二十歳前後のメリヤスの半シヤツの上に毛糸の胴巻をした若衆がよろよろと立ちあがつて、片手を打ち振るやうにして、 ﹁これから、浪花節をやりまアす、皆さん聞いておくんなさい、﹂ そして隣のテーブルへ行つて、其所に置いてあつた白い扇を取つて、テーブルの上をバタバタと敲き出した。そのテーブルには会社員らしい洋服を着た男が、前に腰をかけた二人の連と一緒に酒を飲んでゐた。浪花節の若衆の持つた扇はその会社員の持物であつた。 ﹁おい、おい、君、その扇は、今日買つたばかりだよ、どうかお手やはらかに願ひます、﹂ 店に据ゑた四個のテーブルにゐた客は、浪花節の若衆の持つた白い扇に眼を集めた。 浪花節の若衆はありたけの声を張りあげて、夢中になつてゐつてゐるので、会社員の言葉などは耳に入らなかつた。彼は遠慮なしにその扇でテーブルを敲き出した。 ﹁困るな、さう敲かれちや、今日買つたばかりだよ、﹂ 会社員は自分の連の後に立つてゐたお菊さんと云ふ小肥りのした丸顔の女と顔を見合はして笑つた。その会社員の言葉が浪花節の若衆の耳に切れ切れに入つた。 ﹁そんなことは大丈夫だ、﹂ 扇はまた続けさまに敲きつけられた。皆の視線は矢張りその扇に集つてゐた。会社員も浪花節の若衆も入口の左側に壁蔀を背にしてゐた。其所は半分から下に樺色をした杉板をそのまま張り、上には白い壁紙を貼つてあつた。その壁紙には料理の名を書いたビラを其所に貼つてあるのが見える。そして会社員の左手は直ぐ奥への入口になつて、二筋の暖簾が垂れてゐた。其所から店の客に出す料理も出ればペンキで塗つた出前用の大きな岡持も出入りするのであつた。 お幸ちやんと云ふ面長な眼の晴れやかな背のすんなりした若い女が、暖簾へ触る髪を気にしいしい出て来た。燗の出来た正宗の二合罎を片手に持つてゐた。 ﹁芳ちやん、旨いねえ、﹂ 浪花節の若衆はちつとそれに眼をつけた。 ﹁なに云つてるんだ、楽燕だぞ、﹂ 店の見付は葭簀を青いペンキで塗つて透壁にし、それに二段の棚をこしらへて酒の罎や花瓶などを並べてあつた。お幸ちやんはその棚と会社員の連の一人との間を擦れ擦れに通つて、その後のテーブルにゐる三人の客の所へ行つた。其所の客は皆若い男で、散髪屋の職人とでも云つた風であつた。客はお幸ちやんを中心にして笑ひ声を立てた。其所には棚に据ゑた煽風機の騒々しい風があつた。 ﹁おい、ソーダ水の代りを持つて来い、﹂ 入口の左側で三人のテーブルの隣から威張つたやうなものの云ひ方をした。其所には樺色の杉板に背を凭せるやうにして二人の客が話してゐた。一人は髪も頬髭もむしやむしや生えた童顔の太つた男で一人は背のひよろ長い神経質らしい顔をして長い髪の毛を綺麗に撫でつけた若い男であつた。 浪花節の若衆の前に立つてゐたお菊ちやんが二人の前に来た。童顔の男は麦藁の入つてゐる空になつたコップを﹇#﹁コップを﹂はママ﹈弾くやうにしてみせた。 ﹁これ、これ、﹂ ﹁あ、二つ、ね、﹂ ﹁うん、﹂ お菊さんは狭い人の背の間を潜つて暖簾の口へ行つた。 ﹁ソーダ水二ちやう、﹂ 童顔の男は急に椅子から立つた。 ﹁帰りませう、﹂ 背のひよろ長い連の男がそれを見て腰をあげた。 ﹁いや、帰るんぢやない、便所だ、便所だ、﹂ 童顔の男は左の手を出して押し止めるやうにしてから、開けてある硝子戸の端に体を当て当て外へ出た。