一
――その第十話です。 ﹁おういよう……﹂ ﹁何だよう……﹂ ﹁かかった! かかった! めでたいお流れ様がまたかかったぞう!﹂ ﹁品は何だよう!﹂ ﹁対ついじゃ。対じゃ。男おぼ仏とけ、女めぼ仏とけ一対が仲よく抱きあっておるぞ﹂ ﹁ふざけていやアがらあ。心中かい。何てまた忙しいんだろうな。今漕ぎよせるからちょッと待ちなよ﹂ ギイギイと落ちついた櫓音と共に、おどろきもせず慌てもせず漕ぎ寄せて来る気けは勢いでした。――場所は大川筋もずっと繁華の両国、冬ざれの師しわ走す近い川風が、冷たく吹き渡っている宵五ツ頃のことです。 船はすべてで三艘。――駒形河岸裏の侠きょ客うかく出いず石し屋や四郎兵衛が、日ごと夜ごとのようにこの大川筋で入じゅ水すいする不了簡者達を戒めるためと、二つにはまた引取手のない無縁仏を拾いあげてねんごろに菩ぼだ提いを弔とむらってやろうとの侠きょ気うきから、身内の乾こぶ児んた達ちに命じて毎夜こんな風に見廻らしている土どざ左ぶ船ねなのでした。土左衛門を始末するための船というところから、いつとはなしに誰いうとなく言い出したその土左衛門船なのです ﹁みろ! みろ! おい庄しょ的うてき! 男も若くていい男だが、女はまたすてきだぜ﹂ ﹁どれよ。どこだよ﹂ ﹁な、ほら。死顔もすてきだが、第一この、肉付きがたまらねえじゃねえかよ。ぽちゃぽちゃぽってりと程よく肥っていやがって、身ぶるいが出る位だぜ﹂ ﹁分らねえんだ。暗くて、おれにはどっちが頭だかしっぽだかも分らねえんだよ。もっと灯あかりをこっちへ貸しなよ。――畜生ッ。なるほどいい女だね。くやしい位だね。死にたくなった! おらも心中がして見てえな。こんないい女にしッかり抱かれて死んだら、さぞや、いいこころ持ちだろうね﹂ ﹁言ってらあ。死ぬ当人同士になって見たら、そうでもあるめえよ。それにしても気にかかるのはこの年頃だ。何ぞ書置きかなんかがあるかも知れねえ。ちょっくら仏をこっちへねじ向けて見な﹂ しっかり抱き合ったまま、なまめかしい緋ひじ縮りめ緬んのしごきでくるくると結ゆわえてある二人の死体を、漸く船の上に引揚げながら、何ごころなく灯りの下へ持ち運ぼうとした刹那! パッとその船ふな龕がん燈どうの灯りが消えました。 ﹁畜生ッ。いけねえ! 何だか気味のわりい死体だぜ。早くつけろ! つけろ! 灯りをつけなよ﹂ ﹁つ、つけようと思ってるんだが、なかなかつかねえんだよ。――何だかいやだね。変な気持になりゃがった。只の心中じゃねえかも知れねえぜ﹂ ﹁大の男が何ょ言うんでえ。お流れいじりは商しょ売うべいのようなおれらじゃねえかよ。俺がつけてやるからこっちへ貸してみな﹂ 代って灯りを点けようとしたその若いのが、突然げえッと言うように飛びのくと、ふるえる声で叫びました。 ﹁畜生ッ。巻きつきゃがった。巻きつきゃがった。ぺとりと女の髭の毛が手首に巻きつきゃがったぜ﹂ ﹁え! おい! 本当かい。脅かすなよ。脅かすなよ。――いやだな、何か曰くのある心中だぜ﹂ 気味のわるいのをこらえながら、漸く灯りを点けて検べて見ると、やはりあるのです。女の帯の間から察しの通り、小さな油紙包みが現れました。しかも出てきた品は、小判が十枚と、走り書きの書置なのです。その書置もあり来たりの書置に見るように、先き立つ不孝をお許し下され度、生きて添われぬ二人に候えば死出の旅路へ急ぎ候、というような決り文句は一字も書いてはなくて、只二人の身元だけを書き流しにしるした型破りの書置なのでした。﹁男。京橋花園小路、糸屋六兵衛伜せがれ、源七。女。新吉原京町三ツ扇屋抱え遊女、誰たが袖そで。十両は死体を御始末下さるお方への御手数料として、ここに添えました。よろしきようにお計らい願わしゅう存じます﹂
僅かにそれだけを書いた書置なのです。
﹁変だぜ。変だぜ。やっぱりどうも調子が変だよ﹂
﹁な! ……﹂
﹁男も男だが、女が花おい魁らんだけに、なおいけねえんだ。どっちにしても棄てちゃおけねえんだから、早えところ京橋へお知らせしなくちゃならねえ。船を出しなよ﹂
何をするにしても先ず事の第一は、源七と名の見える若旦那風のその親元の、糸屋六兵衛に急をしらせるのが先でした。――抱き合ったままのいたましい骸むくろを守りながら、折からの上げ潮を乗り切って漕ぎに漕ぎつ、急ぎに急ぎつ、さしかかったのは大川名打ての中なか州すく口ちです。
ここから京橋へ上る水路は二つ。即ちその中洲口から箱崎河岸、四日市河岸を通って、稲荷橋下から八丁堀を抜けて上って行く水路と、やや大廻りだが川を下に永代橋をくぐって、御船手組の組屋敷角から同じく稲荷橋へ出て、八丁堀へ上る水路とその二つでした。言うまでもなく前の水路を辿った方が早いことを知っていたが、何を言うにも舟そのものがあまり縁起のよくない土左船なのです。上り下りはなるべく人目を避くべし、川中の通航は遠慮の事、他船の往来を妨げざるよう心して川岸を通るべし、という御おふ布れ令が書きの掟を重んじて、その川岸伝いに遠道の永代橋口へさしかかって行くと、酔狂といえば酔狂でした。そこの橋手前の乱らん杭ぐい際ぎわに片寄せて、冬ざれの夜には珍しい夜釣りの舟が一艘見えるのです。しかもこれが只の舟ではない。艫ともと舳へさきの二カ所に赤々と篝かがりを焚いて、豪ごう奢しゃ極きわまりない金屏風を風よけに立てめぐらし、乗り手釣り手は船頭三人に目ざむるような小姓がひとり。
﹁やだね。別べっ嬪ぴんの小姓がひとりで時でもねえ冬の夜釣りなんて気味がわりいじゃねえか。今夜はろくなものに会わねえよ。――真平御免やす! 御目障りでござんしょうが、通らせておくんなせえまし! 土左船でごぜえます!﹂
﹁なに! 土左船!﹂
小姓ひとりかと思ったのに、遠くから呼んだその声が伝わり届くと同時です。不思議な釣り舟の中から、凛りんとした声もろともにむっくり起き上がった今ひとりの人影が見えました。
眉間に傷がある。
誰でもない退屈男早乙女主水之介でした。
﹁土左船、水死人はどんな奴ぞ?﹂
﹁心中者でごぜえますよ﹂
﹁ほほう。粋いきなお客じゃな。何者達かい﹂
﹁男は京橋花園小路、糸屋六兵衛伜源七という書置がごぜえます。女は吉原三ツ扇屋の花魁誰たが袖そでというんだそうでごぜえますよ﹂
﹁花魁とあの世へ道行はなかなかやりおるのう。よい、よい。通行差許してつかわすぞ。早う通りぬけい!﹂
