南のほうのあたたかい町に、いつもむっつりと仕事をしている、ひとりの年とった木ぐつ屋がありました。目はぞうのように小さく、しょぼしょぼしていましたが、それにひきかえ、鼻はなとてのひらが、人一ばい大きく、そのうえぶかっこうでした。 けれど、そのぶかっこうな両手が、なんという、かっこうのよい木ぐつを、つぎつぎとつくったことでありましょう。まるで魔まほ法うつかいの両手が、小さな生きものをうみだすように、つくったのでありました。 子どもたちは、いつも店先の日よけの下にしゃがんで、おじいさんの仕事を見ていました。あんまりうまくできあがるので、子どもたちは思わず、ため息いきをつくこともありました。 けれど、そんなに器きよ用うにうごく手でさえも、うっかりして、あやまちをおかしたことがあったのでしょうか。なぜなら、おじいさんの左手には、名なし指がありませんでした。おじいさんがまだ、木ぐつ屋の小こぞ僧うだったころ、夜おそくまで、いねむりしいしい仕事をしていて、うっかりすべらせたノミの先が、きっと、その指を、とっていってしまったのでしょう。 ﹁マタンじいさん。木ぐつ屋になるのは、むずかしいの。﹂ 木ぐつ屋になりたいけれど、指を落とすのはおそろしいと考えていた、ひとりの子どもが、ある日、こういってたずねました。すると、マタンじいさんは、 ﹁どうして?﹂ と、ききかえしました。 ﹁おじいさんの名なし指、ノミで切っちゃったんでしょう。﹂ ﹁うん、これかい。﹂ と、マタンじいさんは、左手をひろげて見せながらいいました。 ﹁こいつは、ノミで落としたんじゃないよ。﹂ それを聞いた子どもたちは、今まで、そうだと思いこんでいたことが、まちがっていたとわかって、ふしぎな気持ちにとらわれましたが、それといっしょに、新しい好こう奇きし心んがわいてきました。 ﹁じゃ、どうしてなくしたの。﹂ と、さっきの子が熱ねっ心しんにききました。 ﹁ふん。﹂ マタンじいさんは、口のあたりに、かすかなわらいをうかべながら、名なし指のない大きな手を、二度三度ひろげたり、げんこつにしたりしました。それから子どもたちのほうへ顔をむけて、 ﹁おまえたち、手を出してごらんよ。﹂ と、いいました。 子どもたちは、すこし不ぶ気き味みになって、だれも出そうとするものがありませんでした。 ﹁なんだい。どうもしやしない。﹂ そういわれて、さっきの熱ねっ心しんな子どもが、そっとかた手をさし出しました。おじいさんは、その小さな手を大きな手でとって、 ﹁そうだ。わたしが名なし指をなくしたのは、わたしのこの大きな手が、この小さな手のくらいのときだったな。今では、木の根っこみたいに、ごつごつになったけれど、そのころは、この手のように美しく、やわらかだった。﹂ といいながら、なつかしむようにマタンじいさんは、子どもの手を見つめていました。 ﹁わたしが名なし指を、どうしてうしなったか、そのわけを聞かせてあげようかな。﹂ そういってまた、ノミをにぎり、前かがみになって、木ぐつのあなをほりはじめました。 マタンじいさんも、五十年ほどいぜんには、ほっぺたの赤い、かわいい少年でした。そのころマタンは、北のほうの、古い小さな村に、たったひとりのかあさんの手で、そだてられていました。村にはリンゴの木がたくさんあって、明るい夏には白い花がさき、村にはリンゴのかおりが、いっぱいに流れました。そしてその花が、寒いころになると、珠たまのような美しい実になるのでした。少年のマタンが、ある日、道ばたで、一つのクルミをひろったのは、ちょうど、リンゴの実の熟うれるころでした。 ﹁なんだ、つまんない。﹂ マタンは、ひろったクルミをすてました。なぜなら、そのクルミは、実がはいってない、ただのからだけでした。けれど、すててはみたものの、落ちているのを見ると、またほしくなって、ふたたびひろいあげました。 ︿なにかにならないかしら﹀と考えながら、いろいろ、ひねくっていると、左の名なし指の頭に、ちょうどうまく、かぶさったのでした。 ﹁ああ、ぼうしだ、ぼうしだ。﹂ マタンは、ひとりでおかしくて、ひとりでわらいました。そして、
名なし指、名なし指、
ぼうしかぶった名なし指、
たららん。
ぼうしかぶった名なし指、
