暗い中から驟ゆう雨だちのような初夏の雨が吹きあげるように降っていた。道夫は傾こう斜ばいの急な径こみちを日ひよ和り下げ駄たを穿はいた足あし端さきでさぐりさぐりおりて往った。街燈一つないその路みちは曲りくねっているので、一歩あやまれば転ころがって尻しり端はし折ょりにしている単ひと衣えものを赭あか土つちだらけにするか、根ねさ笹さや青あお薄すすきに交まじって漆うるしの木などの生えた藪やぶ畳だたみの中へ落ちて茨いばらに手足を傷つけられるかであった。そこは――学校の傍から――町へおりる捷ちか径みちであった。普通に――町へ往くには学校の崖下になった広い街とお路りを往くのであるが、それではひどく迂まわ路りみちになるので、彼は平いつ生ものようにその捷径を選んだのであった。 道夫はその日友人の下宿へ往って二人で酒を飲んでいた。彼は画家であった。彼は友人の処でウイスキーとビールをごっちゃに飲んで腹の中がだらけたようになっているので、熱い日本酒を飲みたいと思ったが、杖こづ頭かいがないのでしかたなしに通りすがりのカフェーやおでんやの燈ひに心を牽ひかれながら帰っているところであった。 十一時はとうに過ぎていた。小さくなっていた雨がまた音をたてて降って来た。道夫は立ちすくみながら坂の下へ眼をやった。坂の下は黒こく暗あん暗あんとして何も見えなかった。生垣があり駝うえ師きやの植木があって、人家は稠ちゅ密うみつと云うほどでもないが、それでもかなり人家があるので、燈ひの一つも見えないと云うはずがなかった。 ︵おかしいぞ︶ しかし、道夫はそんなことよりも早く下宿へ帰って、寝ぼけている婢じょちゅうにはかまわず、台所から酒を持って来て己じぶんで燗かんをして飲みたかった。 雨はすぐ通りすぎた。彼はまたおりた。青い刻きざ煙みた草ばこの吸殻のような光があった。それは根ねざ笹さの葉はう裏らに笹の葉の繊維をはっきり見せていた。 ︵おや︶ それは蛍ほたるか何かであろう。彼は嘗かつて支し那なの随筆の中で読んだことのある蛍に関する怪奇な譚ものがたりを思いだした。それは夏の夕ゆうべ一人の秀才が庭の縁えん台だいの上で寝ていると、数たく多さんの蛍が来て股もものあたりへ集まっていた。秀才がそれを見て冗談を云うと、蛍ほた火るびが消えて美しい女むすめが出て来たので、それを愛好したと云う話であった。 ︵どうだい、君も美人にならないか︶ そのひょうしに足がすべってずらずらとずり落ちた。彼は落ちながら前のめりになろうとする体をやっと支えて立ちなおった。立ちなおって気をつけてみると坂さか路みちをおりつくしていた。 ︵おや、おりたのか、美人のことを考えてたから、うまく一息におりられたぞ︶ 道夫は気もちがよかった。彼は体を真まっ直すぐにして歩いた。傘が何かにひっかかってざらざらと音をたてた。 ︵垣根にひっかかったのか︶ 雨は小降りになっていた。傘の右にも左にも、ろそう桑のような大きな葉をつけた木の枝があった。傘はその枝葉に支えられていた。両側に桑の枝葉があるなら桑の畑でなくてはならなかった。 ︵桑の畑があったかなあ︶ 終しょ始っちゅうその捷ちか径みちを往来している道夫は、そこに桑畑のあることは知らなかった。 ︵駝うえ師きやの庭ではないか︶ 駝師の庭か桑畑の中か、往ってるうちには判るだろうと思った。彼はその枝葉に傘をとられないように傘をつぼめて歩いた。雨がまたざあざあと音をたてて降って来た。路みちはぬかっていた。彼は傘と脚あし下もとに注意しいしい往った。 ︵やっぱり桑畑かなあ、こんな処に桑畑があったかなあ︶ 桑畑のような枝葉の間の路は長かった。