一
弾力に富んだ春の活動は、いたるところに始まっていた。
太陽は燦さん爛らんと、野の良らの人々を、草木を、鳥獣を、すべてのものを祝福しているように、毎日やわらかに照り輝いた。農夫は、朝早くから飛び起きて、長い間の冬眠時代を、償おうとするかのように働いていた。
菊枝はまだ床の中で安らかな夢に守られているらしかった。父親は、朝飯前にと、近所へ出掛けたきり、陽ひは既に高く輝いているのにまだ戻らなかった。祖父は炉ろば端たで、向こう脛ずねを真まっ赤かにして榾ほだ火びをつつきながら、何かしきりに、夜更ふかし勝ちな菊枝のことをぶつぶつ言ったり、自分達の若かった時代の青年男女のことを呟つぶやいていた。そして時々思い出したように、どうしても我慢がならねえ……と言うように、菊枝の眠っている部屋の方へ、太いどら声で呼びかけた。
﹁菊枝! 菊枝! もう、午ひるになってはあ! もう、てえげに起きだらいかべちゃは。﹂
こう祖父は、幾度となく呼び起こした。けれども、彼女は、すやすやと眠っているらしく、なんとも答えなかった。
彼女が自分自身の時間を惜しむ近頃の癖くせから、もう一つは口やかましい祖父に対する反感から、眠り果てぬ眠りを装よそうているのだということは、祖母も母も感付いていた。が、母は、彼女の真実の母でないという遠慮から、彼女を起こしに行くだけの大胆さはなかった。祖母はまた、軒の下や庭に散らばっている塵を掃き蒐あつめながら、揺り起こしに行こうか、いま揺り起こしに行こうかと思いながらも、また一方では、自分の娘以上に手をかけて育てた子供だけに、ただの一分間でも余計にじっと寝かして置きたいような気がした。
﹁本当に、今時の娘達は気きま儘まなもんだ。﹂
祖父はとうとう独り言を始めた。
﹁夜は夜で、夜よな業べもしねで、教員の試験を受けっとかなんとかぬかして、この夜短かい時に、いつまでも起きてがって、朝は、太おて陽んとさまが小たぼ午こになっても寝くさってがる。身しん上しょうだって財かま産どだって、潰つぶれてしまうのあたりめえだ……﹂
彼女の継まま母ははは、祖父のこの呟つぶやきを、快く聞き流しながら、背中に小さな子供を不格好に背負い込んで囲い炉ろ裏りで沢山の握り飯を焼いていた。
祖母は戸外から這は入いってきて、あまりにも口やかましい祖父に、不機嫌な視線を投げかけた。併し、祖父はそれどころではなかった。もう既に焼き飯も焼けているのに、菊枝が起きてこないと言うだけのことで、魚を漁とりに行く時間が遅くなるのに、まだ朝飯にならないのだから。子供達も、学校の時間に急せきたてられながら、飯になるのばかりを待っていた。
﹁学校さ行く小こど児もも、やきもきしていんのに……﹂
祖父は最後にこう呟いて、真赤にやけた向こう脛ずねを一ひと撫なでして腰を伸ばした。そして、菊枝を蹴起こしてやるというような意気込みで、彼女の寝ている部屋に這入って行った。
二
みんなが食卓のまわりを襤ぼろ褸た束ばを並べたように取り巻いて、いざ食事にかかろうとしているところへ、彼女の父親が他よ所そから帰ってきた。みんなは彼を眼で食卓の傍そばへ招いた。
父親は近所での見聞を、断片的にものがたりながら食卓に就いたが、食事にとりかかってその種たねを失った。祖父は重い口調で命令的に訴えた。
﹁松三。少し菊枝さ、言ってきかせて置がせえちゃ。俺言ったて、馬の耳さ念仏だから……﹂
祖父はこう切り出して松三の顔を見、菊枝の表かお情いろに見入り……。
菊枝の頬はほんのりと紅がさして、自然に項うな垂だれてしまった。そして彼女は、まるで飯粒を数えるように、飯粒の上に、箸の上に、小さな動作を繰り返した。
﹁まだ初稼ぎだで、山仕事で疲れてんのがと思えば……﹂
祖父は容よう赦しゃなく続けた。
﹁この忙し時、朝っぱらから、寝床の中で、書物を見てがるんだから……本当に呆あきれだもんだ。﹂
松三は、けれども何も言わなかった。――そんなこと、別に腹立てる程のことでもあるまい――そんな表情で飯をかき込んだ。菊枝は、全く済まないことをしたと言うように、そのまま消えてもしまいたいと言うように、ほんのり、顔を赤らめて、息を殺して碗わんに盛った飯をもてあましていた。
