一
源吉は薄青い月の光を沿びて砂利の交つた砂路を歩いてゐた。左側は穂の出揃うた麦畑になつて右側は別荘の土手になつてゐた。土手には芝草が生えてその上に植ゑた薔薇の花が月の光にほの白く見えてゐた。源吉は人の足音がするのではないかと思つて又歩くことをやめて耳を澄ました。そして海岸の方へと低まつてゐる路の上を透かすやうにした。微な風波の音が南風気のある生温かい空気の中に滲んで聞えるばかりで他に何の物音もしなかつた。 源吉は又歩き出した。もうかなり更けてゐるので海岸へ出てゐる人はないと思つてゐるが、それでゐて村の人が来はしまいかと云ふ怖れが、彼をして何時までも耳を澄まさせてゐた。籠に入れられた小鳥のやうな境遇にゐる彼の女の住んでゐる別荘の傍を、夜遅く盗人かなんぞのやうに通るところを、村の人に見せることはこの上もない疚しいことであつた。 源吉はやゝ安心したので歩きながら延びあがるやうにして、土手越しに別荘の内を覗き込むやうにした。其処には黒い庭木の影があつてその先に霜の置いたやうに見える屋根瓦があつた。彼の足は自然と止まつた。そしてうつとりとして立つてゐたが、……この夜更けにとても庭に出てゐさうなことがないと思ひ出した彼はまた歩き出した。 ……小さな土鍋で焼いたお粥を茶碗に盛つてそれに赤い梅干を三ツばかり添へて枕元へ持つて来た。と、枕元に点けてあつた豆ランプの光がちら〳〵と揺れた。 ﹁お粥が出来がよくないよ、﹂ ﹁なに、やはらかくなつてるなら好い、すまねえな、小母さんがまた何か云つたんぢやないか、﹂ ﹁お母さんは、今晩、山田さんの婚礼へ、呼ばれて行つたから、ゐないよ、﹂ ﹁あァさうか、山田の信次郎さんの婚礼か、信次郎さんは、俺より二ツ下だから、廿二だな﹇#﹁廿二だな﹂は底本では﹁甘二だな﹂﹈、﹂ ﹁あなたも早く、好いお嫁さんをお貰ひよ、﹂ ﹁俺か、俺よりか、お前の方はどうだ、お前が早くお嫁に行くなり、婿を取るなりしなくちやいかんぢやないか、﹂ ﹁私なんか駄目よ、﹂ 女は小さな声で呼吸をはづますやうにしたが急にきゝ耳を立てた。 ﹁どうした、﹂ ﹁誰か人が来たやうよ、﹂ ﹁あれは、風だよ、﹂ ﹁そうだらうか、﹂ 女の息が暖かに顔にかゝるのを感じた。……その刹那の絵画が源吉の感覚に根ざして蘇生つて来た。 しかしそれはもう自分の所有ではなかつた。彼は非常に淋しい気持ちになつて歩いた。別荘の土手は右に折れてしまつてその先は桑畑になつてゐた。小さな路が土手と桑畑との間に通じてゐた。其所は別荘へ出入の魚屋酒屋など商人の往来する道でその先に別荘の裏門が見えてゐる。源吉の足はその小路の方へ二足ばかり折れ曲つたが急に立ち止まつた。そして彼は裏門の方をぢつと見てから耳を傾けた。人の足音がするかしないかを確かめるために。 南風気を含んで風波が磯際の砂に戯れる音ばかりで他には依然として何の物音も聞えなかつた。源吉は安心した。其処で彼はまた歩き出したが足音を憚るやうにそろ〳〵と一足毎に注意して歩いた。若葉の出揃うたばかりの桑は月の下に靄がかゝつたやうにぼやけた色を見せてゐた。 土手には薔薇の花が夢を見てゐた。その薔薇の花の香かそれとも桑の葉の匂ひか甘いやはらかな物の香が微に鼻に触れた。 ……赤い月が唐黍の広い葉に射してゐた。唐黍畑の先には草葺の低い軒があつて、貰ひ湯に来ている人がびしやびしやと湯の音をさしてゐた。唐黍畑の間を通つて貰ひ湯から帰つて来る女を待つてゐて、その湯でほてつた細そりした手首を握り締めた。 ﹁小母さんも、芳さんもゐなかつたやうだが、何所かへ行つたかね、﹂ ﹁お母さんは、芳を連れて、林さんとこの、たのもしに行つたよ、ちよつと帰りやしないから家へお出でよ、﹂ ﹁行つても好いが、また帰つて来て、厭味を云はれるからね、﹂ ﹁大丈夫よ、﹂ ﹁その大丈夫が、時々大丈夫ぢやないぢやないか、﹂ ﹁ではどうする、﹂ ﹁氏神さんの方へ行かう、彼所なら、ゆつくり話が出来る、﹂ ﹁何時かのやうに、若衆に見付かりはしない、﹂ ﹁大丈夫だよ、﹂ 二人は手を取り合つて歩いた。…… 源吉の体は別荘の裏門の前まで来てゐた土手と土手との間に穴倉の入口のやうな感じのする裏門の扉が見えると彼の暖かな思ひ出は消えてしまつた。彼は悲しさうな顔をして扉を見詰めて止つた。 ……青黒い太い顔をした口元に金の光る男が見えるやうな気がした。源吉はその男をびしびしと足元に踏みにじつてやりたかつた。さう思つてから彼は苦笑した。 ……暗い森の中で二人は大きな松の幹に凭れて泣いてゐた。 ﹁芳松を一人前の男にしてやるためだ、お前も諦めろ、好いか、家のことを忘れてはならんぞ、﹂ ﹁で、源ちやんは、どうする、﹂ ﹁どうするもんか、俺も今云つたやうに、樺太へ人夫に雇はれて行く、﹂ ﹁何時行くの、﹂ ﹁明日の朝、一番の馬車で、停車場まで行くことにして、馬車屋へ行つて、もう約束をして来た、﹂ ﹁私も一緒に行きたい、行つては悪い?﹂ ﹁連れて行つて好いやうなら、お前の家のことを思はないなら、どんなことでもして、お前と一緒になる、それも芳公さへなけりや、どうでも好いが、芳公が可愛想だ、俺も諦めた、お前も諦めろ好いか、家のためぢや、つまらん気を出してはいかんぞ、﹂ ﹁あい、﹂ ﹁では、もう別れよう、俺は池の傍を通つて帰る、お前は鳥居を抜けて行くが好い、﹂ 女は源吉をつかまへて離さうとはしなかつた。 ﹁源ちやん、﹂ ﹁なんだ、﹂ ﹁源ちやん、﹂ ﹁もう好い、何も云ふな、綺麗に別れよう、﹂ 源吉はその手を無理に押しのけるやうにした。 ﹁源ちやん、﹂ ﹁よし、判つた、云ふな、もう何事も心の中に押し付けてしまはう、﹂ 女は執拗く源吉に寄りそつた。……源吉は気がつくとびつくりしたやうに裏門の前を離れ、海岸の方へ通じてゐる赤土を敷いた路へと折れて行つた。 重どろんだ波の音がして雲にぼかされた月の光が海岸を靄立たして見えた。源吉は浜防風のあぎた砂山の踏みごたへのしない砂を踏んでゐた。 砂山をおりると松原の暗い路が来た。蜘蛛の足を張つたやうな松の根が其処此処に浮き出てゐた。源吉はその松の根をよけ〳〵歩いた。 暗い松の蔭の先に赤土の路が見えた。路の左右には桑畑が灰色になつてゐた。その見付には土手の間になつた裏門の扉が見えた。それは生暖かな天気の狂ひを思はせるやうな晩であつた。源吉はまだ何処かに人の足音がしはしないかと注意したのであつた。