啄木鳥
いにしへ聖者が雅アデ典ンの森に撞つきし、
光ぞ絶えせぬみ空の﹃愛の火﹄もて
鋳いにたる巨おほ鐘がね、無むき窮ゆうのその声をぞ
染めなす﹃緑﹄よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘あへげる塵ちりの疾はや風ち
よせ来て、若やぐ生いの命ちの森の精の
聖きよきを攻むやと、終ひね日もす、啄きつ木つき鳥どり、
巡りて警いま告しめ夏なつ樹きの髄ずゐにきざむ。
往ゆきしは三みち千と年せ、永えい劫ごふ猶なほすすみて
つきざる﹃時﹄の箭や、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路の栄はえと云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧かて、
奇くしかるつとめを小さき鳥のすなる。
隠沼
夕影しづかに番つがひの白しら鷺さぎ下り、
槇まきの葉枯かれたる樹こし下たの隠こも沼りぬにて、
あこがれ歌ふよ。――﹃その昔かみ、よろこび、そは
朝あさ明あけ、光の揺ゆり籃ごに星と眠り、
悲しみ、汝なれこそとこしへ此こ処こに朽くちて、
我が喰はみ啣ふくめる泥ひづ土ちと融とけ沈みぬ。﹄――
愛の羽寄り添ひ、青せい瞳どううるむ見れば、
築つい地ぢの草床、涙を我も垂たれつ。
仰あふげば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩あやなき夢ゆめの如ごとく、
ほそ糸ほのかに水みぞ底こに鎖くさりひける。
哀歓かたみの輪めぐ廻りは猶なほも堪へめ、
泥ひづ土ちに似る身ぞ。ああさは我が隠沼、
かなしみ喰はみ去る鳥さへえこそ来めや。
マカロフ提督追悼の詩
︵明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之これを迎撃せむとし、倉さう皇くわう令れいを下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙つたなかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦また艦と運命を共にしぬ。︶
嵐よ黙もだせ、暗やみ打つその翼つばさ、
夜の叫びも荒あり磯その黒潮も、
潮にみなぎる鬼きこ哭くの啾しう々しうも
暫しばし唸うなりを鎮しづめよ。万軍の
敵も味方も汝が矛ほこ地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪なみ狂ふ、
弦月遠きかなたの旅りよ順じゆ口んこう。
ものみな声を潜めて、極こく冬とうの
落日の威に無人の大砂漠
劫ごふ風ふう絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、――敗者の怨うらみか、暗濤の
世をくつがへす憤ふん怒ぬか、ああ、あらず、――
血汐を呑のみてむなしく敗艦と
共に没かくれし旅順の黒こく裡おうり、
彼が最後の瞳ひとみにかがやける
偉霊のちから鋭どき生の歌。
ああ偉おほいなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡こて天んの孤英雄。
君を憶おもへば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵かた乍きながらに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、︵鬼神も跪ひざまづけ、
敵も味方も汝なが矛ほこ地に伏せて、
マカロフが名に暫しばしは鎮まれよ。︶
ああ偉おほいなる敗将、軍神の
選びに入れる露ロ西シ亜アの孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。
東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運さだ命めに、
君は起たちにき、み神の名を呼びて――
亡びの暗やみの叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路しばしの勇みを負ふ如く。
壮さかんなるかなや、故国の運命を
担になうて勇む胡こて天んの君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣しや頭うとう高く日を射す提てい督とく旗。――
その旗、かなし、波間に捲まきこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫なづるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。
四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
︵海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝なが鋒ほこ地ちに伏せて、
マカロフが名に暫しばしは跪ひざまづけ。︶
万雷波に躍をどりて、大軸を
砕くだくとひびく刹せつ那なに、名にしおふ
黄海の王者、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒こく裡おうり、
血汐を浴びて、腕をば拱こまぬきて、