ギイギイとひそやかに土左船がろべそを鳴らしながら、漕ぎ去っていったのを見すますと、さも退屈そうに、長々と伸びをしながら、吐き出すように主水之介が言ったことでした。
﹁面白うない。京弥、そろそろ罷まかり帰るかのう。精進日という奴じゃ。土左船に出会うようでは釣れぬわい。ウフフフ。主水之介の眉間傷も小魚共には利き目が薄いと見ゆるよ﹂
﹁はッ。御帰館との御ごじ諚ょうならば立ち帰りまするでござりますが、釣れぬのは――﹂
﹁釣れぬのは何じゃ﹂
﹁水死人ゆえでも、御眉間傷の利き目が薄いゆえでもござりませぬ。冬の夜釣りがそもそも時はずれ、ましてやタナゴ釣りは陽ひのあるうちのもの、いか程横紙破りの御好きな御殿様でござりましょうとも、釣れる筈のない時に釣れる道理はござりませぬ﹂
﹁わははは。身共を横紙破りに致したは心憎いことを申す奴よのう。眉みけ間んき傷ずも曲っておるが、主水之介はつむじも少々左ねじじゃ。馬鹿があってのう﹂
﹁は?﹂
﹁昔のことよ。昔々大昔、馬鹿があってのう。箒ほうきで星を掃き落とそうとしたそうじゃ。ウフフフ。主水之介もその馬鹿よ。釣れても釣れのうても釣りたくなると釣って見たいのじゃ。――帰るかのう﹂
いかさまつむじが言う通り少々左ねじです。主水之介いかに江戸一の名物男であったにしても、時でもない時に釣れる筈はない。だのに、釣れぬと知りつつ、こんな冬ざれの寒風をおかしながら、わざわざ夜釣りにやって来たのは、タナゴ釣りの豪奢極まりない清興に心惹かれたからでした。手竿は、折りたたむと煙きせ管るの長さだけに縮まるところからその名の起きた、煙管尺十本つぎの朱ぬり竹、針はり糸すは、男の肌を知らぬ乙女の生いき毛げを以ってこれに当てると伝えられている程の、凝こりに凝った大名釣りなのです。
﹁船頭々々﹂
﹁へッ﹂
﹁獲物はないが、冬ざれの大川端の遠とお灯び眺むるもなかなか味変りじゃ。そのように急ぐには及ばぬぞ﹂
﹁でも京弥様が、寒いゆえ早うせい、早うせいと――﹂
﹁申したか! ウッフフ。京弥! なかなか軍師じゃのう。どんな風やら、さぞかし寒かろうぞ。菊めの袖屏風がないからのう。身共も吉原へでも参って、よい心中相手を探すかな﹂
﹁ま! またお兄様が御笑談ばッかり、その菊路はここにお迎えに参っておりまする﹂
言ううちにいつか長割下水の屋敷近くへ漕ぎつけていたと見えて、薄闇の中から不意に言ったのは妹のその菊路です。
﹁あの、京弥さまは? ……﹂
﹁ここでござります﹂
﹁ま? お寒そうなお姿して――、御風邪は召しませなんだか。そうそう。あの御兄様、大事ことを忘れておりました﹂
大事なことがあるというのに、先ず先に想おもい人京弥が風邪を引いたか引かないかをきいておいて、漸く思い出すのですから、恋持つ者は不ふら埓ちながらもいじらしいのです。
﹁な! お兄様、あの、先程から何やら気味のわるい御客様が御帰りを御待ちかねでござります﹂
﹁なに! 気味のわるい客とのう。どんな仁体の者じゃ﹂
﹁口では申されぬ気味のわるい男のお方でござります﹂
﹁ききずてならぬ。すぐ参ろうぞ。仲よく二人で舟の始末せい﹂
パッと身を躍らせて一足飛び。主水之介の足は不審に打たれながら早まりました。
二
帰って見ると、なるほど客間に不思議な男がつくねんとして坐っているのです。 年の頃は四十がらみ、頭に毛がなく、顔に目がある。――一向不思議はなさそうであるが、毛のない頭はとにかくとして、その目がいかにも奇怪でした。パッチリ明いているのに少しも動かないのです。その上に、男の身体そのものも、この上なく奇怪でした。まるで石です。しいんと身じろぎもせずに部屋の隅へ小さく坐って、しかもどことはなしに影が薄く、もぞりとも動かないのです。 ﹁身共が主水之介じゃ。何ぞ?﹂ ﹁………﹂ あッともはッとも言わずに、動かないその目を明けたまま、ニタリと笑って、極度のろうばいを見せながら、畳へ坊主頭をすりつけんばかりに平伏すると、いかにも不気味でした。ひと言も物を言わずに、幽かすかなふるえを見せながら、そのまま長いこと平伏していたかと思うと、どんよりと怪しく光るその目を空に見開いたまま、傍らの風呂敷包を探って、無言のままそこへ差出したのは見事な菓子折でした。しかも金水引に熨の斗しをつけた見事なその菓子折を差出しておくと、奇怪なあの目を空に見開いたまま、ふるえふるえあとずさりして、物をも言わずに怕こわ々ごわとそのまま消えるように立ち去りました。 ﹁おかしな奴よのう。わッははは、これは何じゃ。この菓子折をどうしようと申すのかい﹂ いぶかりながら引きよせて、ちらりと見眺めた刹那です。 ﹁よッ。なにッ?﹂ さすがの退屈男もぎょッとなって、総身が粟粒立ちました。 ﹁寸志。糸屋六兵衛伜源七――﹂ あの男の名前です。今のさっき大川で土左船の者からきいたばかりの、あの心中の片われの名がはッきりと熨斗紙の表に書かれてあったからです。 ﹁不審なことよのう。――京弥々々。京弥はいずれじゃ﹂ ﹁はッ。只今! 只今参りまするでござります﹂ 菊路とのうれしい恋の語らいが漸く済んだか、なぜともなくパッと頬を赤らめながら、倉そう皇こうとして這入って来たのを眺めると、指さして言いました。 ﹁それをみい﹂ ﹁何でござります?﹂ ﹁幽霊が菓子折を届けて参ったのよ。そちも聞いた筈ゆえ覚えがあろう。その名前よくみい﹂ ﹁……? えッ! なるほど、源七とござりまするな。まさしくあの心中男、ど、どうしたのでござります。どこから誰が持参したのでござります?﹂ ﹁今の先、青テカ坊主が黙ッておいていったわ﹂ ﹁なるほど。では、只今のあの按あん摩までござりまするな﹂ ﹁会うたか!﹂ ﹁今しがた御門先ですれ違いましてござりまするが、あれならばたしかにめくらでござります﹂ ﹁わはは。そうか。そうか。目は明いておるが盲めく目らであったと申すか。道理で蛤はまぐりのような目を致しおったわい。それにしても源七とやらは、とうにもう大川から三途ずの川あたりへ参っている筈じゃ。何の寸志か知らぬが、身共につけ届けするとは不審よのう﹂ 言っているとき、 ﹁あの、お兄様、またいぶかしい品が届きましてござります﹂ 声と共に色めき立って姿を見せたのは、妹の菊路です。 ﹁何じゃ。また菓子折か﹂ ﹁あい。