昼間のうちは石ばりをしたようであった寒さが、夕方からみょうにゆるんでいる日であった。私はこの比ごろよく出かけて往く坂の上のカフェーで酒を飲みながら、とりとめのないことをうっとりと考えていた。 ﹁や、雪だ﹂ ﹁ほんとだわ﹂と云ういせいの良い壮わかい男の声と、あまったれたような女の声が絡みあうなり、入口のガラス戸が敷居の上に重い軋きしりをさした。 ﹁雪だわよ﹂ 今のあまったれたような声がまた聞えて、それが私のいる食テー卓ブルの前へ来た。女給のお幸こうちゃんが客を送り出して帰って来たところであった。 ﹁雪か、そいつは良いな﹂ 私は顔をあげて銀色の電燈の光を浴びている女の顔を見た。 ﹁よかないわよ、寒いわ﹂ 私は良い気もちに酔うていた。 ﹁良いじゃないか、雪がうんと降って、その雪が一丈じょう二丈も積んで、路みちがこの上にできたら、按あん摩まさんが二階の窓からおっこちて来るよ、あの按摩さんもね﹂ このカフェーは一人の盲人が来ているが、それは市会議員とか代議士とかの選挙があると、有志の一人になってその附近をまわると云う者もあった。なんだか黒い影を曳ひいて見える五十前後の男である。家庭にその男が出しゅ入つにゅうしたがために、そこの細さい君くんは良おっ人との怒いかりを買ってお穢わい屋やの置いて往った柄ひし杓ゃくで撲なぐられたと云うようなことがあり、そのうちにとうとう劇薬自殺してしまった。私はみょうな関係から、その細君の葬式につらなっていた。私は北ほく越えつ雪せっ譜ぷの挿さし画えの中にある盲人が窓から落て来ていた絵のことを話そうと思っていたが、その盲人のことを思いだしたので、気もちが重くるしくなってもうそれを話す気はなかった。 ﹁いやよ、来るわよ﹂ お幸ちゃんはわざとらしく眉まゆをしかめて見せたが、しかし、単にわざとらしいばかりでもなかった。 ﹁来たら留とめやが喜ぶじゃないか﹂ その盲人はお幸ちゃんの相棒のお留ちゃんが好きで、時どき来ては留や留やと云って、蒼あお白じろいねっとりとしたような手でその手を握りに来るので、お留ちゃんが嫌っていた。 ﹁いやよ、来るわよ、鬼き魅みがわるいわ﹂ むこう側の食テー卓ブルで二人の会社員らしい男の対あい手てをしている女がこっちを見た。 ﹁なにが鬼き魅みがわるいものか、あんな人は親切だよ、べろべろ舐なめてくれるよ﹂ 私はふと紫色を帯びているように想像せられるその盲人の唇を考えた。 ﹁いやあよ、ぞっとするわ、鬼魅が悪い、よしてちょうだいよ﹂ お留ちゃんも何か想像しているのか厭いやな顔になっていた。 ﹁およしなさいよ、噂は、影がさすわよ﹂ と、お幸ちゃんがむきになっている時、ガラス戸ががたがたと鳴った。 ﹁それ来たよ﹂ ﹁いやよ﹂ 私とお幸ちゃんとの小さな声が終るか終らないかに一人の男が入って来た。 ﹁ちょッ、いやな晩だ﹂ それはよれよれの黒いインバを着て、雪を払ったであろう鳥とり打うち帽ぼうを右の手に持っていた。 ﹁いらっしゃいまし﹂ お幸ちゃんが声をかけると、その男は私の隣になった何だ人れもいない食テー卓ブルへ往って、私と同じように壁を背にして身を投だすように腰をかけた。 ﹁姐ねえさん、一合ごうつけてくれないか﹂ それは蒼あおい顔をした額ひたいのせまった男で、車屋の壮わか佼いしゅとでも云えそうなふうつきであった。私は額のせまった、酒でわからなくなりそうなその男の顔を見ていた。 ﹁お待たせいたしました﹂ お幸ちゃんが酒を持って往って酌しゃくをすると、彼は指をふるわしてそれを受けて口にした。 ﹁姐さん、いやな晩じゃないかよ﹂ ﹁いやなものが降ってまいりましたわ、ね、え﹂ ﹁いやな晩だ、二三ばい飲まなくちゃ、やりきれない﹂ 彼はお幸ちゃんの置いた一合罎びんを執とるなり、己じぶんで注ついで飲み、また注いで飲んで、三ばい目の杯さかずきを下に置いた。 ﹁これでやっと気もちがよくなった﹂ ﹁お寒かったでしょう﹂ ﹁いや、寒いよりもへんな晩だからね、おれ、えれえ目に逢あってるのだからね﹂ ﹁なにかおありになったのですか﹂ ﹁あったとも、今話すがね、こんな雪の降りだした晩だよ﹂ ﹁へえ﹂ お幸ちゃんは気になるのか顔を引ひき締しめてしまった。私も好奇心を動かした。 ﹁何かあったのですか﹂ 私はとうとうその男に声をかけた。 ﹁えらい目に逢ってるのですよ、だから雪が降りだすと、私はこれから庚こう申しん塚づかの方へ往かなくちゃならないが、もうよしたのですよ﹂ ﹁そうですか、どんなことですか﹂ 私はこっちへ来いと云いたかったが、時どきとんでもない奴にひっかかってひどい目に逢っていて、はじめての人とはいっしょにならないことにしているので云わなかった。彼はまた一ぱい飲んだ。 ﹁いや一おと昨と年しのことなのですがね﹂ 彼は私の方へ体を向けたのであった。 ﹁暮でしたよ、親方の用事で、品川へ用よう達たしに往って、わたしは尾おわ張りち町ょうにいたのですよ、親方の用事で五時比ごろから往ったのですが、八やつ山やまの飲み屋で一ぱいやってるうちに、遅くなって、いっそ遊んで、朝、帰ろうと思ったのですが、それがみょうですよ、やっぱりどうかしてたのですよ、そこは時どき往ってますから、婢じょちゅうも知ってるのですよ、お千ち代よと云う婢が、 ︵おたのしみね︶ なんかって私が出ようとすると、ひやかすものですから、 ︵おいらは親方の用事で来てるのだよ、きちょうめんな壮わか佼いしゅだ、ふざけたことを云うない︶ なんて大きなことを云って、外へ出てみると雪になってるじゃありませんか、それもたった今降りだしたと見えて地べたは白かあなかったのですよ。 それから停てい留りゅ場うばへ来て見ると、赤電車が出ようとするところじゃありませんか、急いで後うしろから飛び乗って、見ると、三人の客がいるのですよ、酒に酔ってるし、どんな客がいるのか、それをべつに知ろうとも思わないから、わたしは、そのままその前に腰をかけて、右の肱ひじを窓際に靠もたして、それに頬をのっけてたが、なんだか眼の上に、魚の鱗うろこでもはめられたように、眼の工ぐあ合いはわるくないが、物がはっきり見えないので、電気にでも故障があるだろうかと思って、じっと、車の天井の方を見てて、雪のことを思いだしたので、その眼を車の外の方へやったところで、いやじゃありませんか。 内から燈あかりが射さしてるので、はっきり見えないはずの外が見えるのですよ、雪がちらちらと降ってて、そのまた雪が銀の鏨のみ屑くずのように見えるのですよ。 しかし、まあ、それはわたしが酔っていたせいかも判らないのですが、それでもわたしは、あまり外がはっきり見えるのが鬼き魅みがわるいから、見るのをよして、また窓際に頬ほお杖づえをしていたのですが、なんだか己じぶんの顔を見ている者があるような気がするので、ふと見ると、わたしの側に婆さんらしいのが、すこし離れて乗ってるじゃありませんか。 この夜よ更ふけに、婆さんの癖にどこをほうついてたろう、嫁と喧嘩でもして、出て来たかも判らない、この比ごろは、嫁をいびるよりか、姑しゅうとめをいびる嫁が多いなんて、ひどく婆さんの肩を持って、その方を見ると、黄きいろな頬の肉の厚いちょいと因いん業ごうらしい婆さんですよ。 セルのような白っ茶けたコートを着ているのです、なんだかいやなばばあだと、見ていると、前の方にいた車掌が来たのです、その婆さんの前ですよ、切符を切りに来たのでしょう。 それがどうでしょう、その車掌が、小さな男です、その車掌が婆さんの前に来たところで、婆さんの黄ろな顔がちらちらするようでしたが、そのままふと消えてなくなったのですよ、わたしは婆さんが起たったじゃないかと思ったから、見るとやっぱり姿が見えないのです、そこへ車掌が来たのですから、 ︵あの婆さんは、どうしたのです︶ と、わたしが訊きくと、車掌はへんな顔をして、 ︵婆さん、婆さんなんていないのですよ︶ と云うのです。 わたしは婆さんのいた処に指をさして、 ︵いや、あすこに今までいた婆さんですよ︶ と、云うと車掌はなにか夢でも見ているのだろうと云うように、 ︵婆さんなんかいないのですよ︶ と云うのです。 ちょうど電車が停とまって、私の前にいた三人の客がおりようとしているのです。わたしはその車にいるのが鬼き魅みがわるいので、なんの事も思わず、その客に跟ついておりたのです、その客は皆電車の前を横に切って往くのです。 その時雪が降ってたか降っていないかは、もうわからなかったのです、わたしも前の人に跟いて往こうと思って、往きかけたところで救助網あみにすれすれになった処に蹲しゃがんで何か探している者があるじゃありませんか。 なにを探しているのだろう蟇がま口ぐちでも落したのか、それにしても電車が出たらあぶないから、運転手に注意してやろうと思って声を出そうとしたところで、電車が動きだしたのです。私は、 ︵あぶない、人だ︶ と云うなり、その蹲んでいる者に手をかけたのです。その拍子にその蹲んでいた者が起たちあがるようにして顔をあげたのです。それがどうでしょう、車の中で見た婆さんの顔じゃありませんか。わたしはわっと云ったのですが、それといっしょにわたしは電車に触れて気を失って、病院へ担かつぎ込まれていたのです﹂ カフェーで私にこの話をしたのは、やっぱり車屋の壮わか佼いしゅであった。彼の見た怪しい老婆と云うのは何だ人れも見ていないとのことであった。 そして、彼が電車に触れた場所は、宇うだ田がわ川ちょ町うの鳥屋の前で、そこには前後に電車に触れて五六人の者が死に、他にも多くの負傷者があって、電気局でも宇田川橋の裾すそに無縁塔を建こん立りゅうするのだと云っていた処であった。