広巳は品川の方からふらふらと歩いて来た。東海道になったその街には晩はる春さきの微うす陽びが射さしていた。それは午ひる近い比ころであった。右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のような靄もやが和なごんでいて、生暖かな物悩ましい日であった。左側の川崎屋の入口には、厨いた夫ばらしい壮わかい男と酌婦らしい島田の女が立って笑いあっていたが、厨夫らしい壮い男はその時広巳の姿を見つけた。二十五六の痩せてはいるが骨格のがっしりした、眉の濃い浅黒い顔が酒を飲んでいるために
![※(「酉+它」、第4水準2-90-34)](../../../gaiji/2-90/2-90-34.png)
﹁これ、これ、これ、よせと云うのに、これよさないか、罰あたり、神様のお咎とがめが恐ろしくないか、これ、これ﹂ 老人は箒ほうきを中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足退さがった。老人の小さな頭には胡ごま麻し塩おになった略画の烏からすそのままの髷まげが乗っかっていた。 ﹁こ、これは、まあ、なんと云うことだ、狼おおかみの噛みあうように﹂ 広巳は双子に帯際に掻かきつかれながら、俯うつ伏ぶせに倒れた紺の腹掛の上に馬うま乗のりになっていた。 ﹁く、く、く﹂ ﹁う、う、う﹂ ﹁む、む、む﹂ ﹁う、う、う﹂ 三人はまた獣のように呻うめきあった。剥むきあっている三人の歯が獣の牙のようにちらちらした。 ﹁何だ人れか来てくれ、何人か来てくれ﹂ 老人はもう己じぶんの手ではどうすることもできないとおもった。牡ぼた丹んか何かの花が咲いたようについと来て立った者があった。 ﹁おや、喧嘩してらっしゃるの﹂ 二十七八に見える面おも長ながな色のくっきり白い女であった。黒い筋の細かい髪を目だたないような洋髪にして、微うす黄ろな地に唐から草くさ模様のある質じ実みな羽はお織りを被きているが、どこかに侵されぬ気品があった。老人はどこかの邸やしきの夫おく人さまが参詣に来あわしたものだろうと思った。 ﹁ほんとに困っちまいます、私が云ってもだめですから、どうか夫おく人さまが﹂ どうか夫おく人さまがとは夫おく人さまが引き別けてやってくれと云うのであった。女はちょっと老人の方へ眼をやるようであったが、対あい手てにはならなかった。その時広巳は二人の対手を膝ひざの下に押し敷いていた。 ﹁豪すごいわ、ねえ﹂と云って気が注ついたように、﹁おや、貴あな下たは﹂ 貴下は何某ではないかと云う知っている人を探し求むる詞ことばであった。広巳は拳こぶしを揮ふるいながら眼をやった。それは知っている人ではなかったが、どこかで逢ったような気がするのであった。広巳はきまりが悪かった。広巳は二人を放して立った。広巳の口元には血があった。広巳にとりひしがれていた二人は、それと見て飛び起きて広巳に躍おどりかかろうとした。二人の眼はぎらぎらと光っていた。紺の腹掛の左の頬は血だらけになっていた。女はついと広巳の前へ出て広巳をかばって立った。 ﹁およしなさいよ、この方は、もう手を引いたではありませんか、それに貴下方は二人じゃありませんか﹂ 二人で一人にかかって往くのは卑怯だと云うのと同じであった。紺の腹掛は立ち縮すくんだ。双子の眼は依然としてぎらぎらと光っていた。 ﹁もういいではありませんか、さっぱりなさいよ、男は斬り結んだ刀の下で笑いあうと云うではありませんか﹂ 双子は進めなかった。 ﹁私が仲裁するのですから、男らしくさっぱりなさいよ、それでもいけないと仰しゃるなら、私がお対あい手てをいたします﹂ 女の口元には威厳があった。それに腕うで節っぷしの強い男を向うにまわして、お対手をすると云うからには武術の心得があるか、それとも懐ふところに何か忍ばしているか。双子も立ち縮すくんでしまった。女はくるりと体の向きをかえて広巳を見た。広巳はその顔が眩まぶしかった。 ﹁もういいから、お帰りなさい、だが、気をおちつけて、人と喧嘩をなさらないようにね、貴あな下たはいい方だが、この比ごろ気がたってらっしゃる、それには事わ情けもおありでしょうが、よく気をつけてね﹂ 広巳は母親から何か云われているように思った。 ﹁では、お帰りなさい、心配なすってらっしゃる方がおありでしょう﹂ 広巳の頭は覚えずさがった。 ﹁へい﹂ 広巳はそうしてお辞儀をするなり、体をかえして正面の華とり表いの方へ歩いた。そこにはあちこちに喧嘩と知って集まって来ている人の顔があった。広巳はきまりが悪いので急ぎ足になって外へ出た。そして、方角の見当もつけずに歩いているうちに、 ︵おや︶ と云う気もちが浮んで来た。その気もちは、面長な色のくっきりと白い、黒い筋の細かい髪を洋髪にした女につながっていた。 ︵あれじゃないか︶ 広巳はぴたりと足をとめた。広巳の眼の前には初春の寒い月の晩海かい晏あん寺じの前の大おお榎えのきの傍で、往きずりに擦れ違った女の姿が浮んでいた。 ︵どうもあの女だ︶ 大榎の女はさながらの錦にし絵きえになって、火ほ照てったようなその唇は、その晩の詞ことばを口にするのであった。 ︵今晩は︶ 広巳は女に逢いたくなった。 ︵参詣に来たのなら、まだいるだろう︶ 広巳は眼を開けた。そこは海晏寺の前のあの大榎の見える処であった。 ︵おや、反あべ対こべに往ってたか︶ 広巳はすぐ引返そうとしたが、醜い争けん闘かを引き別けてもらったばかりの女に逢うのはきまりも悪ければ、争闘を見ていた者がまだその辺あたりにうようよしているようで足が進まなかった。しかし、ぐずぐずしていて女に往かれては、どこの何だ人れと云うことも判っていないので、また今度逢あおうと思っても何い時つ逢えるやら判らなかった。 ︵今逢って、居所をつきとめておかないと、また逢おうと思っても逢えやしない︶ 広巳は気まりの悪いことには眼をつむらなくてはならなかった。 ︵くそっ、本渓湖の戦いくさの思いをすりゃ、なんでもねえや︶ 広巳の耳には砲弾の唸うなりがよみがえり、かたかたと鳴る機関銃の音がよみがえった。砲煙、銃火、連隊旗、剣、赤鬼のような敵兵。 ︵左の脇腹に擦かす過りき傷ずを一つ負うただけで、金きん鵄し勲章をもらって、人からは日露戦争の勇士だの、なんだのと云われるが、なにが面白い︶ 広巳の感情はたかぶって来たが、それでもその感情の前むこ方うには錦絵の女があった。広巳の感情はすぐやわらいだ。広巳は八幡宮の前へ往っていた。 ︵ここだ︶ 広巳は入ったがすこし後めたくなった。広巳は眼をやった。あの風船玉売の老婆が、二三人集まって来ている小さな女の子に、商売物の風船玉を見せびらかしている他には何だ人れもいなかった。広巳は安心して華とり表いを潜くぐって往った。華表を潜りながら拝殿の方へ眼をやった。拝殿の方から嬰あか児んぼを負った漁りょ夫うしのお媽かみさんらしい女が出て来るところであった。 ︵もう、帰ったのか︶ 広巳は社の左右へ眼をやった。稲荷の祠ほこらの傍には岡おか持もちを持った小こぞ厮うと仮おや父かたらしい肥った男が話していた。 ︵それとも、あの二人に何か因いん縁ねんをつけられて、どうかしたのだろうか︶ 因縁をつけられて料りょ亭うりやへでも伴つれて往かれているとなると、黙ってはいられなかった。 ︵聞いてみようか︶ 広巳は社の右側へ廻って往った。さっき己じぶんが腰をかけていた右側の階段に、あの箒ほうきの老人が傍へ箒をもたせかけて腰をかけていた。広巳は急いで老人の前へ往った。 ﹁爺おっさん﹂ 老人の眼はつむれていた。老人は仮いね睡むりをしているところであった。 ﹁おい、爺おっさん﹂ 老人は吃びっ驚くりしたように眼を開けて広巳を見た。 ﹁あ、今の壮わか佼いしゅか﹂
広巳は冗む漫だな口を利きたくなかった。 ﹁それよりも爺おっさん、今の女を知ってるかい﹂ 老人はけげんそうな顔をした。 ﹁今の女、今の女って、私が話していた女のことかな、二十七八の脂の乗った、こたえられねえ年とし増まだが、ありゃ水神様だ、人間がへんな気でも起そうものなら、それこそ神罰で、眼が潰つぶれるか、足が利かなくなるか﹂ 老人の話はたわごとに近いものであった。広巳はいらいらした。 ﹁そ、そんなことじゃねえのだ、今の、それ、あの女のことだよ﹂ 老人はおちつきすましたものであった。 ﹁あの女って、水神様のことだろう、今まで私の傍にな、こんな梅干爺でも平つね生ひごろの心がけがいいからな、神信心をして、嘘を吐つかず、それでみだらな心を起さずさ、だから神様が何い時つでもお姿を拝ましてくださるのだ、あのお池の中に祭ってござる水神様だ﹂ 広巳は老人の横面をくらわしてやりたいように思った。 ﹁何云ってるのだ、爺おっさん、俺おいらの云ってるのは、今、喧嘩のとき、仲へ入ってくれた女のことだよ、何だ人れだい、ありゃ、なんだか俺を知ってるような口ぶりだったじゃねえか、この辺あたりの人かい﹂ ﹁なに、喧嘩の時、仲へ入った女、そ、それが水神様じゃないか﹂ ﹁水神様だなんて、神様じゃないよ、色の白い、夫おく人さまのような女じゃねえか、判らなかったかい﹂ ﹁判ってるから、水神様だと云ってるじゃないか、まさか汝おまえさんがそれを拝むのじゃねえだろう﹂ たった今の事実を、それも傍にいながら明はっ瞭きり覚えていないのは、頭がぼけているのだろう。 ﹁爺おっさん、すこし、ぼけてるね﹂ 老人の眼はいきいきとした。 ﹁おい、壮わか佼いしゅ、気をつけろ、私わしがぼけてる、眼は秋しゅ毫うごうの尖さきもはっきり見える、耳は千里のそとを聞くことができるのだ、汝おまえなんざ無学だから、こんなことを云っても判らないだろうが、私はこう見えても、安やす井いそ息っけ軒んの門にいたのだ、西郷さんの戦いくさに、熊本城に立て籠って、薩さつ摩まの大軍をくいとめた谷たに干たと城きさんも、安井の門にいたのだ、私は運が悪くて、こんなことになっちまったのだが、それでも谷さんとは同門の友人だ﹂ 安井息軒の名は判らないが、谷村計介の話で、谷干城の事は知っていた。広巳はつい釣りこまれた。 ﹁谷さんと朋とも友だちかい﹂ ﹁朋友だとも、だから痴ばかにするものじゃないよ、こう見えても、経けい書しょはもとより、史しし子ひゃ百っ家かの書に通じてるのだ、つまり王道に通じているのだ、この王道とはとりもなおさず神の道だ、今度の日露の戦争だってそうだ、日本には神の道に通じているものがいるから、夷いて狄きの露ロ西シ亜アに勝ったのだ、鉄砲を打ったり、人を殺すことが豪かったから、勝ったと云うわけのものでない、王道つまり神の道だ、だから私には水神様が時どきお姿を拝ましてくだされるのだ﹂ 広巳はその女が水神社の方にでも往ってるのではないかと思いだした。広巳はいきなり老人の前を離れて、拝殿の前を横ぎって池の方へ往った。池の周まわ囲りを石畳にして蒼あおどろんだ水を湛たたえ、その中に小さな島をおいて二つ三つの小さな祠ほこらをしつらえてあった。広巳は島へ渡した石橋を渡った。島には何だ人れもいなかった。それは橋を渡らなくても一眼に見わたされる島であった。前の端の祠が水神社であった。広巳がその前へ往った時、雪のような物がぼろぼろと落ちて来た。 ︵おや︶ それは八重桜の花片であった。広巳は四あた辺りに眼をやった。一方から欅けやきの嫩わか葉ばの枝が出て来ているばかりで、桜らしい樹はなかった。 ︵間まな部べ山あたりからでも飛んで来たのか︶ 広巳の眼は水神社の古ぼけた木連格子へ往った。そこに水神社と云う小さな木札をさげてあった。 ︵これが水神様か、こんなうす汚い水神様がお姿をあらわしたところで、たいしたこともねえだろう︶ 広巳が口元に嘲あざけりを見せた時、黒い物の影が落ちて来た。それは鳶とびか烏からすかの影のようでもあった。 ︵前さっ刻きの鵜うか︶ 広巳はまた空を見たが何も見えなかった。広巳の眼は池の水の上へ往った。しかし、そこにも鳥らしいものはなかった。 ︵なあんだ、ばかばかしい︶ 広巳は引返した。広巳は他に女のことを尋ねる手がかりがないので、もう一度老人に逢あって確めようとしていた。 ︵どうも、この辺あたりの人らしいぞ、あれが、まさか、水神様の化身でもないだろう︶ 広巳はまた嘲りを浮べながら老人のいる処へ往った。老人は略画の烏の髷まげを見せて稲荷の前を掃いていた。 ﹁爺おっさん﹂ ﹁ほい﹂ 老人は吃びっ驚くりしたように箒ほうきの手をとめた。広巳はおかしくてたまらなかったが笑わなかった。 ﹁前さっ刻きの女のことだが、ほんとに知らないかい﹂ 老人はまたけげんな顔をした。 ﹁前刻の女って、なんだな﹂ ﹁俺おいらが喧嘩してた時に、仲へ入ってくれた女さ、ありゃこの辺あたりの女じゃないかね﹂ ﹁見かけない女だよ﹂ 見かけない女と云うことは女を認めてのことで、さっきのように夢をごっちゃにしたような返事でもなさそうであった。 ﹁そうかね、ほんとに知らないかね﹂ ﹁知らないよ﹂ ﹁そうかね﹂ それ以上聞いたとて何にもならない。広巳は何か己じぶんの頭の中の物を無くしたような気もちになってふらふらと歩いた。
広栄は縁側に近いところで店男の定七と話していた。土地の大地主で、数たく多さんの借家を持ち、それで、住すま宅いの向むこ前うに酒や醤油の店を持っている広栄の家は、鮫さめ洲ずの大だい尽じんとして通っていた。 そこは表の客座敷の次の室へやで、定七の腰をかけている縁側の敷板は、木の質も判らないまでに古びて虫むし蝕ばみがあり、これも木目も判らないまでに古びた柱によって、その家が如い何かに旧家であるかと云うことが窺うかがわれるのであった。もう一時を過ぎていた。広栄は左の脚の故障があるので、室の中でも松葉杖をはなさなかった。松葉杖は傍にあった。広栄はセルの単ひとえに茶っぽい縦縞の袷あわ羽せば織おりを着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。 ﹁汝おまえは知らないのか﹂ ﹁それでございますよ﹂ 定七は皺しわだらけの馬のように長い顔を見せていた。定七は広栄兄弟が生れない前さきからそこの店にいる番頭格の老人であった。 ﹁どうしたと云うのだろうな、汝おまえはどう思う﹂ ﹁そうでございますよ、旦那が御心配なされているようだし、私もへんに思いますから、せんだって、それとなしに聞いてみたのですが﹂ ﹁聞いたら、何と云った﹂ ﹁俺おいらは、べつに何もないのだ、兄は俺を小供のように面倒をみてくれるし、不足も何もあるものかと云うのですよ﹂ 広栄は親子ほども年の違う広巳を、己じぶんの小供のように可愛がっているところであった。 ﹁それじゃ、何だろうね、凱旋して来た当座は、やっぱり昔のとおりだったが、どうしたと云うのだろうな﹂ ﹁それでございますよ。若旦那がへんにしだしたのは、昨年の暮比ごろからでございますよ、元は無邪気で、きびきびして、始しょ終っちゅう旦那に小遣をねだって、旦那が煩うるさがると、私わっしが仲へたってもらってあげるものだから、戦争から帰ってらしても、私わっしに、今日は兄あにきの機嫌はどうだなんて、よく仰おっしゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、厭いやな物でも眼めの前まえにいるようにしてるのですよ﹂ ﹁女のことじゃないだろうか﹂ ﹁旦那がせんだっても、そう仰しゃるものですから、それとなしに壮わか佼いしゅに聞かしたのですが、何だ人れも知らないのですよ﹂ ﹁そうか、この比ごろは、私わしに顔をあわすのも厭いやと云うように、私をさけるのだよ﹂ ﹁ほんとにどうしたと云うのでしょう、あんな無邪気な、きびきびしてた方が﹂ ﹁どうしたと云うのだろうな、それで、昨ゆう夜べから帰らないのか﹂ ﹁そうでございますよ﹂ ﹁そうか﹂ 広栄は後の煙たば草こを点つけて庭の方へやるともなしに眼をやった。白沙を敷いた広い庭には高こう野やま槇きがあり、榎えのきがあり、楓かえでがあり、ぼくになった柾まさきなどがあって微うす陽びが射していた。 ﹁おう﹂ 広栄は庭に何物かを見つけたのであった。それは見るべくして見ることのできなかった物を見つけたような容さまであった。それと知って定七の眼も広栄の眼を追った。 ﹁おう、これは﹂ 庭の右の隅になった楓の老木の根方に一疋ぴきの蛇がにょろにょろと這はっているところであった。それは三尺近くもある青黒い中に粉のような丹あかい斑点のある尻尾の切れた長なが虫むしであった。広栄は眼を放さなかった。 ﹁それじゃ、明日は雨だな﹂ ﹁そうでございますとも、神様がお出ましになったら、雨でございましょうよ﹂ ﹁今朝から生暖かい、どうも天気が落ちたと思ってたが、やっぱりそうだったか﹂ ﹁御お神み酒きをあげましょうか﹂ ﹁そうだ、そうしてくれ﹂ ﹁へい﹂ 定七は腰をあげた。蛇は二人の正面になった柾の方へにょろにょろと這はっていた。定七は蛇の方を見い見い斜ななめに往って表庭と入口の境になった板塀の方へ往って、そこにある耳くぐ門りの桟さんを啓あけて出て往った。広栄は顔を右斜にして背うし後ろの方を見るようにした。 ﹁おい﹂ それは女房を呼ぶところであったが返事がなかった。 ﹁おい﹂ それでも返事がなかった。広栄はすこしじれた。 ﹁おい、お高、お高﹂ ﹁呼んだのですか﹂ それは気のない返事であった。 ﹁ちょっとお出いで﹂ ﹁ちょっと待ってくださいよ﹂ ﹁何かしてる﹂ ﹁衣きも服のの始末をしてるのですよ﹂ ﹁衣服ならいいじゃないか、ちょっとお出で、お出ましになったのだから、あの楓かえでの﹂ ﹁そう﹂ ﹁だから、ちょっとお出でよ﹂ ﹁ちょっと待ってくださいよ﹂ ﹁衣服は後でもいいじゃないか﹂ ﹁だって﹂ 広栄はちょっと顔をしかめたが、もう何も云わないで蛇の方へ眼をやった。耳くぐ門りの方へ往っていた蛇はその時こちらの縁側の方へ方向をかえた。それは何かを暗示しているように思われた。 ﹁何かおぼしめしがあるのか﹂ 耳門が啓あいて定七が小さな白木の三さん宝ぽうへ瓦かわ盃らけを二つ三つ載っけて入って来た。 ﹁定七、塩もいいか﹂ ﹁よろしゅうございます﹂ ﹁そうか﹂ 定七は庭の隅の楓の下へ往った。楓は微うす紅あかい嫩わか葉ばをつけていた。定七はその楓の根元へ三宝を供えて、その前へ蹲しゃがんで掌を合せた。 ﹁定七、上を見てみな﹂ ﹁へい﹂ 定七は腰を延ばして片手を額ひたいにかざして梢こずえの方へ眼をやった。 ﹁どうだ﹂ ﹁神様がお出ましになったから、きっとおつれあいも﹂ 定七は幹から左側の枝へ眼をやった。その左側の枝の中なか央ほどに一疋ぴきの蛇が巻きついていた。 ﹁おう、やっぱり﹂ ﹁いらっしゃるか﹂ ﹁いらっしゃいます﹂ ﹁そうか﹂ ﹁あらそわれないものでございますよ﹂ 広栄のいる室へやの背うし後ろの襖ふすまが啓あいて、円まる髷まげの肉づきのいい背の高い女が出て来た。それがお高であった。お高は長方形の渋紙に包んだ量かさばった物を抱いていた。 ﹁出たのですの﹂ ﹁そうだよ、お出ましになったのだ﹂ ﹁どこ﹂ 庭の方へやったお高の眼に、縁側の近くまで来て、それから右の方へ方向をかえている蛇が見えた。 ﹁ああ、そうね﹂ ﹁ありがたいことだ、もったいない﹂ ﹁そうね﹂気のなさそうに云って、﹁やっぱり尻尾が切れてるわね﹂ 広栄は顔をしかめた。 ﹁そ、そんなことを云うものじゃない、そんなことを﹂ お高はちらと嘲あざけりを口元に見せた。 ﹁我う家ちがこうしていけるのも、神様のおかげだ、おろそかに思ってはならない﹂ ﹁そうね﹂ 定七は楓かえでの下からお高の方を見た。 ﹁夫おく人さま、おつれあいも、お出ましになっておりますよ﹂ ﹁そうかね﹂ ﹁お庭へ、ちょっとお出いでになっては﹂ ﹁わたし、これから冬着の始末をしなくちゃならないからね﹂間をおいて、﹁平どんにでも手伝わしておくれよ﹂ ﹁すぐでございますか﹂ ﹁すぐさ、こうして持ってるじゃないの﹂ ﹁よろしゅうございます、それでは、平吉を呼んでまいります﹂ ﹁すぐだよ﹂ ﹁よろしゅうございます﹂ ﹁それじゃ、わたしは、土蔵の前にいるからね﹂ ﹁へい﹂ 定七は急いで出て往った。お高はすまして立っていた。 ﹁ちょっと手間がかかるのですが、ほかに用はないのですか﹂ ﹁ない﹂ ﹁それじゃ、ちょっと手間がかかりますよ﹂ ﹁いい﹂ 広栄は蛇の方を一心になって見ていた。蛇は表座敷の前から右の方へ姿を消して往った。 ﹁例いつ年ものとおりだ、もったいない﹂ お高は広栄の詞ことばを聞きながして引込んで往ったが、間もなく裏手の三つ並んだ土蔵の右の端はしの口へ往って立っていた。お高の頬はつやつやしていた。お高の眼は物置と庖かっ厨ての間になった出入口へ往っていた。と、十七八の色の白い小生意気に見える小こぞ厮うが土蔵の鍵を持って来た。 ﹁早くいらっしゃいよ、なにをまごまごしてるの﹂ 小厮はすました顔をしていた。 ﹁鍵が見つからなかったものだから﹂ ﹁鍵が見つからないなんて、平いつ生もの処に置いてあるじゃないの﹂
土蔵は三戸前ともに古かった。土蔵の入口にはそれぞれ厚ぼったい土戸が締っていた。小厮の平吉はその戸の錠口へ鍵を入れて錠を放したが、重いので手ぎわよく啓あけることができなかった。 ﹁弱虫ね、このひとは﹂ ﹁だって、なかなか、この戸は、ね﹂ ﹁男の癖に、そんな戸が重いなんて、だめだよ﹂ お高の詞ことばはひどくはすっぱであった。 ﹁だって、この戸は、なかなか千人力でないと、あかねえのです﹂ 戸はやっと啓あいた。戸は二重戸になっていて土戸の次には金網戸があった。 ﹁だめだよ、口くち端さきできいたふうな事を云ったって、からっきしだめじゃないか、しっかりおしよ﹂ ﹁へッ﹂ 平吉はとぼけるように云って金網戸の錠を啓けた。金網戸は錠前も軽ければ戸も軽かった。お高は石段の上へ履物を脱いで中へ入った。 ﹁鼠ねずみが入るから、早く入って、お締めよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉は後から急いで入るなり、内から金網戸を締めた。諸道具をぎっしり積みあげてある土蔵の中は微うす暗ぐらかった。 ﹁用心がわるいから、鍵をかけるのだよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉は手さぐりに鍵をかけた。 ﹁かけたの﹂ ﹁へい﹂ ﹁それじゃ、二階へ往って窓を啓あけておくれよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉が左の方にある階段へ眼をやった時、お高はまたはすっぱな声をだした。 ﹁だめよ、汝おまえ、手ぶらで往っちゃ、これ持ってくのよ、お婆さんに持って往かして﹂ それは抱きかかえている渋紙包を持って往けと云うのであった。 ﹁へい﹂ ﹁そうじゃないの﹂ ﹁へい﹂ 平吉はまたとぼけるように云って渋紙包を受けとった。 ﹁ぼやぼやしてると落っこちるよ﹂ ﹁へいッ﹂ 平吉は階段をあがって往った。お高はその平吉の厚あつ子しの下から露出している蒼あお白じろい足端さきのちらちらするのを見ていた。そして、その蒼白い足端が見えなくなったところで、ごとごとと云う音がした。それは窓の戸を啓ける音であった。同時に二階の昇あが口りくちが明るくなった。 ﹁啓けたのですよ﹂ ﹁そう﹂ お高はあがって往った。二階は昇口の処に三畳敷位の空間をおいて箪たん笥すや長なが櫃もちを置いてあった。平吉は窓の傍に渋紙包を持って立っていた。 ﹁なにをぼんやりしてるの﹂ 平吉は眼に微うす笑わらいを見せていた。 ﹁胡ご蓙ざを敷いておくれよ﹂ お高は渋紙包に手を持って来た。 ﹁ここへ﹂ ﹁そうよ﹂ 平吉は渋紙包をわたして胡蓙を探した。胡蓙はすぐ傍の箪たん笥すの横手に巻いて立てかけてあった。平吉はそれを執とって敷きかけた。 ﹁ここには、御ごい一っし新ん前からの埃ほこりがあるからね﹂ ﹁へい﹂ ﹁気をつけてね﹂ ﹁へい﹂ 胡蓙が解けるとともにもう薄すらと埃が見えた。お高は片手を団うち扇わにして顔の前を煽あおいだ。 ﹁云わないことか、それ、こんなに埃が立つじゃないの、しっかりおしよ﹂ ﹁へい﹂ ﹁へいじゃないよ、ほんとだよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉は平気で胡ご蓙ざを敷いた。胡蓙は二枚あった。 ﹁ほんとに厭いや、ねえ﹂ お高は渋紙包を胡蓙の上においてその上へ横すわりに坐った。 ﹁これから衣きも服のの始末をするから、手伝うのだよ﹂ 平吉は昇あが口りくちの方を背にして立ちながら何か嗅ぐようにしていた。 ﹁臭いなあ﹂ お高も鼻をやった。 ﹁黴かびじゃないの﹂ ﹁黴でしょうか﹂ お高は艶なまめかしい笑いを見せた。 ﹁汝おまえ、黴の匂においを嗅いで、へんな気がしやしないこと﹂ 平吉には判らなかった。 ﹁黴の匂ですか﹂ ﹁そうよ、黴の匂を嗅いで、何か思いだしやしないこと﹂ ﹁べつに、何も﹂ ﹁ないの﹂ ﹁ねえのです﹂ ﹁私は思いだすよ、私は黴の匂を嗅ぐと、娘の時のことを思いだすよ﹂ ﹁へえ﹂ ﹁汝おまえはぼくねんじんね﹂ ﹁へえ﹂ ﹁痴ばかねえ、この人は﹂ ﹁へえ﹂ ﹁いいから﹂窓の左側になった箪たん笥すへ指をやって﹁あの引ひき抽だしを開けておくれよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉はうごかなかった。平吉はなにかしら主婦から重大なものを求められそうな気がしているので、箪笥の引抽を開けると云うようなあっけないことをする気になれなかった。 ﹁あの引抽だよ、上から二番目だよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉はしかたなしに箪笥の前へ往って二番目の引抽に手をかけた。 ﹁そっくり脱ぬいて来ておくれよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉は引抽を啓あけた。中には単ひと衣えらしい女物が入っていた。平吉はその引抽を脱いてお高の前へ持って往った。 ﹁やっと持てたね﹂ お高は何かしら平吉にからむのであった。 ﹁へえ﹂ ﹁これをすましたら、佳い物を見せてあげるから、ね﹂ ﹁なんです﹂ ﹁立ってもいてもたまらないと云うものだよ、どう﹂ ﹁へえ﹂ お高は引抽の中の衣きも服のを手早く胡ご蓙ざの上へ出して、傍の渋紙包を解き、その中の畳たたんで二つにしてあるのを延ばし延ばし引ひき抽だしの中へ入れた。平吉は主婦の詞ことばを待っていた。 ﹁ぼんやりしてないで、引抽を元へやっておくれよ、佳い物を見せてやるじゃないの﹂ ﹁へい﹂ 平吉は急いで引抽を持って往ってさした。お高は出した衣きも服のを二つに折り折り渋紙の中へ入れた。 ﹁それじゃ、ついでに蒲ふと団んを出しておくれ、洗濯しなくちゃならないからね﹂ ﹁へい﹂ 返事をしたものの蒲団がどこにあるか判らないので、平吉は四あた辺りをきょろきょろと見た。お高は渋紙包の緒を結び終ったところであった。 ﹁あれさ、あの長なが櫃もちの中だよ﹂ お高の指は左側の壁に沿うて並べた長櫃の一つへ往っていた。平吉はこちらから三つ目の長櫃の前へ往った。 ﹁その中に入ってるのを、皆出しておくれよ﹂ ﹁へい﹂
平吉は長なが櫃もちの蓋ふたを啓あけた。中には松に鶴の模様のある懸かけ蒲ぶと団んが三枚入っていた。裏は萌もえ黄ぎであった。 ﹁それも黴かび臭いだろう﹂ なるほど黴の匂においがむうとした。 ﹁どう﹂ ﹁臭いのです﹂ ﹁佳い匂じゃないの、私はこたえられないよ﹂ ﹁好もの奇ずきだなあ﹂ ﹁好奇と云や、好奇かも判らないが、私はこたえられないよ﹂ちょっと切って、﹁一枚敷いてごらんよ﹂ ﹁そこへですか﹂ ﹁そうよ﹂ 平吉は主婦のすることが判らなかった。平吉は傍の長櫃の上に重ねた蒲団の一枚を執とった。お高は渋紙包を持って起たち、それを傍の具ぐそ足くび櫃つの上へおいた。平吉はそこで蒲団の萌黄の裏を上にして胡ご蓙ざの上へ敷いた。お高はその上へすぐ坐った。 ﹁佳い匂においじゃないの﹂ ﹁へえ﹂ ﹁汝おまえもお坐りよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉はその横手に蹲しゃがんだ。 ﹁どう、こたえられない匂じゃないの、私ゃ、この匂を嗅ぐと気が壮わかくなるよ﹂ ﹁好もの奇ずきだ﹂ ﹁好奇かも判らんが、私は好きさ、佳い匂じゃないの、この匂を嗅いでると、人が恋しくなるよ﹂ ﹁へえ﹂ ﹁そうだった、汝おまえに見せてやるものがあったね、それでは見せてあげるから、わたしを伴つれてっておくれよ﹂ 伴れて往けとは道の悪い遠い処であろうか。 ﹁どこです﹂ ﹁どこでもいいから、私を負おぶっておくれよ﹂ 平吉はさすがに眼を見はった。 ﹁そんな、へんな顔をするものじゃないよ﹂ ﹁へい﹂ ﹁負っておくれよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉は主婦の前へ往った。 ﹁あっち向くのだよ、こっち向いてちゃ、負われないじゃないの﹂ ﹁へい﹂ 平吉は主婦に背を向けて中腰になった。お高の体がそれに重おんもりと負ぶさった。 ﹁重い﹂ ﹁なあに﹂ 平吉は主婦を負って体を起した。 ﹁あっちよ﹂ お高の手が眼の前にあった。平吉は主婦の手の指している方へ往かなくてはならなかった。そこは長なが櫃もちの並んだ処で、長櫃の前には葛つづ籠らが並んでいた。平吉はその間を入って往った。 ﹁ここよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉が停まるとお高はおりた。そこに葛籠の上に寺小屋用の文庫があった。お高はその中に手をやって二三冊の草くさ双ぞう紙しのようなものを執とった。 ﹁それじゃ、帰るのだよ﹂ ﹁へい﹂ 平吉はまた背を向けた。お高はまた重んもりと負ぶさった。平吉は引返した。そして、蒲ふと団んの上に帰ったところで、お高の手にした書物が目の前へ来た。それは極彩色の錦にし絵きえであった。 ﹁これ、見えるの﹂ 庭にわ前さきに這はっていた尻尾の切れていた蛇は、楓かえでの木へ登りかけた。平吉を呼びに往っていた定七は縁えん側がわへ引返して来て、広栄とともに蛇に注意していた。 ﹁もう、お疲くた労びれになったと見える﹂ 広栄は頭かぶりを揮ふった。 ﹁いや、何かおぼしめしがある、そんなもったいないこと﹂ ﹁へい、これは、どうも﹂ ﹁そうじゃ﹂ 蛇は上へ上へと登って、やがて微うす紅あかい嫩わか棄ばに覆われた梢に姿を隠して往った。 ﹁もったいない﹂ ﹁ほんとに、もったいないことでございます﹂ 広栄の頭を掠かすめたものがあった。広栄は定七に眼をやった。 ﹁汝おまえは、も一つお神み酒きとお洗せん米まいを持って来てくれないか、お倉の方へな﹂ ﹁よろしゅうございます、すぐ持ってまいります﹂ ﹁それじゃ、俺は前さきへ往ってるから﹂ ﹁それじゃすぐ持ってまいります﹂ 定七はすぐ腰をあげて出て往った。広栄も傍の松葉杖を引き寄せて体を起し、故障のある左の脚を引きずるようにして、玄関と庖かっ厨ての入口を兼ねた古風な土間へおり、そこにあった藤ふじ倉くら草ぞう履りを穿はいて、ばったの飛ぶようにぴょいぴょいと裏口から出て往った。 出口に花をつけた桐きりの古木があった。羽の黒い大きな揚あげ羽はの蝶ちょうがひらひらと広栄の眼の前を流れて往った。 ﹁蝶か﹂ 広栄はやがて土蔵の前へ往った。広栄の往った土蔵は真中の皆古い中でも一ばん古い土蔵であった。右の土蔵はお高と平吉が入っている土蔵。広栄は松葉杖に縋すがって休みながら右側の土蔵の口へ眼をやった。 ﹁お待たせしました﹂ 定七は一方の手に神みき酒と徳く利りと洗せん米まいの盆を乗っけた三さん宝ぼうを持ち、一方の手に土蔵の鍵を持っていた。 ﹁三宝を持とう﹂ 戸を啓あける間は持たなくてはならなかった。定七は三宝を広栄にわたして戸を啓けにかかった。戸はすぐ啓いた。定七は広栄の傍へ来て三宝を執とった。 ﹁それでは﹂ ﹁そうか﹂広栄は松葉杖を執りなおしてぴょいぴょいと土蔵の中に入った。広栄が入ると定七も入って金網戸を締めた。 ﹁鼠ねずみはいいかな﹂ ﹁よろしゅうございます﹂ ﹁彼奴は油断もすきもできないから﹂ ﹁そうでございますよ﹂ 微うす暗ぐらい土蔵の中には中なか央ほどに古い長なが櫃もちを置いて、その周まわ囲りに注しめ連な縄わを張り、前に白木の台を据すえて、それには榊さかきをたて、その一方には三さん宝ぽうを載っけてあった。 ﹁それでは、三宝をとりかえてくれ﹂ ﹁へい﹂ 定七は何い時つの間にか鍵を腰にさして三宝ばかり持っていた。定七は白木の台の前へ往って三宝を除とり、持っている三宝をそれに置きかえた。 ﹁いいか﹂ いいかとは準した備くが出来たかと云うのであった。 ﹁よろしゅうございます﹂ ﹁それでは﹂ 広栄は一ひと脚あしぴょいと進んで、そのまま蹲しゃがんで白木の台に向って拝礼をはじめた。そして、ちょっとの間合掌していてから起きた。起きて長櫃の方へ眼をやった。 ﹁お塔は﹂ ﹁そうでございますよ﹂ ﹁拝見しよう﹂ 広栄は斜ななめにぴょいぴょいと往って長櫃のうえへ眼をやった。そこには小さな玩おも具ちゃのような三寸位の富士形をした微ほの白じろい物があった。それは蟻ありの塔で白蟻の糞であったが、広栄は神聖視しているのであった。
街とお路り一つ距てて母屋と向きあった肆みせは、四間けん室まぐ口ちで硝ガラ子ス戸どが入り、酒味噌酢類などを商うかたわらで、海の苔りの問屋もやっていた。それはもう三時近かった。肆には二三人の客があった。 そのとき広巳はのそりと入って来た。その広巳の眉の濃い浅黒い顔は土色に沈んでいた。広巳は肆の者には眼もやらないで、肆の左側の通りぬけになった土ど室まを通って往った。そこに腰高障子が入っていて、その敷居を跨またぐと庖かっ厨てであった。そこは行詰に釜のかかった竃へっついがあり流なが槽しがあって、右側に板縁つきの室へやがあったが、その縁側は肆の者が朝夕腰をかけて食事をする処であった。 ﹁お帰んなさい﹂ 乾ひからびたような声ではあるが、懐しみのある声であった。胡ごま麻し塩おの髪の毛を小さな髷まげに結った老婆が、室の中で半はん纏てんのような物を縫っていた。それは定七の女房のお町であった。定七夫婦はそこに起ねお臥きしていた。広巳はぼんやりお町を見た。 ﹁うん﹂ ﹁どこへ往ってらしたのです﹂ ﹁うん﹂ ﹁ほんとにどこにいらしたのです、皆さんが心配してらっしゃるのよ、ほんとにどこにいらしたのです﹂ 広巳は上唇をちょっと顫ふるわすようにした。それは広巳の笑う時の表情であるが笑いにはならなかった。 ﹁まあ、いいさ﹂ お町の眼はその時広巳の右の袖そで口ぐちへ往った。 ﹁まあ、袖口が綻ほころびているじゃありませんか﹂ 袖口の綻びているのは争けん闘かか、それとも長い煙きせ管るで巻きつけられたがための綻びか。 ﹁品川ですね﹂ 広巳はまた上唇を顫わしたばかりで何も云わなかった。 ﹁そうでしょう、きっと﹂ 広巳はお町のほうへくるりと背を向けて縁側へ腰をかけた。 ﹁まあ、いい﹂ ﹁御飯はどうなさいました﹂ ﹁喫くえるのか﹂ ﹁おすみになっておりませんか、すぐ出来ますよ﹂ ﹁それじゃ喫おう﹂ ﹁もすこしお待ちになると温い御飯も、お菜かずもできますが﹂ ﹁お菜はどうでもいい﹂ ﹁それでは、すぐめしあがりますか﹂ ﹁うん﹂ ﹁それでは﹂ お町はもう起たっていた。お町は一方の戸棚を啓あけて準した備くにかかった。広巳はそのままぼんやりとしていた。 ﹁上へおあがりになっては﹂ 膳の準した備くはもう出来てお町は長火鉢の鉄瓶を見ていた。 ﹁いい、ここで﹂ ﹁それでは﹂お町は膳を持って広巳の右側へ往った。﹁薩さつ摩まあげと、佃つく煮だにしかありませんが﹂ ﹁いい﹂ 広巳は体を斜ななめにした。お町は後から大きな飯めし櫃びつをやっとこさと拘かかえて来た。 ﹁おつけしましょうか﹂ ﹁いい﹂ 広巳はむぞうさに飯櫃の蓋ふたを除とって飯をつけて喫くいだした。品川の妓楼へ一泊した広巳は、家へかえるのが厭いやだから、朝帰りの客を待っている小こり料ょう亭りやへあがって、旨くもない酒を喫のんで気もちをまぎらし、飯も喫くわないで帰っているので、喫いだしてみるとひどく旨かった。広巳は夢中になって喫った。 ﹁若旦那﹂ お町は下へおりて流なが槽しで何か洗っていた。広巳は茶碗ごしに眼をやった。 ﹁昨ゆう夜べは、品川ですか﹂ 広巳はまた上唇を顫ふるわしたが、それはいくらか笑いになった。 ﹁なに﹂ ﹁品川でしょう、それとも大森﹂ ﹁なに﹂ ﹁ほんとに若旦那は、この比ごろへんじゃありませんか、若旦那は、どんなりっぱな家からでも、ものによっては、華族のお嬢さんでも、奥さんにもらえるじゃありませんか、つまらない遊びはよして奥さんをもらったらどうです、旦那さまも御心配になっておりますよ﹂ ﹁ふん﹂ 広巳はそれに深く触れたくなかった。広巳はそれをはぐらかすために勢よく飯を掻かきこんだ。お町は前へ来て立っていた。 ﹁ほんとですよ、山やま県がたさんとか伊藤さんとか、豪い方の奥さんは、歌げい妓しゃだと云いますから、歌妓でもお妓じょろでも、それはかまわないようなものの、お宅は物がたい家ですから、堅かた気ぎのうちからお嫁さんをもらわなくちゃなりませんが、どうかしてるのですか、奥さんも心配してらっしゃいますよ﹂ ﹁へッ﹂ 広巳の口から吐きだすような詞ことばが出た。お町は広巳を見なおした。 ﹁ほんとですよ、奥さまが、心配してらっしゃいますよ、今朝も奥さまがいらしたのですよ﹂ ﹁俺おいら、己じぶんの女房は、己でもらうんだ、他ひとの世話にならないや﹂ お町は眼を円まるくした。 ﹁そ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ、奥さまや旦那さまが、貴あな下たを我が子のように、可愛がってるじゃありませんか﹂ ﹁あまり可愛がられたくないや、俺おいら、嫌いだ﹂
