三月がつ八よう日か
お父とうさんが、夕ゆう方がた村そん会かいからかえって来きて、こうおっしゃった。
﹁ごんごろ鐘がねを献けん納のうすることにきまったよ。﹂
お母かあさんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕ぼくはあまり驚おどろかなかった。僕ぼくたちの学がっ校こうの門もんや鉄てつ柵さくも、もうとっくに献けん納のうしたのだから、尼あま寺でらのごんごろ鐘がねだって、お国くにのために献けん納のうしたっていいのだと思おもっていた。でも小ちいさかった時ときからあの鐘かねに朝あさ晩ばんしたしんで来きたことを思おもえば、ちょっとさびしい気きもする。
お母かあさんが、
﹁まあ、よく庵あん主じゅさんがご承しょ知うちなさったね。﹂
とおっしゃった。
﹁ん、はじめのうちは、村むらの御ごせ先ん祖ぞたちの信しん仰こうのこもったものだからとか、ご本ほん山ざんのお許ゆるしがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょく気きまえよく献けん納のうすることになったよ。庵あん主じゅだって日にほ本んじ人んに変かわりはないわけさ。﹂
ところで、このごんごろ鐘がねを献けん納のうするとなると、僕ぼくはだいぶん書かきとめておかねばならないことがあるのだ。
第だい一、ごんごろ鐘がねという名なま前えの由ゆら来いだ。樽たる屋やの木きの之す助け爺じいさんの話はなしでは、この鐘かねをつくった鐘かね師しがひどいぜんそく持もちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それが鐘かねにもうつって、この鐘かねを叩たたくと、ごオんのあとに、ごろごろという音おとがかすかに続つづく、それで誰だれいうとなく、ごんごろ鐘がねと呼よぶようになったのだそうだ。しかしこの話はなしはどうも怪あやしい、と僕ぼくは思おもう。人にん間げんのぜんそくが鐘かねにうつるというところが変へんだ。それなら、人にん間げんの腸ちょうチブスが鐘かねにうつるということもあるはずだし、人にん間げんのジフテリヤが鐘かねにうつるということもあるはずである。それじゃ鐘かねの病びょ院ういんも建たたなければならないことになる。
僕ぼくと松まつ男おく君んはいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろ鐘がねがはたしてごんごろごろと鳴なるかどうか試ためしにいったことがある。静しずかなときを僕ぼくたちは選えらんでいった。鐘しゅ楼ろうの下したにあじさいが咲さきさかっている真まひ昼るどきだった。松まつ男おく君んが腕うでによりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二ふた人りは耳みみをすましてきいていたが、余よい韻んがわあんわあんと波なみのようにくりかえしながら消きえていったばかりで、ぜんそく持もちの痰たんのような音おとはぜんぜんしなかった。そこで僕ぼくたちは、この鐘かねの健けん康こう状じょ態うたいはすこぶるよろしい、と診しん断だんしたのだった。
また紋もん次じろ郎うく君んとこのお婆ばあさんの話はなしによると、この鐘かねを鋳いた人ひとが、三みか河わの国くにのごんごろうという鐘かね師しだったので、そう呼よばれるようになったんだそうだ。鐘かねのどこかに、その鐘かね師しの名なが彫ほりつけてあるそうな、と婆ばあさんはいった。これは木きの之す助け爺じいさんの話はなしよりよほどほんとうらしい。
しかし僕ぼくは、大だい学がくにいっている僕ぼくの兄にいさんの話はなしが、いちばん信しんじられるのだ。兄にいさんはこういった。﹁それはきっと、ごんごん鳴なるので、はじめに誰だれかがごんごん鐘がねといったのさ。ごんごん鐘がねごんごん鐘がねといっているうちに、誰だれかが言いいちがえてごんごろ鐘がねといっちまったんだ。するとごんごろ鐘がねの方ほうがごんごん鐘がねよりごろがいいので、とうとうごんごろ鐘がねになったのさ。﹂
