山やま根ねけ謙んさ作くは三さんの宮みやの停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ支し那なの方へ往ってその年ねんまで内地に帰って来なかったので、うっすらした輪りん廓かくが残っているだけであった。 謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で上シャ海ンハイ航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と知しり己あいになって、いっしょに広カン東トンへ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、細さい君くんも出来、小供も出来て、すこしは金の自由も利きくようになったので、商用をかたがけて墓ぼさ参んに帰って来たところであった。 空気は冷たかったが静しずかな煙けむったように見える日で、輝かがやきのない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気が注ついてその陽ひの光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキの剥はげかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。生なまのままの肉やロースにしたのや、さまざまの獣じゅ肉うにくを店みせ頭さきに吊つるした処には、二人の壮わかい男がいて庖ほう丁ちょうで何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は耳みみ輪わをした支し那な人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。好よく見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には白しろ痘あば痕たのある労働者のような支那人が立っていた。 彼はふとここは支那人街まちだなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ街とお路りになっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな酒さけ瓶びんのような物を並べた店も、野菜を並べた店も、乾ほして蛇とも魚とも判らない物や、また芋いもとも木の根とも判らない物などを並べた店も眼に注ついた。その店さきのガラス戸や内の鴨かも居いなどには赤い短たん冊ざくのような紙しへ片んを貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。 謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み馴な染じんでいた灘なだの酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時出しゅ帆っぱんの船を待つ処をまだはっきりと定きめていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服に籐とうのステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことに就ついては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首に着つけている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていても宜よいと思った。彼はどこか入るに宜よい簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから横よこ街ちょうの入口が見え、そのむこう角かどになった処に黄きいろな覆おおいを垂らした洋食屋らしい店があった。 洋食ではいけない、なるべくなら日本料理が宜いいが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食が厭いやと云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。 もうすこし前さきへ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、前さきへ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間が経たってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。 磨すりガラスの障しょ子うじがすこし開ひらきかけになっていた。もう夕方のように微うす暗ぐらい土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を束そく髪はつにした女が錦きん紗しゃらしい羽はお織りの背うし後ろす姿がたを見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪に挿さした櫛くしの玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。 