寡黙と消極的な態度とは私達一族の者の共通性格と言ってもいいのだ。私は郷家に帰省して、二三日の滞在中、殆んど父母と言葉を交かわさずに帰って来ることが少なくなかった。父もまた、田いな舎かからわざわざ私達に会いに出て来ながら、妻の問いに対してほんの二言か三言の答えをするだけで、私とは殆んど口をきかずに帰って行くことが多い。別に私達親子の間の愛情が薄いからというわけではないのだ。私が、父の顔から父の言葉を聞くことが出来るのと同じように、父もまた私の顔から私の言葉を聞き取ってくれるのだ。私達はだからお互いに顔を見合わせればそれでいいのである。私達のそういう性格は、だが、しばしば他人からの誤解を受けて来た。他人から物事を頼まれると、それを断ることの出来ない性しょ分うぶんなので、そういう場合には、いつも善良な人間のように思われるのであるが、消極的な態度がどうかすると傲ごう慢まんな人間として誤解されることがあるのだ。
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併し、私達一族の者の間では、それが当然過ぎるほど当然の性格とされている。誰もそれに就いて疑惑を抱くようなことは無いのだ。従い兄と弟こ同士が沈黙を挟んで五六時間も対座することがある。叔父と甥おいとが、同じ家に棲すんでいながら、二週間も三週間も口をききあわずに過ごすようなことは決して珍しいことではない。だがやはり、叔父は甥に対して、叔父としての極めて普遍的な愛情を抱いているのだ。自分が読んで見て面白い本であれば、それを私の机の上に載せて置いてくれた。古い腕時計が自分には不用なものになって来ると、やはり、いつの間にか私の机の上に載せて置いてくれるのであった。そして叔父は又それだけで、別に﹁面白い本だろう?﹂とも﹁割合に時間が正確だろう?﹂とも訊きくわけではない。私の方からもまた、それに対して﹁有難う﹂とも﹁面白かった﹂とも言ったことは無いのだ。けれども、叔父が病気で入院をすれば、私はやはり毎日その病院へ出掛けて行った。併し﹁どんな具合ですか?﹂というようなことを言ったことは無かった。ただそのベッドの横に坐り続けていては帰って来るだけであった。叔父もまた、私が行ってやらないとひどく寂さびしがるくせに、決して﹁有難う﹂と言ったこともなければ、﹁もう帰るのか?﹂と言ったことも無いのだった。
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私達のこういう性格は、私の妻をひどく驚かした。妻が特別おしゃべりな女だからではない。新婚当時の私は、妻から言葉をかけられると、顔を赤くして、吃どもりどもりそれに答えるような人間であったからだ。
併し、まもなく妻が私の性格に慣れたことはもちろんである。妻はけれども、私達一族のこの性格には、その後もしばしば驚かされるのであった。甚だしいのは田舎の伯お父じである。自分の伜せがれが田舎の中学を卒業して東京の私立大学へ這は入いることになったので、私の家に伜を預けたというわけなのだが、伜を連れて来て、別に﹁置いてもらえるか?﹂とか﹁頼む﹂とも言わずに、何か口の中で﹁日比谷公園と四十七士の墓とは見て行ったらいいだろうかな?﹂というようなことをぼそぼそと言っただけで帰って行った。もっともその前に、私の父から、書生代わりにもなるだろうから従弟の峻たかしを置いてやってはどうかという手紙があったので、私達は歓迎して置いてやる意味の手紙を伯父へ書いたのではあったが、それにしても、ただ頭をさげるだけで一言も挨拶の言葉を口にしない伯父の態度を、妻はひどく驚いたらしかった。田舎から持って来た土みや産げも物のなども、唸うなりでもするかのように、﹁これ﹂とか﹁ほら﹂というようなことを口の中で言っただけで、別段それに就いて説明などはしなかったものだから、妻は﹁全くの唖おしというわけで無いんですもの、どうして食べるかぐらい、ちょっと一ひと言こと教えて下さるといいのに……﹂と言うのであった。
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従弟の峻もまた、甚だしい沈黙家で、最初の﹁ではどうぞ!﹂という挨拶さえ言うことが出来なかったほどだ。そして朝になると、誰へ挨拶するということもなく、ごそごそと学校へ出かけて行って、夕方になるといつの間にか自分の部屋へ帰っているという風であった。私とは、何時間という間を対むきあっていても、互いに言葉をかけあわないのはもちろんであったが、私の妻が話しかけることがあると彼は徹頭徹尾﹁いいえ﹂と﹁はい﹂とだけで押し通すのであった。妻が﹁峻さんのシャツは真っ黒じゃないの? お脱ぎなさい﹂と言っても、彼は﹁代わりのシャツが無いんです﹂とは言うことが出来ないのだ。顔を赤くして学生服のボタンをはずしたりかけたりしているだけなのだ。そして妻が、私の古いシャツを出してやると、初めて裸になるという始末であった。妻はしばしば﹁あなた方は、従い兄と弟こ同士なら、ときどきは何か言うものよ。唖だって、従兄弟同士なら、手真ま似ねで語り合っているわよ﹂というような非難をあびせるのであった。