僕ぼくは小ちいさかったときには、ごんごろ鐘がねをずいぶん大おおきいものと思おもっていた。しかし国こく民みん六年ねんにもうじきなろうという現げん在ざいでは、それほど大おおきいとは思おもわない。直ちょ径っけいが約やく七十糎センチだから周しゅ囲ういは﹇#ここから横組み﹈70cm×3.14=219.8cm﹇#ここで横組み終わり﹈というわけだ。お父とうさんが奈な良らで見みて来きた鐘かねというのは、直ちょ径っけいが二米メートルぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘がねは鐘かねの赤あかん坊ぼうにすぎない。
しかし僕ぼくたち村むらのものにとっては、いつまでも忘わすれられない鐘かねだ。なぜなら、尼あま寺でらの庭にわの鐘しゅ楼ろうの下したは、村むらのこどものたまりばだからだ。僕ぼくたちが学がっ校こうにあがらないじぶんは、毎まい日にちそこで遊あそんだのだ。学がっ校こうにあがってからでも学がっ校こうがひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕ゆう方がた、庵あん主じゅさんが、もう鐘かねをついてもいいとおっしゃるのをまっていて、僕ぼくらは撞しゅ木もくを奪うばいあってついたのだ。またごんごろ鐘がねは、僕ぼくたちの杉すぎの実みでっぽうや、草くさの実みでっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄すんだ音おとで僕ぼく達たちの耳みみをたのしませてくれたか知しれない。
おもえば、ごんごろ鐘がねについてのおもいでは、数かずかぎりがない。
三月がつ二十二日にち
春はる休やすみ第だい二日にちの今きょ日う、ごんごろ鐘がねがいよいよ﹁出しゅ征っせい﹂することになった。
兎うさぎにたんぽぽをやっていると、用よう吉きち君くんが、今いまおろすところだよ、といって来きたので、遅おくれちゃたいへんと、桑くわ畑ばたけの中なかの近ちか道みちを走はしっていった。四しろ郎ご五ろ郎うさんの藪やぶの横よこまでかけて来くると、まだ三百米メートルほど走はしったばかりなのに、あつくなって来きたので、上うわ衣ぎをぬいでしまった。
尼あま寺でらへ来きて見みて、僕ぼくはびっくりした。まるでお祭まつりのときのような人ひと出でである。いや、お祭まつりのとき以いじ上ょうかも知しれない。お祭まつりには若わかい者ものや子こど供もはたくさん出でて来くるが、こんなに老ろう人じんまでがおおぜい出でて来きはしないのだ。杖つえにすがった爺じいさん、あごが地ちにつくくらい背せがまがって、ちょうど七しち面めん鳥ちょうのようなかっこうの婆ばあさん、自じぶ分んでは歩あるかれないので、息むす子この背せにおわれて来きた老ろう人じんもあった。こういう人ひとたちも、みなごんごろ鐘がねと、目めに見みえない糸いとで結むすばれているのだ。僕ぼくはいまさら、この大おおきくもない鐘かねが、じつにたくさんの人ひとの生せい活かつにつながっていることに驚おどろかされた。
老ろう人じんたちは、ごんごろ鐘がねに別わかれを惜おしんでいた。﹁とうとう、ごんごろ鐘がねさまも行いってしまうだかや。﹂といっている爺じいさんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろ鐘がねを拝おがんでいる婆ばあさんもあった。
鐘かねをおろすまえに、青せい年ねん団だん長ちょうの吉よし彦ひこさんが、とてもよいことを思おもいついてくれた。長なが年ねんお友ともだちであった鐘かねともいよいよお別わかれだから、子こど供もたちに思おもうぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいて僕ぼくたち村むらの子こど供もは、わっと歓かん呼この声こえをあげた。みなつきたいものばかりなので、吉よし彦ひこさんはみんなを鐘しゅ楼ろうの下したに一列れつ励れい行こうさせた。そして一ひと人りずつ石いし段だんをあがってつくのだが、一ひと人りのつく数かずは三つにきめられた。お菓か子しの配はい給きゅうのときのことをおもい出だして、僕ぼくはおかしかった。だが、ごんごろ鐘がねを最さい後ごに三つずつ鳴ならさせてもらうこの﹁配はい給きゅう﹂は、お菓か子しの配はい給きゅう以いじ上ょうにみんなに満まん足ぞくをあたえた。
