一
﹁ほら、あれがお城だよ﹂ 私は振り返った。私の背後からは円まるい麦むぎ稈わら帽ぼうに金と黒とのリボンをひらひらさして、白しろ茶ちゃの背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても潔いさぎよく口をへの字に引き緊しめて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。地じぞ蔵うま眉ゆの、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。 名めい鉄てつの電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋――犬いぬ山やま橋――の鮮あざやかな近代風景の裏のことである。 暑い、暑い。パナマ帽に黒の上うわ衣ぎは脱いで、抱えて、ワイシャツの片手には鶏にわとりの首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。 ﹁うん、そうか﹂ 父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下しも手て向きの白い欄らん干かんに寄り添って行った。隆りゅ太うた郎ろうは一所懸命に爪立ち爪立ちした。頤あごが欄干の上に届かないのだ。 ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉せみ時しぐ雨れであった。 汪おう洋ようたる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴き騰あがる乱雲の層は南から西へ、重ちょ畳うじょうして、何か底そこ光ひかりのする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その白はっ金きんの覆ふく輪りんがまた何よりも強く眼を射うったのである。その下流の右岸には秀麗な角かく錘すい形けいの山︵それは夕ゆう暮ぐれ富士だと後あとで聞いたが︶山の頂てっ辺ぺんに細い縦たての裂目のある小松色の山が、白い河かわ洲すの緩ゆるい彎わん曲きょ線くせんと程ほどよい近景を成なして、遥はるかには暗雲の低迷したそれは恐らく驟しゅ雨ううの最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろと霞かすんだうち展ひらけた平野の青あお田だも眺められた。 その左岸の犬山の城である。 まことに白はく帝てい城じょうは老樹蓊おう鬱うつたる丘陵の上に現れて粉ふん壁へき鮮明である。 小さな白い三さん層そう楼ろう、何と典てん麗れいなしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白い兜かぶとである。 ﹁お城には誰たれがいるの﹂ ﹁今は誰たれもいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ﹂ 私はその子の麦むぎ稈わら帽ぼうを軽くたたいた。かの小さな美しい城の白はっ光こうが果はたしていつまでこのおさない童どう子しの記憶に明あかり得うるであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。 父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。﹁すこし強くたたいて置け﹂。 私の長男である彼かれ隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、下くだりの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルに向むかい合った僅わずかな時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとは確たしかに自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかった。箱根の嶮けん路ろにかかって、後部の大きな硝がら子す戸どに、機関車がぴったりとくっつき、そのまま轟ごう々ごうと真っ黒い正面をとどろかして押し昇った時にもそれを見たこの子は、それこそひとりで大喜びであった。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立った時にも、別に鼻白みもしなかった。彼が生れた日だけしか彼を見なかったその伯お母ばさんが﹁ほう、おまえが隆坊。まあ大きくなりましたね、おお。よく似ているわね、うちの子に。ほほほ﹂。 よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式しき台だいで微笑された時にも、この子はうんとだけいって笑った。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行った。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子に、この子の母はよくいってきかした。﹁ね、坊や。自分のことはみんな自分でするのですよ﹂。 だから、その晩にも、かれはひとりで必死になって上衣を脱いだり、パンツや、シャツの釦ぼたんをはずしたり、寝ねま衣きに着き更かえたり、帯を結んだり、寝床にころがったり、眠ったりした。 その翌朝の今日のことである。柳やな橋ぎばし駅から犬山橋までの電車の沿線には桑くわが肥え、梨が実り、青い水田のところどころには、ほのかな紅あかい蓮はすの花が、﹁朝﹂の﹁八月﹂の香においを爽さわやかな空気と日光との中に漂わしていた。そうしたすがすがしい眺めと薫かおりとをこの子はどんなに貪むさぼり吸ったことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生いき々いきと燃えていたことか。そうして酒しゅ徒ととしての私にはやや差し障りそうな道みち連づれではあったが時とすると侮あなどり難い小さな監督者であろうも知れぬが、だが、私自身にも寧むしろ或あるいはそれを望んだ心もちもあった。 私はわが子の両手を強く握った――よく一緒に遣やって来た。来てほんとによかったのだ。 まことに白はく帝てい城じょうは日本ラインの白い兜かぶとである。 おお、そうして、白い臈ろうたけた昼のかたわれ月が、おお、ちょうどその白い兜の八はち幡まん座ざにある。 白帝城に登ったのは、その上の麓の彩さい雲うん閣かく︵名鉄経営︶の楼ろう上じょうで、隆太郎のいわゆる﹁香においのする魚うお﹂を冷たいビールの乾杯で、初めて爽そう快かいに風味して、ややしばらく飽ほう満まんした、その後ごのことであった。 その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、緩ゆるいだらだら阪さかを少しのぼると、犬いぬ山やま焼やきの同じ構えの店が並んでいる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔くじ雀ゃくがきらきらと尾お羽ばを円まるくひろげた夏の暑しょ熱ねつと光線とは、この旅にある父と子とを少すくなからず喜ばせた。その隣の檻おりの金網の中には嬉き戯ぎする小猿が幾匹となく、頓とん狂きょうに、その桃色の眼のまわりを動かすのである。 そうだ、ここだったなと私は思った。金きんと黝うる朱みの羽根の色をした鳶とびの子が、ちょうどこの対むかいの角かどの棒ぼう杭ぐいに止とまっていたのを観みた七、八年前のことを憶おもい出したのである。私はあの時木みみ兎ずくかと思った、ちかぢかと寄って見る鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童どう顔がんの持主であった。 そうだった、これが針はり綱つな神社だったと私はまた微笑した。 あの冬の名古屋市はまったく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動もとまりそうであった。悪性の流行感かん冒ぼうは日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送った。私もまた同じ戦せん慄りつのうちに病びょ臥うがして、きびしい霜しもと、小さい太陽と、凍った月の光ばかりとを眺むるより外ほかなかった。旅で病むのは何と心細かったことだろう。それに私は貧しいかぎりであった。島村抱月先生の傷いたましい訃ふほ報うを新聞で知ったのもその時であった。 今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧状の、白い石の太鼓橋を欄らん干かんにつかまり遮しゃ二に無む二にはい登ろうとしている。一行の誰たれ彼かれが哄こう笑しょうして、やんややんやと背うし後ろから押しあげている。隆太郎は嬉き々きとして声を立てる。やっと上のぼったところで、半ズボンの両脚を前へつるつるつるである。父の私も前廻りして手をうって囃はやし立てる。 昔と今と、変れば変るものだと、私は思う。そうだ、あの頃はまだ日本ラインという名すらさして知られてなかったのだ。 ﹁日本ラインという名称は感心しないね、卑下と追つい従しょうと生ハイカラは止よしてもらいたいな。毛けと唐うがライン川をドイツの木曾川とも蘇そせ川ん峡とも呼ばないかぎりはね。お恥はずかしいじゃないか﹂ ﹁そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで﹂ 木曾川橋きょ畔うはんの雀のお宿の主人野田素そほ峰う子しが直すぐと私に和した。 ﹁みんながよくそういいますで﹂ 私たちはいつのまにか、城の正面の柵内にはいりつつあった、軽い足どりで。 浴ゆか衣たに袴はかまの、白はく扇せんを持った痩せ形の老人が謹きん厳げんに私達を迎えた。