たららん。
そんな、でたらめな歌をうたって、クルミのからのかぶさった名なし指を、まげたりのばしたりしながらやっていくと、いかめしい石のへいの下で、女の子がひとり、しょんぼりすわっていました。
﹁おい、ジュリーちゃん、ごらんよ。﹂
といって、マタンは近づいていきました。
﹁ほら、この指が、おじぎするよ。はい、ジュリーちゃん。こんにちは。﹂
女の子は、クルミのからをかぶった名なし指におじぎされて、にっこり、ほほえみました。けれど、その大きなみどり色の目は、なみだでうるんでいました。しかし、どうしてないているのか、マタンはきこうとしませんでした。なぜならマタンは、ジュリーのおかあさんが、病気でながい間ねていること、おとうさんは酒飲みで、めったに家へ帰ってこないこと、ジュリーはパンを食べないで、水ばかりでがまんすることもあること、たまに、よっぱらったおとうさんが家へ帰ってくると、ジュリーは家からおっぽり出されることなど、よく知っていたからでした。
きょうも、たぶん、おとうさんが家へ帰ってきて、ジュリーをおっぽり出したぐらいのことでしょう。マタンは、いつものように、ジュリーをなぐさめてやりたくなりました。けれどいったい、なんでなぐさめたらいいでしょう。ビスケットでも持っていれば、たといそれが一つでも、半分ずつ食べることができるのでしょうが。
ふと、ふりあおいだマタンの目に、まっかに熟うれたリンゴの実が、四つ五つ、うつりました。木は、石のへいの中にはえているのでしたが、実だけは、へいの上に見えているのでした。
マタンは、その一つをもいで、ジュリーにやろうと思いました。マタンはなぜ、そんなよそのリンゴを、もごうなどと考えたのでしょう。家へ帰りさえすれば、庭にりっぱなリンゴが、ほしいだけ実っていましたのに。マタンだって、よそのリンゴをもぐのは、わるいことだと知っていましたろうに。
けれど、ジュリーをなぐさめてやりたい気持ちがいっぱいで、そのほかのことを、考えてるひまがなかったのでありましょうか。
﹁待っといで。﹂
そういっておいて、マタンは、車かじやのほうへ、かけていきました。車かじやの横には、たがのはまった古い輪わがたくさん、もたせかけてありました。そのうちの一つを、マタンは、ごろりごろりとまわしてきて、石のへいにもたせかけました。
白いずきんで、まるいほっぺたをつつんだジュリーは、マタンがなにをするか、だまって見ていました。マタンは、もたせた車の輪わのこしきの上に、よじのぼりました。そして、リンゴのほうへ、手をのばしました。
﹁あ、いけないわ。﹂
ジュリーは、あわててさけびました。
﹁マタンちゃん、いけないわ。そんなことしちゃ。﹂
そして、マタンの右手をひっぱったのでしたが、そのときにはもう、マタンの左手は、一つのリンゴをつかんでいました。
へいの中ではさっきから、はさみを持ったお金持ちが、おじょうさんにかごを持たせて、色のよいリンゴをえらびながら、チョキンチョキンと切ってまわっていました。そして、マタンがリンゴに手をかけたとき、お金持ちはちょうど、その木の下にいたのでありました。
﹁マタンちゃん、いけないってば。﹂
ジュリーが右手をひっぱりますと、マタンはひっぱられるままに、おりてきました。けれど、どうしたことでしょう。左手をおさえて、その場にしゃがんでしまいました。顔色は、まっさおでした。
﹁あっ、マタン。﹂
ジュリーは、ものにおびえたようにするどくさけぶと、前だれで顔をおおってしまいました。
﹁わたしの名なし指は、そうしてなくなってしまったのさ。﹂
といって、おじいさんはもう、かたほうのくつをつくりあげてしまいました。子どもたちは、大きく目を見はって、聞いていました。
﹁クルミのからをかぶったまま、なくなってしまったのさ。﹂
と、ひざの上にたまった木くずを落としながら、おじいさんは、いいたしました。
﹁いたかったでしょう。﹂
と、ひとりの子どもがききました。
﹁いたかったさ。おまえたちなら、とびあがってなくな。﹂
﹁おかあさんにしかられやしなかった?﹂
と、ひとりの子どもがききました。その子は、外でけがをして帰ってくると、きっと、おかあさんにしかられるので、そんなことをきいたのでした。
