われゆゑに面おも変がはり、かくや病みけむ。 人あまた、はかなげにそともながめて 石のごと店みせ店みせに青みすわりき。 たまたまに、灯あかりさす格かう子しはあれど 柩ひつぎうつ槌つちの音おとただにせはしく、 煉瓦つむ空あき地ちには、あはれ誰が子ぞ、 心しん中ぢうの数へぶし拙つたなげながら 音ねもうるむ連つれ弾びきのかなしきしらべ、 いつになく旅人の足をとどめて、 灯ひは青く柳立つ闇にともりき。 港には浪の音ねも鈍にぶにひびらぎ、 灰だめる氷ひさ雨めぐ雲も空にみだれて すそあかる黄あめいろの遠をちに、海うみ鳥どり 煙けぶり濃こき檣ほばしらの闇に一ひと列つら 朱しゆの色の大き旗鳴きもめぐりぬ。 船はまた鐘鳴らし、かくて失うせにき。 そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、 さてしもや、みえそめぬ海のかなたに けふも見よ、木星の青ききらめき。暗愁
なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、 新しん開かいのはづれなる坂のあき地に うづくまる。そこ、ここに煉れん瓦ぐわ、石いし灰ばひ、 高たか草くさの黄きにまじり、風ぞ冷えたる。 灰はひ色いろのまろき石いし子こらはまろがし 据ゑ、やをら爪つま立ちぬ、爺おぢが肩より のぞき見みす。――様さま様ざまのくらき呼よび声ごゑ 世のほかの町の闇ひさぐ気けど遠ほさ。 古ふる井ゐあり、桁けたはみなくづれゆがみて 桔はね槹つるべギロチンの骨ほねとそびやぎ、 血はながる。赤ばみし蛇のぬけがら さかしまに下したはこれ暗き死の洞ほら。 人はみなめづらかに首くびつきいだし おづおづと環わぞ退しざる。あはれ男をの子こら 三みた人りまで影薄う青み入りぬれ、 そよとだに腰こし綱づなの端はしもひびかず。 時や疾とし、ひよろひよろの青あを洋やう服ふくは わと前へ面おもがはり、のめり泳ぎつ。 と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香か 町や蔽おほふ、みるがまに黄ばむ天そら色いろ。 驚す破はと、見よ、街道へまろびなだれて 西日する町の屋根、高き耶蘇寺でら、 ふりあふぎ人はみな面おもて冷ひえぬれ。 風さらにひややかに草をわたりぬ。 灯ひぞともる、支那床どこの玻璃に人見え、 あかあかと末すゑ広ひろに光ひかり凍こほれば、 古ふる煉れん瓦ぐわうづだかき原のくまぐま、 ほそぼそとこほろぎの鳴く音ね洩れぬる。地獄極楽
﹃御ごら覧うぢやい、まづ。﹄と濁だみごゑ 屋根低き山家の土間は 魚燈油のくすぶり赤く、 人いきれ、重き夜霧に 朦朦と地獄の光けし景き 現げんじいづ。―あはれ鞭指さし、 案あな内いじ者やは茶いろの頭巾 殊勝げに念仏ぞすなる。 木戸にまた高く札うち、 蓮はす葉はなる金かな切きりごゑと 老いたるが絶えず客よぶ、―― と見る、ただ赤あか丹に剥はげたる 閻魔王、青き牛ご頭づ馬め頭づ、 講釈のなかばいちどに がくがくと下した顎あご鳴らす。―― ﹃評判の地獄極楽。﹄ 胸わるき油煙のにほひ 女子らが汗に蒸されて、 焦熱のこころあかあか 火の車、または釜うで、 餓鬼道の叫わめ喚きさながら 人人が苦悩を醸す。 さはれ、なほ爺おぢは真ま面じ目めに 諳誦す、業ごふの輪りん廻ねを。 