島崎藤村ふるさと

　　　はしがき父とうさんが遠とほい外ぐわ國いこくの方はうから歸かへつた時とき、太たら郎うや次じら郎うへの土みや産げば話なしにと思おもひまして、いろ〳〵な旅たびのお話はなしをまとめたのが、父とうさんの﹃幼をさなきものに﹄でした。あの時とき、太たら郎うはやうやく十三歳さい、次じら郎うは十一歳さいでした。早いものですね。あの本ほんを作つくつた時ときから、もう三年ねんの月つき日ひがたちます。太たら郎うは十六歳さい、次じら郎うは十四歳さいにもなります。父とうさんの家うちには、今いま、太たら郎うに、次じら郎うに、末すゑ子この三人にんが居ゐます。末すゑ子こは母かあさんが亡なくなると間まもなく常ひた陸ちの方はうの乳う母ばの家うちに預あづけられて、七年ねんもその乳う母ばのところに居ゐましたが、今いまでは父とうさんの家うちの方はうへ歸かへつて來きて居ゐます。三さぶ郎らうはもう長ながいこと信しん州しう木き曾その小を父ぢさんの家うちに養やしなはれて居ゐまして、兄あにの太たら郎うや次じら郎うのところへ時とき々〴〵お手てが紙みなぞをよこすやうになりました。三さぶ郎らうはことし十三歳さい、末すゑ子こがもう十一歳さいにもなりますよ。父とうさんの家うちではよく三さぶ郎らうの噂うはさをします。三さぶ郎らうが居ゐる木き曾その方はうの話はなしもよく出でます。あの木き曾その山やまの中なかが父とうさんの生うまれたところなんですから。人ひとはいくつに成なつても子こど供もの時じぶ分んに食たべた物ものの味あぢを忘わすれないやうに、自じぶ分んの生うまれた土と地ちのことを忘わすれないものでね。假たと令へその土と地ちが、どんな山やまの中なかでありましても、そこで今こん度ど、父とうさんは自じぶ分んの幼ちひ少さい時じぶ分んのことや、その子こど供もの時じぶ分んに遊あそび廻まはつた山やまや林はやしのお話はなしを一册さつの小ちひさな本ほんに﹇＃﹁に﹂は底本では﹁こ﹂﹈作つくらうと思おもひ立たちました。あの﹃幼をさなきものに﹄と同おなじやうに、今こん度どの本ほんも太たら郎うや次じら郎うなどに話はなし聞きかせるつもりで書かきました。それがこの﹃ふるさと﹄です。﹇＃改ページ﹈　　　一　雀すずめのおやどみんなお出いで。お話はなししませう。先まづ雀すずめのおやどから始はじめませう。雀すずめ、雀すずめ、おやどはどこだ。雀すずめのお家うちは林はやしの奧おくの竹たけやぶにありました。この雀すずめには父とうさまも母かあさまもありました。樂たのしいお家うちの前まへは竹たけばかりで、青あをいまつすぐな竹たけが澤たく山さんに竝ならんで生はえて居ゐました。雀すずめは毎まい日にちのやうに竹たけやぶに出でて遊あそびましたが、その竹たけの間あひだから見みると、樂たのしいお家うちがよけいに樂たのしく見みえました。そのうちに、雀すずめの好すきなお家うちの前まへには竹たけの子こが生はえて來きました。母かあさまのお洗せん濯たくする方はうへ行いつて見みますと、そこにも竹たけの子こが出でて來きてゐました。﹃あそこにも竹たけの子こ。ここにも竹たけの子こ。﹄と雀すずめはチユウチユウ鳴なきながら、竹たけの子このまはりを悦よろこんで踊をどつて歩あるきました。僅わづか一ひと晩ばんばかりのうちに竹たけの子こはずんずん大おほきくなりました。雀すずめが寢ねて起おきて、また竹たけやぶへ遊あそびに行いきますと、きのふまで見みえなかつたところに新あたらしい竹たけの子こが出でて來きたのがあります。