最さい後ごに吉よし彦ひこさんがじぶんで、大おおきく大おおきく撞しゅ木もくを振ふって、がオオんん、とついた。わんわんわん、と長ながく余よい韻んがつづいた。すると吉よし彦ひこさんが、
﹁西にしの谷たにも東ひがしの谷たにも、北きたの谷たにも南みなみの谷たにも鳴なるぞや。ほれ、あそこの村むらも、あそこの村むらも、鳴なるぞや。﹂
と、謎なぞのようなことをいった。
﹁ほんとだ、ほんとだ。﹂
と、樽たる屋やの木きの之す助け爺じいさんと、ほか二、三人にんの老ろう人じんがあいづちをうった。
ぼくは何なんのことやらわけが分わからなかったので、あとでお父とうさんにきいて見みたら、お父とうさんはこう説せつ明めいしてくれた。
﹁ごんごろ鐘がねができたのは、わたしのお祖じ父いさんの若わかかったじぶんで、わたしもまだ生うまれていなかった昔むかしのことだが、その頃ころは村むらの人ひと達たちはみなお金かねというものを少すこししか持もっていなかったので、村むら中じゅうがその僅わずかずつのお金かねを出だしあっても、まだ鐘かねを一つつくるには足たりなかった。そこで西にしや東ひがしや南みなみや北きたの谷たにに住すんでいる人ひとたちやら、もっと遠とおくのあっちこっちの村むらまで合ごう力りょくしてもらいにいったんだそうだ。合ごう力りょくというのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがった鐘かねだから、四しほ方うの谷たにの人ひとや向むこうの村むら々むらの人ひとの心こころもこもっているわけだ。だからごんごろ鐘がねをつくと、その谷たにや村むらの音おともまじっているように聞きこえるのだよ。﹂
ごんごろ鐘がねをおろすのは、庭にわ師しの安やすさんが、大おおきい庭にわ石いしを動うごかすときに使つかう丸まる太たや滑せ車みを使つかってやった。若わかい人ひと達たちが手てつ伝だった。馴なれないことだからだいぶん時じか間んがかかった。
ごんごろ鐘がねはひとまず鐘しゅ楼ろうの下したに新にい筵むしろをしいて、そこにおろされた。いつも下したからばかり見みていた鐘かねが、こうして横よこから見みられるようになると、何なにか別べつのもののような変へんな感かんじがした。緑ろく青しょうがいっぱいついている上うえに、頂いただきの方ほうには埃ほこりがつもっているので、かなりきたなかった。庵あん主じゅさんと、よく尼あま寺でらの世せ話わをするお竹たけ婆ばあさんとが、縄なわをまるめてごしごしと洗あらった。
すると今いままではっきりしなかった鐘かねの銘めいも、だいぶんはっきりして来きた。吉よし彦ひこさんがちょっと読よんで見みて、
﹁こりゃ、お経きょうだな。﹂
といった。それからまた、
﹁安あん永えい何なんとか書かいてあるぜ。こりゃ安あん永えい年ねん間かんにできたもんだ。﹂
といった。すると、どもりの勘かん太た爺じいさんが、
﹁そ、そうだ。う、う、おれの親おや父じが、う、う、生うまれたとしにできた、げな。お、お、親おや父じは安あん永えいの、う、う、うまれだ。﹂
と、かみつくようにいった。
紋もん次じろ郎うく君んとこの婆ばあさんが、
﹁三みか河わのごんごろという鐘かね師しがつくったと書かいてねえかン。﹂
ときいた。
﹁そんなことは書かいてねえ、助すけ九くろ郎うという名なが書かいてある。﹂
と、吉よし彦ひこさんが答こたえると、婆ばあさんは何なにかぶつくさいってひっこんだ。
和わた太ろ郎うさんが牛ぎゅ車うしゃをひいて来きたとき、きゅうに庵あん主じゅさんが、鐘かね供くよ養うをしたいといい出だした。大おと人なたちは、あまり時じか間んがないし、もうみんなじゅうぶん別わかれを惜おしんだのだから、鐘かね供くよ養うはしなくてもいいだろう、といった。しかし若わかい尼あまさんは、眼めが鏡ねをかけた顔かおに真しん剣けんな表ひょ情うじょうをうかべて、﹁いいえ、自じぶ分んの体からだを熔とかして、爆ばく弾だんとなってしまう鐘かねですから、どうしても供くよ養うをしてやりとうござんす。﹂といった。
大おと人なたちは、やれやれ、といった顔かおつきをした。みんな、庵あん主じゅさんがしようのない頑がん固こも者のであることを知しっていたからだ。しかし庵あん主じゅさんのいうことも道どう理りであった。
