小泉八雲の書いた怪談の中には、赤坂に出る目も鼻もないのっぺらぼうの川かわ獺うそのことがあるが、築地の周まわ囲りの運河の水にも数たく多さんの川獺がいて、そこにも川獺の怪異が伝わっていた。 元逢あい引びき橋ばしなどのあった三角の水みず隈くまには、今度三角の不思議な橋が架かかったが、あの辺あたりは地震比ごろまで川獺の噂があって逢引橋の袂たもとにあった瓢ひさ屋ごやなどに来る歌げい妓しゃを恐れさした。瓢屋の婢じょちゅうは川獺の悪いた戯ずらをする晩を知っていて、お座敷が終って歌妓達が近くもあるし、川風に吹かれて逢引橋の袂から河かし岸っぷ縁ちを帰ろうとすると、 ﹁ちょっと待ってらっしゃい﹂ と云って、二階へあがって逢引橋の橋むこうの袂にあった共同便所の明りに注意するのであった。そこには一つの小さな石油ランプが燭ともっていたが、その燈ひがすなおに光っているときには、 ﹁今晩、だいじょうぶよ﹂ と云った。もし、その燈がちらちらして暗くなったり明るくなったりしていると、 ﹁今晩は、だめよ、すこし、へんよ﹂ と云って、その燈のちらちらする晩は川獺の出る晩であるから、聞かずに河かし岸っぷ縁ちの方でも往こうものならきっと怪しいことに逢あったので、歌げい妓しゃ達は姉さんの詞ことばに従って、そんな晩には後あともどりであるけれども、築地橋の方に往き、それから今の電車通りを曲って、歌舞伎座前から釆うね女めば橋しを渡って帰って往くのであった。 某ある夜よ、築地の待まち合あいへ客に呼ばれて往った某ある妓おんなが、迎えの車が来ないので一人で歩いて帰り、釆女橋まで往ったところで、川が無くなって一めんに草くさ茫ぼう茫ぼうの野原となった。彼女ははっと思って立ちすくんだ。彼女も川獺の悪いた戯ずらのことを知っているので、こんな時に立ち騒いではいけないと思って、そのままそこへ蹲しゃがんだのであった。すると暫しばらくして遠くの方から燈が一つ見えて来た。燈が見えるとほっとして気が強くなった。そのとたんに、 ﹁どうしたのです、姐ねえさん﹂ と云って声をかけられた。それは己じぶんを迎いに来ている車夫であった。