一
理と髪こ師やの源助さんが四年振で来たといふ噂が、何か重大な事件でも起つた様に、口から口に伝へられて、其午ひる後すぎのうちに村中に響き渡つた。 村といつても狭いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺もつれて逶うね![※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)](../../../gaiji/1-92/1-92-52.png)
![※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)](../../../gaiji/2-92/2-92-68.png)
![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
二
それは盆が過ぎて二十日と経たぬ頃の事であつた。午ひる中なか三時間許りの間は、夏の最もな中かにも劣らぬ暑気で、澄みきつた空からは習そよとの風も吹いて来ず、素足の娘共は、日に焼けた礫こいしの熱いのを避けて、軒下の土の湿りを歩くのであるが、裏畑の梨の樹の下に落ちて死ぬ蝉の数と共に、秋の香かをりが段々深くなつて行く。日ひの出で前の水汲に素すあ袷はせの襟元寒く、夜は村を埋めて了ふ程の虫の声。田といふ田には稲の穂が、琥珀色に寄せつ返しつ波打つてゐたが、然し、今年は例年よりも作が遙ずつと劣つてゐると人々が呟こぼしあつてゐた。 春から、夏から、待ちに待つた陰暦の盂うら蘭ぼ盆んが来ると、村は若い男と若い女の村になる。三晩続けて徹よど夜ほしに踊つても、猶踊り足らなくて、雨でも降れば格別、大抵二十日盆が過ぎるまでは、太鼓の音に村中の老とし人より達が寝つかれぬと口説く。それが済めば、苟いやしくも病人不具者でない限り、男といふ男は一同泊とま掛りがけで東ひが嶽しだけに萩刈に行くので、娘共の心が訳もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。それも例年ならば、収とり穫いれ後ごの嫁取婿取の噂に、嫉やき妬もち交りの話の種は尽きぬのであるけれども、今年の様に作が悪くては、田畑が生いの命ちの百姓村の悲さに、これぞと気の立つ話もない。其処へ源助さんが来た。 突いき然なり四年振で来たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服みな装りの立派なのに二度驚かされて了つた。万よろづの知識の単純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村で村長様とお医者様と、白井の若旦那の外冠る人がない。絵ゑ甲か斐ひ絹きの裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹やは布らか物もので、角帯も立派、時計も立派。中にもお定の目を聳そばだたしめたのは、づつしりと重い総革の旅行鞄であつた。 宿にしたのは、以も前と一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の区別なく其家うちを見舞つたので、奥の六畳間に三分心の洋ラン燈プは暗かつたが、入交り立交りする人の数は少くなく、潮しほの様な虫の音も聞えぬ程、賑かな話声が、十一時過ぐるまでも戸そ外とに洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の総領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て来て、源助さんの話を低こご声ゑに取次した。 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服装の立派なのが一際品格を上げて、挙もの動ごしから話振から、昔よりは遙かに容体づいてゐた。随つて、其昔﹁お前めえ﹂とか﹁其そ方ご﹂とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆﹁お前めえ様さま﹂と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて来たので、汽車の帰かへ途りの路すがら、奈ど何うしても通とほ抜りぬけが出来なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髪店を開いてゐて、熟じゆ練くれんな職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程急いそがしいといふ事であつた。 