きのふまで小ちひさな竹たけの子こだと思おもつたのが、僅わづか一ひと晩ばんばかりで、びつくりするほど大おほきくなつたのがあります。雀すずめはおどろいて、母かあさまのところへ飛とんで行いきました。母かあさまにその話はなしをして、どうしてあの小ちひさな竹たけの子こがあんなに急きふに大おほきくなつたのでせうと尋たづねました。すると母かあさまは可かあ愛いい雀すずめを抱だきまして、﹃お前まへは初はじめて知しつたのかい、それが皆みなさんのよく言いふ﹁いのち﹂︵生命︶といふものですよ。お前まへたちが大おほきくなるのもみんなその力ちからなんですよ。﹄と話はなしてきかせました。　　　二　五ごぼ木くの林はやし　　太たら郎うよ、次じら郎うよ、お前まへ達たちは父とうさんの生うまれた山やま地ちの方はうのお話はなしを聞きたいと思おもひますか。檜ひの木き、椹さはら、明あす檜ひ、槇まき、

――それを木き曾その方はうでは五ごぼ木くといひまして、さういふ木きの生はえた森もりや林はやしがあの深ふかい谷たに間あひに茂しげつて居ゐるのです。五ごぼ木くとは、五いつつの主おもな木きを指さして言いふのですが、まだその他ほかに栗くりの木き、杉すぎの木き、松まつの木き、桂かつらの木き、欅けやきの木きなぞが生はえて居ゐます。樅もみの木き、栂つげの木きも生はえて居ゐます。それから栃とちの木きも生はえて居ゐます。太たら郎うや次じら郎うは一度ど父とうさんに隨ついて、三さぶ郎らうの居ゐる木き曾その小を父ぢさんの家うちを訪たづねたことが有ありましたらう。あの小を父ぢさんの家うちの前まへから、木きそ曽が川はの流ながれるところを見みて來きましたらう。小を父じさんの家うちのある木きそ曾ふく福しま島ま町ちは御おん嶽たけ山さんに近ちかいところですが、あれから木きそ曽が川はについて十里りばかりも川かは下しもに神みさ坂かむ村らといふ村むらがあります。それが父とうさんの生うまれた村むらです。　　　三　山やまの中なかへ來くるお正しや月うぐわつ父とうさんも昔むかしはお前まへ達たちと同おなじやうに、お正しや月うぐわつの來くるのを樂たのしみにした子こど供もでしたよ。お正しや月うぐわつが來くる時じぶ分んになると、父とうさんの生うまれたお家うちでは自じぶ分んのところでお餅もちをつきました。そのお餅もちは爐ろば邊たにつゞいた庭にはでつきましたから、そこへ爺ぢいやが小こ屋やから杵きねをかついで來きました。臼うすもころがして來きました。お餅もちにするお米こめは裏うら口ぐちの竈かまどで蒸むしましたから、そこへも手てつ傳だひのお婆ばあさんが來きて樂たのしい火ひを焚たきました。やがて蒸せい籠ろといふものに入いれて蒸むしたお米こめがやはらかくなりますとお婆ばあさんがそれを臼うすの中なかへうつします。爺ぢいやは杵きねでもつて、それをつき始はじめます。だんだんお米こめがねばつて來きて、お餅もちが臼うすの中なかから生うまれて來きます。爺ぢいやは力ちから一ぱい杵きねを振ふり上あげて、それを打うちおろす度たびに、臼うすの中なかのお餅もちには大おほきな穴あながあきました。お婆ばあさんはまた腰こしを振ふりながら、爺ぢいやが杵きねを振ふり上あげた時ときを見みは計かつては穴あなのあいたお餅もちをこねました。﹃べつたらこ。べつたらこ。﹄その餅もちつきの音おとを聞きくと、父とうさんは子こど供もご心ゝころにもお正しや月うぐわつが山やまの中なかのお家うちへ來くることを知しりました。　　　