好い女がいるな、と謙作は男の何た人れでも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。壮わかい女じょ給きゅうの一人がひらひらと蝶ちょうのようにその前へやって来た。 ﹁召しあがり物は﹂ 謙作は籐とうのステッキを右側の壁に立てかけていた。 ﹁魚を喫くいたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね﹂ ﹁鯛たいでも鰆さわらでも、どっちでもできます、お魚さし軒みがお入いり用ようなら、お魚軒もとれます﹂ 謙作は嬉しかった。 ﹁あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、姐ねえさん、その魚軒とフライをもらおうか﹂ ﹁承知いたしました、御ごし酒ゅも召しあがりまして﹂ ﹁そうだ、その御おさ酒けが第一の目的と云うところだ、これから復また暫しばらく飲めないことになるからね、船が出るまでには心ここ遺ろのこりのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで﹂ 謙作は台湾の陽ひに焦げた肉の締った隻かた頬ほおに笑わらいをちょと見せた。 ﹁承知いたしました﹂ 女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作は宜いい気もちになって衣かく兜しから敷しき島しまの袋を出し、その中から一本抜いて火を点つけ、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。 洋服の男は盃さかずきを口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えている容ふうであった。その洋服の男の前のテーブルにも街とお路りの方を背にして、鳥打帽を冠きた筒つつ袖そでの店員のような壮わかい男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の椅い子すに腰をかけて、その男と何か話していた。 謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪の櫛くしからはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体を反そらして、右の手をちょと曲げていた。 ﹁お待ちどおさま﹂ はじめの女給が銚ちょ子うしと盃を持って来て、もう盃を出していた。 ﹁や、ありがとう﹂ 謙作は煙たば草この吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女に酌しゃくをしてもらった。 ﹁すこしお温ぬるいかも知れません、お温ければなおします、如いか何がでございます﹂ 燗かんは飲みかげんであった。 ﹁けっこう、けっこう﹂ ﹁では、すぐお料理を持ってまいります﹂ 女は銚子を置いてくるりと背うし後ろ向きになった。 ﹁おい、酒だ﹂ 洋服の男が右の指ゆび端さきでテーブルの上を軽く叩たたいた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。 ﹁まだおあがりになります﹂ それは愛あい嬌きょうのない聞く者をして反感を起させる詞ことばであった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。 ﹁おい、なにがまだだい、姐ねえさん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、宜いい、黙って酒を持って来た﹂ 女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。 ﹁あの玉たまがあってみろ﹂ 洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へ馳はせるようにしたが、その拍子に隻かた方ほうの赤あか濁にごりのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。 ﹁お待ちどうさま﹂ 女が魚さし軒みの皿とフライの皿を提さげて来ていた。 ﹁あ、これは宜い、後をすぐ浸つけておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね﹂ ﹁どちらへいらっしゃいます﹂ ﹁台湾へ帰るところだよ﹂ ﹁おや、台湾へ、それは大変でございますのね﹂ ﹁あ、あ、ちょと途みちが遠くってね﹂ 謙作は魚さし軒みに添えた割わり箸ばしを裂いて、ツマの山わさ葵びを醤油の中へ入れた。 ﹁台湾は宜いいな、台湾にいたのですか﹂ それは洋服の男が己じぶんの方へ向って云った詞ことばであった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は赧あか黒ぐろい細長い顔をこっちへ向けていた。 ﹁そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです﹂ ﹁基きい隆るんですか、台たい中ちゅうですか﹂ ﹁台中です﹂ ﹁そうですか、台湾は暢のん気きで宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、南ナン京キンにも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね﹂ ﹁そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも﹂と謙作は云ったものの、その男の風な体りから押して漂ひょ泊うは癖くへきのある下級船員ののんだくれであろうと思った。 ﹁なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです﹂ 洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。 ﹁なんです、何か旨い儲もうけ口ですか﹂ 謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後で盃さかずきを持った。 ﹁そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね﹂ 謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。 ﹁そうですか﹂ そこへ女が後あとの銚子を持って来た。謙作は洋服の男が前さきに酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。 ﹁このお客さんが早かった、まあ、前さきへあげておくれ、後で好い﹂ 女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。 ﹁姐ねえさん、まあ、憤おこるなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ﹂ 洋服の男は嘲あざけるような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐ執とって盃さかずきに注ついだ。 ﹁石ってなんです、宝石かなんかですか﹂ 謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながら訊きいてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなり起たって来て、謙作の前の椅子を引寄せた。 ﹁あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか﹂ そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作は煩うるさい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。 ﹁一つあげましょう﹂ 洋服の男は隻かた手てでそれを遮さえぎるようにした。 ﹁いや、それは戴いただきません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、己じぶんで執って来て飲みます﹂ ﹁そうですか、では、あげますまいか﹂ ﹁そうしてください、そうしていただくと私も自由で宜いいのです﹂ ﹁では、どうぞ御自由に﹂ 謙作はその盃さかずきに己で酒を注ついで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。 ﹁それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね﹂ ﹁まあ、まあ話してください﹂ ﹁では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那の詞ことばを遣つかいます、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な富かね豪もちで、父には七人の妾めかけがあったのです、私は他の兄弟もない独ひとり児ごのことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうに奇きを好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、興こう業ぎょ物うものとかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は印イン度ドから来た女奇術師の一座を暫しばらく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それが鳩はとになって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になって這はったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や朋とも友だちを入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の眼がん目もくはこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください﹂ 洋服の男はそう云って思いだしたように双りょ手うてを兜かく衣しに入れた。 ﹁ああ﹂ 謙作は頷うなずいてみせた。洋服の男は一本の葉巻とマッチをだして、面倒くさそうに火を点つけた。 ﹁事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きな棗なつめの木があって、それに棗の実がいっぱいに実みのっていたのです。