此話が又、響を打つて直ぐに村中に伝はつた。 理髪師といへば、余り上等な職業でない事は村の人達でも知つてゐる。然し東京の理髪師と云へば、怎どうやら少し意味が別なので、銀座通りの写真でも見た事のある人は、早速源助さんの家の立派な事を想像した。 翌あく日るひは、各々自分の家に訪ねて来るものと思つて、気早の老とし人よりなどは、花茣蓙を押入から出して炉辺に布いて、渋茶を一掴み隣とな家りから貰つて来た。が、源助さんは其日朝から白井様へ上つて、夕方まで出て来なかつた。 其晩から、かの立派な鞄から出した、手拭やら半襟やらを持つて、源助さんは殆んど家毎に訪ねて歩いた。 お定の家へ来たのは、三日目の晩で、昼には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態わざ々わざ後廻しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麦煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた。銀座通りの賑ひ、浅草の水族館、日比谷の公園、西郷の銅像、電車、自動車、宮様のお葬とむ式らひ、話は皆想像もつかぬ事許りなので、聞く人は唯もう目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
三
翌あく日るひは、例いつもの様に水を汲んで来てから、朝草刈に行かうとしてると、秋の雨がしと〳〵降り出して来た。廐には未だ二日分許り秣まぐさがあつたので、隣家の松太郎の姉に誘はれたけれども、父おや爺ぢが行かなくても可いと言つた。仕様事なさに、一日門口へ立つて見たり、中へ入つて見たりしてゐたが、蛇の目傘をさした源助さんの姿が、時々彼あち方らこ此ち方らに見えた。禿頭の忠太爺おぢと共に、お定の家の前を通つた事もあつた。其時、お定は何故といふ事もなく家の中へ隠れた。 一日降つた蕭しめやかな雨が、夕方近くなつて霽あがつた。と穢きたならしい子供等が家々から出て来て、馬糞交りの泥ぬか濘るみを、素足で捏こね返して、学校で習つた唱歌やら流はや行りう歌たやらを歌ひ乍ら、他愛もなく騒いでゐる。 お定は呆ぼん然やりと門口に立つて、見るともなく其それを見てゐると、大工の家のお八重の小さな妹が駆けて来て、一寸来て呉れといふ姉の伝こと言づてを伝へた。 また曩いつ日かの様に、今夜何処かに酒宴でもあるのかと考へて、お定は慎しやかに水みづ潦たまりを避よけながら、大工の家へ行つた。お八重は欣いそ々いそと迎へたが、何か四あた辺りを憚る様子で、密そつと裏口へ伴れて出た。 ﹃何処さ行えげや?﹄と大工の妻は炉辺から声をかけたが、お八重は後も振向かずに、 ﹃裏さ。﹄と答へた儘。戸を開けると、鶏が三羽、こツこツといひながら中に入つた。 二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭もたれ乍ら、雨に湿つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密ひそ々ひそ語つてゐた。 お八重の話は、お定にとつて少しも思設けぬ事であつた。 ﹃お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨ゆべ夜な、東京の話を。﹄ ﹃聞いたす。﹄と穏かに言つて、お八重の顔を打うち瞶まもつたが、何故か﹁東京﹂の語ことば一つだけで、胸が遽にはかに動悸がして来る様な気がした。 稍ややあつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論思設けぬ相談ではあつたが、然し、盆過のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全まる然で縁のない話でもない。切しきりなしに騒ぎ出す胸に、両手を重ねながら、お定は大きい目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「口+云」、第3水準1-14-87)](../../../gaiji/1-14/1-14-87.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「女+亭」、第3水準1-15-85)](../../../gaiji/1-15/1-15-85.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
四