これでござります﹂ 差出したのを見眺めると同時に、主水之介も京弥も等しくぎょッとなりました。 ﹁御前様へ。吉原三ツ扇屋抱え、誰たが袖そで﹂ 表には、紛れもないあの心中の片われの女の名前が、はっきりと書きしるされてあったからです。 ﹁よくよく不気味なことばかりよのう。取次いだは菊か。そちであったか﹂ ﹁あい。やさしゅうちいさな声で、ご免下さりませと訪のうた者がござりましたゆえ、出てまいりましたら、式台際に顔の真ッ白い――﹂ ﹁女か﹂ ﹁いいえ、女のような男でござります。それも若い町人でござりました。その者がいきなり黙ってこの品を出しまして、殿様に――お兄様によろしゅうと、たったひとこと申したまま、何が怕こわいのやら、消えるように急いで立ち去りましてござります﹂ ﹁何から何まで解げせぬことばかりじゃ。幽霊なぞがあるべき筈はない。いいや、あッたにしても傷の主水之介、冥めい土どから菓子折なぞ受ける覚えはない。まだそこらあたりに姿があるであろう。京弥、追いかけてみい﹂ ﹁心得ました。菊どの! 鉄てっ扇せん々々﹂ 万一の場合を考えて手馴れの鉄扇片手にすると、紫しこ紺んぬ絖めこ小しょ姓うば袴かまの裾取って、まっしぐらに追いかけました。 だが、やがてのことに帰って来た姿を見ると、怪けげ訝んそうに首をかしげているのです。 ﹁見かけざったか﹂ ﹁ハッ。いかにも不思議でござります。ご存じのように道は、遠山三之進様の御屋敷まで真ッ直ぐに築つい地ぢつづき、ほかに曲るところもそれるところもござりませぬのに、皆かい目もく姿が見えませぬ。念のためにと存じまして、裏へも廻り、横堀筋をずッと見検べましたが、ひと影はおろか小舟の影もござりませぬ﹂ ﹁のう! ……。参ったからには足がないという筈はあるまい。ちとこれはまた退屈払いが出来るかな。その菓子、二折とも開けてみい﹂ 恐る恐る開けて見ると、しかしこれが二つともに見事な品でした。――源七からの贈り物は、桔きき梗ょう屋の玉だれ。 誰袖からの品もまた、江戸に名代の雨宮の干菓子です。 ﹁ほほう、いよいよ不審よのう。二品ともにみな主水之介の大好物ばかりじゃ。身共の好物知って贈ったとは、幽霊なかなか話せるぞ。それだけに気にかかる。京弥、何なん時どき頃ごろじゃ﹂ ﹁四ツ少し手前でござります﹂ ﹁先刻、土左船がたしか京橋花園小路の糸屋だとか申したな﹂ ﹁はッ。間違いなく手前もそのように聞きましてござります﹂ ﹁ちと遅いが、すておけぬ。伜がよからぬ死に方したとあっては、定めし寝もやらず、まだ打ち騒いでおるであろう。よい退屈払いじゃ。そちも供するよう乗物支度させい﹂ いかさま棄ておけない事でした。心中を遂げた筈の男女から不気味至極な折箱到来とあっては、よい退屈払いどころか、事が穏かでないのです。 打ち乗ればもう直参千二百石、京弥をつれての道中も悪くないが、乗り心地もまた悪くない。 町から町は凩こがらしゆえにか大方もう寝しずまって辻番所の油障子にうつる灯が、ぼうと不気味に輝いているばかり……。 ﹁その駕籠待たッしゃい。急いでどこへお行きじゃ﹂ ﹁身共じゃ。退屈払いに参るのよ。この眉みけ間んをようみい﹂ ﹁あッ。傷の御前――いや、早乙女の御前様でござりまするか。御ゆるりと御保養遊ばしませい﹂ 保養とは言いも言ったり、傷も江戸御免なら退屈払いも今はすでに江戸御免でした。――急ぎに急いで、察しの通りまだカンカンと灯をともしている糸屋六兵衛方の店先へ乗りつけると、これがまたわるくないのです。 ﹁直じき々じきの目通り、苦しゅうないぞ。主ある人じはおるか﹂ ﹁おりますが、只今ちょッと家のうちに取込みがござりますゆえ、出来ますことならのち程にでも――﹂ ﹁その取込事にかかわる急用で参ったのじゃ。おらば控えさせい﹂ ﹁失礼ながらどちら様でござります﹂ パラリと静かに頭巾をとると、黙ってさしつけたのは名物のあの眉間傷でした。 ﹁あッ、左様でござりましたか。それとも存ぜず失礼致しましてござります。――旦那様! 大旦那様! 早乙女の御殿様がわざわざお越しにござります! 御早くどうぞこれへ!﹂ 仰天したのは当り前です。あたふたと姿を見せて、物も言えない程に打ちうろたえながらそこへ手をついた六兵衛へ、穏かに言葉をかけました。 ﹁そのように固かたくならずともよい。主水之介不審あって罷まかり越こしたのじゃ。土どざ左ぶ船ねの者達、こちらへ参った筈じゃが、伜共の死体もう届いたであろうな﹂ ﹁へえい。と、届きましてござります。半刻程前に御運び下さいましたが、それがちと――﹂ ﹁いかが致した。生き返ったか!﹂ ﹁ど、どう仕りまして。伜とは似てもつかぬ全然の人違いなのでござります﹂ ﹁なにッ。人違いとのう! ほほう、そうか。ちとこれは面白うなって参ったかな。なれども死顔は変るものじゃという話であるぞ﹂ ﹁よしや変りましても、親の目は誰より確か。年恰好、背恰好はどうやら似ておりまするが、伜はもッと優やさ型がたでござりました。水死人はむくみが参るものにしても、あのように肥っておりませなんだ筈、親の目に間違いはござりませぬ﹂ ﹁でも、書置にまさしくその方伜と書いてあったそうじゃが、それは何と致した﹂ ﹁なにより不審はそのこと。骸むくろは誰が何と申しましょうとも、見ず知らずの他人でござりますのに、どうしたことやら、書置の文字は紛まぎれもなく伜の手て蹟でござりますゆえ、手前共もひと方ならず不審に思うているのでござります﹂ ﹁女の方はどうぞ? 誰袖とやらの骸は、吉原へ送ったか。それともまだこちらにあるか﹂ ﹁こちらにござります。何が何やらさッぱり合点参りませぬゆえ、庭先に寝かしたままでござりまするが、それもやはり――﹂ ﹁人違いじゃと申すか!﹂ ﹁はッ。なにはともかくと存じまして、さそくに人を飛ばし、三ツ扇屋とやらの主ある人じにもお越しを願うたところ、今しがた駈けつけまして打ちしらべましたばかりでござりまするが、やはり似てもつかぬ別人じゃそうにござります﹂ ﹁のう! ――まことと致さばなにさまいぶかしい。騒ぎのもとと相成ったその伜はいずれじゃ。源七は行ゆき方がた知れずにでもなっておるか﹂ ﹁それが実は心配の種でござります。