明治――年六月末の某ある夜よ、彼は夜のふけるのも忘れてノートと首っぴきしていた。彼は岐阜市の隣接になった某町の豪農の伜せがれで、名もわかっているがすこし憚はばかるところがあるので、彼と云う代名詞を用いることにする。彼は高等学校の学生で、その時は学期試験であった。 そこは仙台市の場末の町であった。寒い東北地方でも六月の末はかなり気温がのぼっていた。彼はセル一枚になっていた。夕方まで庭にわ前さきの楓かえでの青葉を吹きなびけていた西風がぴったりないで静かな晩であった。素しろ人うと下宿の二階の一室になった室へやの中には、洋ラン燈プの石油の泡のような匂いがあって、それがノートのページを繰くるたびにそそりと動くのであった。 ︵臭いな、障しょ子うじをあけてみたら︶ 彼は石油の匂いが鼻にしみるたびに外気を入れたらと思ったが、すぐその考えはノートの方へ往って、石油の匂いのことは忘れるのであった。彼には時として匂って来る石油に対する厭いとわしさと、漠としている記憶をノートの文もん字じによって引締める意識以外に自己も時の観念もなかった。そうして狭く小さくなった彼の意識の中へ微かすかな跫あし音おとが入って来た。それは二階の梯はし子ごだ段んをあがって来ているような微な微な跫音であった。 ︵下の主人か、お媽かみさんかがあがって来たな︶ と、彼は思った。友人なれば入口の障しょ子うじをがたぴしあけて――君くんはいますかと大きな声を立ててからあがって来るはずであった。下の主人夫婦にしてもすこし荒い跫音であった。彼はふときき耳をたてた。微な跫音はもう梯子段をあがり切ったのかちょっと聞えなくなった。 ︵何た人れだろう︶ 彼がそう思ったとたんに廊下の障子がすうと開あいて、白い衣きも服のを着た者が入って来た。気温が高いと云っても、六月の末ではまだ浴ゆか衣たを着るには早過ぎるのであった。 ︵今から浴衣を着るのは、ちと早過ぎるな︶ 彼はそう思いながらこの白い衣きも服のを着た者に好奇の眼を向けた。それは二はた十ち前後の小さな小さな白い顔をした弱よわしそうに見える青年であった。それは岐阜の故郷にいるはずの友人であった。 ﹁神じん中なか君じゃないか﹂ 彼は岐阜の県庁に雇こい員んとなって勤めているはずの友人が、浴衣がけのような恰かっ好こうで、つい隣となりへ遊びに来たとでも云うような風でたずねて来たことが物の調和を欠いているので眼をった。彼は対あい手ての返事を待たないで、 ﹁何い時つ来たのだ﹂ ﹁今日、ね﹂ 神中の声は昔ながら穏かなおっとりした声であった。 ﹁どこにいる﹂ ﹁すぐそこだ﹂ 彼は神中がこっちへ来たのは県庁の用よう向むきで出張して来たものだと思った。貧しいために中学にもあがれないで、小学校を卒業するなり県庁の給仕になり、最近は雇こい員んになっていると云うことを知っている彼は、出張するようになったからには仕事ができることを認められたがためであろうと思った。彼は平いつ生もその境遇に同情している友人だけに悪い気もちはしなかった。 ﹁そうか、それはよく来た﹂ ﹁試験でいそがしいから、気の毒だと思ったが、ちょっと君に頼みたいことがあってね﹂ ﹁なんだね﹂ ﹁ちょっとしたことだ、明あ日すの晩十二時に、この前の雀すずめが森もりね、あそこへ来てくれないかね、手間はとらさないが﹂ 雀が森は時おり散歩する森であって、そこには小さな社やしろがあった。彼はそんな森の中へ、しかも夜往って何をするだろうと思ってみたが想像がつかなかった。しかし、日ひご比ろ信用している友人のことであるから、べつに疑うことはなかった。 ﹁なんだね﹂ ﹁別にたいしたこともないさ、ちょっと明あ日すの晩に来てくれないかね、手間をとらさない、悪いことも頼みやしない、ちょっとでいい﹂ ﹁そうかね、じゃ、往こう﹂ ﹁来てくれるかね、それでは頼むよ、ほんのちょっとでいいから﹂ ﹁往こう、十二時だね﹂ ﹁そうだ、おそくって気のどくだが﹂ ﹁雀が森のどこへ往く﹂ ﹁あの石いし燈どう籠ろうがある処がいいよ﹂ ﹁そうかね、往こう﹂ ﹁それじゃ、来てくれ給え﹂ 神中はそういって弱よわしそうな白い顔を気もちよさそうにしてみた。 彼はそれが如い何かにもいたいたしいように思われて、己じぶんがその依頼を聞き入れてやったことが、何かしら大きないいことをしてやったような気がして心の満足を感じた。