平三爺は、病気で腰が痛むと言って、顔を顰しかめたり、自分で調合した薬を嚥のんだりしていたのであったが、それでも、山の畠に、陸おか稲ぼの落ち穂を拾いに行くのだと言って、嫁のおもんが制とめたにもかかわらず、土間の片隅からふごを取って、曲がりかけた腰をたたいたりしながら、戸外へ出て行った。
﹁落ち穂なんか、孩わら子しどもに拾わせたっていいのだから、無理しねえで、休んでればいいんですのに、爺じんつあんは……﹂とおもんは繰り返した。
﹁ほんでもな、ああして置くとみんな雀に喰かってしまう。一かたまりの雀おりっと、いっぺんにはあ、一度団子して食う分ぐらい、わげなく喰かれでしまうがらな。――まあ、なんぼでも拾って来んべで。孩わら子しどもだのなんのって言ってっと、まだはあ、長びく原も因とで、去年のように、拾わねえうぢに、みんな雀に喰かってしまうがら……﹂
併し平三爺は、そのまますぐに出掛けて行くのでは無かった。――祖先から承うけ継ついだ財産を、自分の代に、ほとんど無くしてしまったので、爺は、伜せがれへの憂慮から、働き続けよう、働き続けようと努力しているのではあるが、しかし、身から体だの方も大分まいっているのだし、気持ちの上では、より以上に休息を需もとめているのであった。
殊に今は、疝せん気きを起こしているのだから、爺は、仕事への倦怠と、伜への憂慮との、この二つの間にもだもだしているのである。それで爺は先ず、大きなごつごつの手を両方とも、曲がりかけた腰の上に置いて、浅い霜が溶けてぴしゃぴしゃと湿っている庭を、真直ぐに山さざ茶ん花かの木の下へやって行った。
﹁おもん。一ひと枝えだ、婆あの位いは牌いさあげて呉けろ。﹂
爺は、そんなことを言いながら、しばらく山さざ茶ん花かの木の下で、うろうろしていた。
伜の長作は、その時、納な屋やで稲を扱こいでいたのであったが、父親が、おもんが制とめるのを肯きかずに出て行ったらしい気配なので、世せけ間んて体いなどを考え、どうしても引き止めなければならないと思って庭へ出て来た。
﹁爺じんつあん。そんな無理なごとしねえで、少し休んだらよがあめんがな?﹂と長作は、やや語調を強めて言った。
﹁無理ってほどでもねえげっと……拾わねえうぢに、みんな、雀に喰かってしまうべと思ってや。せっかくとったの……﹂
﹁落ち穂ぐれえ喰かったって。――そんより、医者さでも掛かるようになったら、なんぼ損だかわかんねえべちゃ、爺じんつあんはあ!﹂
﹁うむ。それもそうだな、ほんじゃ、おら、今日は、休ませてもらうべかな。﹂
爺は、眼のあたりを少し赤くするようにして、息苦しい呼吸の間から、申しわけでもするように、吐と切ぎれとぎれに言った。そして、また腰をたたいたり、何か言い残したことがあると言うように、口をもぐもぐさせながら、とつおいつ山茶花を眺めていて、容易に家の中に這は入いろうとはしないのであった。
﹁なあ長作。この山茶花は、ふんとにいい花、咲くちゃなあ!﹂
﹁…………﹂
長作は、爺の方を、白眼で、ちらりと見たきり、なんとも答えずに、腰から煙草入れを抜き取って、煙草に火をつけた。
爺は、ひどく間の悪さを感じた。そこで、足もとへ唾つばをして、それから山茶花のまわりを一巡した。
﹁なんて言ったって、こんだけの山茶花、この界かい隈わいに無ねえがら……﹂
﹁山茶花など、どうだって……それより、早ぐ寝で休んだらいかんべな、爺つあんは。﹂
長作は、煙草の煙を吐きながら、また、爺の方へ横目を遣った。そして、そこには重々しい雰ふん囲い気きが醸かもし出された。
爺は、伜の気持ちを繕つくろうようなことを、何か言い出そうとして、口を二三度動かしたが、ただ、口を動かし得たに過ぎなかった。さらに爺は、この山茶花を売って、いくらでも生くら計しのたしにしたら……こう言おうと思ったが、それも思っただけで、口に出す前に、伜が、どういう返事をするかが気になった。
﹁この忙しい収とり穫いれ期どき、休んだりして……﹂爺は申しわけのように呟つぶやきながら家の中へ這入って行った。
﹁稼いだって、それ以上に損するようなごっちゃ、なんにもなんねえがら…… まあ、ゆっくり休ませえ。﹂