四　子こど供もの時じぶ分んこれから父とうさんはお前まへ達たちに、自じぶ分んの子こど供もの時じぶ分んのことをお話はなし﹇＃ルビの﹁はなし﹂は底本では﹁はな﹂﹈しようと思おもひます。父とうさんの幼ちひ少さな時じぶ分んには、今いまのやうに少せう年ねんの雜ざつ誌しといふものも有ありませんでした。お前まへ達たちのやうに面おも白しろいお伽とぎ噺ばなしの本ほんや、可か愛あいらしい繪ゑのついた雜ざつ誌しなぞを讀よむことも出で來きませんでした。讀よんで見みたくも、なんにもさういふお伽とぎ噺ばなしの本ほんや雜ざつ誌しが無ないんでせう、おまけに、父とうさんの生うまれたところは山やまの中なかの田ゐな舍かでせう、そのかはり、幼ちひ少さな時じぶ分んの父とうさんには、見みるもの聞きくものがみんなお伽とぎ噺ばなしでした。　　　五　荷にも物つを運はこぶ馬うま﹃もし〳〵、お前まへさんは今いま歸かへるところですか。﹄父とうさんがお家うちの門もんの外そとに出でて見みますと馬うまが近きん所じよの馬うま方かたに引ひかれて父とうさんの見みて居ゐる前まへを通とほります。この馬うまは夕ゆふ方がたになると、きつと歸かへつて來くるのです。﹃さうです。今け日ふは荷にも物つをつけて隣となりの村むらまで行いつて來きました。﹄とその馬うまが父とうさんに言いひました。﹃お前まへさんの首くびには好いい音おとのする鈴すゞがついて居ゐますね。﹄と父とうさんが言いひますと、馬うまは首くびをふりながら、﹃えゝ。私わたしが歩あるく度たびにこの鈴すゞが鳴なります。私わたしはこの鈴すゞの音おとを聞きき乍ながらお家うちの方はうへ歸かへつてまゐります。馬うまも荷にも物つをつけて行ゆく時ときはなか〳〵骨ほねが折をれますが、一日にちの仕しご事とをすまして山やま道みちを歸かへつて來くるのは樂たのしみなものですよ。﹄さう馬うまが言いつて、さも自じま慢んさうに首くびについて居ゐる鈴すゞを鳴ならして見みせました。父とうさんのお家うちの前まへは木きそ曾かい街だ道うと言いつて、鐵てつ道だうも汽きし車やもない時じぶ分んにはみんなその道みちを歩あるいて通とほりました。高たかい山やまの上うへでおまけに坂さか道みちの多おほい所ところですから荷にも物つはこの通とほり馬うまが運はこびました。どうかすると五匹ひきも六匹ぴきも荷にも物つをつけた馬うまが續つゞいて父とうさんのお家うちの前まへを通とほることもありました。男をとこや女をんなの旅たび人びとを乘のせた馬うまが馬うま方かたに引ひかれて通とほることもありました。父とうさんの聲こゑを掛かけたのは、近きん所じよに飼かはれて居ゐる馬うまで、毎まい日にち々／々＼隣とな村りむらの方はうへ荷にも物つを運はこぶのがこの馬うまの役やく目めでした。馬うまが自じぶ分んのお家うちへ歸かへつた時じぶ分んに父とうさんはよく馳かけ出だして行いつて見みました。﹃御ごく苦ら勞う。御ごく苦ら勞う。﹄と馬うま方かたは馬うまを褒ほめまして、馬うまの脊せな中かにある鞍くらをはづしてやつたり馬うまの顏かほを撫なでゝやつたりしました。それから馬うま方かたは大おほきな盥たらひを持もつて來きまして、馬うまに行ぎや水うずゐをつかはせました。﹃どうよ。どうよ。﹄と馬うま方かたが言いひますと、馬うまは片かた足あしづゝ盥たらひの中なかへ入いれます。馬うまの行ぎや水うずゐは藁わらでもつて、びつしより汗あせになつた身から體だを流ながしてやるのです。