鐘かね供くよ養うというのは、どんなことをするのかと思おもっていたら、ごんごろ鐘がねの前まえに線せん香こうを立たてて庵あん主じゅさんがお経きょうをあげることであった。庵あん主じゅさんは、よそゆきの茶ちゃ色いろのけさを着きて、鐘かねのまえに立たつと、手てにもっている小ちいさい鉦かねをちーんとたたいて、お経きょうを読よみはじめた。はじめはみんな黙だまってきいていたが、少すこしたいくつになったので、お経きょうを知しっている大おと人なた達ちは、庵あん主じゅさんといっしょに唱となえ出だした。何なんだか空くう気きがしめっぽくなった。まるでお葬とむらいのような気きがした。年とし寄よりたちはみなしわくちゃの手てを合あわせた。
鐘かね供くよ養うがすんで、庭にわ師しの安やすさんたちが、またごんごろ鐘がねを吊つりあげると、その下したへ和わた太ろ郎うさんが牛ぎゅ車うしゃをひきこんで、うまいぐあいに、牛ぎゅ車うしゃの上うえにのせた。その時とき、黄きい色ろい蝶ちょうが一つごんごろ鐘がねをめぐって、土どべ塀いの外そとへ消きえていった。
和わた太ろ郎うさんが牛うしを車くるまにつけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。
﹁この鐘かねがなしになると、これから報ほう恩おん講こうのときなんかに、人ひとを集あつめるのに困こまるわなア。﹂
といったのは、いつも真ま面じ目めなことしか言いわない種たねさんだ。
﹁なあに、学がっ校こう生せい徒とを呼よんで来きて、ラッパを吹ふかせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報ほう恩おん講こうがはじまると思おもって出でかけりゃええ。﹂
と答こたえたのは、ひょっとこづらをして見みせることの上じょ手うずな松まつさん。
﹁ほんな馬ば鹿かな。ラッパで爺じいさん婆ばあさんを集あつめるなどと、ほんな馬ば鹿かな。﹂
と、種たねさんはしかたがないように笑わらった。
﹁これでごんごろ鐘がねもきっと爆ばく弾だんになるずらが、あんがい、四しろ郎ご五ろ郎うさんとこの正まさ男おさんの手てから敵てきの軍ぐん艦かんにぶちこまれることになるかもしれんな。﹂
と吉よし彦ひこさんがいった。四しろ郎ご五ろ郎うさんの家いえの正まさ男おさんは、海うみの荒あら鷲わしの一ひと人りで、いま南みなみの空そらに活かつ躍やくしていらっしゃるのだ。
﹁うん、そうよなあ。だが、正まさ男おの奴やつも、ごんごろ鐘がねでできた爆ばく弾だんたあ知しるめえ。爆ばく弾だんはものをいわねえでのオ。﹂
と無むく口ちでがんじょうな四しろ郎ご五ろ郎うさんは、煙たば草こをすいながらぽつりぽつり答こたえた。
﹁だが、これだけの鐘かねなら爆ばく弾だんが三つはできるだろうな。﹂
と、誰だれかがいった。
﹁そうよなあ、十はできるだら。﹂
と誰だれかが答こたえた。
﹁いや三つぐれえのもんだら。﹂
と、はじめの人ひとがいった。
﹁いいや、十はできるな。﹂
と、あとの人ひとが主しゅ張ちょうした。僕ぼくはきいていておかしくなった。爆ばく弾だんにも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、この人ひとたちは知しらないらしい。しかし僕ぼくにも五十キロの爆ばく弾だんならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。
いよいよごんごろ鐘がねは出しゅ発っぱつした。老ろう人じん達たちは、また仏ほとけの御み名なを唱となえながら、鐘かねにむかって合がっ掌しょうした。
鐘かねには吉よし彦ひこさんがひとりついて、町まちの国こく民みん学がっ校こうの校こう庭ていまでゆくことになっていた。そこには、近ちかくの村むら々むらからあつめられた屑くず鉄てつの山やまがあるということだった。
ぼくたち村むらの子こど供もは、見みお送くるつもりでしばらく鐘かねのうしろについていった。来こさん坂ざかもすぎたが、誰だれ一ひと人り帰かえろうとしなかった。小こま松つや山まのそばまで来きたが、まだ誰だれも帰かえるようすを見みせなかった。帰かえるどころか、みんなの顔かおには、町まちまで送おくってゆこう、という決けつ意いがあらわれていた。