どうしたことやら、四日程前にぶらりと家を出たきり、行き先も居どころも皆かい目もく分りませぬゆえ、もしや不了簡でも起したのではないかと、打ち案じておりましたところへ、人違いの心中者が届きましたゆえ、かように騒ぎが大きくなった次第でござります﹂ ﹁誰袖もか﹂ ﹁同じ日の夕方、やはり居のうなっているのじゃそうにござります。そういうお殿様はまた、いったいどうしてここへ?﹂ ﹁到来物があったからじゃ。行ゆき方がた知れずの源七達から菓子折が参ったのよ﹂ ﹁えッ。ではあの、せ、伜はまだ生きておるのでござりましょうか! どこぞにまだ存そん生じょうしておりましょうか!﹂ ﹁おるかおらぬかそれが謎じゃ。人間二匹居のうなって死体が揚がる、書置の手蹟は本人のものじゃがむくろは別人、死んだ筈のその者共から、選りに選って傷の主水之介に菓子折が到来したとあっては面白いわい面白いわい。いや近項江戸にも珍しい怪談ものじゃ。念のためそれなる死体一見しょうぞ。案あな内いせい﹂ 心得て六兵衛が恐きょ懼うくしながら導いていったところは、ガヤガヤと黒くろ集だかりになって人々が打ち騒いでいる奥庭先です。同時にそれと知って、サッと遠のいたのを、物静かに近よりながらのぞいてみると、死体は男女とも実に行儀がよい。しごきで結わえたままの身体を新あら筵むしろの上に寝かされて、犇ひしと左右から寄り添いながら、男女共にその顔は、何の苦しみもなく少しのもがいたあとも見せず、水死の苦痛はどこにも見えないような安らかさでした。 ﹁はてのう。ちと不審じゃのう京弥﹂ ﹁何でござります﹂ ﹁断末魔の苦悶はおろか、水を呑んであがいたような色もない。いぶかしいぞ。灯りをみせい﹂ さしつけた灯りと共に、じいッと見眺めると、ふたりとも首筋に変な痕がある。――締めた痕です! 紛れもなく細紐のようなもので締めたらしい、血の黒ずんだ痕が見えるのです。 ﹁ウフフ。わはは﹂ 途端でした。爆発するような哄笑が退屈男の口にのぼりました。 ﹁ウッフフフ。わッははは。いや、面白いぞ。面白いぞ。水死人に絞め殺した紐ひも痕あとが見ゆるとは、愈々怪談ものじゃ。どうやら話が本筋に這入ったわい。――亭主! 亭主!﹂ ﹁はッ。六兵衛はここに控えてござります﹂ ﹁いやそちでない。遊女屋の亭主じゃ。誰袖の抱え主ぬしが参り合わせておると申したが、いずれじゃ﹂ ﹁へえへえ。三ツ屋の亭主ならば手前でござります。いつもながら御健勝に渡らせられまして、廓くる内わないの者一統悦ばしき儀にござります。近頃は一向イタチの道で、いや、一向五丁町へお越し遊ばされませぬが何か――﹂ ﹁つべこべ申すな! ここは曲くる輪わでない。そのように世辞使わなくともよいわ。――相尋ぬることがある。偽り言うては相成らんぞ﹂ ﹁へえへえ、もうほかならぬ御前様でござりますゆえ、偽りはゆめおろか、毛筋程のお世辞も言わぬがこの亭主の自慢でござります。それにつけても御殿様のお姿が見えぬと、曲輪五丁目は闇でござりますゆえ、折々はあちらの方へもちとその、エヘヘヘ、その何でござります。つまりその――﹂ ﹁控えぬか! それが世辞じゃ。――きけば誰袖も行ゆき方がた知れずに相成りおるとのことじゃが、まことであろうな﹂ ﹁まこともまこと、あれはやつがれ方の金かね箱ばこでござりますゆえ、うちのもの共も八方手分けを致しまして、大騒ぎの最中でござります﹂ ﹁居のうなったは、当家伜の源七と同じ日じゃと申すが、それもまことか﹂ ﹁不思議なことに、カッキリと日が合いまするゆえ、面めん妖ように思うておりまするのでござります。どうしたことやら、あれが、誰袖がどうも少し気きう欝つのようでござりましたのでな、四五日、向島の寮の方へでもまいって、気保養致したらよかろうと、丁度四日前の夕刻でござりました。婆やりてをひとりつけまして送り届けましたところ、ほんの近くまでちょいと用達しにいったそのすきに、もう姿が見えなくなったのでござります﹂ ﹁ほほうのう。源七との仲はどうぞ! 客であったか。それとも通うたことさえなかったか﹂ ﹁いえその、実は何でござります。親の六兵衛どんを前にして言いにくいことでござりまするが、両方共にぞっこんという仲でござりましてな、あれこそ本当の真ま夫ぶ――曲輪雀共もこのように申していた位でござります。誰袖源七何じゃいな、あれは曲くる輪わの重ね餅、指を咥くわえてエエくやしい、とこんなに言い囃はやしている位の仲でござりますゆえ、今も六兵衛どんにそれとなく聞き質ただして見たのでござりまするが、それ程の深い仲なら添わせてやらないものでもなかったのに、生きておるやら死んだやら、これがまことの二人ならば、比ひと翼よく塚づかでも建てましょうにと、しんみり承わっていたところでござります﹂ 不思議です。謎も疑問もその一つでした。あれは曲輪の重ね餅とまでうらやましがられていた二人の仲を何者か憎んで、何か容易ならぬ企らみでもやったか、それとも本人同士が親の六兵衛に叱責されるのを恐れて、表面心中した風に見せかけながら、実はどこぞに隠れてこっそり添いとげているのか、いずれにしても謎は人違いのこの死体です。しかもその水死体にはいぶかしいくびり痕あとが歴然として見えるのです。 ﹁のう! ……その両人が菓子折二つを身共に届けて参ったとは、なおさら解げせぬ謎じゃ。亭主! 三ツ扇屋の亭主!﹂ ﹁へえへえ。何でござります﹂ ﹁いずれは誰袖に通いつめたお客が、沢山あるであろうな﹂ ﹁ある段ではござりませぬ。ざッと数えて三十人。その中でもとりわけ御熱心な方々と申せば――﹂ ﹁誰々じゃ﹂ ﹁筆ふで頭がしらは言うまでもないこと、こちらの源七どん。つづいては本石町の油屋藤右衛門どんの伜又助どん。浅草の大音寺前に人入れ稼業を営みおりまする新九郎どんのところの若い者十兵衛。それから――﹂ ﹁それから誰じゃ﹂ ﹁ちとこれは他言を憚はばりまするが、遠藤主かず計えの頭かみ様が、お忍びでちょくちょくと参られまするでござります﹂ ﹁なにッ。遠藤どのとのう! 主計頭どのはたしか美濃八やわ幡た二万五千石を領する城持ちじゃ。一国一城のあるじが、そちのごとき中ちゅ店うみせの抱え遊女にお通い召さるとは、変った風流よのう。源七をのぞいての三人はどんな持て方じゃ。ちッとはよい顔を見せたか﹂ ﹁何ともはやお気の毒でござりまするが、いくら遊女でござりましょうと、ほかに二世かけたかわいい男のある者が、そうそう大勢様にいい顔なぞ見せられる筈がござりません。夜よと伽ぎは元より、呼ばれましても座敷へ出ぬ時さえたびたびでござります﹂ ﹁それゆえ熱うなってなお通ったと申すか。いや、面白い。面白い。心覚えに致しておく要がある。今いちどそれなるうつけ者達ののぼせ番ばん附づけ呼びあげてみい﹂ ﹁心得ました。大関は当家の伜源七どん、関脇は本石町油屋藤右衛門どのの伜又助どん。小結は新九郎身内十兵衛。張り出し大関が遠藤主計頭様というわけでござります﹂ ﹁ようしッ。主水之介、傷にかけてもこの謎解いて見しょうぞ。六兵衛、火急に白木の建札十枚程用意せい﹂ 不思議な注文でした。糸屋六兵衛一家の者が総動員でこしらえた十枚の建札を、ズラズラと縁先へ並べさせると、墨ぼっ痕こん琳りん璃りと書きしたためた文句がまた不思議です。一、足の早き者。