その時店の方で男の子の軍歌を唄う声がした。広巳はそれに気をとられたようにした。 ﹁ああかい、ゆうひに、てらされて、とうもは、のずえの、いしの、した、――まっさき、かあけて、とっしんし――﹂ ﹁ひろぼうか﹂ 男の子をからかっているのか壮わかい男の声が軍歌に交まじりあった。広巳は気が注ついて残りの飯を掻かきこみ、落すように茶碗を置いて、お町の持って来てある番茶の土瓶を執とって注ついだ。 ﹁やあい、やあい、痴ばかやあい﹂ 七つか八つに見える子が駈けて来た。それは広栄の一人子の広義で、広巳の可愛がっている甥おいであった。広義は広巳の方へ隼はやぶさのように駈け寄った。一方の手に茶碗を持っている広巳は、その茶碗の茶を甥おいにかけまいとして、一方の手で走りかかって来た広義を支えた。 ﹁あぶない、茶がかかる﹂ ﹁かかったって、いいや﹂ 広巳はすばやく茶碗を置いた。 ﹁茶が眼にでもかかったら、眼が潰つぶれるぞ﹂ ﹁潰れたっていいや、東郷大将だ﹂ ﹁眼が潰れたら、軍人になれんぞ、軍人になれなきゃ、東郷大将にも、乃の木ぎ大将にもなれんぞ﹂ ﹁なれるのだい、なれるのだい、眼が潰れたって、なれるのだい﹂ 広義は広巳の首ったまに飛びつこうとしていたが、広巳がかわして飛びつかせなかった。 ﹁眼が潰れたら、鉄砲が打てないや、鉄砲が打てない軍人があるものかい﹂お町に気がついて、﹁なあ、姨ばあさん﹂ お町は笑っていた。 ﹁眼が潰れたら按あん摩まさんになるのだよ、ねえ坊ちゃん﹂ 広義は広巳の首ったまに手がやれないのでじれていた。 ﹁痴ばか、お町の痴やあい﹂ ﹁だって、そうじゃありませんか、眼が潰れて、鉄砲が打てなけりゃ、按摩さんになるより他に、しようがないじゃありませんか﹂ ﹁なに云ってやがるのだ、お町の痴ばかの、婆あやあい﹂ その時広巳の支えていた手に隙すきが出来た。広義はいきなり膝ひざの上へ飛びあがって、それから一方の足を背のほうから右の肩へ廻すなり、肩の上に馬乗になって額ひたいに両手をかけた。 ﹁やあい、やあい、肩車になったのだ﹂ 広巳は広義の足に両手をかけた。 ﹁按あん摩まさんの大将は、馬に乗れないから、肩車に乗ったのか﹂ ﹁なんでもいいやい﹂お町のほうを見て、﹁お町の痴やあい﹂ お町は広巳に云いたいことがたくさんあった。 ﹁坊ちゃん、叔父さんは、お疲れになってるのですよ﹂ ﹁疲れるものかい、叔父さんは、昨ゆう夜べ、品川のお妓じょ楼ろやへ往ったのだい﹂ お町は口がふさがった。広巳は笑いだした。 ﹁そうか、そうか、叔父さん、品川へ往ったのか﹂ ﹁往ってたのだあい、品川のお妓楼へ往ってたのだあい﹂ ﹁何だ人れがそんなことを云ったのだ﹂ ﹁お母っかさんが云ってたのだあい﹂ ﹁なに、お母さんが﹂ ﹁云ったのだあい、云ったのだあい﹂ 同時に広巳は腰をあげた。広義は落されまいとして広巳の額にやっていた手に力を入れた。 ﹁この小こぞ厮うをどこかへおっぽりだして来る﹂ 広巳は庖かっ厨てぐ口ちからゆるゆると出て往った。出口には車井戸があって婢じょちゅうの一人が物を洗っていた。車井戸の向うには一軒の離はな屋れがあった。それが広巳の起ねお臥きしている室へやであった。広巳は離屋の前を通って広場へ出た。そこに梅の木があり槇まきの木などがあって、その枝には物もの干ほし竿ざおをわたして洗濯物をかけてあった。 ﹁おい、ひろ坊﹂ ﹁うん﹂ ﹁この木の上へほりあげてやろうか﹂ そこには枝の延びた槇の木があった。 ﹁厭いやだい﹂ ﹁それじゃ、天へほりあげてやろうか﹂ ﹁厭だい﹂ ﹁そんな弱いことで、どうする、男は何い時つでも、腹を切らなくちゃならんが、汝おまえは腹が切れるか﹂ ﹁厭だい﹂ ﹁厭だ、怕こわいのか﹂ ﹁怕くなくっても、厭だい﹂ ﹁怕くないのに厭だと云う奴があるか、弱虫、しっかりしろ﹂ ﹁しっかりしてるのだい﹂ ﹁しっかりするものか、しっかりしてないよ、ほんとにしっかりしないと、たいへんだぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかもわからんぞ、汝おまえになにを云ってもわかるまいが、ほんとにしっかりせんと、鮫さめ洲ずの大だい尽じんの山田も、屋根へぺんぺん草が生えるぞ、しっかりしろよ、しっかり﹂ ﹁しっかりするのだい﹂ ﹁そうかしっかりするか、しっかりせんといかんぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかも判らんぞ、しっかりしろよ、汝はまだ何も判らんが、困った奴を背負いこんだものだ、畜生、弟にまでふざける奴だ、兄貴が可哀そうだ﹂ ﹁あにきって何だ人れだい﹂ ﹁何人でもいいから、しっかりしろよ、汝がしっかりしてくれんと、ぺんぺん草だぞ﹂ ﹁ぺんぺん草って、なんだい﹂ ﹁ぺんぺん草は、草だよ、家が潰つぶれて、貧乏になると、ぺんぺん草が生えるのだよ﹂ ﹁自う家ちは、富かね豪もちだい﹂ ﹁さあ、その富豪が、しっかりしないと潰れるのだ、家が潰れないようにするには、皆が人の道を守って、子は親に孝行するし、兄弟は仲好くするし、女房は女房で、所てい天しゅを大事にしなくちゃならん、その女房が所天を痴ばかにして、品みも行ちの悪いことをしよると、家が潰れるのだ﹂ ﹁女房ってなんだい﹂ ﹁お媽かみさんのことだよ﹂ ﹁おかみさん、それじゃ自う家ちのお母っかさんも、女房かい﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁それじゃ、自う家ちのお母さんが、自家を潰つぶすのかい﹂ ﹁お母さんが潰しはしないさ、これは物の譬たとえだよ、しかし、お母さんだって、悪いことをすりゃあ、自家が潰れるのだよ﹂ ﹁そう﹂ ﹁そうさ、だから、お母さんもお父さんを大切にして、痴ばかにしちゃならんよ﹂ ﹁うん﹂ ﹁判ったか﹂ ﹁判ったのだい﹂ ﹁よく覚えとれ﹂ ﹁うん﹂ 媚こびるような艶なまめかしい声がした。 ﹁また叔父さんに、そんなことをして、叔父さんが重いじゃありませんか﹂ 広巳は立ち縮すくんだようになった。 ﹁厭いやねえ、この子は﹂ お高が傍へ来て立った。 ﹁いいのだい、叔父さんはいいのだい﹂ ﹁重いのですよ、叔父さんは、苦しいのですよ﹂ ﹁いいのだい、いいのだい、叔父さんはいいのだい﹂ ﹁いいことはありませんよ、苦しいのです、それに叔父さんは、お疲れよ﹂莞にっとして反そらしている広巳の眼を追っかけて、 ﹁ねえ、叔父さん﹂ 広巳はよろよろと体をよろけさした。 ﹁あ﹂ 広義は驚いて広巳の額ひたいに掻かきついた。広巳は甥おいを躍おどらすことによって気もちの悪い対あい手てのまつわりをすこしでも避けようとしていた。広義は騒ぎだした。 ﹁厭いやだい、厭だい、びっくりさして、厭だい﹂ ﹁そんなことで、びっくりする奴があるかい﹂ ﹁だって、だって、黙っててやるじゃないか、厭だい、厭だい、どうしても降りないやい﹂ お高がまたまつわって来た。 ﹁叔父さん、そんな小供、うっちゃりなさいよ﹂ ﹁うっちゃられるものかい、厭だい、厭だい﹂ ﹁だめよ、ほんとにだめよ、叔父さんはお疲れよ、だから、今晩、お母っかさんが精のつくものを、御馳走してあげるのだよ﹂ちょっと間をおいて、﹁叔父さん、今晩は家にいらっしゃいよ、叔父さんは、私が嫌いだから、何い時つも逃げるのだが、今晩は逃がさないわ、叔父さん、いいでしょう、今晩、御馳走しますからね﹂ 広巳はまたよろよろと体をさした。広義はまた驚いた。 ﹁痴ばか、叔父さんの痴、痴﹂ 広義は広巳の顔を平手でばたばたと叩いた。それには広巳が困った。 ﹁痛い、痛い、降参、降参﹂ ﹁厭いやだい、厭だい、痴﹂ 広義は嬌あまったれて泣き声をたてた。広巳は広義の足にやっていた手をはずしてその両手を捕えた。 ﹁降参、降参、降参だよ﹂ ﹁厭だい、厭だい﹂ 広義は手を動かすことができなくなった。 ﹁どうだい、もう動けないだろう﹂ ﹁動けるのだ、動けるのだ﹂ 広義は体をもがいた。 ﹁ほんとに、叔父さんがくるしいじゃないの、おりなさいよ、それに今日は、まだ復習をしないじゃありませんか﹂ ﹁厭だい、厭だい﹂ ﹁この坊主、どこかへおっぽり出せ﹂ 広巳は何かを払い落すように叫ぶなり、ぐるりと体の方む向きをかえて井戸の方へ走りだした。
﹁もし、もし﹂ おっとりした女の児の声がしたので広巳は足をとめて後を見た。十四五ぐらいに見える二人の少女が右側の生垣のある家から出て来たところであった。少女だちは同じように紫の矢やが絣すりの袖そでの長い衣きも服のを被きていた。広巳は知らない女の児のことであるから、他の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま往こうとした。 ﹁どうかお入りくださいまし﹂ 少女だちはしとやかに頭つむりをさげた。それでも広巳は己じぶんへ云っているとはおもわれないので、そこをはなれようとした。 ﹁あの、もし、貴あな郎たは、鮫洲の﹂ 鮫洲と云えば確に鮫洲である。広巳は足をとめて少女を見なおした。 ﹁貴郎は、山田さんでいらっしゃいましょう﹂ 鮫洲の山田と云えば己じぶんのことである。 ﹁鮫洲の山田ですが﹂ 広巳は眼を見はった。少女の一人は莞にっとした。 ﹁奥さまがお待ちかねでございます﹂ 逢あう約束をしている者はなかった。広巳は人違いだろうと思った。 ﹁それは、人がちがってましょう。おいらは、いや、わたしは、鮫洲の山田広巳ですが﹂ ﹁人違いではございません、貴あな郎たでございます﹂ 違わないと云っても己じぶんには覚えがない。 ﹁だが、わたしは、そんな方は知らないですが﹂ ﹁お入りくださいましたら、すぐお判りになります﹂ ついしたら不倫な嫂あによめではないか。だが、まさか。 ﹁何だ人れです﹂ ﹁貴郎の御迷惑になるような方ではございません、お姓なま名えを申しあげても、貴郎は御存じないと思いますから﹂ こっちは名も知らない人か、それでは嫂でもなさそうであるが、それなら何だ人れか。己には他に交渉を持っている女はない。 ﹁どうもおかしいなあ﹂ 広巳は考えた。 ﹁お入りくださいましたら、すぐお判りになります、どうぞ﹂ 嫂でなければたいしたこともない。どこへ往こうと云う当あてもなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は前むこ方うが知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。 ﹁ほんとに、わたしですか、人違いじゃないですか﹂ ﹁けっして人違いではございません、どうかお入りくださいまし﹂ ﹁そうですか、じゃ﹂ 広巳は少女の方へ往った。垣根には茨いばらのような白い小さな花を点々とつけていた。 ﹁こっちですか﹂ こっちは判っているが何かしらきまりがわるいので聞いてみた。 ﹁はい﹂ 少女は紫の矢やが絣すりの袂たもとをひるがえして前さきに立って往った。門の中には禿ちびて枝の踊っているような松の老木があり、椿つばきの木があり、嫩わか葉ばの間から実の覗のぞいている梅の木があって門の中を覆うていた。少女はその樹木の枝葉の間を潜くぐって広巳を導いた。そして、ちょっと往ったところで樹木の枝葉がなくなって、お花畑のような赤白紫黄、色とりどりの葉を持ち花をつけた草庭になって、その前に枌そぎ葺ぶきの庵室のような建物があった。 四あた方りには麗うららかな陽ひがあった。水の澄みきった小さな流れがあって、それがうねうねと草の間をうねっていたが、それにはかちわたりの石を置いてあった。少女はその石の上を福ふく草ぞう履りのような草履で踏んで往った。広巳はうっとりとなって少女に跟ついて往った。そこには丁ちょ子うじの花のような匂においがそこはかとしていた。少女の声が耳元でした。 ﹁さあ、どうぞ﹂ 建物の前には黒い虎の蹲うずくまっているような脱くつ沓ぬぎ石があった。広巳は室へやの中を見た。室の中には二十七八に見える面おも長ながの色のくっきり白い女が、侵されぬ気品を見せて坐っていた。 ︵おや︶ 広巳は胸のときめきをおぼえた。海晏寺の前の榎えのきの傍で擦れちがい、八幡祠の諍けん闘かの際に見た女にそっくりであった。女は広巳と眼をあわすなり莞にっとした。 ﹁さあ、どうぞ﹂ ﹁は﹂ はと云ったものの女の気品に押されて立ち縮すくんでしまった。 ﹁他には何だ人れもいないのよ、ささ、どうぞ﹂ ﹁は﹂ ﹁ほんとに何人もいないから、遠慮はいりません﹂少女の方を見て、﹁お客さんは、はにかんでいらっしゃるから、汝おまえだちがあげておやりよ﹂ 女は莞とした。それは己じぶんの姨おばさんのような温みのある詞ことばであった。少女の微笑が聞えた。 ﹁さあ、どうぞ﹂ ﹁おあがりなさいましよ﹂ 少女の手がそれぞれ双方の手に来た。広巳は気もちが浮きたった。 ﹁あがります﹂ 広巳は少女の手を揮ふりはらって上へあがった。広巳は笑っていた。広巳に跟ついてあがった少女の一人は、女に近く座ざぶ蒲と団んを敷いた。それは菰こもの葉のような蒼あお白じろい蒲団であった。 ﹁さあ、お坐りなさい﹂ ﹁は﹂ 広巳は坐ったものの眩まぶしいので顔を伏せた。少女の一人がもう茶を持って来た。 ﹁どうかお茶を﹂ 広巳はちょっと頭をさげた。女の軽く少女に云いつける声がした。 ﹁お茶じゃ、話ができないから、あれを持っていらっしゃい﹂ ﹁は﹂