﹁おかあさんにかい。しかられたな。よくしかられたな。けれど、しかったあとでおかあさんは、いつもわたしの手を胸むねにおしあてて、かわいそうに、かわいそうに、だれがこんなかわいそうなことをしたのって、ないたな。﹂
﹁お金持ちのほうから、あやまってきたの。﹂
と、なかでいちばん年上の少年がききました。
﹁あやまっちゃこないさ。よその家のリンゴをとろうとしたのがわるいのだって、いってたそうだ。﹂
子どもたちは、だまってしまいました。
なるほど、よその家のリンゴをとろうとしたのは、わるいことにちがいありません。けれど、一つのリンゴをとろうとしたからって、指を一本切り落として、それがあたりまえだといっているのは、あまりにざんこくであるとも考えられました。
﹁それで、その名なし指は、どうなっちゃったんでしょう。﹂
木ぐつ屋になりたい子どもが、いちばん前にしゃがんでいてききました。その熱ねっ心しんなようすに、マタンじいさんは動かされました。
﹁まだ聞きたいのかい。それじゃ、聞かせてあげようかな。ちょっと、待っといで。﹂
もう、日が西のほうへうつっていましたので、マタンじいさんは、子どもたちの上にかぶさっていた日おおいの幕まくを、しぼりあげました。それから仕事台にこしをおろして、つぎのかたほうをほりはじめました。
マタンは小学校をおえると、木ぐつ師しになりたいと思いました。ほんとうは、山の美しいスイスの国へいって、ひつじ飼かいになりたいというのがのぞみでしたけれど、かなしいことに、それはあきらめねばなりませんでした。というのは、ひつじ飼いは笛ふえを、うまくふかなきゃならないのだと、少年のマタンは思っていました。ところで、名なし指のないものに、どうしてうまく笛がふけましょう。
マタンが、木ぐつ師しになりたいと思ったのにも、わけがありました。それは、ジュリーがおかあさんの木ぐつの古ばかりをはいて、歩きにくそうに、かっこかっこ歩き、すこしいそいだりすると、木ぐつがとんでいってしまうのを、かわいそうに思ったからでした。マタンはじぶんで、ジュリーの足に、ちょうどよい木ぐつを、つくってやろうと考えたのでありました。
村からなんキロも去った、ある川口にのぞんだ大きな町には、りっぱな木ぐつ師しが住んでいました。少年のマタンは、その木ぐつ師しのところへ、小こぞ僧うぼ奉うこ公うにいったのでありました。
﹁指が一本ないからには、こいつあ、いい木ぐつ師しにゃなれぬかもしれん。﹂
親方はそう思って、マタンの左手を、じぶんの手にとって見たのでありました。けれどマタンは、おどろくほど熱ねっ心しんでした。仕事をしてるとき、その小さな目は、青い宝ほう石せきのようにかがやいていました。かべにかかったランプのしんが、たよりなく細く、きえかかってくるころまで、マタンは仕事場のすみで、こつこつ、仕事をしつづけました。
﹁マタン。もうねよう。﹂
と、親方のほうからいい出すのでした。
﹁親方、おいら、まだねむくない。﹂
と、マタンは顔をあげていうのでした。
﹁おまえの目はねむくなくても、ランプの目がねむいってさ。﹂
マタンが、はじめてじぶんの手ひとつで、木ぐつを一いっ対ついほりあげたのは、この町にきてから、三年後でありました。
はじめてつくりあげたもの。こんなになつかしく、こんな美しく、こんなによいものが、この世にあるでしょうか。マタンは、その木ぐつを胸むねにだきしめたり、両手にそろえてのっけ、その手をいっぱいのばして、首をかしげてみたり、夜はまくらもとにきちんとならべておき、それでもなお、ネズミにひかれはしないだろうかなどと、心配したのでありました。
﹁ジュリー﹂と名前をほりつけて、マタンははじめてつくったその木ぐつを、村のジュリーのところへ送ってやりました。
きっとジュリーは、なみだをこぼして喜んだことでしょう。長いお礼れいの手紙が、マタンのところにとどきました。
﹁マタンちゃんのつくったものかと思うと、足にはくのが、もったいないような気がします﹂とか、﹁市日と祭日と、日曜日に教会にいくときしか、はかないことにします﹂とか、﹁マタンちゃんのお手々のように、大切にします﹂とか、そんなことが長々と書いてあって、﹁ありがとう、ありがとう﹂が、なん度もくりかえされてありました。