しかし間遠く鳴く波の音ばかりで足音らしいものは聞えなかつた。彼はまた安心したやうに歩き出した。 源吉の足は直ぐ止つてしまつた。 ﹁どうも男らしくないぞ、去年、あれと別れた時に、男らしいことを云つて、さつさつと樺太へ行つておきながら、この様はどうだ、もう今晩で、四晩も五晩も、人の眼を盗んで、そつとこの別荘の傍へやつて来てゐる、何のためにやつて来た、もし、あれにこんなことが知れたら、あんな口はばつたい事を云つておきながら、男らしくない未練な奴だと笑はれる、全体、樺太から帰つて一ヶ月にもなるが、仕事の車力も挽かずに、毎日酒を飲んだり、ごろ寝をしたり、のらくらしてゐる、何のためだ、やつぱりあれに未練があるからだらう、俺は男らしくない、あれに笑はれる、もうこんなことは止さなくてはならんぞ、﹂ 源吉はかう思ひながら暗い足元を見た。赤土と砂利の交つた足元の土がこの時浮きあがるやうな気がした。 ﹁をかしいな、﹂と、源吉は不審した。そして俺は今晩どうかしてゐるのではないかと思つて片手を額にやつてみた。手は冷くひやひやしてゐた。 ﹁帰らう、なんと思つた所で、自分の所有でない、男らしく帰らう、﹂と自分で自分に命令するやうにつぶやいた。彼の足には自然と力が這入つた。 別荘の裏門はもう眼の前にあつた。源吉はちらとそれに眼をやつた。扉が半開きになつてゐて白い顔が見えた。源吉はびつくりして立ち止つた。手の恰好から姿がどうしても彼の女であつた。源吉は吸ひ寄せられるやうにその方へと進んで行つた。女は藍色の着物を着てゐた。 源吉は扉の際へと行つた。と女の体は内へ這入つた。源吉は小さな声で云つた。 ﹁お高、﹂ ﹁源ちやん、﹂ 源吉は扉に触つて音を立てないやうにとそつと中へ這入つた。 女の姿は直ぐ右傍の小松のやうな木立の下にあつた。赤味のある月の光が其処にあつた。源吉は女の傍へと行つた。 ﹁お高、﹂ 源吉は懐かしさうに云つてまともにその顔を見た。顔の青い眼の光る赤い一尺ほどの舌をだらりと垂れた奇怪な顔であつた。源吉は眼光がくらむやうになつて逃げ走つた。二
お高は読んでゐた講談本を伏せて横膝を正しながら縁先へ来て立つた少年の顔に親しい笑い顔を見せた。 ﹁ちつとも来ないから、姉さんは心配してたよ、﹂ 庭の先には花壇があつて、チユウリツプや桜草などが綺麗に咲いて、午後の赤味の強い陽が其処にあつた。 ﹁こんなだと、戸外は暑いだらうね、さあ、おあがりよ、今日は、旦那も御留守だから、遠慮はいらない、おあがりよ、﹂ 少年は恥かしさうにして冠つてゐた学校帽を脱いて、もぢ〳〵してゐたがそれでも草履を脱いであがり、室の敷居際へ行つてその敷居に腰をかけて縁側の方へ斜に両足を投げ出した。 ﹁母さんから、何かことづけはなかつた、着物のことは何も云はなかつた、﹂ ﹁着物は、明後日でないと出来ないから、出来次第、お母が持つて来ると云つてたよ、﹂ ﹁さう、その他に、何もことづけはなかつた、﹂ ﹁何も云はなかつたよ、……源吉さんが病気だ、﹂ ﹁どんな病気、何時から、﹂ ﹁昨日の晩から妙な病気になつて、たはことを云つてると、お母が云つたよ、﹂ ﹁たはことつて、どんなことを云つてるだらう、熱でもあるだらうか、﹂ ﹁人夫から戻つて、仕事もせずに、酒ばかり飲んで、のらこいてるから、何か悪い物にとツツかれたものだらうと、お母が云つたよ、﹂ お高の顔に曇がかゝつた。 ﹁源吉さんは、この頃、人の寝た後にも、お宮の中を歩いたり、海の方へ来たり、馬鹿のやうに、ひよいひよい歩いてるから、狐にでもとツツかれたもんだよ、﹂ ﹁お前も、源ちやんの歩いてるところを、見たことがある、﹂ ﹁俺は見ない、お母や、前の小母さんが話しをしたよ、﹂ お高はふと気をそらした。 ﹁さうさう、好いお菓子がある、お前が来たらあげやうと思つてた、﹂ お高はかう云つて立ちあがつて次の室へ這入つて行つたが、黒い丸い鑵を持つて来て口を開け開け坐つた。 ﹁皆お前にあげるから、食べておいて、後を取つて行くが好い、﹂ それは青や赤の色をつけた碁石の形をした西洋菓子であつた。少年はそれをぼつぼつ撮みはじめた。 ﹁源ちやんは、家へ来る、﹂ ﹁来ないよ、﹂ 少年の心はもう菓子ばかりになつてゐた。お高は考へ込んでしまつた。 少年が帰つた後でお高は横に寝そべつて面長の片頬を片手にささへてゐた。網の目のやうな黒い影が体一面にもつれかかつて何処を見ても明るい凉しいものは見えなかつた。彼はどうかしてその中から出よう出ようと苦しんでゐた。 ……黄色になりかけた麦や青青とした桑畑の緑が何処かにちらちらと動いて来た。人家の屋根が見え砂利を敷いた村の路が見えたかと思ふと、淡竹の垣根をした藁葺の小家の裏口が其所にあつた土間へ履物を脱いてそつとあがりながら見ると、男は何時も寝てゐるアンペラを敷いた室に、汚い浅黄の蒲団をかけて俯向きになつてゐた。 ﹁源ちやん、源ちやん﹂ 男は睡つてゐるのか返事もしなければ顔もあげない。やつと睡つてをるものを起しては病気のためによくないと思つたのでそのまゝ黙つて見てゐた。耳のあたりから首筋が真黒になつてそれがげつそりと痩せてゐる、枕元には土鍋に入れたお粥や膳を置いてあるが、病人が手をつけないのか、茶碗も汚れてゐなければ、小皿に盛つた味噌もそのまゝになつてゐる。 ﹁小父さんの所から、誰かが来て、世話をしてゐるのか、それとも西隣のお松婆アさんでも来て、見てくれるだらうか、本当に可愛想だ、﹂ 男は不意に顔をあげて何処を見るともなく眼をきよときよとさした。 ﹁なる程、芳夫の云ふ通り、おかしな病気にかゝつてる、これはどうかしないといけない、﹂と相談しようと思つて声をかけやうとしてゐると不意に男の眼が光つた。男はうなり声を立てた。 ﹁貴様は、あの怪物か、やつて来たな、﹂ ﹁私は、お高ですよ、気を沈めておくれ、﹂ 悲しくて泣きたいのをじつと忍へた。 ﹁怪物だ、怪物だ、俺を悩ましにやつて来たな、﹂ 男は恐ろしい顔して睨み詰めた。 ﹁源ちやん、源ちやん、気を確に持つておくれ、お高だよ、﹂ ﹁そのお高が怪物だ、一昨日の晩、正体を見届けた、怪物奴、﹂ ﹁怪物ぢやないよ、お高だよ、気を確に持つておくれよ﹂ ﹁まだそんなことを云ふか、怪物奴、﹂ ﹁まア、お前さんは、﹂ 男は獣のやうに飛びあがつた。 ﹁この怪物奴、﹂ お高は自分の立てた大声が耳に這入つた。彼は頬杖を放して顔を畳の上に落したところであつた。彼は急いで顔をあげながら眼を開けてあたりを見た。庭の花壇の傍で水をやつてゐた下男の作平爺が、如露を持つたなりに振り返つて、不思議さうに此方を見てゐた。 薄暗いランプの光りを受けた眼がぎらぎらと光つた。 ﹁また来やがつたな、怪物奴、﹂ 何故自分を怪物だなどと云ふうだらうとちよつと考へてみたが判らない。 ﹁何故、そんなことを云ふの、お高だよ、怪物ぢやないよ、﹂ ﹁怪物だ、正体をちやんと見届けてあるぞ、﹂ ﹁何を見届けたの、云つておくれ、何んで私が、怪物だよ、﹂ ﹁怪物だ、怪物と云つたら怪物だ、﹂ やはりそれも病気の所為だどうかしてこの病気が癒らないだらうか。 ﹁病気だよ、お前さん、病気だから、そんなことを云ふんだよ、早く病気を癒しておくれ、﹂ ﹁まだ、そんなことを云ふか、この怪物、殺してしまうぞ、﹂ 一層殺して貰ふた方が好い死んでしまへばこんな苦しいこともない。 ﹁殺されても好いよ、私は殺されても好いが、お前さんの病気が心配だ、早く癒しておくれよ、お金は私がどうでもする、﹂ ﹁この怪物、本当に殺してしまふぞ、﹂ 男はまた飛び起きてしまつた。 ﹁何をするんだよ、何を、﹂ 彼は驚いて体にまつはつた男の手を振り放さうとした。と、激しい圧迫が肩のあたりにあるのに気が付いた。 ﹁おい、おい、どうしたんだ、夢を見たんだな、眼を覚ますが好い覚ますが好い、﹂ 太い青黒い顔が此方を見て口元を黄色くさしてゐた。お高は吐息をした。 ﹁夢を見たのか、﹂ ﹁ええ、厭な夢を見ました、﹂ ﹁どんな夢だ、﹂ 青黒い顔は笑ひ声をさした、酒臭い臭がふはりと鼻に滲みた。 ﹁判らないが、厭な夢でしたよ、﹂ お高は青黒い顔から眼をそらして、天井の方を見た。白い蚊帳に青いランプの光がぼんやりと射してゐた。 便所から帰つて来て床に這入つた青黒い顔の男は、右側の蒲団にくるまつて寝てゐる女の横顔に眼をやつた。蚊帳越しに青く射したランプの光は女の顔を綺麗に見せてゐた。女は何か云つてゐるやうに口元を動かしてゐた。 ﹁また、今晩も、何か夢を見てゐるんだな、﹂と男は笑ひ心地になつて見てゐた。男の眼は綺麗な透通るやうに見える女の顔から離れなかつた。 その時女は唸るやうな叫び声を出した。 ﹁おい、おい、どうした、どうした、﹂ ﹁大変です、大変です、助けてください、﹂ ﹁夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるから、起きるが好い、﹂ ﹁助けてください、助けてください、殺しに来たんですよ、殺しに、﹂ ﹁夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるんだよ、それ、夢だから覚めるが好い、﹂ 女は男に取り縋つた手を緩めた。 ﹁夢だよ、夢を見てゐたんだ、誰が殺しに来るもんか、﹂ ﹁夢でせうか、﹂ ﹁夢だよ、誰に追つかけられたんだ、﹂ 女はちよつと黙つてゐた。 ﹁誰やら判らないが、変な男に、殺すと云つて追つかけられたんですよ、私が怪物だから、﹂ 男は笑ひ出した。 二人は間もなく眠つたが眠つてゐる中に、何か物音が耳についたので青黒い顔の男がふと眼を開けた。傍に寝てゐる女の枕元に一人の男が突立つてそれが右の手に刃物を持つてゐた。ランプの光りはその刃先を染めた恐ろしい血の色を見せた。 青黒い顔の男は大声をたてながら蚊帳の外へ飛び出して逃げた。三
