何時まで経つてもちつとも開けて行かない、海岸から遠い傾いた町なんだ。 ――街路はせまい、いつでも黒くきたない、両側にぎつしり家が並んでゐる、ひさしに白いほこりが、にぶい太陽の光にさらされてゐる、通る人は太陽を知らない人が多い、そしてみんな麻ひしてゐる様だ―― 新次は鍛冶屋にのんだくれの男を父として育つた少年であつた。母は彼の幼い時に逝つた。兄があつたが、馬鹿で、もういゝ年をしてゐたが、ほんの子供の様な着物をつけて、附近の子供と遊んでばかしゐた。兄の名は馬右エ門と云つた。併し誰も馬右エ門と云はず、﹁馬﹂と呼んだ。 ﹁馬、お前は利口かい﹂ ﹁利口だ﹂ ﹁何になるんだ﹂ ﹁大将﹂ 小い少年が、訊ねるのに対して、笑はれるとも知らないでまじめに答へてゐる兄を見る時、新次は情なくなつた。兄はよく着物をよごして来た。小い少年にだまされて、溝なんかに落ちたのであつた。その度に新次は着物を洗濯せなければならなかつた。 ﹁兄さん﹂新次がかう呼びかけても馬右エ門は答へないのを知つてゐたけれど︵馬右エ門は誰からでも﹁馬﹂と呼ばれない限り返事をしなかつた︶度々かう呼びかけた。がやはりきよろんとしてゐて答へない兄を見ると、﹁兄さん﹂と云ふと﹁おい﹂と答へる兄をどんなに羨しく思つた事か。 新次は去年小学校を卒業して、今は、父の仕事をたすけ、一方、主婦の仕事を一切しなければならなかつたのである。何時でも彼は、彼の家庭の溝の中の様に暗く、そしてすつぱい事を考へた。 炊事を終へて、黒くひかつてゐる冷たいふとんにもぐつてから、こんな事をよく思つた―― せめておつ母かあが生きてゐて呉れたらナ。せめて馬右エ門がも少ししつかりしてゐてお父とつあんの鎚を握つてくれたらナ、 せめてお父つあんが酒をよしてくれたらナ―― けれど、直、﹁そんな事が叶つたら世の中の人は皆幸福になつて了ふではないか﹂とすてた様にひとり笑つた。 まつたくのんだくれの父だつた。仕事をしてゐる最中でもふらふらと出て行つては、やがて青い顔をして眼を据へて帰つて来た。酒をのめばのむ程、彼は青くなり、眼はどろーんと沈澱して了ふ彼の性癖であつた。葬式なんかに招かれた時でも、彼は、がぶがぶと呑んでは、愁に沈んでゐる人々に、とんでもない事をぶつかける為、町の人々は、彼をもてあましてゐた。彼は六十に近い老人で、丈はずばぬけて高かつた。そして、酒を呑んだ時は必つとふとんをかぶつて眠つた。併し、大きないびきなんか決して出さなかつた。死んだ様に眠つてゐては、時々眼ざめてしくしく泣いた。そんな時など、新次はことにくらくされた。 学校の先生が、一度新次の家に来た時、若い先生は、酒の身躯によくない事を説いた。新次の父は、 ﹁酒は毒です、大変毒です、私はやめ様と思ひます、まつたくうまくないです、苦いです、私はやめ様と思ひます、それでもやつぱりあかんです﹂と云つて、空虚な声で﹁ハッハッハッ﹂と笑つた。 馬右エ門がふいと帰つて来て、鉄柵にする太い手頃の鉄棒を一本ひつぱり出して、黙つて火の中にさし込んだ。一人で仕事をしてゐた新次は不思議に思つてするがまゝにして置いた。真赤になつた棒を、馬右エ門は叩き始めた。鎚をふり下さうとする瞬間瞬間に、赤くやけたくびの筋肉がぐつとしまるのを、新次はうれしく思つて見つめてゐた。手拭を力一ぱいしぼる様な快さが新次の体の中を流れた。