一
――その第八話です。 現れたところは日光。 それにしても全くこんな捉まえどころのない男というものは沢山ない。まるで煙のような男です。仙台から日光と言えば、江戸への道順は道順であるから、物のはずみでふらふらとここへ寄り道したのに不思議はないが、どこで一体あの連中を置き去りにしてしまったものか、仙台を夜立ちする時はたしかにあの江戸隠密達二人と一緒の筈だったのに、日光めざして今市街道に現れたその姿を見ると、お供というのは眉間傷と退屈の虫だけで、影も姿もただのひとり旅でした。その上に着流し雪駄ばき落し差しで、駕籠にも乗らずにふわりふわりと膝栗毛なのです。 だが退屈男だけに、そのふわりふわりの膝栗毛が、何ともかとも言いようのない膝栗毛でした。 ﹁ウフフ……。木があるな﹂ 山道であるから木があったとて不思議はないのに、さもさも珍しげに打ち眺めては、しみじみと感に入りながら、またふわりふわりとやって行くのです。行ったかと思うと、 ﹁雲茫々、山茫々、蕭しょ条うじょうとして秋深く、道また遙かなり……﹂ 口ずさんでは立ち止まり、立ち止まっては谷をのぞき、のぞいてはまた歩き、歩いてはまた立ち止まって、風のごとく、靄もやのごとくに、ふわりふわりとさ迷いつつ行くあたり、得も言い難い仙骨が漂って、やはりどことはなしに千二百石直参旗本の気品と気慨の偲ばれる膝栗毛ぶりでした。――行く程に川があって水が見える。大だい谷やが川わです。その水に夕陽が散って、しいんとしみ入るように山気が冷たく、風もないのにハラハラと紅葉が舞って散って、何とはなしに自ら心よい涙がにじみ流るるようなすてきな晩秋だったが、山気のしんしんと冷える按配、流れの冴えてしみ入るように澄んで見える按配、どうやらあしたの朝は深い霜が降りそうな気配でした。 だから、チョッピイヒョロヒョロ、ピイヒョロヒョロと、たそがれかけた夕空高く囀さえずってこのあたり野やし州ゅうの山路に毎年訪れる、一名霜鳥との称のある渡り鳥のツグミの群が、啼いて群れて通っていったからとて不思議はないのです。それから百も舌ずに頬ほお白じろ、頬白がいる位だから、里の田の畔あぜ、稲いな叢むらのあたりに、こまッちゃくれた雀共が、仔細ありげにピョンピョンと飛び跳ねながら、群れたかっていたとてさらに不思議はない。随ってまた小鳥がいる以上は、それらの小鳥を狙う鳥刺しがひとりや二人徘はい徊かいしていたとても、何の不思議はない筈なのに、ふらりふらりとやりながら何気なくひょいと見ると、何と言う里の何と言う鎮守であるか、そこの街道脇につづいた鎮守の森の外をうろうろしている鳥刺しの容子が、いかにも少し奇怪でした。第一にいぶかしいのは、鳥刺しの癖に鳥を刺そうとしていないのです。型の如くトリモチ竿の長いのを手にしてはいるが、枝にも梢にも雀がいるのに一向刺そうともしないで、森のまわりを抜き足差し足でうろうろとしながら、何を探そうというのか、しきりと中の容子を覗き見している気けは勢いでした。その上に足ごしらえも穏かでない、普通に鳥刺しの服装と言えば、ヒョットコ手拭に網袋、それから代りのモチを仕込んだ竹筒を腰にさげて、手甲に脚絆、膝は十人中十人までが丸出しのままであるのに、不審なその鳥刺しは、丸輪の菅笠を眼深に冠って、肩には投げ荷を背負い、あまつさえ脚絆のほかに股引すらも穿はきながら、一見しただけで遠い旅路をでもして来たらしいいで立ちでした。しかも、肝腎の刺した雀を入れる網袋がないのです。――これは何びとが何と抗議を申込もうと、不審と言うのほかはない。他の七ツ道具の容子が変っているのは、まだ大目に見逃すことが出来ないものでもないが、小鳥を刺してそれをその日その日の生たつ計きの料しろにしている鳥刺しが、獲物を入れるべき袋を腰にしていないということは、大いに不ふら埓ちせ千んば万んなのです。 ﹁はて喃のう。雲茫々、山茫々、鳥刺し怪しじゃ。ちとこれは退屈払いが出来ますかな﹂ いぶかりながら見眺めているとき、実に不意でした。 ﹁貴様、まだまごまごしておるかッ。神域を穢けがす不所存者めがッ。行けッ、行けッ。行けと申すに早く行かぬかッ﹂ けたたましく怒号しながら、不審なその鳥刺しを突然叱りつけた罵ばせ声いが、そこの森の中の社務所と覚おぼしきあたりから挙りました。――ひょいと見ると、これがまた常人ではない。ふさふさした長い白はく髯ぜんを神々しく顔になびかせて、ひと目にそれと見える神官なのです。いや、神主だったことに不思議はないが、意外だったのはその年齢でした。叱った声のけたたましさから察すると、恐らく四十か五十位のまだ充分この世に未練のありそうな男盛りだろうと思われたのに、もう九十近い痩躯鶴のごとき灰あ汁くの抜けた老体なのでした。しかも、その灰汁の抜け工合の程のよさ! 骨身のあたりカラカラと香ばしく枯れ切って、抜けるだけの脂は悉ことごとく抜け切り、古色蒼然、どことはなく神かん寂さびた老体なのです。 ﹁ウフフ、犬も歩けば棒に当るじゃ。ゆるゆる見物致すかな﹂ のっそり近寄っていったのを知ってか知らずか、老神官は翁おうきの面のような顔に、灰汁ぬけした怒気を漲らしながら、なおけたたましく鳥刺しをきめつけました。 ﹁何じゃい。何じゃい。まだ失せおらぬかッ。老人と思うて侮あなどらば当が違うぞ。行かッしゃいッ。行かッしゃいッ、行けと申すになぜ行かぬかッ﹂ ﹁でも、あの……いいえ、あの、どうも、相済みませぬ。ついその、あの、何でござりますゆえ、ついその……﹂ ぺこぺこしながら鳥刺しがまた、声までも細々と蚊のような声を出して、言葉もしどろもどろに一向はきはきとしないのです。 ﹁実はあの……、いいえ、あの、重々わるいこととは存じておりますが、ついその、あの何でござります。せめて、あの……﹂ ﹁せめてあの何じゃい!﹂ ﹁五ツか六ツ刺さないことには、晩のおまんまにもありつけませんので、かようにまごまごしているのでござります。何ともはや相済みませぬ。どうぞ御見逃し下さいまし……﹂ ﹁嘘吐かッしゃいッ。刺さねばおまんまにありつけない程ならば、あれをみい、あれをみい、あちらにも、こちらの畠にも、あの通り沢山いるゆえ、ほしいだけ捕ればよい筈じゃ。それを何じゃい、刺しもせずに竿を持ってうろうろと垣のぞき致して、当とう御みや社しろのどこに不審があるのじゃ。行かッしゃい! 行かッしゃい! 行けばよいのじゃ。とっとと消えて失くならッしゃい﹂ ﹁御尤もでござります。おっしゃることは重々御尤もでござりまするが、実はその、あの、何でござります。わたくし、ついきのうからこの刺し屋を始めましたばかりでござりますゆえ、なかなかその思うように刺せんのでござります。それゆえあの、ついその……﹂ ﹁こやつ、わしを老人と見て侮っておるな! ようし! それならば消えて失くなるようにお禁まじ厭ないしてやるわ。そこ退のくなッ﹂ よぼよぼしながら社務所の内へとって帰ったかと見えたが、程たたぬまに携たずさえて帰って来たひと品は、おどろく事に六尺塗り柄の穂尖も氷と見える短槍でした。リュウリュウと麻おが幹らのごとく見事にしごいて、白髯たなびく古木の面に殺気を漂よわながら、エイッとばかり気合もろ共鳥刺しの面前にくり出すと、 ﹁小僧ッ、これでも消えぬかッ﹂ すべてが全くすさまじい変化でした。足腰のしゃんと立ったのは言うまでもないこと、声までがしいんと骨身にしみ透るように冴え渡って、手の内がまた免許皆伝以上、しかも流儀は短槍にその秘手ありと人に知られた青江信濃守のその青江流なのです。 ﹁ほほう、老人、なかなか味をやりおるな﹂ 何かは知らぬが事ここに及んでは、もう退屈男もゆるゆると高見の見物ばかりしていられなくなりました。不審な鳥刺しの身辺に漂う疑惑は二の次として、弱きに味方し、強きに当る早乙女主水之介のつねに変らぬ旗本気ッ腑は、人も許し天下も許す自慢の江戸魂でした。ましてや穏かならぬ真槍がくり出されるに至っては、あれが啼くのです、しきりと、あの眉間傷が夕啼きを仕出したのです。――のっそり木蔭から現れて、すいすいと足早に近よりながら、血色もないもののように青ざめている鳥刺しの手元から、黙って静かにトリモチ竿を奪いとると、 ﹁御老体、なかなか御出来でござるな﹂ ウフフとばかり軽く打ち笑いながら、ふうわり鳥竿を神官の目の前に突き出して、いとも朗かに言いました。 ﹁いかがでござるな。退屈の折柄丁度よいお対手じゃ。この構え、少しは槍の法に適かなっておりまするかな﹂ ﹁なにッ?――何じゃい! 何じゃい! 見かけぬ奴が不意におかしなところから迷って出おって、貴公は、一体何者じゃ!