遠とお江とうみの御おま前えざ崎きへ往ったのは大正十四年の二月二日であった。岬には燈台があって無線電信の設備もあった。その燈台の燈光は六十三万燭で十九浬かいり半の遠距離に及ぶ回転燈であった。私は燈台の中を見せてもらって、その後あとで窓の外へ眼をやった。沖あい遥はるかに霞かすみの中に、敷しき根ねらしい島と大島らしい島のどんよりと浮んでいるのを見た。岬の東端の海中には、御前岩、俗に沖の御ごぜ前んと云われている岩があって、蒼あお味みだった潮の上にその頭を現あらわしていた。その沖の御前の西にはドド根と云う一大暗あん礁しょうがあって、その附近は古来数限りなく船舶を呑のんでいる危険区域であった。私を案内してくれた事務員の一人は奇怪な話をしてくれた。 それは、夏から秋の初めへかけてのことであるが、真まっ紅かな血のように染まった太陽が、荒れ狂っている波と波の間に落ちる時分になると、西の方から真紅な帆をあげた帆ほま前えせ船んが来るので、 ﹁真まっ紅かな帆を捲まいた船だ、不思議な船だ、どこへ往くだろう﹂ と思っていると、その船は恐ろしく静しずかに走って来て、ドド根の暗礁の方へ往くのであった。 ﹁大変だ、ドド根の礁はえじゃ﹂ と思って心配している間もなく真紅な帆はそのまま煙のように消えるのであった。 ﹁不思議なことだ、鬼き魅みが悪い﹂ と云って鬼魅を悪がるのであった。その真紅な帆の帆ほま前えせ船んが見えだしたのは、明治三十三四年比ごろ、日本郵船会社の品川丸と云う古ぼけた千五百噸トン位の帆前船がドド根の辺あたりで沈没してから間もなくであった。