役場から見えていたのである。 旧記に観ると、この犬山の城は、永えい享きょうの末に斯し波ば氏の家臣織お田だ氏がこの地を領し、斯波満みつ桓たけが初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が拠よって武ぶ威いを張った。小こま牧きや山ま合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、尾びし州ゅう侯の家老成なる瀬せは隼や人とが封ほうぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。 現存の天守閣は慶長四年の秋に、家康が濃のう州しゅう金かな山やまの城主森もり忠ただ政まさを信州川中島に転てん封ぽうしたおり、その天守閣と楼やぐ櫓らとを時の犬山城主石川光吉に与えた、それを明あくる年の五月に木曾川を下くだしてこの犬山に運び、これを築きあげたものである。斎藤大だい納なご言んま正さし成げの建築だそうである。 この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋よう々ようたる河川の大たい景けいと相あい俟まって、よく調和して映えい照しょうしているにある。加えて、蒼そう古こな森林相がその麓からうちのぼっている。展望するに、はてしない平野の銀と緑と紫の煙えん霞かがある。山さん城じょうとしてのこのプランは桃山時代の粋すいを尽くした城じょ堡うほう建築の好模型だというが、そういえばよく肯うなずかれる。 ただ僅わずかに残って、今にそびえる天守閣の正しい均斉、その高こう欄らんをめぐらし、各層に屋根をつけた入いり母も屋や作りのいらか、その白はく堊あの城。 外観こそは三層であるが、内部に入れば、それは五層に高まってゆく。 その五層の、昔ながらの木の階段を昇る時、隆太郎は危くころびかけた。そうしてその従いと兄この三高生から引っ抱えてもらった。 ﹁何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの﹂ といいいいして上のぼって来た。 ﹁あ、名古屋城が見える﹂と、誰たれかが叫んだ。 天守閣の最上層の勾こう欄らんへ出たところで、私たちはまず両方の大平野を瞰かん望ぼうした。きのう電車で駛はしって来た沿線の曠こう田でんの緑と蓮はす池いけの薄うす紅べにとが遥はるかに模も糊ことした曇どん天てん光こうまで続いて、ただ一つの巒らん色しょくの濃い、低い小牧山が小さく鬱うっ屈くつしている。その左にほうふつとして立つ紫の幻塔が見える、それが金の鱗うろこのお城だというのである。そう聞けば何か閃せん々せんたる気きは魄くが光っているようでもある。 その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、藍あいと黒とを交ぜた雲と霞かすみとであった。その雲と霞は数条の太い煤ばい煙えんで掻き乱されている。鮮せん麗れいな電光飾の輝く二時間前ぜんの名古屋市である。 東から北へと勾こう欄らんへついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾チー酪ズ色の丘陵のうねりが閑のどかな日光の反射にうき出している隣に、二つの円まるい緑の丘陵が大和絵さながらの色調で並んで、その一つの小高みに閑かん雅がな古典的の堂どう宇うが隠いん見けんする。瑞ずい泉せん寺じ山だと人がいった。 瑞泉寺山から継つが鹿の尾お、鴉からすヶ峰みねと重ちょ畳うじょうして、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出ていた。そのすばらしい白と金との向むこうに恵え那な、駒ヶ岳、御おん岳たけの諸峰が競って天を摩ましているというのだ。見えざる山岳の気きい韻んは彼かな方たにある。何と籠こもったぶどう鼠ねずみの曇り。 と、蕭しょ々うしょうとして、白い鉄橋の方へ時し雨ぐるる蝉せみのコーラスである。 爆音がする。左岸の城しろ山やまに洞門を穿うがつのである。奇岩突とっ兀こつとして聳そびえ立つその頂上に近代のホテルを建て更に岩石層の縦たての隧トン道ネルをくりぬき、しんしんとエレヴェーターで旅客を迎える計画だそうである。遊覧船は屋やか形た、或あるいは白のテントを張って、日本ラインの上流より矢のように走って来る。その光、光、光。恰あたかも中レジ古ェ伝ン説トの中の王子の小船のようにちかりちかりとその光は笑って来る。 ﹁おうい﹂と呼びたくなる。 中仙道は鵜うぬ沼ま駅を麓とした翠すい巒らんの層に続いて西へと連つらなるのは多た度どの山脈である。鈴すず鹿かは幽かすかに、伊いぶ吹きは未だに吹きあげる風雲の猪いのしし色にその嶺いただきを吹き乱されている。 眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、鮮あざやかな平へい蕪ぶの中に点々と格納庫の輝くのは各かが務みヶ原の飛行場である。 西は渺びょ々うびょうたる伊勢の海を眼界の外に霞かすませて桑くわ名なへ至る石船の白帆は風を孕はらんで、壮大な三角洲の白はく砂しゃと水とに照り明あかって、かげって、通り過ぎる、低く、また、ひろびろと相あい隔へだたった両岸の松と楊やなぎと竹たけ藪やぶと、そうして走る自転車の輪の光。 白帝城は絶勝の位置にある。 私は更に俯ふか瞰んして、二層目の入いり母も屋やの甍いらかにほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれないの線状の合ね歓むの花の咲いているのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親したしく観ることは初めてである。いかにも季節は夏だと感じられる。 絶壁の上の楓かえでの老樹も手に届くばかりに参しん差しと枝を分ち、葉を交えて、鮮明に澄んで閑のどかな、ちらちらとした光線である。 幾百年と経った大木の樟くすのきは樹皮は禿はげ、枝は裂けていい寂さび色いろに古びている。その梢こずえの群ぐん青じょうを鴉からすがはたはたと動かしてとまる。かおォかおォである。古風な白帝城。 水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあった。 私たちは城を降りると、再び暑しょ熱ねつと外光の中の点景人物となった。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。 公園からだらだらの阪さかを西にし谷たにの方へ、日かげを選えらみ選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しおらしい赤い鳳ほう仙せん花かが目についた。もう秋だなと思う。 簡素な洋風の家がある。入口は開けっぱなしで、粗末な卓に何か仕事しているワイシャツの人がある。役場の老人が寄って行って挨あい拶さつする。幽かすかに私の名をいっている。 私たちは洞門に入る。外へ出ると豁かつ然ぜんとひらけて、前は木曾の大河である。 この大河の水は岩礁を割さいた水道のコンクリートの堰せきと赤さびた鉄の扉の上を僅わずかに越えて、流れ注いで、外には濁った白い水すい沫まつと塵じん埃あいとを平らかに溜めているばかりだ。何の奇きもなく閑のどけさである。 ﹁この水が名古屋全市民の生命をつないでいるのです﹂と詰つめ襟えりをはだけた制帽の若者が説明する。 私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計量機の前に出た。幽かすかに廻っている円筒の方眼紙の上に青いインキが針から滲にじんで殆ほとんど動くか動かぬかに水量と速度とをじりじりと鋸のこぎり形に印しるして進む。そこで若者は三た和た土きの間の方五、六尺の鉄板の蓋ふたを持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、遥はるかの大都会へ休むなく奔はしりつつ圧おしつつある。しんしんとしたその奔ほん入にゅう。 詩歌の本流というものもちょうどこうした深しん処しょにあって幽かすかに、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。 私は隆太郎の手をしっかと握った。 彩雲閣へ戻ると、小坊主は直すぐと名古屋へ帰るといい出した。名古屋の伯母さんは昨夜、この子の母に長距離の電話をかけていた。 ﹁病気でもされると申し訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びましょうか﹂ということであった。それに従い兄と弟こたちは大勢だし、汽車や電車のおもちゃはあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかった。 ﹁じゃあ、そうするか、たのむよ﹂と私は甥おいの三高生にその子を託した。 空は薄はく明めいとなる、パッと園内のカンツリー・ホテルに電灯がつく。白、白、白、給仕とテーブル。 かえろかえろと、どこまでかえる。 赤い灯ひのつく三丁さきまでかえる。 かえろが啼なくからかァえろ。 並木の鈴すず懸かけの間を夏の遊ゆう蝶ちょ花うげの咲き盛さかった円形花壇と緑の芝生に添って、たどたどと帰ってゆく幼年紳士の歌声がきこえる。 ﹁おうい﹂ 私は二階の欄てす干りへ出て両手をあげる。 ﹁ほうい﹂ 向むこうでもこちらを見て両手をあげる。 白いかたわれ月は臈ろうたけて黄に明あかって来る。ほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子供が、立って停とまって仰いでいる。二