一、耳敏 きもの。
一、人の噂、もしくは世上の事どもに通ぜし者。
同じく人の悪口きくを好み、人のアラ探り出すが得手 なる者。
一、博奕 を好む者にて、近頃ふところ工合よろしからざる者。
右の条々に該当する者共、この建札目にかかり次第予が屋敷へ参らば、金子一両ずつ遣わすべし。
本所長割下水、傷の旗本、早乙女主水之介。
﹁ウフフ。あはは。さぞや亡もう者じゃが沢山参ろうぞ。六兵衛、三ツ扇屋の亭主、安心いたせよ。主水之介しかと引きうけたからには、江戸八百八町が只の八町になろうとも、必ず共にこの不審解き明かして見しょうわ。今宵のうちがよい。これなる建札早々に目めぬ貫きの場所へ押し立てさせい。――では京弥、菊路のところへ参ろうぞ﹂
ピカリピカリと眉間傷を光らせて、そのままエイホウホウと乗物を打たせました。
三
その翌日――。 長割下水のあたりは早朝から、押すな押すなと言いたい位の雑沓でした。勿論、退屈男が八百八町ところどころの盛り場へ建てさせた、あの不審きわまりない建札が吸いよせた人出です。――あとからあとからと極々雑多色とりどりの人影がつづいて、ざッと二三百名でした。 着流しがある。七三にはし折っている奴がある。 頬かむりに弥造をこしらえて、ふるえながら歩いている影がある。 ぺたりぺたりと尻切れ草履で、ほこりを立てながら、いかにもひもじそうに歩いて行く奴がある。 それらの人をまたたくうちに追い越して通っていったのは、建札に足早き者とあった、その早足自慢の男に違いない。耳みみ敏さとき者とあったその早耳の男も沢山交っているとみえて、歩きながらも内証話をきき出そうと、しきりにニヤニヤやっているのがいくたりか見えました。 それから世せけ間んつ通う。 人の顔を見れば他人の悪口蔭口を囁きたそうな憎まれ男。 かと思うと、ゆうべもどこかのバクチ穴で文無しに叩きハタイてしまったらしいサイコロ好きも数人交って、いずれも一両を目あてに門前のあちらこちらに押し合いながら大変な騒ぎです。 ﹁わはは。いや、参ったな。参ったな。亡者千人何の如きぞ。これが江戸の御繁昌とは恐れ入った繁昌ぶりじゃ。いずれもようこそ参った。早乙女主水之介賞めつかわすぞ﹂ しらせをうけて、のっしのっしと門脇に現れると、 ﹁京弥、用意の品、これへ持参せい﹂ 呼び招いて、小姓袴も相ふさ応わしい京弥に運ばせたのは、うず高く三宝に盛られた小判の山でした。五十両? いや正しく二三百両です。江戸前気ッ腑の主水之介にとっては、大した品ではないが、馳せ集った亡者共にとっては容易でない。百の目、六百の目が同時にキラリキラリと怪しく輝きました。 見眺めて三宝うけとると、眉間傷もろともやおら言ったことです。 ﹁約束じゃ。遣わすぞ。ほら! めいめい勝手に拾って行けい!﹂ 意外でした。ひとりひとり呼び出して、一枚ずつ手渡しでもするだろうと思われたのに、小判の山を鷲掴みにすると、群がり集たかる人山を目がけて、惜しげもなくバラバラと投げ棄てました。――同時です。凄惨と言うか、悲惨というか、浅ましさおぞましさ言いようがない。わッと言う矢やご声えもろ共、犇ひしめきわめきながら殺到すると、押しのけはねのけ、揉み合いへし合いながら、われ先にと小判の道へ雪な崩だれかかりました。 しかし、たった四人だけ、拾おうともしないのがいるのです。あちらにひとり、こちらにひとり、向うに二人、呆然と佇んで、虫けらのようにうごめき争っている人々を見守っている四人の姿が見えるのです。 早くもそれと知るや、莞かん爾じとして退屈男が打ち笑うと、会心そうに命じました。 ﹁浅ましい奴等に用はない。京弥、あの四人の者こそわが意に叶うた者じゃ。早う座敷にあげい﹂ ﹁………﹂ ﹁何をぼんやりしておるぞ。ぜひにも二人三人手が要いるゆえ、一両を餌えさにして人足共を狩り集めたのじゃ。小判を投げたは早乙女流の人選みよ。欲破り共のうちからせめてもの欲心すくなき者を選み出そうと、わざわざ投げて拾わしてみたのじゃ。あの四人には見どころがある。余の亡者には用がないゆえに早々に追ッ払って、あの者共早う召し連れい﹂ ﹁いかさま、左様でござりましたか。そうのうてはなりませぬ。御深慮さすがにござります﹂ まことにさすがは退屈男、趣向も直参らしく豪ごう奢しゃきわまりない趣向であるが、人の選み方もまた巧みに人情の急所を衝いて、目のつけどころが違うのです。 やがてのことに座敷へ導かれて来たのは、いずれも一風ありげなその四人でした。 ﹁来たか。来たか。遠慮は要らぬぞ。勝手に膝をくずしてずっと並べ。その方共とてあの建札眺めて参ったからには、小判がほしゅうての事であろうが、なにゆえ拾わざった﹂ ﹁………﹂ ﹁怕こわいことはない。念のためにきくのじゃ。遠慮のう言うてみい。さだめし咽の喉どから手が出おったろうに、なにゆえ拾わざったぞ﹂ ﹁あさましいあの有様を眺めましたら、急に情なくなりましたんで、ぼんやりと見ていたんでごぜえます﹂ ﹁やはりそうであったか。なかなかにうれしい気性の奴等じゃ。そこを見込んでちと頼みたいことがあるゆえ、先ず名をきいておこうぞ。いずれあの建札知って参ったからには、それぞれ得え手てがある筈、右の奴は何と申す名前の何が得手じゃ﹂ ﹁大工の東五郎と申しやす。少しばかり足の早いが自慢でごぜえます﹂ ﹁ほほうのう。大工ならば足なぞ早うのうても役に立つ筈なのに、人一倍早いと申すか。いや、面白い面白い。次は何じゃ﹂ ﹁床屋が渡とせ世いの新吉と申す者でござります。