源吉は桑と唐黍との間に挾まつた小路を歩いてゐた。陽が入つたばかりの西の空には黄色な夕映が残つて頭の上に二三羽の燕が低く飛んでゐた。
源吉は生れて初めて見る土地のやうにしてあたりを見ながら歩いてゐた。一度破損した頭は三年間の病院生活にも癒つてゐなかつた。彼はぼうとした気持ちになつてゐた。さうした彼の眼は唐黍の葉に行き桑の葉に行き畑の端の人家の屋根に行き黄色な雲の浮んだ空にと行つた。二声三声鳴いた牛の声は耳に入らなかつた。
村の本通に出て荒物屋の前へ行つた時、中から一人の老婆が四合ビンに酒のやうなものを買つて出て来たが、出合頭に源吉と顔を見合はした。源吉にはその老婆の顔が何人であるのかちよつと思ひ出せなかつたが、老婆の方には直ぐ判つたのか茶色の眼を光らして突つかゝるやうに進んで来た。
﹁やい源吉ぢやないか、どの面さげて帰つて来た、この鬼、畜生、﹂
源吉は驚いて眼を見張つた。
﹁何人だ、お高さんとこのおつ母か、﹂
﹁よく覚えてるな、畜生、鬼、何の恨みがあつてお高を殺したんだ、云つてみろ﹂
老婆はもう涙声になつてゐた。源吉は驚いて口をもぐもぐさした。
﹁この鬼、畜生、何の恨みがあつてお高を殺した、さア云へ、その恨みを云へ、﹂
﹁小母さん、お前は何を云ふんだ、俺がお高さんを殺した、﹂
﹁白ばくれるな、その手でお上を欺したらう、本当なら、手前は人を殺したから殺される所だが、偽狂人になりやがつて、俺はその手には乗らんぞ﹂
﹁小母さん、それでは俺がお高さんを殺したのか、﹂
﹁白ばくれるな、鬼、畜生、偽狂人になつて、よくもよくも殺したな、お高の仇は俺が打つぞ、﹂
源吉は青い顔をして考へ込んだ。
﹁さあ、訳を云え、訳を聞いてやる、﹂
源吉は片手をあげて老婆の言葉を押へるやうにした。
﹁小母さん、待つてくれ、俺は白ばくれもせん、嘘も云はん、本当に俺は何も知らなかつた、何のために狂人病院へ這入つたのか、ちつとも判らなかつた、伯父も何も云つてくれない、昨日帰つたから、落ちついたなら聞かうと思つてをつた、さうか、それは、﹂
源吉は大きな呼吸を吐いて俯向いたなりにまた考へ込んだ。
﹁人の娘を殺しあがつて、知らなかつたもよく云へた、まだ手前にも云ひたいこともあるが、また今度にする、﹂
老婆は気が折れたやうに源吉を離れて向ふの方へ歩き出した。もう薄暗くなつてゐた。荒物屋の前にも二三人反対の側にも五六人の者が立つて二人の容子をぢつと見てゐた。
源吉はやつと顔をあげて老婆の行つた方を見た。老婆の姿はもう見えなかつた。その源吉の眼に青い月の光の漂うた海岸の松原が見え麦の穂が見え緑の桑の葉が見え別荘の土手が見え土手の上の薔薇の花が見えた。重くどろんだ波の音もした。源吉はぢつと立つて不思議な物の影に見入つてゐたがやつと気が付いたやうに後の方へと引返した。その源吉の姿が左側の入口に燈火の見える家の角に消えて行くまで、まはりに立つてゐた人々は不安な眼付をして見送つてゐた。
源吉はその夜の中に、氏神の森の木に、死骸となつてさがつてゐた。