﹂ ﹁身共でござるか。身共はな、ウフフフ、ご覧の通りの風来坊よ。いかがでござるな。青江流とはまたちと流儀違いでござるが、少々は身共も槍の手筋を学んでじゃ。退屈払いに二三合程お対あい手てつ仕かまつるかな﹂ ウフフ、また軽く笑って老神主の目の前二寸あたりの近くへ、ずいともち竿を突きつけると、ふわりふわりとその先を泳がせました。――と見えた一刹那、ヒュウと手元にしごいて繰り出したかと見えるや、術の妙、技の奥儀、主水之介程底の知れない男もない。しなしなと揺れしなっていた二間余りの細い竹がピーンと張り切って、さながらに鋭利な真槍の如くに、ピタリ、老神主の黒目を狙っているのです。かと見えるやそれがまた再びふわりふわりと左右へ泳いで、ある刹那にはその竿先が八本にも見え、次の刹那にはまた二十本位にも見えて、動いたかと思うと途端にピタリとまた黒目を狙い指しながら、千変万化、実にすばらしい妙技でした。 ﹁若僧やるな! 鳥刺しといい貴様といい、愈々胡うさ散んな奴やつ原ばらじゃ。どこのどいつかッ。名を名乗らッしゃい? どこから迷って来たのじゃ!﹂ いささか事志と違ったと見えて、勿論、真槍は同じ構えにつけたままだったが、老神官少々たじたじとなりながら鋭く言い詰なじったのを、落付いたものです。 ﹁ウフフ、またそれをお尋ねか。御老体、ちとお耳が遠うござりまするな。身共はな――﹂ ﹁なにッ、耳が遠いとは何を言うかい。当とう豊とよ明あき権ごん現げんを預る神主沼田正守と申さば、少しはこのあたりにも知られたわしじゃ。事ここに至っては命にかけてもうぬら二匹、追ッ払わねばならぬ。誰の指し図によって垣のぞきに参ったのじゃ。言わッしゃい! 言わッしゃい! それを言わッしゃい! どやつが指し図致したのじゃ﹂ ﹁わははは、誰の指し図とは御老体、耳が遠いばかりか脳の方も少々およろしくござらぬな。身共はな、このうしろの奴じゃ、こやつのな――﹂ ひょいとふり返って見ると奇怪でした。小さくなって慄えてでもいるだろうと思いのほかに、あの男がいないのです。いつのまにどこへ消えてなくなったものか、あの不審な鳥刺しの姿が見えないのです。しかもその刹那! さらに不審でした。 ﹁また来やがッたか。やッつけろ。やッつけろ﹂ ﹁構わねえ、のめせ! のめせ! 御領主様の廻し者に違えねえんだ。打ぶちのめせッ、打ちのめせッ﹂ 突然、口々に罵り叫んだ声が聞えたかと思うや同時に、どッと犇ひしめき騒ぎ立った喊かん声せいが伝わりました。二
聞えて来た方角は鎮守の森の奥の、こんもりと空高く聳える木立ちに囲まれた、社殿のうしろと覚おぼしきあたりです。しかも、声はさらにつづいて伝わりました。 ﹁逃げた。逃げた。野郎め、そッちへ逃げたぞッ﹂ ﹁追ッかけろッ。追ッかけろッ。逃がしてなるもんかい! 逃がせばこんな奴、御領主様に何を告げ口するか分らねえんだ! 叩き殺せッ、叩き殺せッ﹂ 怒号と共にバタバタという足音が聞えたかと思うや、必死にこちらへ逃げ走って来たのは、意外! あの消えて失くなった鳥刺しなのです。追うて来たのがまたさらに奇怪! 十人、二十人、三十人――、いやすべてでは五六十人と覚しき農夫の一隊でした。しかもその悉ことごとくが手に手に竹槍、棍こん棒ぼう、鍬、鎌の類をふりかざしているのです。 一揆き? 百姓一揆? どきりと退屈男の胸は高鳴りました。一揆だったら事穏かでない。――まさに由々敷重大事なのです――その刹那、足の早い農民の両三人が砂煙あげつつ鳥刺しの背後に殺到したと見るまに、早くすでに四ツ五ツ、棍棒の乱打がその背を襲いました。同時にそれを見眺めるや、白はく髯ぜん痩そう躯くの老神主が、主水之介に狙いつけていた手槍を引きざま、横飛びによたよたと走りよると、勿論叱って制止するだろうと思われたのに、そうではないのです。 ﹁くくらッしゃい! くくらッしゃい! 殺してしまわばあとが面倒じゃ。殺さずにくくらッしゃい! 以後の見せしめじゃ。くくッて痛い目にあわさッしゃい!﹂ さすがに虐殺することだけは制止したが、自身先に立って手槍を擬ぎしながら、鳥刺しの逃げ去ろうとした行く手を遮断すると、農民達に命じてこれを搦め捕らせようとさせました。しかしそのとき、すいすいと足早に近寄って遮さえ切ぎったのは主水之介です。手にしていたモチ竿を投げすてながら、襲いかかろうとしていた農民達を軽く左右にはねのけて、ぴたり、鳥刺しをうしろに庇かばうと、静かに、だが、鋭い威いか嚇くの声を先ず放ちました。 ﹁控えおらぬか。騒ぐでない。何をするのじゃ﹂ ﹁何だと!﹂ ﹁邪魔ひろぐねえ﹂ ﹁どこから出て来やがったんだッ﹂ ﹁退どきやがれッ。退きやがれッ。退かねえとうぬも一緒に痛え目にあうぞッ﹂ どッと口々に犇ひしめき叫びながら襲いかかろうとしたのを、 ﹁控えろと申すに控えおらぬか! これをみい! 身共もろ共痛い目にあわすはよいが、とくと先ずこれを見てから命と二人で相談せい!﹂ 静かに威嚇しつつ、深編笠をバラリとはねのけて、ずいと農民達の面前に突きつけたのはあれです。あの眉間傷です。 ﹁………﹂ ﹁………﹂ ﹁のう、どうじゃ。ずうんと骨身までが涼しくなるようなよい疵であろうがな。近寄ればチュウチュウ鼠啼き致して飛んで参るぞ﹂ ﹁………﹂ ﹁………﹂ ぎょッとなって身を引きながら、いずれも農民達はやや暫し片かた唾ずを呑んで遠くからその傷痕を見守っていたが、まさにこれこそは数の力でした。否、よくよく誰もが抑え切れぬ憤いきどおりを発していたと見えて、揉み合っている人垣のうしろから、爆発するように罵り叫んだ声が挙りました。 ﹁やッつけろ。やッつけろ。構わねえからやッつけろ。どこのどやつだか知らねえが、邪魔ひろぐ奴アみなおいらの讐かたきだ。のめせ! のめせ! 構わねえから叩きのめせ!﹂ ﹁違げえねえ。一ぺん死にゃ二度と死なねえや! いってえおいらお侍さむれいという奴が気に喰わねえんだ。百姓と見りゃ踏みつけにしやがって気に喰わねえんだ。やッつけろ。やッつけろッ。みんな死ぬ覚悟でやッつけろ﹂ 声と同時です、殺気を帯びたどよめきがさッと人波のうしろに挙ったかと見えるや一緒で、バラバラと投げつけたのは咄嗟の武器の石つぶてです。 ﹁わはは。さてはこの眉間傷もその方共には猫に小判と見ゆるな。面白い。石と矢とは少しく趣きは異なるが、篠崎先生が秘伝の矢止めの秘術、久方ぶりに用いて見るも一興じゃ。投げてみい! 受け損じなばお代は要らぬ。見事に止めて見しょうぞ。投げい! 投げい! もそッと投げて見い!﹂ 泰然自若、雨と霰あられにそそぎかかる石のつぶてを右に躱かわし左に躱して、顔色一つ変えずに大きく笑ったままなのだから敵かなわないのです。しかもその身の躱し方のあざやかさ! ﹁わッははは。当らぬぞ。当らぬぞ。――左様々々。今のはやや法に敵かなった投げ方じゃ。いや、うまい。うまい。その意気じゃ。その意気じゃ。もッと投げい! もそッと必死になって投げてみい﹂ 笑いつつ、パッと躱してはさッと躱し、掴んで投げる小石はこれをバラバラと編笠の楯で受け止め、そうして悠揚自若、只もう見事の二字に尽きるすばらしさでした。いや、これこそはまさしく技わざの冴え、肝きもの太さ、胆たんの冴えの目に見えぬ威圧に違いないのです。投げては襲い、襲ってはまた投げつけて、必死に挑いどみつづけていたが、泰然自若としながら顔色一つ変えぬ主水之介のすさまじい胆力と水際立った技の冴えに、いずれも農民達は知らず知らずに恐怖と威圧を覚えうけたものか、誰から先にとなくじりじりとあとに引いて、石つぶての襲撃もどこから先に止まったともなく止まりました。いや、農民達ばかりではない。ことごとく舌を巻いたらしいのはあの老神官です。呆然自失したように手槍を杖についたまま、じいッと主水之介のすばらしい男前にやや暫し見惚れていたが、のそりのそり近づいて来ると、上から下へじろじろと探るように見眺めながら、ぽつりと言いました。 ﹁貴公、なかなか――﹂ ﹁何でござる﹂ ﹁当節珍らしい逸いっ品ぴんでおじゃるな﹂ ﹁わはは、先ず左様のう。自慢はしとうないが、焼き加減、味加減、出来は少し上等のつもりじゃ。刀剣ならば先ず平安城流でござろうかな。大のたれ、荒あら匂におい、斬り手によっては血ちお音とも立てぬという代しろ物ものじゃ。鯛ならば赤あか穂ほだ鯛い、最もな中かならトラヤのつぶし、舌の奥にとろりと甘すぎず渋すぎず程のよい味が残ろうという奴じゃ。お気に召したかな﹂ ﹁大おお気きに入りじゃ。