少女は小鳥のように身を飜ひるがえして往った。広巳はやっぱり眩しかった。 ﹁こんな処で何もありませんが、何か持って来さしますから﹂ 何か持って来さすとは酒であろうか。ここでは謹つつしんだうえにも謹まなくてはならない。 ﹁どうか、それは﹂ ﹁なに、こんな処ですから、何もありませんよ﹂ 広巳は押えつけられているようで、それ以上は何も云えなかった。広巳は困っていた。そこへ少女だちが引返して来た。少女だちは広巳の前へ何かことことと置いた。 ﹁それでは、めしあがれ、ほんとに何もありませんよ﹂ そこで飲食するのは何だか物の霊を汚すように思われるのであった。 ﹁どうか、それは﹂ ﹁いいでしょう、めしあがれ、貴あな郎たは、私をあまり御存じないでしょうが、私はよく存じておりますわ﹂ ﹁は﹂ ﹁まあ、そう堅っくるしくしないで、めしあがれ、それじゃ話がしにくいじゃありませんか﹂ ﹁は﹂ ﹁男子の癖に、遠慮なんかするものじゃないことよ、貴郎は、日露戦役の勇士じゃありませんか、それに、この間はね﹂ 女の微かすかに笑う声がした。この間とは八幡祠のことであろう。それではやっぱり彼かの女であり、海晏寺の前の榎えのきの傍の女であったのか。広巳はそっと女の方を見た。女のあでやかな顔があった。広巳は恥かしい中にもひどく嬉しかった。 ﹁私が判りまして﹂ ﹁ああ﹂ ﹁とにかく、一つめしあがれ、話がしにくいじゃありませんか﹂ 広巳は一ぱいもらう気になった。広巳は顔をあげた。細長い脚あしのついた二つ三つの銀盆に菓子とも何とも判らない肴さかなを盛ってある傍に、神みき酒と徳く利りのような銚子を置いて、それに瓦かわ盃らけを添えてあった。 ﹁お酌しましょう﹂ 少女の一人がもう銚子を持っていた。広巳は気もちがほぐれた。広巳は瓦盃を持って少女から酌をしてもらった。 ﹁二三杯つづけてめしあがれ﹂ 女は広巳の気もちを硬こわばらさないように勤めているように見えた。広巳は一杯の酒を空あけた。すると少女がもう後を充みたした。 ﹁続けてめしあがれ、そうしないと、堅っくるしくて面白い話もできないじゃないの、私いつからか、貴あな郎たにゆっくりお眼にかかりたいと思ってたのよ、今日はやっと見つかったものだから﹂ やっと見つかったとは、庭でも歩いていて見つけたものであろうか。広巳の手はしぜんと瓦かわ盃らけへ往った。女は詞ことばを続けた。 ﹁でも、貴郎は、私が判らないでしょう﹂ ﹁そうです﹂ ﹁今に判りますよ、判らなくたって、これからお知しり己あいになりゃ、いいでしょう﹂ ﹁あ﹂ 広巳は曖あい昧まいな返事をしてまた瓦盃を持った。瓦盃は後から後からと充たされた。 ﹁どう、これから、お朋とも友だちになってくれます﹂ それは己じぶんから願うところであり、どうしてもそうしてもらわなくてはならないのであったが、はっきりとそれを口に出すことができなかった。 ﹁あ﹂ ﹁いけないの﹂ 広巳はしかたなしに微笑して女を見た。女は気品のある顔が心もち火ほ照てっていた。 ﹁どう﹂ ﹁へ﹂ ﹁厭いやなの﹂ ﹁そ、そんな﹂ ﹁それじゃ、なってくれるの﹂ ﹁あ﹂ ﹁どう、はっきりおっしゃいよ、まだ御酒がたりないじゃないの﹂ 酒と云われてみると佳い気もちになっていた。 ﹁もう、酒はたいへん﹂ ﹁でも、はっきり返事ができないじゃないの﹂ 広巳はそれを微笑で応えた。 ﹁どう﹂ ﹁もう、たいへん酔いました﹂ ﹁酔ってるなら云えるじゃないの、それともこんなお婆さんとお朋とも友だちになるのは、厭﹂ ﹁そ、そんな﹂ 広巳はあわてた。 ﹁それじゃ、なってくれるの﹂ ﹁なります﹂ ﹁なってくれるの、うれしいわ、ねえ、それじゃわたしに盃さかずきをくださいよ、かための盃をしようじゃないの﹂ ﹁は﹂ 広巳は瓦かわ盃らけを手にした。瓦盃には酒がすこしあった。広巳はそれを飲んで盃はい洗せんですすごうとしたが、すすぐものがないので躊ちゅ躇うちょした。 ﹁それをいただきますよ、それがいいのよ﹂ ﹁でも、これは﹂ ﹁いいじゃないの、貴あな郎たのめしあがったものじゃないの﹂ 女の手が延びて来たので広巳はしかたなしに瓦盃をだした。 ﹁それじゃ、貴郎がお酌をしてくださいよ﹂ ﹁は﹂ 広巳はきまりがわるいけれども、そうしろと云われてみればしないわけにはゆかない。広巳は銚子を持った。 ﹁ちょっと﹂ 女が心をおくので銚子の手をひかえた。 ﹁児こどもがいちゃ、じゃまっけだから、あっちへやりましょうよ﹂ それは二人でいるにこしたことはなかった。女は少女だちにつらつらと眼をやった。 ﹁汝おまえだちは、あっちへいらっしゃい、こんな処を見せたくないからね﹂ 少女だちは黙っておじぎをして起たった。起ったかと思うと鳥の羽ばたきをするような恰かっ好こうをした。広巳は眼を見はった。少女だちの姿はみるみる鳶とびくらいの鳥になって、室へやの中から外へ出てしまった。それは広巳が八幡祠頭で見た鵜うそっくりの鳥であった。広巳はぞっとして女のほうを見た。女は小さくなって恰ちょ度うど内だい裏りび雛なのような姿を見せていた。 ﹁わっ﹂ 広巳は一声叫んで逃げようとした。 ﹁おい、おい、おい﹂ 広巳の体は忽たちまち何だ人れかに押えつけられた。 ﹁いけねえ﹂ 広巳は揮ふり放して走ろうとした。相手は手を放さなかった。 ﹁おい、山田君、どうした、しっかりしないのか、夢を見てるのか﹂ 夢と云う声がはっきり頭に響いた。広巳はびっくりして眼を開けた。広巳は道みち傍ばたに積んだ沙じゃ利りの上に寝ている己じぶんを見いだした。 ﹁どうした、山田君、どうしたのだ、こんな処に寝て﹂ そこには微うす紅あかい月があって一人の壮わかい男が己の肩に手をかけていた。広巳は対あい手ての男を見た。 ﹁俺おいらだよ﹂ それは秋山と云う友人であった。 ﹁けんちゃんか﹂ ﹁暢のん気きじゃないか、こんな処で寝るなんて﹂ 沙じゃ利り置場に寝ていることは判ったが、場所が判らなかった。 ﹁ここはどこだ﹂ ﹁判らないのか﹂ ﹁さあ﹂ ﹁困った男だな、ここは海晏寺の前の榎えのきの傍じゃないか﹂ ﹁なに﹂ 広巳は眼をやった。なるほど枝の茂った榎の老木が月の下に見えていた。 ﹁君、そんな処に寝ていちゃ毒だよ﹂ ﹁ああ﹂ ﹁何いつ時ご比ろから寝ていたのだ﹂ ﹁さあ、あちこち飲んでたから﹂ ﹁判らないのか﹂ ﹁ああ﹂ ﹁暢気だなあ﹂ ﹁ああ﹂ ﹁もう、十二時まわってるよ、早く往って寝たらどうだ﹂ 広巳は頭がはっきりしたので起おきた。 ﹁おい、けんちゃん、つきあわないか﹂ ﹁どこへ往くのだ﹂ ﹁品川さ﹂ ﹁じょうだんじゃない、これから往ったら、夜が明けるじゃないか、早く往って寝るがいい﹂ ﹁あんな処へ帰るものか、厭いやだい、往こう、なに、おおっぴけは、二時じゃないか、往こう﹂ ﹁今晩はだめだよ、今度にしよう﹂何か考えて、﹁どうだ、俺おいらの家へ往かないか、この比ごろ、親爺は、田いな舎かへ往って留守なのだよ﹂ ﹁そうか﹂ ﹁往こう、ビールでも飲もうじゃないか﹂ ﹁そうだな﹂
洋ラン燈プの燈は沈んでいた。そこは賢次の家の二階であった。賢次の家は蒲かま鉾ぼこ屋やであるからどことなしに魚の匂においが漂うていた。広巳と賢次はそこで話していた。二人の前にはビールの壜びんがあった。 ﹁そんなことはないだろう、君んとこは、金はあるし、兄あにさんはあんないい人だし、へんじゃないか﹂ ﹁そりゃ、兄貴はお人好しで、俺おいらを児こどものように可愛がってくれるが、他がいけないのだ﹂ ﹁他と云ったところで、姉さんばかりじゃないか、姉さんといけないのか、君を可愛がるじゃないか﹂ ﹁いかん、あれはいかん﹂ ﹁どうした﹂ 広巳はさすがに口に出せなかった。 ﹁どうと云うわけもないが﹂云い方を考えて、﹁なんと云うのか、家が収まらん、兄貴が死にでもすると、家がめちゃめちゃになるのだ﹂ ﹁まさか、そんなことはないだろう、華は美でずきで、あちこちへ往くようだが、てきぱきして、家のことでもなんでも、兄さんにかわってやってるじゃないか﹂ ﹁それがいけないのだ、出しゃばって、華美好きな女なんて、ろくなことはしないのだ﹂ ﹁無駄づかいでもするのか﹂ ﹁無駄づかい、無駄づかいも、衣きも裳の道楽とか、演しば劇い道楽とか、そんな道楽なら、たいしたこともないが、いけないのだ﹂ ﹁それじゃ、素みも行ちでもわるいのか、演しば劇いなんかへ往ってると、俳優と関係があるとかなんとか、人はへんなことを云いたがるものだよ、何かそんな噂でもあるのか﹂ ﹁そりゃ聞かないが、あんな女だから、そんなことを云われてもしかたがないよ、困った奴よ、児は小さいし、もし、兄貴でも死んだら、どうなるか判らないからね﹂ ﹁兄あにさんが死んでも君がありゃ、大丈夫じゃないか、君が広坊の後見をして、しっかりやるなら、なんでもないじゃないか、それとも姉さんが、君を邪魔者にして、兄さんにたきつけるのか﹂ ﹁そうでもないが、姉貴はじめ、家の雰ま囲わ気りが厭いやなんだ﹂ ﹁そうか﹂賢次はふと考えて、﹁君、いっそお媽かみさんをもらって、別家したらどうだ、気もちがかわって、いいじゃないか﹂ ﹁俺おいらは、今、細にょ君うぼうをもらう気がしないのだ﹂ ﹁何故だ﹂ ﹁何故と云うこともないが、もらう気がしない﹂ その時階し下たから嬰あか児んぼの泣き声が聞えて来た。それは賢次の児こどもであった。賢次はとうに妻帯して二人の児があった。 ﹁児が出来て、ぴいぴい泣かれちゃ困るが、君は、お媽さんをもらうといいと思うね、そうすりゃあ気もちがかわって、いいよ、今晩だって、沙じゃ利りの上なんかに寝てて、体をこわすよ﹂思いだして、﹁夢を見てたのか、ひどくあわててたじゃないか﹂ 広巳の唇に微うす笑わらいが浮んだ。 ﹁うん﹂ ﹁どんな夢だ﹂ 広巳はビールを一口飲んだ。 ﹁へんな夢だよ、俺が歩いてると、二人の女の子が出て来て、奥さんがお待ちかねだと云うから、往ってみると、奥さんらしい女がいて、響ごち応そうになってると、女が盃さかずきをくれと云うので、やろうとしているうちに、二人の女の子は鵜うになって飛ぶし、女は内だい裏りび雛なのようになったのだよ﹂ ﹁それで、びっくりしたのか﹂ ﹁そうだろう﹂広巳は笑って頭を掻かいて、﹁へんな夢だよ﹂ ﹁女の子が鵜になった、鵜になるはへんだね、なにかい、この比ごろ鵜を見たことがあるかい﹂ ﹁見た、何い時つか品川の帰りに、あすこの八幡様へ入ってみると、天水桶さ、あの拝殿の傍にある鋳いも鉄のの縁ふちに、鵜がいて、ばさばさやってたのだ、ありゃあすこの池にいるだろうか﹂ ﹁さあ、それは知らないが、それを見たのか﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁蒲かま鉾ばこにいろいろの魚を入れるように、夢も見た材料で出来るのだね﹂ ﹁そうだなあ﹂ ﹁それじゃ、その奥さんのような女は、どうだ﹂ 広巳はにやりとした。 ﹁見たのだ﹂ ﹁だろう﹂賢次もにやりとして、﹁おかっぽれだな﹂ ﹁人間と判っとるなら、おかっぽれかも判らないが、それがへんだよ﹂ ﹁どうしたのだ﹂ ﹁それがおかしいのだ、まだ寒い時、俺おいらが今往ってた榎えのきの傍を通ってると、二十七八の上品な佳い女が通ってたのだ、夜一人で通ってるから、どこかそのあたりの人だろうと思っていると、鵜うを見た日なんだ、くたびれたから、休んでると、へんな奴が二人来て、俺おいらを盗ぬす人っとが午ひる睡ねしてると云うから、撲なぐりつけて諍けん闘かになったところへ、その女が来て仲裁してくれたのだ、それで俺は八幡様を出て来たものの、その女の素すじ性ょうを確めようと思って、引返してみると、女はいないで、諍闘の時にいた社務所の爺さんが、拝殿の横に腰をかけて、仮いね睡むりしてたから、聞いてみると、あれは水神様だ、人間じゃないと云うのだ、それだよ、夢に出て来たのは﹂ ﹁君んとこは、すこしへんだぜ、蛇が出て来たり、蟻ありの塔が出来たり、どうかしてるのじゃないか、神様が出て来て諍闘の仲裁なんかするものか﹂ 茶かすつもりであった詞ことばの端はしに何か神秘的なものがつながった。賢次は洋ラン燈プへ眼をやった。心しんの切りようでもわるいのか、洋燈は火ほ屋やの一方が黒く鬼き魅みわるく煤すすけていた。広巳はその時頷うなずいた。 ﹁そうだよ、俺の家には、魔がさしているのだよ﹂ ﹁まさか、そうでもないだろうが、あまり迷信はいけないね﹂ ﹁そうとも﹂
お杉は三畳の微うす暗ぐらい茶ちゃ室のまへ出て来て、そこの長火鉢によりかかっている所てい天しゅの長吉に声をかけた。それは十時比ごろであった。外よそ出ゆきの千条になった糸いと織おりを着た老婆の頭には、結いたての銀いち杏ょう返がえしがちょこなんと乗っかっていた。 ﹁それじゃ、おまえさん、往って来るよ﹂ 黄きいろな顔の狭長い長吉は、眼が見えないので手探りに煙草を詰めているところであった。 ﹁どこへ往くのだ﹂ 長吉の声は乾ひからびていた。 ﹁どこだっていいじゃないか、聞いてどうするの﹂ お杉の声は憎にくしかった。 ﹁どうもしねえが、聞いてみたところさ、だしぬけに往って来ると云うから、どこへ往くか聞いたじゃねえか﹂ ﹁だから、聞いてどうすると云ってるじゃないの﹂ ﹁どうもしねえが、聞いたっていいじゃねえか、家の細にょ君うぼうの往く前さきぐらい聞いたっていいじゃねえか﹂ ﹁家の細君を、一人で出すのが心配になるとでも云うのかい﹂ ﹁そうじゃねえ﹂ ﹁それじゃ、毎日遊んで、細君に稼がしては気のどくだから、たまにはかわりに往ってくれるとでも云うのかい﹂ 長吉は黙って掌で燠おきの見当をつけて煙草を点つけた。お杉の顔は嘲あざけりでいっぱいになっていた。お杉は次の室へやへ顔をやった。 ﹁お鶴、聞いたかい﹂ 晴れた外気を映した明るい室へやには、メリンスの長なが襦じゅ袢ばんになった娘のお鶴が、前むこ方う向きになって鏡台に向って髪を掻すいていた。母親似の額ひたいの出た赧あから顔が鏡に映っていた。 ﹁なにをよ﹂ ﹁なにって、家の旦那さまが、家の細にょ君うぼうの往く前さきぐらい、聞いたっていいじゃないかとおっしゃるのだよ﹂ ﹁そう、心配になるでしょうよ﹂ ﹁なに、毎日細君に稼がして、家で無駄飯を喫くってはすまないから、かわりにでも往ってくれるだろうよ﹂ ﹁それじゃ、往ってもらったらいいじゃないの、とんとん走って往くでしょうよ﹂ ﹁往ってもらおうかね、家には、皆りっぱな男が揃ってるから、何かの時にゃたのもしいよ﹂ ﹁そうねえ、矜あし羯た羅かのように走る男もあれば、千里眼の人もあるし、何かのばあいは、心丈夫だよ﹂ ﹁稼ぎは出来るしね、わたしも安心だよ﹂ かちりと煙きせ管るをすてる音がした。 ﹁おい﹂ 長吉の声は一段と小さくなった。お杉は長吉のいることを忘れていた。 ﹁なんだね﹂ ﹁まあさ﹂ ﹁まあさがどうしたと云うのだね﹂ ﹁まあ、ちょっと坐れ﹂ ﹁坐れ、このせわしいのに、どうしようと云うの﹂ ﹁まあさ、ちょっとだ﹂ ﹁ちょっと、どうするの﹂ ﹁ちょっとでいいから坐ってくれ、話がある﹂ ﹁なんの話なの﹂ ﹁なんでもいい、ちょっとでいい﹂ ﹁また愚痴かい﹂ ﹁愚痴じゃない﹂ ﹁煩うるさいね﹂ ﹁まあ、そう云うな、話だ﹂ ﹁出かけなくちゃならないに、困るじゃないの﹂ ﹁そんなに、てまをとることじゃない﹂ ﹁てまをとられてたまるものかね﹂ ﹁まあ、いい、たった一口云えばいい﹂ お杉はしかたなしに蹲しゃがんだ。 ﹁なんだね、早くお云いよ﹂ 長吉はお杉の声に見当をつけて顔を出した。 ﹁おい、おまえ、俺おいらのことはかまわないが﹂ちょっと詞ことばをきって、﹁脚あしのことは云うなと云ってあるじゃねえかよ﹂ お杉は嘲あざけり笑いを浮べた。 ﹁なんだね、なにを云うかと思や﹂ ﹁いや、いかん、それは云うものじゃねえぞ﹂ ﹁なにも、べつに云やしないじゃないか﹂ ﹁いや、いかんぞ、そいつは、いいか﹂ ﹁だって、なにも云やしないじゃないの﹂ ﹁云わなけりゃいいが、云うなよ、いいか、頼むぞ﹂ ﹁判ったよ﹂ ﹁いいか、それじゃ云うのじゃねえぜ、人の嫌がることを云ったり、したりするものは、ろくなことはない、雷さんの悪口を云ってて、天気もわるくないのに、雷さまが落っこちたと云うからな﹂ ﹁また、おはこかい、ばかばかしい﹂外出のことを思いだして、﹁奥さまがお待ちかねだ、ゆるゆるしちゃいられないよ﹂ ﹁それじゃ、山田さんか﹂ ﹁どこでもいいじゃないか﹂お鶴の方を見て、﹁それじゃ、お鶴往ってくるからね、ついすると遅くなるかも判らないよ﹂ お鶴は起たって衣きも服のを被きかえていた。 ﹁いいよ﹂ ﹁おまえは、遅い﹂ ﹁わたしも奥さんのつごうで、どうなるか判らないよ、解き物があると云ってらしたから﹂ ﹁そうかい、それじゃ往くがいい﹂ お杉はそのまま一方の襖ふすまを啓あけて姿を消して往った。そして、何か云っていたがすぐ聞えなくなった。長吉は傍におろしてあった土瓶をそっと執とって火鉢にかけた。 ﹁人間は、あまりあこぎを云うものじゃねえや﹂ 長吉は厭いやなものを吐きだすように云ってから口をつぐんだ。短たん冊ざくのような型のある緋あかい昼ちゅ夜うや帯おびを見せたお鶴が、小こり料ょう亭りやの婢じょちゅうのような恰かっ好こうをして入って来た。 ﹁お父とっさん、往って来るよ﹂ 長吉はびっくりしたように顔をあげた。 ﹁小おぐ栗りさんか﹂ ﹁そうよ﹂ お鶴もお杉の出て往った方から姿を消して往った。そして、十分位するとがたびしと云う音がして、二人の出て往った処から壮わかい男が這はって来た。壮い男は右の方の脚は骭すねから下がなかった。壮い男はばったの飛ぶようにして長吉の前へ来た。 ﹁音か﹂ それは長吉の甥おいの音蔵であった。音蔵は砲兵工こう廠しょうに勤めていて、病菌が入ったので脚を切断したものであった。 ﹁叔父さん﹂ 音蔵の声は顫ふるえを帯びていた。音蔵は這はったままであった。 ﹁どう、どうしたのだ﹂ ﹁お、おじさん、お、おいらは、叔父さんにすまないが、きょう、かぎり、叔父さんとこを出るのだ﹂ 長吉はあわてた。 ﹁ど、どうして、そ、そんな、そんなことを云うのだ、そんなことを﹂ ﹁おじさん、叔父さんの親切は、おいらは、死んでも忘れないが、叔父さん、おいらはつくづく考えた、叔父さんにはすまないが、おいらは、今日かぎり、出て往くのだ﹂ ﹁そりゃ、判ってる、判ってる、判ってるがここが忍しん耐ぼうだ、まあ、気を大きくして、時節を待て、よく判ってる、あの二人は人間じゃない、おまえが居づらいのは判ってる、すまない﹂ ﹁いや、叔父さん、おいらこそ、叔父さんにすまない、おいらがいるために、叔父さんが板ばさみになっているのだ、叔父さんにすまない、おいらは諦あきらめた﹂ ﹁ま、待ってくれ、つらかろうが、もすこし忍しん耐ぼうしてくれ、そのうちには、叔母さんも考えてくる﹂ ﹁叔父さん、もういい、おいらは、おいらが世話になっているために、眼の不自由な叔父さんが、なお苦しんでいるのだ、おいらは叔父さんにすまない﹂ ﹁待て、待て、なに、叔母さんも何い時つまでもあんなじゃない、そのうちには考えて来る、おまえもそのうちには、何かいい目が出る、人間は忍しん耐ぼうが第一じゃ、忍耐してくれ、それでお鶴も、考えなおしてくれたら、二人で世帯を持って、おいらと叔母さんの面倒を見てくれ﹂ 音蔵は内職の袋ふく張ろはりをして食費を入れていた。 ﹁すまない、叔父さんにはすまないが、おいらはもう諦あきらめた﹂ ﹁まて、これ﹂ 長吉は黄きいろに萎しなびた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。こうして不幸な叔おじ甥おいが手を執とりあって泣いている時、お杉はお高の室へやへ往ってお高に逢あっていた。 ﹁大喜びでございますよ、りっぱな奥さまに呼んでいただくのですもの、喜ばないでどうするものですか、罰ばちがあたりますよ﹂ お杉は己じぶんまで嬉しいと云うような顔をしていた、お高は微笑した。 ﹁そう、それじゃいいね﹂ ﹁よろしゅうございますとも、待っていられないから、前さきへ出かけて往ってるかも判りませんよ﹂ ﹁どうだか﹂ ﹁ほんとでございますよ﹂ ﹁前むこ方うは大丈夫だろうね﹂ ﹁大丈夫でございますよ、あすこは裏門から出入ができますからね﹂ ﹁そう、それじゃ大丈夫だね、厭いやな奴に見られちゃ困るからね﹂ ﹁大丈夫でございますよ﹂ ﹁それじゃ、出かけようかね﹂ ﹁お宅の方は、よろしゅうございますか﹂ ﹁いいとも、今日も、また、あの蛇が出て、大騒ぎをしてるから、いいのだよ﹂ ﹁そうでございますか﹂