けれども、市日や祭日にはいてるばかりでは、木ぐつもなかなか、すりへるものではありません。それから三年もたったある日、マタンのところへとどいたジュリーの手紙には、こんなことが書いてありました。
﹁マタンちゃん。どうしましょう。あたしの足が、すこしずつ大きくなるのに、あの木ぐつは、大きくなってくれません。きのうもがまんして、教会まではいていきましたら、豆まめつぶが二つ、できてしまいました。﹂
﹁おお、かわいそうに。おいらは、ジュリーのあんよが大きくなることを、すっかりわすれていた。﹂
もうそのころは、ひとかどのりっぱな職しょ人くにんになっていたマタンは、さっそくふしのない、まさめのよい木をえらんで、新しい木ぐつをつくりはじめました。そして、それができあがったとき、親方から、ながかった奉ほう公こうのおひまをいただきました。
﹁マタン。おまえがはじめて、わしの店へやってきたとき、わしはおまえの手を見て、指が一本かけているんでは、まあ、ろくな職しょ人くにんにゃなれまいと思っていたが、おまえは一生けんめいに仕事をはげんで、今じゃ、親方のわしより、よいうでになってしまった。わしはおまえを手ばなすのが、おしくてたまらない。﹂
親方はそういって、たくさんの金かねをマタンにあたえ、わかれをおしんでくれました。
マタンは、お金と木ぐつを大切に身につけて、川のふちのにぎやかな町を去ったのでありました。それは秋のすえごろのことで、はだ寒い風が東からふき、野には人のかげさえ見えず、マタンはさびしさを感じながら、けれど、心のおく深いところには喜びをわきたたせつつ、いそいそと道をたどっていきました。いくつもいくつもの、丘おかを通りすぎました。どの丘の上にも、四本の手をもった風車が、はてしない秋の空の下にあって、キリキリとまわっていました。そして、風車の手によってまねきよせられるように、雲は東の地平から、つづれ綿わたのように流れ出してきて、いずこともなく流れ去っていきました。
一つの風車の下を通りかかると、風車のかげから、ひとりの男があらわれました。
﹁もしもし。﹂
と、その男は、マタンによびかけました。
﹁旅のお方のようだけど、ゆくさきはどこかね。﹂
マタンは、顔のつるりとしたその男を、なんて、いやな感じのやつだろうと思いましたが、正直に、これから帰っていこうとしている、じぶんの村の名をつげました。
﹁え、そうかね。﹂
と、男はさも、うれしいことを聞いたというようすでいいました。
﹁そいつは、さいわいだ。じつはわたしも、その村へ帰っていくところですよ。旅は道づれとかいいます。では、ごいっしょにお願いしましょう。﹂
﹁あなたは、どこの人ですか。﹂
﹁わたしは、その村生まれですよ。﹂
﹁え?﹂
マタンは、もういっぺん、その男を見なおしました。けれども、ちっとも、見おぼえのない男でした。するとその男は、マタンの心にわいたうたがいを、ちゃんと知ってるというように、
﹁生まれは生まれだが、なにしろ、三十年もまえに、あの村をとび出したっきりだから、村のことは、あんまり知りませんね。わたしの知らない人も、たくさんできたことでしょう。﹂
と、ぺらぺらいうのでした。そしてふたりが、だまったまま、しばらく歩いたあと、
﹁三十年もまえにとび出したんだから、ひょっとすると、あなたのおかあさんがわかかった時じぶ分んを、知ってるかもしれませんね。おかあさんのお名前は?﹂
と、男はききました。
マタンは、興きょ味うみがわいてきました。
﹁わたしのおかあさんは、ローザといいます。﹂
﹁ローザ?﹂
とつぶやいて、男はなにか、遠いむかしのことを思い出そうとするように、考えこみました。そして、しばらくすると、
﹁あ、そうだ。思い出しました。思い出しました。ローザ、ローザ。﹂
と、なつかしむようにいって、マタンの亜あ麻ま色のかみが、ぼうしのふちからのぞいているのをちらっと見て、
﹁あなたのおかあさんは、亜あ麻ま色のかみをしていましょう。﹂
といいました。
﹁いいえ。金きん髪ぱつです。﹂
と、マタンは答えました。すると男はあわてて、
﹁ああ、そうそう、金きん髪ぱつでした。そういおうと思っていて、うっかり、まちがったことをいってしまいました。﹂
