真ます澄みはその晩も台所へ往って、酒さか宴もりの後しまつをしている婢じょちゅうから、二本の残のこ酒りざけと一皿の肴さかなをもらって来て飲んでいた。事務に不熱心と云うことで一年余り勤めていた会社をしくじり、母の妹の縁づいている家で世話になって勤め口を捜しているが、折悪しく戦後の不景気に出くわしたので口が見つからないけれども、生れつきの暢のん気きな彼は、台所の酒を盗み出したり残酒をもらったりして、それを唯一の楽しみにしてなんの不平もなしにその日を送っていた。 真澄はもう一本の銚ちょ子うしを皆み無なにしてしまって二本目の銚子を飲んでいたが、なるたけ長く楽しみたいので、一度注ついだ盃さかずきは五口にも六口にもそれを甞なめるようにして飲んだ。そして、思い出したように銚子を持ちあげて見てその重みを量はかっていた。 それは秋のはじめでもう十二時近かった。叔お母ばの跫あし音おとだけには何い時つも注意を置いていたが、その叔母ももうとうに寝ていることが判っているので、ほとんど持ち前の暢のん気きをさらけ出して眼をつむってとりとめのないことを考えてみたり、時とするとすこし開けてある中ちゅ敷うじきの障しょ子うじの間から外の方を見たりした。外にはうす月が射さして灰色の明るみがあった。そこには二三本の小松がひょろひょろと立っており、その根元にはそこここに萩はぎの繁りが見えて虫の声がいちめんに聞えていた。 真澄は盃さかずきを持ったなりにまたおもい出したように、斜ななめに見えている母おも屋やの二階の簷のきに眼をやった。そこには叔母の好みで夏から点つけている岐ぎふ阜ちょ提うち燈んの燈ひがあった。何時も寝る時には消すことになっている提燈の燈が、その晩に限って点いているので彼は不思議に思った。火の始末のやかましい叔母も客の疲れで寝たものであろうか、そうだとすると己じぶんが往って消して来なくてはならないと思ったが、座を起たつのがおっくうであるから、そのうちには蝋ろう燭そくがなくなって消えるだろう、消えてしまえばべつに危険なこともないから、飲みながら消えるのを待とうとずるいことを考えながらまたそのほうへ眼をやった。と、その提燈は何た人れかつるしてある釘から除とったように、燈の点いたなりにふわふわと下へ落ちて来た。真澄はしまったと思って盃を置いた。 提燈はそのまま屋根の上へ落ちたが足でもあって歩くように、屋根瓦の上をつるつると滑ってそして下へ落ちた。真澄は不思議に思って提燈を見つめた。その時提燈の燈はちらちらと数また瞬たきするように消えてしまったが、それといっしょに一疋ぴきの白い犬の姿がそこに見えた。真澄は眼をひかずにそれを見た。 白い犬の姿はゆっくりと背せ延のびをするように体をのびのびとさしたが、やがて歩きだして中敷の前を掠かすめて裏門の方へ往った。真澄は彼あい奴つおかしな奴だなひとつ見とどけてやれと思った。彼は起たちあがって中ちゅ敷うじきの障子を体の出られるぐらいに開け、そこからそっと庭へおりて、裸はだ足しのままで冷びえした赭あか土つちを踏んで往った。 白い犬は裏門の傍にその姿を見せていた。真澄は怪しい犬に悟られまいと思って、跫あし音おとのしないように足を爪つまだてて歩いた。そして小松のある処ではその下の方を歩いた。そこは阪急線の別荘地に新築した住宅で、裏門の外は、庭の小松といっしょの小松の生えたまだ自然のままの丘であった。その丘と庭の境には丸まる竹たけの透すかし垣がきをして、それに三みす条じのとげを拵こしらえた針金を引いてあった。 犬の姿はすぐ見えなくなった。