一
その第六話です。 シャン、シャンと鈴が鳴る……。 どこかでわびしい鈴が鳴る……。 駅路の馬の鈴にちがいない。シャン、シャンとまた鳴った。 わびしくどこかでまた鳴った。だが、姿はない。 どこでなるか、ちらとの影もないのです。見えない程にも身みの延ぶのお山につづく街道は、谷も霧、杜もりも霧、目路の限り夢色にぼうッとぼかされて只いち面の濃い朝霧でした。しっとり降りた深いその霧の中で、シャンシャンとまた鈴が鳴りました。遠くのようでもある。近くのようでもある。遠くと思えば近くに聞え、近くと思えば遠くに聞えて、姿の見えぬ駅路の馬の鈴が、わびしくまたシャンシャンと鳴りました。――と思ったあとから、突如として、声こわ高だかに罵り合う声が伝わりました。 ﹁野郎ッ、邪魔を入れたな。俺のお客だ、俺が先に見つけたお客じゃねえかッ﹂ ﹁何ょ言やがるんでえ、おいらの方が早えじゃねえか、俺が見つけたお客だよ﹂ 鈴のぬしの馬子達に違いない。暫く途絶えたかと思うとまた、静かな朝の深い霧の中から、夢色のしっとりと淡白いその霧の幕をふるわせて、はげしく罵り合う声が聞えました。 ﹁うるせえ野郎だな。どけッてたらどきなよ。お客様はおいらの馬に乗りたがっているじゃねえか。しつこい真似すると承知しねえぞ﹂ ﹁利いた風なセリフ吐ぬかすないッ。うぬこそしつこいじゃねえか。おいらの馬にこそ乗りたがっていらッしゃるんだ。邪魔ッ気な真似するとひッぱたくぞ﹂ ﹁畜生ッ、叩たてえたな。おらの馬を叩てえたな。ようしッ、俺も叩てえてやるぞ﹂ ﹁べらぼうめッ。叩いたんじゃねえや。ちょッとさすったばかりじゃねえか。叩きゃおいらも叩いてやるぞ﹂ ﹁野郎ッ、やったな!﹂ ﹁やったがどうした!﹂ ﹁前へ出ろッ、こうなりゃ腕ずくでもこのお客は取って見せるんだ。前へ出ろッ﹂ ﹁面白れえ、俺も腕にかけて取って見せらあ、さあ出ろッ﹂ ドタッ、と筋肉の相あい搏うつ音がきこえました。――しかしそのとき、 ﹁わははは。わははは。やりおるな。なかなか活溌じゃ。活溌じゃ。いや勇ましいぞ。勇ましいぞ﹂ 不意にうしろの濃い霧の中から、すさまじい笑声が爆発したかと思うと、降って湧いたかのように、ぽっかりと霧の幕を破りながら立ち現れた着流し深編笠の美丈夫がありました。誰でもないわが退屈男です。まことに飄ひょ々うひ乎ょうことして、所もあろうにこんな山路の奥の身延街道に姿を現すとは、いっそもう小気味のいい位ですが、しかし、当の本人はそれ程でもないと見えて、相変らず言う事が退屈そうでした。 ﹁元禄さ中に力ちか技らわざ修業を致すとは、下郎に似合わず見あげた心掛けじゃ。直参旗本早乙女主水之介賞めつかわすぞ。そこじゃ、そこじゃ。もそッと殴れッ、もそッと殴れッ。――左様々々、なかなかよい音じゃ。もそッと叩け、もそッと叩け﹂ ﹁え?……﹂ 驚いたのは掴み合っている馬子達でした。 ﹁三公、ちょッと待ちな。変なことを言うお侍がいるから手を引きなよ。――ね、ちょッと旦那。あッし共は力技の稽古しているんじゃねえ。喧嘩しているんですぜ﹂ ﹁心得ておる。世を挙げて滔とう々とうと遊ゆう惰だにふける折柄、喧嘩を致すとは天晴れな心掛けと申すのじゃ。もそッと致せ。見物致してつかわすぞ﹂ ﹁変っているな。もそッと致せとおっしゃったって、旦那のような変り種の殿様に出られりゃ気が抜けちまわあ。じゃ何ですかい。止めに這へ入えったんじゃねえんですかい﹂ ﹁左様、気に入らぬかな。気に入らなくば止めてつかわすぞ。一体何が喧嘩の元じゃ﹂ ﹁何もこうもねえんですよ、あッちの野郎はね。横取りの三公と綽あだ名なのある仕様のねえ奴なんだ。だからね、あっしが見つけたお客さんを、またしても野郎が横取りに来やがったんで、争っているうちに、ついその、喧嘩になったんですよ。本当は仲のいい呑み友達なんだが、妙な野郎でね、シラフでいると、つまりその酒の気がねえと、奇態にあいつめ喧嘩をしたがる癖があるんで、どうも時々殿様方に御迷惑をかけるんですよ。ハイ﹂ ﹁ウフフ、陰にこもった事を申しおる喃。シラフで喧嘩をしたがる癖があるとは、近頃変った謎のかけ方じゃ。では何かな、横取りの三公とか申すそちらの奴は、酒を呑ますとおとなしくなると言うのじゃな﹂ ﹁えッへへ、と言うわけでもねえんだが、折角お止め下すったんだからね、お殿様がいなくなってからすぐにまた喧嘩になっては、お殿様の方でもさぞかし寝醒が悪かろうと、親切に申しあげて見ただけのことなんです。いいえ何ね、それも沢山は要らねえんだ、ほんの五合ばかり、僅か五合ばかり匂いを嗅かがせりゃけっこう長くなるんですよ。へえい、けっこう楽にね﹂ ﹁ウフフ、なかなか味な謎をかける奴じゃ。酒で長くなるとは、どじょうのような奴よ喃、いや、よいよい、五合程で見事に長くなると申すならば、どしょうにしてやらぬものでもないが、それにしても喧嘩のもとのそのお客はどこにいるのじゃ﹂ ﹁……? はてな? いねえぞ、いねえぞ、三的てき! 三的! ずらかッちまったぜ。いい椋むく鳥どりだったにな。おめえがあんまり荒ッぽい真似するんで、胆きもをつぶして逃げちまったぜ﹂ ﹁わはははは、お客を前に致して草相撲の稽古致さば、大概の者が逃げ出すわい。椋鳥とか申したが、どんなお客じゃ﹂ ﹁どんなこんなもねえんですよ。十七八のおボコでね、それが赤い顔をしながら、こんなに言うんだ。あの、もうし馬方さん、身延のお山へはまだ遠うござんしょうかと、袂をくねくねさせながら、やさしく言うんでね。そこがそれ、殿様の前だが、お互げえにオボコの若い別べっ嬪ぴんと来りゃ、気合いが違いまさあね、油の乗り方がね。だから、三公もあっしもつい気が立って、腕にかけてもと言うようなことになったんですよ。えッへへへへ。だが、それにしても、三的ゃ、酒の気がねえと、じきにまた荒れ出すんだ。