目を覚ますと、弟のお清書を横に逆さかしまに貼つた、枕の上の煤けた櫺れん子じが、僅かに水の如く仄めいてゐた。誰もまだ起きてゐない。遠をち近こちで二番鶏が勇ましく時をつくる。けたたましい羽搏きの音がする。 お定はすぐ起きて、寝ね室まにしてゐる四畳半許りの板敷を出た。手探りに草裏を突かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾や秣たを欲しがる馬の、羽目板を蹴る音がゴト〳〵と鳴る。大桶を二つ担いで、お定は村むら端はづれの樋の口といふ水汲場に行つた。 例いつになく早いので、まだ誰も来てゐなかつた。漣さざなみ一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤ちりばめた黎しの明のめの空が深く沈んでゐた。清洌な秋の暁の気が、いと冷かに襟元から総身に沁む。叢にはまだ夢の様に虫の音がしてゐる。 お定は暫しば時し水を汲むでもなく、水鏡に写つた我が顔を瞶めながら、呆ぼん然やりと昨ゆう夜べの事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと〳〵遠い所になつて了つて、自分が怎して其そん![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
五
夕方、一寸でも他よ所そながら暇乞に、学校の藤田を訪ねようと思つたが、其その暇ひまもなく、農家の常とて夕餉は日が暮れてから済ましたが、お定は明日着て行く衣服を畳み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寝ね室まにしてゐる四畳半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて来て、さり気ない顔をして入つたが、 ﹃明日着て行ぐ衣きも服のすか?﹄と、態わざと大きい声で言つた。 ﹃然うす。明日着て行くで、畳み直してるす。﹄と、お定も態と高く答へて、二人目を見合せて笑つた。 お八重は、もう全すつ然かり準した備くが出来たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して来たが、此こ家この入口の暗い土間に隠して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萌もえ黄ぎの大風呂敷を拡げて、手廻りの物を集め出したが、衣服といつても唯たつた六七枚、帯も二筋、娘心には色々と不満があつて、この袷は少し老ふけてゐるとか、此袖口が余り開き過ぎてゐるとか、密ひそ々ひそ話ばなしに小一時間もかゝつて、漸やう々やう準備が出来た。 父も母もまだ炉辺に起きてるので、も少すこ許し待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は些ちよつと躊躇してから、立つと明あかりとりの煤けた櫺れん子じに手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、 ﹃この人しとアまあ、可ええ工夫してること。﹄と笑つた。お定も心持顔を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其処から戸そ外とへ吊り下された。格子は元の通りに直された。 二人はそれから権作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷かな夜風が、耳を聾する許りな虫の声を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りなき心うら悲がなしい感情を起させた。所々降つて来さうな秋の星、八日許りの片かた割われ月づきが浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中なか央ほ程どの郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう湿うる声みごゑになつて、断きれ々ぎれに語りながら、他よ所そながら家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟さま行ようた。路で逢ふ人には、何い日つになく忸なれ々なれしく此方から優しい声を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※ハン※ケチ﹇#﹁巾+扮のつくり﹂、U+5E09、143-下-3﹈﹇#﹁巾+兌﹂、U+5E28、143-下-3﹈を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何処ともない笑声、子供の泣く声もする。