舟は遡さかのぼる。この高瀬舟の船尾には赤の枠わくに黒で彩さい雲うん閣かくと奔ほん放ぽうに染め出したフラフが翻ひるがえっている。前に棹さおさすのが一人、後うしろに櫓ろをこぐのが一人、客は私と案内役の名めい鉄てつのM君である。私は今日初めて明るい紫しこ紺んに金きん釦ぼたんの上うわ衣ぎを引っかけて見た。藍あい鼠ねずみの大柄のズボンの、このゴルフの服は些いささかはで過ぎて市しち中ゅうは歩かれなかった。だが、この鮮麗な大河の風ふう色しょくと熾しれ烈つな日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水みず禽どりのように碧へき流りゅうを遡るのだ。
爽快である。それに泡だったコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
五日の午後一時、昨日のすさまじい濁流はいくらか青みを冴さえ立たして来たが、一いっ旦たん激増した水量はなかなかひきそうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む、飛び込む。燦さん々さんたる岩の群むれと、ごろた石の河原と両岸のいきるる雑草の花とだ。
泳げよ泳げ。
左は楊やなぎと稚わか松まつと雑木の緑と鬱うつした青とで野やし趣ゅそのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の並木が続いて、一、二の氷こお店りみせや西洋料理亭の煩はん雑ざつな色彩が畸きけ形いな三角の旅館と白い大鉄橋風景の右袂たもとに仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石せき頭とう山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌がん壁ぺきの前には黄の菰むし莚ろ、バラック、鶴つるはし、印しる半しば纒んてん、小舟が一、二艘そう、爆音、爆音、爆音である。
と、それから、人造石の樺かばと白との迫せり持もちや角かく柱ばしらばかし目だった、俗悪な無用の贅ぜいを凝こらした大洋館があたりの均斉を突如と破って見えて来る。﹁や、あれはなんです﹂。
﹁京都のモスリン会社の別荘で﹂とM君が枝豆をつまむ。
﹁悪趣味だ﹂
だが、ここまでである。それより上は全くの神しん斧ぷき鬼さ鑿くの蘇そせ川ん峡となるのだ。彩雲閣から僅わずかに五、六丁足らずで、早くも人じん寰かんを離れ、俗ぞく塵じんの濁りを留めないところ、峻しゅ峭んしょう相あい連つらなって少すくなからず目をそばだたしめる。いわゆる日本ラインの特色はここにある。
日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
遡そこ航うは氷ひむ室ろ山の麓は赤松の林と断崖のほそぼそとした嶮けん道どうに沿って右へ右へと寄るのが法とみえる。﹁これが犬いぬ帰がえりでなも﹂と後うしろから赤しゃ銅くどうの声がする。
烏えぼ帽う子し岩、風かざ戻もどし、大おお梯はし子ご、そこでこの犬帰の石せき門もん、遮しゃ陽よう石せきというのだそうな。
﹁ほれ、あの屋根が鳥ちょ瞰うか図んずを描くYさんのお宅ですよ﹂
幽ゆう邃すいな繁りである。蝉せみ、蝉、蝉。つくつくほうし。
﹁この高い山は﹂
﹁継つが鹿の尾お山、叡えい光こう院いんという寺があります。不老の滝というのもありますが上あがって御覧になりますか﹂
﹁いや、ぐんぐん遡のぼろう﹂
風が涼しい、潭たんは澄み、碧へき流りゅうは渦巻く。紫しこ紺んの水みず禽どりは、遡さかのぼる。遡る。
﹁あれが不老閣﹂
﹁閑静だなも﹂
と、これより先さき、中流に中岩というのがあった。振り返ると、いつになく左後ろ斜ななめに岩は岩と白い飛しぶ沫きをあげている。
それから、千尺の翠すい巒らんと断崖は浣かん華かけ渓いとなるのである。
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
﹁爽そう快かい爽快﹂
﹁富士ヶ瀬です﹂
すばらしい飛しぶ沫き、飛沫、飛沫、奔流しつつ、飛躍しつつ、擾じょ乱うらんしつつだ。
一面淙そう々そうたり。
﹁や﹂
﹁赤岩です﹂とM君。
まさしく瑠る璃りの、群ぐん青じょうの深しん潭たんを擁ようして、赤褐色の奇きが巌んの群むれ々むれがかっと反射したところで、しんしんと沁しみ入る蝉せみの声がする。
稚わかい雌めま松つの林があり、こんもりとした孟もう宗そう藪やぶがある。藪の外にはほのぼのとした薄くれないの木の花も咲いている。
﹁あれは何の木の花だね﹂
﹁漆うるしの花だなも﹂で、巧たくみに棹さおを操る舳ともの船頭である。白のまんじゅう笠に黒色鮮あざやかに秀山霊水と書いてある。
そのあたりが栗くり栖すの里。
と、書き落おとしたが、その漆の花が目に入いるまでに、石いし床どこの大きなでこでこの岩、お富とみ与よそ曾ま松つの岩というのがあった。恋は悲しい、遂ついに添われぬ身の果はてを嘆いて、お富もまた離ればなれに上かみの手の岩から身を躍らしたと俚りぞ俗くにいう。
﹁これがローレライで﹂
ローレライはちと苦笑される。
新しん赤せき壁へきは左にあった。その前を昔の中仙道が通って、ひとつうねると岩屋観音がある。白い汚れた幟のぼりが見える。
ここで再び蕭しょ々うしょうたる急きゅ湍うたんにかかる。観音の瀬である。
﹁まだひどい水で﹂と前のがのめる。
やっとのことで、その瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ差さし迫せまった奇岩怪石の層層層、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連なりそびえて、見る目も凄い急流となる。惜しいことには水がたかく、岩は半没して、その神しん工こうの斧ふえ鉞つの跡も十分には見るを得ないが、まさに蘇そせ川ん峡の最勝であろう。
斎藤拙せつ堂どうの﹁木き蘇そ川を下るの記﹂に曰いわく、
石いし皆みな奇状両岸に羅列す、或あるいは峙じり立つして柱の若ごとく、或は折せつ裂れつして門の如ごとく、或は渇かっ驥きの間に飲むが如く、或は臥がぎ牛ゅうの道に横たわる如く、五ごし色き陸りく離りとして相あい間まじわり、皴しゅん率おおむね大小の斧ふへ劈きを作なす、間たまたま荷かよ葉う披ひ麻まを作なすものあり、波浪を濯あろうて以もって出いず、交替去来、応接に暇いとまあらず、けだし譎けっ詭き変へん幻げん中ちゅう清せい秀しゅう深しん穏おんの態たいを帯おぶ。
兜かぶと岩、駱らく駝だ岩、眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、神しん悸おののき、気きげ眩んすべきである。
拙堂も観た五色岩こそまた光彩陸離として衆人の目を奪うものであろうか。
ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみを以もってすれば、その岩がん相そうの奇きし峭ょうは豊ほうの耶やば馬け渓い、紀きの瀞どろ八はっ丁ちょう、信しんの天竜峡におよばず、その水流の急なること肥ひの球く磨ま川にしかず、激げき湍たんはまた筑後川の或ある個かし処ょにも劣るものがある。これ以上の大たい江こうとしてまた利根川がある。ただこの川のかれらに遥はるかに超えたゆえんは変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であって近代の文化的施設余裕多き事であろう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。船は翠すい嶂しょう山の下、深しん沈ちんとした碧へき潭たんに来て、その棹さおをとめた。清せい閑かんにしてまた飄ひょ々うひょうとしている。巉ざん峭しょうの樹林には野やえ猿んが啼なき、時には出いでて現れて遊ぶそうである。
私は舟より上あがって、とある巌がん頭とうに攀よじのぼった。
蓋けだし天女ここに嘆き、清せい躯く鶴のごとき黄こう巾きんの道士が来きたって、ひそかに丹たんを練り金を練る、その深しん妙みょ境うきょうをしてここに夢み、或あるいは遊ゆう仙せんヶ岡おかと名づけられたものであろう。
遺憾なは﹁これより上へはどうしても今日はのぼれませんで﹂と舟か人こはまた棹をいっぱいに岩に当てて張り切ったことである。
たちまち舟は矢のように下る。
千里の江こう陵りょう一日にかえる。
おお、隆坊はどうしている。
自動車は駛はしる。
犬山の町長さんは若い白はく面めんの瀟しょ洒うしゃな背広服の紳士であった。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人――私と素そほ峰う子しと運転手と――が、この八月六日の極めて簡素な午ごさ餐んを認したためていた時に、たまたま給仕を通じて私に挨あい拶さつに見えた。はいって来ると、名刺を一々運転手君にまでうやうやしく手しゅ交こうした。若もしそうと知ってしたのならば美しいことだと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなわち近代の日本ラインである。
カンツリー・クラブは緩ゆるい勾配の屋根の、錆さび色の羽は目めの中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついている。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となった。雀のお宿の素そほ峰う子しはきのうの朝から激しい胃いけ痙いれ攣んで顔色がなかった。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻って、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
自動車は駛はしる。鉄橋を北へ、まっしぐらに駛って行く。と、ちらっと、白帝城と夕暮富士とが目を掠かすめる。