無限の憤怒、怒どた濤うのかちどきの
渦巻く海に瞳を凝こらしつつ、
大提督は静かに沈みけり。
ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭かしら擡もたぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺のこせる秘密の黒潮よ、
ああ汝なれ、かくてこの世の九おく億ご劫ふ、
生と希望と意ちか力らを呑み去りて
幽暗不知の界さかひに閉ぢこめて、
如い何かに、如何なる証あかしを﹃永遠の
生の光﹄に理ことわり示すぞや。
汝なが迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝なれが目に
映るが如く値のなきものか。
ああ休やんぬかな。歴史の文字は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。――
彼は沈みぬ、無むげ間んの海の底。
偉霊のちからこもれる其その胸に
永えい劫ごふたえぬ悲痛の傷うけて、
その重おも傷きずに世界を泣かしめて。
我はた惑まどふ、地上の永えい滅めつは、
力を仰ぐ有情の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流るて転ん現ずる尊たふときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、願ねがはくは
君が名、我が詩、不滅の信まこととも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。
水みな無づ月きくらき夜よ半はの窓に凭より、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂きや瀾うら裡んり、
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿を観みるが如ごと、
頭かうべは垂れて、熱ねつ涙るゐせきあへず。
君はや逝ゆきぬ。逝きても猶なほ逝かぬ
その偉おほいなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒あり磯そのくろ潮も、
敵も味方もその額ぬか地に伏せて
火ほの焔ほの声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫しばしは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。
眠れる都
︵京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍いらかの谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻へき陬すうの間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて々さうさう筆を染めけるもの乃すなはちこの短調七聯れんの一詩也。﹁枯林﹂より﹁二つの影﹂までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき︶
鐘鳴りぬ、
いと荘おご厳そかに
夜は重し、市いちの上。
声は皆眠れる都
瞰みお下ろせば、すさまじき
野の獅し子しの死にも似たり。
ゆるぎなき
霧の巨おほ浪なみ、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百もも船ふねの、
それの如ごと、燈ほか影げ洩もるる。
みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最をは後りの日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。
百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天あめ地つちを霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天あめの夢地にそそがず。
声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。
ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸うなりか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名なご残りの声か。
我が窓は、
濁にごれる海を
遶めぐらせる城の如、
遠とほ寄よせに怖れまどへる
詩うたの胸守りつつ、
月光を隈くまなく入れぬ。
東京
かくやくの夏の日は、今
子し午ご線の上にかかれり。
煙突の鉄の林や、煙皆、煤すす黒ぐろき手に
何をかも攫つかむとすらむ、ただ直ひたに天をぞ射させる。
百もも千ちあ網み巷ちま巷たちまたに空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂せき寞ばくよ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。
千万の甍いらか今日こそ色もなく打鎮しづまりぬ。
紙の片白き千ひらを撒まきて行く通とほ魔りまありと、
