久し振で帰つて見ると、嘗かつては﹃眠れる都会﹄などと時々土とこ地ろの新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いた辺あたりと思はれるところへ、吊された大おほ章だ魚この足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首くび縊くくりを見た。若しこれが昔であつたなら、恁こう何日も売れないで居ると、屹きつ度と、自分が平家物語か何かを開いて、﹃うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。﹄などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ〳〵と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間うちに、早く何処かの内おか儀みさんが来て、全みん体なでは余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れれば可いいに、と思つた。此こ家この隣屋敷の、時は五月の初め、朝な〳〵学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此こ上よなく嬉しかつた枳から殻たち垣がきも、いづれ主ある人じは風流を解げせぬ醜ぶを男とこか、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置く底ていの男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少すこ許し行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新しん道みちが出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小こう路じ、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花みか崗げい石しの截きり石いしや材木が処とこ狭ろせきまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心うら悲がなしくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待て恁こんな昼日中に、宛さな然がら人生の横町と謂つた様な此処を彷うろ徨ついて何か明あか処るみで考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外み見えを憚はばからずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此三みつの変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。恁こんな変かは様りやうをする位なら、寧ろ依やは然り﹃眠れる都会﹄であつて呉れた方が、自分並びに﹃美しい追憶の都﹄のために祝すべきであるのだ。以も前と平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷ひや評かした肴さか町なちやう呉ごふ服くち町やうには、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就なか中んづく破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋レス食トウ店ラントの出来た事、荒れ果てた不こず来かた方じや城うが、幾百年来の蔦つた衣ごろもを脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿はげ頭あたまに産毛が生えた様な此旧城の変かは方りかたなどは、自分がモ少し文学的な男であると、﹃噫、汝不こず来か方たの城よ※﹇#感嘆符三つ、36-上-12﹈ 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。昨さくの汝が松風明月の怨うらみ長とこしなへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く〳〵思へ、昨きの日ふ杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋さい々さいたる草さう裡りに落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦てう蘿らざ雑つさ草うの底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已やんぬる哉。﹄などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁こんな感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸やう々やう開園式が済んだ許りの、文明的な、整きち然んとした、別に俗気のない、そして依やは然り昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児こど供もの生れた時、この児も或は年を老つてから悲みじ惨めな死しに様ざまをしないとも限らないから、いつそ今斯かうスヤ〳〵と眠つてる間に殺した方が可いいかも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不ぶし所よぞ存んと云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些ちと憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲ここは何も本気で云ふのでなくて、唯序ついでに白状するのだから、別段差さし閊つかへもあるまい。考といふは恁かうだ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳から殻たち垣がきを繞らして、本丸の跡には、希ギリ臘シヤか何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露ロ西シ亜ヤの百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。霽はれた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川か岸しの洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普た通だの奴では面白くない。顔は奈ど何うでも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙あけ色ぼのいろか浅緑の簡単な洋服を着て、面ヴエ紗ールをかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可なる成べく散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔羅ロウ馬マ皇帝が凱旋式に用ゐた輦くるま――それに擬まねて﹃即興詩人﹄のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或は蹇あしなへ、或は盲めく目ら、或は癩を病む者、などに逢つたら、︵その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、︶其そい奴つの頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒おし舌やべりは品格を傷そこなふ所以である。
