一
萩はぎ原わら新しん三ざぶ郎ろうは孫まご店だなに住む伴とも蔵ぞうを伴つれて、柳やな島ぎしまの横よこ川かわへ釣に往いっていた。それは五月の初めのことであった。新三郎は釣に往っても釣に興味はないので、吸すい筒づつの酒を飲んでいた。
新三郎は其の数ヶ月前ぜん、医いし者ゃぼ坊う主ずの山やま本もと志しじ丈ょうといっしょに亀かめ戸いどへ梅見に往って、其の帰りに志丈の知っている横川の飯いい島じま平へい左ざえ衛も門んと云う旗はた下もとの別荘へ寄ったが、其の時平左衛門の一人娘のお露つゆを知り、それ以来お露のことばかり思っていたが、一人でお露を尋ねて往くわけにもゆかないので、志丈の来るのを待っていたところで、伴蔵が来て釣に誘うので、せめて外からでも飯島の別荘の容よう子すを見ようと思って、其の朝神かん田だし昌ょう平へい橋ばしの船宿から漁師を雇って来たところであった。
新三郎は其のうちに酔って眠ってしまった。伴蔵は日の暮れるまで釣っていたが、新三郎があまり起きないので、
﹁旦那、お風をひきますよ﹂
と云って起した。新三郎はそこで起きて陸おかへ眼をやると、二重の建仁寺垣があって耳くぐ門りもんが見えていた。それは確に飯島の別荘のようであるから、
﹁伴蔵、ちょっと此こ処こへつけてくれ、往ってくる処ところがあるから﹂
と云って船を著つけさして、陸おかへあがり、耳くぐ門りの方へ往って中の容子を伺っていたが、耳門の扉が開いているようであるから思いきって中へ入った。そして、一度来て中の方角は判っているので、赤松の生えた泉水の縁へりについて往くと、其処に瀟しょ洒うしゃな四畳半の室へやがあって、蚊か帳やを釣り其そ処こにお露が蒼あおい顔をして坐っていた。新三郎は跫あし音おとをしのばせながら、折戸の処へ往った。と、お露が顔をあげて此こっ方ちを見たが、急に其の眼がいきいきとして来た。
﹁あなたは、新三郎さま﹂
お露も新三郎を思って長い間気きや病まいのようになっているところであった。お露はもう慎みを忘れた。お露は新三郎の手を執とって蚊帳の中へ入った。そして、暫しばらくくしてお露は、傍にあった香箱を執って、
﹁これは、お母さまから形見にいただいた大事の香箱でございます、これをどうか私だと思って﹂
と云って、新三郎の前へさしだした。それは秋野に虫の象眼の入った見ごとな香箱であった。新三郎は云われるままにそれをもらって其の蓋ふたを執ってみた。と、其処へ境の襖ふすまを開けて入って来たものがあった。それはお露の父親の平左衛門であった。二人は驚いて飛び起きた。平左衛門は持っていた雪ぼん洞ぼりをさしつけるようにした。
﹁露、これへ出ろ﹂それから新三郎を見て、﹁其の方は何者だ﹂
新三郎は小さくなっていた。
﹁は、てまえは萩原新三郎と申す粗そこ忽つものでございます、まことにどうも﹂
平左衛門は憤おこって肩で呼い吸きをしていた。平左衛門はお露の方をきっと見た。
﹁かりそめにも、天下の直参の娘が、男を引き入れるとは何ごとじゃ、これが世間へ知れたら、飯島は家事不取締とあって、家名を汚し、御先祖へ対してあいすまん、不孝不義のふとどきものめが。手討ちにするからさよう心得ろ﹂
新三郎が前へ出た。
﹁お嬢さまには、すこしも科とがはございません、どうぞてまえを﹂
﹁いえいえ、わたしが悪うございます。どうぞわたしを﹂
お露は新三郎をかばった。平左衛門は刀を脱ぬいた。
﹁不義は同罪じゃ、娘からさきへ斬る﹂
平左衛門はそう云いながら、いきなりお露の首に斬りつけた。お露の島しま田だく首びはころりと前へ落ちた。新三郎が驚いて前へのめろうとしたところで、其の頬ほおに平左衛門の刀が来た。新三郎は頬から腮あごにかけて、ずきりとした痛みを感じた。
﹁旦那、旦那、たいそう魘うなされてますが、おっそろしい声をだして、恟びっくりするじゃありませんか、もし旦那﹂
新三郎は其の声に驚いて眼を開けた。伴蔵が枕まく頭らもとへ来て起しているところであった。新三郎はきょろきょろと四あた辺りを見まわした。
