本ほん所じょのお竹たけ蔵ぐらから東四つ目通、今の被ひふ服くし廠ょう跡の納骨堂のあるあたりに大きな池があって、それが本所の七不思議の一つの﹁おいてけ堀﹂であった。其の池には鮒ふなや鯰なまずがたくさんいたので、釣りに往ゆく者があるが、一日釣ってさて帰ろうとすると、何ど処こからか、おいてけ、おいてけと云う声がするので、気の弱い者は、釣っている魚を魚び籃くから出して逃げて来るが、気の強い者は、風か何かのぐあいでそんな音がするだろう位に思って、平気で帰ろうとすると、三つ目小僧が出たり一つ目小僧が出たり、時とすると轆ろく轤ろく首び、時とすると一本足の唐から傘かさのお化ばけが出て路を塞ふさぐので、気の強い者も、それには顫ふるえあがって、魚は元より魚籃も釣竿もほうり出して逃げて来ると云われていた。
金きん太たと云う釣つり好ずきの壮わか佼いしゅがあった。金太はおいてけ堀に鮒が多いと聞いたので釣りに往いった。両りょ国うご橋くばしを渡ったところで、知りあいの老人に逢あった。
﹁おや、金公か、釣に往くのか、何処だ﹂
﹁お竹蔵の池さ、今年は鮒が多いと云うじゃねえか﹂
﹁彼あす処こは、鮒でも、鯰でも、たんといるだろうが、いけねえぜ、彼処には、怪えて物ものがいるぜ﹂
金太もおいてけ堀の怪あやしい話は聞いていた。
﹁いたら、ついでに、それも釣ってくるさ。今時、唐傘のお化でも釣りゃ、良い金になるぜ﹂
﹁金になるよりゃ、頭からしゃぶられたら、どうするのだ。往くなら、他へ往きなよ、あんな縁えん儀ぎでもねえ処ところへ往くものじゃねえよ﹂
﹁なに、大丈夫ってことよ、おいらにゃ、神かん田だみ明ょう神じんがついてるのだ﹂
﹁それじゃ、まあ、往ってきな。其のかわり、暗くなるまでいちゃいけねえぜ﹂
﹁魚が釣れるなら、今晩は月があるよ﹂
﹁ほんとだよ、年としよりの云うことはきくものだぜ﹂
﹁ああ、それじゃ、気をつけて往ってくる﹂
金太は笑い笑い老人に別れて池へ往った。池の周まわ囲りには出たばかりの蘆あしの葉が午ひるの微風にそよいでいた。金太は最初のうちこそお妖ば怪けのことを頭においていたが、鮒が後から後からと釣れるので、もう他の事は忘れてしまって一所懸命になって釣った。そして、近くの寺から響いて来る鐘に気が注ついて顔をあげた。十日比ごろの月つき魄しろが池の西側の蘆の葉の上にあった。
金太はそこで三本やっていた釣竿をあげて、糸を巻つけ、それから水の中へ浸けてあった魚籃をあげた。魚籃には一貫匁あまりの魚がいた。
﹁重いや﹂
金太は一方の手に釣竿を持ち、一方の手に魚籃を持った。と、何処からか人声のようなものが聞えて来た。
﹁おい、てけ、おい、てけ﹂
金太はやろうとした足をとめた。
﹁おい、てけ、おい、てけ﹂
金太は忽ち、嘲あざけりの色を浮べた。
﹁なに云ってやがるんだ、ふざけやがるな、糞くそでも啖くらえだ﹂
金太はさっさとあるいた。と、また、おい、てけの声が聞えて来た。
﹁まだ云ってやがる、なに云ってやがるのだ、こんな旨うまい鮒をおいてってたまるものけい、ふざけやがるな。狸たぬきか、狐きつねか、口くや惜しけりゃ、一本足の唐傘にでもなって出て来やがれ﹂
金太は気もちがわるいので足はとめなかった。と、眼の前へひょいと出て来た者があった。それは人の姿であるから一本足の唐傘ではなかった。
﹁何だ﹂
鈍い月の光に眼も鼻もないのっぺらの蒼白い顔を見せた。
﹁わたしだよ、金太さん﹂
金太はぎょっとしたが、まだ何処かに気のたしかなところがあった。金太は魚籃と釣竿を落とさないようにしっかり握って走った。後からまた聞えてくるおいてけの声。
﹁なに云やがるのだ﹂
金太はどんどん走って池の縁へりを離れた。来る時には気が注かなかったが、其処に一軒の茶店があった。金太はそれを見るとほっとした。金太はつかつかと入って往った。
﹁おい、茶を一ぱいくんねえ﹂
行あん燈どんのような微うす暗ぐらい燈のある土ど室まの隅から老人がひょいと顔を見せた。
﹁さあ、さあ、おかけなさいましよ﹂
金太は入口へ釣竿を立てかけて、土室の横へ往って腰をかけ、手にした魚籃を脚あし下もとへ置いた。老人は金太をじろりと見た。
﹁釣りのおかえりでございますか﹂
﹁そうだよ、其所の池へ釣に往ったが、爺さん、へんな物を見たぜ﹂
﹁へんな物と申しますと﹂
﹁お妖ば怪けだよ、眼も鼻もない、のっぺらぼうだよ﹂
﹁へえェ、眼も鼻もないのっぺらぼう。それじゃ、こんなので﹂
老人がそう云って片手でつるりと顔を撫でた。と、其の顔は眼も鼻もないのっぺらぼうになっていた。金太は悲鳴をあげて逃げた。魚籃も釣竿も其のままにして。