立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数哩マイルを隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈きふをこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏なつ休やす暇み毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴れつきとした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古の市まちには、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る〴〵喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸だん々だん文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、直すぐ小せう比びこ公う気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈ど何うかしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンの轍てつを踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双さう眸ぼうの底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、遽にはかに夜も昼も香かぐはしい夢を見る人となつて旦あけ暮くれ﹃若菜集﹄や﹃暮笛集﹄を懐にしては、程近い田たん畔ぼの中にある小さい寺の、巨おほきい栗くり樹のきの下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂で竊そつと﹃乱れ髪﹄を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕なつかしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市まちを舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。﹃美しい追憶の都﹄なんだ。
十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小せう妹まいとをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
今年の夏は、校長から常ひた陸ち郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨くり川やが柵はのさくを中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直すぐ背うし後ろの、母とは二ふた歳つ違ひの姉なる伯母の家に車の轅ながえを下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、﹃マア、浩かうさんの大きくなつた事!﹄と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一をと昨つ日ひの秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄たそ昏がれ時どきであつた。
遠く岩手、姫神、南なん昌しやう、早はや池ち峰ねの四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢たた山らやま、黄あめ牛うしの背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨またがり、水音緩ゆるき北上の流に臨み、貞さだ任たうの昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色滴したたる許りなる上かみ中なかの二橋、杉すぎ土ど堤ての夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍ぎぜ然んとして立つ不来方城に登つて瞰みお下ろせば、高き低き茅ちが葺や柾まさ葺がやの屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、﹃杜とり陵ようは東北の京都なり。﹄と云つた事があるさうな。﹃東北の京都﹄と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は﹃みちのくの平安城﹄と風雅な呼方をするのを好む。
この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三みつを綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開かい闢びやく以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未いま嘗だかつて、﹃完全なる﹄といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一ひと人りも、一ひと個つも、一ひと度たびも、出でつ会くはした事がない。随つて自分は、﹃完全﹄といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に﹃不完全﹄が転がつて居る。其故に﹃希望﹄といふものが絶えないのだ。此﹃希望﹄こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、﹃歴史とは進化の義なり。﹄と説いて居るが、自分は﹃歴史とは希望の義なり。﹄と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして﹃進化﹄と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此﹃間違つた希望﹄と﹃間違はない希望﹄とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅アテ典ーネ以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此こ点こが却つて面白い、頗る面白い。自分は﹃完全﹄といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。︵何故なれば、自分は﹃完全になる﹄とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。︶だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁ひらいた様な感じがする。無限無際の生命ある﹃人間﹄に、三千年位の堕落は何でもないではないか。加しか之のみならず、較や々や完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠とほざかつた今の我々の方が、却つて〳〵大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、真理よりも真理を希求する心、完全よりも完全に対する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の静けさ、雨の盛岡の淋しさ、秋の盛岡の静けさ寂しさは愛するけれども、奈ど何うして此三みつが一緒になつて三さん足ぞく揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出来やう。雨と夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の気に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた為めでがなあらう。
昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り続いた。長火鉢を中に相対して、﹃新山堂の伯母さん﹄と前夜の続きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん︵妹︶の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡はん百ぴやくの話題を緯ぬきにして、話はな好しずきの伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の糸を経たてに入れる。此はてしない、蕭しめやかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空気、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午ひ時る近くなつて、隣町の方から、﹃豆腐ア﹄といふ、低い、呑気な、永く尾を引張る呼声が聞えた。嗚呼此﹃豆腐ア﹄! これこそは、自分が不幸にも全まる五年の間忘れ切つて居た﹃盛岡の声﹄ではないか。此低い、呑気な、尾を引張る処が乃ち、全く雨の盛岡式である。此声が蕭やかな雨の音に漂ふて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで来た。そして、遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆声で、矢張低く呑気に﹃豆腐ア﹄と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て気が付かなかつたらしい。軈やがて、十二時を報ずるステーシヨンの工場の汽笛が、シツポリ濡れた様な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四よつ家やち町やうの教会の鐘がガラン〳〵鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が伝はる。これは不来方城畔はんの鐘楼から、幾百年来同じ鯨お音とを陸みち奥のくの天そらに響かせて居る巨鐘の声である。それが精確に十二の数を撞き終ると、今迄あるかなきかに聞えて居た市民三万の活動の響が、礑はたと許り止んだ。﹃盛岡﹄が今いま今日の昼飯を喰ふところである。