盂蘭盆の寺町通、 猿芝居幕のあひまか 喇叭節みだらに囃はやす。―― うち湿しめる沈ぢんの青みを 稚ち子ごあそぶ賽さいの河原は、 長長と因果こそ説け、 ﹃なまいだぶ。﹄こゑもあはれに、 かたのごと、涙を流す。 ひと巡めぐり、はやも極楽、 絵灯籠紅あかき出口は 華やげ楼閣そびえ、 頻びん伽がて鳥ふ鳴けり。この時、 酒の香かす、懐ふところがくり 徳利嘗め、けろり鐸すずふる、 太鼻の油汗見よ。 ﹃先せん様さまはこれでお代り。﹄熊野の烏
夜は深し、熊野の烏 旅はた籠ごの戸かたと過ぐ、 一いつ瞬しゆ時んじ、――燈とも火しび青さをに 閨を蔽おほふかぐろの翼つばさ 煽あほり搏うつ羽はうらを透すかし 消えぬ。今、森しんとして 冷えまさる恐おそ怖れの闇に 身は急に潰つひゆる心ここ地ち。 ﹁変らじ。﹂と女をみなの声す。 ひと呻うめく、熊野の烏。 丑うし満みつの誓きし請やう文もん 今か成る。宮のかなたは 忍びかに雨ふりいでぬ。 ﹃誓ひぬ。﹄と男の声す。 刹那、また、しくしくと 痙つり攣かがむ手脚のうづき、 生いけ贄にへの苦くつ痛うか、あなや、 護符ちぎる呪のろ咀ひのひびき。 はたと落つる、熊野の烏。 と思へば、こは如い何かに、 身は烏、嘴くちばし黒く 黒金の重おも錘りの下に 羽はね平ひらみ、打つ伏ぶす凄さ。 はた、固く、痺しびれたる 血まみれの頭づな脳うの上ゆ、 暗憺と竦すくまりながら 魂たまはわが骸むくろをながむ、我
時は冬、霜しも月つき下げじ旬ゆん、 夜よの一いち時じ、真まや闇みの海うな路ぢ。 玄海か、朝鮮沖か、 知らず。ただ波はた涛うの響 鞳だうたふとうつ暗くらさ。 門も司じいでて既に幾いく時とき。 いとど蒸す夜やら来いの空は、 雨交まじり雹さへ乱れ、 灘なだ遠く雷らいするけはひ。 不ふあ安んいま、黒き旗はたして 死の海を船ゆく恐おそ怖れ、 深しん沈ちんの極きはみ真まく黒ろに 点てん鍾しようの悲ひお音んたまたま、 天てん候こうの険悪いよよ、 闇あん憺たんとわが夜はくだつ。 一いつ室しつに見知る顔なし。 何ごとぞ、宵よひのほどより、 紅こう毛もうの羅ラベ面イ絃カ弾ひ者きは 白しろ眼めむき絶えず笑へり。 陰いん翳えいは彼が肋あばらに 明めい暗あんす一いつ張ちや一うい弛つし、 カンテラの青み吸ひつつ、 縞しま蛇へびの喘あへぐが如し。 深しん夜やなり。疫えき病びや顔うがほに、 衆しゆ人うじんは疲れ黄ばみて 銭ぜにひとつ投ぐる者なし。 乱らん撃げきよ、早はや鐘がね急に、 甲板は靴音高く、 ﹃驚す破は。﹄﹃風ぞ﹄﹃誰たそ巻け﹄﹃倒せ。﹄ ﹃綱つな投げよ。﹄一時に水か夫こら 狼らう狽ばいの銅どら羅ご声ゑ擾みだし、 ﹃飛しぶ沫き﹄﹃それ辷るな﹄﹃立て。﹄と 口口に、巻き、投げ、昇り、 立ち騒ぐ刹那か、颯さつと 暴風の襲来迅く、 帆の半、帆ばしら、帆桁、 折れ、唸り、はためき、倒れ、 動揺す、奈落へ、天へ、 激おほ瀾なみの鳴号凄く 轟ぐわう轟と頭上に下に、 刻刻の不穏等ひとしく 一室は歯の根もあはず、 惨たりな、垂すゐ死しの境さかひ。 紅毛は笑ひつつあり。 ふと見れば何らの贄にへぞ、 わが膝は眩まばゆきばかり 乱らん髪ぱつの女人に温み、 華奢ながら清き容顔 夢ゆめみるか、青うゑまひぬ。 恋びとか、あはれ、抱けば 軽けい軟なんの吐息すずろに 頬ほほ触れぬ、薔さう薇びのにほひ。 