私はよく、ホームシックに襲おそわれる少年であった。
八百屋の店頭に、水色のキャベツが積まれ、赤いトマトオが並べられ、雪のように白い夏大根が飾られる頃になると、私のホームシックは尚なお一ひと入しお烈しくなるばかりであった。
そんなとき、私は憂ゆう鬱うつな心を抱いて、街上の撒うち水みずが淡い灯を映した宵よいの街々を、微かすかな風ふう鈴りんの音をききながら、よくふらふらと逍さま遙よいあるいたものであった。
店の上に吊つるされた、五十燭しょくぐらいの電燈が、蒼あお白じろい、そしてみずみずしい光をふりまき、その光に濡れそぼっている果物屋の店や、八百屋の店は、ますます私の心を、憂鬱に、感傷的にしてしまうばかりであった。併し私は、馬鹿馬鹿しいほど淋しく、物哀れな気分になりながらも、こうして八百屋の店や果物屋の店頭を覗いて歩くのが好きだった。
そうして逍さま遙ようた揚あげ句くには、屹きっ度と上野の停てい車しゃ場ばへやって行ったものであった。
停車場の待合室にはどこの停車場にも掛かっているような、全国の、国有鉄道の地図が掲かかげられていた。
その地図の下に立ってみすぼらしい身みな装りの青年が、その地図の上の距離を計ったり、凝じっと凝みつ視めていたりして、淋しい表情で帰って行くのを、私は幾いく度ど見かけたか知れなかった。
私はそういう人々を、殆んど毎晩のように見かけた。なかには、眼を潤うるませて帰る青年もあったし、ちかちかと睫まつ毛げを光らせて戻る少年もあった。
併し私は、そういう人々を、ただ単に、見たとばかり言い得ないような気がする。
その人々の姿こそ、当時の私の姿ではなかったろうか? 歩いてでも郷里にかえりたかった。当時の私の心ではなかったろうか?
或る夜のことであった。私は停車場で、偶然一人の友人と落ち合った。彼は非常に沈んでいたようであった。
﹁誰か送って来たの? それとも誰か来るの?﹂と私は訊きいた。
﹁ううん。﹂
彼は神経質な眼をして頭を振った。
﹁君は?﹂と彼は訊いた。
﹁僕も、ただ散歩に。――ここへ来ると、田舎の言葉が聞けるもんだから……﹂
﹁僕もそうなんだよ。ただそれだけで、僕は小石川からわざわざ出掛けて来るんだよ。﹂
彼はこう言って、深い深い溜め息を一つついた。
私と彼とは、黙々として目を伏せて公園前の方へ歩いて行った。そうして歩きながら、彼は低バ声スに、哀れっぽい調子をつけて歌ったのであった。
停てい車しゃ場ばの、地図に指あて故ふる里さとと
都の距離をはかり見るかな。
私も彼も、大望を抱いて東京へ出て来たのであった。故里を去る時には、その意志を貫かないうちは、石に噛りついても帰らないはずであった。
併し、私も彼も、もう……。
その月の末に、私は彼が郷里に帰ったということを聞いた。もう再び東京には出て来ないつもりだということをも聞いた。
併し、彼の意志の弱かったことを誰が嘲わらい得よう? 故郷を持っている人々、そして都会の無産者の生活を知っている人々は、誰も嘲うことは出来ないはずだ。
私はその後も、折々停車場へ出掛けて行った。その帰り途、私はきっと、あの時彼が歌ったあの歌を、低バ声スで歌って見たものであった。
停車場の、地図に指あて故里と
都の距離をはかり見るかな。
この歌を私は幾度も繰り返した。繰り返しているうちに、私の歌はいつか、泣き声になっていた。そして、睫まつ毛げに涙のちかと光っているのを意識したものであった。
今では、もう停車場へ出掛けるようなことはなくなった。
けれども、夏が来て、八百屋の店頭に赤いトマトオが積みあげられ、水色のキャベツが並べられ、白い夏大根が飾られる頃になると、私は今でも、彼のあの歌を思い出すのである。
――大正十五年︵一九二六年︶﹃若草﹄十二月号――