﹃オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……﹄
といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、
﹃浩かうさん、豆腐屋が来なかつたやうだつたネ。﹄
此伯母さんの一挙一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。
朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い銭湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして、泥ど汁ろを撥ね上げぬ様に、極めて静々と、一足毎に気を配つて歩いて居るのだ。両側の屋根の低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覚えて置いた女の、今は髪の結ひ方に気をつける姉さんになつたのが、其処此処の門口に立つて、呆ぼん然やり往来を眺めて居る事もある。此等旧知の人は、決して先方から話かける事なく、目礼さへ為する事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を発揮して居る如く感ぜられて、仲々奥床しいのである。総じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆克よく雨に適して居る。人あり、来つて盛岡の街々を彷さま徨よふこと半日ならば、必ず何ど街こかの理りは髪つど床この前に、銀いち杏やう髷まげに結つた丸顔の十七八が立つて居て、そして、中なる剃そり手てと次の如き会話を交ふるを聞くであらう。
女﹃アノナハーン、アェヅダケァガナハーン、昨キノ日ナスアレー、彼アノ人シタアナーハン。﹄
男﹃フンフン、御おめ前あハンモ行エツタケスカ。フン、真ホンニソダチナハン。アレガラナハン、家エサ来ルヅギモ面オモ白シエガタンチエ。ホリヤ〳〵、大テエ変ヘンダタアンステァ。﹄
此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事実が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此会話の深い〳〵意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出来るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶もの気うげな、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。
澄み切つた鋼かう鉄てつ色いろの天蓋を被かづいて、寂じや然くねんと静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷うろ徨つく楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲ここで、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠わだかまるありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷うろ徨ついて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三さん戸のへ町ちやう、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷なはてといふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無むに人んき境やうを一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸路を逸それて、かの有名な田中の石地蔵の背せなを星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平ひご生ろの癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ〳〵と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深に被かぶつた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎てい足そく的てき関係のあつた花かき郷やうを訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四よつ家やち町やうは寂ひつ然そりとして、唯一軒理髪床の硝子戸に燈あか光りが射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密ぢご淫く売ま町ちの大だい工くち町やうで、芸者町なる本ほん町ちやう通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈あか火りが射して居る。ヒヨウと口笛を吹くと、矢張ヒヨウと答へた。今度はホーホケキヨとやる、︵これは自分の名の暗号であつた。︶復ヒヨウと答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平いつ生もの如く入つて行かうと思つて、上あが框りがまちの戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕びつ然くりし乍ら星ほし明あかりで透すかして見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先さつ刻き畷で逢つた奴に似て居る。
﹃立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。﹄
驚いた、真まことに驚いた。この声は我が中学の体操教師、須すや山まといふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。
﹃先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾つけて来て見ると、矢やつ張ぱり口笛で密ぢ淫ご売くと合図をしてけつかる。……﹄
自分は手を握られた儘、開あいた口が塞がらぬ。
﹃此こな間ひだ職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯︵校長︶のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不ふら埓ちぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一をと昨と夜ひは呉服町で綺麗な簪かんざしを買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨ゆう晩べは古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現げん場ぢやうを見届けたぞ。案の諚ぢやう大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金ぜ銭には持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。﹄