ちょッくらどじょうにして下さいますかね﹂ ﹁致してつかわそうぞ。あけすけと飾らぬことを申して、ずんと面白い奴等じゃ。身共も一緒にどじょうになろうゆえ、馬を曳いてあとからついて参れ﹂ ﹁え?﹂ ﹁身みの延ぶも詣うでのかわいい女子に酌をして貰うなぞとは、極楽往生も遂げられると申すものじゃ。まだそう遠くは行くまい。今のその袂をくねくねさせて赤い顔を致した椋鳥とやらに、身共も共々どじょうにして貰おうゆえ、急いでついて参れ﹂ ﹁ありがてえ。豪儀と話が分っていらっしゃいまさあね。全く殿様の前だが、江戸のお方はこういう風に御気性がさらッとしていらっしゃいますから、うれしくなりますよ。へッへへ、ね、おい三的! 何を柄がらにもなく恥ずかしがっているんだ。気を鎮めて下さるんだとよ。お酒でね、おめえの気を鎮めて下さるというんだよ。馬を曳いて、はええところあとからやって来な﹂ まことにこんな旗本道中というものは沢山ない。乗ればよいのに乗りもしないで、二頭の空から馬うまをうしろに随えながら、ゆらりゆらりと大股に歩き出しました。 ――行き行く道の先もいち面の深い霧です。 ――その霧の中でシャンシャンと鈴が鳴る。 ﹁なかなか風ふぜ情いよ喃のう﹂ ﹁へえ﹂ ﹁霧に包まれて鈴の音をききながらあてのない道中を致すのも、風流じゃと申しているのよ﹂ ﹁左様で。あっしらもどじょうにして頂けるかと思うと、豪儀に風流でござんす﹂ 行く程にやがて南部の郷を出離れました。離れてしまえば身延久くお遠ん寺じまでは二里少し、馬返しまでは、その半分の一里少しでした。 だのに、今の先、馬子達の草相撲をおき去りにしておいて、胆をつぶしながら逃げるようにお山へ登っていったという十七八のそのあでやかな娘は、どうしたことか見えないのです。 ﹁はてな、三公、ちょッとおかしいぜ﹂ ﹁そうよな。変だね。女の足なんだからな、こんなに早え筈あねえんだが、どこへ消えちまったんだろうね﹂ いぶかりながら馬子達が首をひねっているとき、霧を押し分けて坂をこちらへ、そわそわしながら小急ぎに降りて来た若い身延詣での町人がありました。しかも、そのそわそわしている容子というものが実に奇怪でした。うろうろしながら懐中を探ったかと思うとしきりに首をかしげ、かしげたかと思うとまた嗅ぐようにきょときょと道をのぞきながら、必死と何かを探し探しおりて来るのです。いや、おりて来たばかりではない。ばったり道の真中で退屈男達一行に打つかると、青ざめて言いました。 ﹁あのうもし、つかぬ事をお尋ねいたしますが、旦那様方はどちらからお越しなすったんでございましょうか﹂ ﹁背中の向いている方から参ったのよ。何じゃ﹂ ﹁財布でごぜえます、もしや道でお拾いにはならなかったでござんしょうかしら?……﹂ ﹁知らぬぞ。いかが致したのじゃ﹂ ﹁落したのか掏す摸られましたのか、さっぱり分らないのでござります。今朝早く南部の郷の宿を立ちました時は、確かに五十両、ふところにありましたんですけれど、今しがたお山へ参りまして、御寄進に就こうと致しましたら、いつのまにやら紛失していたのでござります﹂ ﹁ほほう、それは気の毒よ喃、知らぬぞ、知らぬぞ。目にかからば拾っておいてつかわしたのじゃが、残念ながら一向見かけぬぞ﹂ ﹁悲しいことになりましたな。手前には命にかかわる程の大金でござります。そちらのお馬子衆、あなた方もお拾いではござんせんでしたか﹂ ﹁拾うもんけえ。そんなでけえ蛙を呑んだ財布を拾や、鈴など鳴らしてまごまごしちゃいねえやな、おいらも知らねえぜ﹂ ﹁そうでござりまするか。仕方がござんせぬ。お騒がせ致しまして恐れ入りまする。念のため宿までいって探して参ります﹂ うろうろと道を探し探し降っていったのを見送りながら、馬子達がにやり目と目を見合わせると、不意に謎のようなことを囁き合いました。 ﹁三公、どうもちッと臭えぜ﹂ ﹁そうよな。虫も殺さねえような面つらしていやがったが、あのオボコがそうかも知れねえぜ、大年増に化けたり、娘に化けたりするッて噂だからな。やったかも知れねえよ﹂ ちらりとその言葉を耳に入れた早乙女主水之介が、聞き流す筈はないのです。 ﹁何じゃ、何じゃ。化けるとは何の話じゃ﹂ ﹁いいえね。今の青あお僧ぞうの五十両ですが、ありゃたしかに掏摸れたんですよ﹂ ﹁どうしてまたそれを知ってじゃ﹂ ﹁いるんですよ、一匹この街道にね。それも祠しど堂うき金んばかり狙う女スリだっていうんですがね、三十位の大年増に化けたかと思うと、十七八のかわいらしい奴に化けたりするっていうんですがね。どうもさっきの娘が臭せえんです。足の早えのも、ちッとおかしいが、今登っていったばかりなのに、あの青僧がきょときょと入れ違げえにおりて来たんだからね、てっきりさっきの娘がちょろまかしたに違げえねえんですよ﹂ 言っているとき、またひとりそわそわしながらおりて来た五十がらみの、同じように講こう中ちゅう姿した男がありました。しかもそれがやはり言うのです。 ﹁あのう、もし――﹂ ﹁財布か﹂ ﹁じゃ、あの、お拾い下さいましたか!﹂ ﹁知らぬ、知らぬ、存ぜぬじゃ﹂ ﹁はてね、じゃ、どうしたんだろう。お山に行くまではたしかにあったんだがな。ねえとすりゃ大騒動だ。ご免なんし――﹂ 通りすぎて程たたぬまに、またひとりきょときょとしながら坂を降って来ると、同じように青ざめながら、ぶしつけに言いました。 ﹁もしや、あの?﹂ ﹁やはり財布か﹂ ﹁へえい。そ、そうなんです。祠堂金が二百両這入っていたんですが、もしお拾いでしたら――﹂ ﹁知らぬ、知らぬ、一向に見かけぬぞ﹂ ﹁弱ったことになったな。すられる程ぼんやりしちゃいねえんだから、宿へでも置き忘れたのかしら――。いえ、どうもおやかましゅうござんした﹂ 行き過ぎるや同時に、退屈男の双のまなこは、キラリ冴え渡りました。