軒下に垂らした白いカーテンの先には内から射した電燈の光を受けて糸のやうな雨が降つてゐた。 ﹁山田さん、家へお入りなさいよ、人が見るぢやありませんか、﹂ 内からお菊さんが大きな声をした。 ﹁人が見たつて好いさ、別に違つたことをするんぢやないよ、﹂ 童顔の男は笑ひながら左隅の軒下へ行つて、五分近くもゐてからのつそりと入つて来た。 ﹁あの杉は、もう見込みがないぜ、俺がこんなにまでしても、芽を出さないのだ、﹂ お菊さんは代のソーダ水を持つて来たところであつた。丁度その時、浪花節の若衆がかすれた声を止めて扇を放り出すやうに置いた。もう勘定をすましてゐた会社員はいきなりそれを手にして、連と一緒に笑ひ笑ひ出て行つた。 浪花節の若衆の前には四五本のビールの罎があつた。彼はまたビールのコップを﹇#﹁コップを﹂はママ﹈手にしたが、疲れたのか左の肱をテーブルの端にぐつしよりとつけて凭れた。と、小柄な男が蛇の目傘を畳みながら入つて来た。 ﹁いらつしやいまし、﹂ 会社員の一行を出口まで送つて行つたお幸ちやんがお愛想を云つた。それはその前々夜やつて来た柔和な綺麗な顔をした何所かの若旦那とでも云ふやうな男で、白絣の上に鉄色の絽の羽織を着てゐた。 ﹁おかけなさいまし、﹂ お幸ちやんは会社員の連の左側にゐた私立大学の帽子を冠つた書生のゐた椅子を直した。 客はちよいと俯向きながら腰をかけたが、手にした傘の置所に困つてもぢもぢした。 ﹁置きませう、﹂ お幸ちやんが手を出すと客はすなほにその傘を渡した。お幸ちやんはそれを棚の下の葭壁に立てかけて注文を聞かうと思つたが、なんだかはしたない口を利くのが恥かしいやうな気がしたので、静にその傍へと寄つた。 ﹁なにかおあつらへを、﹂ ﹁野菜サラダが出来るかね、﹂ ﹁出来ますわ、﹂ ﹁ぢや、それと、ナマを貰はうか、﹂ ﹁はい、ナマと野菜サラダでございますね、﹂ お幸ちやんはさう聞き直してから暖簾の口へ行つた。 ﹁野菜サラダ一ちやう、﹂ それから片手で暖簾の垂れをあげて内へ入つて行つた。 ﹁蝶が、蝶が、蝶が来やがつた、﹂ 三人の客の一人が大声を出すので童顔の男はふと顔をあげた。今入つて来た客の頭の上あたりを黄いろな一匹の蛾が飛んでゐたが、それが煽風機の風に煽られるやうに斜に天井の方へと漂はされて行つた。白い壁紙を貼つた低い天井には、短冊のやうな国旗にまがへたビールの小旗を両隅から中ほど目がけて飾り付けてあつた。短冊形の沢山の小旗は煽風機の風でひらひらと躍つてゐた。蛾はその小旗の傍を苦しさうに飛んだ。 ﹁蛾さ、蝶ぢやないよ、﹂ 三人の客の相手をしてゐたお菊さんは、汚いその蛾を捕るつもりで手を頭の上で振つた。綺麗な顔の客は後向きに仰向いて黙つてお菊さんの手の傍を飛んでゐる蛾を見てゐた。 蛾はお菊さんの手の傍から遠退いて浪花節の若衆の頭の上の方へと飛んで行つた。お菊さんは口惜しさうに追つて行つた。 ﹁やい、畜生、やい、どうだ、﹂ お菊さんが笑ひながら動かす手の傍を蛾が苦しさうに飛んだ。お幸ちやんはナマを入れたコツプを手にして暖簾の下から顔を出した。綺麗な顔の客がそれと一緒に立ちあがつた。 ﹁俺が逃がしてやらう、さう邪見にするなよ、﹂ 蛾はひらひらと綺麗な顔の客のさしのべた手に入つて来た。お幸ちやんの眼はその客の掌に入れた蛾に行つた。