髪床は人の寄り場所、したがって世間のことを少々――﹂ ﹁なるほど。世間通じゃと申すか。いや、面白いぞ面白いぞ。段々と役者が揃うて参ったわい。三人目は何じゃ﹂ ﹁鳶とびの七五郎と申します。ジャンと来りゃ火の子の中へ飛び出すが商しょ売うべえ、そのせいか人より少し耳が早うごぜえます﹂ ﹁ウフフ。面白い面白い。ずんと面白いぞ。お次はどうじゃ﹂ ﹁あッしばかりはまことに早やどうも――﹂ ﹁バクチの方か!﹂ ﹁へえ。相済みませぬ。御名物のお殿様でごぜえますから、直ちょくに申しまするが、名前は人ひと好よし長次、まとまった金がころがりこむと、じきにうれしくなって人にバラ撒いちまいますんで、この通り年がら年中文なしのヤクザ野郎でごぜえます﹂ ﹁わはは。道理でのう。目が細うて、鼻が丸うて、極楽行の相がある。いや、揃うた揃うた。注文通りによくも揃うたわい。早足に早耳に世間通に、世馴れ者のバクチ打ちとはひと狂言打てそうじゃ。何を頼むにしても先立つものはこれであろうゆえ、五両ずつ遣わそうぞ。ほら、この通り五枚ずつじゃ、遠慮のう懐中せい。――いや、苦しゅうない。びっくりせいでもいい。五両の小判で命売れと言うのではない。折入って頼みたいことがあるゆえ遣わしたのじゃ。もじもじせずと早う懐中致せ! ――そうそう。いずれも蔵しまうたな。ではそれなる頼み言うて聞かすゆえ、よう聞けよ。と申すはほかでもないが、吉原三ツ扇屋抱えの遊女誰袖と、京橋花園小路糸屋六兵衛の伜源七と申す両名が、同じ日に行ゆき方がた知れずとなって、奇態なことに似せ者の死体が大川から揚がったのじゃ。頼みと申すはこのこと、本人同士が何ぞ細工をしたか、それとも恋こい讐がたき共がよからぬ企らみ致しおったか、何れに致せすておけぬゆえ、その方共に今からすぐ不審の正体探り出しにいって貰いたいのじゃ。先ず第一は吉原へ参って、誰袖の行状探り出すこと、第二にはうつつぬかして通いつめた色讐がたき共じゃが、対手は三人ある。本石町油屋藤右衛門伜又助なる者がそのひとりということゆえ、こやつの行状探り出すには、油いじりが商売の床屋新吉がよかろうぞ。二人目は浅草大音寺前人入れ稼業新九郎の身内十兵衛と申す奴ゆえ、男おと達こだてにバクチ打ちは縁ある仲じゃ。人好し長次がこの方を探ってな。あとのひとりはちと大物ゆえ、残った早足東五郎と早耳七五郎の両名揃うて参るがよい。探り先は二万四千石城持ち、赤坂溜池際に屋敷を頂戴致しおる遠藤主計頭じゃが、大工と鳶なら近よる手てだ段てもあろうし、よしまた近寄ることが出来ずとも、お抱えお出入りの鳶、大工があろうゆえ、少しく智慧を働かしなば、屋敷の秘密なにくれとのう雑作なく嗅ぎ出せるというものじゃ。床新と人好し長次両名はまたその足で三ツ扇屋へ参り、なにかと詳しゅう探ってな、別して新吉は世事に通じておるが自慢とのことゆえ、人の話、世間の噂、ぬからずに、――のう分ったか! 事は急じゃ。早う行けい!﹂ ﹁なるほど! 御名物の御殿様ゆえ、只の御酔狂ではあるまいと思いましたが、いや、変ったお頼みでごぜえます。そういうことは大の好き、折角お目めが鑑ねに叶ったものをヘマしちゃならねえ。じゃ、兄きょ弟うでえ! ひとッ走りにいって来ようぜ﹂ ﹁合点だ! 支度しな!﹂ 四人ともに粒が揃っているのです。イナセ早気の鳶の者七五郎にせき立てられて、江戸の底に育ち、底を歩き、底を泳ぐが達者の四人は、その場に命ぜられた町々へ飛び出しました。 ﹁小気味のよい者共じゃ。篠崎流の軍書にも見えぬ智慧才覚じゃが、あれに気がつくとは主水之介の眉間傷もまだ錆さびぬかのう。――京弥。ゆるゆる待とうぞ。菊路に琴でも弾かせい﹂ これがまた落付いているのです。千二百石直参旗本の貫禄を肱枕にのせて、長々とそこに横たわりながら、やがて弾き出した琴の音に聴き入りつつ、目を細めつつ、京弥菊路のふさわしい一対ついを眺めつつ、出来るものなら生れ代って二日か三日主水之介になりたい位でした。 かくして待つこと三刻とき――。 暮れ易い冬ざれの陽はいつか黄たそ昏がれそめて、訪れるは水の里に冷たい凩こがらしばかり。 ﹁只今立ち帰りました。御前! 分りましたぞ!﹂ 景気よく飛び込んで来たのは、鳶の七五郎です。あとからぞろぞろと三人。 ﹁ほほう。みな揃うて帰ったな。どこで落ち合うたのじゃ﹂ ﹁遠藤主計頭様はなんしろ御大名、ヘマを踏んで引ッくくられでもしちゃ大変だから、その時はお屋敷へしらせてお殿様にお救い願おうと存じまして、万一の用意にと、床新さん達に用のすみ次第、あちらへ廻って貰ったんでござんす。その遠藤様が仕掛け細工の張本人ですぜ﹂ ﹁なにッ。そうか! そうであったか! 仕掛け細工とは何をしたのじゃ﹂ ﹁何うもこうもねえんですよ。太ふてえ御了簡ッちゃありゃしねえ。どうして探り出そう、誰から嗅ぎ出そうと手てづ蔓るをたぐって行くうちにね、ゆうべこちらへ御菓子折とかを届けためくらとあの若い野郎とを嗅ぎ当てたんですよ。めくらはお出入り按摩、若い奴も同じお出入りの小間物屋だそうでござんすが、こちらへお伺いしたからには、何もかも話せばいいのに、うっかり申しあげたら、御殿様にバッサリやられそうな気がしたんで、怕い怕いの一心から、ひた隠しに隠してひた逃げに逃げて帰ったんだそうですがね。事の起りゃ御身分甲斐もねえ、みんな遠藤様の横恋慕からなんですよ。三日にあげず通いつめたが、御存じのように誰袖花魁には真ま夫ぶがある。ぬしと寝ようか五千石取ろうかの段じゃねえんです。万まん石ごく積んでも肌一つ見せねえというんで、江戸ッ児にゃ気に入らねえお振舞いをなすったんですよ。源七どんと誰袖を手もなく浚さらって、屋敷へ閉じこめ、切れろ、別れろ、別れなきゃこれだぞと、毎日毎夜古風な責め折せっ檻かんに嫉ねた刄ばを磨いでいらっしゃると言うんですがね。対手は曲くる輪わ育そだちの気性の勝った花おい魁らんだ。なかなかうんと言わねえんで、だんだん日が経つ、世間が騒いで悪事露見になりゃ御家の名に傷がつくというところから、人目をごまかそうと遠藤様がひと狂言お書きなすって、仰せの心中者をひと組こしらえたというんですよ。それも聞いてみりゃむごい事をしたもんじゃござんせんか。年頃恰好の似通ったお屋敷勤めの若党と女中の二人をキュウと絞め殺させてね、源七どんに無理無体書置をしたためさせて、ぽっかり大川へ沈めたというんです。