長作は、爺の後に跟ついて家の中へ這入りながら、こんなことを言った。この言い草は、すでに、爺は幾度も幾度も繰り返して聞かされた。それで爺は、今では、若い時分、自分が屈くっ指しの稼かせ人ぎてだった自慢はもう決してしなくなったのである。
平三爺は、事実、村でも屈指の稼かせ人ぎてであった。また、非常なお人よしでもあった。そして爺は、よく他人から騙だまされた。取引をすると、きっと、損をした。他人の借金の保証人になっては、借り主の代わりに払わされたことも度々あった。そんなわけで、爺は、他人よりも余計働いたにもかかわらず、親から承うけ継ついだ財産まで、すっかり無くしてしまった。
そのことを気にしているために、爺は、折々、伜までが自分から離れて行ったように思って、非常に寂しい気持ちになることがあった。その思いは、年を重ねるに従って、だんだん強くなって行った。伜夫婦は、何かにつけて優しくしてくれるのだが、それをさえ、爺は、その底の方に、何かしら意地の悪いものがあるように感ずることがあった。伜に戸主を譲って、一時、ほっとした気持ちになった爺は、また根こんをつめて働き出した。伜は、財産の少ないのを、自分が無くしたのを、面白くなく思っているのに相違ねえ。いくらでも、この穴を埋めてやらねばならないと思ったからであった。
併し、伜の長作は、決して親の意をないがしろにするようなことはなかった。世間への体てい裁さいからばかりでなく、実際に、六十の坂を越してから、なお、働き続けねばならない自分の親を、彼は心の底から気の毒に思って、出来るだけの慰い撫ぶを心掛けているのであったが、なぜか長作は、それを露骨に現すことは出来なかったし、そういう言葉を口にすることは、なおさら出来ない性しょ分うぶんだった。ばかりでなく、爺があまり馬鹿馬鹿しい苦労などをする時には、むしろ、罵ののしりに近い言葉で制とめることがあった。
平三爺は、他よ所その年寄り達などに比べると、自分が、非常にいたわられているということを知っていながら、伜の心の底に、意地の悪いものがあるように感じた時や、罵りに近い言葉を受けた時には、やはり、非常に寂しい気持ちになった。爺が、山茶花を大切にし、それに自分の慰めを繋つなぐようになったのは、それからのことであった。その山茶花は、まだ相当にやっていた頃に、婆さんの植えたものであったが、平三爺の、長い労苦の生涯に、慰めのものとして残ったのは、僅かに、この一本の山茶花に過ぎなかった。この一本の山茶花のほかの何ものをも残し得なかった生涯、六十何年間の、血のにじむような、労苦に満ちた人生だったとも言えるのである。
重苦しい雰囲気の中で、三人は黙り続けていたが、長作は煙草入れを腰にさして炉ろば傍たを立った。
﹁爺じんつあんの、薬さ混まぜる砂糖、万の野郎が、みんな舐なめでしまって無くなったげっとも……﹂と、おもんは、相談するように言った。
﹁砂糖なんかいらねえぜ、おら。薬だもの、嚥のみ辛づらいのなんか、仕方がねえ。﹂
﹁卵が、なんぼか溜たまってる筈だべちゃ。そいつでも売らせてや。うむ、万の野郎に売らせで。﹂
長作はこう言い残して、また納屋の方へ出て行った。
平三爺は、重い溜め息を一つ吐ついて、幾日も敷き続けられてある万年床へと立って行った。おもんも跟ついて行って、破れて綿のはみ出ている布ふと団んを掩おおい掛けてやるのであった。そしてなお、上から押し付けたり、その辺へんに脱ぎ捨てられている衣類を、なんでも、手当たり次第に掩い掛けてやるのであった。
﹁もう沢山だ。おもん、こんで沢山だ。﹂
﹁ほんじゃ、ゆっくり休ませえ。薬も拵こさえで置ぎしから。﹂
おもんはこう、水洟ばなをすすりながら言って、台所へ戻った。これから、彼女も稲を扱こかなければならなかったのだ。
平三爺が、床にもぐり込んでから間もなく、町の操そう三ざぶ郎ろうという男がやって来た。以前、鉈なたや鎌などを売りに、この村へ出入りしていたが、それから三四年姿を見せずにいて、最近また、稲いね扱こき機械を売りに歩き廻っていた。操三郎は、永いあいだ目をつけていた長作の家の山茶花を、この前に来た時は、売れと言っていたが、今日は、稲扱き機械と取り換えてくれるようにと言って、執しつ拗ように頼むのであった。
﹁駄目だ! 機械は、ほしいにあ、ほしいが、この木は、爺じんつあまの……﹂と長作は、同じことを繰り返した。
﹁ほだから、まず、爺つあまに訊いてみせえ。﹂
﹁駄目だったら、爺つあまが、今、病気だし、この木は、大切にしてんのだから。﹂
﹁ほんじゃ、爺つあまに、おれ、直ず接かに、訊いで見んべかなあ?﹂
操三郎は、山茶花の樹の下から、平三爺の寝ている部屋の前の方へ歩いて行った。長作は、手をかけてまで引き止めるわけに行かないので、ただ、その男の後に跟ついて行った。長作にしては、その一本の山茶花よりも、稲扱き機械の方を欲しいのは勿論だった。しかし長作は、父親の気持ちをないがしろにしてまでは望み得なかった。
﹁此こっ方つの家の爺つあま。病気はどうでがす?﹂
平三爺は、なんとなく、聞き覚えのある声のように思って、寝床の上に腹這いになった。
﹁ね、此こっ方つの家の爺つあま。――﹂と操三郎は、縁側へ長くなり、顔を障子の側まで持って行った。その二度目の声で、平三爺は、稲扱き機械を売って歩く、町の操三郎だということがわかった。
﹁爺つあん!﹂と長作が、そこの障子を開けた。
﹁ね、此方の家の爺つあま。﹂操三郎は縁側へ腹這いになって、平三爺に話しかけた。﹁機械一台ど、どうでえす? あの山茶花の樹ど、取とっ換けえまえんか?﹂
﹁それさな?……﹂
平三爺は、口をもぐもぐと動かしながら、げっそりと肉の落ちた面を伏せて考え込むようにした。そして、やがてまたその窶やつれ果てた血の気のない顔を上げ、伜の長作の顔に見入りながら言うのであった。
﹁俺はどうでもいいげっとも、長作あ?……﹂
﹁長作氏は、ほしがって、ほしがって。――一台の機械で、五人分も仕事が出来んのだから、うんとほしがっていんのだげっとも、やはり、爺つあまさの遠慮で……﹂と操三郎は、横から、少し渋味のある声で饒しゃ舌べりたてた。
長作等には、実際、稲扱き機械は強い誘惑を持たずにはいなかった。一台の機械に、二人の人間がついていれば、五人分の仕事は楽に出来る。誰にだって使える機械だし、それに、米も別段いたまないし、減りもしない。その上、仕事のあがりが大変に綺麗に行く。――こういう条件を聞いては、長作等はたまらなかった。稼かせ手ぎてが少なくて、仕事に追い立てられている長作である。口から手が出るような思いがするのも、決して無理からぬことであった。
﹁ほんじゃ、長作せえいいごったら、取り換げえでくんつえ。﹂と言って、平三爺は、痩せこけた顔を枕に押し当てた。
﹁なあ、長作氏。ほんでは、俺んどこにあるうぢの、一番にいい機械寄越しから……﹂
﹁ほんでも爺つあん。爺つあんが、なによりの楽しみにしていだ山茶花。――俺、なあに、手で扱こいだって扱げんのだから。――せっかく、爺つあんが楽しみにしていだ山茶花……﹂と長作は、吐切れとぎれに言った。
﹁いいがら、いいがら、俺がこうして病気して、仕事にも追われでんだし、取り換げえでもらえ。――俺、山茶花など、どうでもいいがら。﹂
それを聞くと長作は寂さびしかった。父親の気持ちを汲くむと、彼はむしろ、胸を噛まれる思いがした。
﹁爺つあんが大切にして育てだ山茶花だもの。今まで、どこから売れって言われでも、売んねえでだ山茶花だもの……﹂
﹁いいがら長作、取り換げえでもらえ。俺は、本当になんにもいらねえ。こんなに大切にされで、俺、なんにもいらねえ。俺、金でも溜めでいで、その機械買ってやれんのだらえいげっとも……山茶花など! それより、汝にし等ら、なんでも楽出来れば。――俺、こんなに大切にされで……﹂
涙もろくなった平三爺の眼からは、また涙が流れた。長作は、もう何も言わなかった。が、眼めが頭しらが熱く潤うるんで来るのを覚えた。
彼等は、平三爺にしろ長作にしろ、もちろん、この山茶花を手放したくはなかった。併し、だからと言ってこれを拒絶して、手て扱こきを使い続ける気にもなれなかった。
﹁俺は、もう、これきりの人間だ。山茶花など! それより、汝にし等らせえ、幸しあ福わせで……﹂
平三爺は、もう一度こう言って、涙に濡れた顔を、とくと枕に押しあてた。
――昭和二年︵一九二七年︶﹃文章倶楽部﹄七月号――