自分の困こん憊ぱいの状察すべしである。恰あたかも此時、洋ラン燈プ片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪くわ訝いがに堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、
﹃何どうしあんした?﹄
と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐ちく一いち事情を話し、更に須山に向いて、
﹃先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫ぢ売ご婦くではごあんせんぜ。﹄と云つた。
須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危あや気ふげに動かし乍ら、洒しや脱だつな声をあげて叫び出した。
﹃立花白はく蘋ひん君の奇談々々!﹄
﹃立花、貴様余ツ程気を付けんぢや不いか可んぞ。よく覚えて居れツ。﹄
と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗あん中ちゆうに没したのであつた。
自分は既に、五年振で此この市しに来て目まの前あたり観察した種々の変遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此この市しと自分との関係から、盛岡は美しい日本の都会の一つである事、此美しい都会が、雨と夜と秋との場合に最も自分の気に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も楽しい秋の盛岡――大だい穹きゆ窿うりゆうが無辺際に澄み切つて、空中には一いち微みじ塵んの影もなく、田舎口から入つて来る炭売薪まき売うりの馬の、冴えた〳〵鈴の音が、市まちの中まん央なかまで明はつ瞭きり響く程透徹であることや、雨あま滴だれ式の此こ市この女性が、厳粛な、赤裸々な、明哲の心の様な秋の気に打たれて、﹃ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなッす――。﹄と口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其処此処の井戸端に起る趣味ある会話や、乃至此女性的なる都会に起る一切の秋の表現、――に就いて、出来うる限り精細な記述をなすべき機会に逢着した。
が、自分は、其秋の盛岡に関する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。
﹃或る他の一記事﹄といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底ていの突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを的切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ヶ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。
実際を白状すると、自分が先せん刻こく晩餐を済ましてから、少すこ許し調しら査べも物のがあるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十畳の奥座敷に立籠つて、余り明あかからぬ五ごぶ分じ心んの洋燈の前に此筆を取上げたのは、実は、今日自分が偶然に路上で出会した一事件――自分と何等の関係もないに不かか拘はらず、自分の全思想を根底から揺ゆり崩くづした一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く〳〵忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀け有うなる出来事に対する極度の熱心は、如何にして、何処で、此出来事に逢つたかといふ事を説明するために、実に如によ上じやう数千言の不む要だなる記述を試むるをさへ、敢て労としなかつたのである。
断つて置く、以下に書き記す処は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極ごく々ごく些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を読む人があつたなら、その人は、﹃何だ立花、君は這こん事を真面目腐つて書いたのか。﹄と頭から自分を嘲あざ笑わらふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出会した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁かう信じたからこそ、此こ市この名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへ擲なげうち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の渋りに汗ばみ乍ら此苦業を続けるのだ。
又断つて置く、自分は既に此事件を以て親みづから出会した事件中の最大事件と信じ、其為に二十幾年来養ひ来つた全思想を根底から揺崩された。そして、今新らしい心的生涯の原げん頭とうに立つた。――然さうだ、今自分の立つて居る処は、慥たしかに﹃原頭﹄である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱さしおく迄には、何等か解決の端はしを発見するに到るかも知れぬが、……否いや々いや、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された﹃ローゼツタ石﹄の、表に刻まれた神ハイ聖エロ文グリ字フは、如何にトマス・ヨングでもシヤムボリヲンでも、レプシウスでも、とても十年二十年に読み了る事が出来ぬ様に思はれる。
自分が今朝新しん山ざん祠しは畔んの伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名残の潦みづたまりが路の処々に行く人の姿々を映して居るが、空は手ての掌ひら程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空気を岩山の上の秋あき陽のひがホカ〳〵と温めて居た。
加賀野新小路の親みよ縁りの家では、市役所の衛生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麦煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿じめ々じめして居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大おほ公い孫て樹ふの、まだ一ひと片ひらも落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹でこ凸ぼこの劇しい藪路、それを東に一町許ばかりで、天神山に達する。しん〳〵と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石いし甃だたみの両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ〳〵と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂ひつ然そりとして居る。周あた匝りにひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石の狛こまいぬである。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏あぶ光らびかりがして居る。そして、其又顔といつたら、蓋けだし是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹を造こしらへた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、克よく見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した高士の俤おもかげ、イヤ、それよりも一もつ段と俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、﹃石こま狛いぬよ、汝も亦詩を解する奴だ。﹄とか、﹃石狛よ、汝も亦吾党の士だ。﹄とか云つて、幾度も幾度も杖で此不格好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を転ずると、杉の木立の隙ひまから見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛さな然がら一幅の風景画の傑作だ。周あた匝りには心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又、自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平へい田だ野のといふ松原、晴れた日曜の茸たけ狩がりに、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其処の松蔭、此処の松蔭と探し歩いたものであつた。――