私はその棗の木の下へ仕掛けのある箱を置いて、二つ三つ得意の奇術をやり、それから石を投げて鳩はとにして飛ばしたところで、 ︵ふうう︶ とさもおかしくてたまらないと云うような嘲あざけり笑いをする者もあるのです、私は怪けしからん奴だと思って、見ると赤い帽子を著きた、顎あご髯ひげの白い、それもまばらに生はえた老人が笑ってるのです、私は後の詞ことばによっては、撲なぐり倒してやろうと思って、その顔を睨にらみつめると、 ︵若旦那、そんな小供のするような奇術は駄目ですよ、私の奇術を見せましょうか︶ と云うのじゃないですか、私は腹が立つし、種も仕掛けもない手ぶらの老人が、気の利いたことができるものか、何かやらして、気の利いたことができなかったら、大おおいにとっちめてやろうと思ったので、 ︵そうか、では、やってもらおう、お前さんは、どんなことができるのだ︶ と云うと、老人はにやにや笑って、 ︵若旦那、私にはなんでもできますよ、私は若旦那を猿さるにしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きな棗なつめの木を枯らしてみましょうか︶ と云うのです、いくら奇術が巧うまいからと云って、立たち木きが枯らされるものでない、私は老人がでたらめを云って、私を笑わせて銭でももらおうとしているのだな、と思ったので、ますます腹が立って、 ︵よけいなことを云わずに、この棗の木が枯らされるなら、枯らしてもらおう︶ と云いますと、老人は十字架をかけたように首にかけていたプラチナの鎖をはずして、その鎖に附けてあった小さな袋を出し、それを右の手の掌てのひらに握ってから、 ︵それ、すぐ枯れますよ︶ と云って、その手を上にあげて棗の木を呪のろうとでも云うようにすると、どうでしょう、今まで青あおしていた棗の葉が急に萎しおれて来て、棗の実がぼろぼろと落ちるのじゃありませんか、私はびっくりして驚くと云うよりも恐ろしくなったのです、すると老人は、 ︵どうです若旦那、私の云うことに嘘はないでしょう︶ とすまして云うのです、 ︵私が疑ったがわるいのです、どうか許してください︶ 私はしかたなしに老人にあやまったのです、すると老人は、 ︵若旦那が判ってくだされるなら、この木を枯らすも可哀そうですから、活いかしましょう︶ と云って、この手を横に二三度動かすと、今まで落ちていた棗なつめの実が落ちやんで、萎しおれていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて、父も母も呼んで来て引き合せたうえで、大おおいに饗ごち応そうをして、その日から老人にいてもらおうと思って、老人にそのことを云ってみると、老人は、 ︵若旦那の御親切はありがたいのですが、私は家族を伴つれておりますから、一人こちらで御厄介になることはできません︶ と云うから、その家族も伴れて来ていっしょにおれと云っても、 ︵いや、また御厄介になります、私の法術は若旦那のお気に入ったように思われますから、そのうちにお教えします、しかし、これは手品と違って、不思議な術ですから、腹はらが出来ないとお教えしても駄だ目めです、そのうちに若旦那に腹が出来たなら、何い時つでもお教えします、これからちょいちょい遊びにあがります︶ と云って、いくら止めても帰って往くのです、居いど処ころを聞いてもそのうちに知れると云って云わないものですから、私は老人をますます豪えらい異人だと思うようになったのです、それから老人は、二日隔おき、三日隔きに、どこからともなしに飄ひょ然うぜんとやって来ては、石を蛙かえるにしたり、壁へ女の姿を現わしたりして見せて、その後あとで饗ごち応そうを喫くって帰って往ったのですが、それから一箇月ばかりすると、私の家に大きな不幸が起ったのです、午後の茶を飲んでいた父が、病気でもなんでもないのに、そのまま倒れて亡くなったのです、私の家は他に近い親類もないので、母が雇やと人いにんを指揮して、やっと葬とむ式らいをすましたところで、父が亡くなってから十日目の朝になって、その母がまた宵に寝たままで亡くなっているのです、これは後で判ったのですが、そんなことを知らない私は、もう力にする者はその老人一人だと思いまして、母の亡くなった後のあとしまつは、一いち老人に相談したものです、それでも老人は、私の家に泊とまるようなことはしなかったのです、すると、ある日のこと、老人が壮わかい可愛らしい女を伴れて来たのです、それが老人の女むすめです、その女むすめは三度老人に伴つれられて来て、三度目に私の家に泊ることになったのですが、私と女むすめとの間は、その晩からもう他人でなくなったのです、しかし、これは恐ろしいわなだったのです、父も母もその妖よう賊ぞくの手に死に、私もその手に死のうとしていたのです、私は翌日、その女むすめが帰ると云うので、送って往ったのですが、女むすめの家は入江の水みず際ぎわに繋いである怪しい舟です、私はそのまま舟の一室へ閉とじ籠こめられるように入れられたのです、もし強しいて帰ろうとしたなら、女むすめの姉の使う剣けんと、老人の毒どく手しゅが待っているのです、女むすめの姉は跛の醜い女でしたが、七本の短剣を使うのです、後あとから後から空に投げあげるさまが、魔神の手がそれを手伝うように思われたのです、私が往った時、老人はその姉あね女むすめを呼んで、饗ごち応そうだと云って剣を使わせたのですが、それは私に死の命令をしたものです、しかし、女むすめは私をかばってくれたのです、何も知らない私は、老人がどうしても帰さないので、しかたなしに泊って、夜中比ごろに一度目を覚ましてみると、次の室へやで女むすめが姉と激しく云い争っているのです、 ︵あまり可かわ哀いそうじゃありませんか、私は厭いやです、あの方は、私に免じて助けてやってください︶ その声の後から姉の詞ことばがするのです、 ︵あんな男にふざけやがって、痴ばか、お前が厭なら、私がやるよ︶ 私はその夜よ殺されようとしていたのです、私は歯の根もあわずに顫ふるえてると、隣となりの声はすぐ聞えなくなって、ひっそりとなったのです、私は私に好意を持っている女むすめがどうかして助けてくれると宜いい、もし金で往くことなら、自う家ちの財産を皆投げ出しても宜いから、それを女むすめに話して、助けてもらおうと思っていると、夜よの明け方になって、そっと女むすめが入って来て、黙って私の手に鎖の附いた小さな袋のような物を握らして、 ︵これは私の父の持っている靺まっ鞨かつの玉たまです、もし、危険なことがあれば、これを揮ふってくだされば宜いのです、これさえあれば、何事でも思うとおりになります、これを持っとれば、もう父も姉も、あなたに害を加えることはできないのです、帰ってください、もう、これっきりお目にかかりません︶ と、云ってから、女むすめは泣きだしたのです、私は心に余裕があれば、何か云ってやったのですが、まだ恐ろしさが除のかないものですから、そのまま急いで戸を開けて舳みよしに出たのです、気が注つくと老人の呻うなるような怒る声が聞えていたのです、もう黎よあ明けで東のほうが白くなっているのです、私はそれから家に帰ったのですが、女むすめのことが気になるし、老人のこともうすきみがわるいので、五六人の壮わかい男に銃を持たして、入江の岸へ往ってみると、逃げたのか舟はもういなくなっていたのです、私はそれでも女むすめのことが気になるので、その後のちも人を頼んで詮議をさせたのですが、とうとう判らなかったのです、その玉は木の葉の形をした瑠るり璃こ紺んの石です、その玉を手に入れた私は何をしたのでしょう、私には金がたくさんあったので、強盗の真ま似ねをする必要はなかったのです、私はそれを女に用いたのです、私は知事の奥さんとも、公使の奥さんとも、市長の姉あね女むすめとも、歌げい妓しゃとも、女優とも関係したのです、そして、それが世間の問題になりかけた時、マニラ生れの日本人だと云う歌劇の一座が来たのです、私は性しょ懲うこりもなくまたその座ざが頭しらだと云う女優に眼をつけて、それに関係をつけたのですが、その女優のために、その玉を盗まれてしまったのです、私は世間の攻撃が煩うるさいし、その玉が惜おしいので、一切の財産を金にして、それから十年あまり……﹂ 洋服の男がそれまで云いかけたところで軽いゴム裏うらの音がした。謙作はふと顔をあげた。前の隅のテーブルにいた女が帰りかけているところであった。長なが手てな重みのある、そしてどこか艶なまめかしいところのある顔を見せて、洋服の男の背うし後ろの方から出ようとする容ふうで、長い青っぽい襟えり巻まきの襟を掻かき合せていた。謙作は背うし後ろす姿がたも好よかったが、好いい女だなと思ってちょっとその容きり貌ょうに引きつけられた。と、洋服の男が顔をあげた。洋服の男は女の顔を見ると驚いたような眼をして、じっと眼を見み据すえるようにしたが、いきなり飛びあがるように起たちあがった。 ﹁おい、天てん華かじゃないか﹂ 謙作は夢から覚めたように洋服の顔と女の顔を見くらべた。女は冷然とした顔をしていた。 ﹁うむ、天華じゃ、天華﹂ 洋服の男は女の肩のあたりに手をやろうとして、体の向きを変えて背うし後ろ向むきになった。女は見みむ向きもせずにその前をつかつかと通ろうとした。 ﹁待て﹂ 洋服の男の手は女の左の肩のあたりに往った。 ﹁なにをなさるのです、失礼な﹂ 女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に仰あお向むけに倒れてしまった。と、ガラス戸が開あいて女の姿は外へ出てしまった。 ﹁この盗ぬす人っと﹂ 洋服の男は跳ね起きるなり女の締めかけにしてあったガラス戸を開けて走りでた。 ﹁もし、もし﹂ 謙作と洋服の男のテーブルを受持っていた女じょ給きゅうは、急いで洋服の男の後あとから追って往った。謙作はもしかすると今の女が、あの男の玉を盗んだと云う女優ではあるまいかと思った。しかし、それにしてもあまり現実にかけ離れている荒こう唐とう無むけ稽いに近い話であるから、その話と今の女をいっしょにすることはできなかった。謙作はふとあれは狂きち人がいではあるまいかと思った。 もう時間はどうだろう、謙作はふと時間のことが気になった。彼は急いで手首の時計に眼をやった。時間は四時十分になっていた。 まだ二時間はあるが、ぐずぐずしていては、またどんな係かかりあいが出来るかも判らない、いっそ船へ往って船で飲もうと思いだした。謙作は勘かん定じょうをして出ようと思って顔をあげた。朋ほう輩ばいの出て往ったのを気にしていた、三人の女給が、開あいたガラス戸の側がわに立って外の方を見ていた。 ﹁おい、姐ねえさん﹂ 謙作が右の指ゆび節ふしで軽くテーブルの上に音をさすと、一人の女がすぐ来た。 ﹁勘定をしてもらいたい、いくらかね﹂ 女は皿と銚子を眼で読んでいたがすぐ価ねを云った。それは二円と少しのものであった。謙作は小銭を三円出した。 ﹁後はさっきの姐さんにやって貰おう﹂ 謙作は女が金を持って往くのを見て煙草を出し、それにマッチの火を点つけて、一いっ吸ぷくしてから腰をあげた。 ﹁大変よ、大変よ﹂ おびえたような声をしながら出て往っていた女が、ガラス戸の処に姿を見せた。 ﹁どうしたの、どうしたの﹂ ﹁どうしたって、大変よ、今のお客さんが、己じぶんで首を突いたのよ、私、もうどうしようかと思ったわ﹂ 謙作は煙草をとり落した。 ﹁あの横よこ町ちょうの水みず菓が子し屋やの前まで走ってって、いきなり短刀を出して首を突いたのですよ、おっそろしい﹂ ﹁どうしたと云うのでしょう、あの女の方かたを追っかけて往ったのじゃないこと﹂ ﹁そうなのよ、でも女の方は見えなかったわ﹂ ﹁いったいどうしたと云うのでしょう、狂きち人がいでしょうか﹂ ﹁まあ狂きち人がいだ、わ、よ、女の方に怨みがあるなら、女の方を殺したら好いじゃないの﹂ 謙作もその詞ことばを聞くとあの男はたしかにどうかしていたのだ、だからあんなことを云ったのだと思った。そして、己が今その男の対あい手てになっていたことを思いだして、係りあいになって出発が出来ないようなことがあっては大変だと思いだした。 ﹁そいつは豪えらいことになったものだ﹂ 謙作はすこしも心にかけていないようなことを云い云い女の傍を通って外へ出たが、横よこ街ちょうのほうは見ずにそのまま初めの街み路ちを逃げるように歩いて往った。
何い時つの間にか電燈が点ついていた。謙作は洋食屋を出る時の物に追われているような気もちは改まって、ゆっくりした足どりになって微うす暗ぐらい黄ゆう昏ぐれの街ま路ちを歩いていた。 天気が変ったのか重おんもりした空気が酒のある頬ほおにそそりと触れて暖かった。彼の頭には自殺したと云う怪しい洋服の男の印象が残っていたが、それは何年も昔のことのようなまたちがった世界の出来事のような気がしていた。 ふと煙草のことを思いだした。彼はちょと立ち止まってステッキを左ひだ脇りわきに挟はさみ、衣かく兜しに入れた煙草の袋から一本抜いて口に喞くわえ、それからマッチをだして火を点けながら燃えさしのマッチの棒を地べたに捨て、ひと吸いしてから歩こうと思って、顔をあげて右側につらつらと眼をやった。 そこには電燈の明るい洋館の二階があって、その窓から長なが手てな顔の女が胸から上を見せていた。女の顔はにっと笑った。謙作はその女の顔に見覚えがあるようであったからじっと眼を止とめて見た。それは今のさき洋食屋にいた女であった。謙作は怪しい洋服の男が口にした天てん華かと云う名をちょと思いだした。女は頭をさげて見せた。 ﹁今、失礼いたしました、ちとお立ち寄りくださいまし、お茶でもさしあげましょう﹂ 謙作は時間のことは心配しなかったが、女の素すじ性ょうが判らないうえに、一度位それも洋食屋などで顔を合せた位の人の内へ慣れなれしく入って往くのも気が咎とがめるし、また壮わかい女があまり慣れなれしくするのもうす鬼き魅みがわるいので躊ちゅ躇うちょした。 ﹁おあがりくださいまし、よ、他に何た人れも御遠慮なさる者はいませんから﹂ 謙作はふと考えた。この女の物ごし風ふう体ていはどうしても良りょ家うかの子女じゃない、女優のあがりか歌げい妓しゃのあがりである、それに一人でおると云うのは、旅にでも来ているのか、それともと考えて、金のある男を待っているある種の女の群に思った。彼は船にはまだ時間があると思った。 ﹁さあ、どうぞ﹂ ﹁では、ちょっと失礼しましょうか﹂ 謙作は煙草の喫のみさしを捨てて入口の方へ注意した。門もん燈とうのぼんやりと燭ともっている入口のガラス戸がすぐ見えた。 ﹁そこの入口を入って、右側の階段をおあがりくださいまし、四つ目の室へやでございます﹂ 謙作はちょと女の顔を見てから入口の方へ歩いて往った。そこには磨すりガラスのように埃ほこりの白く附着したガラス戸が彼の来るのを待っているように、ハンドルがはずれて口を細目に透すけていた。彼はそのガラス戸を軽い気もちで開あけた。 見みつ附けに受附のような出っぱった室の窓ガラスが見えて、中に肥った頬ほおペタの赧あかい老婆が鼻眼鏡のような黒い紐ひもの附いた玉の大きな眼鏡をかけて、横向になって表紙の赤茶けた欧文の小こほ本んを覗のぞいていた。その室の右にも左にも微うす暗くらい板いたの間まがあって、その前さきに梯はし子ごの階段が見えていた。謙作は右の板の間の端はしについた棕しゅ櫚ろの毛の泥どろ拭ぬぐいで靴の泥を念入りに拭ってからゆっくりと階段をあがって往った。 彼はそうして白い煉れん瓦がの階段を一段一段あがりながら、うっかり女の誘惑に乗ると帰りの旅費まで無くする恐れがあるので、めんどうと見たなら茶ちゃ代だいに相当する物を置いてさっさと逃げだそうと思った。彼はそうして宜いい考えの浮んで来る己じぶんの頭に、快こころよい満足を感じながら二階の廊下に出た。 微うす暗くらい窟ほら穴あなのような廊下の前さきに一ひと処ところ扉が開あいていて、内から射した明るい燈ひが扉を背で押すようにして立っている者を照らしているところがあった。謙作はそれがあの女であろうと思ったので、その方へ歩いて往った。それはたしかに彼かの女であった。 ﹁ようこそ﹂ ﹁失礼します﹂ 謙作は曖昧な返事をしながらちょと頭をさげるようにした。 ﹁ひどい処でございますわ、さあどうぞ﹂ ﹁失礼﹂ 謙作は中へ入った。雲きら母らのようにぎらぎら光る衝つい立たてが立っているので、それを左によけて通った。そこは室へやの中程に角かくなテーブルを据すえて、薔ば薇らのような花の咲いた鉢はちをのっけ、そのまわりに真まっ紅かな天びろ鵞う絨どを張った椅い子すや安楽椅子を置いてあった。窓のほうには緑色のカーテンが垂れていた。その窓の下にも真紅な天鵞絨を張った寝ね椅い子すをはじめ種いろ種いろの椅子が