家家の門や又窓まど、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀まれに。――かくて、骨泣く寂じや滅くめつ死の都、見よ。
かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。
何いづ方かたゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯はて、天路に聳そそる
層楼の屋根にとまれり。唖あ唖あとして一声、――これよ
凶まが鳥どりの不浄の烏からす。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨ゑん恨こんの毒どく嘴はしの鳥。
鳥啼なきぬ、二度。――いかに、其声の猶なほ終らぬに、
何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧ささげし童顔の翁おきなあり。ああ、
黒くろ長なが裳も静かに曳ひくや、寂寞の戸に反こだ響まして、
沓くつの音全都に響き、唯一人大路を練れり。
有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。
吹つの角ぶえ
みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻くゆる五さつ月きの丘の
柏かしは木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
東しの白のめの空のほのめき――
天あめの扉との真白き礎もとゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木こ陰さ地ぢに寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼すずし。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心く角だ吹けば、
吹き、また吹けば、
渓たに川がはの石いは津つ瀬せはしる水音も
あはれ、いのちの小こつ鼓づみの鳴の遠とほ音ねと
ひびき寄す。
ああ静しづ心ごころなし。
丘のつづきの草の上へに
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
凹くぼみの埓かこひの中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき来る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直ひたに走りぬ。
暁の声する方かたの丘の辺へに。――
ああ歓よろこびの朝の舞、
新にひ乳ちの色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞めぐり、
すずしき風に啼なき交かはし、また小こを躍どりぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦またこの世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
行かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。
年老いし彼は商人
年老いし彼は商あき人びと。
靴くつ、鞄かばん、帽子、革かは帯おび、
ところせく列ならべる店に
坐り居て、客のくる毎ごと、
尽ひね日もすや、はた、電燈の
青く照る夜も更ふくるまで、
てらてらに禿はげし頭を
礼ゐやあつく千ちた度び下げつつ、
なれたれば、いと滑なめらかに
数数の世辞をならべぬ。
年老いし彼はあき人。
かちかちと生いの命ちを刻む
ボンボンの下の帳場や、
簿ぼき記だ台いの上に低たれたる
其その頭、いと面おも白しろし。
その頭低たるる度たび毎ごと、
彼が日は短くなりつ、
年こそは重みゆきけれ。
かくて、見よ、髪の一ひと条すぢ
落ちつ、また、二条、三条、
いつとなく抜けたり、遂つひに
面白し、禿げたる頭。
その頭、禿げゆくままに、
白壁の土どざ蔵うの二階、
黄金の宝の山は
︵目もはゆし、暗やみの中にも。︶
積まれたり、いと堆うづたかく。
埃エジ及プトの昔の王は
わが墓の大だい金ピラ字ミ塔ドを
つくるとて、ニルの砂原、
十万の黒くろ兵つは者ものを
二はた十と年せも役えきせしといふ。
年老いしこの商あき人びとも
近つ代の栄の王者、
幾人の小僧つかひて、
人の見ぬ土蔵の中に
きづきたり、宝の山を。――
これこそは、げに、目もはゆき
新あら世たよの金ピラ字ミ塔ドならし、
霊たま魂しひの墓の標しるしの。
辻
老いたるも、或は、若きも、
幾十人、男女や、
東より、はたや、西より、
坂の上、坂の下より、
おのがじし、いと急せはしげに
此こ処こ過ぐる。
今わが立つは、
海を見る広き巷ちまたの
四の辻。――四の角なる
家は皆いと厳いかめしし。
銀行と、領事の館やかた、
新聞社、残る一つは、
人の罪嗅かぎて行くなる
黒犬を飼へる警察。
此処過ぐる人は、見よ、皆、
空高き日をも仰あふがず、
船多き海も眺めず、
ただ、人の作れる路みちを、
人の住む家を見つつぞ、
人とこそ群れて行くなれ。
白はく髯ぜんの翁おきなも、はたや、
絹きぬ傘がさの若き少をと女めも、