昼ひる餐げをば神み子こ田だのお苑そのさんといふ従姉︵新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。︶の家で済ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、﹃ひとつお世話いたしませうか、浩さん。﹄と云つた。﹃何をですか。﹄﹃アラ云はなくつても解つてますよ。奇麗な奥様をサ。﹄と楽しげに笑ふのであつた。
帰かへ路りには、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨くり川やが柵はのさくへ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の旧師である。
幅広く美しい内丸の大おほ逵どほり、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際な胸から搾り出す様な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘楼の下を西へ歩いて居た。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白の衣きぬを着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。――
これは此この市しで一番人の目に立つ雄大な二にか階いだ立ちの白はく堊あか館ん、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。巨人? 然さうだ、慥かに巨人だ。啻ただに盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、総ての意味に於て巨人たるものは、実にこの堂々たる、巍ぎぜ然んたる、秋天一碧の下に兀こつとして聳え立つ雪白の大校舎である。昔、自分は此巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、学校時代のシルレルとなつた事もある。嘗かつて十三歳の春から十八歳の春まで全まる五年間の自分の生命といふものは、実に此巨人の永遠なる生命の一小部分であつたのだ。噫ああ、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、怎どうやら揺ぎ出す様に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え抜いた様に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を着て突立つたまま。
印度衰亡史は云はずもの事、まだ一冊の著述さへなく、茨城県の片田舎で月給四十円の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづから頭かうべの低たるるを覚えた。
白色の大校舎の正面には、矢張白色の大門柱が、厳めしく並び立つて居る。この門柱の両の袖には、又矢張白色の、幾百本と数知れぬ木柵の頭かしらが並んで居る。白! 白! 白! 此白は乃ち、此白い門に入りつ出つする幾多うら若き学園の逍遙者の、世の塵に染まぬ潔白な心の色でがなあらう。柵の前には一列をなして老いた桜の樹が立つて居る。美しく紅葉した其葉は、今傾きかけた午後三時の秋の日に照されて、いと物静かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と桜樹の間には一条の浅い溝があつて、掬むすばば凝こつて掌ての上ひらに晶たまともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い桜の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭の尖とが端り々々には、殆んど一本毎に真赤な蜻蛉が止つて居る。
自分は、えも云はれぬ懐かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此白門に向つて歩を進めた。溝に架わたした花みか崗げい石しの橋の上に、髪ふり乱して垢光りする襤ぼ褸ろを着た女をな乞ごこ食じきが、二歳許りの石いし塊くれの様な児に乳房を啣ふくませて坐つて居た。其周めぐ匝りには五六人の男の児が立つて居て、何か秘ひそ々ひそと囁き合つて居る。白はく玉ぎよ殿くで前んぜん、此一点の醜悪! 此醜悪をも、然し、自分は敢て醜悪と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである、市の中央の大おほ逵どほりで、然も白昼、穢きたない〳〵女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披はだけて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都会に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常に有る事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を発揮して見せる必要な条件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜悪を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覚えた。そして静かに門内に足を入れた。
校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れて、ヅカ〳〵と小使室の入口に進んだ。
﹃鹿かが川は先生は、モウお退ひ出けになりましたか?﹄
鹿川先生といふは、抑そも々そもの創はじ始めから此学校と運命を偕ともにした、既に七十近い、徳望県下に鳴る老儒者である。されば、今迄此処の講堂に出入した幾千と数の知れぬうら若い求学者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛さな然がらこれ生きた教育の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘、今猶しみ〴〵と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。
自分の問に対して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎しば時らくして、
﹃イヤー立花さんでアごあせんか? これや怎どうもお久振でごあんした喃なあ。﹄
と聞覚えのある、錆びた〳〵声が応じた。ああ然だ、この声の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以来既に三十年近く勤続して居る正直者、歩ある振きぶりの可をか笑しいところから附けられた、﹃家あひ鴨る﹄といふ綽あだ名なをも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。
﹃今日はハア土曜日でごあんすから、先生方は皆みんなお帰りになりあんしたでア。﹄
土曜日? おゝ然さうであつた。学校教員は誰しも土曜日の来るを指折り数へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアツケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の旧制を捨てて此制を採用し、ひいて今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克く研究して知つて居る癖に、怎うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滞留三日にして早く既に盛岡人の呑気な気性の感化を蒙つたのかも知れない。