しかし僕ぼくたちは小ちいさい子こど供もはつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松まつ男おく君んの提てい案あんで、新しん四年ねん以い下かの者ものはしんたのむねから村むらへ帰かえり、新しん五年ねん以いじ上ょうの者ものが、町まちまでついてゆくことにきまった。
しんたのむねで、十五人にんばかりの小ちいさい者ものがうしろに残のこった。ところが、そこでちょっとした争あらそいが起おこった。新しん四年ねんだから、帰かえらねばならないはずの比ひら良お夫く君んが、帰かえろうとしなかったからだ。五年ねん以いじ上ょうの者ものが、帰かえれ帰かえれ、というと、比ひら良お夫く君んはいうのだった。
﹁俺おれあ、今いま四年ねんだけれど、一年ねんのときいっぺんすべっとる︵落らく第だいしている︶で、年としは五年ねんとおんなじだ。﹂
なるほど、それも一つのりくつである。しかし五年ねん以いじ上ょうの者ものは、そんなりくつは通とおさせなかった。とうとう腕うでずくで解かい決けつをつけることになった。
松まつ男おく君んが比ひら良お夫く君んに引ひっ組くんだ。そして足あし掛かけで倒たおそうとしたが、比ひら良お夫く君んは相すも撲うの選せん手しゅだから、逆ぎゃくに腰こしをひねって松まつ男おく君んを投なげ出だしてしまった。
こんどは用よう吉きち君くんが、得とく意いの手てで相あい手ての首くびをしめにかかったが、反はん対たいに自じぶ分んの首くびをしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。
そんなことをしている間あいだに、鐘かねをのせた牛ぎゅ車うしゃはもうしんたのむねをおりてしまっていた。五年ねん以いじ上ょうの者ものは、気きがせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついに鐘かねにいってしまわれるおそれがあった。そこで、比ひら良お夫く君んのことなんかほっといて、みんな鐘かねめがけて走はしった。総そう勢ぜい十五人にんほどであった。鐘かねに追おいついてみると、ちゃんと比ひら良お夫く君んがうしろについて来きていた。みんなは少すこしいまいましく思おもったが、考かんがえてみると、それだけ比ひら良お夫く君んの熱ねっ心しんがつよいことになるわけだから、みんなは比ひら良お夫く君んを許ゆるしてやることにした。
川かわの堤つつみに出でたとき、紋もん次じろ郎うく君んが猫ねこ柳やなぎの枝えだを折おって来きて鐘かねにささげた。ささげたといっても、鐘かねのそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫ねこ柳やなぎをはじめ、桃ももや、松まつや、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペン草ぐさまでとって来きて鐘かねにささげた。鐘かねはそれらの花はなや葉はでうずまってしまった。
こうして僕ぼくたちは村むらでただひとつのごんごろ鐘がねを送おくっていった。
三月がつ二十三日にち
ひるまえ、南みな道みみ班ちはん子こど供もじ常ょう会かいをするために尼あま寺でらへいった。
いつも常じょ会うかいをひらくまえに、境けい内だいをみんなで掃そう除じすることになっているのだが、きょうは僕ぼくはひとつみんなの気きのつかないところをしてやろうと、御みど堂うの裏うらへまわって、藪やぶと御みど堂うの間あいだのしめった落おち葉ばをはいた。裏うらへまわっていいことをしたと思おもった。それは僕ぼくの好すきな白しろ椿つばきが咲さいているのを見みつけたからだ。
何なんというよい花はなだろう。白しろい花かべんがふかぶかとかさなりあい、花かべんの影かげがべつの花かべんにうつって、ちょっとクリーム色いろに見みえる。神かみさまも、この花はなをつつむには、特とく別べつ上じょ等うとうの澄すんだやわらかな春しゅ光んこうをつかっていらっしゃるとしか思おもえない。そのうえ、またこの木きの葉はがすばらしい。一枚まい一枚まい名めい工こうがのみで彫ほってつけたような、厚あつい固かたい感かんじで、黒くろと見みえるほどの濃のう緑りょ色くしょくは、エナメルをぬったようにつややかで、陽ひのあたる方ほうの葉はは眼めに痛いたいくらい光ひかりを反はん射しゃするのだ。