御身分柄は何でおじゃる﹂ ﹁傷の早乙女主水之介と綽あだ名なの直参旗本じゃ﹂ ﹁なにッ、何だと!﹂ ﹁のめせ! のめせ!﹂ ﹁それきいちゃもう我慢が出来ねえんだ。こいつも同じ旗本だとよう! のめせ! のめせ! 叩きのめせ!﹂ はしなくも名乗った旗本の一語をきくや、手を引いていた農民達が、再びわッと犇ひしめき立つと、不審な怒気を爆発させながら、揉合い押合ってまたバラバラと石つぶての襲撃を始めました。然しその刹那、必死に手をふってこれを御したのは老神主です。 ﹁またッしゃい! 待たッしゃい! 旗本は旗本でも、この旗本ちと品が違うようじゃ! 投げてはならぬ。鎮しずまらッしゃい! 鎮まらッしゃい!﹂ ﹁でも、同じ旗本ならおいらはみな憎いんだ。うちの御領主様もその旗本なればこそ、お直参風を笠に着て、あんな人でなしのむごい真似をするに違げえねえんだ。やッつけろッ。やッつけろッ、構わねえから叩きのめせッ﹂ ﹁待たッしゃいと言うたら待たッしゃい! そのように聞き分けがござらぬと、わしはもう力を貸しませぬぞ。物は相談、荒立てずに事が済めばそれに越した事はないのじゃ! 手を引かッしゃい! 手を引かッしゃい! それよりあれじゃ、あれじゃ。あの男を早く!――﹂ 制しておいてひょいとみると、どこにもいない。あのいぶかしい鳥刺しはいつのまにまた消えて失くなったものか、折から迫った夕闇に紛れて巧みに逃げ去ったらしく、影も形も見えないのです。 ﹁小鼠のような奴じゃな。よいよい。いなくばよいゆえ、二度とあいつめを寄せつけぬよう、充分見張りを固めて、静かに待っておらッしゃい、よろしゅうござるか。篝かが火りびを焚いたり、鬨ときの声を挙げなば引ッ捕えられぬやも知れぬゆえ、鳴りを鎮めていなくばなりませんぞ。――御仁。旅の御仁!﹂ 奇怪から奇怪につづく奇怪に、いぶかしみながら佇んでいる退屈男のところへ歩みよると、老神主沼田正守は言葉も鄭重に誘いざないました。 ﹁貴殿の胆力に惚れてのことじゃ。お力を借りたい一儀がおじゃる。あちらへお越し召さらぬか﹂ ﹁ほほう、ちと急に雲行がまた変りましたな。借り手がござらば安い高いを申さずにお用立て致すこの傷じゃ。ましてや旗本ゆえに恨みがあると聞いてはすておけぬ。いかにも参りましょうぞ。どこへなと御案内さッしゃい﹂ 導いていったところは社務所の中でした。三
しかし、この社務所が只の社務所ではないのです。部屋一杯に和漢の書物が所構わず積んであって、その上に骨がある。馬の骨、鹿の角つの、人の骨、おシャリコウベ、それから蛇のぬけがら、いずれも不気味な品が雑然と所嫌わずに置いてあるのです。しかも刀剣が八口ふり、槍が三本、鎧が二領、それらの中に交って、老人、医道の心得があるらしく、いく袋かの煎せんじ薬と共に、立派な薬やく味みだ箪ん笥すが見えました。
﹁ウフフ。これは少々恐れ入った。御老体もちと変り種でござりまするな﹂
変り者たる点に於ては決して人後に落ちる退屈男でないが、これはいかにも大変りでした。胆力双絶の主水之介もいささか呆れ返って、ひょいとそこの床の間に掛けてある軸を見ると、はしなくも目を射たものは次のごとくに書き流された細こまかい文字です。
﹁予ガ子々孫々誓ッテ守ルベシ、大オオ和ワダ田ハチ八ロ郎ウ次ジ、病気平癒ノ祈願致セシトコロ、九死ニ一生ヲ得テ幸イニ病魔ノ退散ヲ見タルハ、コレ単ヒトエニ当豊明権現ノ御加護ニ依ルトコロナリ
依ヨッ而テ、予ガ家名ノ続ク限リ永エイ代ダイ、米、年ニ参百俵宛貢納シ、人夫労役ノ要アルトキハ、領内ノ者共何名タリトモ徴チョ発ウハツシテ苦シカラズ、即チ後日ノ為ニ一書ス 領主大和田八郎次※﹇#丸印、U+329E、233-下-1﹈――﹂
﹁ほほう喃のう﹂
読み下すと同時に退屈男は、はッとなって意外げにきき尋ねました。
﹁珍しい一軸じゃ。御老体、当所はそれなる軸に見える大和田家の知行所か﹂
﹁左様でおじゃり申す。何やら驚いての御容子じゃが、貴殿大和田殿御一家の方々御知り合いでおじゃりますか﹂
﹁知らいで何としょう。それに見える八郎次殿はたしか先々代の筈、当主十郎次は身共同様同じ八万騎のいち人じゃ。それにしても、十郎次どのの所領にめぐりめぐって参ったとは不思議な奇縁でござるな﹂
おどろいたのも無理はない。軸に書かれた八郎次の孫なる当代大和田十郎次は、旗本も旗本、石こく高だか二千八百石を領する小こぶ普しん請がし頭らのちゃきちゃきだったからです。しかも事は今、同じそのお直参八万騎の列につながる同輩の所領地に於て、由々敷も容易ならぬ火蓋を切らんとするに至っては、自ら天下御政道隠し目付御意見番を以て任ずる早乙女主水之介の双の目が、らんらん烱けい々けいと異様に冴え渡ったのは当然でした。
﹁騒ぎは何でござる。どうやら百姓共の容子を見れば、一揆でも起しそうな気けは勢いでござるが、騒ぎのもとは何でござる﹂
﹁それがいやはや、さすがの沼田正守、あきれ申したわい。かりにも御領主どのゆえ、悪あしざまに言うはちと憚はばり多いが、それにしても当代十郎次どの、少々あの方がきびしゅうてな﹂
﹁きびしいと申すは、年ねん貢ぐの取立てでござるか﹂
﹁どう仕って、米や俵の取立てがきびしい位なら、まだ我慢が出来申すというものじゃが、あれじゃ、あれじゃ、目めへ篇んでござるわい﹂
﹁目篇とは何でござる﹂
﹁目篇に力かの字じゃ﹂
﹁ウッフフ。わッははは! 左様でござるか。助すけでござるか。助でござるか。助の下は平でござるな﹂
﹁左様々々。その助すけと平へいがちと度が強すぎてな。何と申してよいやら、あのようなのも先ず古今無双じゃ。これなる床の軸にも見える通り、御先々代八郎次さまは至っての偉えら物ぶつでな、病気平癒の祈願を籠めてさしあげたは、かく言う沼田正守がまだ壮年の砌みぎりのことじゃ、それ以来当豊明権現を大変の御信仰で、あの一札にもある通り、貢ぐの納うま米いから労役人夫、みな行き届いた御仕方じゃ。なれども御三代の当主と来ては、いやはや何と言うか、売うり家いえと唐様で書く三代目どころの騒ぎではござりませぬわい。今のその目篇がちときびしすぎてな、江戸の女共を喰いあきたせいでおじゃるのか、それともまた田舎育ちの土女共が味変り致してよいためでおじゃるのか、どちらがどうやら存ぜぬことじゃが、所しょ労ろう保ほよ養うのお暇を願ったとやらにて、ぶらりとこの月初めに知行所へお帰り召さったのじゃ。ところが、もうそのあくる日からちょくちょくと早速にあれをお始めでござるわい。それとても、いやはや、もう論外でな、きのうまでに丁度十一人じゃ﹂
﹁と申すと?﹂
﹁人ひと身みご御く供うにおシャブリ遊ばした女おな子ごが都合十一人に及んだと申すのじゃ。娘が六人、人妻が三人、若後家が二人とな、いずれもみめよい者共をえりすぐって捕りあげたのは言うまでもないことじゃが、憎いはそれから先じゃ。十一人が十一人、人妻までも捕りあげて屋敷の広間に監禁した上、なおそれでも喰いあきぬと見えて、この次は何兵衛の娘、その次は何太郎の家内と、御領内残らずの女共の中から縹きり緻ょうよしばかりをえりすぐって、次から次へと目星をつけているゆえ、領民共とて、人の子じゃ、腹立てるのは当り前でおじゃりますわい。それゆえ、つまり――﹂
﹁一揆の談合をこの境内でしたと申さるるか﹂
﹁左様々々。ひと口に申さばまだ談合中じゃが、相談うけたのが、何をかくそうこのわしなのじゃ。同じ御領内に鎮守の御みや社しろを預かって、御家繁昌御家安泰を御祈願すべき神主が、由々敷一揆の相談うけたときかばさぞかし御不審でおじゃろうが、拙者、ちと変り者でな。神にお仕え申すこの職は、親代々の譲りものゆえ嫌いではおじゃりませぬが、それより好物はこの本じゃ。それから骨じゃ。別して医の道は大の好物ゆえ、御領内みなの衆にあれやこれやと医療を授けているうちに、何かと相談を持ち込むようになったのじゃ。それゆえ、一揆起すについても先ずわしに計ってと、あの通り大挙して参ったところを、御領主方でも知ったと見える。先程のあの鳥刺しめ、まさしく大和田十郎次どのから秘密の言い付けうけて参った者に相違ござらぬが、あやつめが四たび五たびとしつこく隙すき見みして、何か嗅ぎ出そうと不埓な振舞いに及んだゆえ、脅おどしつけようと飛んで出たところへ、貴殿がふらふらと迷ってお出なすったという次第じゃ。それから先は御存じの通り、――それにつけても沼田正守、当年九十一蔵に至るまでまだ一度も女おな子ごに惚ほれたことはおじゃらぬが、男の尊公ばかりにはぞッこん参りましたわい。それ故にこそ由々敷大事の秘密まで打ちあけてのお願いじゃ。一揆を起すか刺し殺すか、どうあっても十郎次どのに今日のごとき非行お改めなさるよう、御意見申上げねばならぬ。いかがでおじゃろう、強たってとは申さぬ。同じお直参のよしみもござろうゆえ、旗本八万騎にその位は当り前と、十郎次どのに御味方なさるならばなさるで、それもよし、少しなりとこのおやじに見どころがござらば、先程とくと拝見仕った尊公のあのお腕前と御胆力、少々御用立て願いたいのじゃ。否か応か御返答いかがでおじゃる﹂