父とうさんは馬うま方かたの家うちの前まへに立たつて、樂たのしさうに行ぎや水うずゐをつかつて貰もらつて居ゐる馬うまを眺ながめました。そして、馬うまの行ぎや水うずゐの始はじまる時じぶ分んには山やまの中なかの村むらへ夕ゆふ方がたの來くることを知しりました。それに氣きがついては、父とうさんは自じぶ分んのお家うちの方はうへ歸かへりませうと思おもひました。　　　六　奧おく山やまに燃もえる火ひ父とうさんの田ゐな舍かでは、夕ゆふ方がたになると夜よた鷹かといふ鳥とりが空そらを飛と﹇＃ルビの﹁と﹂は底本では﹁とび﹂﹈びました。その夜よた鷹かの出でる時じぶ分んには、蝙かう蝠もりまでが一緒しよに舞まひ出だしました。﹃蝙かう蝠もり――來こい、來こい。﹄と言いひながら、父とうさんは蝙かう蝠もりと一緒しよになつて飛とび歩あるいたものです。どうかすると狐きつ火ねびといふものが燃もえるのも、村むらの夕ゆふ方がたでした。﹃御ごら覽ん狐きつ火ねびが燃もえて居ゐますよ。﹄と村むらの人ひとに言いはれて、父とうさんはお家うちの前まへからそのチラ〳〵と燃もえる青あをい狐きつ火ねびを遠とほい山やまの向むかふの方はうに望のぞんだこともありました。あれは狐きつねが松たい明まつを振ふるのだとも言いひましたし、奧おく山やまの木きの根ねが腐くさつて光ひかるのを狐きつねが口くちにくはへて振ふるのだとも言いひました。父とうさんは子こど供もで、なんにも知しりませんでしたが、あの青あをい美うつくしい不ふ思し議ぎな狐きつ火ねびを夢ゆめのやうに思おもひました。父とうさんの生うまれたところは、それほど深ふかい山やまの中なかでした。　　　七　水みづの話はなし父とうさんの田ゐな舍かは木きそ曾かい街だ道うの中なかの馬うま籠かご峠たうげといふところで、信しな濃のの國くにの一番ばん西にしの端はしにあたつて居ゐました。お正しや月うぐわつのお飾かざりを片かた付づける時じぶ分んには、村むら中ぢうの門かど松まつや注しめ連な繩はなどを村むらのはづれへ持もつて行いつて、一緒しよにして燒やきました。村むらの人ひとはめい〳〵お餅もちを竿さをの先さきにさしてその火ひで燒やいて食たべたり、子こど供ものお清せい書しよを煙けむりの中なかに投なげこんで、高たかく空そらにあがつて行ゆく紙かみの片きれを眺ながめたりしました。火ひの氣けと、煙けむりとで、お清せい書しよが高たかくあがれば、それを書かいたものの手てがあがると言いひました。松まつの燃もえる煙けむりと一緒しよになつてお清せい書しよが高たかく、高たかくあがつて行ゆくのは丁ちや度うど凧たこでもあげるのを見みるやうでした。その正しや月うぐわつのお飾かざりを集あつめて燒やく村むらのはづれまで行ゆきますと、その邊へんにはびつくりするほど大おほきな岩いはや石いしが田たん圃ぼの間あひだに見みえました。そこからはもう信しな濃のと美み濃のの國くに境さかひに近ちかいのです。父とうさんの田ゐな舍かは信しな濃のの山やま國ぐにから平たひらな野のは原らの多おほい美み濃のの方はうへ降おりて行ゆく峠たうげの一番ばん上うへのところにあつたのです。さういふ岩いはや石いしの多おほい峠たうげの上うへに出で來きたお城しろのやうな村むらですから、まるで梯はし子ごだ段んの上うへにお家うちがあるやうに、石いし垣がきをきづいては一軒けんづゝお家うちが建たてゝありました。どちらを向むいても坂さかばかりでした。