少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けて或ある料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きな妓をんなを相手に夕方から夜よな半か過ぎまで立続けに呷あ飲ふりつけたので、大だい分ぶん酔つ払つてゐた。 街灯の灯ひも点ともつてゐない真ツ暗がりに、Kは自分の鼻先に脊せのひよろ高い男が立塞がつてゐるのを見たので、酔つ払がよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないのでKは少し然むつとした。 ﹁さあ、退どいた〳〵。成なり立たての法学士様のお通りだぞ。﹂ Kはとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一寸も身動きしようとしなかつた。 喧嘩早いKは、いきなり拳をふり揚げて厭いやといふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、Kを見みお下ろしてにや〳〵笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、暴やけにいきり立つて、 ﹁野郎かうして呉れるぞ。﹂ といきなり両手を拡げて武むし者やぶ振りついたと思ふと、力一杯頭突を食はせた。法律の箇条書で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空あき殻がらを投げたやうに、かんと音がした。 Kは脳振盪を起してその儘まゝ引くり返つて死んで了つた。相手は相変らず身みう動ごきもしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つたKは夜目にそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。 Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭の向むきが違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、かんと音のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣き〳〵向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。