序言
植物のもつ美のうちで、最も鋭く私達の感覚に触れるものは、その植物の形けい態たいや色彩による視しか覚く的美であろう。それから嗅きゅ覚うかく的美、味みか覚く的美といった順序ではないかと思う。併し、私達の心の中のロマンチストは、その伝説を聞き、名称の持つ美から、未知の植物に憧あこがれることが少なくない。そしてまた私達のセンチメンタリストは、廃はい墟きょに自然が培つちかう可かれ憐んな野草に、涙なみ含だぐましい思いを寄せることがある。
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植物の生理的作用は、その形態と色とによって植物体の美を表現する。深緑の葉、真しん紅くの花、さては薄紫の色に、或いは淡紅色に…… そして春の野は緑に包まれ、夏の森林は深緑がしたたり、秋の林は紅葉の錦を纏まとう。落葉樹が寒風に嘯うそぶき早春の欅けやきの梢こずえが緑の薄絹に掩おおわれるのも、それは皆すべて植物の生理的必然の作用に他ならない。
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併し、私達の詩的感情は、何が故にと、その植物固有の、所生や境遇や季節による生理的必然の作用としての生理的変化を探究しようとするのではない。私達はその科学的見地から離れて、それらとりどりの植物が、いつの季節に、いかなる境遇において、最も強く私達の美的感覚に触れるかを、その所生の境遇と外囲の関係とにおいて、その植物固有の美的表示を知ろうとするだけである。
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例えば、菌、苔こけ、藻草のような植物でも、その所生の境遇と外囲の関係とによって初めて私達の詩的感覚を打つのである。樅もみ、落から葉ま松つ、栂つがなどのように、深山に生ずる植物は、深山の風景に合わせて見なければ趣が少ない。柳、蓼たで、蘆あしなどのように、水辺の植物は水に配合して眺めなければその植物の美的特徴を完全に受け取ることは不可能と言っていい。その他、丘陵、高山、原野、沼沢、砂地、海辺、田圃、河畔、庭園など、その土地に在る植物の美を知るには、その植物それぞれの所生の状態、季節や気象に伴うて現わす変化、又は花と昆虫、或いは果実と鳥との関係というように、一々その自然との関係に就いて観察する必要があると思う。
福寿草
福ふく寿じゅ草そうは敏感な花です。最も鋭敏に温度を感ずる野草です。福寿草は残雪のまばらな間から微かすかな早春の陽よう光こうをあびて咲き出るのです。そしてとても光に感じ易く、光を憧あこがれる花なのです。夜明けの微光とともに開いて、夜の暗さとともに眠るのです。太陽の輝きが燦さん爛らんたれば燦さん爛らんたるほど元気で、曇れば福寿草も元気なく項うな垂だれます。寒さと暗さとをおそれる臆おく病びょうな花だけに、あどけなく可愛らしい花です。
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春の訪おとずれを最も早く感ずるのは、あらゆる野草のうちで福寿草が一番早いような気がします。朝の縁えん先さきに福寿草のあの黄こが金ねい色ろの花が開いているのを見ると、私達はなんとなく新春の気分に浸ひたって来ます。また、それとは反対に、春になっても、福寿草の花が咲かないと、陽よう春しゅんの季節を迎えた気分にはなれないのです。
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福寿草は暖かい花です。そして明るい花です。あの黄金色に輝く花が、緑の縮ちり緬めんのような、すがすがしい茎くきの上に、可愛らしいあの明るい顔を擡もたげると、私達は去年から重ねて来た着物を、一枚へらさねばならないことを感ずるのです。その時の私達は、明るい晴れやかな心になって、福寿草とともに、涙なみ含だぐましい気持ちで春の陽光に感謝しています。
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福寿草はどうかすると、非常に哀れっぽく見えることがあります。そんな時の私達は、きっと、襟えりをかき合わせ、眉を寄せて寒さむ空ぞらを見上げているに相違ありません。庭の捨て石や蹲かがみ石いしのもとに植えられた福寿草は、よく自然の趣を見せてくれます。けれども、あの肌寒い春さきの風が、思わず障子を閉めさせる時、本当に歔すす欷りないているのではないかと思われるほど、微かすかに顫ふるえながら哀かなしい表情をしています。
