昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云いつた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此この遺書に比して甚はなはだ月つき並なみなのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾ごじ人んの脳裏に一種痛ましい対照を印いんした。
露骨に云へば中佐の詩は拙せつ悪あくと云はんより寧むしろ陳ちん套たうを極きはめたものである。吾われ々〳〵が十六七のとき文ぶん天てん祥しやうの正せい気きの歌などにかぶれて、ひそかに慷かう慨がい家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出でき来ば栄えである。文字の素養がなくとも誠実な感情を有いうしてゐる以上は︵又如い何かに高等な翫くわ賞んしやう家でも此この誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが︶誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉くれたならと思ふだらう。
まづいと云ふ点から見れば双方ともに下ま手づいに違ない。けれども佐久間大尉のは已やむを得ずして拙まづく出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈だけ文字を連らねるのは超てう凡ぼんの努力を要する訳わけである。従つて書かなくては済まない、遺のこさなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖いへども漫みだりに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏まとはる自己広告の衒げん気きは殆ほとんど意識に上のぼる権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤もつとも苦しき声である。又尤もつとも拙せつな声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑しや婆ば気けを離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私わたくしの少い声である。そこに吾ごじ人んは艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其その一言一句を真まことの影の如く読みながら、今の世にわが欺あざむかれざるを難あり有がたく思ふのである。さうして其その文の拙せつなれば拙なる丈真まことの反射として意を安んずるのである。
其その上うへ艇長の書いた事には嘘を吐つく必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此これ等らの現象に自己広告は平時と雖いへども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡すべての苦悶を忍んだので、他ひとによく思はれるがために、徒いたづらな言げん句くを連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又其その報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他ひとの為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。
広瀬中佐の詩に至つては毫がうも以上の条件を具そなへてゐない。已やむを得ずして拙せつな詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已やむを得るにも拘かゝはらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真ま似ねの出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。︵其その外ほか徒とぜ然んであつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが︶中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其その詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼あの様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢あへてし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其その内容が如い何かにも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最さい期ごを遂げた。さうして銅像迄まで建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面おも影かげがないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。
道義的情操に関する言辞︵詩歌感想を含む︶は其その言辞を実現し得たるとき始めて他たをして其その誠実を肯うけがはしむるのが常である。余に至つては、更さらに懐疑の方向に一歩を進めて、其その言辞を実現し得たる時にすら、猶なほ且かつ其誠実を残りなく認むる能あたはざるを悲しむものである。微かすかなる陥かん欠けつは言辞詩歌の奥に潜ひそむか、又はそれを実現する行為の根に絡からんでゐるか何どつ方ちかであらう。余は中佐の敢あへてせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟さしはさむを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁かするのである。