宿の主てい将しゅを対あい手てにして碁ごを打っていた武士は、その碁にも飽あいて来たので主翁を伴つれて後うしろの庭へ出た。そこは湯本温泉の温泉宿であった。摺すり鉢ばちの底のような窪くぼ地ちになった庭の前には薬やげ研んのように刳えぐれた渓たに川がわが流れて、もう七つさがりの輝かがやきのない陽ひが渓川の前むこ方うに在る山を静しずかに染めていた。山の麓ふもとの渓川の岸には赤と紫の躑つつ躅じが嫩わか葉ばに刺しし繍ゅうをしたように咲いていた。武士の眼は躑躅の花に往った。躑躅の花は美しかった。武士の眼は山の方に往った。それは低い山ではあるが蒼あおい天びろ鵞う絨どのように樹木の茂った峰であった。武士はその山の形が気にいった。武士は主翁の方を見て云った。 ﹁あの山へ往ってみようか﹂ ﹁あ、あれでございますか﹂ 主翁はちょっと困ったと云うような顔をした。 ﹁夕ゆう飯はんには、ちょっと間まがある、往ってみよう、腹こなしにはいい﹂ ﹁あすこは、お山の方達だちの遊ぶ処でございます、七つすぎましては﹂ ﹁なに、お山の方達じゃ、お山の方達とは、天てん狗ぐか、木すだ精まか﹂と、云って武士は笑って嘲あざけるように、 ﹁わしはまた、ただの山かと思ってたら、そんな処か、それならなおさら面白いじゃないか﹂ ﹁そ、そ、そんなことを、おっしゃるものではございません。歿なくなった私の父親も云うておりました、知らずに入ると何もないが、それを知って入ると、何かしらお咎とがめがある、強情なお客様が入って往って、帰らなかったこともあれば、迷い込んでお遊びになっておるところへゆきかかって、病やまいになった者もあるそうでございます、お客様、私はでたらめは申しません﹂ ﹁主てい翁しゅ、わしの腰に何があるか見てくれ、わしも天下の御ごれ連ん枝し、紀きし州ゅう侯こうの禄ろくをはんでいるものじゃ、天狗や木精がいると云うて、武士が一度云いだしたことが、後あとへ退ひかれるか、お前が恐ければ、わし一人で往く﹂ 武士は紀州から江戸の邸やしきへ往く路みちで、あまり急がなくてもいいから二三日滞在しているものであった。律りち義ぎも者のの主翁は己じぶんの家の客を恐ろしい処へやって、もし万一のことがあっては旅はた籠ごとしての瑕きずにもなると思ったので強しいて止めようとした。 ﹁それでもお客様、この箱根のお山には、昔から……そうした方様達がお遊びでございますから﹂ ﹁そんなばかげたことが、世の中にあってたまるものか、お前はおれ、武士がひとたび云いだしたからには、後あとへ退ひくことはならん﹂ ﹁それでもお客様﹂ ﹁いやならん、わしは往く﹂ 武士はそのまま庭の右に廻って往った。そこには竹の栞しお戸りどがあった。武士は渓たに川がわの縁へりに往くに一二度そこを出では入いりしていたのでかっては知っていた。武士は栞しお戸りどを開けて外に出た。そこは草や雑ぞう木きの生えた小こや藪ぶになっていて、すぐ右手に箱根八里の街道へ脱ぬける間ぬけ道みちがあって、それがだらだらとおりて土どば橋しを渡り、前ぜん岸がんの山やま裾すそを上流に向ってうねうねと通じていた。武士は小藪を脱けて間道に出、それから土橋を渡って間道から岐わかれて左手の方へ往っている小こみ径ちをあがろうとした。 そこには栗のような木の枝が眼の前に垂れていた。武士は見るともなしにそれに眼をやった。それには枝に後こう半はん身しんを巻きつけた鼠ねずみ色の縞しま蛇へびの丈たけの一間けん位もありそうなのが半はん身しんを躍おどりあがるように宙に浮かしながら、武士の眼の前に鎌首をもったてて赤い舌を見せていた。武士はちょっと立ちどまった。蛇はそのまま体を放はなして下に落ちて篠しの竹だけの茂りに隠れて往った。そのあたりは前ぜん岸がんから見ると草くさ山やまのようになっているが、人の背たけほどもあるような箱根名物の篠竹と樹木が絡みあっていた。武士はこんな山ではとても見はらしがきくまいと思った。武士はあがるのがおっくうになって来た。そのとき武士は踏みだした右の下げ駄たで、枯木のようなそれで柔やわらかなぐびりとしたものを踏みつけた。武士は不思議に思って一ひと足あしすさった。そこには三尺あまりもありそうにおもわれる黒い鱗うろこのぴかぴか光る胴体があった。武士の手は刀の柄つかに往った。蛇はおちつき払っているように動きだして、ざらざらと云う音をさしながら胴体を右の方へ脱いで往った。武士の手はまだ刀の柄にあった。と、蛇は尻しっ尾ぽの切れた青く生なまなました傷きず痕あとを見せながら姿を消してしまった。武士は気が注ついたように髯ひげを剃そった痕あとの蒼あおあおとした隻かた頬ほおに笑いを見せながら歩いた。 路みちは篠竹と樹の絡みあって谷底のようになった処をあがったりおりたりした。武士は時おり脚あし下もとに眼をやった。毒だみのような葉をした草が一面に生えていた。路の遥はるかの下の方で、どう、どう、ど、ど、どうと云うような音が聞えて来た。渡って来た渓たに川がわの音であろうか。 篠竹と樹木の絡みが次第に濃くなって来た。武士は両手にそれを押し分け押し分けして往った。分ける後あとから篠竹と樹木は音もなく絡みあった。武士は篠竹と樹木の絡みが濃くなるにしたがって勇気が出た。十町ばかり往ったと思う比ころ、天びろ鵞う絨どの峰の頂上が篠竹と樹木の絡みあった前方に夕陽を浴びて見えた。そこは平地になって樹木と篠竹の茂しげりが遠のいて一面に木の花が咲いていた。それは何の木とも名は判らないが、桜のような、椿つばきのような、木もく蓮れんのような、牡ぼた丹んのような、梅のような、躑つつ躅じのような、そうした花が一面に咲いていた。天びろ鵞う絨どの峰はその前に仮つき山やまのように畝うねりあがっていた。そこは窪くぼ地ちのようになって遠くの見はらしはなかったが、お花畑のように美しい場所であった。花の木には鶯うぐいすのような小鳥が枝から枝を飛んでいた。雲ひば雀りのようにきりりんりんと鳴きながら空にあがって往く小鳥もあった。空は霞かすみだってあがって往った鳥は、暫しばらく姿を消して鳴声ばかり聞えていたが、やがて勢いきおいよく斜ななめにおりて来て花の中に隠れた。林の下は青あお毛もう氈せんを敷いたように芝しば草くさが生えていた。武士はこんな佳いい処があるのに主てい翁しゅは何なんのよまよいごとを云ってるだろうかと思った。武士は下にさえこんな佳い処があるから、頂上にはまだ佳い処があるだろうと思った。武士は早く頂上へ往って日の暮れないうちに旅館へ帰ろうと思った。彼は前の方を見た。芝草のような草の間を流れている水の澄みきった流れが前を横ぎっていて、それには一枚石が橋のように架かかっていた。武士はその石を渡って花の林の中へ入って往った。花の枝から枝に移る小鳥、空にあがって往く小鳥の声、脳に浸しみるような花の匂におい。 僅わずか一町くらいしかないように見えていた花の林は長かった。武士は不思議に思いながら七八町ばかりも往ったが林を出はずれないので立ち停どまった。立ち停ったはずみに古い古い小さな門を見つけたのであった。 ﹁寺らしいぞ﹂ 武士の固くなっていた気もちがほぐれてしまった。武士は好い気もちになって門の中へ入って往った。それは一ひと室ましかないような小さな寺で、戸とじ締まりのない正面の見みつ附けの仏壇の上には黒く煤すすけた金かな仏ぶつが一つ見えていた。庭は荒れて雑草が生えていた。武士は何た人れかいないかと思って見附へ往った。そこは縁えん側がわもなかった。室へやには藺いむ莚しろのような黄きいろくなった筵を敷いてあった。武士の眼は再びゆくともなしに仏壇の上の仏像に往った。仏像の左の眼は潰つぶれていた。武士は未いまだかつて隻かた眼めの仏像を見たことがなかったし、またあるべきはずもないと思ったので、眼のせいではないかと思って見なおした。しかし、やっぱり仏像の左の眼は潰れているのであった。武士は不思議な仏像もあるものだと思って、ふと室の左の方へ眼をやった。そこには老僧と小僧が差向って碁ごを打っていた。老僧は痩やせてひょろひょろした体に鼠ねずみ色のどろどろした法ころ衣もをつけていた。武士は老僧に詞ことばをかけようと思った。左ひだ斜りななめにこちらを見ている老僧は右の眼が開あいて左の眼が潰れていた。武士はおかしくもあれば驚きもして見るともなしに小僧に眼をやった。右みぎ斜ななめになっている小僧も右の眼が潰れていた。 ﹁仏像も、和おし尚ょうも、小僧も、隻かた眼めとは何事だ、よくも揃ったものだ﹂ 武士は驚いて仏壇の方を見た。仏壇の側そばには羅らか漢んが立っていたがその羅漢像もそれぞれ一方の眼が潰れていた。武士はまた天井を見た。天井には群ぐん青じょうや朱の色の重おもどろんだ絵具で天てん女じょと鳳ほう凰おうを画かいてあったが、その天女も鳳凰も同じように一方の眼が潰れていた。武士はまた右の方に眼をやった。そこには古い絵具の剥はげかけた壁画があって、鶴つるや亀かめや雉き子じのようなものを画かいてあったがそれも悉ことごとく一方の眼が潰つぶれていた。左のほうの老僧と小僧のいる方の壁にも壁画があって、獅し子しや麒きり麟んのようなものが画いてあったがそれも隻かた方ほうの眼が潰れていた。武士はますます驚いたが強しいて気を張って老僧を見た。 ﹁ここは何と云う処かな﹂ 老僧は蒼あおい悲しそうな顔を顫ふるわすようにした。 ﹁はい、はい、ここは隻せき眼がん山ざん一いち目もく寺じと云う寺でございます、ここは人の来る処ではありません、どうしてここへ来なされた﹂ 老僧の詞ことばは小さなじめじめした泣くような詞であった。 ﹁そうか﹂ 武士は己じぶんで己の体がじゃんびりしたように思った。武士は心が落ちつかなかったがそのまま引返すことはその自尊心が許さなかった。武士はそのまま下げ駄たを脱いで上へあがり、つかつかと仏像の前へ往って懐ふところの財さい布ふから小粒の金かねを出してそれに供そなえた。 ﹁これでどうか、一方の眼も開けてください﹂ と、仏像ががっくりと黒い口を開けて、は、は、は、はと笑った。仏像についで羅らか漢ん像も、老僧も、天てん女じょも、鳳ほう凰おうも、孔くじ雀ゃくも、鶴も、雉子も、獅子も、麒麟も、人の画も、形のある物は皆大声に笑った。それは無む智ちな者を笑うおかしくてたまらないと云うような笑い方であった。武士の頭は恐れと驚きでぼうとなった。武士は這はうように起たちあがって逃げだして下におり、下げ駄たをそそくさと穿はいて門の外へ出た。もう外は微うす暗ぐらくなっていた。 ﹁旦那、旦那、籠かごは如いか何がでございます﹂ 武士は声をかけられて初めて吾われに返った。そこには一挺ちょうの山やま籠かごを据えて籠かご舁かきが休んでいた。武士は一刻も早く鬼き魅み悪い場所を離れたかった。 ﹁そうか、それでは湯本の宿屋までやってもらおうか﹂ 籠舁は相棒に声をかけた。 ﹁おい兄弟、旦那が載ってくださると云うぜ﹂ ﹁そいつはありがたいや﹂ 籠舁は肩をかえて呼いき吸づ杖えを持ちなおした。武士は傍に寄ってそれに乗ろうとして、見るともなしに前にいる籠舁の顔を見た。鼻の赤い恐こわそうなその籠舁の左の眼も潰つぶれていた。武士はもしやと思って後うしろの籠舁の顔を見た。その籠舁の左の眼も潰れていた。武士はまたびっくりしたが弱味を見せてはいけないと思ったので、強しいて傲ごう然ぜんとして籠に乗った。 ﹁おかしな奴ばかりだな﹂ すると後うしろの籠舁が云った。 ﹁旦那、わっしだちゃ、近道を往きます、眼を開けていると気もちが悪うございますから、ちょっと眼をつむってておくんなさい﹂ 武士は怪しいそぶりがあれば打ぶち放はなそうと思った。 ﹁そうか、つむっていよう﹂ 前の籠舁が云った。 ﹁ようがすかい、眼の二つある者は、あっちかこっちかに迷いますからね﹂ 武士は傲然として云った。 ﹁そんなことはどうでもよろしい、早くやれ﹂ 後うしろの籠舁がだめをおした。 ﹁それじゃ旦那、開けろと云うまでは、つむってておくんなさいよ、あけちゃだめですぜ﹂ ﹁よろしい﹂ 同時に籠は地を離れた。籠舁の掛声とともに武士は眼をつむって用心していた。路みちは凸でこ凹ぼこがないのか、それとも籠舁の足は宙を踏んでいるのか、すこしも踏みごたえがなかった。 籠は非常な勢いきおいで進んで往った。突き切って進む風の音が耳の後うしろのほうでびゅうびゅうと鳴った。武士は籠舁どもがどんな処をどんな容ふうにしてやっているだろうと思って、見たくもあれば不思議にも思ったが、約束があるので眼は開けなかった。 