此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きな竈かまどがあつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯を沸たぎらし居る。自分は此学校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた暖スト炉ーブには、力の弱いところから近づく事も出来ないで、よく此竈の前へ来て昼食のパンを噛かぢつた事を思出した。そして、此処を立去つた。
門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で楽しく語り合つた事のある、玄関の上の大だい露バル台コニイを振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周めぐ匝りに立つて居た児こど供もの一人が、頓狂な声を張上げて叫んだ。
﹃アレ〳〵、がんこア来た、がんこア来た。﹄がんことは盛岡地方で﹃葬列﹄といふ事である。此声の如何に高かつたかは、自分が悠々たる追憶の怡いら楽くの中から、俄かに振返つて、其児供の指ゆびさす方を見たのでも解る。これは恰度、門口へ来た配達夫に、﹃△△さん、電報です。﹄と穏かに云はれるよりも、﹃電報ツ。﹄と取つて投げる様なけたたましい声で叫ばれる方が、一層其電文が心配なと同じ事で、自分は実際、甚どん珍らしい葬列かと、少からず慌てたのであつた。
此頓狂なる警告は、嘘ではなかつた。幅広く、塵も留めず美くしい、温かな秋の日に照らされた大おほ逵どほりを、自分が先さつ刻き来たと反対な方角から、今一群の葬列が徐々として声なく練つて来る。然も此葬列は、実に珍らしいものであつた。唯珍らしい許りではない、珍らしい程見すぼらしいものであつた。先頭に立つたのは、処々裂けた一対の高張、次は一対の蓮華の造つく花りばな、其次は直ぐ棺である。此棺は白木綿で包まれた上を、無造作に荒繩で縛ばくされて、上部に棒を通して二人の男が担いだのであつた。この後には一群の送葬者が随つて居る。数へて見ると、一群の数は、驚く勿れ、たつた六人であつた。驚く勿れとは云つたものの、自分は此時少なからず驚いたのである。更に又驚いたのは、此六人が、揃ひも揃つて何れも、少しも悲し気な処がなく、静粛な点もなく、恰も此見すぼらしい葬式に会する事を恥づるが如く、苦い顔をして遽きよ々ろき然よろと歩いて来る事である。自分は、宛さな然がら大聖人の心の如く透徹な無辺際の碧あを穹てん窿じやうの直下、広く静かな大逵を、この哀れ果敢なき葬列の声無く練り来るを見て、或る名状し難き衝動を心の底の底に感じた。そして、此光景は蓋し、天が自分に示して呉れる最も冷酷なる滑稽の一であらうなどと考へた。と又、それも一瞬、これも一瞬、自分は、﹃これは囚人の葬式だナ。﹄と感じた。
理いは由れなくして囚人の葬式だナと、不吉極まる観察を下すなどは、此際随分突飛な話である。が、自分には其理由がある。――たしか十一歳の時であつた。早く妻子に死別れて独ひと身りぐ生ら活しをして居た自分の伯父の一人が、窮迫の余り人と共に何か法網に触るる事を仕し出で来かしたとかで、狐森一番戸に転宅した。︵註、狐森一番戸は乃ち盛岡監獄署なり。︶此時年齢が既に六十余の老体であつたので、半年許り経つて遂々獄裡で病死した。此﹃悲惨﹄の結晶した遺骸を引取つたのは、今加賀野新小路に居る伯父である。葬式の日、矢張今日のそれと同じく唯六人であつた会葬者の、三人は乃すなはち新山堂の伯母さんとお苑さんと自分とであつた。自分は其時稚をさ心なごころにも猶この葬式が普通でない事、見すぼらしい事を知つて、行く路々ひそかに肩身の狭くなるを感じたのであつた。されば今、かの六人の遽きよ々ろき然よろたる歩あゆ振みぶりを見て、よく其心をも忖そん度たくする事が出来たのである。
これも亦一瞬。
列の先頭と併行して、桜のの下もとを来る一団の少年があつた。彼等は逸いち早はやくも、自分と共に立つて居る﹃警告者﹄の一団を見付けて、駈け出して来た。両団の間に交換された会話は次の如くである。﹃何ど家このがんこだ!﹄﹃狂ば人かのよ、繁のよ。﹄﹃アノ高沼の繁しげる狂ば人かのが?﹄﹃ウム然さうよ、高沼の狂人のよ。﹄﹃ホー。﹄﹃今朝の新聞にも書かさつて居えだずでヤ、繁ア死んで好えエごとしたつて。﹄﹃ホー。﹄
高沼繁! 狂ば人か繁! 自分は直ぐ此名が決して初対面の名でないと覚つた。何でも、自分の記憶の底に沈んで居る石いし塊ころの一つの名も、たしか﹃高沼繁﹄で、そして此名が、たしか或る狂きや人うじんの名であつた様だ。――自分が恁う感じた百分の一秒時、忽ち又一事件の起るあつて、少からず自分を驚かせた。
今迄自分の立つて居る石橋に土下座して、懐ふと中ころの赤あか児ごに乳を飲ませて居た筈の女乞食が、此時卒にはかに立ち上つた。立ち上るや否や、茨おどろの髪をふり乱して、帯もしどけなく、片手に懐ふと中ころの児を抱き、片手を高くさし上げ、裸はだ足しになつて駆け出した、駆け出したと見るや否や、疾風の勢を以て、かの声無く静かに練つて来る葬列に近づいた。近づいたナと思ふと、骨の髄までキリ〳〵と沁む様な、或る聴取り難き言葉、否、叫声が、嚇かつと許り自分の鼓膜を突いた。呀あツと思はず声を出した時、かの声無き葬列は礑はたと進行を止めて居た、そして、棺を担いだ二人の前の方の男は左の足を中ち有うに浮うかして居た。其爪つま端さきの処に、彼かの穢きたない女乞食がと許り倒れて居た。自分と並んで居る一団の少年は、口々に、声を限りに、﹃あれヤー、お夏だ、お夏だツ、狂ばか女をなごだツ。﹄と叫んだ。
﹃お夏﹄と呼ばれた彼の女乞食が、或る聴取り難い言葉を一声叫んで、棺に取縋つたのだ。そして、彼の担いで居る男に蹴倒されたのだ、この非常なる活劇は、無論真の一転瞬の間に演ぜられた。
噫ああ、噫、この﹃お夏﹄といふ名も亦、決して初対面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石いし塊ころの一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂きや女うじよの名であつた様だ。
以上二つの旧知の名が、端なく我が頭あた脳まの中でカチリと相触れた時、其一刹那、或る荘厳な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた。
自分は今、茲に霎しば時らく、五年ねん前ぜんの昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、処は矢張此の新山祠畔の伯母が家。
史学研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辞した日の夕方、この伯母が家に着いて、晩くれゆく秋の三みつ日か四よつ日か、あかぬ別れを第二の故郷と偕ともに惜み惜まれたのであつた。
一ひと夜よ、伯母やお苑さんと随分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは遠をち近こちに一番鶏の声を聞く頃であつたが、翌くる朝は怎どうしたものか、例になく早く目が覚めた。枕まく頭らもとの障子には、わづかに水を撒いた許りの薄うす光あかりが、声もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に気を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ〳〵、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛さな然がら初陣の暁と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥ふし床どを離れぬのを、何か安逸を貪る所業の様に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに静かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ様に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、颯さと心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。