※﹇#ローマ数字13、283-7﹈
崖の離はな屋れでは三人の男が顔をあわしていた。三人のうちの一人は四十四五で、素肌へ茶の縦縞の薄い丹たん前ぜんを被きていたが、面おも長ながの色の白い顔のどこかに凄すご味みがあった。 ﹁それで、奴さん、何と云ったのだ﹂ 丹前の前には円い食ちゃ卓ぶだいがあった。その食卓を中心にして右側にいるのは、三十前後のセルの袴はかまを穿はいた壮士風の男であった。それはばかに長くした揉もみあげの毛が眼だっていた。 ﹁私の方は、これまで我慢をしておったが、前むこ方うの行しう為ちが怪けしからんから、今度と云う今度は、断然処分をすると云って、とっても鼻息が荒いのだ、それで君の方は、これまでさんざ、利息を執とっといて、それも前方に有って払わないならともかく、前方は商売に失敗して困ってるところじゃないか、俺だちは義によって、解決しようとしているのに、それを聞かないでやるようならやってみるがいい、俺だちは生いの命ちを投げだしてやってることだから、承知しない、もし、邪魔になると思や、警察なり、どこなり、云って往けって、たんかをきってやったのだ﹂ ﹁それで、奴さん、何と云った﹂ ﹁何だ人れが何と云っても、今度は承知しない、これは何人に聞かしても、私の方が正当だから、断然処分する、どうかこの事は、ほうっといてくれと云うのだ﹂ ﹁そうか﹂ 左側には二十五六の頭を角刈にした壮わかい男がいた。角刈はその時口を挟んだ。 ﹁また荒療治をやるかな﹂ 揉もみあげがそれに応じた。 ﹁そうだな、君がまた三四月往って来るか﹂ ﹁どうせ往かなけりゃ、物になるまい﹂ ﹁今なら往っても、暖かいからいいな﹂ ﹁俺おいらをやっといて、おめえは、新あら井いじ宿ゅくの奴の家で、納おさまろうと云うのかい﹂ 二人は笑いあった。丹たん前ぜんは盃さかずきを持って飲みながら考えていた。 ﹁待て、待て、俺に考えがある﹂思いだして、﹁まあ、飲みな﹂ ﹁そうだ﹂ 揉あげは銚子を引き寄せて空になっている己じぶんの盃へ酒を注ついだが、酒はぽっちりしかなかった。丹前がそれを見た。 ﹁酒がなけりゃ、呼べ﹂ 揉もみあげは手をたたいた。そこは池いけ上がみ本ほん門もん寺じの丘つづきになった魁かい春しゅ楼んろうと云う割烹店の離はな屋れで、崖の上になった母おも屋やから廻廊がつづいて、それが崖に倚よってしつらえたあちらこちらの離屋に通じていた。そこは梅で知られている家であった。 ﹁こんな処は、半はん鐘しょうでも釣つっとくがいいや﹂ 揉あげは起たって欄てす干りの傍へ往って手を叩いた。上の方で甲かん高だかい女の声が応じた。 ﹁やっと聞えやがった﹂ 揉あげはそう云い云い眼をまえへやった。それは二時比ごろで、午ひる近くから嫩わか葉ばぐ曇もりに曇っている空を背景にして、大井から大森の人家の簷ひさしが藍あい鼠ねずみの海に溶けこもうとしていた。眼を落すと嫩葉をつけた梅の幹がいちめんに古こか怪いな姿を見せていた。 ﹁よし、いい﹂丹たん前ぜんは気が注ついたように揉あげの背うし後ろす姿がたへ眼をやった。﹁大丈夫だ、うんと飲みな﹂ 角刈は対あい手てになった。 ﹁大将、俺おいらが一いっ度ぺん往ってみようか﹂ ﹁待て、おめえは、まだいけねえ﹂ ﹁だって、俺が往って、二つ三つ撲なぐりとばしたら、話が早くつくじゃねえか﹂ ﹁待て、待て、俺に考えがある﹂ ﹁どんな考えだ﹂ ﹁待て、待て、ゆっくり飲みながら話そう﹂ そこへ一方の襖ふすまが啓あいて眼の大きな年増の婢じょちゅうが入って来た。婢はお時と云うのであった。お時は二本の銚子を手にしていた。お時は丹たん前ぜんに愛想笑いをした。 ﹁お酒でしょう、旦那﹂ 揉もみあげが横あいから口を出した。 ﹁お時、半はん鐘しょうでも釣つっとけ、呼ぶに骨が折れてかなわん﹂ お時は揮ふりかえった。 ﹁そうね、半鐘ね﹂ ﹁そうだよ、それで酒の時は三つばんだ﹂ ﹁肴さかなの時は﹂ ﹁肴は二つか﹂ ﹁それじゃ、あの時は﹂ 揉あげは笑った。 ﹁あれは、あの時は五つさ﹂ お時はあの時から思いだした。 ﹁旦那、八千代さんは、どうするのです、まだ話はすまないのですか﹂ それは話をするために呼んでいた歌げい妓しゃを出してあるらしい。丹前は頷うなずいた。 ﹁もすこし待たしとけ、だって彼奴、線香代をつけてもらって、かってに遊んでる方がいいだろう﹂ ﹁そう﹂ ﹁肴さかながない、何か見つくろって持って来い﹂ ﹁そうね、どんな物がいいでしょう﹂ ﹁旨いもので、早く出来て、それで金がかからなけりゃ、なおいいや﹂ ﹁ずいぶん、ねえ﹂ お時はまた愛想笑いをしいしい出て往った。揉もみあげはどっかりと坐った。 ﹁まずくって、遅くって、高くって、酒がわるくって、ここでいいものは、室へやの風景だけだよ﹂ 角刈がにやりと笑った。 ﹁おめえでも、風景が判るかい﹂ ﹁判るさ、俺おいらはこれでも、漢詩の平しろ仄くろを並べたことがあらあ、酔うて危きら欄んに倚よれば夜やし色ょく幽かすかなり、烟えん水すい蒼そう茫ぼうとして舟を見ず、どうだい、今でも韻字の本がありゃ、詩ぐらいは作れるぞ﹂ 丹たん前ぜんが口を入れた。 ﹁詩を作るより、田を作れか﹂ 角刈は揉あげに何か云いかえしをしなければ気がすまなかった。 ﹁作る田がないから、東京へ来て強ゆす請りをやってるだろう﹂ ﹁お互たがいさまだよ﹂ ﹁お互さまじゃねえや、俺おいらはもとからの破なら戸ずも漢のだ、おめえは学生から、おっこちて来たのだ、物が違わあ、いっしょにせられてたまるものかい﹂ 丹前が笑いだした。 ﹁あんまり自慢にならんさ、まあ、それよりおちついて飲みな﹂※﹇#ローマ数字14、288-2﹈
三人は酒になった。三人は品川大井大森方面を縄張にしている匪ひ徒とで、丹前は岡本と云う三さん百びゃ代くだ言いげんあがり、揉もみあげは松山と云って赤新聞の記者あがり、角刈は半ちゃんで通っている博ばく徒とであった。三人はその時、貸借関係で紛糾している家を恐喝しているところであった。 何い時つの間にか一人の歌げい妓しゃが加わっていて一座は四人になっていた。三人は他愛ない話をして笑いあっていた。 ﹁半ちゃん、どうだい、この比ごろは、佳い目が出るのかい﹂ 揉あげの松山はいい気もちに酔っていた。角刈の半ちゃんは笑っていた。 ﹁佳い目が出る、おい、松山、佳い目が出る、俺おいらはそんなことは知らねえや、ぜんたいそりゃ何だい﹂ ﹁知らねえ、佳い目ってことを知らない﹂右の手で何か揮ふるような恰かっ好こうをして、﹁これを知らねえのか﹂ ﹁知るものかい、俺は堅かた気ぎの商あき人んどだ﹂ ﹁堅気の商人だ、何の商人だ﹂ ﹁そりゃあ、その﹂云えないので、﹁何でもいいや﹂ ﹁それ、みな、云えないだろう﹂ ﹁ふざけるない、おい、おめえは、俺おいらが、後うし暗ろぐらいことでもやってると思ってるのか﹂ 松山はまた何か揮ふるような恰好をした。 ﹁これだと思ってるが、やらないのか﹂ ﹁やるもんか、俺は、堅気の商あき人んどだ、そんなへんなことは知らねえや﹂ ﹁しかし﹂また何か揮る恰かっ好こうをして、﹁これは判ってるだろうな、何を揮るか﹂ ﹁知るものか、きちょうめんの商人だ、賽さいころなんか知るものか﹂ 松山は大声に笑った。 ﹁お、おい、賽ころだ、云うに落ちずして語るに落ちる、賽ころと云うことを知ってるな、それじゃ半ちゃん、佳い目が判るじゃねえか﹂ ﹁判らねえ、知るものか﹂半ちゃんはその時便所に往きたかった。半ちゃんはずいと起たった。﹁これから往って賽ころがどんなものか考えて来る﹂ 半ちゃんは笑い笑い出て往った。岡本の左側へぴったり寄りそうていた歌げい妓しゃは無邪気であった。 ﹁あの方、あれ、やるの﹂ それは二はた十ち位の眼の澄んだ![※(「女+朱」、第3水準1-15-80)](../../../gaiji/1-15/1-15-80.png)
※﹇#ローマ数字15、296-1﹈
岡本は一時間近くもお高の室へやにいて引返して来た。離はな屋れには半ちゃんが酒を飲んでいる前に、あの壮わかい男とお杉が小さくなって坐っていた。 ﹁帰ったな﹂ 松山が岡本の顔を見た。松山は岡本の顔色によって事の成否を知ろうとしていた。半ちゃんは元より岡本の帰るのを待ちかねていた。 ﹁お帰り﹂ 岡本は頷うなずいて元の席へ往って坐りながら、壮い男とお杉を見なおすようにした。 ﹁いるな、馬の脚と、婆ばばあは﹂ 半ちゃんは岡本の盃さかずきへ酌をした。 ﹁じたばたしたら、殴たたき殺すのだから、奴さん、動かれないのだ﹂ ﹁そうか、そうだろう、ふざけたことをしやがってるから、だいち、その婆あがいけねえ、いい年をして、聞きゃ出入だと云うじゃねえか、大恩を忘れやがって、馬の脚なんかをとり持つなんて、不ふら埒ちせ千んば万んだ﹂ 岡本は室の中のむせむせするのが厭いやだった。岡本の眼はお杉へ往った。 ﹁おい、婆あ、そこの障子を啓あけろ﹂ お杉はおどおどと起たって往って障子を啓けた。風が出て梅の嫩わか葉ばは風に撫なでまわされた。 ﹁障子を啓あけるといい気もちだ﹂ 岡本は心もちよさそうに酒を飲んだ。松山は岡本から女のことを聞きたかった。 ﹁あの媽かかあは、どうしたのだ﹂ ﹁みっちりかけあった、他ひとの亀てほ鑑んにならなくちゃならない富豪の細君ともあろうものが、怪けしからんと云って、みっちり意見をしたものだから、あの女あま、泣いてあやまりやがった﹂ ﹁そりゃ、そうだろう、当あた然りまえのことだ、苟いやしくも有夫の女じゃないか、言語道断だ、それをまたとりもつ婆あは、一層言語道断だ、天てん人びとともに赦ゆるさざる奴だ﹂ 半ちゃんはむずかしい詞ことばは知らなかった。 ﹁そうだとも、ふざけたことをしやがって、ぐずぐず云や、おいらが三人を縛りあげて、鮫洲大尽の家へ曳ひきずってって、大将に引きわたすのだ﹂壮わかい男とお杉の方を見て、﹁どうだ、婆ばばあと馬の脚﹂ 松山が口を入れた。 ﹁ただ曳きずって、旦だんつくに怒らすばかりじゃいけねえ、新聞に書いてもらうのだ、三段打ち脱ぬきの大おお標みだ題しで、鮫洲大尽夫人の醜行とかなんとか、処どころに四号活字を入れて書きゃ、ぺちゃんこさ、どうだ﹂壮い男とお杉を見て、﹁どうだ、馬の脚と婆あ、これでやられたら、婆あもそのあたりにはいられなくなるし、馬の脚は、もう東京附近では、馬の脚もできないことになるぞ﹂ 岡本は何か考えついた。 ﹁よし、こんな手てあ合いに云ったところで、判らない、以後こう云うことをしないと云う一いっ札さつを執とって、追っぱらえ、うす汚い婆ばばあや、へんな奴がいちゃ、せっかくの酒が拙まずくなるのだ﹂ 松山も同感であった。 ﹁それがいい、一いっ札さつを執とって追っぱらおう﹂壮わかい男を見て、 ﹁おい、小こぞ厮う、てめえは、字が書けるか﹂ 壮い男は口が硬こわばっていた。 ﹁野郎返事をしないか﹂ 半ちゃんがいきなり起たって往って、壮い男の横っ面つらを撲なぐりつけた。岡本はそれを止めた。 ﹁待て、待て、半ちゃん、そんなことをしてもしかたがない、待て﹂ ﹁この野郎、生意気だ﹂ ﹁まあ、いい、坐れ﹂ 半ちゃんも対あい手てが反抗しないのに続けて撲ることもできなかった。半ちゃんは己じぶんの席へ帰った。松山は半ちゃんの席へ帰るのを待っていた。 ﹁小厮、痛い目に逢あわないうちに、返事をしろ、字が書けるか﹂ ﹁書けます﹂ ﹁そうか、それじゃ書け、婆あは、どうだ、婆あは書けまい﹂ お杉は文もん盲もうであった。 ﹁私は、どうもね、その﹂ ﹁くどい、書けんか﹂ ﹁書けません﹂ ﹁よし、それじゃ、婆あの分は、俺おいらが代筆をしてやる﹂筆のことを思いだして、﹁筆がないな、婢じょちゅうを呼ぼうか﹂ 岡本は注意深かった。 ﹁婢じゃいかん、半ちゃんが往ってくれ﹂ ﹁よし﹂ 半ちゃんは起たって出て往った。岡本と松山は盃さかずきを持った。松山は岡本に眼くばせをした。 ﹁つるは﹂ ﹁うん﹂ ﹁いいのか﹂ ﹁いいとも﹂ ﹁そうか﹂ ﹁飲め﹂傍の二人に聞かすように、﹁俺だちは、強きを挫くじき弱きを授たすける性しょ分うぶんだから、しかたがない﹂ ﹁そうだとも、義のためには生いの命ちもいらない俺だちだ﹂ ﹁わりにあわない商売だよ﹂ ﹁損得を云ってられないのだ、が、考えてみりゃ、損な商売だなあ﹂ ﹁そりゃ、しかたがない、これもお国のためだ、日露戦争で討死した軍人も、俺だちのすることも、することは変ってても、おんなじことだぞ﹂ ﹁そうだとも﹂ 半ちゃんが硯すずりと半はん紙しを持って入って来た。 ﹁不便なところだな、硯と紙を執とりに往くに、野越え山越えだ﹂ 松山が笑った。 ﹁それも、お国のためじゃないか﹂ 半ちゃんには通じなかった。 ﹁なにが、お国のためだい﹂ ﹁なにさ、俺だちが、こうして悪い奴をとっちめるのも、やっぱりお国のためだと、今、大将と話したところだ﹂ 半ちゃんはやっと判った。 ﹁そうとも、そうだとも、やっぱりお国のためだ﹂壮わかい男を見て、﹁お国のために、一いっ札さつをとるのだ、さあ、書きやがれ﹂※﹇#ローマ数字16、300-13﹈
その日午ひる近い比ころであった。広巳は山やま内のう容ちよ堂うどうの墓地のある間まな部べ山の近くを歩いていた。広巳の気もちは混こん沌とんとしていた。広巳は節操のない嫂あによめに対する憤りから、その嫂にまかれて不甲斐ない兄を憤る一方で、人とも神とも判らない女に心を惹ひかれているところであった。 広巳は朝から飲んでいた酒で体はふらふらになっていたが、頭は冴えていた。狭い街とお路りには生垣のある家があった。その時広巳の頭にふと浮んだものがあった。 ︵おや︶ 広巳は四あた辺りに眼をやった。そこは右側に茨いばらの花の咲いた生垣があって、それが一度往ったことのある家のように思われた。 ︵どうもおかしいぞ、あの家じゃないか︶ 鵜うになって飛んだ二人の少女に呼びこまれた家のように思われるのであった。広巳は気が注ついて笑いだした。 ︵まさか、まさか︶ 広巳は歩きだした。その広巳の後に物の気配がした。 ﹁若旦那﹂ 広巳は足を止めた。と、ちょこちょこと下駄の音をさして来たものがあった。広巳はちらりと揮ふりかえった。それはお杉の娘のお鶴であった。 ﹁今日は﹂ 広巳はお鶴が時おり変にからまって来るので嫌っていたが、黙っているわけにもいかなかった。 ﹁鶴坊か﹂ ﹁どこへいらっしゃるの﹂ ﹁ちょっとそこだ﹂ ﹁そこって、どこですの、いい人のとこ﹂ 広巳は気もちがわるかった。 ﹁そんな処じゃないよ﹂ ﹁それじゃ、どんなとこ﹂ 広巳は煩うるさかった。 ﹁云われないとこ、それじゃ、やっぱりいい人の処ね、若旦那のいらっしゃる処だもの﹂ 広巳は苦笑した。 ﹁そうでしょう、やっぱりそうでしょう、いい人の処でしょう﹂ 広巳はもてあました。 ﹁ほんとに若旦那は、邪じゃ慳けんよ、そりゃあね、私のような、女のうちにも入らないものなんか、鼻もひっかけてくれないでしょうが、それにしてもあんまり邪慳よ、若旦那は﹂ 広巳は平いつ生もそれで困らされていた。 ﹁うう﹂ ﹁ううなんて、ほんとに邪慳よ﹂ 広巳はとっとと往こうと思った。 ﹁そんなに邪慳にするものじゃないことよ、そんなに何い時つも邪慳にするなら、わたし、若旦那に知らしてあげたいことがあるが、云わないことよ﹂ ﹁なんだ﹂ 思わずつりこまれて、しまったと思った。 ﹁云わないわ、若旦那が、そんなに邪じゃ慳けんにするなら、わたし、若旦那の喜ぶことを知ってるのだが、云わないことよ、若旦那のことを、平いつ生も云ってらっしゃる方があるのだけど、それはただの方じゃないことよ、地みぶ位んのあるりっぱな方よ、でも云わないことよ、若旦那がそんなに邪慳にするなら﹂ 広巳はちょっと好奇心が起ったが、お鶴が己じぶんにからんで来る手のようにもあるから、うっかりしたことは云われないと思った。 ﹁聞かなくてもいいの、ほんとのことよ﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁いい方のことよ﹂ ﹁何だ人れだ﹂ ﹁云わないことよ、若旦那が、わたしに邪樫にしないようになったら、何い時つでも云ってあげるわ﹂ ﹁嘘だろう﹂ ﹁嘘なら嘘にしとくがいいわ、聞きたくなけりゃ﹂ ﹁ほんとなら、云ってみなよ﹂ ﹁厭いやよ、若旦那が、わたしに邪慳にしないようになったら、何時でも云ってあげるわ、ほんとよ、それも徒ただの裏町のお媽かみさんや娘じゃないことよ、りっぱな地みぶ位んのある方よ、若旦那がいくら気ぐらいが高くっても、その方の前へ出たらぞんざいな口が利きけないから﹂ ﹁何人だ﹂ ﹁云わないことよ、云わないわ﹂ ﹁云えないだろう、嘘だから﹂ ﹁嘘なら嘘にしとくがいいわ、若旦那のことを思ってらっしゃる方だから﹂ ﹁まさか﹂ ﹁ほんとよ、ほんとだから、云わないことよ﹂ 広巳は惹ひきつけられるものがあった。それは人か神かと思って探している女のように思われるからであった。それに場所が場所でもあった。 ﹁嘘だよ、俺にはそんな心あたりがないよ﹂ ﹁嘘なら、心あたりがなけりゃ、それにしとくといいことよ﹂ ﹁だから、それにしとくのだよ﹂ ﹁それがいいわ、そのかわり後になって、私を恨んでも知らないことよ、若旦那の家には、お銭あしがたくさんあって、鮫さめ洲ずだ大いじ尽んと云や、界かい隈わいで知らないものはないのだけど、そんな地みぶ位んのある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だから﹂ ﹁いやに大きく出るじゃないか、ぜんたい、そりゃ、何だい﹂ ﹁粋いきで、上品で、地みぶ位んのある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方よ﹂ ﹁痴ばかにするない﹂ ﹁あれ、まだ、私がかつぐと思ってらっしゃるの﹂ ﹁そうだよ、担かついでるのだよ﹂ ﹁痴ばか、ねえ、若旦那は、ひとが親切に云ってあげてるに﹂ ﹁それじゃ、はっきり云ったら、どうだ、ほんとなら、はっきり云えるじゃないか﹂ ﹁そりゃ、云えますよ、云えますが、若旦那が邪じゃ慳けんだから云わないことよ﹂ ﹁何い時つ、俺が、汝おまえを邪慳にしたのだよ﹂ ﹁平いつ生も邪慳よ、私が何か話そうと思っても、逃げっちまうじゃありませんか﹂ ﹁そんなことはないさ、逃げたことはないじゃないか﹂ ﹁逃げることよ、何時かもお宅の御門の処で往きあうと、私を見ないふりをして往っちまったじゃないこと﹂ ﹁そんなことがあるものか﹂ ﹁あったわ、私、ほんとにあの時は、若旦那を恨んだわ﹂ ﹁俺は知らないのだよ﹂ ﹁知らんことないわ﹂ ﹁ほんとに知らんよ、それとも俺が、何か考えごとをしてたから、判らなかったかも知れない、ほんとに知らんよ﹂ ﹁知らんことないわ﹂ ﹁そりゃ無理だよ﹂ 広巳はばかばかしくなって来た。