きのうの夕焼は実によかったと思う。その返へん照しょうはいつまでも透明な黄の霞かすんだ青磁や水みず浅あさ葱ぎの西の空に、紅あかく紅く地平の積せき巻けん雲うんを燃え立たせた。そうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはえた吹き流し形の、天てん蓋がいの、華けま鬘んの、金きん襴らんの帯の、雲の幾流は、緋ひになびき、なびきて朱となり、褪たい紅こうとなり、灰かい銀ぎんをさえ交まじえたやわらかな毛ばだちの樺かばとなり、また葡萄紫となった。天守閣のかすかに黄に輝き残る白はく堊あ。そうして大江の匂におい深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな乳にゅ酪うらく色となり、藤紫となり、瑠るり璃こ紺んの上うわびかりとなった。そうして東の瑞ずい泉せん寺じ山に涌ゆう出しゅつした脳のう漿しょ形うがたの積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しそうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴きあがっていた。この夕焼けもラインとよく似た美しい一つの天象だという。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭りである。
私たちの軽けい舟しゅうは急流に乗って、まだ大だい円えん日じつの金の光輝が十方に放射する、その夕焼けの真近をまたたく間に走り下くだって来た。そうして白帝城下の名も彩雲閣の河原に錨いかりを下ろし纜ともづなをもやったのであった。と、名古屋から電話がかかっていて隆太郎の母は直すぐにも見えるはずだということであった。
それが今日は生あい憎にく早そう暁ぎょうからの曇りとなった。四よ方もの雨と霧と微々たる雫しずくとはしきりに私の旅情をそそった。宿しゅ酔くすいの疲れも湿って来た。
この六日は下しもの河原で年に一度の花火の大会がある筈はずであった。名古屋の甥おいたちや隆太郎にも見に来るように通知はしたが、それもどうやら怪しくなって来る。果かぜ然ん雨天順延となって、私の旅行日程にもまた一日の狂いが生じて来たので、無ぶり聊ょうに苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなった訳である。
自動車は駛はしる。
と、気がつくといつのまにか北へ向かったので南へ駛りつつあった。や、例の樺かばと白との別荘だなと思うと、中仙道は川添いの松原と桃林との間を東へ東へと驀ばく進しんしつつある。
新しん赤せき壁へきの裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。路みちはやや沿岸を離れて桑くわ畑と雌めま松つの林間に入いる。農家がある。鳳ほう仙せん花かや百日草が咲き、村の子が遊び、鶏にわとりがけけっこっこっこっである。高原の感じである。
秋、秋、秋、秋。
太田の宿しゅくにはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の今いま渡わたりから土ど田たへ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真まっ直すぐにぐんぐん駛はしらせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思ったのである。
ストップ! 古こ井いの白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫った峡谷の翠みどりの深さ、水の碧あおくて豊かさ。何とまた鬱うっ蒼そうとして幽ゆう邃すいな下しも手ての一つ小島の風致であろう。煙霧は模も糊ことして、島の向むこうの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中の蓑みのと笠との舟か人こに操られてすべって行く。
私たちがその青柳橋の上に立っていると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかって来た。この川はと聞くと飛騨川と誰たれか答えた。高たか山やまの上の水源地から流れて来てこの古こ井いで初めて木曾川に入いるのだとまた一人が傍かたわらから教えてくれた。じゃあ、あの広いのが木曾川だなと思えて来た。
﹁あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね﹂
﹁小こや山ま観音﹂
﹁縁えん日にちでもありますか﹂
﹁ちょうど七月の九日が御おか開いち帳ょうでして、へえ、毎年です﹂
﹁店も出ましょうね﹂
﹁ええ、河原は見み世せ屋やでそれはもういっぱいになりますで﹂
水に映って、それは閑かん雅がな灯ひのちらちらであろうと思えた、この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡とは別趣の気きい韻んをもって私に迫った。上かみ手ての眺めにもうち禿はげた岩石層は少すくなく、すべてが微光をひそめた巒らん色しょくの丘陵であった。深しん沈ちんとしたその碧へき潭たん。
私たちはまた車上の人となる。藍あい鼠ねずみと燻いぶ銀しぎんとの曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思うばかりで、対岸の峰々や、北ほっ国こく風ふうの人家を透かし透かし、どこまでもと自動車は躍ってゆく。土の香かがする。草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山やま蔭かげは咽むせぶばかりの松まつ脂やにのにおいである。駛はしる、駛る、新世界の大きな昆虫。
﹁見えた。あの鉄橋からまわりますか﹂
﹁よし﹂
そこでハンドルを右へきゅっと廻す。囂ごう囂ごう囂ごうとそのつり橋を渡ってまた右折する。兼かね山やまの宿しゅくである。と風光はすばらしく一変する。爽快爽快、今来た峡谷の上の高台が向むこうになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾ほこ杉すぎの層、竹藪、人家思いきり濃く、また淡く霞かすむ畳じょ峰うほう連山、雨の木曾川はその此こな方たの田や畑や樹林や板屋根の間から、突とつとして開けたり離れたりする。岩礁が見える。船が見える。あ、檜ひのきだ、瓦かわらだ、絵看板だ。
遥はるかにまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だという。よくも上まで来たものだと思う。いや、かれこれ二時間は走っていますと運転手が笑う。こうして兼山から伏ふし見み、伏見から広ひろ見み、今いま渡わたりとかっ飛ばすのである。
土ど田たは名めい鉄てつの犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀ばく進しん驀進驀進である。行けるところまで行って、危く何かにぶつかりそうにしてとまると、奇橋がある。﹁土田の刎はね橋ばし﹂である。この小峡谷は常に霧が湧き易やすくて、こめると上うえも下したも深く姿を隠すという。重ちょ畳うじょうした岩のぬめりを水は湍たぎち、碧あおく澄んで流れて、いうところの鷺さぎの瀬となる。
橋の袂たもとで敷しき島しまを買って、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早わ稲せの穂にさしかけて来る。七たな夕ばたの紅あかや黄や紫の色紙がしっとりとぬれにじんでその穂や桑くわの葉にこびりついている。死んだ蛍ほたるのにおいか何かが咽むせんで来る。あけっぱなしの小こ舎やがある。蚕こく糞そや繭まゆのにおいがする。莚むしろが雑然と積んである。表に﹁自転車無料であずかります﹂と貼はり札ふだしてある。この道七、八丁。
宏こう壮そうな北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大だい洞どう可かに児ご合うの壮観が眼下に大渦巻をまきあげる。断崖百尺の上の、何と小さな人間、白の黒の紫しこ紺んのぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
大洞可児合は蘇そせ川ん中の一大難所である。その本流と可か児に川の合がっするところ、急きゅ奔うほんし衝突し、抱合し、反撥する余勢は、一いっ旦たん、一大鉄てつ城じょうのごとく峭しょ立うりつし突出する黒こっ褐かつの岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて水は水と撃うち、力は力と抗さからい、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに囂ごう々ごう、淙そう々そうの音を成なしつつ、再び変圧し、転廻し、捲けん騰とうし、擾じょ乱うらんする豪快無比の壮観を現出する。藍あいと碧あおと群ぐん青じょうと、また水みず浅あさ葱ぎと白と銀と緑と、渦うずと飛ひま沫つと水すいと、泡と、泡と、泡と。
膚はだ粟えあわを生ずとはこのことだろう。私は驚いて数歩下くだった。
そこで、また踵くびすをめぐらして岩がん角かくと雑草の間の小こみ径ちを香こう木ぼく峡の乗船地へと向むかっておりた。
しかも明るくひろくうち開けた上流の空の、連峰と翠すい巒らん、濛もう々もうたる田園の黄こう緑りょく、人家、煙。霧、霧、霧。