彼はそこで神中の現状を聞こうとしたところが、神中はもう起たちかけた。 ﹁じゃ、勉強中をお邪魔してすまなかったね、では、どうか明あ日すの晩にね﹂ 彼はそのまま神中を帰すのがあっけなかった。 ﹁まあ、いいじゃないか﹂ ﹁いや、おそいから、では失敬﹂ ﹁そうかね、では明あ日すの晩に逢あおう﹂ ﹁頼むよ﹂ 神中はすぐ起たって障しょ子うじを開けて出た。彼も神中を送ろうと思って起ったが、すぐ障子が締ってもう梯はし子ごだ段んの降おり口ぐちに跫あし音おとがしだしたので坐った。彼はそうして神中のことを考えているうちに、ふとその考えが神中の妹へ往った。神中に似て弱よわしてどこか夕顔の花のようなたよりないその顔が浮かんでくると、その女はどうしているだろう、な女であったから、早く良縁があって結婚でもしているかも判らないと思った。彼はうっとりとなって妹のことを考えていたが、神中のことが気になったので耳をたてた。神中はもう帰ったのか家の中はひっそりして何の物音もしなかった。 翌日になって彼は学校へ往って試験を受けたが、試験中にも神中が雀が森へ来てくれと云ったことを思いだして、いろいろと想像していたがまとまった考えは浮かばなかった。それに夜森の中へ往くと云うのが不安にもなって、何もきかず軽率に約束したことが後悔せられた。そして、学校から帰って、後あと一日になっている試験の準備にかかったが、雀が森のことが気になって、じっとして勉強することができなかった。 そのうちに日が暮れて、往くのは困る困ると思っているうちに十二時近くなった。彼は真ま面じ目めな学生であったから、約束をすっぽかすことができなかった。彼は時計が十二時に五分前になると、しかたなしに下宿を出て雀が森の方へ往った。 その晩は曇って冷たい風が吹いていた。かぎようによってはむれるような厭いやな匂いであるが、生せい生せいの気の溢あふれている青葉の匂いが漂ただようていて、読書に疲れた頭を休めるには適している晩であったが、なんだか不安で厭で、歩くと左の痃けん癖へきのあたりが張るように痛くて歩くのが苦しかった。 路みちは白くぼうとなっていた。右側の畑はた地ちの中に斑まばらに建たった農家は寝しずまって、ちょっとした明りも見えなかった。左側は秧なえを植えたばかりの水田になって、その水は黒い中にどろどろしたぬめりを見せていた。そこからは一面に蛙かわずの声が聞こえていた。彼はその路みちを往って丁ちょ字うじ路ろになった路の往きづめの林の入口についた。それが雀が森の林であった。 その晩に限って奥底のはかられないような気のする暗い気もちの悪い林の奥に、小さな蛍ほたるのような燈ひが一つほっかりと光っていた。それは平へい生ぜい見かける枯れ葉のたまった水のない石の御みた手ら洗しの傍かたわらにある石いし燈どう籠ろうの燈であった。 ︵こんな処へ呼んでどうするつもりだろう︶ 神中が己じぶんに対して悪い考えを持っているとは思わないが、それでも明るい考えを持っているとは思えなかった。 ︵もう来ているだろうか、この試験さいちゅうに︶ 彼は神中が試験にいそがしいことを知っていて、己かってな処へ呼ぶのが腹だたしくなって来た。腹だたしくなって来ると気が張って彼の足は自然と進んだ。 ︵一人だろうか︶ 石燈籠はすぐであった。散歩の時など横の縁えん側がわに腰をかけたことのある古いそぎ葺ぶきの社やしろはその奥にあった。石燈籠のそばへ往ったところで、眼の前に物の気配がして白い衣きも服のが見えた。 ︵もう来ているのか︶ と、思う間もなく、 ﹁――君﹂ 神中の小さな白い顔がこっちを見た。 ﹁神中君か﹂ ﹁気の毒だったね、おそく﹂ ﹁なんだね﹂ 彼は早く怪しい用事を聞きたかった。 ﹁なんでもないことだ、君にこれでね﹂と、神中は右の手の指ゆび端さきを見せるようにした。そこには短い白い糸のようなものがあった。﹁これで、僕の左の人さし指を縛ってくれたまえ﹂ 小供のするように指を縛ってどうすかつもりだろう、彼は聞きちがいではないかと思ったので問いかえした。 ﹁指を縛るのか﹂ ﹁そうだ、これで三度まわして、きちんと縛ってくれたまえ﹂ ﹁禁まじ厭ないか﹂ 彼はばかばかしいので叱りつけるように云った。 ﹁禁厭と云うわけでもないが、それでいい、縛ってもらえば﹂ ﹁そうか﹂ ばかばかしくても指を縛るくらいはなんでもないので、すぐ手をやって神中の手にしたものをとった。それは紙こよ捻りであった。 ﹁指を出したまえ﹂ ﹁すまないね﹂ 彼の眼の前には神中の白い左の手の指が、美きれ麗いに透すきとおるように見えていた。彼はそのままその紙こよ捻りを人さし指に巻きつけて、三度まわしてきちんと縛った。 ﹁ありがとう﹂ ﹁それでいいのか﹂ ﹁けっこう、どうもありがとう﹂ ﹁もう他に用事はないのか﹂ ﹁ああ﹂ ﹁じゃ、帰ってもいいのか﹂ ﹁どうもありがとう、どうか帰ってくれたまえ、明あ日す礼に往く﹂ 彼はあまりばかばかしいので、話をするのもいやになってそのままずんずんと引返した。彼は帰る路みちでも、神中がすることにことを欠いで、仙台くんだりまで来て小供のするような迷信的なことをするおろかしさを怒りもすればあわれみもした。 そして、朝になって起きようとしたところが、体の工ぐあ合いがへんですぐには起きられなかった。しかし、十時から試験があるので努めて起きて、井いど戸ば辺たへ顔を洗いに往った。そこには共同井戸になっていて隣のお媽かみさん達が二三人来て、それが水を汲くまないで頭を集めて話していた。彼はまた例によって井いど戸ば端た会議が始まっているだろうと思った。 ﹁……洋服を着た人ですって﹂ ﹁どこの人でしょうね﹂ ﹁さあ、ね、どこの人でしょうね、悪い奴やつに出くわしたものでしょうか﹂ ﹁傷も何もないのですって﹂ 変死人でもあるような話はな口しぐちであるから、彼はちょっと好奇心を起して、近くにいる肥ふとった北隣の労働者の細さい君くんに声をかけた。 ﹁何かあったのですか﹂ ﹁雀が森に人が死んでるのですって﹂ 彼は神中に万一のことがあったのではあるまいかと思ってびっくりした。 ﹁雀が森﹂ ﹁そうですよ、あの石いし燈どう籠ろうの傍だそうですよ、洋服を着た立派な男だと云うのですよ﹂ 神中は白い浴ゆか衣たを着ていたから、洋服を着ていると云えば神中ではないと思ったが、それでも安心ができなかった。 ﹁病気でしょうか﹂ ﹁傷もないそうですから、卒そっ中ちゅうかなんかじゃないでしょうか、書しょ生せいさんも見ていらっしゃいよ﹂ ﹁そうですね、見にいきましょうか﹂ 彼は見とどけないうちは安心ができないので、顔をそこそこに洗ってそのまま雀が森へ往った。出たばかりの初夏の朝あさ陽ひが微熱をただよわした路みちには、やはり死人を見に往くのか何か話し話し林の方へ往く人がちらばっていた。彼はその人びとを追い越すようにして往った。 石いし燈どう籠ろうの前には二十人ばかりの人が輪をつくっていた。そこには一枚の藁わら莚むしろを被きせて覆うてあるものがあった。彼は人ひと輪わの間にはさまってのぞいた。一方藁莚の端はしの方には赤い編上げ靴をはいた双りょ足うあしが出ており、反対の方になった左横には黒っぽい洋服を着た手さきが一つあらわれて、ふとった脂あぶらぎった掌てのひらを見せていた。その手さきに眼をやった彼は、そこに奇怪な物を見つけて血が逆上したように驚いた。それはその人さし指に己じぶんが結んだと同じような紙こよ捻りがまいてあることであった。彼はもしや神中ではないかと思って頭の方へ往った。と、その時町の有志らしい老人がそっと藁莚の端はしをまくって死人の顔を見るようにするので、彼もそれを幸いにして眼をやった。それは平べったい顔のもう四十以上に見える神中とは似ても似つかない大男であった。彼はやっと安心したものの左の人さし指に己が縛りつけたような紙捻があるので、なんだかその事件に暗い糸をひいているようでたまらなかった。 彼は早く神中に逢あいたかった。神中に逢いさえすればいやなことを考える必要がなかった。しかし、神中のいる処はわからなかった。彼は下宿へ帰って朝あさ飯めしを喫くい、学校へ出かける時お媽かみさんに云った。 ﹁今日、もし、一おと昨と日いの晩遅く来た男が来たなら、一時にはきっと帰ると云ってください﹂ ﹁一昨日の晩って、お客さんがあったのですか﹂ ﹁十二時比ごろにあったじゃありませんか、何た人れが戸をあけたのです﹂ ﹁わたし知らなかったのですよ、うちの人でしょうか、おかしいですね﹂ ﹁それじゃ大将だろう﹂ 彼はそれから学校の前まで往ったところで、そこでいっしょになった同級生の一人が叫ぶように云った。 ﹁おい、顔色が悪いぞ、病気じゃないか﹂ 彼は朝起きる時に苦しかったことを思いだした。同時に彼は肩がはるようで気もちのわるいことを感じた。 ﹁すこし体がわるいようだ﹂ ﹁どうも顔色がわるい、無理をしちゃいかんぞ、帰ったらどうだ、試験は追試験を受けられるじゃないか﹂ 彼は試験を受ける気がしないので、交渉してもらって追試験を受けることにして下宿へ帰ったが神中は来ていなかった。彼は下宿のお媽かみさんに床とこをとってもらって寝ながら神中の来るのを待ったが、神中は来ないで翌日になった。同地発行の新聞は、なぞの死人のことを書きたてたが、死因も判っていなければ、どこの者とも判っていなかった。そして、指の紙こよ捻りのことなどは問題になっていなかった。彼はその日も神中を待ったが神中は来なかった。その翌日になって新聞は、死人は岐阜市に発行する○○○○新聞という新聞の主しゅ筆ひつ――氏で、それはその夜停てい車しゃ場じょう前の旅館に投宿して、訪問する処があると云って出かけて往ったものだと云うことが判ったが、死因は依然として判らなかった。彼は神中と新聞主筆の相違こそあれ、紙捻を縛りつけているので気になってたまらなかったが、警察へ云って往くのは好んでなぞの事件にまきぞえになりに往くようなものであるから、それは恐ろしくて往けなかった。彼はどうかして神中に逢あいたいと思ったが、とうとう神中は来なかった。そして、二三日すると体もよくなったので、岐阜市外の己じぶんの家へ帰って往った。 己じぶんの家へ帰った彼は、家へ着くなり神中のことを聞いた。 神中は仙台の彼の下宿へ彼を訪とうた日の数日前ぜん、就職口を頼んであった友人を岐阜市内の銀行に訪うたのであった。神中はその前月県庁をよさせられていた。それは己の課長になる男から妹を細さい君くんにと望まれたが、その男は女に関してとかくの評判があり、もう三四人も細君を離縁していたので、神中は妹の将来を思うてことわったがために免職になったものであった。 神中は妹と二人暮らしであった。神中は県庁に勤めていても生活が苦しいので、妹が賃ちん機ばたを織ってそれを助けていると云う境遇であった。神中はどうしても早く何かにありつかなくてはならなかった。神中が就職口を頼んである知人のなかに、銀行にいる知人はひどく神中の境遇に同情して、己のことのように世話してくれるので、神中も自然とその知人の処へ足あし繁しげく出かけて往くのであった。 その日神中が銀行へ往ったところで、他の銀行員は平い生つになく神中に嘲あざけりの眼を向けた。神中はどうしたことだろうと思っていると、知人が出て来て、 ﹁君、○○○○新聞を見たのか﹂と、云った。苦しい中にもそればかりはとっている○○○○新聞は、配達が遅いのでその日の新聞はまだ見ていなかった。 ﹁僕の方は配達が遅いからね﹂ ﹁そうか、君、たいへんなことが出ているのだ﹂ 知人はそう云って己の机の上から一葉ようの新聞を持って来た。 ﹁けしからんことを書いてある、君を中傷したものだ﹂ 神中は恐る恐るその新聞に眼をやった。それは二段抜の初号標みだ題しで畜ちく生しょ道うどうにおちた兄きょ妹うだいとしたものであった。神中の頭はわくわくとした。神中はくいつくようにしてその記事に眼をやった。それは己じぶ等んら兄きょ妹うだいを傷つけた憎むべき記事であった。神中は眼めさ前きが暗くなった。 ﹁僕は君を知っておる、けしからん記事じゃ、君、告訴したまえ﹂ 神中の耳にはもう知人の詞ことばは入らなかった。神中は夢中になって銀行を出て己の家へかえった。惑乱している頭にも妹のことが気になったからであった。 家へ帰って見ると妹は機はた屋やの天井にしごきをかけて縊い死ししていた。神中はその死体を座敷へ運んで床とこをとって寝かし、己もその室へやで縊死した。 彼は神中兄妹の変死を聞いて驚くとともに、彼かの課長と○○○○新聞主筆――氏が唯一の悪友であったことも知り、雀が森の怪異のなぞも解けたような気がした。 この事件は今に不可解な事件として、仙台の警察にその記録が保存せられているとのことである。