ある地ちは方うの郡ぐん立りつ病びや院うゐんに、長なが年ねん看かん護ごふ婦ちや長うをつとめて居をるもとめは、今け日ふ一日にちの時じか間んからはなたれると、急きふに心こゝろも體からだも弛たるんでしまつたやうな氣き持もちで、暮くれて行ゆく廊らう下かを靜しづかに歩あるいてゐた。
﹃おや、降ふつてるのかしら。﹄
彼かの女ぢよは初はじめて氣きがついたやうに窓まどの外そとを見みて呟つぶやく。冷ひえ〴〵として硝がら子すのそとに、いつからか糸いとのやうに細こまかな雨あめが音おともなく降ふつてゐる、上うは草ざう履りの靜しづかに侘わびしい響ひゞきが、白びや衣くえの裾すそから起おこつて、長ながい廊らう下かを先さきへ〳〵と這はうて行ゆく。
彼かの女ぢよが小こづ使かひ部べ屋やの前まへを通とほりかゝつた時とき、大おほきな爐ろの炭すみ火びが妙めうに赤あかく見みえる薄うす暗くらい中なかから、子こど供もをおぶつた内か儀みさんが慌あわてゝ聲こゑをかけた。
﹃村むら井ゐさん、今いまし方がたお孃ぢやうさんが傘かさを持もつておいんしたよ。﹄
彼かの女ぢよはそこで輕かるく禮れいを言いつて傘かさを受うけ取とつた。住すま居ゐはつひ構こう内ないの長なが屋やの一つであるけれど、﹃せい〴〵氣きを利きかしてお役やくに立たつてみせます﹄と言いつてるやうな娘むすめの心こゝろをいぢらしく思おもひながら、彼かの女ぢよはぱちりと雨あま傘がさをひらく。寸すんほどにのびた院ゐん内ないの若わか草ぐさが、下げ駄たの齒はに柔やはらかく觸ふれて、土つちの濕しめりがしつとりと潤うるほひを持もつてゐる。微かすかな風かぜに吹ふきつけられて、雨あめの糸いとはさわ〳〵と傘かさを打うち、柄えを握にぎつた手てを霑うるほす。
別べつ段だんさうするやうに言いひつけた譯わけではなかつたけれど、自しぜ然ん自しぜ然んに母はゝの境きや遇うぐうを會ゑと得くして來きた娘むすめの君きみ子こは、十三になつた今こと年しご頃ろから、一人にん前まへの仕しご事とにたづさはるのを樂たのしむものゝやうに、ひとりでこと〳〵と臺だい所どころに音おとをたてゝゐたりするやうになつた。今け日ふも何なにやら慌あわてゝ板いたの間まに音おとをたてながら、いそ〳〵と母はゝを迎むかへに入いり口くちまで出でて來きた。
﹃お歸かへんなさい、あんね母かあさん、兄にいさんから手てが紙みが來きてゝよ。﹄
﹃さうかい。﹄
彼かの女ぢよは若わか々〳〵しく胸むねをどきつかせながら、急いそいで机つくゑの上うへの手てが紙みを取とつて封ふうを切きつた。彼かの女ぢよの顏かほはみる〳〵喜よろこびに輝かゞやいた。曲ゆがみかげんに結むすんだ口くち許もとに微ほゝ笑ゑみが泛うかんでゐる。
﹃君きみちやんや、母かあさんがするからもういゝかげんにしてお置おき、兄にいさんがはいれたさうだよ、よかつたねえ。﹄と、あとは自じぶ分んじ自し身んにいふやうに調てう子しを落おとして、ぺたりとそのまゝ机つくゑの前まへに坐すわつてしまつた。今いまの今いままで張はりつめてゐた氣きが一ちよ寸つとの間まゆるんで、彼かの女ぢよは一時じの安あん心しんのためにがつかりしてしまつたのである。何なにかしら胸むねは誇ほこらしさにいつぱいで、丁ちや度うど人ひとから稱しよ讃うさんの言こと葉ばを待まちうけてゐでもするやうにわく〳〵する。彼かの女ぢよは猶なほもその喜よろこびと安あん心しんを新あらたにしようとするやうに再ふたゝび手てが紙みをとりあげる。