﹁伴蔵、俺おれの首が落ちてやしないか﹂
﹁そうですねえ、船べりで煙きせ管るを叩くと、よく雁がん首くびが川の中へ落ちますよ﹂
﹁そうじゃない、俺の首だよ、何処にも傷が附いてやしないか﹂
﹁じょうだん云っちゃいけませんよ、何で傷がつくものですか﹂
やがて新三郎は船を急がせて帰って来たが、船からあがる時、
﹁旦那、こんな物が落ちておりますよ﹂
と云って、伴蔵のさしだした物を見ると、それはさっき夢の中でお露から貰った彼かの秋草に虫の象眼のある香箱の蓋であった。
二
新三郎は精しょ霊うり棚ょうだなの準した備くができたので、縁側へ敷物を敷き、そして、蚊かや遣りを焚たいて、深草形の団うち扇わで蚊を追いながら月を見ていた。それは盆の十三日のことであった。新三郎はその前月、久しぶりに尋ねて来た志丈から、お露が己じぶんのことを思いつめて、其のために病気になって死んだと云うことを聞いたので、それ以来お露の俗ぞく名みょうを書いて仏壇に供え、来る日も来る日も念仏を唱えながら鬱うつうつとして過しているところであった。
と、生垣の外からカラコン、カラコンと云う下駄の音が聞えて来た。新三郎はやるともなしに其の方へ眼をやった。三十位に見える大おお丸まる髷まげの年とし増まが、其の比ころ流は行やった縮ちり緬めん細ざい工くの牡丹燈籠を持ち、其の後から文金の高たか髷まげに秋草色染の衣服を著き、上方風の塗ぬり柄えの団うち扇わを持った十七八に見えるな女が、緋ひぢ縮りめ緬んの長なが襦じゅ袢ばんの裾すそをちらちらさせながら来たところであった。新三郎は其の壮わかい女に何処かに見覚えのあるような気がするので、伸びあがるようにして月影にすかしていると、牡丹燈籠を持った女が立ちどまって此こち方らを見たが、同時に、
﹁おや、萩原さま﹂
と云って眼をった。それは飯島家の婢じょちゅうのお米よねであった。
﹁おやお米さん、まあ、どうして﹂
新三郎は志丈からお露が死ぬと間もなくお米も死んだと云うことを聞いていたので、ちょっと不思議に思ったが、すぐこれはきっと志丈がいいかげんなことを云ったものだろうと思って、
﹁まあお入りなさい、其処の折戸をあけて﹂
と云うと二人が入って来た。後の壮わかい女はお露であった。お米は新三郎に、
﹁ほんとに思いがけない。萩原さまは、お歿なくなり遊ばしたと云うことを伺っていたものでございますから﹂
と云った。そこで新三郎は志丈の云ったことを話して、
﹁お二人が歿くなったと云うものだから﹂
と云うと、お米が、
﹁志丈さんがだましたものですよ﹂
と云って、それから二人が其処へ来た理わけを話した。それによると平左衛門の妾めかけのお国くにが、某ある日ひ新三郎が死んだと云ってお露を欺したので、お露はそれを真まに受けて尼になると言いだしたが、心さえ尼になったつもりでおればいいからと云ってなだめていると、今度は父親が養子をしたらと云いだした。お露はどんなことがあっても婿はとらないと云って聞かなかったので、とうとう勘当同様になり、今では谷やな中かの三みさ崎きでだいなしの家うちを借りて、其処でお米が手内職などをして、どうかこうか暮しているが、お露は新三郎が死んだとのみ思っているので、毎日念仏ばかり唱えていたのであった。そして、お米は、
﹁今日は盆のことでございますから、彼あっ方ちこ此っ方ちおまいりをして、晩おそく帰るところでございます﹂
と云った。新三郎はお露が無事でいたので喜うれしかった。
﹁そうですか、私はまた此のとおり、お嬢さんの俗名を書いて、毎日念仏しておりました﹂
﹁それほどまでにお嬢さまを﹂思い出したように、﹁それでお嬢さまは、たとえ御勘当になりましても、斬きられてもいいから、萩原さまのお情を受けたいとおっしゃっておりますが、今夜お泊め申してもよろしゅうございましょうか﹂
それは新三郎も望むところであったが、ただ孫店に住む白はく翁おう堂どう勇ゆう斎さいと云う人にん相そう観みが、何かにつけて新三郎の面倒を見ているので、それに知れないようにしなくてはならぬ。
