芝しばの青せい松しょ寺うじで自由党志士の追悼会のあった時のことである。その日、山田三造は追悼会に参列したところで、もうとうに歿なくなったと云うことを聞いていた旧友にひょっくり逢あった。それは栃木県のもので、有ゆう一いつ館かん時代に知りあいになったものである。有一館は政府の圧迫を受けて、解党を余儀なくせられた自由党の過激派の手で経営せられた壮士の養成所であった。山田も旧友もその有一館の館生であった。 旧友は伊いざ沢わみ道ちゆ之き、加かば波さ山んの暴動の時には宇都宮にいたがために、富とま松つま正さや安す等らと事を共にするの厄やくを免かれることができたが、群馬の暴動は免かれることができなかった。それは明治十七年五月十三日、妙みょ義うぎ山さん麓ろくの陣じん場ばヶ原はらに集合した暴徒を指揮して地主高利貸警察署などを屠ほふった兇徒の一人として、十年に近い牢獄生活を送り、出獄後は北海道の開墾に従事したり、樺から太ふとへ往ったり、南なん清しんで植民会社を創立したり、その当時の不遇政客の轍てつを踏んで南なん船せん北ほく馬ば席暖まる遑いとまなしと云う有様であったが、そのうちにばったり消息が無くなって、一二年前ぜん山田の先輩の油あぶ井らい伯が歿なくなった時分、伯爵邸へ集まって来たもとの政友の一人に訊きくと、もう歿なくなったと云ったのでほんとうに死んだものだと思っていたところであった。 ﹁やあ、暫しばらく、君は、油井伯の歿くなった時に聞くと、歿くなったと云うことだが、無事だったね、お変りもないかね﹂ 昔のままの薄あばたのある伊沢の赧あか黒くろい顔を見て山田は微笑した。 ﹁死んだも同じことさ、今は仙台にいる小供の処で、一合ごうのおしきせを貰ってるよ、伯の歿くなった時には、ちょうど腎臓が悪くて、生きるか死ぬかと云う場合だったから、つい見舞状も出さなかった、今度は久しぶりで宇都宮へやって来たところで、新聞で知ったからやって来たんだ、多分君にも逢あえるだろう、逢えなかったら、明あ日すあたり伯爵家へ往って、君の居いど処ころを訊いて尋ねて往こうかと思ってたところだ、どうだね、君は相変らず、椽てん大だいの筆を揮ふるってるじゃないか、時どき雑誌で拝見するよ﹂ ﹁近ちか比ごろは浪人の内職が本職になってね、文章を書いて飯めしを喫くうとは思わなかったよ、お互いに大臣になるか、警視総監になるか、捨すて売うりにしても、知事位にはなれると思ってたからね﹂ 乱暴なつむじ曲りの伊沢の口くち許もとに無邪気な笑わらいが溢あふれた。 ﹁金きん硫いお黄うと塩えん酸さん加か里りを交ぜ合した物を持って、三みた田へ辺んをうろついたこともあったね﹂ ﹁金硫黄と云や、鯉こい沼ぬま君はどうだね、まだ無事だろうか﹂ ﹁さあ、他にちょっと用事があって、鯉沼君のことを訊いてみなかったが、まだ県会議員でもしているのじゃないかね、僕が加波山の事件を免れたのは、鯉沼君に云いつけられて、宇都宮へ県庁の落成式が何い時つあるか、ないかを調べに往ってたためなんだ、鯉沼君は乱暴だね、爆弾の糸を鋏はさみで摘つまみ切ってたまるものかね、あの爆弾が事の破れさ、鯉沼君は隻かた手てを失うし、富松君は加波山へ立て籠こもるしさ、とにかく、壮わかい血気の時でなけりゃできないことさ、なにしろ、お互に壮かったね、なんだか今思ってみると、己じぶんのことでなしに、伝奇小説でも読むような気がするじゃないか﹂ ﹁皆大臣の夢を見ていたからね、大臣になれりゃ、毎晩、新橋へも往けると思っていたからね、僕の知った男だが、牛肉屋へ往って、大臣になれりゃ、毎晩ここへ来られるねって云ったよ、今日祭る政友の中にも、だいぶ大臣になって、牛肉を毎晩喫くいたいと云う連中があったよ﹂ ﹁なんだ、政友会の話じゃないか、俺は自由党は好きだが、政友会は大嫌いだよ﹂ 山田と伊沢の話している処へこう云って髯ひげの白い童顔の老人が顔を出したので、二人の話は切れてしまった。