![※(「女+朱」、第3水準1-15-80)](../../../gaiji/1-15/1-15-80.png)
謙作は呼いき苦ぐるしい眠りから覚めた。それは花かえ園んの中を孔くじ雀ゃくか何かのようにして遊び狂うていた鳥の翅つばさが急にばらばらと落たような気もちであった。彼は二三度大きく呼いきをしてから眼を開けた。白い暖かな裸の体が草色の羽はね蒲ぶと団んに被おおわれていた。
謙作はびっくりした。それと同時に奇怪な詩のような印象が頭に蘇よみがえって来た。しらじらと明け離れた朝の光がその印象の隙すきから射さして来るように感じた。彼は船に乗り遅れたことを思いだした。
﹁これは﹂
謙作は腹はら這ばいになった。彼はひどく後悔した。昨きの日うの船に乗って帰ると云う電報を打ったことを思いだした。彼はこの瞬間、八つになる女の子と五つになる男の子が己じぶんを待って母親と噂をしている容さまを眼めさ前きに浮べた。彼はたまらなく苦しかった。彼は寝てはいられなかった。彼はいきなり起おきようとして、己も裸になっているのに気が注ついた。
﹁まだお早いですよ、もすこし休んでいらっしゃい﹂
女はうす目を開けていた。謙作はじっとしてはいられなかった。
﹁いや、こうしてはいられない、洋服はどこにあるのでしょう﹂
榻ねだいの枕まく元らもとの台の上に乱れ箱に入れて洋服やシャツが入れてあるのが見えた。彼はすらりと羽蒲団を横に脱ぬけだして下におりた。
﹁今から何をなさるのですよ﹂
﹁これから汽船会社へ往って来るのです﹂
謙作はシャツを着ながら云った。
﹁だって船はないのでしょ﹂
女はすまして云った。謙作はそれが忌いまいましかった。
﹁今日はないが、三日目にありますからね、ちょと往って来るのです﹂
﹁そう﹂
女は冷笑を含んだように云った。謙作はこせこせとワイシャツを着、ズボンを着つけ、靴もあるので靴も穿はき、それから上うわ衣ぎに手を挿さしながら見ると、時計も紙かみ入いれもちゃんと箱の中に入れてあった。彼はふと金がどうかなっていはしないかと思ったが、そこで検しらべることも出来ないので、それを上衣の内うち兜かくしに入れ、時計を手首に着けた。
﹁そんなにせかせかしたって、会社なんかが見つかるものですか﹂
女はもとの枕で寝ていた。
﹁なに、海岸通りへ往ったらありますよ、ちょと往って来ます﹂
﹁御飯は﹂
﹁どこかで喫くいましょう﹂
﹁そう﹂
謙作は入口と思われる方へ往ってそこの扉を開けた。そこは宵に見たままの室へやであった。彼はその室を横切って衝つい立たての立っている方へ往った。そこの右側の棚には外がい套とうも帽子もステッキも宵に置いたままであった。彼はそれを持って急いで外へ出た。
廊下は明かるかった。謙作は廊下へ出ると内うち兜かくしに手をやって紙入を出してみた。金にはすこしも異状がなかった。彼は幾いく等らか女に置いて往かなくてはならないと思ったが、なんだかばかばかしくもあった。彼はそのまま階段をおりた。
戸そ外とへ出ようとして扉に手をかけた時、ふ、ふ、ふと笑うような声がした。揮ふり返って見ると、見みつ附けの窓の中に宵のままの老婆が大きな眼めが鏡ねを見せていた。謙作は気もちがわるいので、宜よくは見もしないで戸そ外とへ出た。
朝あさ陽ひがむこう側の屋根瓦を寒く染めていた。労働者が群をして狭い街ま路ちを往来していた。謙作は海岸の方角が判らなくなっていた。彼は人に訊きこうと思った。
﹁しょうしょう伺うかがいます、海岸の方へ往くには、どう往ったら宜いいでしょう﹂
三人伴づれの道具箱を肩にした大工の一人を見つけて訊いてみた。
﹁俺達も海岸へ往くところだが、海岸はどこかね﹂
﹁台湾航路の汽船の会社のある処ですがね﹂
﹁それじゃすぐだ、俺達に跟ついて来るが宜い﹂
謙作は三人の後あとから跟いて往った。狭い街とお路りから電車通りへ出て、線路を横切ってむこうの広い街とお路りへ入ったところで、三人の大工はどっかへ往ってしまった。
﹁しょうしょう伺います、海岸の、台湾航路の汽船会社のある方へは、どう往ったら宜いのでしょう﹂
謙作は海員のようなマドロスパイプを啣くわえて来た男に訊いた。
﹁それは、この横よこ町ちょうを往って、それから三つ目の街とお路りを、右へ折れてけば宜い﹂
マドロスパイプはすぐ左の方に折れている横町に指をさした。謙作はその方へ歩いて往った。そして、三つ目の街とお路りを見つけて、それを右へ折れて往ったが、海岸へも来なければ会社らしい建物も見つからなかった。
﹁海岸はまだでしょうか﹂
謙作は鰌どじ汁ょうじるの荷をおろしている老人に訊きいた。
﹁ここは山やまの手てじゃ、有あり馬まの温泉ならそう往っても好いが、海岸はあべこべだよ﹂
老人はもと来た方へ指をさした。謙作はしかたなしにとぼとぼと引返した。そして、歩いているうちに路みちが判らなくなった。
﹁海岸はどう往ったら宜いいでしょう﹂
﹁これから、右の方へ往ったら宜いが、よっぽどありますよ﹂
謙作はまたその方へ往った。しかし、依然として海岸は来なかった。
﹁このあたりに食事をする処はないでしょうか、どこでも宜いのですが﹂
謙作は空腹のことから旅やど館やへ入って、旅やど館やから電話をかけるなら宜いと思いだした。彼は旅やど館やを尋ねて往った。
﹁旅やど館やならこの前さきにあるよ﹂
