外から帰って来た平へい兵べ衛えは、台所の方で何かやっていた妻を傍へ呼んだ。女は水で濡ぬれた手を前まえ掛かけで拭き拭きあがって来た。 ﹁すこし、お前に、話したいことがある﹂ 女は何事であろうと思って、夫の顔色を伺うかがいながらその前へ坐った。 ﹁この加賀へやって来たものの、どうも思わしい仕官の口がないから、私わしは土とし州ゅうの方へ往こうと思う、土州には、深ふか尾おも主ん人ど殿が、山やま内のう家ちけの家老をしておるし、主人殿なら、私わしの人ひと為となりも好く知っておってくれるから、何とか好いことがあるかも知れん、私わしはこの四五日前から、そのことを考えておったが、その方が好いように思われるから、いよいよ往くことに決心した﹂ ﹁それは、私わたしも時どき思わんこともありません、深尾殿なら、貴あな方たのこともよく御存じでございますから、ここのようではありますまい﹂ ﹁そうだ、私わしも、今日帰る路みちで、決心したから、出発しようと思う、就ついては不自由であろうが、私わしが土州へ往いて、身の振ふり方かたがつくまで、辛しん抱ぼうしていてくれ、土州へ往て、身の振方の着き次第、迎いに来るなり、使つかいをよこすなりする﹂ ﹁どんな不自由なことがありましても、貴あな方たの出世でございますから、きっとお留守を守っております、これと云うのも中納言様が、貴方のお詞ことばをお用いにならずに、治じ部ぶ殿の味方をなされたからでございます﹂ 平兵衛は浮うき田たひ秀であ秋きの家臣であったが、その秀秋が関ヶ原の一戦に失敗したので、彼も浪ろう浪ろうの身となって加賀の知人を頼って来ているところであった。 ﹁もう中納言様のことは云うな、人は運不運じゃ﹂ ﹁それでは、家のことは心配なさらずに、土州へ出発なさいませ﹂ ﹁では、明あ日す中に、家の始末をしておいて、出発しよう、あの感かん状じょうも、そのままにして置くから、うしなわないようにな﹂ 小おか河わへ平い兵べ衛えは予定のとおりその翌日加賀を出発して土佐へ往った。土佐では山内家の二代忠ただ義よしが一かず豊とよの後あとを継いで、土佐藩の藩主となっていた。深尾主人は平兵衛を家の珍客として歓待した。そして、これを忠義に推薦した。忠義は彼の武功を聞いて、彼を抜ばっ擢てきして高たか岡おか郡ごおりの郡こお奉りぶ行ぎょうにした。 平兵衛は高岡郡の奉行所へ移った。そして、加賀にある妻を呼ぼうと思っていたが、気の広い彼は何い時つの間にかそれを忘れてしまって、土佐の壮わかい女を妻にして男の子を産ませた。平兵衛はその小供に平三郎と云う名をつけて可愛がった。 加賀に残って夫の留守を守っていた元の妻は、二年経っても三年経っても、平兵衛が迎いにも来なければ使つかいもよこさないので、ああして往ったものの土州でも思うように運が開ひらけないから、それがためにこんなことになっているのだろうと思っていたが、それにしても余り音いん信しんがないので、土佐の方へ往く人に頼んで夫の消息を探って貰った。その人は半はん年ねんばかりで帰って来て、 ︵平兵衛殿には、土州で郡こお奉りぶ行ぎょうになっておられるが、前むこ方うで御ごか妻な室いを持って、男の子まであります︶ と云った。女はそれを聞くと非常に口く惜やしがって、その夜よ川へ身を投げて死んでしまった。隣の者が驚いてその家へ往って見ると、竈かまどの中で種いろ種いろの書かき類つけや道具でも焼いたのか、その中に箱の燃えさしや紙の燃えさしが散らばっていた。 女の自殺したことはやがて加賀の知人から平兵衛の許もとへ知らして来た。 平三郎は十九になっていた。行あん燈どんの燈ひで草くさ双ぞう紙しのようなものを読んでいた。それは微熱をおぼえる初夏の夜よであった。そこは母おも屋やと離れた離はな屋れの部屋であった。 庭の飛とび石いしに下げ駄たの音がした。平三郎は何た人れであろうと思いながら、やはり本を読んでいた。枝しお折り戸どの掛かけ金がねをはずす音が聞えた。 ﹁何か用事ができて、迎いにでも来たろうか﹂ と、思っていると、やがて下駄の音が縁えん側がわへ近づいて、障しょ子うじの開あいてる処から婢じょちゅうが入って来た。婢は手に何か持っていた。 ﹁若旦那様、奥様からこれを﹂ 婢は右の手に燗かん鍋なべと盃さかずきを持ち、左の手に肴さかなを盛った皿を持っていた。 ﹁ごたいくつでございましょうから、これをおあがりになるように、奥様が申されました﹂ 婢じょちゅうは平三郎の傍へ坐って手にしたものをまえへ置いた。平三郎は酒が嫌いであった。それに従来とてもかき餅などは時おり持たしてよこすことがあっても、酒をよこしたことがなかったので彼は不思議に思った。 ﹁俺が酒を飲まんことは、母上も知っておるはずじゃが、なぜ酒をくだされたろう﹂ ﹁何い時つも貴あな方たがお堅くしておられますから、すこしは、浮うきうきなされるようにと、それで奥様からくだされたものでございましょう﹂ 婢はこう云いながら盃さかずきを持ってそれを平三郎の前へだした。 ﹁さあ、一つおあがりなさいませ﹂ ﹁では、一つ飲もうか﹂ 平三郎はその盃を手にした。婢は燗かん鍋なべを執とって酌しゃくをした。平三郎はそれをぐっと一口に飲んだ。酒は苦かった。 ﹁もう一ぱいおあがりなさいませ﹂ 婢はまた酌をしようとした。平三郎はもう受ける気はなかった。 ﹁もう好い、俺は酒が飲めんから、注ついでもいかん﹂ 平三郎は盃を下へおこうとした。 ﹁それでも、奥様のせっかくの思おぼ召しめしでございます、もう一つ﹂ 婢は平三郎の置こうとした盃へまた注ぎかけた。 ﹁そうか、それでは﹂ 平三郎はしかたなしにその酒を注つがして、口の縁ふちへ持って往ったが厭いやでたまらない。それでも受けたものであるからしかたなしに眼をつむってぐっと飲んだ。 ﹁もういかん﹂ 平三郎は盃を下においた。婢じょちゅうはまた燗かん鍋なべをかまえた。 ﹁もう一つおあがりなさいませ﹂ ﹁もういかん、もう飲めん、俺の酒の嫌いなことは、お前も知っているじゃないか、もう好い、あっちへ持って往け﹂ 平三郎は執しつ拗こい婢のやりかたに腹を立ててしまった。 ﹁それでも、奥様の思おぼ召しめしではございませんか、もう一つ、おあがりなさいませ﹂ 婢は平三郎の置いた盃さかずきを持って無理にその手に持たそうとした。 ﹁好いと云うたら、好い、執拗い﹂ 平三郎はその手を払い除のけた。それでも婢は盃を放さずに、平三郎の傍へ擦すり寄よって往って無理に持たそうとした。平三郎はそれをまた押しのけた。それでも婢は進んで来て今度は燗鍋を口へ押しつけようとした。 ﹁無礼者﹂ 平三郎は腰に差していた脇わき差ざしを抜いて斬きりつけた。刀は婢のみぎの首筋に触れて血が行あん燈どんにかかった。婢はそとへ逃げだした。平三郎は追っかけた。婢は暗い庭のなかを走って奥の縁えん側がわから駈かけあがった。平三郎も続いて奥の縁えん側がわへあがった。婢じょちゅうは室へやの中へ体を隠した。平三郎もそれを追って部屋の口へ往った。 ﹁何た人れじゃ﹂ 母親の叱しかりとがめる声がした。平三郎は入口へ立って室の中を見た。室の中では母親が彼かの婢と並んで裁さい縫ほうをしていた。 ﹁その態ざまは何ごとじゃ﹂ 母は平三郎の刀を持って気けし色きばんでいる態さまを見た。 ﹁そこにおる婢が、無礼を働きましたから、手てう討ちにいたしかけたところが、逃げて来ました。その婢を渡してくだされ、手討にいたします﹂ ﹁お前は夢でも見たのではないか、婢は宵から、私の傍で針仕事をしておって、どこへも往きはしないよ﹂ 平三郎は眼をっておどろいてこっちを見ている婢と顔を見あわした。今の女はたしかにその婢のようであるが、第一右の首筋をしたたか斬ってあるに拘かかわらず、傷らしいものも見えない。それに母も傍を離れないと云う、彼は不思議でたまらなかった。彼は気が注ついて己じぶんの身の周まわ囲りを見廻した。 奥の室の隣とな室りには平兵衛の居間があった。母親はその方を見返って襖ふすま越しに声をかけた。 ﹁平三郎が、あんなことを云うておりますが、お聞きになりましたか﹂ 嘲あざけるような笑い声がそこに起った。 ﹁若じゃ輩くは者いもの、狸たぬきにでも化ばかされたか﹂ 平三郎は刀を持ったなりにすごすごと離はな屋れの室へやへ帰って来た。帰りながらも不思議でたまらないから、若党のいる室へ往って将棋をやっていた二人を呼びだした。 ﹁怪しいものを仕し留とめたから、ちょっと来てくれ﹂ 若党は平三郎の後あとから跟ついて来た。平三郎は離屋にあがって確たしかに散ったと思った行あん燈どんの血を前さきにしらべてみた。