﹁なるほど、事の仔細も御所望の筋もしかと分り申した。もしこの主水之介が否と申さば?﹂
﹁知れたこと、この場に先ず御貴殿を血祭りに挙げておいて、老体ながら沼田正守、一揆の一隊引具し、今宵にも御領主の屋敷に乱入いたし、力弱き農民百姓達を苦しめる助の平の大和田十郎次めにひと泡吹かすまででおじゃるわ﹂
﹁わはは。いや、面白い面白い。身共を先ず血祭りに挙げるとはさも勇ましそうに聞えて、ずんと面白うござりますわい。老いてもなお負けぬ気な、その御気性、主水之介近頃いちだんと気に入ってござる。ましてや世の亀きか鑑んたるべき旗本中にかかる不ふら埓ちも者のめが横行致しおると承わっては、同じ八万騎の名にかけて容赦ならぬ。いかにも身共、御所望の品々御用立て仕ろうぞ﹂
﹁なに! 御力となって下さるか。忝かたじけけない、忝けない。ほッと致して急に年が寄ったようじゃ。みなの衆もさぞかし躍り上がって悦びましょうゆえ、早速事の仔細を知らせてやりましょうわい﹂
﹁いや、待たれよ。待たれよ。お待ち召されよ﹂
欣きん々きんとして駈け出そうとした老神主を静かに呼びとめると、早乙女主水之介なかなかに兵法家でした。
﹁百姓共を悦ばすはよいが、十郎次と身共面識があるだけに、懲こらしめる方法をちと工夫せずばなるまい。十一人とやらの女子供はいずれもみな一室に閉じこめて見張り中でござろうな﹂
﹁見張りどころか、まるで屋敷牢でござりますわい。しかもじゃ、十郎次の助の字、掠かすめとった女おん子なこ供どもはいずれも裸形にしてな、夜な夜な酒宴の慰みにしているとやらいう噂ゆえ、百姓達が殺気立って参ったは当り前でおじゃりますわい﹂
﹁いかさまのう。聞いただけでも眉間傷が疼うず々うずと致して参った。しかし、事は先ず女共を無事に救い出すが第一じゃ。いきなり身共が乗り込んで参らば面識ある者だけに、十郎次、罪のあばかれるのを恐れて女共を害あやめるやも知れぬゆえ、それが何よりの気懸りじゃ。二つにはまたわるい病の根絶やしすることも必要じゃ。今は身共の力で懲こらしめる事は出来ても、この先たびたび病気が再発するようならば、仏作って魂入れずも同然ゆえ、利きのいい薬一服盛ってつかわしましょうぞ。百姓共のうちに足の早い者二三人おりませぬか﹂
﹁おる段ではない。何にお使い召さる御所存じゃ﹂
﹁江戸への飛脚じゃ。おらば屈強な者を二人程御連れ願えぬか﹂
﹁心得申した。すぐさま選りすぐって参りましょうわい﹂
まもなくそこへ見るからに精せい悍かんそうな若者が伴われて来たのを待たしておくと、さらさらと書き流したのは次のごとき一書でした。
主水之介至極無事息災じゃ。旅は江戸よりずんと面白いぞ。さて、そなたに火急の用あり。飛脚に立てたるこの者共を道案内に、宿しゅ継くつぎの早駕籠にて早々当地へ参らるべし、お待ち申す。
疵の兄より
菊路どのへ
不思議です。いかなる策を取ろうというのか。飛脚の送り主は愛妹菊路でした。あの美男小姓霧島京弥にその愛撫をまかせて、るす中存分に楽しめと言わぬばかりに粋な捌さばきを残しながら江戸の屋敷を守らせておいた、あの妹菊路なのです。
﹁すぐ行け。ほら、路銀じゃ。二十両あらば充分であろう。夜通し参って、夜通し連れて参るよう、金に絲目をつけず手配せい﹂
その場に発ほっ足そくさせておくと、老神主に伝えさせました。
﹁鳴りを鎮めて容子を窺うことが上策じゃ。一揆は国の御法度、ひとりなりとも罪に問わるる者があっては身共が折角の助力も水の泡ゆえ、その旨むね百姓共にとくと言いきかせて、すぐさま引き揚げるよう御伝えさッしゃい﹂
心得たとばかり駈け出そうとしたその刹那! わッと言うけたたましい喊かん声せいが挙ると同時に、何事か容易ならぬ椿事でもが勃発したらしく、突然バタバタと駈け違う物々しい人の足音が、社殿のうしろから伝わりました。いや、それと一緒です。ざんばら髪に、色青ざめた農民のひとりが社務所の中へ駈け込んで来ると、息せき切って伝えました。
﹁やられました! やられました! あいつめが、あの鳥刺しの奴めが密訴したに違げえねえんです! 御領主様が捕り方を差し向けましたぞッ。一揆の相談するとは不埓な百姓共じゃと怒鳴り散らして、三十人ばかりの一隊が捕って押えに参りましたぞッ﹂
﹁なにッ――﹂
老神官正守は言うまでもないこと、退屈男も期せずして愕がく然ぜんと色めき立ちながら、同時に突ッ立ちあがりました。――だが、事に当って泰然自若、つねに思慮分別沈着を失わないのが主水之介のほめていいところです。――押ッ取り刀で今二人が飛び出せば、農民共は気勢を揚げて、争いを大きくするに違いない。大きくすれば味方に怪我人の出るのは言うまでもないこと、捕り手のうちにも殺さつ戮りくされる者が出るに違いない。事、ひとたび流血沙汰に及んだとすれば、農民達にいか程正義正当の理由があったにしても、士農工商、階級の相違、権力の相違が片手落ちならぬ片手落ちの裁きをうけて、結局悲しい処罰をうけねばならぬ者は、正しいその農民達なのです。――途は一つ! 只一つ! 事を荒立てないで、怪我人も出さず、科とが人にんも作らず、未然にすべてを防ぐ手てだ段てを講ずる以外には何ものもないのです。しかも事実は、談合協議こそしていたが、まだ一揆の行動に移ったわけではないのでした。いかにすべきか? ――考えているその目のうちに、はしなくもちらりと映ったものは、床の間に掛けてあるあの一軸です。
﹁ウフフ。策はあるものじゃ。待たれよ! 待たれよ! お待ち召されよ!﹂
ねじ鉢巻に股もも立たちとって、手馴れの短槍小脇にしながら気色ばんで駈け出そうとした、老神主を鋭ぐ呼びとめると、静かに言ったことでした。
﹁行ったら危ない。捕らせてやらっしゃい。あとからすぐにそっくり頂戴に参らばようござるわい﹂
﹁………?﹂
﹁お分りでござらぬか。あれじゃ。あれじゃ。あの大和田八郎次どのお残しの一書じゃ。労役人夫必要の時あらばいか程たりとも微発苦しからずと、子々孫々にまで言いきかせてござるわい。すぐにあとから追っかけて参って、引かれていったあの者共をそっくり頂戴して参るのよ﹂
﹁いやはや、なる程。わしも軍学習うたつもりじゃが、若い者の智慧には敵わぬわい。ようおじゃる。ゆるゆるひと泡吹かしてやりましょうわい﹂
塵を払って、白髯をなでなで至極取り澄ましながら出て行くと、老神官は大きく呼ばわりました。
﹁みなの衆、行かッしゃい! 行かッしゃい! あとは沼田正守、きっと御引受け申すゆえ、おとなしゅう引かれて行かッしゃい!﹂
ざわざわとやや暫し農民達のざわめきがつづいていたが、いずれも心に何事か察するところがあったと見えて、まもなく捕り方達に引かれて行く静粛な足音がきこえました。
四
表はすでにもうとッぷり暮れ切って、時刻は丁度宵六ツ下り。そうしてポツリポツリと、糠ぬかのようなわびしい秋時雨でした。 それゆえにこそ表はさらに暗い。顔をかくし、姿をかくして、どこの何者か知られぬためには勿もっ怪けもない宵闇なのです。 ﹁身共もお供仕る。そろそろ参りましょうぞ﹂ ﹁待たッしゃい。待たッしゃい。こういう事は威厳をつけぬと兎角利き目が薄いでな。装束を着けて参ろうわい﹂ 沼田正守はなかなかに人を喰った変り者でした。物々しい神主の表装束に着け替えるのを待ちうけて、二人はただちにあとを追いかけました。――道は八丁あまり。 うしろに嶮しい山を控えて、屋敷はさすがに知行高二千八百石の名に恥じない御陣屋風の広大もない構えでした。 ﹁おう、御手柄じゃ。御手柄じゃ。手もなく曳いて参ったようじゃな。みなで何名じゃ﹂ ﹁五十七名でござります﹂ ﹁左様か、不埓な奴らめがッ。百姓下民の分ぶん際ざいで、領主に逆らい事致すとは何ごとじゃッ。生かすも気まま、殺すも気まま、その方共百姓領民は、当知行所二千八百石に添え物として頂いた虫けらじゃ。不埒者達めがッ。明朝ゆるゆる成敗してつかわそうゆえ、見せしめのために、ひとり残らずくくしあげて、今宵ひと夜、この庭先で雨あま曝ざらしにさせい﹂ ぴったり閉め切った門の中で、声も威丈高に罵っているのは、どうやら目ざす大和田十郎次のようでした。 ﹁ウフフ、助の字十郎次やりおるな。まてまて、今沼田の正守ひと泡吹かせてやろうわい。早乙女どの、主水之介どの、年はとってもこの位の高塀、乗りこせぬわけではおじゃらぬがな、装束が邪魔になって身の自由が利かぬのじゃ。手伝って下され。――左様々々。どッこいしょ。ほほう、なかなかよい眺めじゃ。では、お先に飛びおりますぞ﹂ つづいてヒラリ上がった退屈男共々、難なく二人は塀をのりこえて、屋敷の庭先に侵入すると、臆せずに近よっていったのは、心地よげに百姓達のくくされるのを見眺めていた十郎次の前です。しかも、老神官沼田正守の言い方は、また実に高飛車で、この上もなく不敵でした。 ﹁大和田どの、わざわざと人夫共をお揃え下さって、色々とどうも御足労でおじゃる。急にちと境けい内だいに手入を致さねばならぬところが出来申したのでな。早速じゃが、ここにお勢揃いのみなの衆をそっくり頂戴して参りまするぞ。 ﹁なにッ?﹂ ﹁いや、わしじゃ。わしじゃ。たびたび無心を言うて相済まぬがな。御身がおじい様の八郎次どのから、いつ何時たりとも苦しからずと、有難い遺のこし書がきを頂戴しておるゆえ、またまた拝借に参ったのじゃ。では、頂いて参ろうわい。――みなの衆、豊明権現様もさき程からきっとお待ちかねじゃ。遠慮は要りませぬぞ。急いで行かッしゃい﹂ ﹁まてッ、まてッ、待たッしゃい!﹂ ﹁御用かな﹂ ﹁おとぼけ召さるなッ。祖先の御遺訓ゆえ御入用ならば労役人夫やらぬとは申さぬ。決してさしあげぬとは申さぬが、この百姓共には詮議の筋がある。おぬしにはこやつらの手にせる品々、お分り申さぬか﹂ ﹁これはしたり、九十の坂を越してはおるが、まだまだ両眼共に確かな正守じゃ。鍬をもち、鎌をも構え、中には竹槍棍こん棒ぼうを手にしておる者もおじゃるが、それが何と召されたな﹂ ﹁何と召されたも、かんと召されたもござらぬわッ。かような物々しい品を携たずさえ、あの境内に寄り集って、不埓な百姓一揆を起そうと致しおったゆえ、ひと搦めに召し捕ったものじゃ。ならぬ! ならぬ! なりませぬ! この者共を遣つかわすこと罷まかりならぬゆえ、とッとと帰らッしゃい!﹂ ﹁いやはや困った御ごじ笑ょう談だんを申さるる御方じゃ。御立派やかな若殿が老人を弄からかうものではござらぬわい。一揆の証拠どこにおじゃる。石垣の修築と境内の秋芝刈りを願おうと存じたのでな。みなの衆にもその用意して社殿の裏に集つどうて貰うたのじゃ。鍬をお持ちの方々は即ちその石垣係り、鎌を所持の人達は即ち草刈り係り、それから竹槍と棍棒は――﹂ ﹁何でござる! 何のために左様なもの用意させてござる!﹂ ﹁狸たぬき狩りじゃ。奇態とあの境内へ夜な夜なムジナ、マミの類たぐいがいたずらに参るのでな、尊い御神域を修復中にケダモノ共が荒してはならぬと、追ッ払い役に頼んだのじゃ。あははは。では、参るかな。みなの衆も行かッしゃい﹂ ﹁ならぬ! 罷まかりなりませぬ! 境内修復ならばかような夜中にせずともよい筈じゃ。明日という日がござる。なりませぬ! 遣わすこと罷りなりませぬ!﹂ ﹁これはしたり、名君名主になろうには、もう少し物の道理の御修業が御肝要じゃ。いかにもあすという日がおじゃる。しかしな、民百姓というものは、日のうちこそ大事、大事な日中を使い立て致さば、お身が栄えい躍よう栄えい華がのもとたる米すら作ることなりませぬ。それゆえ手すきの夜よな業べにと、みなの衆にもお集りを願い、ぜひにもまた今宵お借りせねばならぬのじゃ! 神意は広大、御神罰もまた御広大、崩れた垣のままでいち夜たりとても棄ておかば、御みや社しろ預る沼田正守、豊明権現様に御貴殿が御家名安泰の御祷りも出来ぬというものじゃ。では、みなの衆、参りましょうかな!﹂ ﹁いいや、なりませぬ! 断じてやることなりませぬ! 強たって労役人夫入用ならば、当領内にはまだ百姓共が掃く程いる筈、そやつ等を呼び集めさッしゃい。この者共は一歩たりとも屋敷外へ出すことなりませぬ!﹂ ﹁分らぬ御方じゃな。特にこの方々呼び集めたのは、力も人の一倍、働らきも人一倍でおじゃるゆえ、わざわざえりすぐってお集つどいを願うたのじゃ。それゆえ、ぜひにもこの方々でのうては役に立たぬ。それとも――﹂ ﹁それともなんでござる!﹂ ﹁いいやな、これ程申してもお用立出来ぬと仰せあるならば、致し方がおじゃりませぬゆえな、今から江戸へ急飛脚飛ばして、寺社奉行様のお裁さばきを願いましょうわい。御領内に鎮座まします御社でござるゆえ、御身のものと申さば御身のものじゃが、社寺仏閣の公く事じ争い訴訟事は寺社奉行様御支配じゃ。御先祖様が無心徴発苦しからずと仰せのこしておじゃるのに、御身が貸すこと罷りならぬとあらば、江戸お上にお訴え申して、この黒こく白びゃくつけねばならぬ。さすれば――﹂ ﹁………!﹂ ﹁あははは。ちと雲行がおよろしくござらぬと見えて、俄かにぐッと御詰つまりでおじゃりまするな。いやなに、別段事を荒てとうはござらぬが、おじい様は使えとおっしゃる、お孫殿はならぬと仰せあって見れば止むをえませぬのでな、出るところへ罷り出て、お裁き願うより手てだ段てはござりませぬわい。さすれば元より軍配のこちらに揚がるは必定、それやかやとお調べがござらば、当屋敷からほこりも出ようし、鼠も出ようし、出ればその何じゃ、自おのずとお上の目も光り、光らば御家断絶とまではきびしいお裁きがないにしても、御役御免、隠居仰付けらる、というような事になり申すと、わしは構わぬが、八郎次どの御霊位に対して御気の毒と思いまするのでな。物は相談じゃが、どうでおじゃるな、断じて罷りならぬとあらば、それはまたそれでよし、お借り願えるものならばなおけっこう。いかがじゃな﹂ ﹁………!﹂ ﹁何と召さった。大分歯ぎしりをお噛みのようじゃが、虫歯ならば沼田正守医道の心得がおじゃるゆえ、ことのついでに癒して進ぜましょうかな﹂ ﹁勝手にさッしゃい!﹂ ﹁なるほど。では、御借り申してもようおじゃるかな﹂ ﹁くどいわッ。それほどこの百姓共がほしくば、とっとと連れて行かッしゃい!﹂ ﹁なるほど、なるほど。御年は若いがさすがに急所々々へ参ると、よく物が御分りでなによりにおじゃる。祖先の御遺訓を守るは孝の第一、神を敬するは国の誉、そなたも豊葦原瑞穂国にお生れの立派な若殿様じゃ。わははは。いやなに、わははは。では、みなの衆、帰ってもよいそうじゃ。お互い物の道理の分る御慈悲深い御領主様を戴いて、倖しあわせでおじゃりまするな。そろそろ参りましょうわい﹂ ﹁よッ!﹂ ﹁何じゃな﹂ ﹁待たッしゃい!﹂ ﹁ほほう、まだ御用がおじゃりますかな﹂ ﹁不審な奴があとにおる。そのうしろの深編笠は何者でござる!﹂ ﹁ははあ、なるほど、これでござるか。この者はな、わしの伜じゃ﹂ ﹁なにッ。そなたには妻がない筈、それゆえ変屈男と評判の筈じゃ。独身者に子供があるとは何とされた!﹂ ﹁妻はのうてもわしとて男でござりますわい。若い時に粗そそ相うをしてな。落おとし胤だねじゃ、落し胤じゃ。――伜よ。参ろうぞい﹂ 飛んだ落し胤の主水之介が、また大層もなく心得ているのです。 ﹁父上。思わぬところで旧悪がバレましたな。ウフフ。では、どうぞお先に、うしろから送り狼が五六匹狙うているようでござりますゆえ、ちょッと追ッ払ってから参ります﹂ 何者か編笠の中の正体を見届けようとつけ狙って来た小者の方へ、ずいと静かにふり向くと、パチンと高く鍔つば鳴りをさせました。音が違うのです。腕の出来る者が鳴らすと、同じ鍔鳴りは鍔鳴りであっても、ピーンと冴えて、音が違うのです。 早くも強敵と知ったか、たじたじとなってうしろに引いたのを、 ﹁わッははは。軍師が違うわ。うしろ楯におつき遊ばす軍師がお違い申すわ。夜食に芋いも粥がゆでも鱈たら腹ふくすすって、せいぜい寝言でも吐つかッしゃい﹂ すういと消えていった主水之介のその影のあとから、くやしげに屋敷の門が音も荒々しく締まりました。五
そうしていち夜があけました。――深い霜の朝です。
つづいてまたひと夜があけました。――やはりいちめんに深い霜です。
三日目の朝がさらに訪れました。――満目荒涼いちめんに白々として、やはり深い霜です。
日光から江戸まではざッと三十里、飛脚でいって、早駕籠で来るならば、三日目のその今日あたりは、もうそろそろ妹菊路が駈けつける頃でした。待つうちに陽がおち、丁度夕方――。
﹁御老体﹂
﹁何じゃな﹂
﹁身共にわるい癖が一つござってな﹂
﹁なるほど、なるほど。里心がおつき申したか﹂