どこかで茶でも飲もうではないか、茶ちゃ見み世せぐらいはあるだろうといえば、ありますありますと答えながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の葭よし簀ずの茶亭は通り越してしまう。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗何なに々なにと赤い看板を出したそのドアの前にかかったが、窓のガラスもことごとくしめきって﹁当分休業中﹂であった。夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑ぞう木きは原らに近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらいだから沍ごか寒んはきびしいのであろう。崖の縁ふちへ出ると漸ようやく休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると隅すみっこの青く透すいたサイダー瓶の棚の前に、鱗りん光こうの河かわ魚うおの精のような爺おやじが一人、しょぼんと坐っていた。ぼうと立つのは水すい気きである。
翠すい嶂しょう山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白はく砂さとの間に高瀬舟の幾つかが水にゆれ、波に漂って、舷げん々げん相あい摩まするところ、誰たれがつけたかその名も香木峡という。左に碧あおくそそり立つのが碧へき巌がん峰ほうである。
そこで屋形の船のひとつを私は小こて手ま招ねく、そこここの薄うす墨ずみの、また朱のこもった上の空の、霧はいよいよ薄れて、この時、雲のきれ間から、怪しい黄おう色じきの光線が放射し出した。これからまたひとしきりなぎになって蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
﹁じゃあ、ここでお別れします。私は土ど田たへ出てこの山の裏手を廻って帰りますが、どちらが早いかひとつ競争して見ますかな﹂
自動車の運転手が笑った。
﹁よかろう﹂と私たちは舟に乗り込む。船頭はやはり二人で、棹さおをつつッと突つっ張ぱるや否や、後あとのが櫓ろべそを調べると、櫓をからからとやって、﹁そおれ出るぞぉ﹂である。
白帝城下まで二里半だということである。
舟は走る、五ごし色きの日本ライン鳥ちょ瞰うか図んずが私の手にある。
﹁ほう、あれが少女の滝かね﹂その滝は左の緑りょ蔭くいんから懸かかってあまりに幽かすかな水の線、線、線であった。
右にうずくまるのがライオン岩、深しん厳げんとして赭しゃ黒こくである。と、舟は直ただちに遊仙ヶ岡の碧へき潭たんにさしかかる。
その仙境を離れると、流れはいよいよ急である。昨日に比して少すくなからず減じた水量のために河かち中ゅうの巌がん石せきという巌石は、ことごとく高く高くせり上あがって、重積した横の、斜ななめの斧ふへ劈きも露わに千状万ばん態たいの奇景を眼前に聳しょ立うりつせしめて、しかも雨後の雫しずくは燦さん々さんと所在の岩がん角かく、洞門にうち響きうち響き、降るかとばかりに滾こぼれしきる。
河峡はいよいよ狭く、流れはいよいよ急に、舟は危うく触れんとして畳じょ岩うがん絶壁のすれすれを走り下くだる。
﹁や、あれは﹂
と、目をみはった。
一羽、ふり仰ぐ一大岩壁の上に黄こう褐かつの猛鳥、英気颯さっ爽そうとしてとまって、天の北方を睨にらんでいる。鉤かぎ形がたの硬こう嘴し、爛らん々らんたるその両眼、微みじ塵んゆるがぬ脚あし爪つめの、しっかと岩がん角かくにめりこませて、そしてまた、かいつくろわぬ尾の羽根のかすかな伸び毛のそよぎである。
﹁鷹たかだね﹂
﹁え、﹂と驚いて旅客課﹁そうです。鷹です﹂
冷気一道に襲って、さすがに蘇そせ川んは深山幽谷の面影が立った。
﹁身動きもしないんだね、船が下を通っても﹂
私は驚いたのである。
心音の動どう悸きが止やまぬのに、またしても一羽、右手の駱らく駝だ岩の第一の起隆の上に、厳げん然ぜんとしてとまっている。相対した上の鷹、おそらくはつがいであろう。
いいものを見たと私は思った。野やえ猿んの声こそは聞けなかったが、それにも増して私は偶然の、時の恩おん寵ちょうを感じずにはいられなかった。
私は幾度も幾度も振ふり返かえった。
激げき湍たん、白い飛ひま沫つの奔ほん騰とうする観音の瀬にかかって、舟はゆれにゆれて傾く。
鷹は絶壁の遥はるかに黒く、しかも確実に二個の点として厳げんとしている。小さく小さくなる。一個は消えても、一羽の英姿はいつまでもいつまでも残ってみえる。その向むこうの空のぬれた黝うる朱みの乱雲、それがやがては褐かつとなり、黄となり、朱に丹あかに染まるであろう。日本ラインの夕焼けにだ。
あ、白帝城が見え出した。
香木峡から四十分、彩雲閣の河原に着いて、上あがると、その白帝園のカンツリー・クラブの前へ、無料休憩所の方から、驚いたスピードで大型の昆虫の黒に藍あいの自動車がはしって来た。ハンドルを両手に、パナマを阿あ弥み陀だに頭の毛を振り振り、例の快活な笑いの持ち主だ。
﹁や、万ばん歳ざい、勝負なし﹂
三
﹁ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り﹂ ﹁さようならァ――﹂ ﹁もひとつ﹂ ﹁さようならァ――﹂ 下りの高瀬舟に坐っているのは私たち親子と雀のお宿の主人との三人である。 彩雲閣の二階からは盛んに白いハンカチーフがゆれて光る。女中たちである。 私たちも一ちょ寸っと芝しば居い気ぎを出して、パナマや雀すず頭めず巾きんを振る。童話の中の小さな王子のお蔭で、朗ほがらかに朗らかに私たちも帽子が振れるというものだ。 私たちは下くだる。赤い雌めま松つの五、六本をあしらった二重舞台の楼ろう閣かくが次第次第に白帝城の翠すい巒らんに隠れてゆく。ちらとまたその隙間から白いひらひらが見えたかと思うと、また老樹の樫かしや楓かえでの鬱うっ蒼そうたる枝の繁みに遮られてしまう。と、それっきりで、八月八日は午前十一時の閑かん寂じゃくなせみ時しぐ雨れになる。日本ラインとのお別れである。 水道の取入口も過ぎ、西にし谷たには迎げい帆はん楼ろうの前も過ぎた。あの前での昨日の人だかりというものは昼の花火の黄おう煙えん菊きくよりも埃ほこりをあげた。丁ちょ髷んま鬘げかずらの赤あか陣じん羽ばお織りに裁たっ付つけ袴ばかまの爺おやじどもが拍子木に鉦かねや太鼓でライン酒しゅとかの広ひろ告めの口こう上じょうをまくし立てる。その幟のぼりの蔭から、盆の上のリキュウグラスに手を出して無料じゃ無料じゃという赤いのを一杯試し飲みして見たところで、﹁これは焼しょ酎うちゅうかね﹂と聞けば﹁いや別製でなも、原料水は、へへん、ラインの水で﹂と扇を叩いた。﹁赤いのは﹂と聞けば﹁色で染そめやしたで﹂とまた扇を叩いた。色は樺かば太ふと﹇#ルビの﹁かばふと﹂はママ﹈のフレップ酒に似て、地の味はやはり焼酎の刺激がある。土地の名産忍にん苳とう酒しゅは味みり淋んに強い特殊の香気を持たしたものらしい。 それは兎とに角かく、舟は今、三さん光こう稲荷の下にかかって来る。三光稲荷の夏祭は津島祭の逆さか鉾ほこ舟――一年十二ヶ月は三百六十五の提ちょ灯うちんを山と飾った華麗と涼味とを極めた囃はや子し舟である――にならって、これもおなじく水の祭が極ごく彩さい色しきでと町長の話であった。今後はいよいよ盛んに奨励する意向にも聞いた。民衆の祭は盛んであるほど郷土の意気が勇む。水を祭るは水すい郷きょうのほこりである。精華である。私の郷きょ国うこく筑後の柳やな河かわは沖の端の水天宮の水みず祭まつりには、杉の葉と桜の造花で装飾され、簾すだれを巻き蓆むし張ろばりの化粧部屋を取りつけた大きな舟舞台が、幕あいには笛や太鼓や三味線の囃はや子しもおもしろく町の水路を三日三夜よさも上下する。そうして町のかわるたびに幕をかえ、日をかうるたびに歌舞伎の芸げだ題いも取りかえる。そうした小運河はまた近在の小舟でうずまってしまう。その五月の喜ばしさというものはなかった。まことに水は祭られてよい。夏は、風は、魚うおは、岩は、砂は、この日本ラインにしていよいよ煌こう々こうと祭らるべきである。その三さん光こう稲荷の水の祭もほんのすこし前に過ぎたばかりだということであった。 ﹁坊や、昨ゆう夜べの花火は奇麗だったね﹂ ﹁うん、奇麗だったね﹂ ちょうど河の中の白い三角洲の横を舟はまた走りつつあった。その洲すには赤い旗がひるがえり、数百の花火筒が林立した前の日であった。 隆太郎はその朝、従い兄と弟こたちと名古屋から来た。彼の母はとうとう見えないことになった。すっかり期待を裏切られた幼童の失望はどれほど大きかったか。それでも彼は堪たえに堪えていた。一生懸命に口を結んで泣くまいとしていた痛々しさが父の胸にはひたひたと響き返した。この暑さにこの幼い子を十余日の旅に連れあるくことは危険でもあり、少々果かだ断んにも過ぎた。それで来られるものならその母に預けて、私は単独に気軽にあるき廻ろうかと思っても見た。何でも余りに便通がないので、名古屋では挙こぞって心痛したということであった。﹁そりゃあね、庭の鳳ほう仙せん花かの中か、裏の玉とう蜀もろ黍こし畠ばたけにでも連れてきゃよかったんだよ﹂と私は三高生に笑って見せたが、﹁それでも下剤薬を飲ましたので通じましたよ﹂とその甥おいがまた笑い出した。そうして、﹁ちょっと泣きましたよ﹂と顔を赤くした。病気にでもなられては困るが、兎とも角かく、それでは一緒に連つれて行こうとなった。よしスパルタ教育だ。この旅行は隆太郎にとっては生れて初めての意義ある見学であるのだ。幼児の叡えい智ちと感情と感覚と意志との上に増大し生長し洗練さるる何物かは寧むしろ危険以上のものであるに違いない。で、私も決行したのであった。 ﹁や、花火の椀わん殻がらだな﹂ 炸さく裂れつした後のちの黒い半分ずつの椀殻が水にぽかりぽかりと漂っている。おしどりのようだ。 まったく、長い、薄はく明めいがいよいよ暮つくして短い夏の夜よに入いってからの花火の壮観はすばらしかった。菊きく花かだ壇ん、菊きく先さき乱らん発ぱつ、二尺玉、三尺玉、大菊花壇、二百発三百発の早はや打うち、電光万雷、銀ぎん錦にし変きへ花んか、菊きく先さき錦にし群きぐ蝶んちょう、青光残月、等等等。燦さん爛らんたる孔雀玉の紫と瑠る璃りと、翡ひす翠いと、青せい緑りょく。