真澄はコールターで塗った裏門の扉をそっと開けて、前むこ方うを透すかして見た後のちに裏門を出て歩いた。 小松林の中には芒すすきの繁りや萩はぎの繁りがあった。芒の軟やわらかな穂が女の子の手のように見える処があった。白い犬はその芒の中に姿を消すことがあった。 すぐなだらかになった丘の上が来た。そこに横穴の古墳の崩れのような大きな石が土の中から覗のぞいている処があった。石の周囲には芒や荊いば棘らが繁っていた。白い犬はその石の傍へまで往くと見えなくなった。真澄は立ち止った。 十六七に見える小柄の女の姿がふと見えた。微うす黄ぎいろな衣きも服のを着て紅べにをつけたような赤い唇まではっきり見える。 真澄は眼をってそれを見つめた。と、女の姿は消えてしまった。
真澄は盃さかずきを持っている己じぶんの姿に気が注ついた。気が注くとともに今のは夢であったのかと思った。夢にしては余りに記憶がはっきりしている。提燈の落ちたこと白い犬になったこと中ちゅ敷うじきから裸足でおりたこと、裏門を開けたこと丘の上の石のことそれから壮わかい女のこと、皆順序だって思い出されるが、ただ丘の上から室へやの中へ帰って来た記憶がない。暢のん気きな彼はもうすぐ夢にしてしまって、酒の方へ心を移してまたちびちびとやりだしたが、やがて点しず滴くもなくなったので蒲ふと団んを引き出して寝てしまった。 ﹁もし、もし﹂ 枕まく頭らもとで己を起しているような女の声がするので、真澄は何か用事が出来て婢じょちゅうが起しに来たのではないかと思って眼を開けてみた。それは丘の上で見つけた壮い女であった。真澄はそれが別に不思議でもなかった。 ﹁君はさっきの岐阜提燈だね﹂ 女は笑って聞いていた。 ﹁ぜんたい、君はなんだね﹂ ﹁べつになんでもありませんよ、あなたのような独ひと身りも者のですよ﹂ ﹁同じ独身者にしても、君の方はいろいろの芸を持ってるが、僕の方は、酒を飲むより他に芸はないのだ﹂ ﹁あなたは、お酒がすきなの﹂ ﹁好きだけれども、台所の残り酒しか飲まれないのだ﹂ ﹁あなたは、暢のん気きね﹂ ﹁暢気じゃないが、しかたがないよ﹂ ﹁暢気が好いのですよ、私好きよ、まだお酒が飲みたいのですか﹂ ﹁飲みたいね﹂ ﹁じゃ、おあがりなさいよ、あなたにあげようと思って持って来たのですから﹂ ﹁そうか、そいつはありがたいな﹂ 真澄が起きあがってみると女の傍には膳ぜんがあって、その上に一本の四合ごう罎びんと三皿の肴さかなが置いてあった。 ﹁さあ、おあがりなさいよ、私がお酌しゃくをしてあげましょう﹂ 女は四合罎の口を抜いて真澄の持った盃さかずきに注ついだ。 ﹁あなたは、ぜんたい何だ人れですか﹂ ﹁何人でもありませんよ、そんなことは好いから、おあがりなさいよ﹂ ﹁それじゃ聞くまい、聞いたところで、食いそ客うろうではなんにもならないから﹂ ﹁そうですよ、聞いたってなんにもなりませんから、聞かずにいらっしゃい、私が時どきお酒を持って来てあげますから﹂ ﹁そいつはありがたい﹂ 真澄はそれから女を対あい手てにして飲んでいたが、何い時つの間にか睡ねむってしまって、朝早く眼を覚ましてみると、いっしょに寝たはずの女もいなければ、正まさ宗むねの罎びんも膳ぜんもなにもなかった。ただ台所から貰って来た二本の銚子と皿だけが机の上に乗っていた。暢のん気きな真澄は昨ゆう夜べは変な夢ばかり見たものだと思った。 その夜は客がなかったので酒にありつけなかった。真澄は台所をうろうろして隙があったら樽たるの口をひねろうと思って隙を見ていたが、婢じょちゅうと叔母の眼が始終あったのでしかたなしに諦あきらめて寝たが、睡っているとまた肩を揺ゆすって起す者がある。 ﹁お起きなさいよ、お起きなさいよ﹂ 真澄が眼を開けてみると昨ゆう夜べの女が来て坐っていた。 ﹁今晩もお酒を持って来ましたよ﹂ ﹁酒、そいつはありがたいな﹂ 真澄は起きて枕まく頭らもとに坐った。やはり昨ゆう夜べのような膳へ四合罎と三皿ぐらいの肴さかなを添えてあった。 ﹁おあがりなさいよ、お酌いたしましょう﹂ 真澄は女に酌をして貰ってその酒を飲んでいい気もちになって寝たが、朝になってみると女もいなければ膳も正宗の罎もなかった。真澄はまた夢を見たものだと思った。 女はその晩もまたやって来て真澄に酒を飲ましたが、朝になって見ると同じように女も酒の器うつわもなかった。しかし、真澄はもう夢とは思わなかった。夢とは思わないが不思議に女の素すじ性ょうとか、きちんと締めてある戸とじ締まりをどうして開けて来るだろうかと云うような現実的な疑問はおこらなかった。 女は毎晩のように来た。真澄はもう宵に酒を飲む必要がなくなった。半月ばかりしたところである日叔母の室へやへ呼ばれた。 ﹁真澄さん、あんたは、近ちか比ごろ体でも悪くはないかね﹂ ﹁べつに悪くはありません﹂ ﹁でも、あんたは、この比ごろ、夜が来ると、独ひと言りごとを云ってるそうじゃないか﹂ ﹁そんなことはありませんよ﹂ ﹁でも叔お父じさんが昨ゆう夜べ遅く便はば所かりへ往ったついでに、あんたの室の前まで往って覗のぞいてみると、あんたは蒲ふと団んの上へ坐って、何か云ってたと云うじゃないかね、どこか悪いでしょう、おかしいじゃないかね﹂ 真澄は女のことが知れたのではないかと思った。叔母も叔父も知っていて、己じぶんの気を引くためにこんなことを云ってるのだから、なまじっか隠しだてをしないが好いと思った。 ﹁叔母さん、隠したってだめらしいから云いますが、この比、毎晩僕の処へ女がやって来るのですよ﹂ 叔母は不思議そうな顔をして真澄の顔を見つめた。 ﹁真澄さんは、すこし変だね、あんたが寝床の上に起きあがって、独言を云ってるのは、私がさきに見つけて、叔父さんに云ったのですよ、あんたは、すこし体が悪いよ、明あ日すあたり大阪へ往って医者に見て貰ったら、どう﹂ 真澄は叔母が女のことに一いち瞥べつをくれずに己を病人扱いにしているのが癪しゃくであった。 ﹁病気じゃありませんよ、女が毎晩ごちそうを持って来てくれるから、話しているのですよ﹂ ﹁あんたなんかの処へ、何た人れが酔すい狂きょうにごちそうまで持って来るものかね、ほんとにあんたは、どうかしてるよ﹂ ﹁叔母さんこそ、どうかしてるのですよ、嘘と思や、今晩十二時比ごろに来てごらんなさい、きっと来てますから﹂ ﹁往かなくったって好いよ、あんたは独ひと言りごとを云ってるから、それがほんとなら、今晩来た時に、その方かたから証拠になるものを貰っておきなさいよ﹂ ﹁櫛くしか、指環か、なんか貰っておきますよ﹂ ﹁でもおかしいのだね、ほんとにあんたは病気じゃない﹂ ﹁病気じゃありませんよ、大丈夫ですよ﹂ その晩女が来て酒を飲みはじめたところで、真澄は叔母と約束したことを思い出して、銚子を持っている女の指に眼をやった。白い小さな指にはめた指環の青い玉が光っていた。 ﹁その指環を、僕に貸してくれないかね﹂ 女はちょっと指に眼をやって後のちに真澄の顔を見た。 ﹁指環、私の指環﹂ ﹁ああ、その指環だ、一晩貸して貰えば好い、明あ日すの晩には返すよ﹂ ﹁指環をどうするの﹂ ﹁叔母が、君と毎晩こうして話しているのを聞いて、病気で独言を云ってると、怪けしからんことを云うから、君のことを打ち開けたが、それでもほんとうにしないから、証拠に、君から櫛くしか指環かを借りて、それを見せてやると云ってあるのだ﹂ ﹁そんな、つまらんことは好いじゃありませんか、ほんとうにしなけりゃしない方が、今のうちはかえって好いじゃありませんか﹂ ﹁叔母が失敬なことを云うから、見せてやろうと思うのだ、一晩貸して貰おう、好いだろう、一晩ぐらい、売って酒を飲むようなことはないよ﹂ 真澄は笑いながら盃さかずきを口へ持って往った。 ﹁では、明あ日すの晩まで待って頂ちょ戴うだい、明日の晩、好い方のを持って来ますから、これは駄目ですから﹂ ﹁明日の晩じゃいけない、今晩でないと、叔母がばかにするから、好いだろう、証拠になりゃなんでも好い﹂ 女は銚子を置いて左の指で指環の玉をいじりながら困った顔をした。真澄はつと手を出して女の右の手を掴つかんで己じぶんの方へ引き寄せた。 ﹁好いじゃないか、何た人れかに叱られるのかね﹂ 女は体をずらしてぴったりと真澄に寄り添うた。 ﹁そんなことはないのですけど、これは、すこし理わけがあって、ちょっとでも抜かれないのですもの﹂ ﹁お願がんでもしているのか﹂ ﹁そんなことはありませんよ﹂ ﹁じゃ、好いだろう、貸しておくれよ﹂ 真澄は好奇心も手伝って右の指を女の指環にかけてとっさにそれを抜こうとした。 ﹁厭いやよ、厭よ、許して頂戴よ﹂ 女は抜かせまいとして手を引こうとした。真澄はやめなかった。 ﹁厭よ、厭ですよ、あなたは、何い時つものようじゃないのですわ、あれ、厭ですよ﹂ 指環は抜けかけた。真澄は小声で笑いながら一思いに抜こうとした。 ﹁厭﹂ 女は叫ぶように云って真澄を突つき除のけて起たちあがるなり、ひらひらと中ちゅ敷うじきの方へ走って往ったがそのまま姿が見えなくなった。真澄の開けた覚えのない中敷の戸が二尺ぐらい開あいているのが見えた。
女はその晩限り来なくなった。そのうちに正月が来て三日となった。真澄は上かみ福ふく島しまにいる友人の家へ年賀に往って非常に酔い、夜の十時比ごろ阪急線の電車に乗ってやっと花はな屋やし敷きまで帰って来た。
そこでは真澄の他に四五人の者がおりた。真澄はその人といっしょにプラットホームに立ったところで、眼の前に壮わかい女の立っているのが見えた。それはあの女であった。
﹁ああ、君だね﹂
女はにっと笑った。
﹁あれからさっぱり来なくなったが、憤おこったかね﹂
﹁憤りはしないのですが、あなたと別れる時期が来ましたから、もう往かなかったのですよ、でも、今晩は、お名な残ごりに、私の家へ往って話しましょう﹂
﹁往っても好いかね﹂
﹁好いのですよ、何だ人れも他にいないのです、私、一人ですから﹂
﹁じゃ、往こう、遠いかね﹂
﹁すぐですよ、いらっしゃい﹂
女は前さきに立って線路を横切って別荘地の方へ往った。真澄は酔った足を引きずって後あとから跟ついて往った。
女はすぐ右側にある家の格子戸を開けて入った。
﹁ここですから、後あとを締めてください﹂
二人は玄関をあがって右手の電燈の明るい室へやへ入った。
﹁まあ、お酒を出しましょうね﹂
﹁今日はもう好い、うんと酔ってるから﹂
﹁では、また後のちにあげましょう、今晩はお名残に泊っていらっしゃい﹂
真澄は女と他愛のないことを話していたが、何い時つの間にか女が友ゆう禅ぜん模もよ様うのついたきれいな布団を敷いたのでそのまま横になった。
一睡りした真澄は非常に寒いので眼を覚した。彼は叔父の家の裏手になった丘の上の石の傍で寝ていた。