一
﹁犬﹂という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。 いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次じろ郎うく君んがこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚きたなく書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな﹁西さい郷ごう隆たか盛もり﹂のことを書いているからです。 ﹁西さい郷ごう隆たか盛もり﹂ってあの大だい英えい雄ゆうのことでしょうか? そうではありません。それは次じろ郎うくんの作文を読めばわかります。 ﹁ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀ひで吉よし、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大たい将しょう、猿さる飛とび佐さす助け、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴くつでも帽ぼう子しでもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大だい丈じょ夫うぶです。﹂ これでおわかりでしょう。﹁西さい郷ごう隆たか盛もり﹂というのは次郎君ちの犬のことです。 そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣となりの机つくえでは森もり川かわ君くんがこんなことを書いています。 ﹁前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。 シェパードは純じゅんすいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑ざっ種しゅの犬は頭がよくない。北きた君くん︵次じろ郎うく君んのこと︶ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟りょ犬うけんにはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――﹂ ﹁筆をおいて﹂と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。﹁ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。﹂ 次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机つくえのふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今きょ日うは自分の作文に夢むち中ゅうになっているので、よけいそういうことになります。 声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西さい郷ごう隆たか盛もりのすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰こしをおろして先生の顔をみつめました。 ﹁乙おつの上﹂と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。 こんどは森もり川かわ君くんが立ちあがって読みはじめました。 ﹁――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――﹂ それを聞いて次じろ郎うくんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮ぶじ辱ょくがあるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹はらを立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得とく意いの手でノックアウトするところです。次郎くんは下した唇くちびるをかみしめてこらえました。 ﹁甲こうの上﹂と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森もり川かわくんの作文によい点をおつけになりました。二
つぎは体たい操そうの時間です。 紅こう白はくの帽ぼう子しの列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛ふえをふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。 ところが真中にふたりの少年がお互たがいに相手の腕うでをつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽ひにさらされているのです。ふたりは次じろ郎うくんと森もり川かわくんです。 先生がゆっくり近よってこられました。 ﹁お前らは何をやっているのか。﹂と笑っておっしゃいます。 ふたりはだまっています。 ﹁角すも力うか。﹂ 両側でどっと笑い声が起こります。 ﹁北きた君くんがはなさないんです。﹂と森川君がやっと口をききました。 ﹁うそです。森川くんがはなさないんです。﹂と次郎くんもだまってはいません。 ﹁そんな猛もう獣じゅうみたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。﹂ そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。 帽ぼう子しとりがすむと、やれやれ、こんどは長ちょ距うき離ょり競きょ走うそうです。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。 スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦たての列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。 次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長ちょ距うき離ょりは嫌いやです。もっとも短距離でも次じろ郎うく君んはいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森もり川かわ君くんです。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。 第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜ひば葉が垣きぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。 いつもならこのあたりで次郎君が、 ﹁森川君、ゆっくりいけよ。﹂ と声をかけるのです。すると森川君が、 ﹁よしきた、と﹂ と応おうじて、ふたりは妥だき協ょうするのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。 ところが、今きょ日うの次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森もり川かわ君くんなんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次じろ郎うく君んが一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆ぎゃくになってしまいます。まるで火の出るような接せっ戦せんです。次郎くんは横よこ腹ばらがいたくなってきました。 ﹁横腹の奴やつ、がまんしろ、がまんしろ。﹂ と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。 