嗚呼暫しば時し流離の胸も 脈絡の炎ほのほに爛れ、 痛楚なる人が呻うめ吟きも、 念仏も悲鳴も知らず、 情界の熱き愉楽に、 わが霊れいは喘あへぎ焦こがれぬ。 何ごとぞ、一時に音し、 のごと五体は飛べり。 瞬く間、危急の汽笛 一斉せいの叫けう喚くわん――うつつ、 秒べうならず、後こう甲かん板ぱんは 懸命の格闘黒く、 ﹃咄とつ、放せ﹄短ボウ艇トに魔あり、 櫂あげて逃路を塞ぐ。 目前の障さま碍たげ――知らず 紅毛か、水か夫こか、女か、 他人なり――死ねやとばかり、 発はつ止し、余は短ピス銃トル高く 一発す、続いて二発、 三発す。あはや横波 驀まつ地しぐら頭上を天へ、 舳ぢくなかば傾く刹那、 しやしやしやしやと水晶簾ぞ 落下すれ、苦鳴もろとも 闇中の渦巻分時、 微塵なり。――水天裂けて 髣髴と白光走る。 眼ひらけば、小春のごとも 麗らかに空晴れわたり、 身辺は雑ざわ木き踈まばらに、 名も知らぬ紅花叢むら咲き 涼すず風かぜの朝吹く汀みぎは、 砂すな雲ひば雀り優にあがれり。 ああ、神よ、他人は知らじ、 我はわが生いの命ちの真珠 全きを今もながめて、 満腔の歓よろ喜こび高く 大音に感謝しまつる。吐血
罌けし粟ばた畑け日は紅あか紅あかと、 水無月の夕雲爛あかれ、 鳥鳴かず。顔火のごとく 花いづるわかうど一ひと人り、 黒漆のわかき瞳に 楽げう欲よくの苦痛を湛へ、 大跨に一歩ふりむく。 極熱の恋慕の郊野 蒼然と光衰へ、 草も木も瀕死の黄ばみ、 夜のさまに凄惨たりや。 う、とばかり、刹那膝つき、 絶望に肺はやぶれて 吐息しぬ――くれなゐの花。柑子咲く国
南国
ああ、君帰かへれ、故郷の野は花咲きて わかき日に五さつ月き柑かう子じの黄こが金ね燃もえ、 天そらの青みを風ゆるう、雲ものどかに 薄べにのもとほりゆかし。――帰かへれ君、 森の古ふる家やの蔦かづら花も真しん紅くに、 飜ひるがへれ、君はいづこに、――北のかた 柩ひつぎまうけの媼おうなさび、白しら髪がまじりの 寒かん念ねぶ仏つ、賢さかし比び丘くらが国や追ふ。 ああ鬱うつ憂いうの山ぶ毛な欅の天そら、日さへ黒ずみ、 朽くち尼あまが涙いや眼めかなしむ日の鉦かねに、 畠はたけの林檎紅べに饐すえて蛆うじこそたかれ。 帰れ、君、――筑紫平の豊ほう麗れいに 白しろがね鐙あぶみ、わか駒ごまの騎士も南みなみへ、 旅役者、歌の巡礼、麗ひ姫め、奴やつこ、 絵だくみ、うつら練ねり続つづけ。なかに一いち人にん、 街かい道だうや藤の茶ちや店みせの紅あかき灯に 暮れて花揺ゆる馬ぐるま、鈴の静しづけさ、 四よとせぶり、君も帰らふ夕ならば 靄の赤みに、夢ごころ、提とも灯しふらまし。 朝ならば君は人妻、野に岡に、 白き眼つどへ、ものわびし、われは汀みぎはの 花はな菖あや蒲め、風も紫ゆかりの身がくれに 御名や呼ばまし、逢あひ見み初そめ忍びしわかさ 薄月に水の夢してほそぼそと、 ああさは通かよへ、翌あけの日も、山吹がくれ 雨ならば金きん糸しの小蓑みの、日には、 一の鳥居を野へ三歩、駒は木むく槿げに、 露つゆ凍しみの忍び戸ど、それもほとほとと 牡ぼた丹んく花わちらぬほど前へ、そよろ小躍をどれ 薔いば薇らみち、蹈めば濡ぬれ羽はのつばくらめ、 飛ぶよ外との面もの花はな麦むぎに。 あれ、駒鳥のさへづりよ。 籬まがき根近し、忍び足、細ら口くち笛ぶえ 琴やみぬ、衣きぬのそよめき、さて庭へ、 ︵それと隠れぬ。