……気まぐれな梅雨の空が午時分からからりと晴れて、白い眩しい陽の光が夕方まで通路の上に光つてゐたが八時頃からまた降り出した。その雨に驚いてすぐ傍の停留場からでも駈け込んで来たらしい容で小柄な綺麗なその男が入つて来た。麦藁帽子にも鉄色の絽の羽織の肩のあたりにも雨の水が光つてゐた。 ﹁大変でしたわ、ね、﹂ その客を入口の左側、浪花節の若衆のゐる所へ坐らせた。 客はウイスキーと野菜サラダを注文した。彼がその注文を聞いて客の傍を離れようとした時のことであつた。今晩の虫と変らない一匹の蛾がその客の襟元にでも這つてでもゐたかのやうにひらひら飛んだ。汚い虫が羽にくつ付けた粉をお客さんの皿の中や飲み物の中へ落してはならないと思つて、飛びあがるところを手ではたかうと思つたが、はしたない手付きをしてさげすまれるのは嫌だと思つたので、 ﹁あれ、蝶だ、蝶だ、﹂ と云つて、もどかしさうに見た。 ﹁蝶だ、蝶だ、﹂ 隣のテーブルで洋服の上着を脱いで白いシャツに﹇#﹁シャツに﹂はママ﹈なつて歌つてゐた二人連の若い男の一人が、扇を持つて立ちあがりながら体を向ふ斜に延ばした。 ﹁こら、蝶だ、﹂ 扇の先が蛾に届きさうになつて見えた。と、綺麗な顔の客は立ちあがつて手を延べた。 ﹁俺が逃がしてやらう、﹂ 蛾はその客の掌に直ぐ入つて来た。客は手を壺のやうにすぼめて中に入つてゐる蛾を覗くやうにした。 ﹁可愛い虫ぢやないか、人間は邪見だよ、﹂ 独言を云ひながら入口へ出て行つて暗い方を向いて立つた。 ﹁それ、帰つてをれ、﹂ 引返して来た客の眼が潤んだやうに輝いて見えた。…… なんと云ふ優しい方だらう、と、お幸ちやんは思つた。お幸ちやんは不作法なことをして、さげすまれてはならないと思つたので、丁寧にコツプをその前へ持つて行つた。 ﹁お待ち遠うでございます、料理はすぐ出来ます、﹂ さう云ひながら眼を客の手にした虫に注けた。客は掌の中に蝶を透すやうにしてゐた。 ﹁あの晩も蝶が来ましたね、蝶と御縁がありますのね、﹂ ﹁ああ、さうだね、この間も来たね、しかし、蝶と御縁があつたところで仕方がない、姐さんとでなくつちや、﹂ ﹁御戯談ばつかり、﹂ お幸ちやんは娘々した声をして笑つた。 ﹁おい、なんだい、嫌な声をするぢやないか、酒だい、ビールを持つて来い、﹂ 浪花節の若衆が頬杖をしたまま怒鳴つた。お幸ちやんはその声に体を包んでゐた暖な靄が消えたやうな気がした。 ﹁まだ飲むの、そんなに飲んでて、﹂ ﹁ふざけるない、﹂ お幸ちやんは笑ひながらまた暖簾をくぐつたが、今度出て来た時には右の手に料理の皿を持ち、左の手に口を切つたビールのビンを持つてゐた。お幸ちやんは料理の皿を直ぐ綺麗な顔の客の前へ置いた。 ﹁お待遠様でございました、﹂ 客はナマのコツプを持つてゐた。 ﹁有難う、﹂ お幸ちやんは客の左の手に眼をやつた。左の手はもうテーブルの上に置いて掌をうつむけてゐた。 ﹁蝶はどうなさいました、﹂ 客はお幸ちやんの顔をぢつと斜に見上げて、突いてゐた左の手をあげ、それで右の袂をちよいと押へて見せた。 ﹁可哀想だから、帰りに逃がしてやらうと思つて、此所へ、ね、﹂ ﹁まあ、﹂ お幸ちやんの眼は輝いた。 ﹁おい、おい、酒はどうしたんだ、﹂ 浪花節の若衆がテーブルの上を一つドンと敲いた。お幸ちやんは急いでその前へと行つた。 ﹁お幸ちやん、お幸ちやん、酒だ、酒だよ、﹂ 三人連のテーブルの所で大きな声が起つた。次のテーブルで太つた男と話してゐたお菊さんが其所へ行つた。 ﹁なあに、お酒、お酒をつけるの、﹂ ﹁お前さんぢやねえや、お幸ちやんだ、﹂ ﹁随分だわ、ね、私だつて好いぢやないの、﹂ ﹁いけねえ、あのお嬢さんのよそ行の恰好が見たいんだ、﹂ その客は何か体を動かして、身振りをするやうな風で、お幸ちやんの口真似をして笑つた。 お幸ちやんは振り返つた。 ﹁馬鹿にしてゐるわ、森山さん、覚えてらつしやいよ、﹂ お幸ちやんはかう云ひ云ひ暖簾の口へ行つて正宗を通したが、傍にゐる綺麗な顔の客の方へ心が行つてゐるので気が落ちつかなかつた。そしてそはそはして振り向いたが、妙にきまりが悪いので呼ばれもしないのにその傍へ行けなかつた。その客を斜に見おろすやうにしてうつとりとなり、右の手の指で軽くかはるがはるツンツンとテーブルの上を打つた。 綺麗な顔の客は料理を食べてゐた。そして皆無にしてホークを置いた。お幸ちやんは何かもう少し注文してゆつくりしてゐてくれれば好いがと思つて、その口から注文の出るのを待つてゐた。と綺麗な顔の客はホークを置くと三分の一くらゐ残つてゐたビールに口をつけて、それを置くとお幸ちやんの顔を見あげた。 ﹁いくら、﹂ この間も料理一皿とナマ一杯で帰つて行つたこの方は、あまり飲んだり食べたりする方ではないらしい。 ﹁お早いぢやありませんか、どうぞごゆつくり、﹂ ﹁これから、ちよいちよいやつて来るよ、﹂ ﹁どうかお願ひ致します、﹂ お幸ちやんは首を傾げておつとりした容で料理と酒の勘定をした。 ﹁四十五銭戴きます、﹂ 客は黒い小さな蟇口を胸の所で開けてゐた。 ﹁さう、それぢや後はあんたに、﹂ 客は一円札を皿の傍へ置くと、帽子を直しながら起ちあがつた。 ﹁有難うございます。またどうぞお願ひ致します、﹂ お幸ちやんは客を送り出さうとして預つた傘のことを思ひ出した。彼は葭壁に凭せかけた客の雨傘を取つた。振り返つて待つてゐる客の顔がやさしく笑つてゐた。 ﹁どうも有難う、﹂ 客は傘を受取つて心持頭をさげるやうにしてから出て行つて、外へ出るとちよつと立ち止まつて傘をぱつとひろげた。お幸ちやんは敷居の所へまで行つて見送つてゐた。 傘にあたる雨の音がちよつとの間佗しく聞えてゐたが客の姿がすぐ見えなくなつた。お幸ちやんはそれでも立つてゐた。 お幸ちやんは見付の棚の前に引寄せた椅子に腰をかけてゐた。それは夜遅く客の帰つた後であるかそれとも昼間の客の来ない時であるか、お幸ちやんの意識にはそんなことはなかつた。 お幸ちやんの眼の前をその時黄色な蛾が飛んでゐた。お幸ちやんはその蛾を見ると共に、小柄な柔和な綺麗な男の顔を見てゐた。……本当にやさしい方だ、どうした方だらう、服装から、容貌きから、何所かの若旦那であろうが、どうも商人の家の方ではない、この附近には沢山お屋敷があるから、そのお屋敷の方だらう、そのお屋敷の方がこんな穢いバーへ来るのは、物好に何か珍しい物でも見物する気で、ゐらつしやるだらう、あんな方には今まで会つたことがない、あんな方が家の兄さんにか弟かにあつたなら、どんなに嬉しいだらう、と、お幸ちやんは、それからそれへと考へを追つて行つた。 黄色な蛾はまだ何所かにひらひらと飛んでゐた。