﹁こんなことは、俺が言わなくたって……松三はなんと思うか知らねえが。俺は、百姓の娘こがこんなごっては……﹂
祖母が横から、祖父の顔を睨にらむようにして、そして祖父の言葉尻を捉えるように言った。
﹁そんなこと言ったって、爺じんつあまや。何しろまだ十六だもの……裁て縫ど習なれえにもやんねえのだもの、考かんげえで見ればこのわらしも……﹂
祖母はまず自分自身の哀れなオールライフを涙含ぐましく思った。
﹁考かんげえで見れば、可哀想ださ。ほんでも、朝っぱらから、寝床の中で、書物を読んでるなんて、百姓の娘が……﹂
﹁学校の先生様になんのだぢゅうもの、何、いがすぺちゃ﹂と、黙り続けていた継母が突然口を入れた。
松三は食事の間、一言も口をきかなかった。食事が済むと、しかし悠長に煙きせ管るをくわえて、何事をおいても、この事を解決してしまわねばならないというような表情で、けれども、全く落ち着き払った態度で……。
﹁菊枝! 台所が済んだら、ちょっとここさ来こうまず。﹂
菊枝は台所からおどおどしながら出てきて、窮屈な雪ゆき袴ばかまの膝を板の間に折った。
父親は、掌てのひらでぽんぼんと煙草の吸い殻を落として、眤じっと、項うな垂だれた菊枝の顔を凝み視つめた。
﹁菊枝! 貴様は、年も行かねえのに、いろいろど気がついて働いでくれで、仲々感心な奴だと思っていだら、もっての外の考えをもっていんなや?﹂
菊枝は、黙々として項うな垂だれ続けた。祖父は幾分後悔の気持ちで刻きざみ煙草を燻くゆらし続けていたし、祖母はかばってやらねばならぬ折を、おどおどしながら待っていた。
﹁今までは本当に、全く感心な奴だと思っていたのに……今からは、そんなごってはなんねだでや。この通り、俺おら家えど言うもの、稼ぐ者ってば、俺とお前ばかりだべ。母ががは母で病身だし、他ほかは、年寄りわらしばんだ。――そして、貴様になど、どんなことあったって、受かりこなどねえんだ。毎日それにばり一年もぶっ続け勉強した、かしゅくさんせえ、落第したんだもの。﹂
﹁百姓の子は……﹂祖父が突然口を入れた。﹁みっしり百姓のごとを習って、いいどこさ嫁に行けば、それでいいんだ。学がくで飯を食うべと思わねえで……﹂
﹁そんな、柄がらであんめえちゃ。﹂
継母は台所の方から出てきて、罵ののしりを含んだ微笑に口を歪ゆがめながら言った。
菊枝はその言葉がぎくりと胸にこたえた。が、彼女はちらりと睨むような視線を走らせたきり、尚も項垂れて黙り続けた。
﹁ようく聞いて置いでな、菊枝! 今おめえに稼ぎを休まれたら、父ちゃんが一人で、どうもこうもなんねえんだから……﹂
こう言う祖母の表情は、ことにその眼は、菊枝の心に温あたたかな、しかも涙ぐましい影を落とした。
﹁そんでもこんでも、試験を受げて見っと言うのなら仕方がねえげっとも、ほんどき、旅費も何も自分で心すん配ぺえしんだでや。俺は、不賛成なごどには金ば出さねえがら……﹂
父はこう言って煙管を敲たたいた。
﹁そんなごと無ねえんだから、早く稼ぎさ行ぐ支度をしてはあ……﹂
祖母は傍らから、庇か護ばうように言った。
菊枝は渋々と立ち上がって、だが、すぐに山ゆきの支度にかかった。
三
菊枝はすっかり沈んでしまって、細い山路をのぼる時から、父親の踵かかとのあたりに視線を下ろしたきり、全く黙り続けていた。松三は、どうかしてこの不快な沈黙を破りたいと、しきりにその緒いとぐちを考えたり四あた辺りを見廻したりしていた。
草の芽はゴム細工のような、さもなければセルロイド細工のような新芽を土の中から擡もたげていた。エボナイトのような弾力と光沢を持った、あらゆる樹木の梢こずえに群がる木の芽は、ずんずんと日毎ごとにふくらんで行き、いろいろの小鳥は思い思いの音色で木の枝に囀さえずり廻っていた。けれども、何ら沈黙を破るべき機会を与えられなかった。
その沈黙! しかも、もの哀れな、涙ぐましい沈黙は正午になっても続いていた。松三は、母親の無い自分の子、この力無い表情を視続けることに堪えられなく思った。