続いて追悼式がはじまって読経になり演説になったので、山田はもうすこし旧友と話してみたいと云う興味があったけれども、それが終るまで殆ほとんど一時間半ぐらいは何も云うことができなかった。 式が終って冷ひや酒ざけとスルメが出て、百人に近い列席者は故人の追懐談に移ったので、山田はやっと伊沢と詞ことばを交える機会を得たが、それでも最初に逢あった時のような打ちとけた、わだかまりのない話をすることはできなかった。 政界の落伍者の集まりである浪人の多い席であるから、話の落ちて往く処は現代の政党の攻撃であった。山田は奮激の交っているそうした談話に興味を持たなかった。彼は巻煙草を点つけようとしている伊沢に囁ささやくように云った。 ﹁君は、今日、帰りを急ぐかね﹂ ﹁急ぎはしないよ、久しぶりで、例の牛肉でもつッつこうじゃないか﹂ ﹁僕もそう思っているところだ、ゆっくり二人で飯めしを喫くいながら話そうじゃないか﹂ ﹁そうだ、そうしよう﹂ 山田と伊沢は四時比ごろになって寺を出た。晩はる春さきの空気が緩ゆるんで靄もやのような雨雲が、寺の門かど口ぐちにある新緑の梢こずえに垂れさがっていた。 ﹁また雨らしいね﹂ 伊沢はまぶしそうな眼をして空を見た。 ﹁そうだ、日が暮れたらやってくるね、でも、風に吹かれるよりは好いじゃないか﹂こう云いながら山田は伊沢を案内して往く処を考えていた。﹁君は日本料理が好いかね、それとも、鳥か牛肉が好いかね﹂ ﹁さっきも何だ人れかが云ってたね、大臣になって、毎晩牛肉屋へ往きたいって、僕もやっぱり牛肉の方が好いね﹂ ﹁そうか、じゃ小さい汚い家だが、僕の往きつけで、ちょっと牛肉を喫わせる家があるから、そこへ往こうか﹂ 二人は寺の前の石橋を渡って左の方へ歩いて往った。 そして、五六町ちょう往ってちょっとした横よこ町ちょうを右へ折れ曲って往くと、家の数で十軒も往った処の右側の門もん燈とうに﹁喜きら楽く﹂と書いた、牛肉屋とかしわ屋を兼ねた小料理屋があった。山田は前さきにたって入って往った。 お千代と云う壮わかい婢じょちゅうが山田の姿を見つけると飛んで出て来た。 ﹁今日はお客様を伴つれて来た、平いつ生もの室へやが空いてるかね﹂ 二人は婢に跟ついて二階の六畳の室へ往った。中ちゅ敷うじきになった方の障しょ子うじが一枚開あいていた。そこからは愛あた宕ごの塔が右みぎ斜ななめに見えていた。伊沢はその中敷に腰を掛けて、ちょっとした歩行にも疲くたびれる足の疲くたびれを治していた。 ﹁僕は、今日、寺へ往く路みちで、そら、あの病院の前を通って、木きう内ちた種ねも盛り君のことを思ったよ、木内君の死は、ありゃどうしても、ただの病死じゃないね、その当時噂のあったように……﹂ 山田は婢に肴さかなの註文をしていた。 ﹁木内君かね、そうさ、ありゃ、どうしても、青木寛かんに罪があると思うね、僕は、一昨年、油井伯が歿なくなった時分、木内君の夢を見たが、木内君がありありと出て来て、その話をしたよ、青木の奴、去年庭を歩いてて、卒中でひっくりかえって歿くなったが、どうせあんな奴は、ろくな死に方はしないよ、今どこかの病院の院長をしてる彼の小供も、この間、病人の手術が悪かって、病人を殺したので、告訴沙汰になってるのだ﹂ ﹁そうかな、いくら爵位を得ても、それじゃしかたがないね﹂ 電燈が点ついて陰気な室へやの中が引きたって来た。 ﹁有一館の時代だったら、金きん硫いお黄うと塩えん酸さん加か里りで覘ねらわれるところだったね﹂ ﹁そうだなあ、曰いわく伊沢道之、曰く山田三造、そう云う壮士に、いの一番に覘われているところだったね﹂ 二人は無邪気に笑い合った。婢じょちゅうが水こんろを持って入って来た。もう一いっ切さいの物を二階のあがり口へ持って来てあると見えて、こんろの後あとから広ひろ蓋ぶたに入れた肉や銚ちょ子うしなどを持って来た。鍋の中ではもう汁が煮たっていた。 ﹁この間の方かたはどうして﹂ 婢は山田の顔を見た。山田はすぐ数日前ぜんに伴つれて来た壮わかい新聞記者のことを思いだした。 ﹁どうだ、お気に入りましたかね﹂ ﹁いやよ、あんないけ好かない男ったらあるものですか、今の新聞記者って云うものは、皆あんなものでしょうか﹂ ﹁まあ、そう悪く云うなよ、可愛い男じゃないか、あんな男は家を持ったら、家のことはきちんとするよ、細さい君くんになる者は安心だよ﹂ ﹁でも、厭いやね、あんな男は、いくら金があったって、学問があったって、私なんかは厭だね﹂ ﹁甚ひどく悪く云うな、では、ふられたね﹂ 伊沢もその仲間入りをして近ちか比ごろにない壮わかわかしい気もちになって笑っていたが、何い時つの間にか女をそっちのけにして昔の追懐へその話を持って往った。 ﹁あの時分には、君は一升しょうぐらい飲んだって平気だったが、今でもいくだろうね﹂ 山田は伊沢に盃さかずきをさしながら云った。 ﹁好きは好きだが、毎晩、一合のおしきせがやっとだよ、もう弱ったね、年とし老とったからなあ﹂ ﹁僕も何んかの場合には、三合ぐらいなら飲むこともあるが、少し過ぎるとすぐ二日酔をやってね、いけないのだ、やはり年だね﹂ ﹁そうだ、年は老とりたくないね、壮わかいうちに早く死ぬる方が、人にも惜まれて好いな、今日の追悼会の人達も生きておる時は、つまらん奴が多かったが、死んでしまや、国士だ、落伍者になって、煤くすぶって死ぬるのはいけないね﹂ ﹁そうさ、玉ぎょ砕くさいさ、人間は玉砕に限るよ﹂ 雨の音が聞えて来た。 ﹁雨だね、落おちついて好いだろう、ゆっくりやって、今晩は久しぶりに、いっしょに寝よう、すぐ近くに寝る処があるからね﹂ 山田は伊沢に酒を酌つぐつもりで銚ちょ子うしを持ってみると冷たくなっていた。婢じょちゅうはもう傍にいなかった。山田は手を鳴らした。山田も伊沢もかなり酔うていた。 山田は気が注ついてみると一人になって酒を飲んでいた。伊沢は便所にでも往ったものだろう、まさか己じぶんに黙って一人で帰ったものではあるまいと思って、廊下に音でもしはしまいかと盃さかずきを口の縁ふちに持って往ってから耳を澄ましてみた。 ところで、ぼしゃぼしゃと屋根瓦を洗う雨の音が聞えるばかりで、跫あし音おとらしい物音は聞えなかった。ついすると伊沢は己に黙って帰ったかも判らない。婢を呼んで訊きいてみようと思って、盃を置いて手を鳴ならそうとして両手を合わせていると、ふと己のむこうへ来て坐った者があった。