根ね津ずの大だい観かん音のんに近く、金田夫人の家や二にげ弦んき琴んの師匠や車宿や、ないし落らく雲うん館かん中学などと、いずれも﹃吾わが輩はいは描ねこである﹄の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦くし沙ゃ弥み先生の居きょは、去年の暮れおしつまって西にし片かた町まちへ引き越された。君、こんどの僕の家は二階があるよと丸善の手代みたように群ぐん書しょ堆たい裡りに髭ひげをひねりながら漱そう石せき子しが話していられると、縁えん側がわでゴソゴソ音がする。見ていると三毛猫の大きなやつが障しょ子うじの破れからぬうと首を突き出して、ニャンとこちらを向きながらないた。
あの猫はね、こっちへ引きこしてきてからも、もとの千駄木の家へおりおり帰って行くのだ。この間も道であいつが小便をたれているところをうまくとっつかまえて連れて戻った。やっぱしもとの家というものは恋しいものかなあ。――何、僕の故い家えかね、君、軽けい蔑べつしては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかしだいぶ江戸っ子でも幅のきかない山の手だ、牛込の馬場下で生まれたのだ。
父おや親じは馬場下町の名なぬ主しで小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜きく久いち井ょ町うを降りてきた所に――の向かいに小おぐ倉ら屋やという、それ高田馬場の敵あだ討うちの堀部武たけ庸つねかね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいう桝ますを持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故い家えがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。僕の家は武田信玄の苗いえ裔すじだぜ。えらいだろう。ところが一つえらくないことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたということだ。家の紋もんは井いげ桁たの中に菊の紋だ。今あのへんを喜久井町というのは、僕の父おや親じがつけたので、家の紋から、菊井を喜久井とかえたのだそうな。こんなことはそうさなあ、明治の始めごろの話だぜ、名主というものがまだあった時分だろうな。
名主には帯たい刀とうごめんとそうでないのとの二つがあったが、僕の父親はどっちだったか忘れてしまった。あの相さが模み屋やという大きな質屋と酒屋との間の長屋は、僕の家の長屋で、あの時分に玄関を作れるのは名主にだけは許されていたから、名主一名お玄関様という奇きば抜つな尊称を父親はちょうだいしてさかんにいばっていたんだろう。
家は明治十四五年ごろまであったのだが、兄あにきらが道楽者でさんざんにつかって、家なんかは人手に渡してしまったのだ。兄きは四人あった。一番上のは当時の大学で化学を研究していたが死んだ。二番目のはずいぶんふるった道楽ものだった。唐とう棧ざんの着物なんか着て芸者買いやら吉原通いにさんざん使ってこれも死んだ。三番目のが今、無事で牛込にいる。しかし馬場下の家にではない。馬場下の家は他人の所有になってから久しいものだ。
僕はこんなずぼらな、のんきな兄らの中に育ったのだ。また従いと兄こにも通人がいた。全体にソワソワと八笑人か七変人のより合いの宅いえみたよに、一日芝しば居いの仮かせ声いをつかうやつもあれば、素しろ人うと落ばな語しもやるというありさまだ。僕は一番上の兄に監督せられていた。
一番上の兄だって道楽者の素質は十分もっていた。僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないから、篤とっ行こうの君子を気取って描ねこと首っ引ぴきしているのだ。子供の時分には腕わん白ぱく者ものでけんかがすきで、よくアバレ者としかられた。あの穴あな八はち幡まんの坂をのぼってずっと行くと、源げん兵べえ衛む村らのほうへ通う分わか岐れみ道ちがあるだろう。あすこをもっと行くと諏す訪わの森の近くに越えち後ごさ様まという殿様のお邸やしきがあった。あのお邸の中に桑木厳げん翼よくさんの阿あ母ぼさんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり僕の家へ遊びに来たことがあった。
僕の家の裏には大きな棗なつめの木が五六本もあった。﹃坊っちゃん﹄に似ているって。あるいはそうかもしれんよ。﹃坊っちゃん﹄にお清という親切な老ろう婢ひが出る。僕の家にも事実はあんな老婢がいて、僕を非常にかわいがってくれた。﹃坊っちゃん﹄の中に、お清からもらった財さい布ふを便所へ落とすと、お清がわざわざそれを拾ってもってきてくれる条くだりがあった。僕は下女に金をもらった覚えはないが、財布の一ひと条くだりは実地の話だった。僕の幼おさ友なともだちで今、名を知られている人は、山口弘一という人だけだ。この人はたしか学習院の先生かなんかしていられるということだ。くわしくは知らぬ。
そのうちに僕は中学へはいったが、途中でよしてしまって、予備門へはいる準備のため駿河台にそのころあった成立学舎へはいった。そのころの友人にはだいぶえらくなったやつがある。それから予備門へはいった。山田美びみ妙ょう斎とは同級だったが、格別心やすうもしなかった。正岡とはその時分から友人になった。いっしょに俳句もやった。正岡は僕よりももっと変人で、いつも気に入らぬやつとは一語も話さない。孤こし峭ょうなおもしろい男だった。どうした拍子か僕が正岡の気にいったとみえて、打ちとけて交わるようになった。上級では川上眉びざ山ん、石橋思しあ案ん、尾崎紅こう葉ようなどがいた。紅葉はあまり学校のほうはできのよくない男で、交際も自分とはしなかった。それからしばらくすると紅葉の小説が名高くなりだした。僕はそのころは小説を書こうなんどとは夢にも思っていなかったが、なあにおれだってあれくらいのものはすぐ書けるよという調子だった。
ちょうど大学の三年の時だったか、今の早わ稲せ田だ大学、昔の東京専門学校へ英語の教師に行って、ミルトンのアレオパジチカというむずかしい本を教えさされて、大変困ったことがあった。あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野古こは白くは姿見橋――太田道どう灌かんの山やま吹ぶきの里の近所の――あたりの素しろ人うと屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおりやってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。精神錯乱で自殺してしまったよ。﹃新俳句﹄に僕があの男を追懐して、
思ひ出すは古白と申す春の人
という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、故う家ちにいたり、あちらこちらに宿をかえていた。僕が大学を出たのは明治二十六年だ。元来大学の文科出の連中にも時期によってだいぶ変わっている。高山が出た時代からぐっと風潮が変わってきた。上田敏君もこの期に属している。この期にはなかなかやり手がたくさんいる。僕らはそのまえのいわゆる沈滞時代に属するのだ。
学校を出てから、伊い予よの松山の中学の教師にしばらく行った。あの﹃坊っちゃん﹄にあるぞなもしの訛なまりを使う中学の生徒は、ここの連中だ。僕は﹃坊っちゃん﹄みたようなことはやりはしなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤あか手てぬ拭ぐいをさげてあるいたことも事実だ。もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の山やま嵐あらしという綽あだ名なの教師と、寸すん分ぶんも違たがわぬのがいるというので、漱石はあの男のことをかいたんだといわれてるのだ。決してそんなつもりじやないのだから閉へい口こうした。
松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から英国へ留学を命ぜられて、行って帰って来て、今は大学と一高と明治大学との講師をやっている。なかなか忙しいんだよ。
落はな語しか。落語はすきで、よく牛込の肴さか町なまちの和わら良だ店なへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄よ席せはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落はな語し家かで思い出したが、僕の故い家えからもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸やしきがあった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円えん遊ゆうやその他の落語家がたくさん出入りしておった。
――ざっと僕の昔を話したらこんなものだ。この僕の昔の中には僕の今もだいぶはいっているようだね。まあよいようにやっておいてくれたまえ。