ひとりばかりか三人迄も同じ難に会うとは許し難い。 ﹁よほどの凄すご腕うでと見ゆるな﹂ ﹁ええもう、凄腕も凄腕も、この三月ばかりの間に三四十人はやられたんでしょうがね、只の一度も正体はおろか、しッぽも出さねえですよ﹂ ﹁根じろはどこにあるか存ぜぬか﹂ ﹁それがさっぱり分らねえんです。お山に巣喰っていると言う者があったり、いいやそうじゃねえ、南部の郷にうろうろしているんだと言う者があったりしていろいろなんだがね、どっちにしてもあッしゃさっきの娘が臭せえと思うんですよ。――きっとあの手でやられたんだ、おいらにさっき道をきいたあの伝でね、袂をくねくねさせながら恥ずかしそうに近よって来るんで、ぼうッとなっているまにスラれちまったんですよ。――それにしても姿の見えねえっていうのは奇態だね、どこへずらかッちまったんだろうな。なにしろ、この霧だからね﹂ だが、身延の朝霧、馬返しまで、という口碑伝説は、嘘でない。聖しょ日うに蓮ちれんの御遺徳の然らしむるところか、それとも浄じょ魔うま秘ひき経ょう、法ほけ華きょ経うの御ごく功ど徳くが然らしむるところか、谷を埋め、杜もりを閉ざしていた深い霧も、お山名代のその馬返しへ近づくに随したがって、次第々々に晴れ渡りました。と同時に、遙か向うの胸つくばかりな曲り坂の中途にくっきり黒く浮いて見えたのは、まさしく女の小さな影です。 ﹁よッ、あれだ、あれだ。殿様、あの女がたしかにそうですよ。だが、もうお生憎だ。この馬返しから先は、お供が出来ねえんだから、スリはともかく、お約束のどじょうの方はどうなるんですかね﹂ ﹁一両遣わそうぞ。もう用はない、どじょうになろうと鰻になろうと勝手にせい﹂ まことにもう用はない。ひとときの退屈払いには又とない怪しき女の姿が分ったとすれば、見失ってはならないのです。吹替小判をちゃりんと投げ与えておくと、すたすたと大股に追っかけました。二
二丁、三丁、五丁。――豪ごう儀きなものです。全山ウチワ太鼓に埋まっていると見えて、一歩々々と久くお遠ん寺じの七堂どう伽がら藍んが近づくに随い、ドンドンドドンコ、ドドンコドンと、一貫三百どうでもよいのあのあやに畏こい法ほう蓮れん華げば囃や子しが、谷々に谺こだましながら伝わりました。それと共に女の姿も一歩一歩と近づきました。――と思われた刹那! 気がついたに違いない、俄かに女が急ぎ出したのです。 だが京から三河、三河からこの身延路へと退屈男の健脚は、今はもうスジ金入りでした。 ﹁もし、お女中!﹂ すいすいと追いついて肩を並べると、ギロリ、目を光らしながら先ずその面を見すくめました。然るに、これがどうもよろしくない。 ﹁ま!……やはりお山へ!﹂ 追いつかれたらもう仕方がないと思ったものか、馴れがましく言いながら嫣えん然ぜんとしてふり向けたその顔は、侮あなどり難い美しさなのです。加うるに容易ならぬ風ふぜ情いがある。匂やかに、恥じらわしげに、ぞっと初うい初いしさが泌み入るような風情があるのです。 ﹁ほほうのう﹂ ﹁は?……﹂ ﹁いやなに、何でもない。おひとりで御参詣かな﹂ ﹁あい……。殿様もやはりおひとりで?﹂ ﹁左様じゃ。そなたもひとり身共もひとり――あの夜のお籠りがついした縁で、といううれしい唄もある位じゃ。どうじゃな、そなたとて二人して、ふた夜三夜しっぽりと参籠致しますかな﹂ ﹁いいえ、そんなこと、――わたしあの、知りませぬ﹂ くねりと初い初いしげに身をくねらして、パッと首筋迄も赤らめたあたり、三十年増が化けたものなら正に満点。――然し退屈男の眼はそのまにもキラリキラリと鋭く光りつづけました。掏す摸りとった小判はどこに持っているか? 胸の脹らみ、腰の脹らみ? だが、腰にも胸にも成熟した娘の匂やかさはあっても、小判らしい包みはないのです。ないとしたら――あの手をやったのだ。スリ取った金は途中で道のどこかにかくしておいて、ひと目のない時に掘り出す彼等の常套手段を用いているに違いないのです。――退屈男は、軽く微笑しながら掏す摸る機会を与えるように、わざと女の側へ近よると、懐中ぽってりふくらんでいる路銀の上をなでさすりながら、誘いの隙の謎をかけました。 ﹁どうも小判はやはり身の毒じゃ。母様がな、きつい日蓮信者ゆえ、ぜひにも寄進せいとおっしゃって二百両程懐中致してまいったが、腹が冷えてなりませぬわい。――ほほう、襟足に可愛らしいウブ毛が沢山生えてじゃな。のう、ほら、この通り、男殺しのウブ毛と言う奴じゃ。折々は剃らぬといけませぬぞ﹂ ﹁わたし、あの……そんなこと、知りませぬ。ひとりで参ります。どうぞもう側へ寄らないで下さりませ﹂ だが女は、退屈男の眼の配りの鋭さにうっかり手出しは禁物と警戒したものか、それともそうやって嬌きょ羞うしゅうを作っておいて油断させようというつもりからか、くねりと身をくねらせながら長い袂で面を覆うと、逃げるように側から離れました。しかもその早いこと、早いこと、燕のように身をひるがえしながら、丁度行きついた境内へ小走りに駈け込むと、ウチワ太鼓の唸りさざめいている間を、あちらにくぐりこちらにくぐりぬけて、あッと思ったそのまに、もうどこかへ姿を消しました。 ﹁わははは、剣道修業の者ならば、先ず免許皆伝以上の心しん眼がんじゃ。苦手と看破って逃げおったな。いや、よいよい、この境内へ追い込んでおかば、またお目にかかる事もあろうわい。――こりゃ、坊主、坊主﹂ 勿体らしく衣の袖をかき合せながら、むらがり集たかっている講中信者の間をかいくぐって、並び宿坊の方へ境内を急いでいた雛僧を見つけると、まことに言いようもなく鷹おう揚ようでした。 ﹁有難く心得ろ。江戸への土産に見物してつかわすぞ。案内せい﹂ ﹁滅相な、当霊場は見物なぞする所ではござりませぬ。御信心ならばあちらが本堂、こちらが御祖師堂、その手前が参籠所でござります。