そうして置けば、世間は心中したろうと思い込んで、騒ぎもなくなるし、人目もたぶらかすことが出来るから、そのすきにゆっくり責め立てて、二人に手を切らし、まんまと誰袖を手生けの花にしようと、今以て日夜の差別なく交る交る二人を折檻しているというんですがね﹂ ﹁ほほうのう! ならば源七をバッサリやればよい筈、邪魔な真ま夫ぶを生かしておいて、似せの心中者を細工するとはまたどうした仔細じゃ﹂ ﹁そこが江戸花魁のうれしいところでござんす。斬りたいは山々でしょうが、源七どんに万一のことがありいしたら、わちきも生きてはおりいせぬ、とか何とか程よく威おどしましたんでね、元も子も失なくしちゃ大変と、首をつないでおいて、下郎風情があのような別べっ嬪ぴんを私するとは不埓至極じゃ、分にすぎるぞ。手を切れ、たった今別れろと、あくどく源七どんを御責めになっていらっしゃると言うんですが、二人にとっちゃ必死も必死の色恋に相違ねえから、どうぞして逃れたい、救い出して貰いたいと考えた末、ふと思い出したのは――﹂ ﹁身共の事じゃと申すか!﹂ ﹁そうでござんす! そうなんでごぜえます! 対手はとにもかくにも城持ち大名、これを向うに廻して、ひと睨にらみに睨みの利くのは傷のお殿様より他にはあるまいと、二人が二人、同じように考え当って、源七どんは出入りの按摩に、誰袖花魁は小間物屋の若い衆に、こっそりとお使いを頼み込んだというんですがね。気に入らねえのは使いに立ったその二人ですよ。しかじか斯かく々かくでごぜえますからと早く言えばいいものを、お殿様程の分った御前を、怕いの恐ろしいのと思い違えて逃げ帰ったのがこんな騒ぎのもととなったんでごぜえます﹂ ﹁不ふら埓ちも者のめがッ。傷がむずむずと鳴いて参った! 京弥! 千二百石直参旗本の格式通り供揃いせい!﹂ 颯爽たる声でした。すっくと立ち上がって、手馴れの平へい安あん城じょ相うさ模がみ守のかみをたばさむと、駕籠は塗り駕籠、奴やっ合こが羽っぱに着替えさせた鳶の七五郎達四人を供に、京弥召し随えて直ちに行き向ったところは、赤坂溜池際の遠藤屋敷です。四
乗りつけたのは、とっぷり暮れた六ツ下がりでした。
﹁京弥、つづけッ﹂
すべてが只颯爽、小気味がいい位です。ずいずいと式台にかかると、
﹁早乙女主水之介、眉間傷御披露に罷り越した、通って参るぞ。主計頭どの居室に案あな内いせい﹂
注進するひまも止めるひまもない。打ちうろたえて、まごまごしている近侍の者達に、ピカリピカリと傷の威嚇を送りつつ、悠揚として案内させていったところは、奥書院の主計頭が居室でした。
﹁誰じゃ。何者じゃ。どたどたと騒がしゅう振舞って何者じゃ﹂
四十がらみの、ずんぐりとした好き者しゃらしい脂あぶ肉らじしを褥の上からねじ向けて、その主計頭がいとも横柄に構えながら、二万四千石ここにありと言いたげに脇きょ息うそくもろ共ふり返ったのを、ずいとさしつけたのはあの三日月形です。
﹁この傷が見参じゃ。とく御覧召されい﹂
﹁よッ。さては――いや、まさしく貴殿は!﹂
﹁誰でもござらぬ。早乙女の主水之介よ。うい傷じゃ、その傷もって天上御政道を紊みだす輩やからあらば心行くまで打ち懲こらせ、とまでは仰せないが、上将軍家御声がかりの直じき参さん傷きずじゃ。当屋敷うちに、誰袖源七の幽霊がおる筈、のちのちまでの語り草にと、これなる傷にて買いに参った。早々にこれへ出さッしゃい﹂
﹁なにッ。――知らぬ! 知らぬ! いや、左様なもの存ぜぬわッ。幽霊が徘はい徊かい致すなぞと、うつけ申して狂気と見ゆる! みなの者! みなの者! 何を致しおるかッ。この狂気者、早う補えい!﹂
股もも立だちとって、バラバラと七八名が取り巻こうとしたのを、只ひと睨み!
﹁控えい! 陪また臣もの!﹂
一喝かつしながら泰然としたものでした。
﹁身共のこの傷、何と心得おるかッ。百石二百石のはした米まいでは、しみじみお目にもかかれぬ傷じゃ。よう見い。のう! 如ど何うぞ! わははは。ずうんと肝きもにこたえたと見ゆるな。――遠藤侯!﹂
チクリと痛いところを静かに浴びせかけたものです。
﹁お身、時折は鏡を御覧召さるかな﹂
﹁なにッ。雑ぞう言ごん申して何を言うかッ。小地たりとも美濃八幡二万四千石、従四位下を賜わる遠藤主計頭じゃ。貴殿に応対の用はない。とく帰らっしゃい﹂
﹁ところが帰れぬゆえ、幽霊の念ねん力りきは広大なものでござるよ。二万四千石とやらのそのお顔、時折りは鏡にうつして御覧召されるかな﹂
﹁要らぬお世話じゃ。見ようと見まいとお身の指図うけぬわッ﹂
﹁いや、そうでない。そのお顔でのう。ウフフ。あはは。まあよう見さっしゃい。ずんぐりとしたそのお顔で曲輪通いをなさるとは、いやはやお肝の太いことでござる。ましてや、曲輪の遊びは大名風が大の禁物、なにかと言えば二万四千石が飛び出すようでは、誰袖に袖にされるも当り前じゃ。ぜひにも幽霊買わねばならぬ! 早うこれへ出さっしゃい!﹂
﹁不埓申すなッ。お身こそ直参風を吹かせて、何を申すかッ! 知らぬ! 知らぬ! 身に覚えもない言いがかりを申しおって、誰袖とやらはゆめおろか、源七とやらも幽霊も見たことないわッ。帰れと申すに御帰り召さずば、屋敷の者共みな狩り出し申すぞッ﹂
﹁わはは。古手の威おどし申されたな。問答無益じゃ。御存じないとあらば屋探し致して心中者の幽霊買って帰りましょうぞ。近侍の者共遠慮は要らぬ。案内せい!﹂
ピカリと威嚇しながら、睨みすえつつ屋敷の奥へ踏み入ろうとしたのを、主計頭、必死でした。さっと立ち上がると形ぎょ相うそう物凄く呼びとめました。
﹁控えられい! お控え召されよッ﹂
﹁何でござる﹂
﹁かりそめにも当とう館やかたは、上将軍家より賜わった大名屋敷じゃ。大名屋敷詮議するには、大目付衆のお指図お許しがのうてはならぬ筈、お身、それを知ってのことかッ﹂
﹁ウフフ。お出しじゃな。とうとうそれをお出し召さったか。――止むをえぬ。お家を無むき瑾ずに庇かばって進ぜようと思うたればこそ、主水之介わざわざ参ったが、それをお出しとあらば致し方ござらぬわい。お目付衆の手を煩わずらわすまでもないこと、ようござる! 今より主水之介、じきじきに将軍家へ言上申上げて、八幡二万四千石木ッ葉みじんに叩きつぶして見しょうぞ。――ウフフ。京弥、下賤の色恋にまなこ眩くらんでいるお大名方には、この三日月形、利きがわるいと見えるわい。では、負けて帰るかのう。急いで参れよ﹂