そのうちに雨の音がしなくなった。彼は隻かた手てを外へ出してみた。雨はやんでいて雨水は手にかからなかった。雨がやんだのに傘をさしているのはつまらないことであった。彼は傘をたたんで、物を撲なぐりつけるような恰かっ好こうで傘の雫しずくを切りながら左の手に持って歩いた。 ︵おりる路をまちがえたろうか︶ そのあたりですこし位路をまちがえたところで、そんな広い畑はなかった。 ︵おかしいなあ、狐きつねにつままれたと云うことを云うが、狐にでもつままれたろうか︶ その時ふふうと云うような何物かが鼻の端さきで息をするようなけはいがした。彼はびっくりして右側へ眼をやった。そこには長い長い獣けだものの顔が二つ三つうっすらと見えていた。 ︵おや、馬がいるのか︶ 彼はまた左側へ眼をやった。そこにも長い獣の顔が一つ二つ浮いていて、それが鼻息をたてているのであった。 ︵それじゃ、どっかの牧ぼく場じょうか︶ なににしても馬に噛かまれてはたいへんであるから、噛まれないようにと用心しながら歩いたが、そのあたりに牧場のあるのはおかしかった。彼は朝あさ夕ばんに散さん策ぽもすれば、写生にも出てそのあたりの地理に精くわしかったので、牧場のあるのが腑ふにおちなかった。 ︵もし、牧場だとすると、たいへんな処へ往ってるのだ︶ 彼はちょっと立ちどまって考えた。――学校のてまえにあった五六軒のカフェーも二軒のおでんやも見なれた家であった。また学校も学校の柵も、学校のはずれの十よつ字つ路じの街燈もたしかにまちがっていないうえに、その十字路を学校の崖下の方へすこし往って、枝の禿ちびた接にわ骨と気この木を目あてにしてその傍からおりていることもたしかに判っているので、他へ往っている気づかいはないのであった。 ︵それにしてもこの馬はどうだ︶ またふふうと云う数すう疋ひきの鼻息がした。彼はまた眼をやった。右側にも左側にも二つ三つの顔が浮いていた。 ︵とにかく、牧場があるなら、番ばん小ご舎やが﹇#﹁番ばん小ご舎やが﹂は底本では﹁番ばん小ご舍やが﹂﹈あるだろう︶ とにかく往くところまで往ってみようと思いだした。彼はまた歩きだした。そして、眼をやると馬の顔が浮いており、耳をたてると鼻息がするのであった。彼はやや気もちがおちついて来た。彼はビールか水が一ぱいやりたくなった。熱い日本酒のこともそれとともに思いだした。 ︵えらい処へ来たものだ︶ 彼は早くそこを出たかった。彼は前へ眼をやった。そこに明るい燈ひを見つけた。 ︵家があるぞ︶ 彼はうれしかった。彼は急いで燈のある方へ往った。そこに一軒の家の袖そで垣がきのような低い生いけ垣がきの垣根があった。その生垣越しに縁えん側がわが見えた。 ︵牧場の主人の家だろうか︶ どこでもいいから早く往って他へ出る路みちを聞こうと思ったが、彼はそれよりも人の顔を見て人の声を聞きたかった。彼は長い間人のいない世界にいたようで人がなつかしかった。そこは瀟しょ洒うしゃな演しば戯いの舞台に見るような造ぞう作さくで、すこし開けた障しょ子うじの前に一人の女が立っていた。それは三十前後の銀いち杏ょう返がえしのような髪に結ゆった女であった。 ﹁もし、もし、しょうしょうおたずねします﹂ 彼は女を驚かさないようにと思ってつとめてやわらかに云った。女は顔をこっちへ向けた。 ﹁はい﹂ ﹁僕は路に迷ってるのですが、ここは牧場ですか﹂ ﹁そうでございますよ、あなたはどちらへいらっしゃいますの﹂ ﹁僕は――町へ帰るのですが、どちらへ往ったらいいのでしょう﹂ ﹁――町、それはたいへんですよ、いっぷくなすって、ゆっくりお帰りになるがよろしゅうございますよ、お茶でもあげましょう﹂ 喉もかわいているし、泡くってはいけないと思ったので、休ましてもらいたいと思ったが、深よふ更けに見ず知らずの家へ迷惑をかけるのも気のどくであった。 ﹁ありがとうございます﹂ ﹁ほんとにお入りなさいましよ、こんな時には、気をおちつけになるのがよろしゅうございますよ﹂ ﹁御迷惑じゃないでしょうか﹂ ﹁なに、お嬢さんと二人ぎりでございますから、よろしゅうございますよ、お入りなさいましよ﹂ 女二人ならべつに気づまりなこともないし、縁側へ休ましてもらう位はいいだろうと思った。 ﹁それじゃ、すみません﹂ ﹁そこからいらしてくださいましよ、その扉とはよせかけてありますから﹂ ﹁そうですか﹂ 垣根にはしおり扉どがあった。道夫はそれを押して入った。庭には石しゃ南くなげのような花の咲いた木があった。彼は庭の敷石を伝つたって縁側へ往った。 ﹁すみません、ちょっと休ましてください﹂ ﹁さあ、どうぞ、雨でたいへんだったでしょう﹂ ﹁えらい雨でしたね﹂ 道夫は手にした傘をまず立てかけて斜ななめに腰をかけた。腰をかけながら室へやの中へやるともなしにやった眼に、島田の髷まげをかしげるようにして坐っている壮わかい女の白い隻かた頬ほおを見た。それは年とし増まの云った令嬢でなくてはならぬ。 ﹁あなたは、お酒をあがってらっしゃるでしょう﹂ 年増は水みずした眼を見せた。 ﹁そうです﹂ ﹁お酒がお好き﹂ 道夫は微笑した。 ﹁すこし飲みます﹂ ﹁では、お酒をあげましょうか﹂ なんぼなんでも酒を飲ましてくれとは云えなかった。 ﹁どうか、水を一ぱいください﹂ ﹁水もあげますが、お酒もあげましょうよ﹂ 年増はもう起たって縁側を左の方へするすると往ってしまった。道夫はちょっと困ったが、もともと物に拘こう泥でいしない質たちであるから、すぐそんな心づかいなどは忘れて室へやの中へ眼をやった。それは島田髷の壮わかい女の顔をはっきり見たいがためであった。島田の女は隻頬を見せたままでいたが、それは膝ひざへ小説かなんかを乗っけて見ているようであった。そこへ年増が盆を手にして引返して来た。 ﹁何もお肴さかながございませんよ﹂ 盆には一本の銚ちょ子うしに猪ちょ口こを添え、それに脯からすみのようなものを小皿に入れてつけてあった。 ﹁どうもすみません﹂ 道夫はさすがに手をもじもじさしたが、熱い日本酒は飲みたかった。年増は銚子を持った。 ﹁お酌しゃくしたことがございませんから、恰かっ好こうがへんですが、お一つ﹂ ﹁すみません﹂ 道夫はちょっと頭をさげて盃さかずきを出した。年増はそれに酌をした。 ﹁お酌しつけないものがお酌しては、かえってお酒がまずうございましょうから、あなたがどうかごかってに﹂ ﹁それじゃ、かってにいただきます、すみません﹂ 己じぶんのもののようにかってに酌ついで飲むのはわるいと思ったが、飲みたい飲みたいと思っていた酒にありついたうえに、それがばかに旨いのでひきずられた。 ﹁お酒がたいへんお好きのようでございますね﹂ ﹁酔っぱらいで困るのです﹂ ﹁どれ位めしあがりますの﹂ ﹁さあ﹂ 飲みだすと一晩中でも飲むので己ながらはっきりした量が云えなかった。 ﹁御自身で判らないほどめしあがりますの﹂ 道夫は苦笑した。 ﹁そうでもないのです﹂ ﹁今晩はどこであがっていらっしゃいました﹂ ﹁友人の下宿で昼間から飲んでましたが、ビールとウイスキーで、帰りに日本酒を飲みたかったのですが﹂ うっかり云ってつまらんことを云ったものだと気が注ついた。 ﹁飲みたかったが、どうなさいましたの﹂ 女の笑い声がした。 ﹁金がなかったから、下宿へ帰って飲むつもりで帰ってたところですよ﹂ ﹁そう、ほんとにお好きねえ、それじゃうんといただいてくださいましよ、お酒はどっさりありますから﹂ 年増はもう起たって往った。道夫はちらちらする眼で絵のようにそれを見ていた。 ﹁よくつきました﹂ 年増は後あとの銚子を持って来ていた。 ﹁どうも、これは﹂ 道夫はまたその銚子に手をかけた。 ﹁そんなにおいしゅうございますの﹂ ﹁旨いですよ﹂ ﹁わたしも、お酒がいただけるなら、いいと思うことがあるのですよ﹂ ﹁酒は飲まないのですか﹂ ﹁一滴もいただけないですよ﹂ ﹁そうですか、ねえ、旨いのですが、ねえ﹂ 年増の佳いい姿がはっきり道夫の眼に見えた。それは勝浦の旅館で知りあった婢じょちゅうにそっくりの好ましい姿であった。 ﹁おあがりなさいましよ、お嬢さんが淋しがっておりますから、おあがりになって、ゆっくりなすってくださいましよ、それとも待ってらっしゃる方がおありなさいますの﹂ ﹁そんなものがあるものですか﹂ ﹁では、おあがりくださいましよ、お酒のおあいてはわたしがいたしますから﹂ 年増の眼は道夫の魂を誘いざなった。彼は年増からはなれることがいやであった。 ﹁足が泥だらけですから﹂ ﹁おふきしますから、こっちへいらしてくださいましよ﹂ ﹁そうですか、それでは﹂ 道夫はよたよたと縁えん側がわへあがった。年増はすぐ寄って来て道夫の隻かた手てをやわりと握った。 ﹁どうぞこちらへ﹂ 道夫は年増の導くままに縁側を左の方へ往った。 ﹁ちょっとお待ちくださいまし﹂ 道夫はたちどまった。年増の手にした雑ぞう巾きんであろう温あたたかな片きれが双りょ足うあしに来た。年増の香こう油ゆの匂いが気もちよく鼻にしみた。 ﹁さあ、どうぞ﹂ 年増の隻かた手ては道夫の肩にかかった。道夫は待まち合あいにでも往ってるような気になって女に体をまかして往った。 ﹁ここよ﹂ そこは青い絹の夜や具ぐを敷いた室へやであった。 ﹁ちょっと横におなりなさいましよ、酒も今持ってあがりますから﹂ 年増の頬は道夫の頬にくっついていた。道夫はうつらうつらとしていた。そして、暫しばらく睡ねむったようになっていた道夫は、尖とがりのある女の声を聞いた。 ﹁この野やか干ん、またふざけやがって﹂ それは紙しそ燭くのようなものを手にした島しま田だま髷げの壮わかい女であった。傍には彼かの年増が小さくなって俯うつ向むいていた。 ﹁おまえさんは、どうした人間だい、まごまごしよると、そのままにはおかないよ﹂ 道夫は恐ろしいのでそのまま飛び起きて走り出た。そして、どこをあてどもなしに走って、やっと気が注ついたところで、そこに板屋根の小窓から威勢のいい燈ひの見えている家があった。 道夫は安心してその窓の方へ寄って往った。そこは小さな鍛か冶じ屋やの工場で、の火がかんかんおこっている傍に、銀のような裏白な髪をした老婆がいた。それは鉄の焼けるのを待っているような容ふうであった。 ﹁もし、もし、――町へは、どう往ったらいいでしょう﹂ 老婆はぎろりと眼を光らして、黄きいろにしなびている頤あごを右の方へ一二度突きだした。道夫は鬼き魅みがわるいので、もう何も云わないで老婆の頤で指した方へ往った。と、すぐ見おぼえのある――町へ出て下宿へ帰ることができた。翌日になってその画家は老婆の家から牧ぼく場じょう、牧場の中の怪しい家を探したが、そんな家もそんな場所もどこにもなかった。 後のちになってその画家は、その土地のことに明るい人から、昔、そのあたりは馬うま小ご舎やがあったと云うことを聞いたが、それ以外には何も判らなかった。