御勝手になされませ﹂ 剣もほろろにはねつけた気の強さ! 無理もない、聖しょ日うに蓮ちれんが波はき木い井ご郷うの豪族、波木井実長の勧かん請じょうもだし難く、文永十一年この一廓に大法華の教旗をひるがえしてこのかた、弘ぐほ法うさ済いせ世いの法燈連綿としてここに四百年、教権の広大もさることながら、江戸宗家を初め紀き、尾び、水すいの御三家が並々ならぬ信仰を寄せているゆえ、将軍家自らが令してこれに法格を与え、貫かん主すは即ち十万石の格式、各支院の院主は五万石の格式を与えられているところから、納なっ所しょの雛僧の末々に至るまでもかように権を誇っていたのは当り前です。 ﹁ウフフ、こまい奴が十万石を小出しに致しおったな。鰯の頭も神信心、尼になっても女おな子ごは女子じゃ。見物してならぬと言うなら、遊山致してつかわそうぞ﹂ あちらへのそり、こちらへのそり、ウチワ太鼓、踊り狂ういやちこき善男善女の間を縫いながら、逃げのびた女やいずこぞとしきりに行ゆく方えを求めました。 だが、いないのです。本堂からお祖師堂。お祖師堂から参籠所、参籠所から位いは牌いど堂う、位牌堂から経きょ堂うどう中ちゅ堂うどう、つづいて西にし谷だにの檀だん林りん、そこから北へ芬ふん陀だり梨み峯ねへ飛んで奥の院、奥の院から御ごく供りょ寮う、それから大神宮に東照宮三光堂と、七堂どう伽がら藍ん支しい院ん諸しょ堂どう残らずを隈くまなく尋ねたが似通った年頃の詣で女はおびただしくさ迷っていても、さき程のあの怪しき女程のウブ毛も悩ましい逸品は、ひとりもいないのです。 ぐるりと廻って、再び本堂前まで帰って来たとき、 ﹁とうとう見つかった。こんなところにおいででござんしたか、もしえ殿様!﹂ 不意にうしろから呼びかけた声がありました。馬返しで別れた横取りの三公です。プーンと酒が臭い。 ﹁どじょうになったな。何の用じゃ﹂ ﹁えッへへへへ、どうもね、この通り般はん若にゃ湯とうですっかり骨までも軟かくなったんで、うれしまぎれに御殿様の御容子を拝見に参ったんでござんす。一件の女あま的てきはばれましたかい﹂ ﹁見失うたゆえ、探しているのよ﹂ ﹁顔に似合わず素ばしッこかったからね。どッかへ隠れてとぐろを巻いているんでしょうよ。いえ、なにね、それならそれでまた工夫もあると言うもんでござんす。実は今あの通りね、ほら、あそこの経堂のきわに大連の御講中が練り込んで来ておりますね。何でもありゃお江戸日本橋の御講中だとかいう話なんだ。日本橋と言えば土一升金一升と言う位なんだからね、きっとお金持ち揃いに違えねえんですよ。だから、今夜あの連中がお籠り堂へ籠ったところを狙って、こんな晩に大稼ぎとあの女あま的てきがお出ましになるに違えねえからね、どうでござんす。智慧はねえが力技は自慢のあッしなんだ。どじょうにして頂いたお礼心にね、あっしもお手伝いしたって構わねえんだが、殿様も旅のお慰みにお籠りなさって、化けて出たところを野郎とばかり、その眉間の傷でとッちめなすっちゃどうですかい﹂ ﹁面白い。ドンツク太鼓をききながらお籠りするのも話の種になってよかろうぞ、万事の手筈せい﹂ ﹁へッへへ。手筈と言ったって、おいらにゃこれがありゃいいんだ。酔がさめて夜半にまた喧嘩虫が起きるとならねえからね。ふんだんに油を流し込んでおくべえと、さっきの小判のうちからね、この通り用意して来たんですよ﹂ 背中の奥から、盗んだ西瓜でも出すように、こっそり取り出したのは、すさまじいことに一升徳利が二本です。しかも万事に抜け目がない。 ﹁ここが一番風通しがよくてね。ひと目にかからず中の様子はひと眺めという、お殿様の御本陣にゃ打ってつけの場所です。今のうちに取っておきましょうから、おいでなせえまし﹂ いざなっていった所は、広縁側の柱の蔭の、いかさま見張るには恰好な場所でした。そのまにもひとり二人、五人、八人といやちこき善男善女達が、あとからあとからと参詣に詰めかけてお山はしんしん、太鼓はドンツク、夕べの勤ごん行ぎょうの誦ずし唱ょうも極楽浄土のひびきを伝えながら、暮れました、暮れました。善も悪も恋も邪欲も、只ひと色の黒い布に包んで、とっぷりと暮れたのです。三
ふけるにつれて、参籠所はギッシリと横になる隙もない程の人でした。百畳、いや二百畳、いや、三百畳敷位もあろうかと思われるその大広間と、虫のように黒くうごめくその数え切れぬ人々を、ぼんやり暗く照らしているのは、蓮華燈が六つあるばかり。その明滅する灯あかりの下で、鮨詰めの善男善女達が、襲いかかる睡魔を避けようためにか、蚊の唸るような声をあげて、必死とナンミョウホウレンゲキョウを唱えつづけました。 しかし、眉間の傷も冴えやかなわが早乙女主水之介は、うしろの柱によりかかって、いとも安らかに白河夜船です。まことに、これこそ剣禅一味の妙境に違いない。剣に秀で、胆に秀でた達人でなくば、このうごめく人の中で、しかも胡あぐ坐らを掻いたまま、眠りの快を貪るなぞという放れ業は出来ないに違いないのです。 ﹁殿様え。ね、ちょっと、眉間傷のお殿様え﹂ ﹁………﹂ ﹁豪ごう儀きと落付いていらっしゃるな。鼾いびきを掻く程も眠っていらっしゃって、大丈夫かな﹂ ちびりちびり三公は、二升徳利のどじょう殺しを舐なめ舐め大満悦でした。 そのまにいんいんびょうびょうと、七堂どう伽がら藍ん十六支院二十四坊の隅々にまでも、不気味に冴えてひびき渡ったのは丁度四ツ。――その時の鐘が鳴り終るや殆んど同時です。さやさやと忍びやかに広縁廊下を通りすぎていったのは、まさしく女の衣きぬずれの音でした。――刹那! 轡くつわの音に目を醒すどころの比ではない。何ごとも知らぬもののように、軽い鼾さえも立てていた退屈男が、カッとその両眼を見開きました。手もまた早いのです。膝の下に敷いていた太刀をじりッと引きよせて、気付かれぬように柱の蔭へ身をかくしながら、ほの暗い灯りをたよりに見定めると、年の頃は二十七八の年増でしたが、ひと際白い襟足の美しさ、その横顔の仇っぽさ――。 ﹁化けたなッ﹂ 退屈男の脳裡にはあの言葉が閃ひらめきました。娘になったかと思うと年増に変り、年増になったかと思えば娘に変ると言った、今朝ほどのあの馬方の言葉です。いや閃いたばかりではない。果然女の行動には怪しい節が見え出しました。虫も殺さぬようにつつましく廊下を向うへ行くと、 ﹁あのもうし、御免なされて下されませ。前に連れがいるのでござります。通らせて下されませ﹂ 猫なで声で言いながら、日本橋の御講中といった裕福らしい一団がひと塊になってお籠りしているその人込みの間を、わざわざ押し分けながら前へいざり進んで行きました。四