紅べにと緑の光弾、円えん蓋がい、火ひ箭や、ああ、その銀光の投とあ網み、傘から下かさおろし、爆裂し、奔ほん流りゅうし、分ぶん枝しし、交錯し、粉ふん乱らんし、重ちょ畳うじょうし、傘から下かさおろし、傘下し、傘下し、八方に爛らん々らんとして一瞬にしてまた闇あん々あんたる、清秀とも、鮮麗とも、絢けん爛らんとも、崇すう美びとも、驕きょ奢うしゃとも、譬たとうるに言葉も絶えた。加えて波はじ上ょうの炎々たる水すい雷らい火か、その魚ぎょ鱗りん火か、連弾光、鵜うぶ舟ねの篝かがり、遊覧船の万まん灯とう、提ちょ灯うちん、手投げの白金光、五彩の変々たる点々光、流りゅ出うし柳ゅつ箭りゅうせん、けだし参さんと信しんとの花火芸術の最高を極め精を尽くし神しんを凝こらしたものであった。 空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城の甍いらかと白はく堊あとを耿こう々こうと照らし出したのである。 然しかしまた、そうした一夜の歓楽も過ぎた。祭りの後の果は敢かなさ、そのあわれさは、この水にしてひとしおである。 舟はいま夕暮富士を右手に、その三角洲の緩ゆるい彎曲線に沿うて左寄りの分流を走りつつすべりつつある。 阪さか下したという、ごろた石の土手の斜面に舟か夫こはちょいと舟をとめる。十二、三ばかりの、女の子が前かがみに何か線の細かな菜なの葉はをすすいでいる、芹せりかときいてみるとかすかに顔を赤らめながら、人にん参じんの葉だという。その傍そばで半はん襦じゅ袢ばんの毛けず脛ねの男たちが、養よう蚕さん用の円えん座ざをさっさっと水に浸して勢いよく洗い立てる。空からの高瀬舟が二、三艘ぞう。 船はまた岸を離れる。振り返ると、おお何と典てん麗れいな白帝城であろう。蓊おう鬱うつたる、いつも目に親しんで来たあの例の丘陵の上の、何と閑かん雅がな甍いらか、白い楼ろう閣かく、この下しも手てから観るこの眺めこそは絶勝であろう。私はつくづく下って来てよかったと思った。 ﹁坊や、ほら、お城が見えるよ﹂ ﹁ほんとだ、お城だ﹂ だが、その白帝城とも、じきにお別れである。 分流は時に細い早瀬となり、蘆ろて荻きに添い、また長い長い木き津づの堤つつみの並木について走る。堤には風になびく枝しだ垂れや柳なぎも見える。純朴な古風の純日本の駅亭もある。そうして昔むか作しづくりの農家。 私たちはまた振り返る。﹁さようならお城﹂はるかのはるかの白帝城。 船はまた大たい江こうの河かし心んに出る。石船の帆が白く、時に薄い、紫の影の層をはらんで、光りつつ輝きつつ下をまた真近を、群れつつ、離れつつ去来する。 それよりも、実に驚いたのは、宏大な三角洲の白はく砂さのかがやきであった。実に白い、雪以上の、白以上の強い、輝く白、その﹁白﹂がその全面をもって、直射する、また氾はん濫らんする日光を照りかえす、その﹁白﹂の美感は崇高そのもの、神しん采さいそのものでなくて何であろう。常に﹁白﹂の気きい韻んを香気を幻惑を愛する私にとって、これほどのこうごうしい魅惑はむしろ私を円えん寂じゃ境くきょうの思慕にまで誘う。私はこれほどまでの石や砂の白い実相をかつて見たことがない。 そうして汪おう洋ようたる本流、輝く白のあなたの分流、対岸の、また下流の煙えん霞か、 ﹁海、海﹂と隆太郎は叫ぶ。 ところで、その子はビールの空あき瓶びんを舷ふなべりから、ぽんと水に投げる。瓶は初め茶ちゃ褐かつに、後のちは黒く、首だけもたげもたげして流ながれに浮く。青の紫の鴨かもの首、うしろにうしろに遠くなる。それほど舟が早いのだ。 ﹁まだあかないの、まだあかないの﹂ ﹁坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ﹂ それでも空からのビール瓶がほしさの、立ち上あがっては両手に、しゅうっとコップにむりやりである。 ﹁困るよ、困るよ、ほら飛行場が見える﹂ と、岸には黒人種風景の、裸の童子と童女がいる。松と草くさ藪やぶと水すい辺へんの地面と外光と、筵むし目ろめも光っている。そうして薄あかい合ね歓むの木の花、花、花、そこが北島、向むこう遥はるかが草井の渡し。 前まえ波なみ不動の幽雅な小しょ丘うきゅうを右に見て、また耳に聞く左は梭おさの音のしずかな絵えき絹ぬ織る松倉の里である。 と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広く斜ななめに、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また渺びょ々うびょうとして模も糊こたる下流。 笠島の渡しというところを過ぎる。右の斜面の鼠色じみた帆の幌の小こ舎やの内では、褌ふんどしひとつの船大工が船の内側を河かし心んへ向けて、ととんとん、ととんとんとんと釘を打ち打ちしている。ほれぼれとしたものだ。遊ぶようなその鉄かな槌づちの手。 私たちの舟はまた櫓ろの音も緩ゆるく緩く波上に遊んでゆく、流れはもはや急ではない、大たい江こうの浩こう蕩とうとした漣さざなみである。 北きた方かた村本ほん郷ごうというところで、私たちは三艘ぞうの水車船を見た。また下流で二艘の同じような船を見た。船には家があり横の両側には二台ずつの軽い小こい板たの水車が廻っていた。内部には杵きねの音がし、小こぬ糠かのにおいがこめ、男女の声がしていた。支那の戦車のような形の船であった。これらは流れの瀬の替わるにつれて、昨日は下しも、明日は上かみへとのぼるのである。簡素ないい情趣である。 ﹁これは、童謡になるな﹂と、私は眺め眺めすれちがってゆく。 東海道線は長い長い木曾川の鉄橋が近づいて来た。 ﹁あ、あの右袂たもとが笠松の四季の里です、向むこうが雀のお宿﹂ 素そほ峰う子しは舳へさきに立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高く振ふりなびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。見ると、やや下しも手ての左岸の松林の外では何かしきりに叫んで騒いでいる群むれがあった。裸の童わらべたちである。童わらべヶお丘かとはそのお宿の砂丘にかつてたのまれて私が名付けたものであったが、こうしてちかぢかと来て眺めるのは今が初めてである。 ﹁呼んでますわァ﹂ ﹁君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る﹂ ﹁昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜加かの納う竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生に連つれられて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで﹂ ﹁それは盛んだな﹂と私はまた、一人が飛び、翻ひるがえった向むこうの投とう水すい台だいの強いかがやきをうち見やった。警戒標の旗の先だけが、その下の河かし心んに赤い点をうっている。雨後の増水に流されて位置を変えたのであろう。 ﹁起おこしの水泳場というのはどこだね﹂ ﹁ずっと下しもでなも﹂と蹲うずくまっていたのが、また立ちかける、先さき棹さおである。 ﹁起おこしはどうもあかんで﹂と後あとの櫓ろの手が右斜へいささか引き気味に、ここで刻みかけると、何鳥か白く光って空をば過ぎた。 と、私たちの小舟は小あず豆き色のひろびろとした洲すの浅みに沿って、いきれたつ蘆あしや薄すすきのあいだにすれすれと横になってとまった。四季の里である。 と、その時、その裏の岸辺に早くも出迎えていたその里の老主人と笠松の町長さんとであった。 そこで﹁とうとうお連つれ申したで﹂と雀すず頭めず巾きんは素峰子の眼鏡が光った。 ﹁美濃側の笠松へ第一に舟は着けてお貰いしないと承知せぬで。尾張側の雀のお宿は後あとまわし後まわし﹂で笑って、﹁木曾川下りといえば昔はこの笠松までときまっていたものだ。日本ラインばかりで独占するとは怪けしからん﹂とその家の主人がいきまいたと、それは昨日聞いた話であった。そう聞いて、今日の眺めに接すると、全くそうに違いないと思えた。河口はとにかく、犬山からこの笠松までの悠ゆう容ようたる大景を下流にして、初めて中流の日本ライン、上流の寝ねざ覚め、恵え那なの諸峡が生きるのである。河川として他に比類のない多種多様の変化が、そうしてそれらの綜合美が。 水に臨んだ広い楼ろう上じょうに登って、私は下りに下って来た鉄橋の遥はるかを顧かえりみた。蘇川峡の奇勝、岩壁の鷹たか、白帝城、雨と朱の夕焼けと花火と、今はただ眼に入いるものは雲である、江陵である。つい一、二時間前に見た白く輝く三角洲、分流の早瀬、船大工のとんとん、水車船の野趣、何だか遠い日の向むこうの煙えん霞かと隔たってしまったような気がする。 私はまたこの晴れた日の大たい江こうの下しものあなたを展望した。長堤は走り、両岸の模も糊こたる彎曲線の末すえは空よりやや濃く黒くろんで、さて、花は盛りの紅べにと白とのこの庭の百さる日すべ紅りの近景である。幽雅な繁みと茶亭と、晩夏の日射と蝉せみの声と。 籐とうの卓と籠かごの椅子と、冷ひやした麦茶のコップと鉢の緑の羊よう羹かんと鮎あゆの餅菓子。 東と南とに欄てす干りは繞めぐり、廂ひさしにはまた藤ふじの棚がその葉の青い光線から、おなじくまだ青い実の莢さやを幾条すじも幾条すじも垂らしてはいるが、そうして昼間の岐阜提ちょ灯うちんにもが、風はそよともしないのである。 暑い、なかなか激しい。蝋ろう塗ぬりの白い団うち扇わが乱れ出した。 午後一時。見おろす一面の河かふ幅くは光り、光の中に更に燦さん々さんたるものが光って、その点々を舷げん側そくに、声なく浮ぶ小舟がある。小舟には一、二の人かげの水にうつって、何やらしきりに棹さおで河かし心んを探っている。それは明るいしずかな画趣である。河かて底いの砂にうもれた﹁木こはし﹂をあさるのだそうな。﹁木はし﹂は流木の髄ずいであると聞いた。洪水に押おし流ながされてきた樹木の磨き尽くし洗い尽くされた末すえの髄である。