︶そら音ねかと、︵空は澄みたれ、 また鳴ならす。︶ほほゑみ頬ほほに、浮うけあゆみ 楝あふち、柏かしはの薄ら花ほのにちる日ひの 君ならばそぞろ袂もかざすらむ。 はや午ひるさがり、片かた岡をかの畑はたに子こら来て、 早はや熟なりの和おら蘭んだ覆い盆ち子ご紅べにや摘む 歌もうらうら。――風かざ車ぐるまめぐる草くさ家やは 鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、 里の女をんなは山くち梔なしの黄にもまみれて 糯もちや蒸むす、あやめ祭のいとなみに 粽ちまきまく夜のをかしさか、頬ほにも浮うかべて わかうどは水に夕ゆふべの真まこ菰もが刈り、 いづれ鄙びの恋もこそ。 君よ。われらは花ぞのへ、 夕ゆふ栄ばえ熱あつき紅べに罌げ粟しの香かにか隠かくれて 筒つつ井ゐづつ振ふり分わけ髪がみの恋慕びと 君きみ吾われ燃ゆる眼めもひたと、頬ほほずりふるへ そのかみの幼をさな追おも憶ひで――君知るや フランチエスカの恋こひ語がたり――胸もわななけ、 人ひと妻づまか、罪か、血は火の美しさ、 激しさ、熱あつさ、身しん肉にくの爛ただれひたぶる かき抱いだき犇ひしと接くち吻つけ死ぬまでも 忘れむ、家も、世も、人も、 ああ、南国の日の夕。恋びと
ああ七しち月ぐわつ、 山の火ふけぬ。――花はな柑かう子じ咲く野も近み、 月白ろむ葡ぶだ萄うば畑たけの夜よの靄に、 土すか蜂るの羽はお音と、香かの甘さ、青葉の吐とい息き、 情慾の誘いざ惑なひ深く燃もえ爛ただれ、 仰げば空の七ななつ星ほし紅あかく煌きらめき、 南国の風さへ光る蒸し暑さ。 はや温ゆ泉の沈しじ黙ま――烏くろ樟もじの繁み仄ほの透すき灯ひも薄れ、 歓さざ語めき絶えぬ。――湯ゆ気げ白う、 丁ちや字うじ湯ゆ薫る女をんなの香か、湿しめりただよひ わが髪へ、吹けば艶えんだつ草くさ生ぶなか。 露みな火なり。白百合は喘あへぎうなだれ、 花びらの熱ねつこそ高め。頬ほに胸に ああ息づまる驕けう楽らくの飛しぶ沫きふつふつ 抱だき擁しめに人死ぬにほひ、血ちも肉にくも わななきふるふ。 ああ七しち月ぐわつ、 ふと、われ、ききぬ――忍び足熱あつきさやぎを 水みづ枝え照る汀みぎはの繁しげ木きそのなかに。 さは近づくは黄こが金ねが髪み、青きひとみか、 また知しらぬ、亜あ麻まいろ髪か、赤ら頬ほか、 ああ、そのかみの恋人か、謎の少をと女めか。 遠つ世の匂にほ香ひがあまき幻まぼ想ろしに 耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、 極ごく熱ねつの恋れん慕ぼ胸うつくるほしさ。 風いま燃もえぬ。ゆめ、うつつ、足あの音とつづきぬ。 身しん肉にくのわづらひ、苦にがき乳ちの熱ねつに 汗ばみ眠ぬれば心の臟ざう、牡ぼた丹んく花わの騒ぎ 瞬またたくく間ま、あな頬ほは爛ただれ、百合のなか、 七しち尺しやく走はしる髪の音、ひたと接くち吻つけ、 紅くれなゐの息、火の海の、ああ擾じよ乱うらんや、 水み脈を曳ひき狂ふ爛らん光くわうに、五ごた体いとろけて 身は浮きぬ。牡ぼた丹んく花わひとつ、血ちの波なみを焦こがれつ、沈しづむ。霊場詣