一間! 二間!…… 三間! 五間!…… 十人! 十五人!…… 二十人! 三十人!…… 押し分け押し分けながら、いざりいざって、人込みの奥深く這入っていったかと見えるや途端! ﹁畜生ッ、スリだッ、スリだッ﹂ ﹁スリがまぎれ込んでいるぞッ﹂ ﹁俺もやられたッ、気をつけろッ﹂ 怪しの女がいざり進んでいったその人込みのうしろから、突如としてけたたましい叫び声が挙ったかと思うと同時で、どッと人々が総立ちになりました。 しかしその時退屈男は、どじょう殺しの徳利を抱えてまごまごしている三公を置き去りにしながら、すでに早くひらりと身を躍らして、参籠所の前の広庭を経堂裏の方へ、一散に走っている最中でした。人々が騒ぎ出したひと足前にあの怪しの女が、縁から縁を猿ましらのように軽々と伝わって、暗い影を曳きながらその経堂裏の方角へ必死に逃げ延びて行く姿を、逸早く認めたからです。――その目の早さ、足の早さ。 だが、女も早い。よくよく境内の地形と配置に通暁していると見えて、今ひと息のところまで追いかけたかと思うと、するりと右に廻り、廻ったかと思うとまた左へ抜けて、どうやらその目ざしているところは西谷の方角でした。無論見失ったらあとが面倒、途中のどこかの支院の中に逃げ込まれても同様にあとが面倒なのです。只一つ仕止める方法は手裏剣でした。足一本傷つけるのを覚悟で、追いちぢまったところを狙い打ちに打ち放ったら、手元に狂いもなく仕止められるに違いないが、兎にも角にも霊場なのだ。血を見せてはならぬ法のりの浄じょ地うち、教おしえの霊場なのです。――いくたびか抜きかかった小こづ柄かを押え押えて、必死と黒い影を追いました。今十歩、今十歩と、思われたとき、残念でした。無念でした。女がつつうと横にそれると、西にし谷だに檀だん林りんの手前にあった末まつ院いん行ぎょ学うか院くいんの僧房へさッと身をひるがえしながら逃げ入ったのです。いや、そればかりではない。偶然だったか、それともそういう手筈でもが出来ていたのか、逃げ込んでいった女のあとを追いながら、構わずその庭先へどんどん這入っていった退屈男の眼前へ、ぬッと現れながら両手を拡げんばかりにして立ち塞がったのは、六尺豊かの逞しき荒法師然とした寺僧です。しかも、立ち塞がると同時に、びゅうびゅうと吠えるような声を放ちながら、すさまじい叱を浴びせかけました。 ﹁狼ろう藉ぜき者ものッ。退れッ、退れッ。霊場を騒がして何ごとじゃッ。退らッしゃいッ﹂ ﹁申すなッ、無礼であろうぞッ。狼藉者とは何を申すかッ﹂ ぴたりそれを一喝かつしておくと、退屈男は自じじ若ゃくとして詰なじりました。 ﹁いらぬ邪魔立て致して、御僧は何者じゃ﹂ ﹁当行学院御院主、昨秋来らい関東御ごじ巡ゅん錫しゃ中くちゅうの故を以て、その留守を預かる院いん代だい玄げん長ちょうと申す者じゃ。邪魔立て致すとは何を暴言申さるるか、霊地の庭先荒さば仏ぶつ罰ばつ覿てき面めんに下り申すぞッ﹂ ﹁控えさっしゃい。荒してならぬ霊地に怪しき女掏摸めが徘はい徊かい致せしところ見届けたればこそ、これまで追い込んで参ったのじゃ。御僧それなる女を匿かくまい致す御所存か!﹂ ﹁なに! 霊地を荒す女掏摸とな。いつ逃げこんだのじゃ。いつそのような者が当院に逃げ込んだと申さるるのじゃ﹂ ﹁おとぼけ召さるなッ、その衣の袖下かいくぐって逃げ込んだのを、この二つのまなこでとくと見たのじゃ。膝元荒す鼠そぞ賊く風ふぜ情いを要らぬ匿い立て致さば、当山御貫かん主すに対しても申し訳なかろうぞ﹂ ﹁黙らっしゃい。要らぬ匿い立てとは何を申すか! よしんば当院に逃げ込んだがまことであろうと、窮きゅ鳥うちょうふところに入る時は猟りょ夫うふもこれを殺さずと申す位じゃ。ましてやここは諸しょ縁えん断だん絶ぜつ、罪ある者とてもひとたびあれなる総門より寺内に入らば、いかなる俗法、いかなる俗界の掟おきてを以てしても、再び追うことならぬ慈悲の精しょ舎うじゃじゃ。衆しゅ生じょ済うさ度いどを旨と致すわれら仏弟子が、救いを求めてすがり寄る罪びとを大慈大悲の衣の袖に匿かくまうたとて何の不思議がござる。寺じり領ょうの掟すらも弁えぬめくら武士が、目に角立ててのめくら説法、片腹痛いわッ。とっとと尾ッぽを巻いて帰らっしゃい﹂ ﹁申したな。それしきの事存ぜぬわれらでないわ。慈悲も済さい度ども時と場合によりけりじゃ。普あまねき信者が信心こめた献納の祠きど堂うき金んは、何物にも替え難い浄財じゃ。それなる替え難い浄財を尊き霊地に於てスリ取った不ふら埒ちも者の匿かくまうことが、何の慈悲じゃッ。何の済度じゃッ。大慈大悲とやらの破れ衣が、通らぬ理屈申して、飽くまでも今の女匿おうと意地張るならば、日之本六十余州政道御意見が道楽の、江戸名物早乙女主水之介が、直参旗本の名にかけて成敗してつかわそうぞ。とっとと案内さっしゃい﹂ ﹁なにッ、ふふうむ。直参じゃと申さるるか。身延霊場に参って公儀直参が片腹痛いわッ。