と、いいわけをしました。そしてこんどは、マタンの目の小さいのを見て、
﹁あなたのおかあさんは、小さい、かわいい目だったと思いますが。――﹂
といって、こんどはまちがっていないだろうというように、マタンの顔を見つめました。
﹁そんなことは、ありません。ぱっちりした大きな目です。﹂
と、マタンは答えました。
﹁あ、そうそう。大きな美しい目でした。そういおうと思っていて、つい、まちがったことをいってしまいました。わたしの口は、きょうはどうか、へんになっていますね。﹂
と男は、そんなふうに、ごまかしました。そしてさいごに、
﹁あなたのおかあさんは、世界にふたりといないほど、やさしい、よいおかあさんでしょう。﹂
といいました。
なるほど、それにちがいありませんでした。マタンにとっては、おかあさんほどやさしい人は、世界じゅうに、ひとりもありませんでしたから。
だれでも、じぶんのおかあさんをほめられれば、うれしくなるにきまっています。マタンはこうして、その男を信用してしまいました。
そこでふたりは、その日の夕方たどりついた道ばたの宿やど屋やに、いっしょにとまることになりました。一日の旅につかれてしまったとみえて、相手の男は、床とこにもぐりこむとすぐに、大きないびきをかきはじめました。そこでマタンも、それに負けないつもりで、大いびきをかきはじめました。ところが、ほんとうにねむってしまったのはマタンだけで、つれの男はさいしょから、うそのいびきをかいていたのでありました。
ま夜中のころ、宿やど屋やのまどを、中からおしあけて、こうもりのように、ひらりととびおりた人かげを、銀ぎんのフライパンのようなお月さんは、高いところから見たのでありました。その人かげは、明るいところをおそれるように、いけがき、やぶ、馬小屋、へいのかげなどの暗いところをもとめながら、ひらひらと見えかくれしていましたが、やがて、森の深いやみの中に、すいこまれるようにきえていってしまいました。
朝になってマタンは、木ぐつとお金とは、つれといっしょになくなっていることに気がつきました。世の中には、なんというひどいやつがいることでしょう。せっせと長い間はたらいて、あせとあぶらのかわりにえたとうとい金を、悪あく魔まのように、こっそりとぬすんでいくなんて。
しかし、なくなってしまったものを、いつまでもなげいているのは、おろかなことでした。マタンはまだ、宿やど賃ちんをはらってありませんでした。それは、わずかな金ではありましたが、どろぼうがすっかり、うばっていってしまった今、そのわずかな宿やど賃ちんも、はらうことができませんので、マタンは一策さくを案じ出して、宿やど屋やの主人からノミとツチを借り、木ぐつをつくって、金のかわりに、それではらうことにしました。
やせっぽちの主人の木ぐつ、気球のように大きな腹はらをしたおかみさんの木ぐつ、それから、小さいかわいい娘むすめさんの木ぐつ、そう三足をつくってやると、主人は大喜びで、もうこれでけっこうですといいました。
ところがこの村には、木ぐつ屋がなくて、村のお百しょうさんたちが、たいへん不ふじ自ゆ由うしていたので、宿やど屋やにとまっている、じょうずなわかい木ぐつ屋のうわさを聞くと、われもわれもと、木ぐつの注文をしに、やってきたのでありました。
夕方になっても、仕事はかたづきませんでした。そこでマタンは、もうひとばん、そこの宿やど屋やにとめてもらうことになりました。夜がふけてねるときになると、マタンは宿屋の主人にいいました。
﹁ゆうべのへやは、わたしひとりには広すぎるから、ほかにもっと、小じんまりしたへやがあったら、うつらせてください。﹂
﹁いいですとも。ちょうどさっき、ろうかのつきあたりの、小さなへやがあきましたから、あそこへうつりなさい。﹂
と、主人はいって、ローソクをマタンの手にわたしました。マタンは﹁お休み﹂をいって、教えられたろうかのつきあたりのへやへ、やっていきました。
天じょうのひくい、まどの一つついたその小さなへやの中で、マタンはねるまえに、まだしばらく仕事をしました。カシの木のはめ板に、コオロギが一ぴきとまっていて、マタンに話しかけるように鳴いていました。