馬右エ門にだつて力があるんだ! 力が!―― ﹁何を造るんけ?﹂ ﹁がだな﹂よだれの中から馬右エ門は云つた。 ﹁かたな? かたなみたいなものを﹂ 木の実だと思つて拾つたのがやつぱりからにすぎなかつた時の様に新次は感じた。ふと、思切りなぐりつけてやらうかと思つたが、ぼんやりして、馬右エ門のむくれ上るくびを見てゐた。 町の横を通る電車道の工事に多くの朝鮮人がこの町にやつて来て、鍛冶の仕事が増して来ると、新次の家も幾分活気づいた。 父も新次もよく働いた。けれど、父は依然として酒にひたつた。 ﹁お父つあん、ちつと酒をひかへてくれよ、酒は毒だで、そして仕事もはかどらんで﹂ 新次は、父に云つた。 ﹁まつたく酒は毒だ、酒は苦い、けれど俺はやめられん、きさまは酒のむ様になるなよ﹂父は云つた。 ふつと眼を開いて見ると、すゝけた神棚の下で、酒を飲んでゐる馬右エ門の姿が、五燭の赤い電燈の光に見えた。新次は、泥棒を見つけた以上にはつとして、頭が白くなる様な悪寒に近い或物におそはれた。馬鹿に静かな赤い光の中に、馬右エ門ののどがごくごく動いた。少し今夜は具合が悪いと云つて、父が残して置いた酒の徳利を馬右エ門の左手はしつかり掴んでゐた。 ﹁馬エ!﹂ 新次のすぐ隣に今まで寝てゐた父が、むつくり頭を拾げた。 馬右エ門は、 ﹁うッ﹂と赤い顔をこちらへ向けて、しまりのない口を見せた。 父のせーせーと肩を上下して呼吸してゐるのが新次には恐ろしかつた。父の眼は、ぢつと白痴の馬右エ門を見つめ、静脈のはつきり現はれてゐる手はわなゝいてゐた。 ﹁馬エ、おぬしは酒を飲むか――﹂父はふらふらと立上つて馬右エ門に近づいた。 ﹁この野郎!﹂父は叫んで、ニヤニヤしてゐる馬右エ門の横面にガンとくらはせた。馬右エ門は笑ふのをハタと止めた。父の苦しげな呼吸はますます烈しくなつた。 そして又、殴らうとした。新次は我知らず跳出して行つて、父を止めた。 ﹁お父つあん、馬は阿呆ぢやねえか、打つたつてあかんだ﹂ 父は眼を落して、 ﹁ん、馬エは阿呆だつたナ﹂とふるへ声で云つて、元の寝床へ帰つて、ふとんをかむつて了つた。その騒ぎで酒はこぼれて了つたので、馬右エ門も床に這入つた。新次は一寸片付けて、ふとんにむぐり込んだけれど、どうしても眠られなかつた。 ﹁新﹂父が小い声で呼んだ。 ﹁ん﹂ ﹁俺あ酒を止めるぞ﹂ふとんの中から云つた。 父は酒を飲まなくなつて了つた。併し、それからは何処か加減が悪くて床を出られなくなつた。 新次は、一人で鎚をふりあげた。父は眼立つて面やつれがして行つた。それでも、日ごろ酒の為没交渉の父には、見舞に来て呉れる人とては一人となかつた。 鎚をふりあげ乍ら、新次は、父はこのまゝ死んで了ふのではないかしらと思つた。――父が死んだらどうするのだ、馬右エ門は白痴だし―― 酒を買つて来た新次が、父の枕元に坐つて、 ﹁お父つあん﹂と呼んだ。父は重たげに首をうごかして、 ﹁ん﹂と答へた。 ﹁酒買つて来たで飲んでくれよ﹂ ﹁酒を買つて来た? 新、何故酒なんか買つて来たんだ﹂ 力のない声で、新次を叱つたけれど、父は、きらりと涙を光らした。 ﹁お父つあん飲んでくれよ﹂ 新次は、そつと父の枕元を去つて、仕事場へ来ると、黒い柱に顔をすりつけて泣いた。泣いた。 何時まで経つてもちつとも開けて行かない海岸から遠い傾いた町なんだ。