行けかし、さらば南国の番ばんの御みて寺らへ。 春なれば街まちの少をと女めが華はなやぎに、 君も交りて美しう、恋の祈きせ誓いの 初はつ旅たびや笈おひ摺ずるすがた鈴すずふりて、 大おほ野ののみなみ、菜の花の黄こが金ね海うみ透すく 筑紫みち列つらもあえかのいろどりに 御ごえ詠い歌か流し麗うらうらと練ねりも続つづく日、 軟なよかぜに絵日傘あぐる若菜摘、 法ほふ師し、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ 菅笠に蝶も縺もつるる暖かさ。 はじめ御みや山まの清きよ水みづ寺じ。 風みや雅び古ふる代よの絵すがたか、杉の深みの 薄ざくら花も散りかふ古ふるみちを、 六ろく部ぶ、道だう心しん、わか尼あまのうれひしづしづ 鉦かねうつや、袖も湿うるほふゆきずりに 霊れい場ぢや詣うまうで、杖かろく、番の歌うたごゑ 華はなやかに、巡礼衆が浮うけあゆみ、 峡かいは葉洩れの日のわかさ、風も霞かすみて、 春の雲白ういざよふ静けさに 鶯鳴けば、ちらちらと対つゐの袂たもとへ 笈おひ摺ずるへ、薄ら花ちるうららかさ。 かくて霊れい地ちの荘厳に古ふるき杉立つ 大たい木ぼくの霧の石いし階きだほの青み、 白ひ日るの灯ひともる奥おく深ふかさ、遠みかしこみ 絵馬堂へ、――桜またちる菅笠や、 音おと羽はの滝に紅くれなゐの唇くちも嗽そそがむ 街まち少をと女め、思もわかき瞳して 御みだ堂うのまへの静寂に鈴ふりならび ぬかづくや、金きんの香かう炉ろの薄けぶり、 羅らが蓋い蓮れん華げの闇やみ縫ぬうてほのかにそらへ 星の如ごと仏みづ龕しに光る燈みあ明かしの 不ふだ断んの燻くゆり、内ない陣ぢんの尊たふとさ深さ、 先せん達だつに連れて献ささぐる歌ごゑも 後ご世せ安あん楽らくの願かけて巡めぐる比び丘くらが 罪ならず、恋の風ふう流りうの遍へん歴れきに、 心も空も美しうあこがれいでし 君なればそぞろ涙も薫かをるらむ。―― あるは月夜の黄こが金ねみち、菜の花ぞらの 星あかり朧ろ煌きらめく野の靄に、 鬢びんの香か吹かれ仄ほの白じろう急ぐ楽しさ、 灯ひは街に、――しだれ柳やなぎの路なみきぢは 紅べに提ちや灯うちんの軒のきつづき、桃も鄙ひなめく 雛祭、店のあかみに伏ふし眼めして 奉ほう謝しやを乞こはむ巡じゆ礼んれいの清すずしさ、わかさ、 夕霧に若わか人うど忍ぶそぞろきも 艶なまめかぬほど、頬ほにゑみて鈴すずもほそぼそ ﹁普ふだ陀ら落くや﹂練ねれば戸ごとの老ねび御ごた達ち 春のひと夜の結けち縁えんに招せうぜむ杖と 白しら髪がふり、転まろび、袖そでとる殊しゆ勝しやうさや。―― 行けかし、さらば南国の番の御寺へ 春なれば街の習なら慣はし美しむ 恋の祈きせ誓いの初旅や、母にわかれて 少女らと、朝な夕なの花巡り、 やがて遍路の悲かな愁しみに雲も騒さわ立だち 花ちらふ卯月とならば故さとへ、 ああ妻なよび髪ねびて、我わが恋こひ待てる 新にひ室むろに帰りこよかし、いざさらば、 弥やよ生ひはじめの燕つばくらめ、袖そですり光る 麗うらら日びを、君も行くかよ、杖あげて、 南な無むや大だい悲ひの観くわ世んぜ音おん、守らせたまへ、 朝あさ風かぜに、ああ巡礼の鹿かし島ま立だち。花ちる日