広巳はいきなりお鶴を離れて歩いた。お鶴は追っかけて来た。 ﹁若旦那﹂ ﹁もうたくさん﹂ ﹁ほんとよ、若旦那、聞かなくってもいいの﹂ ﹁たくさん、たくさん、あばよだ﹂ ﹁いやな人ね、ひとが云ってあげると云うのに﹂ ﹁たくさん、たくさん﹂ 広巳は頭にかかっていた塵ちりを払い落したような気になって歩いた。 ﹁おぼえてらっしゃい、若旦那﹂ ﹁たくさん、たくさん﹂ たくさん、たくさんの詞ことばは足の調子に乗って来た。広巳の体はたくさん、たくさんで歩いた。そして、歩いているうちに空腹を覚えて来たので、路みち傍ばたで蕎そ麦ば店やを見つけて入り、そこで蕎麦を喫くってまた歩いた。 ︵ぜんたい、なんのことだ︶ 広巳はお鶴の云ったことを思いだしていた。 ︵粋いきで、上品で、地みぶ位んのある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方って、ぜんたいなんだ︶ 広巳は考えた。 ︵若旦那の家には、お銭あしがたくさんあって、鮫洲大尽と云や界かい隈わいで知らないものはないが、そんな地みぶ位んのある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だと云ったな︶ しかし、広巳は海晏寺の前の榎えのきの傍で逢あい、それから八幡祠の境内で逢った女以外の女は、求めてはいなかった。 ︵その女といっしょなら、逢いたいが、外はかの女には逢いたくないな︶ 広巳は何い時つの間にか大森の魁かい春しゅ楼んろうの裏門口に近いところへ往っていた。と、その時人の気配がして裏門から出て来た者があった。それは盛装した嫂あによめのお高が血の色けのない顔をして、一人の婢じょちゅうに送られて出て来たところであった。 ︵いけねえ︶ 広巳はそこの巷ろじへ隠れて往った。※﹇#ローマ数字17、307-9﹈
広栄は次の室へやで計算していた。黒くろ柿がきの机に向って預金の通帳のような帳面を見い見い、玩おも具ちゃのような算そろ盤ばんの玉を弄いじっていた。 それは二時比ごろで、外には絹糸のような雨が降っていた。広栄はやがて算盤を置いて、傍の硯すず箱りばこを引き寄せて墨を磨すりだした。 ﹁旦那さま﹂ 頬の赧あかい壮わかい婢が名刺を持って傍へ来ていた。広栄は顔をあげた。 ﹁お客さんか﹂ ﹁はい﹂ 広栄は婢じょちゅうの手から名刺を執とった。名刺には松山良蔵としてあった。 ﹁松山良蔵、どんな男だ﹂ ﹁二人来ております、その名刺を出した人は、揉もみあげの長い壮士のような人ですよ﹂ ﹁揉あげの長い、壮士のような人﹂ちょっと考えて、﹁どんな用事か、聞かざったか﹂ ﹁聞きませんが、聞きましょうか﹂ ﹁そうだ、どんな用事か聞いてみよ﹂ ﹁はい﹂ 婢は出て往ったがすぐ引返して来た。 ﹁聞いたか﹂ ﹁はい﹂ ﹁何だ﹂ ﹁当こち方らの家庭のことで、お話ししたいことがあって、わざわざあがったと云いますが﹂ ﹁当方の家庭のことで、家のことでか﹂ ﹁そうだそうです﹂ ﹁当方の家庭のことで﹂首をかしげて考えてから、﹁それじゃ、まあ、通してみろ、お座敷にしよう﹂ ﹁はい﹂ 広栄は急いで机の引ひき抽だしを啓あけて帳面と算そろ盤ばんをしまい、それから硯すず箱りばこへ蓋ふたをしながら来客の用件について考えた。縁側に二三人の跫あし音おとが聞えて来た。婢じょちゅうが客を玄関脇から伴つれて来たところであった。広栄は左右に啓あけた障子の一方の陰にいたので正まと面もに客と顔をあわせなくてもよかった。客はあの匪ひ徒との中の松山と半ちゃんであった。広栄は客座敷へ入って往く二人の横顔を見て何かしら不安を感じた。そこへ婢が出て来た。 ﹁それでは、旦那さま﹂ ﹁そうか、それじゃ茶を持って往け、俺は後から往く﹂ ﹁はい﹂ 広栄は思いだして、煙草を点つけてみたが煙草の味は判らなかった。婢は庖かっ厨てから茶を持って来て客座敷へ往くなりすぐ出て来た。広栄は黙って手をあげて招いた。婢もそれと見て黙って傍へ寄って来た。 ﹁あのな、定七に、へんな奴が来たから、そっとここへ来ているように云っとけ﹂ 広栄の声は小さかった。婢は頷うなずいた。 ﹁いいか、そっとだよ﹂ 広栄は平いつ生も傍に置いてある松葉杖を執とって、それにすがってやっとこさと起たち、境の襖ふすまを啓けて入って往った。 ﹁足が悪いものですから、失礼します﹂ 松山と半ちゃんは床とこの方を背にして胡あぐ坐らをかいていた。広栄はその前へ往って崩れるように腰をおろして足を投げだした。 ﹁失礼します、こんな恰かっ好こうをして﹂ 松山はすましていた。 ﹁はじめてお眼にかかりますが、何か当こち方らのことで、いらしてくださいましたそうで﹂ ﹁そうだ﹂ ﹁どんなことでしょうか、当こち方らの家庭のことと申しますと﹂ ﹁すこし、へんなことだから、他の者に聞かしたくない、何だ人れもこの室へやの中へ通さないようにしてもらいたいが﹂ あいての語気が強いので広栄は鬼おそ胎れを抱いた。 ﹁そ、それは、私が呼ばなければ、呼ばなければ、何だ人れも来ませんから﹂ ﹁そうかね﹂ 広栄は、後の詞ことばが出なかった。松山はその顔をじろりと見た。 ﹁それでは、話をするに当って、云っておくことがあるが、僕だちは東洋義団と云う結社のものだが、この東洋義団と云うのは、国家のために不義不正を摘発して、弱者は授たすけ、悪人は懲こらして、社会を覚醒している結社だと云うことを承知してもらいたい﹂ ﹁は、東洋義団、社会を覚醒なされる、結社の方でございますか﹂ ﹁そうだ、その結社のものだ、だから僕だちは、金銭利得によって動くものじゃない、これもあらかじめ承知してもらいたい﹂ ﹁それはもう、なんでございますから﹂ ﹁よし、それが判ったら、用件に移るが、僕だちは、今も云ったように、国家のために社会の不義不正を摘発しているところで、不幸にして、ここな家庭が紊びん乱らんしておるから、それを摘発に来たのだ﹂ 広栄は眼を見はった。 ﹁わたくしの、家庭が、紊乱しておると申しますか﹂ ﹁そうだ、紊乱しておる、紊乱しておるから、それを粛正さすために来たのだ﹂ 広栄はさすがに腹が治まらなかった。 ﹁私の家は、私と、細かな君いと、それから弟が一人あって、その弟は、今度の戦役に従軍して、金きん鵄し勲章ももらっておりますが、べつに他ひと人さまから、家庭のことを、とやこう云われるようなことはないが、それは何かの﹂ ﹁だめだ﹂松山は叱りつけた。﹁そんなことを云っても、種がちゃんとあがってるのだ﹂ ﹁種と云いますか﹂ ﹁そうだ種だ、種があがっておる、鮫さめ洲ずの大だい尽じんと云や、人に知られた家で、人の亀てほ鑑んになる家だ、その家が紊乱さしては、けしからんじゃないか﹂ 広栄は何のためにそんなことを云うのだろうと思った。 ﹁それは、どうも、それは、何かの﹂ ﹁だめだ、幾いく何ら隠したって証拠がある、それとも君は、それを知らないのか、町内に知らぬは主てい翁しゅばかりなり、君は気が注つかんのか、おめでたい人間だな﹂ 広栄は不思議でたまらなかった。 ﹁それは、何かのまちがいだ﹂ ﹁まちがいだ、まだそんなことを云うか、それじゃ、その証拠を見せてやろう、驚くな﹂松山は右の袂たもとへ手をやって半はん紙しに書いた物を二枚出して、﹁おい、これを見ろ﹂ 松山はそのままそれを広栄の前へ投ほうりだした。広栄はしかたなしに拾ってまずその一枚に眼をやった。それはお杉の出したものであった。広栄の眼は次の一枚に往った。それは山田稔とした壮わかい俳優の自筆であった。広栄の顔は蒼あお黒ぐろくなっていた。 ﹁どうだ、君、読んだのか﹂ 広栄は何も云えなかった。 ﹁おい、その小島杉としたのは、汝きさまの処へ出入するお杉と云う婆さんだ、もっとも婆さんは、字が書けないと云うから、俺が書いてやったのだが、一つの山田稔と云うのは、本人が書いたのだ、品川にごろごろしてる馬の脚だ、それを婆さんが執とりもって、ふざけた真似をさしていたのだ、おい、一おと昨と日い、媽かかあは、家にいなかったろう、どうだ、家にいたか﹂ 広栄は眼を伏せていた。 ﹁おい、汝きさまの媽あは大森の魁春楼にいたのだが、判ってるか﹂ その時客座敷の背うし後ろの室へやには、お高がそっと立って耳をすましていたが、その詞ことばを聞くなり、こそこそと室を出てどこへか往ってしまった。※﹇#ローマ数字18、313-1﹈
店みせ頭さきにいた定七が婢じょちゅうが呼びに来たので、急いで番傘をさして街とお路りへ出た。広巳が蛇じゃ目のめ傘がさを担かつぐようにさして、大森の方からふらふらと帰って来たところであった。 ﹁広巳さん、若旦那﹂ 広巳は酔っていた。広巳ははじめて定七を見つけた。 ﹁ああ、定七か﹂ ﹁定七かじゃありませんよ、どこにいらしたのです、心配しておりましたよ﹂ ﹁心配することは、家にいる妖まも怪のじゃ、乃おい公らは大丈夫だよ﹂ 定七は笑った。 ﹁家にいる妖まも怪のって、お宅には妖怪なんかおりませんよ、それよか、二日も三日も、どこにいらしたのです﹂ ﹁妖怪を退治することを考えたり、妖怪を探したり、あっちこっちしてたのだよ﹂わざとらしく笑って、﹁蛇さまを拝みにでも往くのか﹂ ﹁なに、へんな奴が﹂と云いかけて思いだして、﹁ちょうどいい、若旦那も往ってください、今、へんな壮士のような奴が二人来たので、旦那さまから呼びに来て往くところです、貴あな方たも往ってください。きっと強ゆす請りか何かだろうと思います﹂ ﹁壮士のような奴が二人来た﹂ ﹁だから往ってください﹂ ﹁めんどうだよ﹂ ﹁そんなことを仰おっしゃらないで、往ってください、旦那さまは、気がお弱いから、きっと困ってるのですよ﹂ ﹁そうか﹂ 広巳もそうしたばあい、いやとも云えないので往く気になった。定七はその顔色を見てとった。 ﹁それじゃ、往ってください﹂ 定七は広巳を伴つれて母おも屋やへ往き、玄関からそっとあがって次の室へやへ往った。その時客座敷では、松山が黙りこんでいる広栄を叱りつけていた。 ﹁おい、何か云わないのか、俺だちが義ぎき侠ょう心しんを出して、家庭を粛正してやろうとしてることが判らないのか、痴ばか﹂ 半ちゃんが口をそえた。 ﹁おい、野郎、鮫さめ洲ずの大だい尽じんだなんて、大きな面つらをしやがって、ざまはねえぜ﹂ 広栄はその時きっと顔をあげた。 ﹁それでは、お礼を申します、どうも御親切にありがとうございました、それで私の方としましては、細かな君いもよく調べ、お杉も調べましたうえで、いよいよ不ふら埒ちをはたらいておりますなら﹂ ﹁待て﹂松山は絹を裂くような声で押えつけて、﹁細君もよく調べる、よく調べると云うのは、俺の云うことが、真ほん箇とうにできないから、それでよく調べると云うのだな﹂ 広栄は対あい手てに逆さからってはならなかった。 ﹁いや、決して、そんなことはありません、調べると云ったのは、本人の口から白状さして、そのうえで話をつけようと思いまして﹂ ﹁そうか、それで細君をどうするつもりだ﹂ ﹁それは親類の者にも相談して、そのうえで離縁するなり、なんなり、それは私の方で話をつけます﹂ ﹁私の方で話をつける、私の方で話をつけるから、他人はおせっかいをよせと云うのか、いやしくも人の亀てほ鑑んになるべき者が、不ふ義ぎ不ふら埒ちなことをしているに、うやむやにして、知らん顔をするつもりか﹂ ﹁そんなことはありません、決して﹂ ﹁それではどうする﹂ ﹁それは、今も申しましたように、親類の者とも相談しまして、そのうえで話をつけます﹂ ﹁話をつけるとは、うやむやにして、そのままにするつもりだろう、そうはいかねえや﹂ 広栄は困ってしまった。 ﹁そ、それでは、どうしたら﹂ ﹁人の亀鑑になる者だ、社会風教上、よろしくない、叩きだせ﹂ ﹁それは、私も、いざとなれば、離縁するなり、なんなりいたしますがいろいろ事情もありまして﹂ ﹁事情じゃなかろう、ほれてるから、踏みつけられても、尻にしかれても、どうすることもできないだろう﹂ 半ちゃんがまた口をそえた。 ﹁そうだよ、鼻の下が長いのだ、この野郎は﹂ ﹁そうだよ、だから、俺だちの義ぎき侠ょう心しんも思わないで、ふざけたことを云ってるのだ﹂広栄を見て、﹁野郎、どうだ、どうするのだ﹂ 広栄はもう詞ことばが出なかった。松山はたたみかけた。 ﹁どうするのだ、おい、野郎、媽かかあを叩き出すか、俺だちの義侠心を踏みにじるか﹂ 襖ふすまがずらりと啓あいて定七が出て来た。 ﹁もし、失礼でございますが、私から、ちょっとお話をあげたいと思いますが﹂ 松山はじろりと定七を見た。 ﹁汝きさまは何だ人れだ﹂ 定七は広栄の右側へきちんと坐った。 ﹁番頭のようなものでございます﹂ ﹁ようなものとは、なんだ﹂ ﹁番頭のようにしておりますが、番頭だと云うことを主人から云われておりませんから﹂ ﹁そうか、それで、俺だちにどんな話があるのだ﹂ ﹁隣の室へやで、主人の云いつけで、帳面をあわしておりましたので、前さっ刻きからのお話を伺いましたが、それについて、ちょっと私から申しあげたいことがございまして﹂ ﹁どんなことだ、云ってみろ﹂ ﹁それでは申しあげますが、今承うけたまわれば、当こち方らの奥さまが、何かまちがいをしでかしまして﹂ ﹁言語道断だ﹂ ﹁それにつきまして、私がてまえ主人に代りまして、お願いでございます﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁それは奥さまが一時の心得ちがいから、皆さまに御心配をかけましたにつきましては、それ相当のことをいたしまして、今回だけは、大目にみていただいて、みっちり意見をいたしまして、元の奥さまにしたいと思いますが﹂ ﹁だめだ、あんな女は﹂ ﹁ではございましょうが、てまえ奉公人といたしましては、円まるく収めたいのでございます、どうか、皆さまも、お腹もたちましょうが、どうかてまえに免じてお赦ゆるしくださいますように﹂ 松山は態度をやわらげた。 ﹁そうか、奉公人として、汝きさまがそう云うのは、もっとものことだ、奉公人としては、主人のためにそうしなくてはならんが、苟いやしくも人の亀てほ鑑んになる家のことだ﹂ ﹁ではございましょうが、そこが御ごか堪んに忍んでございます、どうかてまえに免じて、今回だけは、お眼こぼしを願います、それにつきましては、汚いことを申しあげてはすみませんが、皆さまにそれ相当のことをいたしまして、皆さまの御親切にお礼をいたしたいと思います、どうか今回だけは、お眼こぼしを願います﹂ ﹁そうか、汝きさまが主人のためを思うて、そう云うならいけないとも云えないが﹂ ﹁どうぞお願いいたします、それにつきまして、てまえ主人にちょっと申したいことがございますから、ちょっとお赦ゆるしを願います﹂ ﹁よし、相談があるなら、往ってもいいが、長くはいけないぞ、それに俺だちを欺だましといて、警察なんかに云いつけたら、承知しないぞ﹂ ﹁決して、そんなことはいたしません﹂ ﹁云いつけるなら云いつけてもいい、ここな署長なんか、東洋義団の連中とは朋とも友だちだから、そんなことは驚かんが、もし、へんなことをすると、結社には命知らずが幾人もいるのだ、殺してしまうからそう思え﹂ ﹁いや、けっしてそんな痴ばかな真似はいたしません﹂それから広栄に注意して、﹁それでは旦那、ちょっとお話をあげたいから、あちらへいらしてください﹂ 広栄はほっとしていた。 ﹁そうか、それでは﹂ 広栄は松葉杖を執とってやっとこさと起たって、定七といっしょに次の室へやへ往った。※﹇#ローマ数字19、319-1﹈