少年も、また、靴鳴らし
煙たば草こ吹く海産商も、
丈たけ高き紳士も、孫を
背に負へる痩やせし媼おうなも、
酒さか肥ぶとり、いとそりかへる
商あき人びとも、物乞ふ児こ等も、
口笛の若き給仕も、
家持たぬ憂うき人人も。
せはしげに過ぐるものかな。
広き辻、人は多けど、
相知れる人や無からむ。
並行けど、はた、相逢あへど、
人は皆、そしらぬ身振、
おのがじし、おのが道をぞ
急ぐなれ、おのもおのもに。
心なき林の木木も
相凭よりて枝こそ交かはせ、
年毎に落ちて死ぬなる
木の葉さへ、朝風吹けば、
朝さやぎ、夕風吹けば、
夕語りするなるものを、
人の世は疎まばらの林、
人の世は人なき砂漠。
ああ、我も、わが行くみちの
今日ひと日、語る伴と侶もなく、
この辻を、今、かく行くと、
思ひつつ、歩み移せば、
けたたまし戸の音ひびき、
右手なる新聞社より
駆け出でし男幾いく人たり、
腰の鈴高く鳴らして
駆け去りぬ、四の角より
四の路おのも、おのもに。
今五月、霽はれたるひと日、
日の光曇らず、海に
牙きば鳴らす浪もなけれど、
急がしき人の国には
何事か起りにけらし。
無題
札さつ幌ぽろは一オト昨ツ日ヒ以来
ひき続きいと天気よし。
夜に入りて冷たき風の
そよ吹けば少し曇くもれど、
秋の昼、日はほかほかと
丈タケひくき障しや子うじを照し、
寝ころびて物を思へば、
我が頭ボーッとする程
心地よし、流りう離りの人も。
おもしろき君の手紙は
昨日見ぬ。うれしかりしな。
うれしさにほくそ笑みして
読み了をへし、我が睫マツ毛ゲには、
何しかも露の宿りき。
生ナマ肌ハダの木の香くゆれる
函館よ、いともなつかし。
木をけづる木コツ片パダ大イ工クも
おもしろき恋やするらめ。
新らしく立つ家々に
将来の恋人共が
母カアちゃんに甘へてや居む。
はたや又、我がなつかしき
白村に翡ひす翠ゐ白鯨
我が事を語りてあらむ。
なつかしき我が武ターちゃんよ、――
今イマ様ヤウのハイカラの名は
敬慕するかはせみの君、
外とつ国くにのラリルレ語ことば
酔ヱヒ漢ドレの語でいへば
m…m…my dear brethren !――
君が文読み、くり返し、
我が心青柳町の
裏長屋、十八番地
ムの八にかへりにけりな。
世の中はあるがままにて
怎どうかなる。心配はなし。
我たとへ、柳に南かぼ瓜ちや
なった如、ぶらりぶらりと
貧乏の重い袋を
痩腰に下げて歩けど、
本職の詩人、はた又
兼職の校正係、
どうかなる世の中なれば
必ずや怎かなるべし。
見よや今、﹁小樽日にち々にち﹂
﹁タイムス﹂は南瓜の如き
蔓つるの手を我にのばしぬ。
来むとする神かみ無なづ月きには、
ぶらぶらの南瓜の性さがの
校正子、記者に経ヘア上ガり
どちらかへころび行くべし。
一オト昨ツ日ヒはよき日なりけり。
小樽より我が妻せつ子
朝に来て、夕べ帰りぬ。
札幌に貸家なけれど、
親切な宿の主カ婦ミさん、
同室の一少年と
猫の糞ふん他室へ移し
この室を我らのために
貸すべしと申出でたり。
それよしと裁可したれば、
明後日妻は京子と
鍋なべ、蒲ふと団ん、鉄てつ瓶びん、茶ちや盆ぼん、
携たづさへて再び来り、
六畳のこの一室に
新家庭作り上ぐべし。
願くは心休めよ。
その節に、我来きし後のちの
君達の好意、残らず
せつ子より聞き候ひぬ。
焼跡の丸井の坂を
荷車にぶらさがりつつ、
︵ここに又南瓜こそあれ、︶
停車場に急ぎゆきけん
君達の姿思ひて
ふき出しぬ。又其心
打忍び、涙流しぬ。
日高なるアイヌの君の
行先ぞ気にこそかかれ。
ひょろひょろの夷い希き薇びの君に
事問へど更にわからず。
四日前に出しやりたる
我が手紙、未だもどらず
返事来ず。今の所は
一向に五ごり里むち霧ゆ中うなり。
アノ人の事にしあれば、
瓢へう然ぜんと鳥の如くに
何処へか翔かけりゆきけめ。
大タイしたる事のなからむ。
とはいへど、どうも何だか
気にかかり、たより待たるる。
北の方旭川なる
丈高き見習士官
遠からず演習のため
札幌に来るといふなる
たより来ぬ。豚鍋つつき
語らむと、これも待たるる。
待たるるはこれのみならず、
願くは兄弟達よ
手紙呉くれ。ハガキでもよし。
函館のたよりなき日は
何となく唯我一人
荒れし野に追放されし
思ひして、心クサクサ、
訳わけもなく我がかたはらの、
猫の糞癪しやくにぞさわれ。
猫の糞可かは哀いさ相うなり、
鼻下の髯、二分ブ程のびて
物いへば、いつも滅茶苦茶、
今も猶なほ無官の大夫、
実際は可哀相だよ。
札幌は静けき都、
秋の日のいと温かに
虻あぶの声おとづれ来なる
南ミナ窓ミマド、うつらうつらの
我が心、ふと浮ウハ気キ出ダし、
筆とりて書きたる文フミは
見よやこの五七の調よ、
其昔、髯のホメロス
イリヤドを書きし如くに
すらすらと書きこそしたれ。
札幌は静けき都、夢に来よかし。
反歌
白村が第二の愛マナ児ゴ笑むらむかはた
泣くらむか聞かまほしくも。
なつかしき我が兄オト弟ドヒよ我がために
文かけ、よしや頭か掻かずも。
北の子は独ドイ逸ツ語習ふ、いざやいざ
我が正タダ等シラよ競クラ駒ベゴマせむ。
うつらうつら時すぎゆきて隣室の
時計二時うつ、いざ出社せむ。
四十年九月二十三日
札幌にて 啄木拝
並木兄 御侍史
無題
一年ばかりの間、いや一と月でも
一週間でも、三日でもいい。
神よ、もしあるなら、ああ、神よ、
私の願ひはこれだけだ。どうか、
身から体だをどこか少しこはしてくれ痛くても
関かまはない、どうか病気さしてくれ!