焚たき木ぎとしてこれほどのものはなかろう。烈れつ々れつとして燃え滓かすひとつ残らないという。河かは畔んの貧しい生活者にもこうした天与の恩恵はある。 うち興きょうじていると、﹁しこらん﹂という土地の名菓が出る。豊太閤が賞美してこの名を与えたそうである。形は兜かぶとの錣しころのごとく、かおりは蘭らんのごとしというのだそうな。略して﹁しこらん﹂。私は和オラ蘭ン陀ダ語かと思った。おこしの類るいで、細く小こぎ切りにした、かりかりと歯にあたって、気品のある杏きょ仁うに水んすいの風味がある。 この笠松はその昔﹁葦あしの洲す﹂と称となえた蘆ろて荻きの三角洲で、氾濫する大洪水の度たびごとにひたった。この狐こ狸りの巣そう窟くつを発あばいて初めて拓ひらいたのが三みツ家やの漂流民だと伝えている。その後秀吉が築堤してから、元は尾張に属していたのを何か心あって美濃の所領に移したものだと、﹁旧幕の頃には天領として郡ぐん代だいが置かれたものでして、ついこの下しもの土手に梟さら首しく場びばの跡がございますが﹂と町長、椅子から伸び上あがった。 鉄道開通以来、土地の人が頑固で、折せっ角かくの停車場の設置を肯がえんぜなかったばかりに、木曾下流の渡船場として殷いん賑しんであったこの笠松街道もさっぱり寂れてしまったということであった。 この四季の里は俳名馬ばこ好うと号した常に馬を楽たのしんだ風狂の伯ばく楽ろが初めて営んだものだそうであった。その馬好ももう五十年前ぜんとかに亡くなり、今は県会議員である当主が老後の楽みに買取って、おなじく幽雅な料亭としてその跡を承うけ継ついでいる。 じいじい蝉せみがまたそこらの木こだ立ちに熬いりつき出した。じいじい蝉の声も時には雲と梢こずえを閑しずかにする。 進められるままに私は隆太郎と階し下たの白い浴室にはいる。何かの蔓つるが葡はった窓から、覗くと蘆ろて荻きが見え、河かめ面んが見える。白い浴槽の内では、そこで私が河かっ童ぱの真似をする。隆坊はきゃっきゃっと逃げあがる。 ﹁昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう﹂ ﹁うむ﹂ ﹁お猿がいなかった﹂ ﹁いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ﹂ ﹁ふうん﹂とその父は乱れた髪の毛を石シャ鹸ボンで洗いかける。 実は宵よいの花火までの間を是ぜ非ひその子にも見学させて置きたいと思って、甥おいたちに連つれて出てもらった。そこで土ど田たまで電車で、香こう木ぼく峡から舟でこの父とおなじに、日本ラインを下って来たのであった。 ﹁何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね﹂ ﹁よかったね﹂ 上あがろうとすると、きさくな女中が大きな桃色のタオルを両手にふうわりとふくらまして来た。 ﹁さあ、かわいいお坊っちゃん、お拭きしましょかなも﹂ ﹁いやだ﹂という裸のを、きゅっとかき抱くようにする。逃げかかる。そうなると、いよいよ女中もかまって来る。﹁ね、いい子だなも、いい子﹂さあ小坊主怒るまいか﹁馬鹿野郎、こん畜生﹂爪で引ッ掻く打ぶってかかる、彼は彼で一個の独自の存在であり、個の人格として取とり扱あつかわれないかぎり、少すくなくとも自尊心を傷つけられたと感じたろう。狂人が狂人としての待遇を受くればきっと怒る。おなじ心理で、幼児もあまりに幼くちやほやされると憤いきどおる。童謡の創作にもここはよほど注意すべきところだ。﹁うっちゃって置いてくれたまえ、自分で拭くから﹂と私は声をかけた﹁そうかなも、気の強いお子はんやなも﹂ 二階には上あがったが、隆太郎余よふ憤んが晴れないと見えて、窓の障子紙をぴりぴりぴりと裂き初める。だが、こちらは堆うずたかく持って出された画帖や色紙や短冊をそうはばりばりとやる訳にはゆかない。 少憩の後のち、私たちは立ち上あがった。対岸の雀のお宿を訪ねようというのである。 ﹁お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも﹂ ﹁いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ﹂ ﹁へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ﹂ 自動車が走り出した。 雀のお宿の素そほ峰う子しは、自ら行こう乞きつ子しと称している。かつては書店の主人であったが、愛妻の病没により、哀あい傷しょうの極は発ほつ願がんして、奮ふるって無一物の真の清貧に富もうと努めた。一いっ灯とう園えんにもはいった、その木曾川橋畔に現在の学園を創立するまでの辛苦は並々でなかったらしい。ただこうした事業は気を負いやすいものである。過ぎれば俗情の禍わざわいが来る。童わらべヶお丘かがどれほどの童ヶ丘になりきたったか。この機会に親したしく観て置きたいと私は思ったのである。 雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。低い砂丘のその松原は予想外に閑かん寂じゃくであった。松ヶ根の萩はぎむら、孟もう宗そうの影の映った萱かや家やの黄いろい荒壁、機はたの音、いかにも昔むか噺しばなしの中の鄙ひなびた村の日ざかりであった。莚むしろなどしきちらして、郵便配達夫までが仰向けに昼寝している。その傍そばに杉の皮で葺ふいた風流な門があった。額には青い字で掬きく水すい園えんと題してあった。縁えん側がわや見みと透おしの狭い庭には男女の村童が群たかって遊んでいる。玄関の左には人間愛道場掬水園の板がかかり、ふり仰ぐと雀のお宿の大だい字じの額に延命十句観音経まで散らして彫り、右には所用看かん鐘しょうとして竹に鐘がつるしてあり、下には照しょ顧うこ脚きゃ下っかと書しょしてある。けだし寺であり、学園であり、在家であるというのだろう。ただ趣味としての風雅が形式として勝ち過ぎる。寧むしろ飾らぬがよくはないかと私はいった。仏間が教室で良寛和尚を斎いつぎ、小さな図書室が表に、裏には琅ろう荘かんそうの別棟がある。琅荘では男女の小学教師たちが二、三十人ほど集まって私を待っていた。私は民謡や童謡の話などをして、すぐとまた席を立った。 松林にも腕わん白ぱくらが騒いでいた。良寛堂の敷地には亭てい々ていたる赤松の五、六がちょうどその前まえ廂ひさしの斜ななめに位置して、そのあたりと、日光と影と、白はく砂さと落おち松まつ葉ばと、幽ゆう寂じゃくないい風致を保っていた。 ﹁こんないいところが、対岸にあろうとは思わなかった﹂と四季の里の主人も感嘆した。﹁とにかく、よくこれまでにやりとおして来た、見あげた﹂と私も微笑した。然しかし、これからが大事である。形式が精神を超えると名めい利りの家となる。﹁素そほ峰う、これからやかましくいうぞ﹂と私は笑った。 私たちは桑くわ畑と松林の間を木曾川の左岸に出た。また松林があった。テントと投水台と。 西には養老の山脈、遥はるかには伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、幽かすかに御岳。つい水の向むこうが四季の里の百さる日すべ紅り。 ﹁さあ、これから帰って一杯差さし上あげますで﹂とその老主人公がさっさと踵くびすをめぐらした。 藤棚の多い四季の里の一夜の饗宴には土地の警察署長や農会長、旧知の歌人の黙もく々もく子しなどが加わった。私たちは幾度か庭の茶亭から茶亭へ席を代え代えした。夜がふけて私はたったひとりで仰向きに胸や腹をつん出して眠りころげている隆太郎の蚊か帳やにもぐりこんだ。そうして、そのでっかちな毬いがくり頭をはずれた枕へ持ちあげ、借かり着ぎの寝ねま衣きの前を深く深く合せてやると、そのままぐっすりと眠ってしまって、すぐと河かわ霧ぎりの白い白い夜あけが来た。 私たちはその翌日、養老へ立った。そこで二泊、名古屋に引き返して一泊、それから恵え那なへ行った。四
八月十二日、午後五時。
恵那峡口は遊船会社附近の鉄橋風景である。対岸に簡素な二階建ちの洋館が一つ、清流を隔てたこちらの土手の雑木、草藪、岸には空色に白のモーター・ボート、赤い線のエのフラフをひるがえした屋形船。それに乗り込んだ私たち一行――私と隆太郎と同伴の素そほ峰う子し、その義弟のT少年、それにその地の﹁山峡﹂の歌人たち七、八子し――である。肉いろの、緑の、桃いろの、パラソルを畳んで、水際に蹲うずくまった浴ゆか衣たの女学生らしいのが二、三人、これらは私たちの連つれではない。たまたま雲のごとく水鳥のごとくに現れて、この風景を明るく可憐に点彩したまでのことである。
旧暦は盂うら蘭ぼ盆んの十五日、ちょうど今夜は満月である。空ははれ、風は爽さわやかに、日の光は未だ強い。その良りょ夜うやの前の二、三時間を慌ただしい旅の心が騒さわめきやまぬ。駅から駅への電話が、この中津川で行先不明の私たちをやっと捉えると、直すぐにも引き返さねばならぬ重大用件を取りついだのである。で、上流の福島や寝ねざ覚めの床とこ探勝の予定も中止すると、どうでも明みょう十三日の朝には此こ処こを立たねばならなくなった。で、日の暮までの僅わずかな時間を屋形船はモーター・ボートのぼッぼッぼッぼッに曳ひかせて、大急ぎで恵那峡一帯を乗り廻ろうというのである。
席が定まってから、﹁おや、あの印刷屋さんはどうしたね﹂と、私は驚いて笑った。多た治じ見みにいち早く私たちを出迎えてくれて、それから中津川に着くまでの汽車中を分ふん時じも宣伝の饒じょ舌うぜつを絶たなかった、いささか豸けものへんの恵那峡人Yという、鼻の白くて高い痩せ形の熱狂者が、いつのまにか掻き消すようにいなくなったものである。
﹁あはは、またお出迎いでさあ、何でも活動の撮影団が来るとかいってましたから。とても夢中で﹂
とその従いと兄この民謡詩人がツルリと禿はげ上あがったその前ぜん額がくを指で弾く。
﹁ほう、いそがしいね、愛郷心もあそこまで行けば命懸けだ﹂