﹁どう仕って。宿までさせて頂いて、いろいろと御造作に預る居いそ候うろうの身がわがまま言うて相済まぬが、旅に出るとどういうものか身共、三日目に一度位ずつ、塩ものを食さぬと骨放れが致すようでならぬのじゃ。夕食に何ぞよい干ひも物の御無心出来ませぬかな﹂
﹁ウフフ。これはどうも恐れ入った。口くち栄えい耀ようをした天てん罰ばつでござりますわい。お直参旗本千二百石取り疵の早乙女主水之介と言わるるお殿様が、干物を好物とは話の種でおじゃる。と申すものの、実は、ウフフ、この正守もな﹂
﹁御好物か﹂
﹁恥ずかしながらこの通り、今日は出そうか今日は出そうかと、そなたに気兼ねして実はこの本箱の奥に隠しておいたのじゃ。口の合うたが幸い、早速に用いましょうわい﹂
変り者同士の、きくだにまことに胸のすくような団だん欒らんでした。程よく焼いて用いるとき、――ピタピタと言う軽い足音が社務所の玄関口に近づいて来たかと思われるや一緒で、訪おとのうた声はまさしく銀鈴のような涼しい女の声です。
﹁お兄様! お兄様! あの、お兄様はどこにござります﹂
﹁おお、菊か。菊路か﹂
﹁あい、遅なわりました。只今ようやく参着致しましてござります。お早く! お早く! 御無事なお顔をお早く見せて下さりませ﹂
﹁まてまて、今参る今参る。ちょっと今大変なのじゃ。今参る、今参る。――そらみい。兄じゃ、よう見い。傷もあるぞ﹂
﹁ま! 御機嫌およろしゅうてなにより……。お色つやもずっとよろしくおなり遊ばしましたな﹂
﹁うんうん。旅に出ると干物なぞが頂けて食べ物がよろしいのでな。そちも半はん年とし見ぬまにずんと美しゅうなったのう﹂
﹁もうそのような御笑談ばかり。――あの、それより、あの方も、あの、あのお方も御一緒にお越しなさりました﹂
﹁誰じゃ。書面にはそちひとりに参れと書いてやった筈じゃが、あの方とは誰ぞよ﹂
﹁でもあの……、いいえ、あの、あの方でござります。京さまでござります。京弥さまでござります﹂
﹁なに? ――いずれにおるぞ?﹂
﹁その駕籠の向うに……﹂
ひょいと見ると、恥ずかしそうにうつむきながら、駕籠の向うにかくれていたのは、まさしく妹菊路の思い人霧島京弥です。
﹁わッははは、そちもか。もッと出い。こッちへ出い。恥ずかしがって何のことじゃ。ウフフ、あはは。のう京弥、諺ことわざにもある。女おな子ごの毛一筋は、よく大たい象ぞうをもつなぐとな。わはは。そちも菊に曳かれて日光詣りと洒落おったな﹂
﹁いえ、あの、そのようなことで手前、お伴ともをしたのではござりませぬ。長い道中を菊どのおひとりでは何かとお心もとなかろうと存じましたゆえ、御警固かたがたお伴をしたのでござります﹂
﹁なぞと言うて、嘘を申せ。嘘を申せ。ちゃんと二人の顔に書いてあるぞ。菊がねだったのやら、そちが拗すねたのやら知らぬが、別れともない、別れて行くはいやじゃ、なら御一緒にと憎い口くぜ説つのあとで、手に手をとりながら参ったであろうが喃。ウフフ、あはは。いや、よいよい、京弥までが一緒に参ったとあらば、風情の上になおひと風情、風情を添えるというものじゃ……。のう御老体。沼田の御老体!﹂
﹁ここじゃ。ちゃんとうしろにおりますわい﹂
﹁……? なるほど、左様か。いつのまにおいでじゃ。これが主水之介の妹菊路でござる﹂
﹁そちらが御妹御御意中の御小姓か﹂
﹁と、まア、左様に若い者を前にして、あからさまなことは言わぬものじゃ。役者が揃わば手てだ段ては身共の胸三寸にござる。すぐさま参りましょうぞ。……のう菊﹂
﹁あい……﹂
﹁そち、疲れておるか﹂
﹁あい、少しばかり。……いいえ、あの、久方ぶりに懐かしいお兄様のお顔を見たら、急に元気が出て参りました。何でござります、わたくしに火急の御用とは何でござります﹂
﹁それがちと大役なのじゃ。なれどもそちとて早乙女主水之介の妹じゃ。よいか。この兄の名を恥ずかしめぬよう、この兄に成り代ってこの兄にもまさる働きをするよう、充分覚悟致して大役果せよ。と申すはほかでもないが、当大和田の郷ごうに、みめよき女子と見ればよからぬ病の催す不ふら埓ちな旗本がひとりおるのじゃ。領民達の妻女、娘なぞを十一人も掠かすめ奪り、沙汰の限りの放ほう埓らつ致しおると承わったゆえ、早速に兄が懲こらしめに参ろうと思うたが、わるいことにきやつめ、兄と面識のある間柄なのじゃ。それゆえ……﹂
﹁分りました。それゆえ顔を見知られぬこの菊に、お兄様に代って懲らしめに参れとおっしゃるのでござりまするか﹂
﹁然り。なれども只懲らしめに参るのではない。ちとそこに工夫がいるのじゃ。今も申した通り、至っての女好きじゃでな。さぞかしそちとしては辛くもあろうし、きくもけがわらしい事であろうが、一つには可哀そうな十一人の女おな子ごのために、二つにはその女子共を掠められて恨み泣きに泣き恨んでおる領民共のために、三つには八万騎旗本一統の名誉のために、そちが重責荷になった節婦になるのじゃ。それゆえ、よいか、このように申してそちひとりがきゃつの屋敷に乗り込んで参れよ。わたくし、旅に行き暮れて道に踏み迷い、難なん渋じゅう致しておる者でござります。ぶしつけなお願いでござりまするが、いち夜の宿お貸し願えませぬかと、この様にな、さもさも困り果てているように見せかけてまことしやかに申すのじゃ。さすれば人一倍色好みのきゃつのことじゃ、兄の口からこのようなこと言うのもおかしいが、江戸でもそう沢山はないそちの縹きり緻ょうゆえ、きゃつがほっておく筈はない。わるい病が催して何か言い寄って参らば、そこがそちの働きどころじゃ。近寄らず近寄らせず巧みにあしらって懲こらしめてやるのよ﹂
﹁ま! 恐ろしい! ……でも、でも仕損じて、もしも身にけがらわしい危険が迫りましたら……﹂
﹁死ね!﹂
﹁えッ!﹂
﹁いや、恥ずかしめられなば死ぬ覚悟で参れと申すのじゃ。役者はそちひとりじゃが、うしろ楯だてにはこの兄がおる。京弥もついておる。それからここにお在での風変りなおじい様も控えておられる。そちと一緒に兄達三人も庭先に忍び入り、事急と相成らば合図次第押し入って、充分に危険は救うてつかわすゆえ、その事ならば心配無用じゃ。よいか、今申した通り、きゃつめがいろいろと淫みだらがましゅう言い寄って参るに相違ないゆえ、風ふぜ情いありげに持ちかけて、きゃつを坊主にせい﹂
﹁坊主 なんのためにござります。何の必要がござりまして、御出家にするのでござります﹂
﹁それはあとで相分る。わざわざそちを呼び招いたのも、つまりは、やつの頭をクリクリ坊主にさせたいからじゃ。是が非でも出家にさせねばならぬ必要があるゆえ、そちが一世一代の手てく管だを奮って、うまうまと剃てい髪はつさせい﹂
﹁でも、でも、わたし、そんな手管とやらは……﹂
﹁知るまい、知るまい、そちがはしたない女おな子ごの手管なぞ存じおらば事穏かでないが、でも、近頃は万更知らぬ事もなかろうぞ。兄がるす中、それに似たようなことを京弥と二人して時折試みていた筈じゃ。わはは。のう、違うかな﹂
﹁ま!……﹂
﹁いや、怒るな、怒るな、これは笑談じゃ。いずれに致せ、一つ間違わば操に危険の迫るような大役ゆえ、行けと言う兄の心も辛いが、そちの胸も悲しかろう。なれども、天下の御政道のために、是非にも節婦となって貰わねばならぬ。どうじゃ、行くか﹂
﹁………﹂
﹁泣いてじゃな。行くはいやか﹂
﹁いえ、あの、京弥さまさえお許し下さいましたら――﹂
﹁参ると申すか﹂
﹁あい、行きまする!﹂
﹁出かしたぞ、出かしたぞ、いや、きつい当てられたようじゃ。京弥、どうぞよ。菊めが赤い顔して申してじゃ。そち、許してやるか﹂
﹁必ずともに危険が迫っても、手前のために操をお護り下さると申しますなら――﹂
﹁わはは。当ておるわ、当ておるわ、若い者共、盛んに当ておるわい。いや、事がそう決まらば急がねばならぬ。御老体、先ず事は半なかば成じょ就うじゅしたも同然じゃ。御支度さッしゃい﹂
健けな気げな菊路の旅姿を先にして、主水之介、京弥、老神主三人がこれを守りながら、目ざす大和田十郎次の屋敷へ行き向ったのが丁度暮れ六ツ。
元より門はぴたりと締って、そこはかとなくぬば玉の濃い闇がつづき、空も風も何とはのう不気味です。
だが菊路は、涙ぐましい位にも今健けな気げでした。つかつかと門の外へ歩みよると、ほとほと扉を叩いて中なる門番に呼びかけました。
﹁あの、物申します。わたくし、旅に行き暮れた女おな子ごでござります。宿を取りはぐれまして難なん渋じゅうひと方ではござりませぬ。今宵いち夜、お廂ひさしの下なとお貸し願えぬでござりましょうか、お願いでござります﹂