……人間は邪見だとあの方が仰つしやつたが、本当に人間は好い顔をしてゐて、邪見な者ばかりだ、本当にあの方の仰つしやつた通りだ、なる程穢い粉をお皿の中や盃の中へ落すのは困るが、別に悪いことをするのではない、電燈の光を追つて来て、蝶の身になれば嬉しくてたまらないので、人間がダンスでもするやうにやつてゐる所ぢやないか、それをいきなり、扇でなぐり殺さうとしたり、手で掴んで土間へ叩きつけようとしたり、本当に人間ほど邪見なものはない、人間は嫌ひだ、自分も人間を相手にしない蝶や鳥のをるやうな所へ行きたい。 ﹁お幸ちやん、お幸ちやんと云つたね、﹂ お幸ちやんはびつくりして顔をあげた。綺麗な顔の客が来て眼の前に立つてゐた。 ﹁おや、いらつしやいまし、﹂ お幸ちやんは立ちあがつてお辞儀をしてから、左側の椅子を勧めやうとした。 ﹁今晩はちよつと散歩に来たが、あんたが一人で退屈してゐるやうだから入つて来た。これから、私の家へ行かうぢやないか、すぐ傍だ、僕の書斎は、主屋と離れてゐて、裏門から入れば誰にも会はないよ、﹂ お幸ちやんは矢鱈に一緒に行きたかつた。暖簾の口へ行つてそつと内を見ると、帳場でお菊さんとお神さんとが話してゐた。……もしお客さんが来たなら、お菊さんが出てくれるだらう、帰つて聞かれたら、何所か其所らあたりを歩いてゐたと云つとけば好い、と思つた。 ﹁どうだね、五分か十分なら好いだらう、﹂ 男はお幸ちやんの顔を見て云つた。 ﹁行つても構はないこと、﹂ ﹁行かう、誰にも会はないやうに行けば好いだらう、﹂ お幸ちやんは返事の代りに笑つて見せた。男はそれを見ると静に外へ出て行つた。お幸ちやんもその後を従いて外へ出た。外には雲の間から青い月の光が滲んでゐた。 ﹁おや、月がありますのね、﹂ ﹁もう、梅雨もあがるかも判らないのね、﹂ 男は右の方へと歩いた。お幸ちやんは一緒に並んで行くのが気まりが悪いので、後から一間ばかり離れて行つた。そして歩きながら誰か知つた人に会ひはしないかと思つて注意してゐたが、二人ばかりの者と行き合つたが別に知つた顔でもなかつた。 ﹁さあ、此所からおりるよ、直ぐこの坂の中程だ、﹂ 小さな坂のおり口があつて左側の角に電燈が一つ点いてゐた。其所には何んとか云ふお屋敷の黒板塀が続いてゐた。綺麗な顔の男はその塀に沿うておりた。その坂は中程から右に折れ曲つてゐた。その右の曲角あたりに生垣の垣根があつた。 ﹁此所だよ、此所から入れば、家の者に会はなくつて好い、﹂ 小さな黒い門の扉があつた。男が手を持つて行くと扉は音もなく開いた。 ﹁さあ、お入り、﹂ 男は先へ入つて扉をおさへて身を片寄せてゐた。門の中は明るかつた。お幸ちやんが中へ入ると男は扉を仮に締めた。 ﹁さあ、此方へお出で、すぐ其所だ、﹂ 青々した緑の木が左右に生えてゐた。男はその間を先に立つて行つた。十間ばかりも行つたところで障子に電燈の射した縁側があつた。 ﹁さあ、おあがり、此所だ、﹂ 男はづんづんと縁側へあがつて障子を開けた。お幸ちやんもきまりが悪いが度胸をきめて従いてあがつた。 八畳のあつさりした室の一方は床になつて、草書の大字を書いた軸がかゝり、その前の置き花生けには燕子花のやうな草花がさしてあつた。その床の右並びに黒い小さな机があつて五六冊の本が積んであつた。 男は机の傍から水色の蒲団を持つて来て室の中程へ置いた。 ﹁お坐り、誰も遠慮する者はない、﹂ お幸ちやんはもぢもぢして立つてゐたが坐らないわけに行かないのでその傍へ行つて坐つた。男はその時、机の前にあつた自分の平生敷いてゐるらしい赤い蒲団を取つて来てその前に置いて坐つた。 ﹁蒲団を敷くが好いぢやないか、蒲団を敷いたつて、敷かなかつたつて、座敷料は同じだよ、﹂ 男は笑つてお幸ちやんの顔を見た。お幸ちやんは口元に手をやつて笑つた。 ﹁さあ、敷くが好いだらう、﹂ お幸ちやんはやつと蒲団の上にずりあがるやうにした。 ﹁茶は出さないよ、面倒だから、その代りこんなものがある、﹂ 男は立つて一方の押し入れの方へ行つた。 ﹁もうなにも宜しうございます、直ぐお暇いたしますから、﹂ ﹁あんたの家のやうな御馳走ではないが、ちよいと好いもんだよ、花から取つた物だと云ふんだ、﹂ 男は押し入を開けて三角になつた薄赤い液の入つた罎と、小さなコツプを二つ持つて来て、坐りながらそれを二つのコツプに注いで一つをお幸ちやんの前へと置いた。 ﹁珍しい物だよ、まだ日本には無いよ、﹂ 男はかう云つてから自分の前にコツプを持つてぐつと一息に飲んだ。 ﹁アルコールも何も入つてゐないから、水を飲むと同じだよ、﹂ お幸ちやんはあんなに云つてくれるのを飲まないのも悪いと思つた。 ﹁では戴きます、﹂ ﹁飲んで御覧、なんでもないよ、﹂ お幸ちやんは行儀好くコツプを取つて口に持つて行つた。それは少し甘味のある軟かなほんのりと香のある飲物であつた。 ﹁どうだね、ちよいと好い物だらう、﹂ ﹁本当に好い匂ですこと、﹂ お幸ちやんは半分ばかり飲んでから下に置いた。 ﹁お幸ちやんが、折角遊びに来てくれたんだから、昼だと写真でも取つてあげるが、夜ぢやはつきり写らない、写真は今度にして、今晩は、﹂ 男はさう云つてちよと考へ込んだ。 ﹁もう、どうぞ、店をそのままにしてありますから、直ぐ失礼します、﹂ ﹁さうだ、あれが好い、一つ友達から土産に貰つた化粧箱がある、あれをあげよう、﹂ ﹁もう、どうぞ、何も沢山でございます、﹂ ﹁好いぢやないか、人に貰つた物だ、﹂ 男はまた立つて押し入の方へ行つて、黄色な紙にくるんだ小さな箱のやうな物を持つて来た。 ﹁貰ひ物で失敬だが、構はないなら持つておいで、﹂ 男はかう云つてそれを女の前へ置いて坐つた。 ﹁そんな物を戴いてはすみません、﹂ ﹁好いぢやないか、あんたが構はないなら取つて行つたら好いだらう、﹂ ﹁でもあんまりですわ、﹂ 不意に縁側に足音が起つて男と女の声がした。お幸ちやんは誰も来るものはないと聞いてゐたのでびつくりして途方に暮れた。 ﹁誰かゐるやうぢやなくて、﹂ ﹁誰がゐるもんかね、この室には誰も来ないから大丈夫だよ、﹂ ﹁でも、何だか話をしてゐたやうですわ、﹂ ﹁そんなことがあるもんか、さあ、お出でよ、﹂ 同時に障子が開いて年取つた男と若い小間使のやうな白粉をこてこて塗つた女が入つて来た。 ﹁誰もゐないぢやないか、誰がゐるもんかね、﹂ ﹁でも、蒲団があるぢやなくつて、﹂ ﹁蒲団はさつき客に出して、そのままになつてゐるんだ、﹂ お幸ちやんはどうして好いか判らないのできよときよとして坐つてゐたが、自分達の姿が見えないのか二人は何も云はない。 ﹁お坐りよ、﹂ 男は女の手を取つて坐らせようとした。 ﹁おや、蛾がゐるんですよ、﹂ ﹁何所に、﹂ ﹁お蒲団の上にですよ、﹂ ﹁さうかね、﹂ 男は俯向いて蒲団の上を見たが、手にしてゐた葉巻を持ち直してその火口を蒲団の上に持つて行つた。 ﹁可哀想ぢやありませんか、許しておやりなさいよ、おや、羽が焼けましたよ、あんなにして這つてますよ、可哀想に、外へ逃がしてやりませう、﹂ 女は俯向いて﹇#﹁俯向いて﹂は底本では﹁低向いて﹂﹈何か手に入れながら締めた障子を細目に開けて、手にしてゐた物を外へ投げた。 お幸ちやんは夢中になつて座敷を走り出た。 ﹁お幸ちやん、お幸ちやん、どうしたの、﹂ お幸ちやんは肩をゆり動かされてふと顔をあげた。自分は店のテーブルの上に俯向いて仮寝をしてゐるところを、お菊さんに起されたところであつた。 お幸ちやんはその晩から熱が出て四五日寝て店に出たが、その日も朝からの雨で、客の来さかる頃になつても、ふりの客は来ずにお馴染の客ばかりがぼつぼつやつて来た。 もう十時になつてゐた。その客も帰つてしまつて、菓子工場の旦那と云ふづんぐり太つた眼鏡をかけた客が右側の奥のテーブルへ一人残つてゐた。お幸ちやんとお菊さんはその客の相手になつて笑つてゐた。そしてお菊さんがナマの代を取りに行つて出て来たところで一人の客が入つて来た。それは綺麗な顔のお客であつたが、どうしたのかひどく窶れて黄色な顔色をしてゐた。 ﹁おや、いらつしやいまし、﹂ お菊さんはかう云つてから、直ぐお幸ちやんの方に注意した。 ﹁お幸ちやん、お客さんよ、﹂ ﹁た、ア、れ、﹂ お幸ちやんは椅子に腰をかけたなりに入口の方を見た。 ﹁おや、いらつしやいまし、﹂ お幸ちやんは急いで立つて行つたが、客の黄色な顔色と左の手の手首まで巻いた繃帯を見て眼を見張つた。 ﹁どうかなさいまして、﹂ ﹁すこし焼傷をしてね、﹂ ﹁それは、いけませんね、﹂ お幸ちやんは暖簾の傍にある外側の椅子を直した。客はそれに腰をかけたが痛さうに顔をしかめた。 ﹁お痛みになりますか、﹂ ﹁大したことはないがね、どうかすると痛いよ、﹂ ﹁ひどいお怪我でしたか、﹂ ﹁大したこともないが、それでもちよいと焼いたよ、﹂ ﹁それはいけませんね、﹂ ﹁今日はソーダ水を貰はうか、﹂ お幸ちやんはなんだか泣きたいやうな気がした。沈んだ顔をして暖簾を潜つてソーダ水を取つて来て前に置いた。 ﹁有難う、折角お馴染になりかけたが、こんなになつたから、明日からちよつと養生に行かうと思つて、あんたに逢ひに来たところだ、﹂ 客は淋しく笑つてお幸ちやんの顔を見た。 お幸ちやんはその顔に強ひて微笑を送つたが、すぐ首を垂れて俯向いてしまつた。 ﹁今晩は、蛾も来ないやうだね、あの蛾もどうなつたんだらう、﹂ お幸ちやんはふと夢のことを思ひ出して、客の方をぢつと見た。 客は俯向いて麦藁の管で力なささうにソーダ水を飲んでゐた。そしてやつと飲んでしまふと、右の袂の中から一円札を出してコツプの傍へ置いた。 ﹁では、失敬する、大事になさいよ、﹂ ﹁はい、どうぞ、貴君こそお大事に、﹂ お幸ちやんの声は震へてゐた。客はそのまま外へと出て行つた。 翌朝もう十時近くなつて起きたお幸ちやんは、順番で表の硝子戸を開けに行つたが、戸を開けた時に見ると、小雨の降つてゐる軒下の泥溝に渡した板の上に、黄色な一匹の蛾が死んでゐた。変に思つて其所へ行つてよく見ると、それは左の羽が黒く焼けただれてゐるのであつた。