広巳は母おも屋やの庖かっ厨てへ入って往った。庖厨の土ど室まには年とった婢じょちゅうが筍たけのこの皮を剥むいていた。広巳は庖厨に起たってあちらこちらを見た。それは何かを探し求めている眼であった。 ﹁おい、お小さ夜よ﹂ 年とし老とった婢は何だ人れか来たとは知っていたが、めんどうだから知らないふりをしていたところで、名を呼ばれたので顔をあげた。 ﹁おや、若旦那、今日はお珍らしいじゃありませんか﹂ 広巳が母屋へ来たことは暫しばらくぶりであった。 ﹁そんなことは、どうでもいい、酒はないか﹂ 広巳の眼は光って怒いかりに燃えている眼であった。年老った婢はいつもの広巳とかってがちがっているのでおやと思った。 ﹁さけ、どうするのです﹂ ﹁どうでもいい、持って来い﹂ 年老った婢は筍をおいて起っていた。 ﹁あがるのですか﹂ ﹁判ってらあ﹂ ﹁それでは、お燗かんをつけますか﹂ ﹁そんなことはいい、早く持って来い﹂ ﹁そうですか﹂ 年とし老とった婢じょちゅうは流なが槽しと喰くっついた棚の下にある瓶とく子りの傍へ往った。 ﹁瓶子のままでいいのですか﹂ ﹁いい、持って来い﹂ ﹁お銚子と猪ちょ口こはいらないですか﹂ ﹁いらない、瓶子と茶碗を執とれ﹂ 年老った婢はさからわなかった。年老った婢は一升瓶子と湯呑茶碗を持って往った。 ﹁これでいいのですか﹂ ﹁いい﹂ 広巳は上あが框りかまちへ出て婢の出した瓶子と茶碗を引ったくるように執り、いきなりそこへ胡あぐ座らをかき、瓶子の栓を口で脱ぬいて、どくどくと注ついで飲んだ。 ﹁うウ﹂ 年老った婢は呆あきれてその容さまを見た。広巳は茶碗の酒を二口に飲んで、また後を注いだ。 ﹁うウ﹂ その酒もまた二口に飲んで三杯目の酒を注ごうとして、何か気になるのか耳をすましていたが、それだけではいけないのか茶碗をおいて起たち、玄関の方へ姿を消して往った。 ﹁まあ﹂ 年老った婢じょちゅうはますます呆れたような顔をした。そこへ頬の赧あかい壮わかい婢が何かを憚はばかるように奥の方から出て来たが、年老った婢を見つけるなりその前へついと往った。 ﹁お小夜さん﹂ ﹁なんだね﹂ 壮い婢は何た人れか己じぶんを見ているものでもないかと云うようにして、ちらと後を見ておいて年老った婢の鼻はな端さきへ近ぢかと顔を持って往った。 ﹁汝おまえさん、知らない﹂ ﹁なんだね﹂ ﹁たいへんよ﹂ ﹁どうしたの﹂ ﹁お座敷の方で、大きな声がしてたでしょう﹂ ﹁そうね、何だ人れか来てるの﹂ ﹁へんな、壮士のような男が、二人来てるのだよ﹂ ﹁それが、どうしたの﹂ ﹁それがたいへんよ﹂ ﹁どうしたの﹂ ﹁どうって、ここの奥さんよ﹂ ﹁奥さんが、どうしたの﹂ ﹁汝おまえさん﹂周あた囲りに眼をやって、﹁男があるのだって﹂ ﹁まあ、奥さんが﹂ ﹁そうよ、大森の料りょ亭うりやかなんかで、男といっしょにいるところを、今来てる男に見つかって、書きつけを執とられたって﹂ ﹁ほんと﹂ ﹁ほんとだとも、だから、人の亀てほ鑑んになる家のお媽かみさんが、男をこしらえるなんて、ふざけてる、追んだしてしまえと云ってるのだよ﹂ ﹁旦那にそんなことを云ったの﹂ ﹁云ったとも、それに奥さんと男の執りもちをしたのは、あのお杉さんだって﹂ ﹁まあ、お杉さんが、呆あきれた人だね、それで、男って何た人れだろうね﹂ ﹁馬の脚、馬の脚って云ってたから、俳やく優しゃじゃないだろうかね﹂ ﹁そうね、馬の脚って云や俳優だろう、だが奥さんがそんなことをするだろうかね﹂ ﹁判らんが、奥さんはへんだから、店の平どんだって、どうしてるか判らないよ、よく伴つれて歩くじゃないか﹂ ﹁そうね、お蔵なんかへ伴れて往くことがあるね﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁それで、奥さんは、どうしてるの﹂ ﹁いないのだよ﹂ ﹁どこへ往ったろうね﹂ ﹁いたたまれないで、逃げだしたかも判らないよ、前さっ刻き居い室まで新聞かなんか読んでたが、いないのだよ﹂ ﹁里へ往ったろうかね﹂ ﹁まさか里へは往かれないよ﹂ ﹁それじゃ、どこだろう﹂ ﹁杉本さんじゃないの﹂ ﹁あの弁護士の杉本さん﹂ ﹁そうよ、奥さんは、あの杉本さんとも、へんよ﹂ ﹁まさか﹂ ﹁ほんとよ、私は見たことがあるもの﹂ ﹁ほんと﹂ ﹁ほんとだとも、正月の比ころよ、旦那がお蔵へ往ってる時に、杉本さんが来て、奥さんの室へやへ入って、秘ない密しょばなしをして、二人で笑ったりなんかしてたよ﹂ ﹁そう、そんなことがあったの、ずいぶん、ねえ﹂ ﹁ずいぶんよ﹂ その時どかどかと跫あし音おとをさして来たものがあった。二人はびっくりして離れ離れになった。広巳が引返して来たところであった。 ﹁ふざけてやがる、こんなべらぼうなことがどこにある﹂ 広巳は壮わかい婢じょちゅうを見つけた。 ﹁そこで、何をまごまごしてるのだ﹂ 周まわ囲りにあるものを蹴ちらすような勢いきおいで入って来て、瓶とく子りの傍へ往くなりいきなり瓶子を執とって、それを口からぐいぐいと飲んだ。 ﹁痴ばか、どいつもこいつも、承知しないぞ、痴﹂ 壮い婢は恐ろしそうにしてこそこそとどこへか往ってしまった。年とし老とった婢は筍たけのこの傍へ往って蹲しゃがんだ。 ﹁痴野郎だから、だめなんだ﹂ 広巳は三口四口続けて飲んだが、気が注ついたようにしてまた耳をたてた。※﹇#ローマ数字20、324-12﹈
松山と半ちゃんは、山田を出て大森の方へ向って歩いていた。松山は蝙こう蝠もり傘がさをさし、半ちゃんは紺こん蛇じゃ目のめをさしていた。絹糸のような雨は依然として降っていた。山田の塀の前を往きすぎると、半ちゃんが右側を歩いている松山の傍へ寄って往った。 ﹁おい、旨くいったな﹂ ﹁いったとも、吾輩が蘇そち張ょうの弁をもってすれば、天下何事かならざらんやだ、どうだい﹂ ﹁また、ちんぷんかんぷんか、悪い癖だよ、よしなよ、そんなことを云って、威張ったところで、どうせ人をおどして金を執とる悪党じゃねえか﹂ ﹁悪党じゃないよ、国家のためだよ、国家のためにやってることだよ﹂ ﹁国家のために、好いことをしてる奴を、ふんづかめえて、さんざ撲なぐりつけたうえに、金を執るだろう﹂ 松山は笑った。 ﹁まあ、そんなものさ、鑵かん詰づめの中へ石ころを入れて、兵隊に喫くわしても、国家のためだと云う実業家があるじゃないか、それに較くらべりゃ、姦まお通とこをつかまえて、悪いことをさせないようにするのは、たいした違いじゃないか、天と地との違いだよ、すこし位、金を執ったっていいだろう﹂ ﹁それもそうだが、裁判の紛もつ糾れを横あいから往って、裁判所で両方を撲りつけて、金を執るなんざ、あんまりなあ﹂ 松山は周まわ囲りに注意した。店員風の壮わかい男と、会社員風の洋服男が来て擦すれちがおうとしていた。松山は叱しっと云って半ちゃんに注意した。 ﹁つまらんことを云うのは、よせよ、聞かれるぜ﹂ 半ちゃんは口をつぐんで苦笑した。松山は話をかえた。 ﹁半ちゃん、車がほしいな﹂ ﹁そうだ、車があるといいな﹂ ﹁川崎屋へでも往きたいなあ﹂ ﹁川崎屋は面白くねえや、やっぱり松浅だよ、それに自由も聞くじゃねえか﹂ ﹁そりゃ判ってるが、遠いや﹂ ﹁なにすぐだよ﹂ ﹁かなりあるぜ﹂ ﹁そりゃ、すこしは遠いが、大将が来るからな﹂ ﹁だから、まあ、往くようなものさ、この雨の中をぴちゃぴちゃ歩くのは気が利かないや、それに癪しゃくじゃないか、俺だちに婆ばばあと馬の脚の番をさしといてよ、大将はふざけてるぞ﹂ ﹁しかたがねえや、そこが仮おや父ぶんの役得だ﹂ ﹁そりゃそうだよ、だからはやく仮父にならなけりゃいかんぜ﹂ ﹁そうとも、おめえは、乃おい公らとちがって、学があるから、すぐ仮父になれるさ、岡本さんの後は、おめえがつぐんだ﹂ ﹁ついでもいいが、乃公は、こんな狭い日本じゃだめだ、満州へ往って、馬賊にでもなろうと思ってるのだ﹂ ﹁満州なんかだめだよ、酒は高き粱びの酒で、喫くうものは、豚ぶたか犬かしかないと云うじゃねえか、だめだよ、魚さし軒みに灘なだの生きい一っぽ本んでなくちゃ﹂ 二人は何い時つの間にか泪なみ橋だばしの傍へ往っていた。そのあたりには漁りょ夫うしの家が並んでいた。そこには店みせ頭さきへ底そこ曳びき網あみの雑ざ魚こを並べたり、あさりや蛤はまぐりの剥むき身みを並べている処があって、その附まわ近りのお媽かみさんが、番傘などをさしてちらほらしていた。 松山と半ちゃんは、その傘の中を潜くぐって一ひと跨またぎの泪なみ橋だばしを渡った。その時壮わかい男が燕つばめのように後から来て二人に躍おどりかかった。壮い男は円まる木たん棒ぼうを持っていた。円木棒は忽たちまち紺こん蛇じゃ目のめを潰つぶし蝙こう蝠もり傘がさを飛ばしてしまった。 ﹁うぬ﹂ ﹁野郎﹂ 二人の叫ぶまもなく、円木棒は忽ち半ちゃんをなぎ倒し、ふりむいた松山の右の肩をしたたかに撲なぐりつけた。円木棒は広巳であった。 ﹁盗ぬす人っと﹂ 半ちゃんは起きあがって広巳に飛びかかろうとした。 ﹁野郎﹂ ﹁なにを﹂ 円木棒は半ちゃんの胴に来た。半ちゃんはまた倒れてしまった。松山は眼を怒らすばかりでどうすることもできなかった。広巳は円木棒を揮ふって松山に躍おどりかかった。松山はその勢いきおいに辟へき易えきして後すさりした。半ちゃんは半身を起しただけであった。 ﹁野郎﹂ 広巳はどこまでもと松山にせまった。松山はとてもかなわないと思ったのか、くるりと体を返して逃げようとした。 ﹁待てっ﹂ 広巳は飛びかかって円まる木たん棒ぼうを揮ふった。円木棒は松山の背に当った。松山は前むこ方う向けによろよろとなって倒れてしまった。 ﹁ざまみやがれ﹂ 広巳は松山を捨ててふり向いた。半ちゃんが起きあがって組みかかろうとした。 ﹁この盗ぬす人っと﹂ 広巳は丸木棒を横に揮った。半ちゃんはまた胴を打たれて横倒れになった。 川崎屋の奥まった室へやでは、二人の客が話していた。一人はお高で一人は色の白いでっぷり肥った童顔の髭ひげのある男であった。それは杉本と云う山田の地所や貸家を管理している裁判官あがりの弁護士であった。 室の中には明るい洋ラン燈プの光があった。杉本は童顔に愛あい嬌きょうをたたえていた。お高はその時黙って杉本の盃さかずきへ酌をした。杉本はまたそれを黙って飲んだ。 ﹁だから、もういいのだ、黙って僕と帰ってけばいい﹂ふざけるようにお高の眼を見て、﹁それで、仲なおりをすりゃ、いいじゃないか、夫婦喧嘩と西の風は、日の入りかぎりだと云うことがある、それでいいでしょう﹂ お高は意いみのある眼づかいをした。 ﹁よかあないことよ、いやよ、帰るのは﹂ ﹁帰るのはいやって、大事の旦那さまが嫌いかね﹂ ﹁嫌いよ、あんな跛なんか、見たくもないわ、飽き飽きしたから、杉本さんにどうかしてもらうわ﹂ ﹁それはお門違いだろう、あれじゃないか﹂ ﹁痴ばか﹂ ﹁だってそうじゃないか、それで事件が起ったじゃないか、やっぱり男に生れるなら、壮わかい、きれいな俳やく優しゃのような男に生れたいものだな﹂ ﹁痴﹂ ﹁痴は、ないでしょう﹂ ﹁痴、痴、痴よ、そんなことを云うものは、ただ、お杉が知ってると云うから、いっしょに飯を喫くってたじゃないの、それをあの悪党が、二人を伴つれだして、一いっ札さつをかかしたじゃないの、無実の罪よ、貴あな方たは弁護士じゃないの、そんな無実の罪の弁護するのが、職務じゃないの﹂ ﹁だから、すぐ往って、旦那に逢あって、奥さんは、決してそうじゃないと云って、旦那の誤解をといて、今晩伴つれて往くと云うことにして来たじゃないか、りっぱに、弁護士の職務をつくして来たじゃないか﹂ ﹁だめよ、貴方の弁護士は、女を口く説どく弁護士よ﹂ ﹁ところが、僕は女を口説くが拙へたなのだ﹂ ﹁だめよ、そんなことを云ったって、ちゃんと種があがってるから﹂ ﹁それこそ無実の罪だ、こりゃ何た人れかに弁護を頼まなくちゃいけない﹂ ﹁頼んだってだめよ﹂ ﹁こいつは困ったぞ﹂ ﹁困ったっていいよ、他ひとを痴にするのだもの、今日も私の家へ往って、何を云ったかも知れやしないことよ﹂ ﹁こいつは驚いた、奥さまは品行方正だ、そこは私が受けあうからと云って、旦那をなだめたじゃないか﹂ ﹁ちょいと、その品行方正が受けあえて﹂皮肉な笑いを見せて、﹁どう、杉本さん﹂ ﹁受けあえるさ、現に受けあって来たじゃないか﹂ ﹁だから、貴あな方たは狸たぬきよ﹂ ﹁すると、夫人は、狐きつねか﹂ ﹁痴ばか﹂ ﹁痴はもうたくさん、これから飯でも喫くって帰ろうじゃないか﹂ ﹁いやよ、帰らない、帰らないで、今晩は、貴方を引っぱり出して、どこかへ往くから﹂ ﹁うちの夫人に叱られる﹂ ﹁叱られたっていいわ、そんなこと﹂※﹇#ローマ数字21、331-1﹈
お杉の家では狭い茶ちゃ室のまへ小さな釣つり洋ラン燈プを点つけて夕飯を喫くっていた。 ﹁おまえさん、まだ飲むかい﹂ お杉は己じぶんの盃さかずきへ酒を注つぎながら、汚い食ちゃ卓ぶだいの向むこ前うがわにいる長吉の方を見た。眼の不自由な長吉は、空になった盃を前へ出していた。 ﹁もう、一杯注いでくれ﹂ ﹁もう一杯だなんて、おまえさん、もう三杯飲んだじゃないか、そんなに飲んじゃ、体の毒だよ﹂ ﹁なけりゃいいが、あるなら、もうちょっぴりくれ﹂ ﹁二合買ってあるから、ないことはないが、毒だよ﹂ お杉は憎にくしそうに云って己の盃を手にして一口飲んだ。長吉はきまりわるそうにしていた。 ﹁今日は、ばかに佳い気もちだ、ちょっぴりくれ﹂ ﹁毎日あげ膳ぜんすえ膳で、飯を喫わしてもらってて、それで、悪い気もちになられちゃ、かなわないよ﹂ さすがにお鶴はそれを見かねた。お鶴はお杉の右横の長なが火ひば鉢ちの傍で飯を喫っていた。 ﹁お母っかさん、注いでおやりよ﹂ お杉は盃を持ったままでお鶴を見た。 ﹁酒は惜しくないが、また、せんきでも起されちゃ、困るからね﹂ ﹁一杯ぐらい、いいじゃないか、一杯ぐらいで、せんきも起らないだろう﹂ ﹁そうは云われないよ、何い時つかもおこったことがあるのだよ﹂ ﹁だって、まあ、今晩は、いいじゃないか、注ついでおやりよ、そんなことを云うものじゃないよ﹂ ﹁今晩にかぎって、いやに座ざと頭うさんのかたを持つじゃないか﹂嘲あざけるように云って盃さかずきをおき、﹁それじゃ、親孝行のお嬢さんの、お詞ことばどおりにするかね﹂ ﹁ばかにしてるよ﹂ ﹁ばかにするものかね、親孝行のお嬢さんの、お詞どおりにすると、云ってるじゃないか﹂銚ちょ子うしを執とって長吉の盃の近くへやり、﹁お嬢さんのお詞によって、注いであげるから、滴こぼしちゃいけないよ、一滴でもお銭あしだ、それも、みんな、私の汗と脂あぶらが入ってるのだ﹂ ﹁ふんだ﹂ お鶴は不快そうな顔をして飯を喫くいだした。お鶴の向むこ前うがわにいた音蔵は、何い時つの間にか箸はしをやめていたが、お杉が長吉の盃へ酒を注いだのを見ると、ほっとしたように箸を動かした。お杉は飲みさしの酒を飲んだ。 ﹁親孝行のお嬢さんが、白おし粉ろいや香水を買う金がありゃ、たまには活動の一つも見に伴つれてってくれるといいが、親孝行は違ったものだ﹂ お鶴はすましていた。 ﹁何云ってるのだ、家へ入れるものは、ちゃんと入れてあるのだ、白粉を買おうと、香水を買おうと、己じぶんのはたらきで、己がするのだ、へんだ﹂ ﹁そうそう、己のはたらきで、買い喫ぐいもすれば、男狂いもするのだよ、みあげたお嬢さんだ﹂ 長吉は手をあげて二人を押えるようにした。 ﹁これ、これ、お鶴、お杉、そ、そんな、そんなことを云うものでねえ、みっともない、親子が、そんなことを云うものでねえ、みっともない﹂ お鶴はいきりたっていた。お鶴はお杉を睨にらみつけた。 ﹁何云ってやがるのだ、この比ごろこそ、あんまりへんなこともしないが、大酒を喫くらって、お父とっさんをふみつけにして、眼にあまることばかりしてたくせに、わたしが何も知らないと思って、ふざけたことをお云いでないよ﹂ 長吉はまた手を揮ふった。 ﹁お鶴、まあ、これ、みっともない、そ、そんなことを云うものでねえ、みっともない、他へ聞えるのだ﹂ ﹁聞えたっていいわよ﹂ ﹁いいことはねえ、他ひとに笑われる、そんなことを云うものでねえ、だいち、親子が喧嘩するなんて、みっともないことじゃ、やめろ﹂ ﹁やめないわ、わたし、あんなことを云われて、親だって何だって、承知しないから﹂ ﹁そりゃ、いけねえ、みっともない、いけねえぞ﹂ お鶴は何と思ったかふいと起たった。 ﹁こんな家なんかに、何だ人れがいるものか﹂ 長吉はもてあました。 ﹁お鶴、お鶴、そんなことを云うものでねえ、これ、お鶴﹂ ﹁いやだよ、こんな家に何人がいるものか﹂ お杉は平気な顔をして酒を喫のんでいた。 ﹁へッ、お嬢さんの御立腹か、いやならどこへなりといらっしゃいませだ﹂ お鶴はもう歩いていた。 ﹁往ってやるとも、こんな家に、何人がいるもんか﹂ 長吉はお鶴を追っかけるように体を浮かしたが、さすがに起たっては往けなかった。 ﹁これ、お鶴、お鶴﹂※﹇#ローマ数字22、334-11﹈