とある居酒屋の入口からは、火あか光りが眩まばゆく洩れて、街み路ちを横さまに白い線を引いてゐたが、虫の音も憚からぬ酔うた濁だみ声ごゑが、時々けたゝましい其店の嬶の笑声を伴つて、喧嘩でもあるかの様に一町先までも聞える。二人は其騒々しい声すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。 それでも、二時間も歩いてるうちには、気の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタ〳〵と家路に帰るお定の眼には、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人を彼是と数へてゐた。此こ村こから東京へ百四十五里、其そん![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
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六
其翌あく朝るあさは、グツスリと寝込んでゐる所をお八重に起されて、眠い眼を擦こすり〳〵、麦八分の冷飯に水を打ぶつ懸かけて、形かた許ばかり飯を済まし、起きたばかりの父母や弟に簡単な挨拶をして、村端れ近い権作の家の前へ来ると、方々から一人二人水汲の女共が、何れも眠ねむ相さうな顔をして出て来た。荷馬車はもう準した備くが出来てゐて、権作は嬶かかあに何やら口小言を言ひながら、脚の太い黒あ馬をを曳き出して来て馬車に繋いでゐた。 ﹃何処へ﹄と問ふ水汲共には﹃盛岡へ﹄と答へた。二人は荷馬車に布いた茣ご蓙ざの上に、後向になつて行儀よく坐つた。傍には風呂敷包。馬車の上で髪を結つて行くといふので、お八重は別に櫛やら油やら懐中鏡やらの小さい包みを持つて来た。二人共木綿物ではあるが、新しい八丈擬まがひの縞の袷を着てゐた。 軈やがて権作は、ピシヤリと黒あ馬をの尻を叩いて、﹃ハイ〳〵﹄と言ひながら、自分も馬車に飛乗つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。 二人は、まだ頭あた脳まの中が全すつ然かり覚めきらぬ様で、呆ぼん然やりとして、段々後方に遠ざかる村の方を見てゐたが、道路の両側はまだ左程古くない松並木、暁の冷さが爽かな松風に流れて、叢の虫の音は細い。一町許り来た時、村端れの水汲場の前に、白手拭を下げた男の姿が見えた。それは、毎朝其処に顔洗ひに来る藤田であつた。お定は膝の上に握つてゐた新しい※ハン※ケチ﹇#﹁巾+扮のつくり﹂、U+5E09、146-下-7﹈﹇#﹁巾+兌﹂、U+5E28、146-下-7﹈を取るより早く、少し伸び上つてそれを振つた。藤田は立止つて凝じ然つと此こつ方ちを見てゐる様だつたが、下げてゐた手拭を上げたと思ふ間に、道み路ちは少し曲つて、並木の松に隠れた。と、お定は今の素振を、お八重が何と見たかと気がついて、心うら羞はづかしさと落がつ胆かりした心地でお八重の顔を見ると、其美しい眼には涙が浮かんでゐた。それを見ると、お定の眼にも遽にはかに涙が湧いて来た。 盛岡へ五里を古い新しい松並木、何本あるか数へた人はない。二人が髪を結つて了ふまでに二里過ぎた。あとの三里は権作の無駄口と、二人が稚い時の追おも憶ひで談がたり。 理と髪こ師やの源助さんは、四年振で突然村に来て、七日の間到る所に驩くわ待んたいされた。そして七日の間東京の繁華な話を繰返した。村の人達は異様な印象を享けて一同多少づゝ羨望の情を起した。もう四五日も居たなら、お八重お定と同じ志願を起す者が、三人も五人も出たかも知れぬ。源助さんは満腹の得意を以て、東京見物に来たら必ず自分の家うちに寄れといふ言葉を人毎に残して、七日目の午後に此村を辞した。好かう摩まのステイシヨンから四十分、盛岡に着くと、約の如く松本といふ宿屋に投じた。 不とり取あへ敢ず湯に入つてると、お八重お定が訪ねて来た。一緒に晩餐を了へて、明日の朝は一番汽車だからといふので、其晩二人も其宿屋に泊る事にした。 源助は、唯たつた一本の銚子に一時間も費かかりながら、東京へ行つてからの事――言葉を可なる成べく早く改めねばならぬとか、二人がまだ見た事のない電車への乗方とか、掏す摸りに気を付けねばならぬとか、種いろ々いろな事を詳くどく喋つて聞かして、九時頃に寝る事になつた。八畳間に寝具が三つ、二人は何れへ寝たものかと立つてゐると、源助は中央の床へ潜り込んで了つた。仕方がないので、二人は右と左に離れて寝たが、夜中になつてお定が一寸目を覚ました時は、細めて置いた筈の、自分の枕まく辺らもとの洋らん燈ぷが消えてゐて、源助の高い鼾いびきが、怎やら畳三畳許り彼むか方うに聞えてゐた。 翌朝は二人共源助に呼起されて、髪を結ふも朝飯を食ふも![※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)](../../../gaiji/1-14/1-14-76.png)
