明治三十年比ごろのことであったらしい。東京の本ほん郷ごう三丁目あたりに長く空いている家があったのを、美術学校の生徒が三人で借りて、二階を画室にし下を寝室にしていた。 夏の夜よのことであった。その晩はそのあたりに縁えん日にちがあるので、夕ゆう飯はんがすむと二人の者は散歩に往こうと云いだしたが、一人は従わなかった。 ﹁杖こづ頭かいもないのに厭いやなこった﹂ ﹁まあ、そんなことを云わずに往こうじゃないか、今晩はきっと美人がいるぜ﹂ ﹁杖頭がないのに、美人を見たら、尚なおいけない、厭だ、厭だ﹂ ﹁人のすすめる時には往くものだよ﹂ ﹁厭だ、厭だ、人の汗なんか嗅かいで歩るくのは、御苦労なこった﹂ こんな会話があってから、二人の生徒が出かけて往ったので、家に残った生徒は横になって雑誌の拾い読みをしていたが、睡ねむくなったので蚊か帳やの中へ入って寝た。そして、とろとろとしていると、何か物の気配がするので眼を開けて枕まく頭らもとを見た。枕頭になった蚊か帳やの外には一人の女が坐っていた。生徒はびっくりして眼をったところで、女の姿はもう無かった。 生徒は鬼き魅みが悪くなったので、寝ねど床こを飛びだして二階へあがり、洋ラン燈プの燈ひを明るくして顫ふるえていると、間もなく二人の生徒が帰って来た。 ﹁おい、ちょっと二階へあがってくれ、話がある﹂ そこで二人の生徒が二階へあがってみると、後あとに残っていた生徒がみょうな顔をしている。 ﹁どうした、何をしているのだ﹂ ﹁まあ坐れ、少し話がある﹂と云って、二人が坐るのを待って﹁この家は化ばけ物もの屋敷だぜ﹂ ﹁どうして、何かあったのか﹂ ﹁君きみ等らが出て往った後で、蚊帳へ入って、少し睡ねむって、今度眼を覚まして枕頭を見ると、蚊帳の外に女が坐っていた﹂ それを聞くと二人の生徒が笑いだした。 ﹁君が恐ろしいと思ってたから、見えたのだ、神経さ﹂ と一人が云うと、一人が、 ﹁だからいっしょに出よと云うに出ないからだよ﹂ ﹁とにかく、僕は厭いやだ、君等が出ないなら、僕一人で出て往くよ﹂ 翌日になると彼かの生徒は、二人に別れてそこを出て往った。二人の者は出て往った朋とも友だちの臆病を笑っていた。 そして、それから五六日経たってのことであった。二人でいっしょに寝ていた生徒の一人が、ふと眼を覚してみると枕まく頭らもとに一人の女が坐っていた。彼はびっくりして睡ねむっている朋とも友だちを揺ゆり起した。 で、その朋友も眼を開けて枕頭を見た。やはり坐っている女の姿が眼に入った。 翌日になってその二人も他へ引越して往ったので、その家はまた暫しばらく空家になっていた。