井戸ある屋をく後ごへ廻ると、此処は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の広葉や、紫の色褪あせて茎許りの茄子の、痩せた骸むく骨ろを並べてゐる畝や、抜き残された大根の剛こはばんた葉の上に、東しの雲のめの光が白々と宿つて居た。否いやこれは、東雲の光だけではない、置き余る露の珠が東雲の光と冷かな接くち吻づけをして居たのだ。此野菜畑の突当りが、一重の木もく槿げが垣きによつて、新山堂の正一位様と背中合せになつて居る。満天満地、として脈搏つ程の響もない。
顔を洗ふべく、静かに井戸に近ちかづいた自分は、敢て喧かしましき吊車の音に、この暁あか方つきがたの神々しい静しづ寂けさを破る必要がなかつた。大きい花みか崗げい石しの台に載つた洗面盥には、見よ見よ、溢こぼれる許り盈なみ々なみと、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲れい瓏ろうとして銀水の如く盛つてあるではないか。加しか之のみならず、此一面の明鏡は又、黄こが金ねの色のいと鮮かな一ひと片ひらの小扇をさへ載せて居る。――すべての木の葉の中で、天あめが下の王きさ妃いの君とも称ふべき公い孫て樹ふの葉、――新山堂の境内の天あま聳そそる母はは樹ぎの枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり〳〵と舞ひ離れて来たものであらう。
自分は唯恍くわうとして之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて魂無む何か有うの境に逍さま遙よふといふ心地ではない。謂はば、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る様な心地だ。
較や々や霎しば時しして、自分は徐おもむろに其一ひと片ひらの公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一ひと滴つ二ふた滴つの銀しろがねの雫を口の中に滴たらした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端に載せた。
顔を洗つてから、可なる成べく音のせぬ様に水を汲み上げて、盥の水を以も前との如く清く盈なみ々なみとして置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前の如くそれに浮べた。
恁かくして自分は、云ふに云はれぬ或る清浄な満足を、心一杯に感じたのであつた。
起き出でた時よりは余程明るくなつたが、まだ〳〵日の出るには程がある。家の中でも、隣とな家りでも、その隣とな家りでも、誰一人起きたものがない。自分は静かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼あ方ち此こ方ちと歩いて居た。
だん〳〵進んで行くと、突当りの木槿垣の下に、山の端はなれた許りの大満月位な、シツポリと露を帯びた雪白の玉キヤ菜ベーヂが、六む個つ七なな個つ並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり実割れるばかり豊ふくよかな趣を見せて居る此﹃野菜の王﹄を、少なからず心に嬉しんだ。
不ふ図と、何か知ら人の近寄る様なけはひがした。菜園満地の露のひそめき乎か? 否々、露に声のある筈がない。と思つて眼を転じた時、自分はひやりと許り心を愕おどろかした。そして、呼い吸きをひそめた。
前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稲荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か数尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稲荷社の背面には、高い床下に特別な小せう龕がんが造られてある。これは、夜な〳〵正一位様の御使なる白狐が来て寝る処とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干ほし鯡にしん、乃ない至しは強こは飯いひの類の心籠めた供くぶ物つを入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣を透すかして、此白狐の寝殿を内部まで覗ひ見るべき地位に立つて居たのだ。
然し、自分のひやりと許り愕いたのは、敢て此処から牛の様な白狐が飛び出したといふ訳ではなかつた。
此古い社殿の側そく縁えんの下を、一人の異装した男が、破やれ草ざう履りの音も立てずに、此こな方たへ近づいて来る。脊のヒヨロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬に些さの血色もない、塵ご埃みだらけの短かい袷を着て、穢よごれた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帯を締めて、赤い木綿の截き片れを頸に捲いて、……俯向いて足の爪尖を瞠みつめ乍ら、薄うす笑らわらひをして近づいて来る。
自分は一目見た丈けで、此異装の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪気な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々喪さう狗くの如く市中を彷うろ徨ついて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何か索もとむるものの如く同じ道を幾度も〳〵往来して居る男である事は、自分のよく知つて居る処で、又、嘗て彼が不来方城頭に跪ひざまづいて何か呟やき乍ら天の一方を拝んで居た事や、或る夏の日の真昼時、恰度課業が済んでゾロ〳〵と生徒の群り出づる時、中学校の門前に衛兵の如く立つて居て、出て来る人ひとり〳〵に慇いん懃ぎんな敬礼を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の県知事の令夫人が、招魂社の祭礼の日に、二人の令嬢と共に参拝に行かれた処が、社前の大広場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい浅黄色の破やれ風ふろ呂し敷きを物をも云はず其盛装した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不かか拘はらず、常に此新山堂下の白びや狐つこ龕がんを無賃の宿として居るといふ事も亦、自分の聞き知つて居た処である。
異装の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして、可成彼に暁さとられざらむ様に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の挙動に注目した。
薄笑をして俯向き乍ら歩いてくる彼は、軈やがて覚束なき歩あし調どりを進めて、白狐龕の前まで来た。そして、礑はたと足を止めた。同時に﹃ウツ﹄と声を洩して、ヒヨロ高い身体を中腰にした。ヂリ〳〵と少すこ許しづつ少許づつ退あと歩しざりをする。――此名状し難き道化た挙動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。
殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。
今迄毫がうも気が付かなんだ、此処にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一ひと色いろに穢よごれはてた、肩揚のある綿入を着て、グル〳〵巻にした髪には、よく七なな歳つ八や歳つの女の児の用ゐる赤い塗櫛をチヨイとして、二はた十ちの上を一つ二つ、頸筋は垢で真黒だが、顔は円くて色が白い…………。