﹁菊枝!﹂と、松三は突然、思い出したように彼女を呼んだ。
その時、彼等父おや娘こはちらちらと崩れかかる榾ほだ火びを取り巻いて、食後の憩いこいを息ずいていたのであったが、菊枝は野を吹く微風に嬲なぶられて、ゆれる絹糸の縺もつれのような煙を凝み視つめて、悩ましい空想に追い縋すがるという様子であった。が、彼女は、父親から呼びかけられて初めて僅かに顔をあげた。
﹁おめえな、菊枝……﹂と、父親は重苦しい口調でこれだけ言って、深く煙草の煙を吸い込んだ。
﹁え﹂と菊枝は、声に出しては言わなかったけれども、そんな風な表情で、人なつこい眼を父の方に向けた。
﹁おめえ、本ふん当とに試験を受げんのだごったら、みっしり勉強しなげえなんねえんだ。﹂
﹁ほだげっとも……﹂
菊枝は、父親のあまりに当て外れたこの言葉に、なんと答えていいのか解わからなかった。
﹁汝にしあ、家にいでは、とっても勉強なんか出来ねえんだから、山さ来て勉強しろ。山さ書物持って来て……汝あ伐る分ぐれぇ、父ちゃんが伐っから、汝あな一生懸命に勉強しろ。﹂
父親のこの言葉は、菊枝に取って涙含ましかった。それは、あまりに温かい、涙含ましい言葉であった。
﹁ほだげっとも……ほだげっとも……﹂
﹁何、構うごとねえ。家の人達はあの通りみんな不賛成だげっと、俺だけは、汝にしを百姓にしたぐねえと思って……﹂
﹁爺じん様つぁまや継お母がさんは、︵家のごどは考えねで、自分ばり楽するごと考えでる︶って言うげっとも、俺は稼いだって大したごとも出来ねえから、何が外のごって……﹂
﹁そんなごど……汝にしあも仲々難儀だ。汝あの実が母がも、百姓などしねえげ、まだまだ死ぬのでなかったべ……﹂
彼は、若くして死んだ愛妻の死の前後を、その哀しむべき半生を心の中で思い描いた。――それは菊枝を生んで間もなく、当然床の中に臥ふしていなければならないうちに、ちょうどそれが田植えの時期だったので、無理に田圃へ出たのがもとで、産さん褥じょく熱が昂こうじ、ひどい出血の後に、忙しい時期にお産をしたことを気にもみながら、夢見心地のうちに死んで行ったのであった。
﹁俺、月給取るようになったら、毎月なんぼかずつでも家さ送って寄越しべと思って……﹂
それは菊枝の真まご情ころであった。彼女は、同級の誰彼が、みんないろいろの方面へ進んで行って、自分一人が野良に残されたことを悲しく思いはしたが、決して父親の苦しい生活を忘れてはいなかった。自分自身を救うと同時に父親をも、いやそれよりも自分を捨てて父親を助けねばならない……そういう気持ちから受験を思い立ったのであった。
﹁そんなことは心配しねえでも、まあ、みっしり勉強して……試験を受げさ行ぐ時の旅費ぐらい、父ちゃんがなんとかしっから、こっそり行って受げて来い。﹂
﹁俺、父ちゃんと二人ばりだら、試験なんか受げさ行かねげっとも……﹂
菊枝の両の眼には、いつの間にか熱い涙が湧いていた。
﹁父ちゃんは、汝にしを百姓にしたぐはねえと思って……貧乏さえしてねげ、女学校さもなんさもやりでえのだが、貧乏なばがりに、ろくに書物も買ってやれねえが……﹂
﹁ちゃんや! ちゃん!……﹂
彼女は涙に光る眼を上げて、こう父親を呼んだが、父親のその温かい情に対して、自分の感情をどう表現していいか解らなかった。彼女は、もう、試験を受けずに、手不足な我が家のために一生懸命に働くと言いたかったのだ。
﹁俺は、汝にしを百姓にしたぐねえ。汝も難儀だげっと、そいつばり勉強してる人達と一緒に試験を受げるなんて……まあ明あし日たからは、山さ書物を持って来て勉強しろ。父が汝あ分まで伐っから……﹂
松三はこう言いながら、自分の美しかった若い妻が、菊枝の母親が、いかに惨みじめな半生を送ったかを、農村の女達がいかに虐しいたげられるかを思った。
太陽はだいぶ西に傾いて、淡い陽ひあ脚しを斜めに投げだしていた。緑の新芽は思い思いの希望を抱き、榾ほだ火びはとっぷりと白い灰の中に埋もれていた。
――大正十五年︵一九二六年︶﹃文藝市場﹄四月号――