御身にお直参の格式がござるならば、当山当院には旗本風情に指一本触れさせぬ将軍家御ごい允んき許ょの寺格がござる。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 五万石の寺格を預かる院代玄長、五万石の寺格を以てお断り申すわッ。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 帰らっしゃい!﹂ ﹁申したか! ウッフフ、とうとう伝でん家かの宝ほう刀とうを抜きおったな! 今に五万石を小出しにするであろうと待っていたのじゃ。よいよい、信徒を荒し霊地を荒す鼠そぞ賊くめを、霊地を預かり信徒を預かる院代が匿もうて、五万石の寺格が立つと申さるるならば、久方ぶりに篠崎流の軍学大出し致してつかわそうぞ。あれなる女はいずれへ逃げ落ちようと、御僧がこれを匿もうた上は、御身が詮議の対手じゃ、法華信徒一同になり代って、早乙女主水之介ゆるゆる詮議致してつかわそうわ。今から覚悟しておかっしゃい。いかい御やかましゅうござった﹂ 無念だが仕方がない。胆たんを以て、腕を以て、あの向う傷に物を言わせて、力ずくにこれを押し破ったならば破って破れないことはないが、そのため怪我人を出し、血を見るような事になったら、他の猪ちょ勇ゆうに逸はやる旗本なら格別、わが早乙女主水之介には出来ないのです。霊地を穢けがすその狼ろう藉ぜきが、わが退屈男の気性気ッ腑として出来ないのです。ましてや対手は代役ながら、治外の権力ともいうべき俗人不犯の寺格を預かっている寺僧でした。これが僧衣の陰に隠して、飽くまでも匿まおうと言うなら、まことに篠崎流の軍学以外にひと泡吹かする途はない。 ﹁わははは。あの荒法師なかなかに胆たんが据っておるわ。いや、よいよい。ずんときびしく退屈払いが出来そうじゃ。ひと工夫致してつかわそうぞ﹂五
引き揚げてのっそりと帰ろうとしたとき、それ見たことか小気味がいいわと言うように、嘲笑いながら院代玄長が消えていった同じその行ぎょ学うが院くいんの小暗い庭先から、隠れるようにつつうと走り出して来たのは、黒い小さな人の影です。しかも引き揚げようとしている退屈男の行く手に塞がると、不意に呼びかけました。
﹁もうし、あの、殿様、お願いでござります﹂
﹁なにッ﹂
同時にギラリ、退屈男の目が冴え渡りました。頭つむりも丸い、僧衣も纏っているのに、まさしく今の、もうしあのと言った声こわ音ねは女だったからです。
いや、声音ばかりではない。プーンと強く鼻を打ったものは、まぎれもなく若い女性の肌の匂いでした。その上に色がくっきり白い、夜目にもそれと分る程にくっきりと白いのです。のみならずその面おもざしは、円えん頂ちょ僧うそ衣ういの姿に変ってこそおれ、初うい初いしさ、美しさ、朝程霧の道ではっきり記憶に刻んでおいたあの謎なぞの娘そっくりでした。――刹那! 退屈男の鋭い言葉が飛んだのは言うまでもない。
﹁不敵な奴めがッ、また化けおったなッ﹂
﹁いえ、御勘違いでござります。滅相もござりませぬ。御勘違いでござります﹂
﹁申すなッ、娘に変り年増に変り、なかなか正体現さぬと聞いておるわ。自ら飛び出して来たは幸いじゃ。窮きゅ命うめいしてつかわそうぞ。参れッ﹂
﹁いえ、人違いでござります。人違いでござります。わたくしそのようなものではござりませぬ。只今悲しい難儀に合うておりますゆえ、お殿様のお力にすがろうと、このように取り紊みだした姿で、お願いに逃げ出して来た者でござります﹂
﹁なに? 身共の力にすがりたいとな! 人違いじゃとな! 災難に会うているとな!――はて喃のう。そう言えばこの奥へ逃げ失せた女とは少し背が小さいようじゃが、では、今朝ほど坂で会うたあの娘ではないと申すか﹂
﹁いえ、あの時のあの者でござります。江戸お旗本のお殿様とも存ぜず、何やら怕こわうござりましたゆえ、ついあの時は逃げましたなれど――﹂
﹁逃げたそなたが、またどうしてこのような怪しい尼姿なぞになったのじゃ﹂
﹁お力お願いに参りましたのもこの尼姿ゆえ、悲しい災難に会うているのもこの恥ずかしい尼姿ゆえでござります﹂
﹁ほほう喃。これはまた急に色模様が変ったな。仔細は何じゃ、一体どうして今朝ほどのあのかわいらしい姿をこんな世捨人に替えたのじゃ﹂
﹁それもこれも……﹂
﹁それもこれもがいかが致した﹂
﹁お恥ずかしいこと、恋ゆえにござります﹂
﹁わははは、申したな。申したな、恋ゆえと申したな。いやずんと楽しい話になって参ったわい。身共も恋の話は大好きじゃ。聞こうぞ、聞こうぞ。誰が対手なのじゃ﹂
﹁申します。申します。お力におすがり致しますからには何もかも申しますなれど、あのそのような、そのような大きいお声をお出しなさいましては、奥に聞かれるとなりませぬゆえ、もう少しおちいさく……﹂
﹁なに! では、そなたの災難も今奥へ消えていった荒法師玄長に関かかわりがござるか﹂
﹁あい。ある段ではござりませぬ。あの方様は御院代になったのを幸いにして、いろいろよからぬ事を致しまするお方じゃとの噂にござります。それとも知らずお弟子の念ねん日にち様さまに想いをかけましたがわたしの身の因果――、わたくしは岩淵の宿しゅくの者でござります。このお山の川の川下の川ほとりに生れた者でござります。ついこの春でござりました。念日様が御ごぐ弘ほう法かた旁が々た御修行のお山の川を下って岩淵の宿へおいでの砌みぎり、ついした事から割りない仲となりましたのでござります。なれどもかわいいお方は、いいえ、あの、恋しい念日様は御仏に仕えるおん身体、行末長う添うこともなりませぬお身でござりますゆえ、悲しい思いを致しまして、一度はお別れ致しましたなれど――。お察し下されませ。