何でも八景投票の恵那峡の騒ぎというものは凄すさまじかったらしい。うっかり悪口でもいおうものなら殺される。
と、雲と山と水との四囲の風景が走り出した。
﹁やれ飛べ観音というのは﹂
﹁もっと上かみです。惜おしいことしました、ゆっくり御案内できないで﹂
光る、光る、光る、光る。銀、銀、銀、銀の水すい面めん、水面――水面。
﹁あれが御ごば番んし所ょの森です﹂
幽ゆう邃すいな左岸の林に釣人がいる。一人、二人、三人、四人。麦むぎ稈わら帽ぼうで半シャツ、かがんで、細い棹さおの糸をおなじくしんかんと水に垂らしている。木の影が老おい緑みどり色に澄んで、ぴちりぴちりと何か光るけはいがある。鯉こいや鮠はえを釣るのだという。あの森にはまた鶴が棲んでいたこともあったと誰たれかがいった。木曾谷の下くだる筏いかだを見張った御番所の跡であるらしい。
苗木の城じょ址うしはこれに対して高く頂上の岩層にうら寂さびた疎林がある。日本唯一の赤せき壁へきの城の趾あとがあれだという。この淵の主ぬしである蟠ばん竜りゅうが白はく堊あを嫌ったという伝説がある。
私は﹁恵那峡舟しゅ遊うゆう案内﹂と見みく較らべ見較べ、いそがしい、いそがしい。
風、風、風、風。
光る、光る、すばらしく光る朴ほうの葉裏である。
翠すい巒らん、翠巒。
下しも手ての空そら際ぎわには高圧線の鉄塔が見える。大同電力のダムで堰せかれた河流は百八十尺の高さにその水深を増したというのだ。
風、風、風、風。
水は波は、ともすると逆流する。河というよりたんたんと湛たたえた湖水の面めんである。両岸には、木の梢こずえや、思いもかけぬ枝の半なか上ばうえなどが水に露われて、さながら洪水にひたされた林相である。こうして急流は変じて深しん潭たんとなり、山峡の湖水となり、岩はその根を没して重ちょ畳うじょう奇きし峭ょうの趣おもむきを少すくなからず減じてしまったと聞いた。然しかしながらその為ためにまた水は紺こん碧ぺきを加え、容量は豊富に深しん沈ちんたる山中の幽寂境を現出した。
この恵那峡は木曾川の中流である中津川駅の傍そばから大井町に至る水程三里の間にあって、岐き蘇そ渓谷中の最勝の奇景であるといわれている。日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳しょ立うりつするが恵那峡の岩石美は寧むしろ山上にあり千せん仞じんの懸けん崖がいにある。
﹁あれが青あお崖がけ﹂
眼を遮るは濃のう青せいの脈々たる岩壁である。その下の鞍くら掛かけ岩。その左は展ひらけた下流の空の笠かさ置ぎ山。雲だ、雲だ、雲だ。
右には武むこ光う岩、鬼岩、蟇がま岩、帽子岩、ただ見あぐる岩石の突とっ屹きつ相そう、乱らん錯さく相そう、飛躍相、蟠ばん居きょ相そう、怪異相、趺ふざ坐そ相う相相である。点てん綴てつするには赤松がある、黒松がある、矮わい樹じゅがある、疎林がある。
光る、光る、光る、光る朴ほうの葉裏である。
ぼッぼッぼッぼッ、煙、煙、煙。
﹁や、あれが月つき待まちヶ丘おかです﹂
﹁今夜の満月はさぞいいだろうな﹂と私はその丘の空そら際ぎわをふり仰いだ。それにしてもあまりに慌ただしい舟の速力である。
﹁誰たれか踊らないか﹂と一人がビールをあおった。
﹁あ、あれが村むら雨さめの滝です﹂
峡中の美橋、美み恵え橋が現れて来た。一名褌ふんどし橋というのがそれだ。褌の節約と馬ばふ糞んの拾しゅ集うしゅうとから得た利益を積み立てて架橋したのが大正三年の洪水で流出した。
﹁褌橋が落ちた。と歌うつ﹇#ルビの﹁うつ﹂はママ﹈ったものです﹂で、みんなが笑い出した。今のは鉄橋。
﹁山峡﹂同人の指し呼こはいよいよ急がしくなる。天狗岩です。ほら、枕石だ、後うし阿ろあ弥み陀だ岩だ、砲台岩岩岩岩。
そこで品しなの字じ岩というのが眼界に聳そびえて来る。文字どおりの角かくの巨岩が相対し重じゅ積うせきして、懸けん崖がいの頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。画がとし詩とするには索さく然ぜんたるものがあるからである。
その本流と付つけ知ち川との合流点を右折して、その支流一名緑みどり川を遡そこ航うする舷ふなべりに、早くも照り映ったのは実じつにその深しん潭たんの藍らん碧ぺきであった。日本ラインにもかつて見なかったその水すい色しょくのすさまじさは、まことに深しん沈ちんたる冷徹そのものであった。山中において恐らくいかなる湖面といえどもこれほどの水深を蔵ぞうする凄みは少すくないであろう。大同ダムで堰せき止められて、本来の懸崖の三分の一以上、二百仞じんも高く盛り上あがったその水みず際ぎわには、すなわち現実における魚うおは緑樹の梢こずえにのぼり巉ざん岩がんは河かて底いの暗処に没して幽ゆう明めいさらに分ちがたい。しかもまた峭しょ々うしょうとして相迫った岩壁の間に翼を休めた蒼あおい蒼い真上の空の一角である。雲は白く綿めん々めんとして去来し、巒らん気きはふりしきる蝉せみの声々にひとしおに澄みわたる、その峡中に白いボートを漕ぐ白シャツの三、五子しがいる。この奇異な対照こそ寧むしろ観るべからざるを観る一種の戦せん慄りつをさえ感ぜしめる。
朝鮮金剛の勝しょうに私たちは当面したのである。この渓谷のいさぎよくして閑のどかな、またこの重ちょ畳うじょうたる岩がん峭しょうの不壊力と重圧とは極めて蒼そう古こな墨すみ画え風の景情である。夫めお婦と岩、蓬ほう莱らい岩、岩戸不動滝、垂すい釣ちょ潭うたん、宝船、重ね岩、宝塔等とう等等の名はまたあらずもがな、真の気きは魄くはただに天崖より必ひつ逼ひつする。
安やす子こあ穴なというのがあった。白はく狗ぐと白はく馬ばとの天正時代の伝説がある。後のち、お安やすという女人が零れい落らくしてここに玉のような童子を育てた。以前は岸辺伝いからどうにか上のぼれたであろうところも今は変じて湖上の絶壁となった。
船止めの葦いも毛うた潭んから引かえして本流に出る。
源げん斎さい巌がんが左に、対むかって高く聳そばだつ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面に展ひらけて赤松の細い幹が縁えん辺ぺんに林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味を交まじえてゆく。対たい松しょ崖うがいはこれと映えい照しょうする。
続いて、私たちの屋形船は屏風岩の岩壁にひたひたと舷ふなべりを寄せた。朝鮮金剛の勝しょう以上の大観である。参しん差したる松まつヶえ枝、根に上あがり、横に葡はい、空にうねって、いうところの松しょ籟うら般いは若んにゃを弾ずるの神しん境きょうである。
巒らん気きと水すい光こうと変幻する雲、雲、雲。
右には蕭しょ々うしょうたる滝がある。あ、水車がある。釣人は幽かすかに棹さおをかついで細い径こみちをのぼってゆく。
簡素な別荘がある。近代の料亭もある。
鉦しょ鼓うこ淵えん、盗ぬす人と谷、その天上の風格は亭てい々ていと聳しょ立うりつする将軍台、また厳げんとして平たいらなる金きん床しょ台うだい。
金こん色じきの日光。
と、展望がここで明るくなって左に船着場があった。エの朱線のフラフ、屋形、モーター・ボート、輝く波々、桟橋の童わらべ、風、風、風。
木この間まがくれの茶亭の下へ、さて上あがって、ズボンの釦ぼたんをはずす男もいる。
その正面こそ大同電力の白い白いダム堰えん堤ていである。古典的の幽ゆう邃すいと奇きし峭ょうとはここに変転して、近代の白と灰かい銀ぎんとの一大コンクリート風景を顕けん現げんする。水はまんまんとして、そのダムに堰せかれて湛たたえ、橋梁の連れん灯とうはまだ白く玻はり璃きゅ球うのみ光って、丘陵の上、また水みな辺べに反照する鮮明なる洋風建築、このダムこそ東洋一の壮観だとせられる。その堰堤の高さ百八十尺、長さ一千尺コンクリート、貯水量十億立方尺、堰堤上流三里十二町、面積百七十一町、水量流域百二十三方里、発電機四台、励れい磁じ機き二台、電力四万二千九百キロワット。惜しむらくは下流に立ってこれを仰視し得うる機会を得なかったことである。
私たちはその壮麗なるダムの前の広々とした湖面を一周して、さて、いよいよ帰路についた。急速力でである。
遊船会社の前の峡きょ口うこうは高い高い白い石の橋台に立って、驚くべき長い釣つり棹さおを垂れている人影も見えた。橋の下にも幾いく群むれか糸を投げて魚うおを待つ影も見えた。
夕焼けが来た。さわりさわりとその肩の長い棹を弧ゆみに、その先さきを線路につけて、その鉄橋の枕木の上を拾い拾い渡る男も見えた。
私たちは上あがって、撮影をすると、すでに灯ひのともった臨時電車にぞろぞろと乗り込む、走る、走る、走る。
私は思った。恵那峡の幽ゆう邃すいはともすると日本ラインの豪ごう宕とうを凌しのぐ。ここまで上のぼって来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい、すばらしい。
さて散策して見た中津の町は電飾が鮮あざやかではあったが、いかにも北ほっ国こくの小都市らしく、簡素で、また陰暗たるところがあった。
その晩、梅ばい信しん亭ていで饗宴が催もよおされた。この町の若い美び技ぎが輪になって、そこで、紅あかい頭巾に花笠、裁たっ付つけ袴ばかまのそろいで、本場の木曾踊りを踊った。だがあまりに巧こう緻ちに過ぎ、柔軟に過ぎた。﹁民謡とはそんなもんじゃない、おうい、俺が御おて手ほ本んを示してやる﹂私も酔っていた。隣室に飛び込むと、それ何、それ何、それ何という騒ぎになった。
紅い頭巾で、背中に花笠で、裁たっ付つけ袴ばかまで、やあよいかとゆらりと出て行くと、若い町長初め、一同がやんやと拍手した。
そこで、ちょっと紅い頭巾の頭を掻いて、私も笑い出した。大胆というより無鉄砲なのだ。
﹁おうい、坊や、いっしょに踊ろう。ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイだ﹂
この夜こそ旧暦の盂うら蘭ぼ盆んであった。明るい明るい満月である。