七
途中で機関車に故障があつた為、三人を載のせた汽車が上野に着いた時は、其日の夜の七時過であつた。長い長いプラツトフオーム、潮うしほの様な人、お八重もお定も唯小さくなつて源助の両袂に縋つた儘、漸やう々やうの思で改札口から吐出されると、何百輛とも数知れず列んだ腕くる車ま、広場の彼方は昼を欺く満まん街がいの燈とも火しび、お定はもう之だけで気を失ふ位おツ魂たま消げて了つた。 腕くる車まが三輛、源助にお定にお八重といふ順で駆け出した。お定は生れて初めて腕車に乗つた。まだ見た事のない夢を見てゐる様な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何処へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り、唯![※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)](../../../gaiji/2-12/2-12-81.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
八
翌あく朝るあさは、枕辺の障子が白み初めた許りの時に、お定が先づ目を覚ました。嗚呼東京に来たのだつけ、と思ふと、昨晩の足の麻しび痺れが思出される。で、膝頭を伸ばしたり曲かがめたりして見たが、もう何ともない。階し下たではまだ起きた気けは色ひがない。世の中が森と沈まり返つてゐて、腕くる車まの上から見た雑踏が、何処かへ消えて了つた様な気もする。不図、もう水汲に行かねばならぬと考へたが、否いや、此処は東京だつたと思つて幽かに笑つた。それから二三分の間は、東京ぢや怎して水を汲むだらうと云ふ様な事を考へてゐたが、お八重が寝返りをして此方へ顔を向けた。何夢を見てゐるのか、眉と眉の間に皺を寄せて苦し相に息をする。お定はそれを見ると直ぐ起き出して、声低くお八重を呼び起した。 お八重は、深く息を吸つて、パツチリと目を開けて、お定の顔を怪けげ訝んさ相うに見てゐたが、 ﹃ア、家えに居えだのでヤなかつたけな。﹄と言つて、ムクリと身を起した。それでもまだ得心がいかぬといつた様に周あた囲りを見廻してゐたが、 ﹃お定さん、俺おらア今夢見て居えだつけおんす。﹄と甘える様な口調。 ﹃家えの方のすか?﹄ ﹃家えの方のす。ああ、可おつ怖かながつた。﹄とお定の膝に投げる様に身を恁せて、片手を肩にかけた。 其夢といふのは恁かうで。――村で誰か死んだ。誰が死んだのか解らぬが、何でも老とし人よりだつた様だ。そして其葬式が村役場から出た。男も女も、村中の人が皆野送の列に加つたが、巡査が剣の束つかに手をかけながら、﹃物を言ふな、物を言ふな﹄と言つてゐた。北の村むら端はづれから東に折れると、一町半の寺道、其半ば位まで行つた時には、野送の人が男許り、然も皆洋服を着たり紋付を着たりして、立派な帽子を冠つた髯の生えた人達許りで、其中に自分だけが腕車の上に縛られてゆくのであつたが、甚どん![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「口+愛」、第3水準1-15-23)](../../../gaiji/1-15/1-15-23.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)](../../../gaiji/1-14/1-14-76.png)
![※(「目+扮のつくり」、第3水準1-88-77)](../../../gaiji/1-88/1-88-77.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
九
第ふ二つ日か目めは、お吉に伴れられて、朝八時頃から見物に出た。 先づ赤門、﹃恁こん![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)](../../../gaiji/2-12/2-12-81.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
十