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私と峻とが、ひどく面めん喰くらわされたのは、妻の姪めいの貞子であった。貞子は、峻よりも約半年ほど後から私の家に来て、峻と同じように私の家から女学校へ通うことになったのであるが、十七というのに私の前へ来て﹁叔父様! では、どうぞお願いいたします﹂と言うのである。私は別に用意があるわけでは無かった。その咄とっ嗟さの間に何か言おうと考えたのであるが、咽の喉どの奥の方で﹁う、う、あ﹂というように、結局は咽喉を鳴らしただけで赤くなってしまった。ちょうどそのとき運悪く、峻も私の傍そばにいたのであったが、貞子は峻の前に手を突いて﹁どうぞ宜よろ敷しくお願いいたします﹂と挨拶をした。峻は真赤になって何遍も頭をさげるようにしながら﹁はい﹂と挨拶を返した。貞子は急に笑い出してしまって﹁あら! はいだって。おかしいわ。ねえ、叔父様!﹂と言うのである。私と峻とは、この能弁家にすっかり弱らされた。
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私は、妻と貞子との性格の影響で、峻の性格が少しずつ変わって行くに相違ないと思っていた。貞子は、朝の出がけには屹きっ度と﹁行って参ります﹂と手を突いていうのであるし、帰って来ると又﹁ただ今帰りました﹂というのであるから、峻も今に屹度そんな風になりはしないかと、私は内心ひどく恐れていた。私は全くその挨拶に対する挨拶に困るのだ。妻の気転で、貞子は私には決して挨拶をしないようにしていたが、それでも、妻が外出している時などは、私はひどく平静を失うのだった。併し、よく考えて見ると、私達一家の者の性格の動向は、積極的な妻と貞子との方へ動かずに、消極的な私の性格に向けて動いているのであった。いつまで経たっても、峻は依然として挨拶をせずに出掛けて行って、いつのまにかこっそりと帰って来ては本に噛かじりついているという具合だった。そしてどうかすると、大変遅くなってから帰って来るようなことも度々であったが、私はもちろんのこと、妻までが、最近は﹁どこへ行って来たんです?﹂というような質問はしないようになっていた。妻のそういう態度は、貞子に対してまで段々私と同じようになって来ることが感じられた。貞子もしばしば遅くなって帰って来るらしいのに、妻は決して﹁どこかへ廻ったの?﹂というような質問をしないらしかった。それが、峻の遅い時に限って、貞子もまた遅く帰って来るらしいのに、妻は気がついていたのかどうか、それに就いてはなんの一言も訊きかずにいるらしかった。
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初秋の晩、私は一人だったので、玄関に鍵をかけて置いた。峻も貞子もまだ帰っては来なかった。私はそして﹁峻と貞子は一体どこを歩いているのだろう?﹂というようなことをぼんやりと考えていた。九時が過ぎてから、何どち方らかが玄関をがちゃがちゃと揺ゆす振ぶった。やがて﹁誰か開けて頂戴よ﹂という貞子の声がしたので、私は立って行って扉をあけてやったのであるが、むろん﹁どこを歩いていたんだね?﹂などとは訊かなかった。ただ、私は貞子の靴先を見ただけである。貞子の靴先は、夜露のためしっとりと濡れていた。そしてその上に、細かな褐色の秋草の顆みがいっぱいについていた。初秋の高原地帯の草原の中を歩くと、屹度くっついて来る顆つぶらである。私はそしてすぐ自分の書斎に帰った。峻はそれから一時間ほどして帰って来た。これは一晩中夜露に濡れて立っていようと、決して﹁誰かあけてくれ﹂と声をかけることの出来る青年ではない。ただ、無むや暗みとがちゃがちゃさせていた。併し、貞子はどうしたのか立っては行かないので、私は仕方なく又立って行ってその扉をあけた。そして私はすぐに峻の靴先を視み詰つめていた。やはり彼の靴先も露でしっとり濡れ、その上に秋草の顆みがいっぱいについていた。褐色の、楕円形の花のような、細かな細かなその顆つぶらは、貞子の靴先についていたのと、全く同じものであった。同じ草地からの顆つぶらであった。私はひどく明るい朗らかなものを感じさせられた。そして私は腹の底で﹁峻も貞子も、注意して靴先を拭って帰るものだよ﹂というようなことを言わずにはいられなかった。併し、それは例によって言葉にはならなかった。ただ一言﹁遅くなりました﹂とさえ言うことの出来ない峻に対して、私はもちろん﹁どこを歩き廻っているんだ?﹂というような質問の出来る人間ではない。私は、一緒に歩いていたのなら、一緒に帰って来ればいいのにというようなことを身から体だの中のどこかで呟つぶやき、この二人の上に何かしら微笑を感じながら書斎に戻ったのだった。
――昭和六年︵一九三一年︶﹃今日の文学﹄一月号――