務つとむは電車の踏切を離れて丘の方へ歩いた。彼は一度ならず二度三度疾走して来る電車を覘ねらっていたが、そのつど邪魔が入って目的を達することができなかった。彼は混乱している頭で他に死場所を探さなければならなかった。彼はいらいらした気もちで歩いていた。 電車線路のこっちに一幅の耕地を持って高まった丘は、電車が開通するとともに文化住宅地になって、昼間電車の中から見ると丘の樹木の間から碧あお瓦がわらや赭あか瓦がわらの簷のきが見えた。その丘の傾斜面には春の初めには椿つばきの花が覗のぞき、その比ころは朱や紫の躑つつ躅じの花が覗いていた。 その路みちには住宅地組合で建てた街燈がぽつぽつあった。もう十時を過ぎているので人通りはほとんどなかった。街燈の燈ひは務の蒼あお白じろい片かた頬ほおを見せていた。彼はかなり勾こう配ばいのある傾斜面をあがっていた。街燈の燈は路の左右にある赤松のひょろ長い幹や黒松の幹を見せていた。彼の頭にはその坂道をすこし往った処から右に折れて往く小こみ径ちが浮んでいた。 その土地に生れてその土地に住んでいる務は、その辺あたりの地理には精くわしかった。小径は直すぐであった。彼は小こみ径ちを右に折れて往った。そこは住宅地に住む人達の朝晩に散歩する処であった。彼はその小径を大半往き尽した所に死場所を求めているのであった。 その小径には中程に一箇かし処ょ、あがりきった処に一箇処の街燈があった。務の頭の中は死を追う焦慮と、妻子を遺のこして死んで往く悲しみと、脚あし下もとをすくわれたような恨みで混乱していた。彼の前には蒼あおい長なが手てな顔の紫色の唇をした大おお柄がらな女の姿が浮んでいた。 小径は残りすくなになって来た。路みちの左側から下垂れて出た赤松の枝が頭の上にあった。丘のあがりたてに点ついた街燈の燈が微かすかにぼんやりした光を投げている。務はその下に往くとぴったり足を停とめてその枝をじっと見あげた後に両手を兵へこ児お帯びに掛けていそがしそうに解いた。そして、くるくると解けたその帯の一方を円まるめて枝の方に投げた。帯は枝にかからないでそのまま落ちて来た。彼はいそがしそうにまたそれを手た繰ぐって初めのようにして投げた。 今度は枝を越してその端はしがふうわりと前に来た。務は手早くその端と手にしている一方の端を入り違わせて、己じぶんの額ひたいのあるあたりで結んだ。彼はそうして石のようになって立っていたが、思いだしたようにそれに両手をかけて上に攀よじのぼるようにした。 ﹁あなたは、何をなさるのです﹂ 耳みみ許もとで叱しかり咎とがめるような声がするとともに右の腕首をぐいと捉つかんだ者があった。務は浮かしていた体をしかたなしに下に落した。 ﹁務じゃないか﹂ 驚いたように云った対あい手ての温あたたかな呼い吸きが頬ほおにかかるように思った。務は驚いて眼をみはった。 ﹁俺だよ、正義だよ﹂ 務は同時に白っぽい洋服を着た兄の鈎かぎ鼻ばなのある顔を見つけた。 ﹁ああ﹂ ﹁お前が倉くら知ちさんへ往っていると云うから、ついでに挨あい拶さつして来ようと思って、あがらずに来た、何な故ぜそんな、つまらない真ま似ねをするのだ﹂ ﹁わ、わたしは、申訳のないことをしているのです﹂ 前年の八月に二人の小供が前後してチブスになったので戸主の兄に無断で宅地を抵当にして金を借りたが、そこは植木屋をしていた父親の出入先で、歿なくなったそこの主人には現在自おの己れの奉職している会社の奉職口まで世話になった間であるし、夫人とも如才ない間であるから、他から借りてくれたと云うことになっているが、それは口実で、金は屹きっ度とそこから出ていると思っているので、一二度利あげをしたままでそのままにしてあったところで、済チー南ナンに往って商売をしていた兄から、支し那なの動乱で商売も面白くないから、店を譲って近ちか近ぢか帰って来ると云う手紙がその朝の郵便で来た。務は夫人に縋すがって兄に知らさないように始末をしようと思って会社から帰るなり往ってみた。往ってみて務は驚いた。夫人はあの地所はもう抵当流れになっているが、すぐなら六百円もあればどうにか話がつくだろうと云った。借りた金は三百円であった。兄の名にして実印ではないがその印も捺おしてあった。それに兄は先妻の子で務のためには異母兄であるが、親のように平いつ生も家の面倒を見てくれているので、気の小さな務は宅地をなくしては兄に顔を合せることができなかった。 ﹁申訳のないことって、お前の申訳のないことなら、地所でも抵当にして金でも借りてる位のことだろう、あれはお前にくれてやるつもりだったから、お前がなくしたところで俺は何とも思やしないよ﹂と、云いかけて気が注ついたように、﹁人が来ると見っともない、俺が帰って来たから、もう何も心配することはない、往こう﹂ 兄の手は何い時つの間にか離れていた。務は兄の詞ことばを聞いて心が軽くなった。彼はきまりわるそうに帯の結び目を解といて手た繰ぐり、急いで前をつくろうてそれを締めた。 ﹁地所かなんかどうかしたのか﹂ ﹁申訳がありません、昨年の八月に、義よし隆たかと千ちづ鶴るがチブスになって、入院したものですから、倉知の奥さんに頼んで地所を抵当にして、金を借りてもらったのですが、奥さんは他よ処そから借りてやるから、ちょっとした証書を作って、宛名は書かずに持って来いと云うものですから、そのとおりにして持ってって、二回に三百円借りて、二度利あげをしたなりで、倉知さんの金だろうから、盆と暮のボーナスまで待ってもらって払おうと思ってるうちに、今け朝さ、兄さんのお帰りになると云う手紙が来たものですから、地所のことが気になって、今晩往ってみると、あの金は××町の木村と云う地所の売買をしてる人から借りてたが、そのままにしてあったものだから、流れたって云うのです、わたしは困って、どうかならないものだろうかと云うと、今なら六百円あればどうにでもなると云うのです﹂ ﹁よし、六百円か、六百円位で先祖から伝わっている地所を流すは惜しい、じゃ、これから往ってとり戻して来よう、金はある﹂ 倉知の家は電車線路の前むこ方うになった丘の上にあった。主人は小さな銀行の重役をしていてからそこへ移って来ていたものであった。主人が歿なくなったのは五六年前のことであった。 倉知夫人は務の帰ったあとで、その比ころよく出入している株式の仲買店にいると云う壮わかい男と奥の室へやで話していた。と、婢じょちゅうが来て山岡正義と云う方が見えたと云った。夫人は務から兄が帰ると云って手紙をよこしたと云うことを聞いていたので、別に不思議にも思わなかった。そして、応接室に通すように云って婢を往かした後で、壮い男と眼を見あわして紫色の唇に笑いを動かした。 夫人はそれから応接室へ往った。応接室には白っぽい洋服を着た正義が厳然と控えていた。 ﹁おや、山岡さん、暫しばらくでございました﹂ ﹁どうも暫くでございました、務はじめ留守許もとは平いつ生も御厄介になります﹂ ﹁いや、手前こそ山岡さんには、平いつ生も御厄介になっております﹂ ﹁いや、どういたしまして、まだこまごまと御礼を申しあげるはずですが、すこし急を要することですから、まず要件だけを申します、それは他でもありませんが、弟の手を経てお願いした金のことですが﹂ ﹁はあ﹂ 夫人の耳には正義の詞ことばが鋭い力を持って響いた。夫人は鬼き魅みが悪かった。夫人は原もと利息のために務に金を貸していたが、手ても許とがくるしくなったので、壮い男の入いれ智ぢえで山岡の宅地を奪って外ほかへ売ろうとしているのであった。夫人はその比ころあっちこっちの男のくい物になって、持っていた金も地所も無くしていた。 ﹁今、弟から精くわしく聞いて、よく判っておりますから、もう面倒なことはお願いいたしません、どうか六百円持ってまいりましたから、あの証書を返してください﹂ 夫人は証書が己じぶんの家にあると云ってはつごうがわるいので、 ﹁証書ですか﹂ と、云いかけたところで、 ﹁お宅にたしかにあるはずです、木村にはそんなものはないそうですから﹂ と、正義はおっかぶせるように云った。夫人はもしかすると正義が木村を調べて来たかも判らないと思ったので、もう何も云うことができなかった。正義はそのうちに上うわ衣ぎの内衣かく兜しから蟇がま口ぐちを出して、中から紙幣を出して六枚数えて卓の上に置いた。 ﹁もう今晩は遅いのですから、こまかいことはそのうちにゆっくり伺うかがいます、どうか証書を出してください﹂ ﹁そうですか、では﹂ 夫人はそのまま出て往ったが、間もなく一枚の書類を持って来た。 ﹁それでは、これを﹂ 正義は金を夫人の前へ出した。 ﹁では、これを﹂ 書類は正義の手に渡り金は夫人の手に渡った。と、正義は衣かく兜しから蝋ろうマッチをだして、火を点つけるなりその書類の端はしに点けた。書類はめらめらと燃えた。正義はその燃えさしを傍の火ひば鉢ちの中に入れて夫人の顔を見た。 ﹁これで、もうすみました、どうも有あり難がとうございました﹂ 正義はそのまま玄関へ出た。そして、夫人が気が注ついて後から往った時にはもう正義の姿は見えなかった。 務はその時倉知の門かど口ぐちに立って待っていた。正義の白っぽい洋服を着た姿はすぐ見えてきた。 ﹁もうすんだ、証書はマッチを点つけて燃したからもう安心だ﹂ 務はほっとした。 ﹁俺は、ちょと一軒廻って来る処がある、お前は前さき帰っとれ﹂ 務は一人で家へ帰った。家では細さい君くんがちょっとした肴さかなをかまえて正義の帰るのを待っていた。 正義はその晩とうとう帰らなかった。務は昨ゆう夜べはもう遅かったから往ったさきで止められて泊とまってるだろうと思った。務はそこで会社へ電話をかけて休み、兄の帰って来るのを待っていると、倉知夫人が怒ったような顔をして入って来た。 ﹁昨ゆう夜べ、あなたのお兄さんから戴いただいた金が、別に盗賊も入ったようにもないのに、そっくりなくなったのです、どうしたのでしょう﹂ 倉知夫人の詞ことばは如い何かにも正義が、奇術的な詐さ欺ぎをはたらいたと云わないばかりの詞であった。と、そこへ電報が来た。務は兄が泊った先から打ったものではないかと思って急いで開けてみた。
ヤマオカマサヨシクンゴフサイガ、シナヘイノギセイトナッタコトヲオクヤミモウシマス、イサイハアトヨリ、ニホンジンクラブ
務の顔色はみるみるかわった。倉知夫人は何事だろうと思って横あいから覗のぞき込んだ。そして、弾はじかれたように起たちあがって外にでながら走った。
倉知夫人が丘の下の番人のいない踏切にさしかかった時右の方から電車が来た。夢中になって走っていた夫人はその電車に触れたのであった。