さていよいよ休もうと思って、マタンがテーブルの引き出しをあけ、その中へ、ノミとツチをしまおうとしたとき、マタンは引き出しの中に、ふっくらとふくれたさいふを一つ、見つけたのでありました。
思いがけないことでした。マタンは、ぼんやりしてしまいました。だれのさいふでしょう。ゆうべこのへやにとまった人が、あわててわすれていったものでしょうか。ならばマタンが、このさいふをもらってしまったら、どうなるでしょう。だまって、じぶんのふところへ入れてしまえば、それまでのことではありませんか。いや今にも、わすれていった人がひきかえして、さいふをとりにくるかも知れません。今からすぐまどをおしあけ、にげてしまえばよいのです。
ぼんやりと、さいふに目をおとしているマタンの頭の中で、たくさんの声が、いろんなことを、めまぐるしいほど、しゃべりあいました。はめ板から、ゆかに落ちたコオロギまでが、なにかいっているようでありました。
﹁それはわるいことだ。それはわるいことだ。﹂
と、コオロギはうたっていました。するとマタンの頭の中で、一つの声が、
﹁この世じゃ、みんながわるいことをするのだ。おまえも、ひとに金をぬすまれたのだから、こんどは、ひとの金をぬすんでやるがいいのだ。﹂
と、ささやきました。
﹁そうだっ。﹂
と、マタンは思いました。そこでマタンの左手が、さいふの上におずおずとのっかりました。
コオロギは、だまってしまいました。ローソクのほのおは、油のようにすんでしまいました。さっきまで、カルタでにぎわっていた台所のほうも、もう、ねしずまっていました。チョロチョロと、小川の水の流れる音だけが、この深いしずけさの中から聞こえてくる、ただ一つのものでありました。
マタンの左手が、ちょうど、引き出しの中のさいふの上におおいかぶさったとき、かれは、コツコツとたたく音を聞きました。それは、すぐやんでしまいました。マタンは、空そら耳みみだったのだと思って、さいふを手にとろうとしました。すると、またしても、コツコツとたたく音がしました。だれがどこを、たたいているのでしょう。ドアをノックしているようでもありませんし、まどを外からたたいているようにも、思えませんでした。だれかまだ、こんな夜ふけに、起きていたのでしょうか。
マタンは、じぶんの周しゅ囲ういを、そっと見まわしました。火のない炉ろ、炉ろだ棚なの上の古いさら、天じょう、黒いふしあな、かべにえぐられたくぼみの中のキリストの像ぞう、かべとゆかのさかいで、二つにおれているじぶんのかげぼうし、かげぼうしの横にいる鳴かないコオロギ、それからそれへと、目をうつしていきました。それらのものは、無むご言んのうちに、マタンのしようとしていることをとがめていましたが、いったん、マタンがそのことをしてしまったら、そのことはひみつにしていてやるよと、約やく束そくしているようにも思われました。そこでマタンは、三度、さいふをとろうとしました。すると、またしても、コツコツと、たたく音が聞こえたのでありました。
﹁だれだろう。﹂
マタンは、じぶんにつぶやきました。するとマタンの耳に、答えるものがありました。
﹁わたしです。﹂
﹁わたし?﹂
マタンは、びっくりしました。
﹁わたし? わたしってだれだ。﹂
すると、その声が答えました。
﹁わたしは、名前がありません。わたしは生まれたときから、名前なしでした。﹂
﹁そんなへんてこな話は、ありゃしないよ。ネコだって、プスとか、ミイと、名前をもっているもの。﹂
と、マタンはいいました。
﹁ほんとうに、へんな話です。わたしには、四人のきょうだいがありました。かれらはみんな、それぞれ、名前をもっていましたが、わたしだけ、名前がありませんでした。﹂
と、声はいうのでした。
﹁きみは、ドアの外に立っているのか。さっきから、ノックしていたのはきみか。﹂
と、マタンがききました。
﹁わたしはさっきから、ノックしていました。﹂
と、声は答えました。
﹁けれど、わたしは、強くノックすることができません。四人のきょうだいたちと、いっしょにするときは、もっと強く、ノックできるのですけれど。﹂
﹁ところできみは、今じぶん、こんなところへなんの用事があってきたのだ。﹂
︵未完︶