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北海道の人里はなれた植民地に咲く福寿草は、そこに孤こど独くな生活を送る人々の心を、どんなに慰なぐさめることでしょう。長い間を雪に埋もれて、郷ふる里さとを憧あこがれ、春の陽ひか光りを待ちわびている孤独な人達が、そろそろ雪が消えて、斑まばらに地ぢは肌だが見えかけて来た時、雪ゆき間まがくれに福寿草の咲いているのを見たら、どんなによろこぶことでしょう。そしてはまた、郷ふる里さとを想い、自分達の活動を想い、淋しい生活を振り返って、感かん慨がい無むり量ょうの涙にくれるに相違ないのです。
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福寿草は、孤独な人々の心をよく知ってくれます。そして慰めてくれます。もうよぼよぼになったお爺さんが、長い白い髭ひげを垂れて日当たりのいい南の廊下で、暖かい陽ひか光りを浴びて咲き輝いている鉢植えの福寿草を前に、老眼鏡をかけて新聞を読んでいるのや、北海道辺の新開地の農夫が、木の根の燻いぶる炉ろばたで、罐詰の空罐に植えた福寿草を、節くれだった黒い手でいじっているのなどは、いい調和です。それは、その人々も淋しければ福寿草も淋しいからです。そして、その人々も光を憧あこがれ、春の訪れを待ちわびていれば、福寿草も太陽の燦さん爛らんと輝くのを待ち焦こがれているからです。
梅
梅の花はなんとなく先せん駆くし者ゃという感じです。寒さをおそれず、肌を刺すような北風の中で弾はじけるだけに、なんとはなしに草木の先駆者というような気がします。梅の花の一輪二輪と綻ほころびるころの朝夕は、空気がまだ本当に冷えびえとしていて、路ろぼ傍うには白しら刃はのような霜柱が立ち並び、水溜まりには薄い氷がはっています。私達は冬の長い習慣で、襟えりの中にすくんでいる首を、無理に伸ばすようにして、ふところ手のまま見上げるのです。本当に、ふところ手のまま、一輪二輸と綻ほころびかけたのを見上げるのです。
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梅の花は落ち着いています。本当に沈ちん着ちゃくな花です。思い切って、一度にぱっと開くことの出来ない花です。梅の花の妙みょ味うみはそこにあるのだと思います。あの、早春の鉛なま色りいろの空を背景にして、節ふしくれだった、そしてひねくれ曲がった枝に、一輪二輪と綻ほころび初そめるところは、清フレ新ッシュな、本当になんとも言われない妙味のあるものです。そして又、その時ほど梅の花が純じゅ潔んけつに、気けだ高かく見えることは無いのです。又、まんまるにふくらんだ白い蕾つぼみが、内に燃える発はつ動どうを萼がくのかげに制せい御ぎょしながら、自分の爆発する時期を待っているのもいいものです。そして、このとき梅の花は、その中央に抱だく雌めし芯べお雄し芯べの色や、ふくらんだ褐かっ色しょくの蕾つぼみと調和して、最も質しつ朴ぼくに見え、古クラ典シッ的クな感じを与えるのです。
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梅の花の美びて的きじ情ょう緒ちょは、小鳥をはなして想い描えがくことが出来ません。わけても雀です。そしてその時の梅の花は、本当に冴えざえしく見えるのです。小鳥は又、花の香りを嗅かごうとするように、やけに鼻先を突き付けて、さては蕾つぼみを啄ついばんだり、花を踏みこぼしたりするのです。そして小鳥たちの歌う歌から、一声ごとに、明るい世界が開けて行き、梅もそれにつれて、花は香りを深め、蕾は弾はじけて行くように思われます。
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梅の樹は老人くさい木です。あの節くれだって、そしてひねくれているところは、なんといっても頑がん固こなお爺さんです。併し、なんとなく気品のある老人です。それだけ梅の樹には、老人がよくうつります。まず私達は、土かわ器らけのように厚ぼったく節くれだち、そして龍のようにくねった梅の木を想い描えがくとき、その下に、曲がった腰を杖に支えて引き伸ばし、片手を腰の上に載せた白はく髯ぜんのお爺さんや、白い頭を手てぬ拭ぐいに包んで、鍬くわの柄えを杖に、綻ほころびかけた梅の花を仰いでいるお爺さんを想い描かずにはおられないのです。そしてそれは、決して美的な空想ではなしに、私達は奇妙なほど、ひねくれ曲がった梅の樹に、老人のつきまとっているのを見るのです。