女おな子ごが一生一度の命までもと契った恋でござりますもの、夢にもお姿忘れかねて、いろいろと思い迷うた挙句、御仏に仕えるお方じゃ、いっそわたしも髪をおろして尼姿になりましたならば、いいえ、髪をおろして、尼姿に窶やつし、念日様のお弟子になりましたならば、女と怪しむ者もござりませぬ筈ゆえ、朝夕恋しいお方のお側そばにもいられようと、こっそり家を抜け出し、今朝ほどのようにああしてこのお山へ上ったのでござります。幸い誰にも見みと咎がめられずに首尾よう念日様のお手で黒髪を切りおとし、このような尼姿に、いいえ、ひと目を晦くらます尼姿になることが出来ましたなれど、あの院代様に、さき程お争いのあの玄長様に、乳房を――いいえ、女である事を看みや破ぶられましたが運のつき、――その場に愛いとしい念日様をくくしあげて、女にょ犯ぼんの罪を犯した法敵じゃ、大罪人じゃと、むごい御ごせ折っか檻んをなさいますばかりか、そう言う玄長様が何といういやらしいお方でござりましょう。宵からずっと今の先迄わたくしを一室にとじこめて、淫みだらがましいことばかりおっしゃるのでござります。それゆえどうぞして逃げ出そうと思うておりましたところへ、この騒動が降って湧きましたゆえ、これ幸いとあそこの蔭まで参りましたら――お見それ申してお恥ずかしゅうござります。怕こわらしいお殿様じゃとばかり思い込んでおりましたお殿様が、どうやら御気性も頼もしそうな御旗本と、つい今あそこで承わりましたゆえ、恥ずかしさも忘れて駈け出したのでござります﹂
﹁ほほう喃、左様か左様か。いやずんとうれしいぞ。うれしいぞ。恋するからにはその位な覚悟でのうてはならぬ。大だい切じな黒髪までもおろして恋を遂げようとは、近頃ずんと気に入ったわい。それにつけても許し難きは玄長法師じゃ。先程庇かばった女スリはいずれへ逃げ失うせたか存ぜぬか﹂
﹁庫く裡りの離れに長煙管を吸うておりまする。いいえ、そればかりか、先程念日様が折せっ檻かんうけました折に、つい口走ったのを聞きましたなれど、なにやらあの女スリと玄長様とのお二人は、もう前から言うもけがらわしい間柄じゃとかいうことにござります。いえいえ、祠しど堂うき金んを初め、お山詣での方々の懐中を掠かすめておりますことも、みな玄長様のお差しがねじゃとか言うてでござります﹂
﹁なにッ。まことか! みなまことの事かッ﹂
﹁まことの事に相違ござりませぬ。わたしの念日様が嘘を言う気づかいござりませぬゆえ、本当のことに相違ござりませぬ﹂
﹁売まい僧すめッ、よくも化かしおッたなッ。道理で必死とあの女を庇いおッたわッ。スリを手先に飼いおる悪僧が衆生済度もすさまじかろうぞ。どうやら向う傷が夜鳴きして参ったようじゃわい。案内召されよ﹂
事ここに至らばもう容赦するところはない。篠崎流軍学の必要もない。院代玄長にかかる横おう道どう不ふら埒ちのかくされたる悪業があるとすれば、五万石が百万石の寺格を楯にとって、俗人不犯詮議無用の強ごう弁べんを奮おうと、傷が許さないのだ。あの眉間傷が許さないのです。――ずかずか引返して行くと、床しい美しい尼姿の恋娘をうしろへ随えながら、黙ってずいと行学院の大玄関を構わずに奥へ通りました。
﹁あの、なりませぬ! なりませぬ! どのようなお方もいつ切せつ通してならぬとの御院代様御言いつけにござりますゆえ、お通し申すことなりませぬ﹂
﹁………﹂
駈け出して小こざ賢かしげに納なっ所しょ坊ぼう主ず両三名が遮さえぎったのを、黙もく々もく自じじ若ゃくとして、ずいとさしつけたのは夜鳴きして参ったと言った眉間三寸、三日月形のあの冴えやかな向う傷です。
これにあってはやり切れない。ひとたまりもなく三人の青坊主達はちぢみ上がって、へたへたとそこに手をつきました。
ずいずいと通りすぎて、目ざしたのはあの女スリが長煙管弄もてあそんでいると言った庫く裡りの奥の離れでした。
﹁あの灯あかりの洩れている座敷が離れか﹂
﹁あい。ま! あの方も、念日様も、あそこへ曳かれてまた折檻に合うていなさりますと見え、あの影が、身みも悶だえしておりまするあの影が、わたしの念日様でござります﹂
庭の木立ちを透かして見ると、まさしく三つの黒い影が障子に映っているのです。何やら怒号しているのは、あれだあれだ、六尺豊かな荒法師玄長坊でした。
と見るやつかつかと足を早めて、さッとその障子を押しあけると、まことにどうもその自若ぶり、物静けさ、胆の太さ、言いようがない。
﹁売まい僧す、ちん鴨かもの座ざき興ょうにしては折せっ檻かんが過ぎようぞ、眉間傷が夜鳴き致して見けん参ざんじゃ。大慈大悲の衣ころもとやらをかき合せて出迎えせい﹂
﹁なにッ――よッ。また参ったかッ。た、誰の許しをうけて来らい入にゅう致しおった! 退れッ。退れッ。老中、寺社奉行の権職にある公儀役人と雖も、許しなくては通れぬ場所じゃ。出いッ。出いッ。表へ帰りませいッ﹂
不意を打たれてぎょッとうろたえ上がったのは、荒法師玄長でした。否! さらにうろたえたのはあの女スリでした。立て膝の蹴出しも淫らがましく、プカリプカリと長煙管を操っていた、あの許し難き女スリでした。両人共さッと身を退ひいて、気けし色きばみつつ身構えたのを、
﹁騒ぐでない、江戸に名代の向う傷は先程より武者奮い致しておるわ。騒がば得たりと傷が飛んで行こうぞ﹂
不気味に、静かに、威嚇しながら、そこに慄え慄え、蹲うずくまっている、わたしの念日様なる恋の対手の若僧をじろりと見眺めました。――無理はない。まことに恋の娘が尼にまでなったのも無理がない、実に何ともその若じゃ僧くそうが言いようもない程の美男なのです。
﹁ほほう、川下の尼御前、羨ましい恋よ喃﹂
﹁いえ、あの、知りませぬ。そんなこと知りませぬ。それより念日様をお早く……﹂
﹁急がぬものじゃ。今宵から舐なめようとシャブろうと、そなたが思いのままに出来るよう取り計らってつかわそうぞ。ほら、繩目を切ってつかわすわ﹂