目が覚めると、障子が既に白んで、枕まく辺らもとの洋燈は昨よ晩べの儘に点いてはゐるけれど、光が鈍く※じ々じ﹇#﹁虫+慈﹂、U+45F9、159-下-8﹈と幽かな音を立ててゐる。寝過しはしないかと狼うろ狽たへて、すぐ寝床から飛起きたが、誰も起きた様子がない。で、昨日まで着てゐた衣きも服のは手早く畳んで、萌黄の風呂敷包から、荒い縞の普ふだ通ん着ぎ︵郷く里にでは無論普通に着なかつたが︶を出して着換へた。帯も紫がかつた繻しゆ子すののは畳んで、幅狭い唐縮緬の丸帯を締めた。 奥様が起きて来る気配がしたので、大急ぎに蒲団を押入に入れ、劃しきりの障子をあけると、 ﹃早いね。﹄と奥様が声をかけた。お定は台所の板の間に膝をついてお叩じ頭ぎをした。 それからお定は吩いひ咐つけに随つて、焜こん炉ろに炭を入れて、石油を注いで火をおこしたり、縁側の雨戸を繰つたりしたが、 ﹃まだ水を汲んでないぢやないか?﹄ と言はれて、台所中見廻したけれども、手桶らしいものが無い。すると奥様は、 ﹃それ其処にバケツが有るよ。それ、それ、何処を見てるだらう、此この人しとは。﹄と言つて、三た和た土きになつた流場の隅を指した。お定は、指された物を自分で指して、叱られたと思つたから顔を赤くしながら、 ﹃これでごあんすか?﹄と奥様の顔を見た。バケツといふ物は見た事がないので。 ﹃然うとも。それがバケツでなくて何ですかよ。﹄と稍やや御機嫌が悪い。 お定は、恁こん![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
![※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)](../../../gaiji/2-13/2-13-28.png)
![※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)](../../../gaiji/2-94/2-94-57.png)
十一
お八重お定の二人が、郷里を出て十二日目の夕、忠太に伴れられて、上野のステイシヨンから帰郷の途に就いた。
貫通車の三等室、東京以北の諸あら有ゆる国々の訛を語る人々を、ぎつしりと詰めた中に、二人は相並んで、布袋の様な腹をした忠太と向合つてゐた。長い〳〵プラツトフオームに数限りなき掲あか燈りが昼の如く輝き初めた時、三人を乗せた列車が緩やかに動ゆるぎ出して、秋の夜の暗やみを北に一路、刻一刻東京を遠ざかつて行く。
お八重はいはずもがな、お定さへも此時は妙に淋しく名残惜しくなつて、密こそ々こそと其事を語り合つてゐた。此日は二人共廂髪に結つてゐたが、お定の頭にはリボンが無かつた。忠太は、棚の上の荷物を気にして、時々其を見上げ〳〵しながら、物珍らし相に乗合の人々を、しげ〳〵見比べてゐたが、一時間許り経つと、少し身体を曲かがめて、
﹃尻けつア痛くなつて来た。﹄と呟いた。﹃汝うなア痛くねえが?﹄
﹃痛くねえす。﹄とお定は囁いたが、それでも忠太がまだ何か話欲しさうに曲かがんでるので、
﹃家の方でヤ玉菜だの何ア大きくなつたべなす。﹄
﹃大きくなつたどもせえ。﹄と言つた忠太の声が大きかつたので、周あた囲りの人は皆此方を見る。
﹃汝うなア共どア逃げでがら、まだ二十日にも成んめえな。﹄
お定は顔を赤くしてチラと周囲を見たが、その儘返事もせず俯うつむいて了つた。お八重は顔を蹙めて厭いま々いまし気に忠太を横目で見てゐた。
十時頃になると、車中の人は大抵こくり〳〵と居睡を始めた。忠太は思ふ様腹を前に出して、グツと背うし後ろに凭れながら、口を開けて、時々鼾をかいてゐる。お八重は身体を捻つて背中合せに腰掛けた商人体の若い男と、頭を押おつ接つけた儘、眠つたのか眠らぬのか、凝としてゐる。
窓の外は、機関車に悪い石炭を焚くので、雨の様な火の子が横様に、暗を縫うて後方に飛ぶ。懐手をして、円い頤おとがひを襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷く里にを逃げ出して以来の事をそれからそれと胸に数へてゐた。お定の胸に刻みつけられた東京は、源助の家と、本郷館の前の人波と、八百屋の店と、への字口の鼻先が下向いた奥様とである。この四つが、目めま眩ぐろしき火あか光りと轟々たる物音に、遠くから包まれて、ハツと明るい。お定が一生の間、東京といふ言葉を聞く毎に、一人胸の中に思出す景色は、恐らく此四つに過ぎぬであらう。
軈やがてお定は、懐手した左の指を少し許り襟から現して、柔かい己が頬を密そつと撫でて見た。小野の家で着て寝た蒲団の、天鵞絨の襟を思出したので。
瞬く間、窓の外が明るくなつたと思ふと、汽車は、トある森の中の小さい駅を通パツ過スした。お定は此時、丑之助の右の耳みみ朶たぼの、大きい黒子を思出したのである。
新太郎と共に、三人を上野まで送つて呉れたお吉は、さぞ今頃、此間中は詰らぬ物入をしたと、寝物語に源助にこぼしてゐる事であらう。
(了)
〔生前未発表・明治四十一年五月〜六月稿〕