行燈には血らしい滴したたりも見えなかった。それでは燗かん鍋なべや盃さかずきなどがあるかと思って行燈の下を見た。燗鍋も盃も皿もなにもなかった。彼は手にしていた脇わき差ざしを行燈の燈ひへ翳かざして見た。刀にはすこし異状がないでもなかった。青いどろどろした汁のようなものが喰くっついていた。平三郎はそれを指でしごいてその指を燈に透すかして見た。それは青いどろどろしたものであったが、しかし、決して血などではなかった。 ﹁これはなんであろう﹂ 平三郎はその指をもみあわしてまた燈に透かして見た。若党二人は眼をってそれを見ていた。 ﹁たしかに怪しいものを仕留めたから、邸やしきの中を詮せん議ぎしてくれ﹂ 平三郎は刀の異状に力を得て、若党と三人で松たい明まつを点つけて庭の隅すみ隅ずみを調べて廻った。曇った空に鬼き魅み悪い冷ひえ冷びえする風が出ていた。庭には何の異状もなかった。 その夜よ遅くから大雨になって風がそれに添うて来た。雨と風は次第に強くなるばかりであった。高たか岡おか町まちの傍そばを流れている仁によ淀どが川わは、忽たちまち汎はん濫らんして両岸の堤防が危険になって来た。半はん鐘しょうの音はその暴あ風ら雨しの中にきれぎれに響いた。郡こお奉りぶ行ぎょうの平兵衛は陣じん笠がさ陣じん羽ばお織り姿すがたで川かわ縁べりへ出張して、人夫を指揮して堤防の処どころへ沙すな俵だわらを積み木きぐ杭いを打ち込ましていた。 篝かが火りびが堤防のあっちこっちに燃えていた。その篝火は直すぐ雨のために小さくなった。篝火に照らされて人夫の乗った舟の舳へさきや、艪ろを漕いでいる人の顔などが折おり見えた。 夜明けに近くなった。雨は止んでしまったが風は未まだ強かった。平三郎も父といっしょに川かわ縁べりへ出ていた。平三郎は鉢巻をし裾すそをからげて、人夫といっしょに沙俵を運んだり、舟へ乗って堤防を見廻ったりした。 夜よが明けて来た。それとともに風も止んで来たが水は増すばかりであった。平兵衛の乗った舟と平三郎の乗った舟は、堤つつみに添うて上かわ流かみの方へ漕いでいた。平三郎は舳へ腰を掛けていた。その舟には四人の人夫が乗っていた。平三郎は何かの拍子に舟の右側へ眼をやった。一人の女の死体が不意に浮いて来た。面おも長ながな顔の女で黒い眼をぱっちり開けていた。平三郎は驚いた。平兵衛の舟がその右側を漕いでいた。平兵衛は舟の胴どうの間まに衝つっ立たって上かわ流かみの水の勢いきおいを見ていた。 ﹁父上、父上、昨ゆう夜べの女おなごが、女おなごが浮きました﹂ 平兵衛は平三郎の声を聞いて左側の水の上を見た。見覚えのある女の顔であった。両方の舟に乗っている人夫等らも同時にそれを見た。女の体はそのまま沈んで往った。 ﹁父上、昨ゆう夜べの女はあれでございます﹂ 平三郎は声を震ふるわして云った。 ﹁そうか﹂ 平兵衛はこう云って平三郎の顔を見たが忽たちまち大声に笑いだした。 ﹁この水では、一人や二人は、死ぬるだろうて﹂ 平三郎の舟の舳へさきが何かに下から衝つきあげられたように持ちあがりかけた。平三郎も人夫達も材木のようなものにでも乗りかけたのではないかと思った。人びとは艫ともの方へ体を崩くずされてしまった。その拍子に舟が左に傾いてそのまま顛てん覆ぷくしてしまった。平兵衛の舟では直すぐ見つけた。 ﹁若旦那の舟が﹂ 平兵衛の舟は直ぐその方へ舳を向けた。下しもから登って来ていた二三艘そうの舟も直ぐそれを見つけた。顛覆した舟の傍には二三人の人夫の頭が浮いた。平兵衛の舟へはその二つの頭が近づいて来て舳の小こべ縁りへその手がかかった。下しもから来た舟の方へも二つの頭が近づいていた。平兵衛は平三郎の頭に注意した。 ﹁若旦那が見えん﹂ 他の四人は皆出て来た。 ﹁若旦那は、舟に伏せられておるのじゃ﹂ 舟底を見せて下しもへ下へと流れて往く舟を目がけて、平兵衛の舟は漕こいで往った。 平三郎の死骸はとうとう見つからなかった。平兵衛は後日知人に向ってこんなことを云った。 ﹁あれは先妻の祟たたりじゃ、私わしに怨うらみを報いるつもりであったろうが、私わしを恐れて、平三郎の命をとったのじゃ、舟の傍へ浮きあがった女は、宵に平三郎が手てう討ちにしようとした女おなごだと云うたが、あの女おなごは先妻であったよ﹂