﹁なに、女子でござりますとな。待たッしゃい、待たッしゃい。宿を取りはぐれた女子とあっては耳よりじゃ。どれどれ、どんなお方でござります﹂
ギイとくぐりをあけて、しきりにためつすかしつ、差しのぞいていたが、菊路ほどの深しん窓そう珠をあざむく匂やかな風情が物を言わないという筈はない。にたりと笑って、忠義するはこの時とばかり、屋敷の奥へ注進に駈け込んでいったその隙を狙いながら、退屈男達三人はすばやく身をかくしつつ、邸内深くの繁みの中に忍び入りました。
﹁御老体、そなた屋敷の模様御存じであろう。十郎次の居間はいずれでござる﹂
﹁今探しているところじゃ。待たっしゃい。待たっしゃい。いや、あれじゃ、あれじゃ。あの広縁を廻っていった奥の座敷がたしかにそうじゃ﹂
息をころして忍びよると、容子やいかにと耳を欹そばたてながら中の気けは勢いを窺うかがいました。――どうやらあの十一人の掠かすめ取った女達をその左右にでも侍はべらせて、もう何か淫みだらな所業を始めているらしい容子です。と思われた刹那、門番から近侍の者へ、近侍の者から十郎次へ、菊路のことが囁ささやかれでもしたらしく、急に座内が色めき立ったかと思われるや一緒に、十郎次の言う声が戸の外にまで洩れ伝わりました。
﹁そのような椋むく鳥どりが飛び込んで参ったとすれば、ほかの女共がいては邪じゃ魔まじゃ。下げい。下げい。残らずいつものあの部屋へ閉じこめて、早うその小娘これへ連れい﹂
声と共に忽ちすべての手筈が運ばれたらしく、程たたぬまに主水之介達三人が窺いよっているそこの広縁伝いに、こちらへさやさやとつつましやかに衣きぬずれの音を立てながら、大役に脅おびえおののいているのに違いない菊路が導かれて来た気けは配いでした。と同時です。もうその場から汚おじ情ょうに血が燃え出したものか、十郎次の濁にごった声が伝わりました。
﹁ほほう、いかさまあでやかな小娘よ喃。道に踏み迷うたとかいう話じゃが、どこへの旅の途中じゃ﹂
﹁………﹂
﹁怖こわうはない、いち夜はおろか、ふた夜三夜でも、そなたが気ままな程に宿をとらせて進ぜるぞ。どこへ参る途中じゃ﹂
﹁あの、日光へ行く途中でござります﹂
﹁ほほう、左様か。このあたりは道に迷いやすいところじゃ。それにしてもひとり旅は不審、連れの者はいかが致した﹂
﹁あの、表に、いいえ、表街道までじいやと一緒に参りましたなれど、ついどこぞへ見失うたのでござります﹂
﹁じいやと申すと、そなた武家育ちか﹂
﹁あい、金沢の――﹂
﹁なに、加賀百万石の御家中とな。どことのうしとやかなあたり、育ちのよさそうな上品さ、さだめて父てて御ごは大禄の御仁であろう喃﹂
﹁いえ、あの、浪人者でござります。それも長いこともう世に出る道を失いまして、逼ひっ息そくしておりますゆえ、よい仕官口が見つかるようにと、二つにはまた、あの――﹂
﹁二つにはまたどうしたと言うのじゃ﹂
﹁あの、わたくしに、このような不ふつ束つか者もののわたくしにでもお目かけ下さるお方がござりますなら、早くその方にめぐり合うよう、日光様へ願懸けに行っておじゃと、母様からのお言いつけでござりましたゆえ、じいやと二人して参ったのでござります﹂
﹁ウフフ。うまいぞ。うまいぞ﹂
きいて戸の外の退屈男は小さく呟つぶやきました。しかし、穏かでないのは京弥です。きき堪えられないように身悶えながら色めき立ったのを、
﹁大事ない、大事ない。あれが手管ぞよ。手管ぞよ。今暫くじゃ、辛抱せい﹂
小声で叱りながら、なおじッと聞耳立てました。それとも知らずに十郎次は、菊路の巧みな誘いの一手に汚情を釣り出されたとみえて、ますます色好みらしい面目をさらけ出しました。
﹁聟探しの日光詣もうでとはきくだに憎い旅よ喃。もしも目をかけてとらす男があったら何とする﹂
﹁ござりましたら――﹂
﹁ござりましたら、何とするのじゃ﹂
﹁そのようなお方がござりましたら、きっと日光様が御授け下さりましたお方に相違ござりませぬゆえ、いいえ、あの、わたくしもうそのようなこと申上げるのは恥ずかしゅうござります﹂
きくや、実に十郎次の行動は直接なのです。直接以上に露骨でした。にじり寄ってむんずとその手をでも取ったらしい気けは勢いがきこえると共に、あからさまな言葉がはっきりときこえました。
﹁可愛いことを申す奴よ喃。身共がなって進ぜよう。誰彼と申さずに、この拙者が聟になって進ぜるがいやか﹂
﹁ま! でも、でもあのそんな、ここをお放し下されませ! あの、そんな今お会い申したばかりなのに、もうそんな――﹂
﹁いつ会うたばかりであろうと、そなたが可愛うなったら仕方がないわい。どうじゃ。拙者の心に随うてくれるか﹂
﹁でも、あの、あなた様は――﹂
﹁わしがどうしたと申すのじゃ﹂
﹁卑いやしいわたくしなぞが、お近づくことすら出来そうもないほど、御身分の高いお方のようでござりますゆえ、わたくし、空恐ろしゅうござります﹂
﹁しかし、恋に上下はないわい。この通りまだ三十になったばかり、妻も側そば女めもないひとり身じゃ。そちさえ色よい返事致さば、どんなにでも可愛がってつかわすぞ。いいや、そちの望みなら何でもきき届けて進ぜるぞ。親御の仕官口もよいところを見つけて、世に出るよう取り計らってつかわすぞ。どうじゃ、言うこときくか﹂
﹁それがあの、本当なら倖しあわせでござりますなれど……わたくし、あの只一つ――﹂
﹁只一つどうしたと言うのじゃ﹂
﹁………﹂
﹁黙っていては分らぬ。言うてみい、只一つどうしたと申すのじゃ﹂
﹁気になることがあるのでござります﹂
﹁どういうことじゃ﹂
﹁あの、小さい時、鞍くら馬まの修しゅ験げん者じゃが参りまして、わたくしの人相をつくづく眺めながら、このように申したのでござります。そなたは行末ふとしたことから、身分の高いお方のお情をうけるやも知れぬが、その節は必ずこの事守らねばならぬ。俗人のままの姿でお情うけたならば、その場で悲しい禍わざわいに会わねばならぬゆえ、ぜひにもお頭つむりを丸め、御法ほっ体たいになって頂いてからお情うけいと、このように申されましたゆえ、それが気になるのでござります﹂
﹁馬鹿な! 修験者風ふぜ情いの申すことが何の当になるものぞ。くだらぬことじゃ。そのようなことは気にかけるが程のものもないわい﹂
﹁いいえ、でも、三年の間に三人の違った修験者に観て頂きましたら、三人共みな同じことを申しましたのでござります。それゆえ、ふとしたことからお情頂戴致すようなことになるとか申したその身分の高いお方というは、もしやあの、お殿様ではないかと思うて、気になるのでござります﹂
﹁では、このわしに頭つむりを丸めいと言うのか﹂
﹁あい。末々までもと申すのではござりませぬ。御出家姿となって最初の夜のお情をうけたら、邪じゃ気きが払われて必ずともに倖しあわせが参るとこのように修験者共が申しましたゆえ、本当にもし――﹂
﹁本当にもし、どうしたと言うのじゃ﹂
﹁わたくしのような不ふつ束つか者ものを本当にもしお目かけ下さるならば、愛のしるしに、いえ、あの誓いの御しるしに、わたくしのわがままおきき届け願いとうござります。そしたらあの……﹂
﹁身をまかすと申すか!﹂
﹁あい……。いいえ、あの、わたくしもう、なにやら恥ずかしゅうて、胸騒ぎがして参りました。あの、胸騒ぎがしてなりませぬ﹂
愈々筋書通りに事が運ばれました。しかも、虫一つ殺さぬげに見えた菊路の手管、なかなかにうまいのです。――何と答えるか、庭先にひそむ三人の耳は異様に冴え渡りました。だが、こんなおろか者もそう沢山はないに違いない。いや、花も恥じらわしげな菊路の、触れなばこぼれ散りそうな初うい々ういしい風情が、ついにおろか者十郎次の情欲をぐッと捕えてしまったに違いないのです。にたにたと北ほく臾そ笑みながらでも言っているらしい笑止な声がきこえました。
﹁剃ろうぞ。剃ろうぞ。見ているうちにそちの可愛さが、もうもう堪らずなった。ふるいつきとうなったわい。今宵は丸めたとても、あすからまた伸びて参る髪の毛じゃ。いいや、却って座興がますやも知れぬ。そうと事が決らば早いがよいゆえ、今すぐ可愛い頭つむりとなって見しょうわい。誰ぞある! 誰ぞある!﹂
まことに言いようなく笑止な男です。
﹁十郎次の変った姿を見せてやるぞ。早うこの髪、剃りおろせい﹂
ごたごた暫く何かつづいていたかと思われるまもなく、ついに思い通り、頭を丸めさせられたと見えて、菊路の白々しげに、しかも、いかにも情ありげに言った声がきかれました。
﹁ま! おかわゆらしい……。わがまま御きき届け下さりまして、うれしゅうござります﹂
頃はよし!