﹁よッ、要らぬ御節介致したなッ。何をするかッ。何をッ﹂
血相変えて玄長が詰なじったのは当然でした。
﹁女にょ犯ぼんの罪ある大罪人を、わが許しもなく在ざい家けの者が勝手に取り計らうとは何ごとかッ﹂
﹁たけだけしいことを申すでない。ひと事らしゅう女犯の罪なぞと申さば裏の杜もりの梟ふくろうが嗤わらおうぞ﹂
﹁ぬかしたなッ。では、おぬし、五万石の尊い寺格、許しもうけずに踏み荒そうという所存かッ。詮議禁制、俗人不犯の霊地を荒さば、そのままにはさしおきませぬぞッ﹂
﹁またそれか、スリの女を手飼いに致す五万石の寺格がどこにあろうぞ。秘密はみな挙ったわッ。どうじゃ売まい僧す! そちの罪ざい業ごう、これなる恋尼に、いちいち言わして見しょうか!﹂
﹁なにッ!……﹂
﹁そのおどろきが何よりの証拠じゃ。どうじゃ売僧! これにても霊地荒しの、俗人不犯のと、まだ四の五の申すかッ﹂
﹁そうか! 女めがしゃべったか。かくならばもう是非もない! ひと泡吹かしてくれようわッ﹂
だッと掴みかかろうとしたのを、静かにするりとかいくぐっておいて、疾風のように逃げ出そうとした女スリを横抱きに猿えん臂びを伸ばしざま抱きとると、
﹁総門外までちと土産に入用じゃ。――女! 騒ぐでない。江戸旗本がじきじきに抱いてつかわすのじゃ﹂
もがき逃れようとして焦るのを軽々と荷物のように運びながら、うしろにおどおどしている恋の二人を随えて、ずいずいと歩み出しました。
しかしその時、荒法師玄長のひと泡吹かしてやろうと言うのはそれであるのか、ドンドンとけたたましく非常太鼓を打ち鳴らしながら、表の闇に対って叫ぶ声が聞かれました。
﹁霊場を荒す狼ろう藉ぜき者ものが闖ちん入にゅうじゃッ。末まつ院いんの御坊達お山警備の同どう心しん衆しゅう! お出合い召されいッ、お出合い召されいッ﹂
同時に、あちらから、こちらから霊場聖地の、夜半に近い静寂を破って、ドウドウいんいんと非常の太鼓が非常の太鼓につづいて鳴りひびいたかと思われるや、けたたましく叫び合ってどやどやと足音荒く殺さっ到とうする気けは勢いが伝わりました。
だが退屈男の自じじ若ゃくぶりというものはたとえようがない。
﹁わははは、人足を狩り出して御見送り下さるとは忝かたじけない。それもまた近頃ずんと面白かろうぞ﹂
不敵に言いすてながら二人をうしろに、女を荷物にしたままで、急がず騒がず総門目ざしました――途端!
﹁あれじゃ! あれじゃ!﹂
﹁搦からめとれッ。搦めとれッ﹂
口々にわめき立てながら、行く手に殺到して来たのは僧兵もどきの二三百人と、身ごしらえ厳重なお山同心の一隊です。
﹁ほほう、揃うてお見送りか、夜中大儀々々﹂
少しあの向う傷の事を考えればよいのに、さッと恐れ気もなく行く手を塞いだのは八九名。同時に一喝が下りました。
﹁眉間をみいッ。眉間の三日月をみいッ。天下御免の通行手形じゃ。祖師日蓮のおん名のために鞘さや走ばしらぬまでのこと、それを承知の上にて挑みかからば、これなる眉間傷より血が噴こうぞ﹂
微笑しながらずいずいと行くのに手が出ないのです。その騒ぎを聞いたか、わッと参籠所から雪崩出て来たのは、善男善女の真黒い大集団でした。見眺めるや退屈男の声は冴え渡りました。
﹁きけ! きけ! いずれもみなきけ! その方共の懐中を狙うたお山荒しの女スリは、直参旗本早女主水之介が押え捕ってつかわしたぞ! いずれも安心せい!――ではうしろの二人。あれが総門じゃ。ゆるゆる参ろうぞ﹂
威嚇しては押し分け、押し分けては威嚇しながら、悠々と総門外へ出ると、冴えたり! その叱のすばらしさ!
﹁さあ参れッ。この門を外に出でなば斬り棄て御免じゃ。三目月傷も存分に物を言おうぞッ。遠慮のう参れッ﹂
だが来ない。来られるわけがないのです。本当に三日月傷があやかにもすさまじく物を言うのであるから、来られるわけがないのです。――その代りに、ちょろちょろと、やって来たのは、どじょう殺し持参のあの三的てきでした。
﹁よう。日本一のお殿様! 向う傷のお殿様! あッしだ。あッしだ。たまらねえお土産をお持ちだね。お約束だ、お手伝い致しますぜ﹂
﹁生きておったか。幸いじゃ。早う舟を用意せい﹂
﹁合点だッ。富士川を下るんですかい﹂
﹁身共ではない。ここに抱き合うておいでの花聟僧に花嫁僧お二人じゃ。しっぽり語り合うているまに、舟めが岩淵まで連れてくれようぞ。――両人、来世も極楽じゃがこの世もずんとまた極楽じゃ。そのような恋の花が咲いておるのに、つむりを丸めて味気のう暮らすまでがものはない。遠慮のう髪を伸ばして楽しめ。楽しめ。わははは、身共はひとりで退屈致そうからな﹂
あい、とばかりに泣き濡れて、いと珍しい僧そう形ぎょうの花嫁花聟が、恥じらわしげに寄り添いながら、横取りの三公の手引で渡し場目がけつつ闇の道をおりようとしたとき。
﹁ここにうせたかッ。帰してなるものかッ。いいや、女を渡してなるものかッ。出合えッ、立ち合えッ﹂
叫びざま追いかけて来て、荊いば玉らだ造まつくりの鉄てつ杖じょうふりあげながら、笑止にも挑みかかったのは玄長法師です。
﹁まだ迷いの夢がさめぬかッ。早乙女主水之介、恐れながら祖師日蓮に成り代り奉って、妄もう執しゅう晴らしてくれようぞ﹂
女を小脇のままで、あッと一閃、抜き払った刀の峯みね打うちです。ぐうう――と長い音を立てながら、六尺入道玄長法師がもろくも悶もん絶ぜつしながら、長いうえにも長く伸びたのを見ますと、荷物にしていた女にはこぶし当ての一撃!
﹁並んで長くなっておらば、貫かん主す御ごそ僧うじ正ょうが事の吟味遊ばさって、よきにお計らい下さろうぞ、ゆるゆる休息致せ﹂
ゆらりゆらりと降りて行く闇の下から言う声がありました。
﹁日本一の三日月殿様! 花嫁舟は出しましたよう。泣いてね、ぴったりね、なかよく喰っついてね、流れていきましたよ﹂