ああ! どうか……
真白な、柔やはらかな、そして
身体がフウワリと何処までも――
安心の谷の底までも沈んでゆく様な布ふと団んの上に、いや
養老院の古畳の上でもいい、
何も考へずに︵そのまま死んでも
惜しくはない︶ゆっくりと寝てみたい!
手足を誰か来て盗んで行っても
知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!
どうだらう! その気持は! ああ。
想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著きてゐる
この著物を――重い、重いこの責任の著物を
脱ぎ棄すてて了しまったら︵ああ、うっとりする!︶
私のこの身体が水素のやうに
ふうわりと軽くなって、
高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――﹁雲ひば雀りだ﹂
下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!
――――――――――――――
死だ! 死だ! 私の願ひはこれ
たった一つだ! ああ!
あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、
ありがたい神様、あ、ちょっと!
ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!
殺すくらゐのお慈じ悲ひがあるなら!
新らしき都の基礎
やがて世界の戦いくさは来らん!
不フエ死ニツ鳥クスの如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府が毀こぼたれん!
戦いくさは永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
然しかる後、あはれ、然る後、我等の
﹃新らしき都﹄はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬ蒼あをき、蒼き空の下もとに!
夏の街の恐怖
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌レー条ルの心。
母親の居睡ねむりの膝ひざから辷すり下りて、
肥ふとった三みつ歳つばかりの男の児が
ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。
八百屋の店には萎なえた野菜。
病院の窓の窓まど掛かけは垂たれて動かず。
閉とざされた幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥け子しの花が死しに落おち、
生なま木きの棺ひつぎに裂ひ罅びの入る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙かう蝠もり傘がさをさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物言はぬ脚かつ気け患者の葬はうむりの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠あく呻び噛かみしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵ごみ溜ための蔭に行く。
起きるな
西日をうけて熱くなった
埃ほこりだらけの窓の硝ガラ子スよりも
まだ味気ない生いの命ちがある。
正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛けず脛ねを照し、
その上に蚤のみが這はひあがる。
起きるな、超きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。
何処かで艶なまめいた女の笑ひ声。
事ありげな春の夕暮
遠い国には戦いくさがあり……
海には難破船の上の酒さか宴もり……
質屋の店には蒼あをざめた女が立ち、
燈あか火りにそむいてはなをかむ。
其そ処こを出て来れば、路次の口に
情ま夫ぶの背を打つ背低い女――
うす暗がりに財さい布ふを出す。
何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀よどんだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。
遠い国には沢山の人が死に……
また政庁に推おし寄よせる女壮士のさけび声……
海には信あは夫うど翁りの疫病……
あ、大だい工くの家では洋ラン燈プが落ち、
大工の妻が跳とび上る。
騎馬の巡査
絶たえ間まなく動いてゐる須田町の人ひと込ごみの中に、
絶間なく目を配って、立ってゐる騎き馬ばの巡査――
見すぼらしい銅像のやうな――。
白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜くぐりぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行く。
数ある往来の人の中には
子供の手を曳ひいた巡査の妻もあり
実さ家とへ金借りに行った帰り途みち、
ふと此この馬上の人を見上げて、
おのが夫の勤労を思ふ。
あ、犬が電車に轢ひかれた――
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……
はてしなき議論の後︵一︶
暗き、暗き曠くわ野うやにも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電いなづまのほとばしる如ごとく、
革命の思想はひらめけども――
あはれ、あはれ、
かの壮さう快くわいなる雷らい鳴めいは遂つひに聞え来らず。
我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其そ処こにては、物みなそのところを得べし。
されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――
はてしなき議論の後︵二︶
われらの且かつ読み、且つ議論を闘たたかはすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露ロ西シ亜アの青年に劣らず。
われらは何を為なすべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳こぶしに卓たくをたたきて、
‘Vヴ NナAロRーOドD !’と叫び出づるものなし。
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
此こ処こにあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂つひに勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
ああ、蝋らふ燭そくはすでに三度も取りかへられ、
飲のみ料ものの茶ちや碗わんには小さき羽虫の死しが骸い浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
ココアのひと匙さじ
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪うばはれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲なげつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有もつかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷さめたるココアのひと匙さじを啜すすりて、
そのうすにがき舌した触ざはりに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
書斎の午後
われはこの国の女を好まず。
読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零こぼしたる葡ぶだ萄うし酒ゆの
なかなかに浸しみてゆかぬかなしみ。
われはこの国の女を好まず。
激論
われはかの夜の激論を忘るること能あたはず、