お鶴はもう次の室へやへ姿を消して往った。お杉は酒を注ついでいた。 ﹁おまえさん、いいよ、出て往きたけりゃ、出て往かすがいいよ、好きな男の傍へでも往くだろうよ﹂ ﹁そ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うから喧嘩になるのだ、お鶴を呼びなよ﹂ ﹁いやだよ、わたしは﹂ その時がたびしと入口の障子を締めて出て往く下駄の音がした。 ﹁困ったものだ﹂ 長吉はほんとに困ったような顔をした。 ﹁うっちゃっておきよ、あんな奴は、くせになるよ﹂ ﹁そうはいけねえ、娘の子だから、どんな不ふり了ょう見けんを起すかも判らねえ﹂ ﹁元から不了見だよ、あれは﹂ ﹁そんなに云うものでねえ、親子じゃねえか、親は子を可愛がり、子は親を大事にしなくちゃならねえ﹂ ﹁あれが、親を大事にしたことがあるの﹂ ﹁大事にするじゃねえか﹂ ﹁おまえさん、ばかだよ、あれで、大事にしてくれると思ってるの﹂ その時入口の障子が開あいて人の声がした。それは壮わかい男の声であった。音蔵はもう箸はしも何もおいていた。 ﹁何だ人れか来たよ﹂ お杉もそれを聞いていた。 ﹁お客さんがあっても、取次に出るような者は、一人もいねえのだ、何と云う因果なことだ﹂ さすがに声はちいさかった。お杉はさも癪しゃくにさわると云うようにして起たって往った。そこは土ど室まに臨んで三畳の畳を敷き、音蔵が手内職の袋ふく張ろはりの台を一方の隅へ置いてあった。土ど室まの暗い処に三十前後の店員らしい男の眼が光っていた。 ﹁今晩は﹂ ﹁何方さまでございましょう﹂ ﹁わっしは、山田から来たのだが﹂ お杉は内心恐れていた山田の使つかいに来られてぎくとした。お杉はべったり坐った。 ﹁や、やまだ﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁何か御用で﹂ ﹁あの、旦那からだが、理わ由けは覚えがあるだろうから何も云わないが、今日かぎり、出でい入りをしないようにって、そう云いつかって来たのだが﹂ お杉は何も云えなかった。 ﹁わっしは、何も知らないが、それだけ云えば、判ると云うのだから、それを云いに来たのだ﹂ ﹁そう、ですか﹂ ﹁判ってるかね﹂ ﹁判りました﹂ ﹁それじゃ、これで﹂ ﹁まあ、いいじゃありませんか﹂ ﹁まだ一軒まわる処がある、それじゃ﹂ 壮わかい男はそのまま出て往った。お杉は暫しばらくそこに坐っていた。長吉が茶ちゃ室のまから呼んだ。 ﹁おい、お杉﹂ お杉は返事をしなかった。 ﹁おい、お杉﹂ お杉はふいと起たって茶室へ引返した。長吉は待っていた。 ﹁山田さんのお使らしいが、なんだね﹂ お杉は黙って坐り、盃さかずきを持って飲みさしの酒をぐっと飲んだ。 ﹁何の御用だね﹂ ﹁やかましいや﹂ 長吉はびっくりしたように潰つぶれている眼の瞼まぶたをびくびくとさした。 ﹁どうしたのだ、何をそんなに腹をたてるのだ﹂ ﹁煩うるさいよ﹂ 長吉はちょっと黙った。お杉は銚ちょ子うしの酒を注ついだ。 ﹁何云ってやがるのだ、おまえさんなんかの口を出すことじゃないよ﹂ 長吉は首をかしげた。 ﹁どう、どうしたと云うのだ、怒鳴らないで云ってみな、何か山田さんから云って来たのか﹂ お杉は注いだ酒をあおった。 ﹁やかましい、どう盲人のくせに引込んどりよ﹂ ﹁引込んでてもいいが、心配になるから聞いてるのだよ、どうしたのだ﹂ ﹁聞きたけりゃ、云ってやるよ。今日かぎり、山田さんへ出でい入りをしないことになったのだよ﹂ ﹁でいり、出入ができないのか﹂驚いて、﹁どうしたと云うのだ﹂ ﹁この間、奥さんのお伴をして、池いけ上がみへ往ってて、破ごろ戸つ漢きに因いん縁ねんをつけられたのだが、それを何かかんちがいしたものだろう、出入をさせなけりゃ、させてもらわなくてもいいや、何だ人れがあんな処へ往ってやるものか﹂ 長吉はおどおどした。 ﹁お、おい、そ、そりゃ、いけねえ、いけねえぞ、今まで御恩になった処じゃねえか、かんちがいをされたことがありゃ、りっぱに明あかしをたてなくちゃ、いけねえ、そんなことを云うものでねえぞ﹂ ﹁やかましい﹂ お杉は手にしていた盃さかずきを投げつけた。盃は長吉の額ひたいに当って食ちゃ卓ぶだいの上にある漬物の皿の中へ落ちた。音蔵は手を出してその盃を遮さえぎろうとしたがおそかった。 ﹁叔母さん、そ、それは﹂ お杉は憎にくしそうに音蔵を見た。 ﹁何云ってやがるのだ、このばった﹂ 音蔵の顔は真まっ蒼さおになった。 ﹁お、叔母さん、叔母さん、それは﹂ ﹁やかましい、黙ってろ、不か具た者わのくせに、引込んでろ﹂ 長吉は体を顫ふるわした。 ﹁何と云うあくたれだ、てめえは、気がちがったか、なんと云うことだ﹂ お杉はやけくそであった。 ﹁やかましい、どう盲人と、足のちぎれたばった野郎、よくもよくも、一ひと処ところへ集まったものだ﹂銚子で食ちゃ卓ぶだいの上を叩いて、﹁こんな不か具た者わばかりの処で、酒なんか飲めるものでない﹂とついと起たって、﹁どこかへ往って、飲みなおす﹂ お杉はどんどん歩いて往ったが、やがて障子を啓あけて外へ出て往く気配がした。音蔵は歯をくいしばって考えこんでいた。 ﹁おと﹂ 音蔵の耳には入らなかった。 ﹁おと﹂ 荒い南風の吹く中を広巳は歩いていた。その広巳の瞳には、人や車が影絵のように映り、建物が歪ゆがんで映り、時とすると灰あ汁くのような色をして飛んでいる空の雲が鳥の翅つばさのように映り、風のために裏葉をかえしている嫩わか葉ばが銀細工の木の葉となって映った。 ︵へんだなあ、今日は︶ それは午ひるすぎであった。広巳は足にまかして歩いた。 ︵どうしたと云うのだ︶ 広巳はどこへ往っているとも、またどこを歩いていると云うことも判らなかった。 ︵俺は、どうかしてるぞ︶ 何な故ぜ、こんなことになったのだと考えた広巳の頭に、醜い嫂あによめの姿が浮んだ。 ︵彼奴のせいだ、あの畜ちく生しょうのせいだ、彼奴がいなかったら、俺はこんなことになりはしないぞ、あの畜生のせいだ︶ あの畜生さえいなかったら山田家は朗ほがらかで、鮫さめ洲ずだ大いじ尽んとして人にも尊敬せられて往くのであるが、あの畜生のいるばかりにこんなことになった。 ︵それと云うのも、兄貴がお人好しだからだ︶ 兄貴がお人好しで蛇を拝んだり、白しろ蟻ありの糞を拝んだりしているからだ。兄貴の眼を覚さますには、あの蛇からどうかしなくちゃならない。 ︵あの蛇と白蟻の糞をどうかして、兄貴の眼が覚めたら、兄貴も何い時つまでも女房の尻にしかれてはいないのだ、女房に踏みつけられて、それで他ひとから金をとられるなんて、こんなばかばかしいことがあるものじゃない︶ 広巳の口元にはその時微笑が浮んだ。広巳は二人の悪党にせめてもの復讐したことを考えだしているのであった。 ︵それにしても、撲なぐりつけたものが、己じぶんだと知れると、また何か云って来やしないか︶ 云って来たところで正義はこっちにある。 ﹁何、戦いくさに往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ︶﹇#﹁﹁何、戦いくさに往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ︶﹂はママ﹈ 広巳の眼に己じぶんの入ろうとしている門が映った。広巳は驚いて足をとめた。それは己の家の母おも屋やの門であった。 ︵おや、俺はどこからか帰って来たのか︶ 広巳は門の中へ入った。表庭との境いになった板塀の耳くぐ門りが半ば啓あいていた。広巳はその方へふらふらと往った。 庭の樹木も風に掻かきまわされていた。広巳は兄の姿が見えないのかと思ってちょっと眼をやった。風を入れないためか室へやの障子は皆締めてあった。 ︵締めてあるな︶ 広巳はふと何かの気配を感じた。広巳の眼は白しら沙すなを敷いた地べたへ往った。そこにあの蛇が蠢うごめいていた。 ︵出てやがるな、糞蛇︶ 広巳は忽たちまち蛇に憤りを感じた。広巳はそっと四あた辺りへ眼をやった。※﹇#ローマ数字23、341-14﹈
客座敷の方で不意に人声がした。
﹁どうだね、御主人、返事をしてもらおうか﹂
それは愛あい嬌きょうのない詞ことばであった。広巳はそれに耳をやった。次の室へやの障子が音もなくすうと啓ひらいた。広巳は何だ人れだろうと思って眼をやった。定七の顔とともに定七の一方の手が出てこっちを招いた。広巳は頷うなずいておいて跫あし音おとをさせないようにして縁側をあがり、障子の引手に体を当てないように用心しながら入った。定七は広巳の入るのを待っていた。定七は急いで口を持って来た。
﹁また、来たのですよ﹂
広巳は囁ささやきかえした。
﹁何だ人れだ﹂
﹁やっぱり破ごろ戸つ漢きですよ﹂
﹁そうか﹂
その時客座敷で声がしはじめた。
﹁もう、いいだろう、鮫さめ洲ずだ大いじ尽んと云えば、何人知らぬ者もない家の主人だ、何い時つまでもぐずぐずしていられては困る、それとも返事を延ばしておいて、警察へでも云ってやるつもりかね﹂
それは嘲あざけりを帯びた声であった。
﹁そんなことはない﹂
﹁それじゃ、警察へは云ってやらんのか、しかし、云ってやろと思えば、云ってやってもいいよ、ほんとを云や、吾輩も悪いのだ、罪悪を犯しておいて、それに未練があって、細君をもらいに来ているのだから、君に怒られて、まかりまちがえば、警察へ突き出されて、赤い衣きも服のを被きせられるかも知れんと思って、それを覚悟で来ているのだ﹂
広栄の返事はなかった。広巳の眼には怒いかりが湧いた。広巳は定七の耳へ口を持って往った。
﹁関係があるから、渡せと云って来ているのか﹂
﹁そうですよ﹂
﹁けしからんぞ﹂
﹁云いがかりですよ﹂
﹁いや、ほんとかも判らん、あれは、そんなことをする畜生だ﹂
広巳の声が大きくなりかけたので、定七はあわてて掌てのひらをその口へ持って往った。
﹁聞えますよ﹂
﹁聞えたっていいや﹂
﹁ま、若旦那﹂
客座敷の声がまた聞えて来た。
﹁おい、何い時つまで黙ってるのだ、しびれがきれるぜ、御主人、鮫さめ洲ずの大だい尽じん君、女をくれるか、厭いやか、返事をしてくれないのか﹂
﹁返事もしますが、家の家内が、何い日つ、どこで、そんなことをしたでしょうか﹂
﹁日か、五六日前だ、入用がありゃ云ってやる﹂
﹁五六日前﹂
﹁そうだ﹂
﹁それはどこでしょうか﹂
﹁大福帳へでも書きつけるつもりかね﹂
広栄は返事をしなかった。
﹁書きつけたけりゃ、はっきり云ってやるが、場所は、池上の魁かい春しゅ楼んろうだよ﹂
﹁池上の魁春楼﹂
﹁そうだよ、その日、君の細君は、婆さんを伴つれて、壮わかい馬の脚をくわえこんでいるところを、壮い奴にひどい目に逢あわされて、困ってたから、吾輩が慰めに往ってやって、すまないがそれからだよ﹂
﹁そうか﹂
﹁判ったかね﹂
広栄は何も云わなかった。広巳は狂きち人がいのように室へやを飛びだした。飛びだすひょうしに体が障子に衝ぶつかって大きな音をたてた。定七は驚いて広巳をつかまえようとしたが及ばなかった。広巳はそのまま庭へ飛びおりて庭の上へつらつらと眼をやった。楓かえでの老木の近くにある高こう野やま槇きの根方に、あの蛇がいて鎌首をもったてながら針のような赤い舌を出していた。
﹁くそ﹂
広巳の眼は脱くつ沓ぬぎの方へ往った。そこに庭下駄が一足揃えて置いてあった。広巳はそれを見ると脱沓の方へ往って、その下駄の片方を執とるなり、蛇の処へ走って往っていきなり撲なぐりつけた。
﹁あ﹂
それは定七の叫びであった。広巳は定七の声を聞くと一層力を得たように続けて蛇を撲った。蛇は紐ひもを解いたようにそのままぐったりとなってしまった。
﹁くそ﹂
広巳は手にしていた下駄を投げ棄てるなり、その蛇の胴体をむずと掴つかんで客座敷の縁側の方へ走って往った。
﹁あれ、あ、若旦那﹂
定七ははらはらしていた。広巳の耳にはもう定七の声などは入らなかった。広巳は縁側へ駈けあがるなり、客座敷の障子をがらりと開けた。
室へやの中ではあの岡本と広栄がさしむかっていたが、魔鳥のように駈けこんで来た広巳に驚かされてきょときょとした。広巳は岡本をめがけて手にした蛇を投げつけた。
﹁これでも啖くらえ﹂
蛇は岡本の顔へ当って畳の上へ落ちた。岡本の手は羽はお織りの紐ひもにかかった。
﹁乱暴するか﹂
﹁この破ごろ戸つ漢き、ふざけやがるな、ここをどこだと思ってるのだ﹂
岡本は広巳を睨にらみつけた。
﹁へん、ここをどこだ﹂声をおとして、﹁ここは鮫さめ洲ずのお大だい尽じんのお邸やしきさ、お邸と知って、奥さまをもらいに来てるのだが、汝てめえはなんだ﹂
﹁乃おい公らか、乃公はこの家の者だが、汝てめえこそなんだ、ふざけたことをしやがると、その蛇のように敲たたき殺すぞ﹂
広栄ははらはらとするばかりでどうすることもできなかった。定七が縁側から顔を出した。
﹁もし、もし、どうか、もし﹂
広巳は火のように怒っていた。
﹁やかましい、黙れ、乃おい公らがこの破ごろ戸つ漢きを敲たたき殺すんだ﹂岡本を睨みつけて、﹁野郎、出て往きやがれ、ぐずぐずすると敲き殺すぞ﹂
広巳は傍の唐から金かねの火鉢に眼をつけた。広巳はいきなりそれに手をかけた。広栄がその手にすがりついた。
﹁広巳、そ、そんなことをしては、広巳﹂
﹁いけねえ﹂
岡本は羽織をぱっと後に放はねた。放ねると同時に背の方にまわして持っていた日本刀を執とった。
﹁乱暴するか﹂
﹁なにを﹂
広巳は火鉢を持ちあげようとしたが、広栄が死力を出してしがみついているのであがらなかった。
﹁汝てめえは、泪なみ橋だばしの下で、壮わかい奴をひどい目に逢あわした奴だな﹂
﹁やかましいや、この破戸漢﹂
﹁破戸漢であろうと、なんであろうと、そんなことに用はない、ここな奥さんをもらって往けば、それでいい、痴ばかなことをしないで、旦那にそう云って、奥さんを俺にくれるようにしてくれ﹂
﹁あんな腐った女あまは欲しくはないが、汝てめえなんかに渡すものか、渡すようなら、首にして渡さあ﹂
﹁こりゃ面白い、首にして渡してくれるか、受けとろう、俺も、男の意地だ、こうなりゃ、首でも体でも、渡してもらわなくちゃ帰らない﹂
﹁なに﹂
広巳は火鉢をすてて床とこの方へ走った。床には刀かた架なかけがあって、広巳が記念の軍刀と日本刀が架けてあった。広巳は日本刀を引ひっ掴つかんで執とり、すらりと脱ぬきながら岡本の方を揮ふり向いた。
﹁女の首を渡す前に、まず汝てめえの首を渡せ﹂
岡本は刀の柄つかに手をかけた。
﹁なにを﹂
定七が室へやの中へ飛びこんで来た。
﹁いけない、いけない、若旦那、そ、そんなことをしては、いけない、若旦那﹂
﹁なに、今日は、この家の邪魔をする妖まも魔のを斬っちまうのだ﹂
﹁いけない、若旦那、あなたは﹂
定七は広巳のけんまくが荒いので傍へ寄ることができなかった。広巳は岡本の前へ出た。
﹁野郎﹂
岡本は同時に刀を脱いたが、広巳のけんまくに気をのまれて腰が浮いた。同時に広巳の刀が頭の上に閃ひらめいた。岡本は逃げ走った。
﹁逃がすものかい﹂
広巳は悪あっ鬼きのようになって追っかけた。定七も広栄もどうすることもできなかった。
﹁たいへんだ、たいへんだ、何だ人れか来てくれ﹂
﹁広巳、広巳、そ、そんな﹂
﹁あれ、あれ﹂
﹁何だ人れか来てくれ﹂
岡本は玄関の方へ逃げる隙ひまがないので、奥との境になった襖ふすまを突き倒すように啓あけて逃げた。
﹁くそ﹂
広巳も夢中であった。奥の室へ入った岡本は、今度は縁側の障子をこれも突き倒すように啓けて裏庭へ出た。裏庭には柿や梨の木が植わっていた。風はますます吹きつのって、その柿や梨の木を掻かきまぜていた。
﹁くそ、逃がすか﹂
広巳を追って出た定七は、そこでも大声かけた。
﹁たいへんだ、たいへんだ、何だ人れか早く来てくれ﹂
それと知って二人の婢じょちゅうも裏庭へ顔を出した。
﹁あれ、あれ、たいへん、たいへん﹂
﹁あれ、あれ﹂
岡本は果樹の間から出て土蔵の方へ走った。広巳はどこまでも追って往った。定七や婢が後から来て叫んだ。
その時右の端はしの土蔵の口が内から啓ひらいて、お高と小こぞ厮うの平吉がひょこりと出て来た。広巳の体はお高の前にあった。夢中になっている広巳の眼にもすぐお高の姿が映った。広巳はお高に走りかかった。
﹁この妖まも魔の﹂
広巳の刀はきらりと閃ひらめいた。
﹁わっ﹂
お高は一声叫んだなりに倒れてしまった。広巳は倒れたお高の上にまた刀を揮ふるった。
﹁よくもよくも、家に泥をぬりやがったな﹂
広巳は肩で呼い吸きをした。広巳の刀には血が赤く笑っていた。広巳はその刀を揮ふりまわしながら岡本を尋ねて走った。
﹁くそ﹂
広巳は定七に伴つれられて家を出た。広巳も定七も黒の紋もん附つき羽はお織りを被き、袴はかまを穿はいて、何か儀式へでも臨む日のような姿をしていた。広巳が品川の警察へ自首して往くところであった。
風はますます強く雲も濃くなって、今にも雨が添いはしないかと思われるような天候になった。帽子を冠かぶっている広巳は、その風のために時どき帽子を持って往かれそうになった。羽織の袖そでは靡なびき、袴の裾すそはまくれあがった。
広巳は蒼あお白じろい沈痛な顔をして黙々と歩いていた。定七は広巳の後を歩いていた。定七は広巳から眼をはなさなかった。二人は八幡祠の前を往っていた。
﹁おや、若旦那だ、ちょうどよかった、若旦那﹂
はすっぱな女の声がどこからか飛んで来た。広巳は重くるしい眼をやった。お鶴と品のある中年の
な女がいた。お鶴は平いつ生もの調子であった。
﹁若旦那、どこへいらっしゃるのです﹂
広巳はお鶴の顔を見るばかりであった。
﹁若旦那、どうかなさったのですか、今日は奥さまのお伴をして、あなたにお眼にかかりに往くところよ﹂
定七は困ったが、お鶴といっしょにいる地みぶ位んのありそうな女に気がねして何も云わなかった。広巳はやっぱり何も云わなかった。
﹁どうしたの、若旦那、私がこの間話した奥さまじゃありませんか﹂
広巳の眼はお鶴の傍にいる女へ往った。女はしとやかにおじぎをした。
﹁山田さま、暫しばらくでございました、もう十五六年にもなりますから、お忘れになってらっしゃると思いますが、私は森山節でございます﹂
精神の混こん沌とんとしている広巳にはものを考える力がなかった。広巳は痴ばかのように女の顔を見た。お鶴がそれをもどかしがった。
﹁若旦那、思い出せないですか、何い時つも若旦那と遊んでいらした方ですよ、忘れたのですか、ここの八幡さまの中で、若旦那が諍けん闘かしてた時に、留とめてくだされた方ですよ﹂
広巳の混沌としている気もちを揺りうごかすものがあった。広巳は女を見なおした。
﹁あ﹂
それは広巳の尋ねている海晏寺の前の榎えのきの下で見た女であった。女は心もち顔をあからめていた。
﹁月の晩に、海晏寺の前でお眼にかかりました﹂
﹁ああ﹂
しかし、幼な朋とも友だちとしての女は思い出せなかった。女は定七の方へ顔をやった。
﹁小お父じさん、海の苔りをつけていた新吉を御存じでしょうか﹂
定七はすぐ記憶を呼びおこした。
﹁そうだ、新吉の、それじゃ汝おまえさんは、せつぼうだ﹂
女は莞にっとした。
﹁その節でございます、暫しばらくでございました﹂
﹁どうも暫くだ、暫くだから、ゆっくり話もしたいが、今日はとりこみがあって、ゆっくりしていられない、明日でも、また﹂
﹁これは、どうも失礼いたしました、それでは、また、明日にでもあがります﹂
女はそう云ううちにも広巳の気配に注意していた。女は広巳をしっかりと見た。
﹁山田さま、それでは、また、明日でもお邪魔さしていただきます、それでは﹂
女はおじぎをしてお鶴を伴つれて往ってしまった。定七は気をせいていた。
﹁それでは、若旦那、まいりましょう﹂
﹁うん﹂
二人は歩きだした。そして、海晏寺の前を通りすぎたところで、どこからか竹杖にすがった壮わかい男が、とんとん飛び歩きをしながら豪えらい勢いきおいで出て来た。それは長吉の甥おいの音蔵であった。音蔵の両手は血に染まっていた。音蔵の後から音蔵を追っかけるようにして四五人の者が来ていた。音蔵は揮ふりかえった。
﹁乃おい公らは、警察へ往くのだ、邪魔しやがると、ついでにやっつけるぞ﹂
夜になって雨が降りだして珍らしい暴あ風ら雨しになったが、その暴風雨の中で山田家のあの中まん央なかの蟻ありの塔のある土蔵が潰つぶれた。
![※(「女+朱」、第3水準1-15-80)](../../../gaiji/1-15/1-15-80.png)