日も卯うづ月き、ひとりし行かば――水みぬ沼まべの緑のしとね、 身はゆるに寝ねなまし。風の散ちり花ばなに、水みづ生ふの草に、 さざら波、ゆめの皺みの口くち吻づけに香にほふ夕ゆふべ。 つねのごと花はな輪わ編みつつ君おもひ水にむかへば、 遠霞む山の、古ふる城しろ市いちの壁、森の戸までも、 白しら寂さびの静けさ深さ、いと青に天そらも真ま澄すみぬ。 ああ、君よ、ゆめみる人ひとの夕ながめ――汀みぎは白しらみて、 木こば原らみち、薄ら花踏む里乙女、六部、商あき人うど 文ふみづかひ――それも恋路の浮うけあゆみ、誰たへか――目ま守もれば 雲照らふ落いり日ひの紅あけに水の絵の彩あやも乱れて 眼めも病まむ、ややに古ふる代よのうれひして影ちり昏み はや暮れぬ。市いちは点ひと燈も夫しせはしげに走すらし。さあれ 葦かびの闇やみには鳰のほのなよび。小野の鈴の音、 夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、 風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地ちの歔すす欷りふけつつ、 仄ほのに灯ひは君が館やかたに、妻琴の調べ澄む夜ぞ、 花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫くゆれ。 ああ平なご和み、我はも恋のさみし児か、神に斎いつきの 環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君思もふ暫しば時し 涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。 ああ、二ふた人り。――君よ暮ぼし春ゆんの市の栄はえ、花に幕うち、 紅くれなゐの花くわ氈せん敷く間の遊楽や、大おほ路ぢかがよひ 潮する人にん数ず、風みや雅びの衣きぬ彩あやに乱れどよむ日。 縦よしや、また花の館やかたに恋ごもれ、君が驕けう楽らく 琅のおばしま、銀の両もろ扉とびら、※らで※ん﹇#﹁王+累﹂、362-7﹈﹇#﹁王+田﹂、362-7﹈の室むろ屋や、 早や飽きぬ、火炎の正まさ眼め、肉の笑ゑみ、蜜の接くち吻づけ、 絵も香も髪も律しら呂べも宝はう玉ぎよくも晴はれ衣ぎも酒も あくどしや、今こそ憎め。︵楽げう欲よくは君がまにまに︶ ああ君よ、賤しづの児こなれば我はもや自然の巣へと 花ちる日、市をはなれて、鄙ひなごころ、またと帰らじ。郊外
悄しほ悄しほと我はあゆみき。 畑はたけには馬ばれ鈴いし薯よ白う花咲きて、 雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、 南ふく風静やかに、神こ輿しの列遠く青みき。 かかる日のかかる野末を。 嗚呼暮色微茫のあはひ、 笙せうすずろ、かなたは町の夜よま祭つりに 水天宮の舟ふな囃子。――夕ごゑながら 乾ひからびし黄ぐさの薫かをり、そのかみも仄めき蒸しぬ、 温かき日なかの喘あへ息ぎ。 父上は怒りたまひき、 ﹃歌舞伎見は千年のち。﹄と。子はまたも 暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、 欷きき歔よしつつ九くね年ん母ぼむきぬ。酸すゆかりき。あはれそれより われ世をば厭ひそめにき。――鉦
人みな往にぬ、うすらひぬ。
森の御寺の夕づく日、
ほの照り黄ばむさみしらに
やがて鉦かねうつ一いち人にんの
その夜ぞこひし、野も暮れよ、
あはれ初秋、日もゆふべ、
落穂ふみつつ身はまよふ。