彼かの女ぢよの長ちや男うなんの勉つとむは夢ゆめのやうに成せい人じんした。小せう學がく時じだ代いから學がく業げふ品ひん行かう共ともに優いう等とうの成せい績せきで、今こと年し中ちう學がくを卒をへると、すぐに地ちは方うの或ある專せん問もん學がく校かうの入にふ學がく試しけ驗んを受うけるために出でて行いつたのである。今いま更さらに思おもつてみれば、勉つとむはもう十九である。九つと三つの子こど供もを遺のこされてからの十年ねん間かんは、今いま自じぶ分んで自じぶ分んに涙なみだぐまれるほどな苦くら勞うの歴れき史しを語かたつてゐる。子こど供もた達ちの、わけても勉つとむの成せい長ちやうと進しん歩ぽは、彼かの女ぢよの生せい活かつの生いきた日につ誌しであつた。さうして今いまやその日につ誌しは、新あたらしい頁ページをもつて始はじまらうとしてゐるのである。彼かの女ぢよは喜よろこびも心しん配ぱいも、たゞそのためにのみして書かき入いれた努どり力よくの頁ページをあらためて繰くつてみて密ひそかに矜ほこりなきを得えないのであつた。
彼かの女ぢよはレース糸いとの編あみ物ものの中なかに色いろの褪さめた夫をつとの寫しや眞しんを眺ながめた。恰あたかもその脣くちびるが、感かん謝しやと劬いたはりの言こと葉ばによつて開ひらかれるのを見みまもるやうに、彼かの女ぢよの心こゝろは驕をごつてゐた。その耳みゝの許もとでは、﹃女をんなの手て一つで﹄とか、﹃よくまああれだけにしあげたものだ﹄とかいふやうな、微かすかな聲こゑ々〴〵が聞きこえるやうでもあつた。彼かの女ぢよは醉ゑふたやうに、また疲つかれたやうに、暫しばらくは自じぶ分んを空くう想さうの中なかにさまよはしてゐた。
しめやかな音おとに雨あめはなほ降ふり續つゞいてゐる。少すこしばかり冷ひえ冷びえとする寒さむさは、部へ屋やの中なかの薄うす闇やみに解とけあつて、そろ〳〵と彼かの女ぢよを現うつゝな心こゝ持ろもちに導みちびいて行ゆく。ぱつと部へ屋やがあかるくなる。君きみ子こは背せのびをして結むすばれた電でん氣きの綱つなをほどいてゐた。とその時とき、母はゝは恰あたかもその光ひかりに彈はじかれたやうにぱつと起おき上あがつた。
今いまは彼かの女ぢよの顏かほに驕をごりと得とく意いの影かげが消きえて、ある不ふく快わいな思おもひ出でのために苦にが々〳〵しく左ひだりの頬ほゝの痙けい攣れんを起おこしてゐる。彼かの女ぢよは起たつて行いく。さうして甲か斐ひ〴〵しく夕ゆふ飯めしの支した度くを調とゝのへてゐる娘むすめをみると、彼かの女ぢよの祕ひみ密つな悔くゐにまづ胸むねをつかれる。
やう〳〵あきらかな形かたちとなつて彼かの女ぢよに萠きざした不ふあ安んは、厭いやでも應おうでも再ふたゝび彼かの女ぢよの傷きず所しよ――それは羞しう耻ちや侮ぶじ辱よくや、怒いかりや呪のろひや、あらゆる厭いとはしい強つよい感かん情じやうを持もたないでは見みられぬ――をあらためさせなければ止やまなかつた﹇＃﹁止やまなかつた﹂は底本では﹁止やまなつつた﹂﹈。彼かの女じよはその苦くつ痛うに堪たへられさうもない。けれども黒くろい影かげを翳かざして漂たゞよつて來くる不ふあ安んは、それにも増まして彼かの女ぢよを苦くるしめるであらう。