ダッともろ手体当てに、雨戸を難なく押し破りながら、先頭に主水之介、つづいて京弥、あとから神官正守の順でいきなり広縁に躍り上がるや、ずいと先ず退屈男が静かに部屋の中へ押し入ると、悠ゆう揚よう莞かん爾じとしながら、さらに静かに浴びせかけました。
﹁わッはは。俄か坊主、唐とう瓜がん頭が青々と致して滑なめらかよ喃。風を引くまいぞ﹂
﹁なにッ? よよッ! 貴公は!﹂
﹁誰でもない。傷の早乙女主水之介よ。江戸でたびたび会うた筈じゃ。忘れずにおったか﹂
﹁何しに参った! 狼狽致して夜中何しに参った!﹂
﹁ウフフ、おろか者よ喃。まだ分らぬか。三日前の夜、こちらの沼田先生にお伴ともして、百姓共をとり返しに参ったのもこの主水之介よ。そこのその旅姿の女も、身共の妹じゃわい。八万騎一統の名を穢けがす不ふら埓ちも者のめがッ。その方ごときケダモノと片刻半刻たりともわが肉身の妹を同席させた事がいっそ穢らわしい位じゃ。主水之介、旗本一統に成り変って、未練のう往生させてつかわすわッ。神妙に覚悟せい﹂
﹁さてはうぬが軍師となって謀はかりおったかッ。同輩ながら職席禄高汝にまさるこの大和田十郎次じゃ。屋敷に乱入致せし罪許すまいぞッ、者共ッ者共ッ。狼藉者捕って押えいッ﹂
声に、抜きつれながら七八人の近侍達が一斉に襲いかかろうとしたのを、
﹁何じゃい。何じゃい。わしのこの白髯が目に這入らぬかい。片腹痛い真似を致さば、こやつでプツリ御見舞い申すぞ﹂
咄嗟にそこの長なげ押しから短槍はずし取って青あお江えり流ゅう手て練だれの位取りに構えながら威嚇したのは、九十一の老神官の沼田正守です。怯ひるんで一同たじたじと引き下がったのに苛いらってか、十郎次が剃り立て頭に血脈を逆立てながら代って襲いかかろうとしたのを、一瞬早く退屈男の鋭い命が下りました。
﹁京弥、青あお道どう心しんを始末せい!﹂
﹁お差し支えござりませぬか!﹂
﹁投げ捕り、伏せ捕り、気ままに致して、押えつけい﹂
大振袖がヒラリ灯ほか影げの下に大きく舞ったかと見るまに、もう十郎次は京弥の膝の下でした。
﹁ま! ……お見事でござります﹂
感に堪えたように目を涼しくしたのは菊路です。
﹁ウフフ。十郎次、ちと痛そうじゃな。その態ざまは何のことぞ。それにても一朝事ある時は、上将軍家の御旗本を固むる公儀御自慢の八万騎と申されるかッ。笑止者めがッ。慈悲をかけてつかわすべき筈の領民共を苦しめし罪、お直参の名を恥ずかしめたる不ふら埓ちの所業の罪、切腹しても足りぬ奴じゃが、早乙女主水之介、同じ八万騎のよしみを以て、涙ある計らいを致して進ぜる。――御老体! 御老体! このまに十一人の可哀そうな女共、早う逃がしておやり下されい﹂
心得たとばかりに、近侍の者共を槍先一つであしらいあしらい、向うに消えていった老神官を心地よげに見送りながら、主水之介はどっかと、そこの脇きょ息うそくに腰打ちかけると、文庫の中の奉ほう書しょを取り出して、さらさらと達筆に書きしたためました。
拙者儀、領内の女共を掠めて、不埓の所業仕候段慚ざん愧きに堪えず候間、重なるわが罪悔かい悟ごのしるしに、出しゅ家っけ遁とん世せい仏ぶつ門もんに帰き依え致し候条、何とぞ御ごれ憐んび憫んを以て、家名家督その他の御計らい、御寛大の御処置に預り度、右謹んで奉願上候。なお家督の儀は舎弟重郎次に御譲り方御計らい下さらばわが家門の面めん目もく不これ過にす之ぎず、併せて奉願上候。
願人 旗本小普請頭 大和田 十郎次
右証人 旗本 早乙女主水之介
大目付御係御中
﹁どうじゃ。十郎次、よくみい! そちを坊主にさせた仔細これで相解ろう。早う名の下に書かき判はんせい﹂
﹁何じゃ。こ、これは何じゃ! 勝手にこのようなものを書いて、何とするのじゃ!﹂
﹁勝手に書いたとは何を申すぞ、この一埓らつ、表立って江戸大公儀に聞えなば、家名断絶、秩ちつ禄ろく没ぼっ収しゅうは火を睹みるより明らかじゃ。せめては三河ながらの由緒ある家名だけはと存じて、主水之介、わざわざ手数をかけその方を坊主にしてやったのじゃ。有難く心得て書判せい﹂
ぐいとその手をねじむけて、介かい添ぞえながら十郎次に書判させると、折から晴れ晴れとした顔で再び姿を見せた老神主に、大目付上申のその奉書をさしながら、莞かん爾じとして言った事でした。
﹁御老体いかがじゃ。こうして十郎次を隠居放逐しておいて、家名食禄を舎弟に譲り取らしておかば、この先当知行所の女共は元より、領民一統枕を高くして農事にもいそしめると言うものじゃ。御気持はいかがでござる。屈強な者共二三人えりすぐって、これなる上申書、すぐさま江戸へ持参するよう、御手配なさりませい﹂
﹁ウフフ、あはは、左様か左様か。病の根を枯らし取ると言うたはこの事でおじゃったかい。いや、さすがは干物がお好きなだけのものがおじゃる。飛ばそう、飛ばそう。すぐに江戸へ飛ばしましょうが、その間、丁度よい都合じゃ。今十一人の女共を救うてやったあの部屋が、錠前つき、出入りままならぬ座敷牢ゆえ、大目付御係り役人がお取り調べに参るまで、この青いお頭つむりを投げ込んでおきましょうわい。十郎次出家、立たッしゃい﹂
ぐんぐん引立てて行くと、手もなく投げ込んだと見えて、ピーンと錠前のかかる音がひびき伝わりました。――刹那、ちらりと庭先を掠かすめて通りすぎようとした姿は、まさしくあの鳥刺しです。
﹁まだ貴様、まごまご致しおったか。事のついでに主水之介自ら手を下して、うぬも一緒に坊主にしてやろうぞ﹂
すいと泳いでその襟髪引ッ捕えながら、早くもすでにプツリ髻もとどりを切ってすてました。
﹁馬鹿者めがッ。行けッ。わはは、いいこころもちよ喃。御老体どうぞ御先に。では、京弥、菊路、そろそろ参ろうかい﹂
事もなげに、そうして悠々と引上げていった退屈男のその足どりの爽やかさ! ――救い出された女共から知らせをうけて駈けつけたと見えて、屋敷の門の前に蝟いし集ゅうしていた農民共が、見迎え見送りながら、一斉に歓かん呼この声を浴びせかけました。
﹁殿様、有難うござります﹂
﹁お蔭で領民共一統生き返りました﹂
﹁有難うござります。有難うござります﹂
夜空に高く星も喜ばしそうにまたたいた。