ガラリと、俄かの変り方でした。ウフフと不気味に笑って、さっさと引き揚げて行くと、――帰る筈がない! 主水之介程の男が、そのまま引き揚げて行く筈はないのです。
門を出ると同時に、ぴたりとそこの物蔭に姿をかくすと、京弥を初め七五郎達四人に鋭く命じました。
﹁あれじゃ、あの手じゃ。篠崎流の兵法用いて、アッと言わしてやろうぞ。手分け致して早う門を見張れッ﹂
﹁何を見張るのでござります﹂
﹁知れたこと、主計頭とて二万四千石は惜しい筈じゃ。じきじきに将軍家へ言上しょうと威おどしたからには、お吟味屋敷改めされるを惧おそれ、慌てふためいて今のうちに誰袖達をどこぞへ運び去って、隠し替えるに相違ないわ。それを押えるのじゃ。門を見張って、運び出したところを、そっくりそのまま頂戴するのよ。身共はこの正門受持とうぞ。そち達も手分けして三方を固めい﹂
﹁心得ました。そうと決まりますれば、京弥、北口不浄門を見張りましょうゆえ、七五郎どの新吉どの両人は東口を、東五郎どの長次どの御両人は西口を御見張り召されよ。ではのちほど――﹂
﹁まて! まてッ﹂
﹁はッ﹂
﹁いずれは警固もきびしく運び出すであろうゆえ、それと分らば合図致せよ﹂
﹁心得ました!﹂
ひたひたと三手に分れていずれもまっしぐら。――ざわ、ざわ、ざわと、庭の繁みの葉末を鳴らして、不気味な夜風です。
主水之介は、ぬッと築つい地ぢわきに佇んだままで、薄闇の向うの門先を見守りました。
しかし出ない。
人影はゆめおろか、犬一匹屋敷うちからは姿を見せないのです。
合図の声もない。
北口不浄門からも、東口御小屋門からも、西口脇門からも、何の声すらないのです。
﹁はてのう? バラしたかな﹂
いぶかっているとき――。
﹁殿様え! 殿様々々。出ましたぞう!﹂
突如、闇を裂さいて伝わって来たのは、まさしく東口御小屋門のかなたからです。
同時に一散走りでした。
駈けつけて見すかすと、なるほど八九名の影がある。しかも大きな長持を一挺ちょう担になわせて、その黒い影の塊りが左右四方から厳重に守りつつ現れたのです。
ずいと近寄ると、
﹁まてい﹂
胆きもの髄までもしみ入るような声でした。
﹁わざわざ荷物に造って御苦労じゃ。手数をかけて相済まぬ。もうよいぞ。苦しゅうない。苦しゅうない。主水之介も人夫用意致しておるゆえ、そのままおいて行けい﹂
﹁な、な、何でござります! 差上げるべきいわれござりませぬ。こ、これはそのような――﹂
﹁そのような、何じゃと言うぞ﹂
﹁怪しの品ではござりませぬ。こ、これは、その、こ、これは、その――﹂
﹁何品じゃ!﹂
﹁ふ、ふ、古道具でござります。只今お主との侯さ様まから、もう不用じゃ、払い下げいとの御ごじ諚ょうがござりましたゆえ、出入りの古道具屋へ売払いに参るところでござります。御お退のき下されませい﹂
﹁ならばなおさらけっこう。身共、近頃殊のほか古道具類が好きになってな、丁度幸いじゃ。買い取ってつかわそうぞ。値段は何程でも構わぬ。いか程じゃ﹂
﹁………﹂
﹁早いがよいわッ。売るもひと値。買うもひと値。あとで品物に不足は言わぬ! 言うてみい! 何程じゃ﹂
﹁二、二千両程の品にござります﹂
﹁たった二千金か! 即金じゃ。ほら! 手を出せい!﹂
声もろ共に、ギラリ抜いたのは相模守の一刀です。敵う筈がない! たじたじとあとに引きさがったのを、
﹁わはは。どうじゃ! いらぬか。諸羽流正眼くずしの一刀が只の二千金とは安いぞ。安いぞ。ウフフ。誰も要らぬと見ゆるな。では、折角じゃ。只で頂いては痛み入るが頂戴するぞ﹂
ずいずいと近寄りながら、鐺こじりで錠じょうを手もなく叩きこわして、さッと蓋をはねのけました。同時に長持の中から、くくされた身体をよろめくように起して、声を合わせながら叫んだのはまぎれもなく誰袖源七のふたりです。
﹁お殿様でござりましたか!﹂
﹁早乙女の御前様でありんすか!﹂
﹁ありがとうござります! ようこそ、ようこそお救い下さりました。ありがとうござります。命の御恩人でござります﹂
﹁ウフフ。そんなにうれしいか。生きておって仕合わせよのう。身共もうれしいぞ。まだ賞しょ玩うがんせぬが、ゆうべはけっこうな菓子折、散財かけて済まなかった。早う出い。――京弥々々﹂
馳けつけて、何ぞ御用は、というように手ぐすね引いていたのを見眺めると、咄嗟に命じました。
﹁空長持送り返すも風情がない故、五六匹、主計頭に土産届けようぞ。ぼんやり致してふるえおるその者共、早う眠らせい﹂
自らもさッと躍り入ると、パタパタと三人を峰打ち。京弥の当て身に倒れた二人も交えて、ひと束にしながら長持の中へ投げ込むと、事もなげに言ったことです。
﹁美しい幽霊共じゃ。眺め眺めかえるかのう﹂
早くも注進うけたか、歩き出したそのうしろの屋敷内に、突然、慌ただしく足音が近づくと、罵ののしるように言ったのは、まさしく主計頭の声です。
﹁やったな。出すぎ者めがッ。忘れるな! 覚えておれよ!﹂
﹁ウフフ。わはは。そこへお越しか。声の主に物申そうぞ。主水之介、今宵のことは内聞に致してつかわしましょうゆえ、二万四千石が大切ならば、以後幽霊なぞこしらえぬようにさっしゃい。曲輪育ちの女おな子ごはな、千石万石がほしゅうはない。気ッ腑がほしゅうござるとよ。わはは。――誰袖源七! 六兵衛のところへ早う行けい。比翼塚建てましょうにと、嘆いておったほど物分りのよいおやじ様じゃ。めでたく身み請うけが出来たら、また好物の菓子折など届けろよ。念のためじゃ、七五郎達送り届けい。――では京弥!﹂
﹁はッ﹂
﹁三河でぐずり松平の御ごぜ前んからきいた言葉をふと思い出した。屋敷へかえってあの菓子頂戴しながら、菊めにお茶なぞひとねじりねじ切らすかのう。ウフフ。如ど何うぞ!﹂
﹁けっこうでござります﹂
﹁なぞと申して、菊めの名前が出ると、俄かにそわそわと足が早うなるのう。――一句浮んだ。茶の宵やほのかにゆらぐ恋心、京弥これを詠よむ、とはどんなものぞよ﹂
パッと紅葉がその頬に散ったに違いない。声もなくさしうつむいて、駕籠のあとから急ぐ京弥の背に、冬ざれの大江戸の街の灯がゆらゆらゆらめきました。