籠に羽が生えて飛んでいるように思われて来た。風も冬の風のように冷たくなってきた。耳はその風のために裂かれているように痛かった。 ﹁眼を開けてはならんぞ﹂ ﹁そうだ、もうすぐだから﹂ 籠舁の詞ことばは初めと打ってかわって威厳があった。籠足はすこしもゆるまなかった。耳の後うしろで鳴る風の音は嵐の音のように聞えてきた。武士はもう宿に著つくだろうかと思った。と、籠足はぴったり停まった。 ﹁それ著いた﹂ ﹁おりるがいい﹂ 武士は眼を開けた。同時に籠が傾いた。武士の体は下に落ちた。びっくりして夢の覚めたようになった武士は、己じぶんの体が暗い地の上に立っていることを知った。彼は手てあ荒らな籠舁の所しわ業ざを怒おこることも忘れて四あた方りを見まわした。そこは大きな邸やしきの前で、左右の長屋の武むし者ゃま窓どの隙すきから燈とも火しびが処どころ漏もれているのを見た。後うしろの方を見るとそこにも大きな邸の土どべ塀いがあった。人もぼつぼつ通っていた。 ﹁箱根にこんな処はない﹂ 武士は四あた辺りをじっと見たがどうしても場所の見当がつかなかった。二人伴つれの男が提ちょ燈うちんを持って左の方から来た。武士は声をかけた。 ﹁しょうしょう物を尋ねたいが、ここはどこであろう﹂ 提燈を持った男が足を停め提燈をあげて武士の顔を透すかすようにした。 ﹁ここは――の紀州さんの邸やし前きまえだよ﹂ ﹁なんと申す、――紀州さんの邸前、それではここは江戸か﹂ 武士は驚いた。対あい手ての男は伴れと顔を見合わすようにした。 ﹁江戸も江戸も大江戸の――町だよ﹂ ﹁そうか、ふん﹂ 武士は考え込んだ。そして、温泉宿の主てい翁しゅの云った山の方達に酷ひどい目に逢あわされたと云うことを知った。それとともに紀州藩の武士ともあろうものが、天てん狗ぐ木すだ精まのためにこんな目に逢あわされるとは、何たることだと思って口く惜やしかった。口惜しい一方で、もしこんなことが公おおやけの沙さ汰たにでもなろうものなら、どんなお咎とがめを蒙こうむるかも判らないと思った。それは一いっ身しん一いっ家かにかかわる大事であったが、しかし、幸いに夜よであって己じぶんさえ云わなければ何た人れも知っている者はなかった。武士は安心した。彼はつかつかと藩邸の小こも門んの口へ往った。 ﹁頼もう﹂ そこには門番がいた。 ﹁身どもは国おもてから使つかいにまいったものだ﹂ 武士は中へ入って手てつ続づきをふみ、己の住居することになっている長屋へ入った。長屋の両りょ隣うとなりには心安い人がいたが、もう夜よが更ふけているのでその夜よはそのまま寝ることにして寝た。そして、何かの拍子に眼をさましてみると有あり明あけの行あん燈どうの傍に人影があった。武士ははっと思った。それは痩やせてよぼよぼした鼠ねずみ色のどろどろした法ころ衣もを着た、見覚えのある蒼あおい顔の左の眼の潰つぶれている老僧であった。 ﹁おのれ﹂ 武士が刀に手をかけた。老僧の悲しそうな地の底からでも聴えて来るような小さな顫ふるいを帯びた声が聞えてきた。 ﹁そんなにいばったところで、人間は草の露つゆのようなものじゃ、いつどうなるか判るものでない﹂ ﹁何をッ﹂ 武士はいきなり刀を抜いて切りつけた。老僧の姿はそのまま煙のように消えた。武士は室へやの中を見てまわったがもう何もいないので刀を鞘さやに納めて寝た。そして、また何かの拍子に眼をさましてみるとまた彼かの老僧が行あん燈どうの側そばに坐っていた。老僧の泣くような悲しそうな地の底から聞えて来るような小さな声がまた聞えて来た。 ﹁人間の生いの命ちは草の露つゆのようなものじゃ、いつどうなるか判らない﹂ 武士はまた刀を抜いて切りつけた。老僧の姿はまた消えてしまった。 老僧の姿はその夜よをはじめとして武士の枕まく頭らもとにあらわれた。それがために武士は病気になってしまった。そうしているうちに老僧の姿は昼もあらわれて見舞に来ている人もそれを見るようになった。武士はだんだん衰弱して彼かの老僧のように痩やせて来たがとうとう死んでしまった。 その後その武士のいた長屋に入る者があると、きっと怪しいことがあった。