新らしき社会に於おける﹁権力﹂の処置に就つきて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹ひき起されたる激論を、
かの五時間に亙わたれる激論を。
﹁君の言ふ所は徹頭徹尾煽せん動どう家かの言なり。﹂
かれは遂つひにかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆ほゆるごとくなりき。
若もしその間に卓テエ子ブルのなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭かうべを撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲みなぎれるを見たり。
五月の夜はすでに一時なりき。
或ある一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋らふ燭そくの火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬ほほに、
雨をふくめる夜風の爽さはやかなりしかな。
さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指ゆび環わを忘るること能あたはず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心しんを截きるとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女ぢよは初めよりわが味方なりき。
墓碑銘
われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶なほ尊敬す――
かの郊外の墓地の栗くりの木の下に
かれを葬はうむりて、すでにふた月を経たれど。
実げに、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。
或る時、彼の語りけるは、
﹁同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能あたはず、
されど、我には何い時つにても起たつことを得る準備あり。﹂
﹁彼の眼は常に論者の怯けふ懦だを叱しつ責せきす。﹂
同志の一人はかくかれを評しき。
然しかり、われもまた度たび度たびしかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。
かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且かつ快活に働き、
暇ひまあれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙たば草こも酒も用ゐざりき。
かれの真しん摯しにして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈はげしき熱に冒をかされて、病の床に横よこたはりつつ、
なほよく死にいたるまで譫うは話ごとを口にせざりき。
﹁今日は五月一日なり、われらの日なり。﹂
これ、かれのわれに遺のこしたる最後の言葉なり。
この日の朝あした、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕ゆふべ、かれは遂に永き眠りに入れり。
ああ、かの広き額ひたひと、鉄てつ槌つゐのごとき腕かひなと、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼まなこつぶれば今も猶わが前にあり。
彼の遺ゐが骸いは、一個の唯ゆゐ物ぶつ論ろん者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓ぼひ碑め銘いは左の如し、
﹁われは何い時つにても起つことを得る準備あり。﹂
古びたる鞄をあけて
わが友は、古びたる鞄かばんをあけて、
ほの暗き蝋らふ燭そくの火ほか影げの散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
﹁これなり﹂とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭よりて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。
げに、かの場末の
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭くさきアセチレン瓦ガ斯スの漂ただよへる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひょろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽たちまち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひょろろと鳴れば、
声嗄かれし説明者こそ、
西洋の幽いう霊れいの如ごとき手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。
されど、そは、三みと年せも前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰たれ彼かれの心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――
我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓うゑて空むなしきこと、
今も猶なほ昔のごとし。
わが友は、今日も
我が友は、今日もまた、
マルクスの﹁資キヤ本プタ論ル﹂の
難解になやみつつあるならむ。
わが身のまはりには、
黄色なる小さき花はな片びらが、ほろほろと、
何な故ぜとはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。
もう三十にもなるといふ、
身の丈たけ三尺ばかりなる女の、
赤き扇あふぎをかざして踊るを、
見みせ世も物のにて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。
それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。
明るき午後のものとなき静しづ心ごごろなさ。
家
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了をへて帰り来て、
夕ゆふ餉げの後の茶を啜すすり、煙たば草こをのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構かまへ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅い子すも。
この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎ごとに少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描ゑがきつつ、
ランプの笠かさの真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添そへ乳ぢする妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。
さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其そ処こに出て、
かの煙濃こく、かをりよき埃エジ及プト煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁ページを切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……
はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何い時つまでも棄すつるに惜をしきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。
飛行機
見よ、今日も、かの蒼あを空ぞらに
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。