これと毫が厘り寸法の違はぬ女が、昨日の午ひる過すぎ、伯母の家の門に来て、﹃お頼だんのまうす、お頼だんのまうす。﹄と呼んだのであつた。伯母は台所に何か働いて居つたので、自分が﹃何ど家この女客ぞ﹄と怪しみ乍ら取次に出ると、﹃腹が減つて腹が減つて一足も歩かれなエハンテ、何どう卒か何か……﹄と、いきなり手を延べた。此処へ伯母が出て来て、幾片かの鳥目を恵んでやつたが、後で自分に恁かう話した。――アレはお夏といふ女である。雫しづ石くいしの旅宿なる兼かね平ひら屋や︵伯母の家の親類︶で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が来ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに従つて段々愚かさが増して来た。此年の春早く、連つれ合あひに死別れたとかで独ひと身りも者のの法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め〳〵、幾いく等ら叱つても嚇おどしても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶ひよ然つこり帰つて来た。が其時はモウ本当の愚ば女かになつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の礼さへ云はなんだ。半年有余の間、何をして来たかは無論誰も知る人はないが、帰つた当座は二十何円とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして来たのであらう。此盛岡に来たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日彼あ様あして人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも﹃お頼だんのまうす、腹が減つて、﹄だ。モウ確すつ然かり普通の女でなくなつた証拠には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅べにをつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚どん処に寝るんですかネー。――
此お夏は今、狭い白狐龕の中にベタリと坐つて、ポカンとした顔を入口に向けて居たのだ。余程早くから目を覚まして居たのであらう。
中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする様に、唇を尖らして一声﹃フウー﹄と哮いがんだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
お夏も亦何と思つたか、卒にはかに身を動かして、斜に背せなを繁に向けた。そして何やら探す様であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀オヤと思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ唇へ塗りつけた。そして、チヨイト恥かしげに繁の方に振向いて見た。
繁はビク〳〵と其身を動かした。
お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
繁はグツと喉を鳴らした。
繁の気色の較や々や動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少すこ許し捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ〳〵と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。
自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛さな然がら、ヒマラヤ山さんあたりの深い深い万仭の谷の底で、巌いはほと共に年を老とつた猿共が、千年に一度演やる芝居でも行つて見て居る様な心地。
お夏が顔の崩れる許りニタ〳〵〳〵と笑つた時、繁は三度声を出して﹃ウツ﹄と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分は辞ことばを知らぬ。
お夏は猶ニタ〳〵と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側そば縁えんの下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場とこ所ろへ。
坦たる広庭の中央には、雲を凌しのいで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛装を凝こらして居た。葉といふ葉は皆黄金の色、暁の光の中で微こゆ動るぎもなく、碧々として薄うつすり光つ沢やを流した大おほ天ぞ蓋らに鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛さな然がら金こん色じきの雲を被きて立つ巨人の姿である。
二人が此大公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口くち疾どに囁いた。お夏は頷うなづいた様である。
忽ち極めて頓狂な調子外れな声が繁の口から出た。
﹃ヨシキタ、ホラ〳〵。﹄
﹃ソレヤマタ、ドツコイシヨ。﹄
とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。
踊といつても、元より狂人の乱舞である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。と衝き当つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打ぶつ衝つかつて度を失ふ事もある。そして、恁かういふ事のある毎に、二人は腹の底から出る様な声で笑つて〳〵、笑つて了へば、﹃ヨシキタホラ〳〵﹄とか、﹃ソレヤマタドツコイシヨ﹄とか、﹃キタコラサツサ﹄とか調子をとつて、再び真面目に踊り出すのである。
※さや々さや﹇#﹁王+倉﹂、54-下-20﹈と声あつて、神の笑ゑまひの如く、天上を流れた。――朝風の動き初そめたのである。と、巨人は其被きて居る金色の雲を断ちぎり断つて、昔ツオイスの神が身を化けした様な、黄金の雨を二人の上に降らせ始めた。嗚呼、嗚呼、幾千万片と数の知れぬ金地の舞の小扇が、縺もつれつ解けつヒラ〳〵と、二人の身をも埋むる許り。或ものは又、見えざる糸に吊らるる如く、枝に返らず地に落ちず、光つやある風に身を揉ませて居る。空に葉の舞、地の人の舞! 之を見るもの、上なるを高しとせざるべく、下なるを卑ひくしとせざるべし。黄金の葉は天上の舞を舞ふて地に落つるのだ。狂人繁と狂女お夏とは神の御庭に地上の舞を舞ふて居るのだ。
突如、梵ぼん天てんの大光明が、七彩赫かく灼しやくの耀かがやきを以て、世界開かい発ほつの曙の如く、人にん天てん三界を照破した。先づ、雲に隠れた巨人の頭かしらを染め、ついで、其金色の衣を目も眩くらめく許ばかりに彩り、軈やがて、普あまねく地上の物又物を照し出した。朝日が山の端を離れたのである。
見よ、見よ、踊りに踊り、舞ひに舞ふお夏と繁が顔のかがやきを。痩せこけて血色のない繁は何処へ行つた? 頸筋黒くポカンとしたお夏は何処へ行つた? 今此処に居るのはこれ、天そらの日の如くかがやかな顔をした、神の御庭の朝の舞に、遙か下界から撰び上げられた二人の舞人である。金色の葉がしきりなく降つて居る。金色の日光が鮮かに照して居る。其葉其日光のかがやきが二人の顔を恁かう染めて見せるのか? 否、然さうではあるまい。恐らくは然ではあるまい。
若し然とすると、それは一種の虚偽である。此荘厳な、金色燦然たる境地に、何で一点たりとも虚偽の陰影の潜むことが出来やう。自分は、然でないと信ずる。
全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの声で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、﹃狂者は天の寵児だと、プラトーンが謂つた。﹄と。
お夏が声を張り上げて歌つた。
﹃惚れたーアー惚れたーのーオ、若松様アよーオー、ハア惚れたよーツ。﹄
﹃ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。﹄
と繁が次いだ。二人の天の寵児が測り難き全智の天に謝する衷心の祈祷は、実に此の外に無いのであらう。
電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた光景は、宛さな然がら幾千万片の黄金の葉が、さといふ音もなく一時に散り果てたかの様に、一瞬にして消えた。が此一瞬は、自分にとつて極めて大切なる一瞬であつた。自分は此一瞬に、目前に起つて居る出来事の一すべ切てを、よく〳〵解釈することが出来た。
疾風の如く棺に取縋つたお夏が、蹴られてと倒れた時、懐の赤児が﹃ギヤツ﹄と許り烈しい悲鳴を上げた。そして此悲鳴が唯一声であつた。自分は飛び上る程喫きつ驚きやうした。ああ、あの赤児は、つぶされて死んだのではあるまいか。…………
(以下続出)
〔「明星」明治三十九年十二月号〕