﹁勇斎と云うやかましやがいますから、それに知れないように、裏からそっと入ってください﹂
そこでお米はもじもじしているお露を促うながして裏口から入り、とうとう其処で一泊した。そして、翌日はまだ夜の明けないうちに帰って往ったが、それからお露は毎晩のように新三郎の処へ来た。ちょうど七日目の夜であった。孫店に住む伴蔵は、毎夜のように新三郎の家から話声が聞えて来るので、不思議に思いながら新三郎の家へ往って、そっと雨戸の隙間から覗のぞいてみた。比ひよ翼くご蓙ざを敷いた蚊帳の中には、新三郎が壮い女と対むかいあって坐っていた。伴蔵は目をった。と、其の時女の声で、
﹁新三郎さま、私がもし勘当されました時は、お米と二人をお宅へおいてくださいます﹂
すると新三郎の声で、
﹁引きとりますとも、あなたが勘当されたら、私はかえってしあわせですよ。しかし、貴あな女たは一人娘のことですから、勘当される気づかいはありますまい。後のちになって、生木を裂かれるようなことがなければと、私はそれが苦労でなりません﹂
﹁あなたより他に所おっ天とはないと存じておりますから、たとえお父さまに知れて、手討ちになりましてもかまいません、そのかわり、お見すてなさるとききませんから﹂
伴蔵は女の素性が知りたかった。伴蔵は伸びあがるようにして、もいちど雨戸の隙間から室の中へ眼をやった。島田髷の腰から下のない骨と皮ばかりの女が、青白い顔に鬢びんの毛をふり乱して、それが蝋ろう燭そくのような手をさしのべて新三郎の頸くびにからませていた。と、其の時、傍にいた丸髷の、これも腰から下のない女が起ちあがった。同時に伴蔵は眼さきが暗くらんだ。
三
伴蔵は顫ふるいながら家うちへ帰り、夜の明けるのを待ちかねて白翁堂勇斎の家へ飛んで往った。そして、まだ寝ていた勇斎を叩き起した。
﹁先生、萩原さまが、たいへんです﹂
勇斎は血の気けのない伴蔵の顔をきっと見た。
﹁どうかしたのか﹂
﹁どうのこうのって騒ぎじゃございませんよ、萩原さまの処へ毎晩女が泊りに来ます﹂
﹁壮い独ひと身りも者ののところじゃ、そりゃ女も泊りに来るだろうよ。で、その女が悪党だとでも云うのか﹂
﹁そう云うわけではありませんが、じつは﹂
伴蔵はそれから前夜の怪異をのこらず話した。すると勇斎が、
﹁此このことは、けっして人に云うな﹂
と云って、藜あかざの杖をついて伴蔵といっしょに新三郎の家うちへ往った。そして、いぶかる新三郎に人相を見に来たと云って、懐ふところから天眼鏡を取り出して其の顔を見ていたが、
﹁萩原氏、あなたの顔には、二十日を待たずして、必ず死ぬると云う相が出ている﹂
と云った。新三郎はあきれた。
﹁へえ、私が﹂
﹁しかたがない、必ず死ぬ﹂
そこで新三郎が何とかして死なないようにできないだろうかと云うと、勇斎が毎晩来る女を遠ざけるより他に途みちがないと云ったが、新三郎は勇斎がお露のことを知るはずがないと思っているので、
﹁女なんか来ませんよ﹂
と云った。すると勇斎が、
﹁そりゃいけない、昨ゆう夜べ見た者がある、あれはいったい何者です﹂
新三郎はもうかくすことができなかった。
﹁あれは牛うし込ごめの飯島と云う旗下の娘で、死んだと思っておりましたが、聞けば事情があって、今では婢じょちゅうのお米と二人で、谷中の三崎に住んでいるそうです。私はあれを、ゆくゆくは女房にもらいたいと思っております﹂
﹁とんでもない、ありゃ幽霊だよ、死んだと思ったら、なおさらのことじゃないか﹂
しかし、新三郎は信じなかった。勇斎は其の顔をじっと見た。
﹁それじゃ、おまえさんは、その三崎村の女の家うちへ往ったことがありなさる﹂
新三郎は無論お露の家は知らなかった。それに、新三郎は勇斎の態度があまり真剣であるから何となく不安を感じて来た。
﹁先生、それなら、これから三崎へ往って調べて来ます﹂