山田は伊沢が便所から帰って来たものだと思った。 ﹁君が帰ったのじゃないかと思って、婢じょちゅうを呼んで、訊きこうとしていたところだ﹂ 山田はこう云って食ちゃ卓ぶだい越しに眼をやった。三十前後の微うす髭ひげの生えた精せい悍かんな眼つきをした男が坐っていた。中ちゅ古うぶるになった仙せん台だい平ひらの袴はかまの襞ひだが見えていた。山田は見覚えのある人だと思ったがすぐには思いだせなかった。 ﹁どうだ、山田君、君は吾輩を覚えてるかね﹂ それはその日、伊沢と噂をした木内種盛の昔のままの姿であった。 ﹁木内先生でございますか﹂ ﹁ああ、木内だ、君とは一昨年、君が油井伯の遺稿を編へん纂さんしている時、逢あったことがあるね、吾輩はあの時、青木寛の一家に復讐した話をして、もうこれから永遠の安静に入ると云ったが、今日は君達はじめ、当年の政友から追悼を受けたので懐かしくなって来た、やって来たついでに、また君に逢いたくなったからね﹂ 山田はいずまいを正してお辞儀をした。 ﹁吾輩が閥ばつ族ぞく政府に覘ねらわれ、胃腸病で入院中を、閥族に買収せられた青木のために、吾輩の死んだことは、君も知っているはずだ、当時野党の中堅となっていた吾輩を倒して、野党を粉砕したので、予算の大削減にも遭あわず、瀕ひん死しの状態にあった内閣の命脈を、一年ぐらい続けたから、閥族としては、彼に爵位を与える位のことは、何なんでもなかったさ、そこで、吾輩の復讐となったが、満みつ伊い商会の支店長となって、米国へ往っていた青木の長男を、女優に迷わせたり、投機に手を出させたりして、会社の金を費つかわせて自殺さしたことと、弟の医学士の五つになる小供を殺し、その次に、医学士の神経を狂わして、細さい君くんと父親の間を疑わせたりしたことは、あの時、君に話したはずだ﹂ 山田は返事のかわりにお辞儀をした。 ﹁話は顛てん倒とうするが、その医学士だ、この二三日前ぜんの新聞にあったから、君も見ているだろう、何とか云う料理屋の主おか婦みの大手術をして、病人がその日の中うちに死んでしまったので、病人の家では、訴訟を起してるが、これも吾輩のやったことじゃ、その医学士は、暫しばらく養生しているうちに、神経の狂くるいもとれて来た、そのうち、あの親おや父じが死んでしまったのだ、それも偶然じゃないのだ、しかし、善良な者はそんなめには遭あわさない、あの料理屋の主おか婦みも、一種の悪党だ、医学士の犠牲にさしてもかまわないから犠牲にしたさ﹂ ﹁それくらいのことはあっても好いはずです、実に怪けしからん奴です﹂と山田は憤激したように云った。﹁吾われは今でも、先生が彼のために歿なくなられたことを思うと、実に彼の肉を喫くっても飽き足らない程に思います﹂ ﹁おい、おい、山田君、君は何を云ってるのだ、もう帰ろうじゃないか﹂ 伊沢の声がするので山田はびっくりして眼をった。己じぶんは知らないバーでテーブルに向って腰をかけていた。 ﹁ここは一体どこだ﹂ ﹁ここは銀座の尾おわ張りち町ょうの角かどだよ﹂ ﹁何い時つここへやって来た﹂ ﹁三十分ぐらい前にやって来たが、君は一体何を云ってるのだ﹂ ﹁僕か、僕は木内先生の夢を見てたのだよ﹂と考えて、 ﹁どうもおかしいなあ、木内種盛先生と話をしてたつもりだが﹂ 戸そ外とでは雨の音がして硝がら子すに霧のような物が懸かかっていた。電車の音がけたたましく聞えて来た。