町まちの小せう學がつ校かうの校かう長ちやうをしてゐた彼かの女ぢよの夫をつとは、一年ねん間かん肺はいを病やんで、そして二ふた人りの子こど供もを若わかい妻つまの手ても許とに遺のこしたまゝ﹇＃﹁遺のこしたまゝ﹂は底本では﹁遣のこしたまゝ﹂﹈死しんでいつた。殘のこつたものは彼かの女ぢよの重おもい責せ任きと、極ごく僅わづかな貯たくはへとだけであつた。彼かの女ぢよはすぐに自じぶ分んじ自し身んのために、また子こど供もた達ちの爲ためめに働はたらかなければならなかつた。彼かの女ぢよは間まもなく親しん戚せきに子こど供もを預あづけて土と地ちの病びや院うゐんに勤つとめる身みとなつた。彼かの女ぢよは脇わき目めも觸ふらなかつた。二年ねん三年ねんは夢ゆめの間まに過すぎ、未びぼ亡うじ人んの操さう行かうに關くわんして誰たれ一ひと人り陰かげ口ぐちを利きく者ものもなかつた。貧まづしくはあつたけれど彼かの女ぢよの家いへ柄がらもよかつたので、多たせ少うの尊そん敬けいの心こゝ持ろもちも加くはへて人ひと々〴〵は彼かの女ぢよを信しん用ようした。その間あひだに彼かの女ぢよは産さん婆ばの免めん状じやうも取とつた。
彼かの女ぢよが病びや院うゐん生せい活くわつに入いつてから三年ねん目めの秋あきに、ある地ちは方うから一ひと人りの若わかい醫いし者やが來きて、その病びや院うゐんの醫いゐ員んになつた。彼かれは所いは謂ゆる人ひと好ずきのする男をとこで、殊ことに院ゐん内ないの看かん護ごふ婦た達ちをすぐに手てなづけてしまうことが出で來きた。彼かれは、自みづから衞まもることに嚴おごそかなもとめの孤こる壘ゐに姉あねに對たいする弟おとうとのやうな親したしさをみせて近ちかづいて行いつた。彼かれは彼かの女ぢよよりも二つばかり年とし下したなのであつた。いつの間まにかぱつと二ふた人りの關くわ係んけいが噂うはさにのぼつた。噂うはさが先さきか、或あるひは事じじ實つが先さきか――それはとにかく魔まがさしたのだと彼かの女ぢよはあとで恥はぢつゝ語かたつた――間まもなく彼かの女ぢよが二ふた人りの子こど供もと共ともに、院ゐん内ないの一室まに若わかい醫いし者やと起おき伏ふしゝてゐることは公こう然ぜんになつた。院ゐん長ちやうの某なにがしが媒なかだちをしたのだといふ噂うはさも﹇＃﹁噂うはさも﹂は底本では﹁噂うはささも﹂﹈あつた。人ひと々〴〵はたゞ彼かの女ぢよも弱よわい女をんなであるといふことのために、目めを蔽おほひ耳みゝを掩おほうて彼かの女ぢよを許ゆるした。けれどもそれは﹁あの人ひとさへも――？﹂といふ絶ぜつ望ぼうを意い味みしてゐた。
二ふた人りの關くわ係んけいの眞しん相さうが、どんなものであつたかは誰たれも知しらない。恐おそらくは彼かの女ぢよ自じし身んにもわからなかつたことであらう。彼かの女ぢよは見みご事とに誘いう惑わくの甘あまい毒どく氣けに盲めしひたのである。
三ヶ月げつばかり過すぎると、彼かの女ぢよは國くに許もとに歸かへつて開かい業げふするといふので、新あたらしい若わかい夫をつとと共ともに、この土と地ちを去さるべくさま〴〵な用よう意いに取とりかゝつた。彼かの女ぢよは持もつてゐるものを皆みな捧さゝげた。いよ〳〵といふ日ひが來きた。荷にも物つといふ荷にも物つは、すつかり送おくられた。まづ男をとこが一ひと足あし先さきに出しゆ發つぱつして先せん方ぱうの都つが合ふを整とゝのへ、それから電でん報ぱうを打うつて彼かの女ぢよと子こど供もを招よぶといふ手ては筈ずであつた。彼かの女ぢよは樂たのしんで後あとに殘のこつた。さうして新しん生しや涯うがいを夢ゆめみながら彼かれからのたよりを待まち暮くらした。一日にち、一日にちと經たつて行ゆく。けれどもその後のち彼かれからは何なんの端はが書き一本ぽんの音おと信づれもなかつた。――さうしてそれは永えい久きうにさうであつた。