そこで新三郎は三崎村へ往った。そして、彼あち方らこ此ち方らと尋ねてみたが、それらしい家がないので、不思議に思いながら帰ろうと思って新しん幡ばん随ずい院いんの方へ来た。新三郎はもうへとへとになっていた。其の新三郎が新幡随院の境内を通りぬけようとしたところで、堂の後うしろになった墓地に、角かく塔とう婆ばを建てた新しい墓が二つ並んでいた。そして、其処には牡丹の花のきれいな燈籠が雨ざらしになっていた。新三郎の眼は其の牡丹燈籠に貼りついたようになった。それは彼かのお米がお露とともに毎夜点つけて来る燈籠とすこしも変わらなかった。新三郎はもしやと思って寺の台所へ往って聞いてみた。すると其処にいあわせた坊主が、
﹁あれは牛込の旗はた下もとで、飯島平左衛門と云う人の娘と、婢の墓だ﹂
と云った。それを聞くと新三郎は蒼くなって走った。そして、其の足で勇斎の処へ往って右の事情を話した。
﹁占いで、来ないようにできますまいか﹂
﹁占いで幽霊の処置はできん。彼あの新幡随院の和おし尚ょうはなかなか豪えらい人で、わしも心やすいから、手紙をつけてやる、和尚の処へ往って頼んでみるがいい﹂
新幡随院の住持は良りょ石うせき和尚と云って、当時名僧として聞えていた。新三郎は勇斎から手紙をもらって良石和尚を尋ねて往った。良石和尚は新三郎を己じぶんの室へやへ通して其の顔を見ていたが、
﹁おまえさんの因縁は、深いわけのある因縁じゃ、それはただいちずにおまえさんを思うている幽霊が、三世も四世も前から、生きかわり死にかわり、いろいろの容さまを変えてつきまとうているから、遁のがれようとしても遁れられないが﹂
と云って、死しり霊ょう除よけのお守まもりをかしてくれた。それは金きん無む垢くで四寸二分ある海かい音おん如にょ来らいのお守であった。そしてそれとともに一心になって読どき経ょうせよと云って、雨うほ宝うだ陀らに羅き尼ょ経うという経きょ文うもんとお札ふだをくれた。
新三郎は良石和尚にあつく礼を云って帰って来たが、帰ってくると早速勇斎に手伝ってもらって、和尚の云ったようにお札をいたる処に貼り、海音如来のお守を胴巻に入れて首にかけ、蚊帳を釣って其の中で経文を読んでいた。
其のうちに夜になって、カラコン、カラコンと云う下駄の音が聞えて来た。新三郎は一心になって経文を唱えていたが、やがて駒下駄の音が垣根の傍でぴたりととまったので、恐るおそる蚊帳から出て雨戸の節ふし穴あなから覗いてみた。いつものようにお米が牡丹燈籠を持っている後に、文金の高髷に秋草色染の振袖を著きたお露が、絵の中から抜け出たような美しい姿を見せていた。新三郎はぞっとした。其の時家うちの周囲に眼をやっていたお米がお露の方を見た。
﹁お嬢さま、昨ゆう夜べのお詞ことばと違って萩原さまは、お心変がわりあそばして、あなたが入れないようにしてございますから、とてもだめでございます。あんな心の腐った男は、もうお諦あきらめあそばせ﹂
﹁あれほどまでにお約束をしたのに、変りはてた萩原さまのお心が情けない。お米や、どうぞ萩原さまに逢わせておくれ、逢わせてくれなければ、私は帰らないよ﹂
お露は振袖を顔にあてて泣きだした。其のうちに二人が裏口の方へ廻ったようであるから、新三郎は蚊帳の中へ入ってぶるぶると顫えていた。
四
おみねはうす暗い行あん燈どんの下で一所懸命に手内職をしていたが、ふと其の手を止めて蚊帳の中をすかすようにした。処ところどころ紙かみ撚よりでくくった其の蚊帳の中では、所おっ天との伴蔵が両手を膝についてきちんと坐り、何かしらしきりに口の裏で云っていた。おみねは所天の態度がおかしいので目をった。と、その時みずみずしい女の声が聞えて来た。おみねはおやと思ったが、そのうちに女の声も聞えなくなったので、そのままにしていると、その翌晩もまたその翌晩も同じように伴蔵の所へ女が来るようであるから、とうとうがまんがしきれなくなった。
﹁人が寝ないで稼いでいるのに、ばかばかしい、毎晩おまえの所へ来る女は、ありゃ何だね﹂