じつにすばらしい花はなが日にっ本ぽんにはあるものだ。いつかお父とうさんが、日にっ本ぽんほど自しぜ然んの美びにめぐまれている国くにはないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思おもう。
掃そう除じが終おわって、いよいよ第だい二十回かい常じょ会うかいを開ひらこうとしていると、きこりのような男おとこの人ひとが、顔かおの長ながい、耳みみの大おおきい爺じいさんを乳うば母ぐる車まにのせて、尼あま寺でらの境けい内だいにはいって来きた。
きけばその爺じいさんは深ふか谷だにの人ひとで、ごんごろ鐘がねがこんど献けん納のうされるときいて、お別わかれに来きたのだそうだ。乳うば母ぐる車まをおして来きたのは爺じいさんの息むす子こさんだった。
深ふか谷だにというのは僕ぼくたちの村むらから、三粁キロほど南みなみの山やまの中なかにある小ちいさな谷たにで、僕ぼくたちは秋あききのこをとりに行いって、のどがかわくと、水みずを貰もらいに立たち寄よるから、よく知しっているが、家いえが四軒けんあるきりだ。電でん燈とうがないので、今いまでも夜よるはランプをともすのだ。その近きん所じょには今いまでも狐きつねや狸たぬきがいるそうで、冬ふゆの夜よるなど、人ひとが便べん所じょにゆくため戸こが外いに出でるときには、戸とをあけるまえに、まず丸まる太たをうちあわせたり、柱はしらを竹たけでたたいたりして、戸とぐ口ちに来きている狐きつねや狸たぬきを追おうのだそうだ。
お爺じいさんは、ごんごろ鐘がねの出しゅ征っせいの日ひを、一日にちまちがえてしまって、ついにごんごろ鐘がねにお別わかれが出で来きなかったことを、たいそう残ざん念ねんがり、口くちを大おおきくあけたまま、鐘かねのなくなった鐘しゅ楼ろうの方ほうを見みていた。
﹁きのう、お別わかれだといって、あげん子こど供もたちが、ごんごん鳴ならしたが、わからなかっただかね。﹂
と庵あん主じゅさんも気きの毒どくそうにいうと、
﹁ああ、この頃ごろは耳みみの聞きこえる日ひと聞きこえぬ日ひがあってのオ。きんのは朝あさから耳みみん中なかで蠅はえが一匹ぴきぶんぶんいってやがって、いっこう聞きこえんだった。﹂
と、お爺じいさんは答こたえるのだった。
お爺じいさんは息むす子こさんに、町まちまでつれていって鐘かねに一ひと目めあわせてくれ、と頼たのんだが、息むす子こさんは、仕しご事とをしなきゃならないからもうごめんだ、といって、お爺じいさんののった乳うば母ぐる車まをおして、門もんを出でていった。
僕ぼくたちは、しばらく、塀へいの外そとをきゅろきゅろと鳴なってゆく乳うば母ぐる車まの音おとをきいていた。僕ぼくはお爺じいさんの心こころを思おもいやって、深ふかく同どう情じょうせずにはいられなかった。
それから僕ぼくたちの常じょ会うかいがはじまった。するとまっさきに松まつ男おく君んが、
﹁僕ぼくに一つ新あたらしい提てい案あんがある。﹂
といった。みんなは何なんだろうかと思おもった。
﹁それは、今いまのお爺じいさんを町まちまでつれていって、ごんごろ鐘がねにあわしてあげることだ。﹂
みんなは黙だまってしまった。なるほどそれは、誰だれもが胸むねの中なかでおもっていたことだ。いいことには違ちがいない。しかしみんなは、昨きの日う、町まちまで行いって来きたばかりであった。また今きょ日うも、同おなじ道みちを通とおって同おなじところに行いって来くるというのは面おも白しろいことではない。
しかし、
﹁賛さん成せい。﹂
と、紋もん次じろ郎うく君んがしばらくしていった。
﹁僕ぼくも賛さん成せい。﹂
と勇ゆう気きをふるって僕ぼくがいった。すると、あとのものもみな賛さん成せいしてしまった。
﹁本ほん日じつの常じょ会うかい、これで終おわりッ。﹂
と松まつ男おく君んが叫さけんで、たあッと門もんの外そとへ走はしり出だした。みんなそのあとにつづいた。