不ふか幸うな彼かの女ぢよは拭ぬぐふことの出で來きない汚し點みをその生しや涯うがいにとゞめた。さうしてその汚し點みに對たいする悔くゐは、彼かの女ぢよの是これまでを、さうしてまた此この先さきをも、かくて彼かの女ぢよの一生しやうをいろ〳〵に綴つゞつて行ゆくであらう。
恐おそろしい絶ぜつ望ばうの夜よを呪のろひと怒いかりに泣なきあかした時とき、彼かの女ぢよはまだ自じぶ分んを悔くゐてはゐなかつた。たゞ男をとこを怨うらんで呪のろひ、自じぶ分んを嘲わらひ、自じぶ分んを憐あはれみ、殊ことに人ひとの物もの笑わらひの的まととなる自じぶ分んを思おもつては口く惜やしさに堪たへられなかつた。彼かの女ぢよに若もしもその時とき子こど供もがなかつたならば、呪のろひや果は敢かなみや、たゞ世せけ間んをのみ對たい象しやうにして考かんがへた汚をじ辱よくのために、如い何かにも簡かん單たんに死しんでしまつたかも知しれない。
人ひとの噂うはさと共ともに彼かの女ぢよの傷いたではだん〳〵その生なま々〳〵しさを失うしなふことが出で來きたけれど、猶なほ幾いく度どとなくその疼いたみは復ふく活くわつした。彼かの女ぢよは靜しづかに悔くゐることを知しつた。それでも猶なほその悔くゐには負まけ惜をしみがあつた。彼かの女ぢよはその時とき自じぶ分んの境きや遇うぐうをふりかへつて、再さい婚こんに心こゝろの動うごくのは無む理りもないことだと自みづから裁さばいた。それを非ひな難んする人ひとがあつたならば、彼かの女ぢよは反はん對たいにその人ひとを責せめたかもしれない。それからまた彼かの女ぢよは、自じぶ分んじ自し身んのことよりも、子こど供もの行ゆく末すゑを計はかつたのだつたといふ犧ぎせ牲いて的きな︵自みづから思おもふ︶心こゝろのために、自みづから亡ばう夫ふの立たち場ばになつて自じぶ分んの處しよ置ちを許ゆるした。結けつ極きよく男をとこの不ふと徳くな行かう爲ゐが責せめられた。さうしてたゞ欺あざむかれた自じぶ分んの不ふめ明いに就ついてばかり彼かの女ぢよは耻はぢたのである。
しかしその後のち、彼かの女ぢよは前まへにも増まして一層そう謹きん嚴げんな生せい活くわつを送おくつた。人ひと々〴〵は彼かの女ぢよに同どう情じやうを寄よせて、そして二ふた人りの孝かう行かうな子こど供もを褒ほめ者ものにした。誰だれも今いまはもう彼かの女ぢよの過くわ去こに就ついて語かたるのを忘わすれた。彼かの女ぢよの奮ふん鬪とうと努どり力よくは、十分ぶんに昔むかしの不ふめ名い譽よを償つぐなふことが出で來きた。時ときにはまた、あの恐おそるべき打だげ撃きのために、却かへつて獨どく立りつの意い志しが鞏きよ固うこになつたといふことのために、彼かの女ぢよの悔くゐは再ふたゝび假かめ面んをかぶつて自みづから安やすんじようと試こゝろみることもあつた。彼かの女ぢよの悔くゐはいつも反はん省せいを忘わすれてゐたのである。