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梅の樹の、最も私達の美びて的きじ情ょう緒ちょを惹ひくのは、なんといっても、やはりその樹じゅ形けいの節くれだってひねくれているところだと思います。利とが鎌まのような月の出ている葡ぶど萄うい色ろの空に、一輪二輪と綻ほころびかけている真っ直ぐな枝の、勢いよく伸びているのもいいものです。ですが、その若い枝の根ねも元とから、私達は、ひねくれながら横へそれている老木の姿を想い求めずにはいられないのです。
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さらに私達のなつかしむのは、あの古クラ典シッ的クな樹じゅ皮ひです。渋い渋い感じの、そして質朴な、あの樹皮です。あの龍のような不ぶか格っこ好うな老樹が、もし滑すべ々すべした肌をもっていたら、それはとても見られたものではないでしょう。それに、絵の具をぬたくったようにくっついているあのうめのきごけが、どんなに私達の心を落ち着かし、古クラ典シッ的クな感じを与えるか解わからないのです。それは、うめのきごけが、樹皮の乾かん燥そうしている老ろう幹かんに宿をかりるという、科学的な、又は自然的な関係からばかりでなく、自然の美的情緒を深めるためにも、梅の老樹を灰かい白はく色しょくに、或いは茶ちゃ褐かっ色しょくにぬりつぶしているような気がします。
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深い香りの花です。本当に深い香りを漂ただよわせる花です。それが燥はしゃぎきった空気の中を遠くまで流れて行きます。小鳥も人間も、この香りに花の在所へと誘さそわれるのです。鼻の感覚の鈍くなったお爺さんもです。
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梅の花の香りの流れているところは、きっと、それは人ひと里ざとです。梅の樹のないところには、その土地に住みなれたお爺さんもいなければ、人のいないところには梅の花も咲かないのです。梅の樹はどこまでも人なつこい木です。いや人間が梅の木につきまとうのかも知れません。路に迷った旅人が、ほっと胸を撫で下ろすのも梅の香りです。それだけ梅の木は人間と密接で、人の世の古い歴史をひそめているのです。
睡蓮
睡すい蓮れんは本当に可かれ憐んな花です。孤独の淋しさを悩む無口な少女のように哀あわれっぽい花です。総すべての悩みも悲しみも、苦しみも悶もだえも、胸に秘めて、ただ鬱うつ々うつと一人哀かなしきもの思いに沈むというような可憐な表情を持つ花です。その可憐な表情こそ、睡蓮の花の私達の心を惹いてやまないところです。
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寂さびしい睡蓮の花は、淋しい情景の中うちに咲いてこそ、その哀愁的美、詩的情緒が私達の胸にぴったりうつって来るのです。巡じゅ礼んれ乙いお女とめのお鶴つるや石いし童どう丸まるのように、親を尋ねて漂さま泊よう少年少女が、村から村へと越える杉すぎ杜もりの中の、それも鬱うっ蒼そうと茂った森林の中の、そして岸には葦あしが五六本ひょろひょろと生えていて、緑あおい藻などが浮き、鏡のように動かない古池に、ぽっつり夢のように浮いている睡蓮の花を見たら、きっと、泣き出したに相違ありません。哀かなしい少女の心には、睡蓮のあの可哀想な、淋しそうで悲しそうな、あの気持ちがあまりにもぴったりはいって来るからです。
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衰滅の美――という言葉があります。私達は、屋やし島まの戦いに敗れた平家の話や、腺せん病びょ質うしつの弱々しい少女が荒い世の波風にもまれている話を聞くとき、その哀れな一種の美しさにうたれます。――それが衰滅の美というのでしょう。睡蓮の花はどうかすると、この衰滅の美という言葉に、ぴったりすることがあります。あまりにも可憐な、弱々しい花だからです。
昔の栄えい華がを語る古城のほとり、朽ちかけた天守閣には蔦つたかずらが絡からみ、崩れかけた石垣にはいっぱい苔こけが生え、そのお濠ほりに睡蓮の花が咲いていたら、私達は知らぬ間に、涙なみ含だぐましい気持ちでいっぱいになっているに相違ありません。
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緑みど滴りしたたるころ、東京近郊では、井いの之がし頭らの池に、あの静かな、原始林のような森林に囲まれ、錆さびのついた鏡のような池の面おもてに、白い夢のように睡蓮の花が浮いています。そのまわりに、小さい水鳥が浮いたり沈んだりして遊んでいるのを見ることもあります。
――昭和六年︵一九三一年︶﹃新月﹄四、五、六月号――