亀かめ池いけの下したでお爺じいさんの乳うば母ぐる車まに追おいついた。僕ぼくたちはお爺じいさんの息むす子こさんにわけを話はなして、お爺じいさんをこちらへ受うけとった。お爺じいさんは子こど供ものように喜よろこんで、長ながい顔かおをいっそう長ながくして、あは、あは、と笑わらった。僕ぼくたちもいっしょに笑わらい出だしてしまった。
何なにも心しん配ぱいする必ひつ要ようはなかった。昨きの日う通とおったばかりの道みちでも、少すこしも退たい屈くつではなかった。心こころに誠せい意いをもって善よい行おこないをする時ときには、僕ぼくらはなんど同おなじことをしても退たい屈くつするものではない、とわかった。それにお爺じいさんがいろいろ面おも白しろい話はなしをしてくれた。
ただ一つ困こまったことは、乳うば母ぐる車まのどこかが悪わるくなっていて、押おしていると右みぎへ右みぎへとまがっていってしまうことだった。だから押おす者ものは、十米メートルぐらいすすむたびに、乳うば母ぐる車まのむきをかえねばならなかった。僕ぼくたちはこのやっかいな乳うば母ぐる車まをかわりばんこに押おしていったのである。
正しょ午うごじぶんに、僕ぼくたちは町まちの国こく民みん学がっ校こうについた。昨きの日うのところになつかしいごんごろ鐘がねはあった。
﹁やあ、あるなア、あるなア。﹂
と、お爺じいさんは鐘かねが見みえたときいった。そして、触さわりたいからそばへ乳うば母ぐる車まをよせてくれ、といった。僕ぼくたちは、お爺じいさんのいうとおりにした。
お爺じいさんは乳うば母ぐる車まから手てをさしのべて、なつかしそうにごんごろ鐘がねを撫なでていた。
僕ぼくたちは弁べん当とうを持もっていなかったので腹はらぺこになって、村むらに二時じご頃ろ帰かえって来きた。それから深ふか谷だにまでお爺じいさんを届とどけにいってくるのは楽らくな仕しご事とではなかった。が、感かん心しんなことに誰だれもいやな顔かおをしなかった。僕ぼくらはびっこをひきひき深ふか谷だにまでゆき、お爺じいさんをかえして来きた。
夕ゆう御ごは飯んのとき、きょうのことを話はなしたら、お父とうさんが、それはよいことをした、とおっしゃった。
﹁ん、そういえば、あのごんごろ鐘がねは深ふか谷だにのあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺あたりに鐘かね鋳いり谷だにという名なの残のこっている小ちいさい谷たにがあるが、そこで、鋳いたということだ。その頃ころの若わかいもんたちは、三みっ日かみ三ば晩ん、たたらという大おおきなふいごを足あしで踏ふんで、銅かねをとかす火ひをおこしたもんだそうだ。﹂
それでは、あのお爺じいさんもまたごんごろ鐘がねと深ふかいつながりがあったわけだ。
僕ぼくは又またしてもおもい出だした、吉よし彦ひこさんが鐘かねをつくとき言いった言こと葉ばを――﹁西にしの谷たにも東ひがしの谷たにも、北きたの谷たにも南みなみの谷たにも鳴なるぞ。ほれ、あそこの村むらもここの村むらも鳴なるぞ。﹂
ちょうどそのとき、ラジオのニュースで、きょうも我わが荒あら鷲わしが敵てきの○○飛ひこ行うじ場ょうを猛もう爆ばくして多ただ大いの戦せん果かを収おさめたことを報ほうじた。
僕ぼくの眼めには、爆ばく撃げき機きの腹はらから、ばらばらと落おちてゆく黒くろい爆ばく弾だんのすがたがうつった。
﹁ごんごろ鐘がねもあの爆ばく弾だんになるんだねえ。あの古ふるぼけた鐘かねが、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新あたらしい爆ばく弾だんになるんだね。﹂
と僕ぼくがいうと、休きゅ暇うかで帰かえって来きている兄にいさんが、
﹁うん、そうだ。何なんでもそうだよ。古ふるいものはむくりむくりと新あたらしいものに生うまれかわって、はじめて活かつ動どうするのだ。﹂
といった。兄にいさんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕ぼくにはよくわからないのだが、この言こと葉ばは半はん分ぶんぐらいはわかるような気きがした。古ふるいものは新あたらしいものに生うまれかわって、はじめて役やく立だつということに違ちがいない。