しかし突とつ然ぜん次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不ふて敵きな気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼がん中ちゅうにないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態たい度どをとるかが気にかかっています。 森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互たがいに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。 あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 ﹁こいつ、みんなの前でぼくんちの西さい郷ごう隆たか盛もりにはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。﹂ と次じろ郎うく君んは腹はらの中でつぶやきながら、ながし目に森もり川かわ君くんをにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 ﹁なんだい﹂と次郎君はいってしまいました。﹁シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。﹂ ﹁君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。﹂ ﹁ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。﹂ ﹁わる口なんかいやしねえや。﹂ ﹁じゃさっきの作文はどうだ。﹂ ﹁ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。﹂ ﹁……﹂ 次郎君は議ぎろ論んしていた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。 そして突とつ然ぜん、 ﹁じゃどっちの犬がつよいか決けっ闘とうさせよう。﹂ といいました。 ﹁よしきた。﹂ ﹁今きょ日う学校がひけてから、原っぱで。﹂ ﹁オーケー。﹂ そのときクラスでいちばんよく走る工くど藤うく君んが、 ﹁やあ、失しっ敬けい﹂ と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次じろ郎うく君んと森もり川かわ君くんは工藤君に一周おくれたわけです。三
次郎君は家へはいるやいなや、
﹁西ごうたかもりは?﹂
とさけびました。
帳ちょ場うばでそろばんをはじいていたお母さんが顔をあげて、
﹁まあなんだい、この子は、ただいまもいわないで。﹂
﹁西ごうたかもりはどこにいるかってきいてるんだよう。﹂
次郎君は血けっ相そうをかえています。
﹁何いってんだよう、お母さんは犬の番じゃないよ。﹂
次じろ郎うく君んはかばんをお母さんの横へどしんと投げ出しておいて帽ぼう子しもとらないでうら口へいき、
﹁西ごうたかもり、西ごうたかもり!﹂
と癇かん高だかい声でさけびました。
西ごうたかもりはその声に応じて板いた塀べいの下をくぐり、紫しお苑んをかきわけて姿すがたをあらわしました。
﹁こい!﹂
とよぶと、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼めがまわるほどせわしくくるいまわります。
やっとこさでそいつをだきとめて、次郎君は呼こき吸ゅうのはげしい西さい郷ごう隆たか盛もりの顔と自分の顔をすりあわせました。
﹁いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。﹂
西ごうたかもりははしゃいでばかりいて、次郎君のいうことなどちっともききません。しかしこのくらい元気なら大だい丈じょ夫うぶだと次郎君は安あん神しんしました。
それから三十分ほどすると次郎君は西郷隆盛をつれて約やく束そくの原っぱにきていました。まだ森もり川かわ君くんはきていないので、原の真中あたりの尾おば花なのくさむらのそばへいって犬といっしょに腰こしをおろしました。犬は広いところにきたので走りたくてむずむずするのですが、次郎君は戦いの前に適てき当とうの休息をあたえることが必要だと考えていますので、しっかり頸くびのところをつかんでいてはなしません。
次じろ郎うく君んはすこし不安になってきました。まだ森もり川かわ君くんちのシェパードをみたことがありません。ひょっとするとときどきみかけるような小牛ほどもある大犬かもしれません。そんなのにかかっては西さい郷ごう隆たか盛もりだってかなわないでしょう。しかしそんな大犬はそうざらにあるもんじゃないから……
とそのとき向こうの坂道に森川君の姿すがたがあらわれました。そのあとからはじめてみるシェパードがひょいひょいとかるい足どりでしかもゆったりと走ってきます。次郎君が心配していたほど大きくはありません。しかし毛がふさふさしてりっぱな犬であります。次郎君はちょいとうらやましくなりました。でもつよさの点では、と次郎君は西郷隆盛にまだのぞみを失いません。
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体からだを起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛もう然ぜんと向かってゆきました。
森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決けっ闘とうです。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互たがいに自分の犬に向かって﹁おし、おし﹂と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂ほをひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。
西さい郷ごう隆たか盛もりはシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次じろ郎うく君んと森もり川かわ君くんは思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲なか間まではあいさつであります。
心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決けっ闘とうをしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互たがいの体からだをかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。
﹁だめだなあ。﹂
と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。
ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長ちょ距うき離ょり競きょ走うそうのときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶おもい出しました。なぜ敵てき対たいしたのかわからなくなってしまいました。
次郎君はつかつかと歩いていって、
﹁ぼく、あやまるよ。﹂
といいました。
﹁君ばかりがわるいんじゃないよ﹂と森もり川かわ君くんもやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、
﹁もうこんなこといいじゃないか。﹂
﹁うん。﹂
﹁あのね、ぼくんちこれから君んちで醤しょ油うゆを買うってお母さんいってたよ。﹂
﹁そうかい。﹂
それから次じろ郎うく君んはお父さんのまねをして、
﹁毎度ありがとうございます﹂
といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。