月つき日ひと共ともに傷きずの疼いた痛みは薄うすらぎ、又また傷きず痕あとも癒いえて行ゆく。しかしそれと共ともに悔くゐも亦また消きえ去さるものゝやうに思おもつたのは間まち違がひであつた。彼かの女ぢよは今いま初はじめて誠まことの悔くゐを味あぢはつたやうな氣きがした。さうしてそれは何なんといふ恐おそろしいものであつたらう。﹇＃﹁あつたらう。﹂は底本では﹁あつたらう﹂﹈
――彼かの女ぢよが勉つとむの成せい長ちやうを樂たのしみ過すごした空くう想さうは、圖はからずも恐おそろしい不ふあ安んを彼かの女ぢよの胸むねに暴あば露いて行いつた。無む垢くな若わか者ものの前まへに洪おほ水みづのやうに展ひらける世よの中なかは、どんなに甘あまい多おほくの誘いう惑わくや、美うつくしい蠱こわ惑くに充みちて押おし寄よせることだらう！ 外それるな、濁にごるな、踏ふみ迷まよふなと、一々手てでも取とりたいほどに氣きづ遣かはれる母はゝ心ごゝろが、忌いまはしい汚し點みの回くわ想いさうによつて、その口くちを縫ぬはれてしまふのである。さうしてそれよりも猶なほ彼かの女ぢよにとつて恐おそろしいことは、一人にん前まへになつた子こど供もが、どんな風ふうに母はゝ親おやのその祕ひみ密つを解かい釋しやくし、そしてどんな裁さばきをそれに與あたへるだらうかといふことであつた。
憐あはれむだらうか？ 厭いとふだらうか？ それともまた淺あさ猿ましがるだらうか？ さうしてあの可いぢ憐らしくも感かん謝しやに滿みちた忠ちう實じつな愛あい情ぢやうを、猶なほその愚おろかな母はゝに對たいしてそゝぎ得うるだらうか？ あゝ若もしもさうだとしたならば――？ 彼かの女ぢよはたゞ子こど供ものために無むよ慾く無むは反んせ省いな愛あい情じやうのために、自じぶ分んは着きるものも着きずにこれまでにして來きたのであるものを。﹇＃﹁あるものを。﹂は底本では﹁あるものを﹂﹈
彼かの女ぢよの恐きよ怖うふは、今いままでそこに思おもひ到いたらなかつたといふことのために、餘よけ計い大おほきく影かげを伸のばして行ゆくやうであつた。彼かの女ぢよは新あらたなる悔くゐを覺おぼえた。赤せき裸ら々ゝに、眞ま面じ目めに、謙けん遜そんに悔くゐることの、悲ひつ痛うな悲かなしみと、しかしながらまた不ふ思し議ぎな安やすらかさとをも併あはせて經けい驗けんした。彼かの女ぢよが今いままでの悔くゐは、ともすれば言いひ譯わけの楯たてに隱かくれて、正まと面もな非ひな難んを拒ふせいでゐたのを知しつた。彼かの女ぢよは今いま自じぶ分んの假かめ面んを引ひき剥はぎ、その醜みにくさに驚おどろかなければならなかつた。今いまこそ彼かの女ぢよは、亡なき夫をつとの靈れいと純じゆ潔んけつな子こど供もの前まへに、たとへ一いつ時ときでもその魂たましひを汚けがした悔くゐの證あかしのために、死しぬことが出で來きるやうにさへ思おもつた。
天てんにでもいゝ、地ちにでもいゝ、縋すがらうとする心こゝろ、祈いのらうとする希ねがひが、不ふじ純ゆんな沙すなを透とほして清きよくとろ〳〵と彼かの女ぢよの胸むねに流ながれ出でて來きた。
君きみ子こが不いぶ審かしさに母はゝ親おやの容よう子すに目めをとゞめた時とき、彼かの女ぢよは亡ばう夫ふの寫しや眞しんの前まへに首くびを垂たれて、靜しづかに、顏かほ色いろ青あを褪ざめて、身みじろぎもせず目めをつぶつてゐた。
雨あめはます〳〵小こ降ぶりになつて、そして風かぜが出でた。木この葉はの露つゆが忙せはしく搖ゆり落おとされる。︵をはり︶