大正十一年十月三十日、横浜市横浜尋常高等石川小学校では、例年の如く天長節の勅語奉読式を挙行した。 その翌日になって、第四年生一組の受持訓導S君は、同級生徒に向って、 ﹁皆さん、あなた方のお友達でありました石井茂男君が、お気の毒にも、一昨日の日曜に、歿なくなりました﹂ と云ったところで、生徒たちは承知しなかった。 ﹁先生、石井君は、昨日式場へ来ておりました﹂ ﹁嘘です、死んだなんて嘘です﹂ ﹁そんな事はありません、確かに歿くなりました﹂ ﹁否いえ、嘘です、昨日、天長節に来ておりました﹂ そこでS君も不思議に思って詳しく訊いてみた。 ﹁昨日、式の始まる前に、僕と銀いち杏ょうの枝が折れてる話をしました﹂ ﹁運動場で草ぞう履りを入れた袋を振り廻していました﹂ ﹁石井君は帽子の庇ひさしが破れたのを、糸で綴って冠かぶっていました﹂ と云うような事を云った。それで、 ﹁それでは、石井さんの体に触った方はありませんか﹂ と云って訊いたが、それは何人も触ったと云う者はなかった。 ﹁それでは、石井さんを見て、変に思った方はありませんか﹂ と云ってみたが、それも何た人れも変に思ったと云う者がなかった。そこでS君は、石井の死亡した事情を談はなしたので、生徒たちは初めて石井の死を知り、天長節に見たのはその陰影であったと云う事を知った。 石井は二十九日の日曜日の午後、山下町の税関桟橋へ一人で魚を釣りに往っていた。その時そこを監視していた警官の一人は、少年の釣魚に来ている事を見ていたが、ちょっと他へ眼をやっているうちに、その姿が見えなくなったので、どうしたのかと思って、その場へ往ったところで水の上に下駄と帽子が浮んでいた。警官は驚いて人を呼び集め、水底を捜索した結果、その死体を発見して警察署へ運んだが、翌日三十日の午前八時になって、子供を尋ねあぐんだ石井の父親が捜索願に来たので、はじめて石井の死が判明した。