謙作は教えられた方へ往ったが、旅やど館やは見つからなかった。
謙作はへとへとになって黄ゆう昏ぐれの街とお路りを歩いていた。
﹁まあ、今まで何をしていらしたのです、奥様がどんなにお待ちしているか判りませんわ﹂
謙作は不思議に思ってその方を見た。そこには洋館の入口の扉を半ば開けて島しま田だま髷げの女が半はん身しんを露あらわしていた。それは昨ゆう夜べ飲み物を搬はこんで来た女であった。謙作は昨ゆう夜べの家の前に帰っていることに気が注ついた。
﹁あ、君か﹂
謙作はしかたがないので二階へあがって往った。室へやの中はもう燈ひが点ついていた。彼かの女は室の中のテーブルに寄りかかって、彼の入って来るのを笑って見ていた。
﹁汽船会社へいらしって﹂
謙作は判らなかったとは云えないので、曖あい昧まいな返事をしながらその前へ往った。
﹁お疲れになったのでしょう、おかけなさいまし、お腹なかも空いたのでしょう、すぐ何か持ってまいります﹂
女は始終笑顔をしていたが、なんだか皮肉に見えるところがあった。謙作は煙草を飲もうと思って衣かく兜しに手をやった。煙草は無くなって内には敷しき島しまの袋ばかり残っていた。彼はしかたなしにじっとしていた。
﹁今まで会社にいらしったのですか﹂
﹁いや、そうでもないのです、あっちこっち歩いていたのですから﹂
謙作はその日のことが奇怪でたまらなかった。彼は海岸も旅やど館やも見つからないと云うのは、己じぶんがどうかしているためかも判らないと思った。彼は恐ろしかった。
島田髷の女が広ひろ蓋ぶたに入れて料理を搬はこんで来てテーブルの前に置いた。
﹁私はとうに戴いただきましたから、あなたがあがってくださいまし﹂
謙作は空ひも腹じいのですぐ箸はしを持った。それはパンまで添えた洋食であった。
﹁昨ゆう夜べのお酒をおあがりなさいまし、気がせいせいしますわ﹂
陶せと品もののビンから注ついだ飲み物が女の手から渡された。謙作は箸はしを置いてそれを口にした。と、謙作の前には華はなやかな世界が来た。
朝になった。謙作は昨きの日うと同じ状態の下もとに体を置いていた。謙作は今日こそ車に乗って会社に往こうと思った。彼はまた起きて洋服を着た。
﹁またどこへいらっしゃるのです﹂
女は寝たままであった。
﹁ちょっと往って来る﹂
﹁そんなつまらないことはおよしなさいましよ﹂
謙作はそれでも出かけて往った。老婆の、ふ、ふ、ふと云うような笑声が嘲あざけるように聞えた。外へ出たところで空あき車ぐるまが来た。彼はまずその事で旅やど館やへ往って朝の食事をしてから会社へ往こうと思った。
﹁どこか海岸通りの宜よい旅やど館やへ伴れて往け﹂
車は謙作を積つんで走りだした。街とお路りから街とお路りを休みなしに往ったが、旅やど館やがないのかちっとも止まらなかった。
﹁おい、旅やど館やはまだかい、旅やど館やがなければ、台湾航路の会社へでも宜いいぞ﹂
それでも車は止まらなかった。謙作はしかたなしに車を代かえて走らしたが、その車もまたどこにも止まらなかった。車の上を一日照らしていた陽ひが何い時つの間にか掠かすれてしまった。
﹁もう宜い、おろしてくれ﹂
謙作は車からおりて車くる賃まちんを払って歩こうとした。
﹁おや、お帰りなさいまし﹂
二階の窓からあの女が顔を出していた。謙作は内へ入りながら俺はどうかしていると思った。
翌日になって謙作は己じぶんの身が恐ろしくなったので、警察の保護を願おうと思って、警察を尋ねて往った。
﹁警察はこの前さきですよ﹂
いくら前さきへ往っても警察はなかった。警察署がなければ交番でも宜よいと思った。
﹁交番ならこの街とお路りを抜けたところにありますよ﹂
しかし、交番も見つからなかった。謙作はがっかりして歩いていると、何い時つの間にか洋館の前へ来ていた。二階の窓にはあの女の顔。
その翌日、謙作はその町を逃げだすつもりで三ノ宮駅へと往ったが、三ノ宮駅も見つからなかった。気が注ついてみると女の顔が二階の窓から覗のぞいていた。
その夜、彼かの女は謙作の頭を己の胸のあたりに持って来さして、その耳に何か囁ささやいていたがなんと思ったのかその体を起さなかった。
﹁うちの坊ちゃん、宜いいことをして見せてあげようね﹂
女はそう云ってから右の手を左の袖そで口ぐちに入れて、何か握ったものを引出した。
﹁その花が生なま意い気きだから枯らしてみましょうよ﹂
謙作の夢のようになっている頭にぴんと響いたことがあった。謙作はうっとりとなっている眼を務つとめて開あけた。
﹁こんな花は枯れってしまえ﹂
女が右の手を鉢の上にさしたが、みるみるその花は萎しおれて花弁がぼろぼろと落ちだした。
﹁うちの坊ちゃん、どう﹂
謙作はそれをちょと見た後のちに、眼をつむってしまった。
﹁おや、睡ねむっちゃったのだよ﹂
謙作は彼かの女と島田の女で己じぶんを寝室に伴つれて往くのを知りながら睡ったふりをしていた。夜の明け方になって一夜やじ中ゅう睡らずにいた謙作の手は、女の左の腕に往った。
﹁なにをする﹂
女は急に起きあがろうとした。と、同時に女の腕に鎖くさりで附けてあった袋が謙作の手に移った。
﹁あ﹂
女は叫ぶなり兎うさぎのように下へ飛び下りて寝室の外へ逃げた。
謙作はその袋を口に啣くわえて、手早く洋服を着て外へ出たが、彼かの女はもう姿も見せなかった。
夜はもう明けていた。謙作の頭ははっきりしていた。彼は一丁ちょうばかり往ったところで、一軒の旅やど宿やを見つけたので入って往った。
謙作はその日の夕方出しゅ帆っぱんした高たか雄おま丸ると云う台湾航路の船に姿を見せていた。