すると伴蔵が蒼い顔をして話しだした。それは牡丹燈籠を点けたお露とお米が来て、新三郎の家うちの裏の小さい窓へ貼ってあるお札を剥はがしてくれと云って頼むので、明日剥しておくと云って約束したが、其の日は畑へ往ってすっかり忘れていたところで、その夜また二人が来て何故剥してくれないかと云った。そこで忘れていたから明日はきっと剥しておくと云ったが、考えてみると、いくらなんでもあんな小さい窓から人間が出入のできるものではない。これはきっと幽霊にちがいないから、もしもの事があってはたいへんだと思って、おみねにも話さずにいるとのことであった。
﹁そんなわけで、おれは此処を引越してしまおうと思うよ﹂
するとおみねが、
﹁明日の晩来たら、私ども夫婦は、萩原さまのおかげで、こうやっているから、萩原さまに万一の事があっては、生くら活しがたちませんから、どうか生活のたちゆくようにお金を百両持って来てください。そうすれば、きっと剥がしておきますと云うがいいよ﹂
と云った。
その翌日、伴蔵とおみねは新三郎の家うちへ往って、無理に新三郎に行ぎょ水うずいをつかわすことにして、伴蔵が三畳の畳をあげると、おみねが己じぶんの家で沸した湯と盥たらいを持って来た。そこで新三郎は衣きも服のを脱ぎ、首にかけていた彼かの海音如来のお守を除とった。
﹁伴蔵、これはもったいないお守だから、神棚へあげておいてくれ﹂
伴蔵はそれを大事そうに執った。
﹁おみね、旦那の体を洗ってあげな﹂
おみねは新三郎の後うしろへ廻って洗いだした。そして、何かと云いながら襟を洗うふうをして伴蔵の方を見せないようにした。
其の時伴蔵は彼かの胴巻から金無垢のお守を取り出していた。伴蔵とおみねは、お露から百両のお礼をするから、お札の他にお守を隠しておいてくれと云われているので、行水に事よせてそれを盗もうとしているところであった。
伴蔵は海音如来のお守を抜きとると、其のあとへ持って来ていた瓦かわらで作った不動様の像を押しこんで、もとのように神棚へあげた。そして、新三郎の行水が終ると、二人はそしらぬ顔をして帰って来たが、帰って来るなり、海音如来のお守を羊よう羹かん箱ばこの古いのへ入れて畑の中に埋め、今夜はお露たちが百両の金を持って来るから、其の前祝いだと云って、二人でさし対むかって酒を飲んでいた。
其のうちに八つ比ごろになった。そこでおみねは戸棚の中へかくれ、伴蔵が一人になってちびりちびりとやっていると、清しみ水ずの方からカラコン、カラコンと駒下駄の音が聞えて来たが、やがてそれが生垣の傍でとまったかと思うと、
﹁伴蔵さん、伴蔵さん﹂
と云って、お米とお露が縁側へ寄って来た。伴蔵が顫えながら返事すると、お米が、
﹁毎晩あがりまして、御迷惑なことを願い、まことに恐れいりますが、まだ今晩もお札が剥れておりませんから、どうかお剥しなすってくださいまし﹂
﹁へい剥します、剥しますが、百両の金を持って来てくだすったか﹂
﹁はい、たしかに持参いたしましたが、海音如来のお守は﹂
﹁あれは、他へかくしました﹂
﹁さようなれば百両の金子をお受け取りくださいませ﹂
お米はそう云って伴蔵の前へ金を出した。それはたしかに小判であった。まさか幽霊が百両の金をと内心疑っていた伴蔵は、それを見るともう怖いことも忘れて、
﹁それでは、ごいっしょにお出いでなせえ﹂
と云って、二間梯ばしごを持ち出して新三郎の家うちの裏窓の所へかけ、顫い顫いあがってお札を引ひっ剥ぺがした機ひょうしに、足を踏みはずして畑の中へ転げ落ちた。
﹁さあお嬢さま、今晩は萩原さまにお目にかかって、十分にお怨うらみをおっしゃいませ﹂
お米はお露を促して裏窓から入って往った。
翌朝になって伴蔵は、欲にからんでやったものの、さすがに新三郎のことが気にかかるので、おみねを伴れて容子を見に往った。
そして、雨戸を開けて中を覗くなり、のけぞるように驚いて白翁堂勇斎の家へ往き、勇斎を伴れて新三郎の家へ取って返した。新三郎は蒲団の中で死んでいたが、よほど苦しんだとみえて、虚空を掴つかみ歯をくいしばっていたが、その傍に髑どく髏ろがあり、手の骨らしいものもあって、それが新三郎の首にからみついていた。