父とうさんがお隣となりの酒さか屋やの方はうへ上のぼつて行ゆくにも坂さか、お忠ちう婆ばあさんといふ人ひとの住すむ家うちの方はうへ降おりて行ゆくにも坂さかでした。この田ゐな舍かは水みづに不ふじ自い由うなところでした。谷たにの底そこの方はうまで行ゆけば山やまの間あひだを流ながれて來くる谷たに川がはがなくもありませんが、人じん家かの近ちかくにはそれもありませんでした。そこで峠たうげの方はうから清しみ水づを引ひいて、それを溜ためる塲ばし所よが造つくつてあつたのです。何なんといふ好よい清しみ水づが長ながい樋とひを通とほつて、どん〳〵流ながれて來きましたらう。父とうさんが輪わでも廻まはしながら遊あそびに行いつて見みますと、流ながれて來きた水みづが大おほきな箱はこの中なかに澄すんで溜たまつて居ゐます。その水みづが箱はこから溢あふれて村むらの下しもの方はうへ流ながれて行ゆきます。天てん秤びん棒ぼうで兩りや方うはうの肩かたに手てを桶けをかついだ近きん所じよの女をん達なたちがそこへ水みづ汲くみに集あつまつて來きます。水みづの不ふじ自い由うなところに生うまれた父とうさんは特とく別べつにその清しみ水づのあるところを樂たのしく思おもひました。みんなが威ゐせ勢いよく水みづを汲くんだり擔かついだりするのを見みるのも樂たのしく思おもひました。そればかりではありません。父とうさんが子こど供もの時じぶ分んから水みづといふものを大たい切せつに思おもひ、ずつと大おほきくなつても水みづの流ながれて居ゐるのを見みるのが好すきで、水みづの音おとを聞きくのも好すきなのは、斯かうして水みづに不ふじ自い由うな田ゐな舍かに生うまれたからだと思おもひます。父とうさんのお家うちには井ゐ戸どが掘ほつてありました。その井ゐ戸どは柄ひし杓やくで水みづの汲くめるやうな淺あさい井ゐ戸どではありません。釣ついても、釣ついても、なか〳〵釣つる瓶べの上あがつて來こないやうな、深ふかい〳〵井ゐ戸どでした。父とうさんの祖おば母あさんの隱いん居きよ所じよになつて居ゐた二階かいと土どざ藏うの間あひだを通とほりぬけて、裏うらの木き小ご屋やの方はうへ降おりて行ゆく石いし段だんの横よこに、その井ゐ戸どがありました。そこも父とうさんの好すきなところで、家うちの人ひとが手てを桶けをかついで來きたり、水みづを汲くんだりする側そばに立たつて、それを見るみのを樂たのしく思おもひました。父とうさんの幼ちひ少さな時じぶ分んにはお家うちにお雛ひなといふ女をんなが奉ほう公こうして居ゐまして、半はん分ぶん乳う母ばのやうに父とうさんを負おぶつたり抱だいたりして呉くれたことを覺おぼえて居ゐます。そのお雛ひなは井ゐ戸どから石いし段だんを上あがり、土どざ藏うの横よこを通とほり、桑くは畠ばたけの間あひだを通とほつて、お家うちの臺だい所どころまでづゝ水みづを運はこびました。　　　八　凧たこ山やまの中なかの田ゐな舍かでは、近きん所じよに玩おも具ちやを賣うる店みせもありません。村むらの子こど供もは凧たこなぞも自じぶ分んで造つくりました。父とうさんはまだ幼ちひ少さかつたものですから、お家うちの爺ぢいやに手てつ傳だつて貰もらひまして、造ざう作さなく出で來きる凧たこを造つくりました。紙かみと絲いととはお祖ば母あさんが下くださる、骨ほねの竹たけは裏うらの竹たけ籔やぶから爺ぢいやが切きつて來きて呉くれる、何なにもかもお家うちにある物もので間まに合あひました。爺ぢいやが青あをい竹たけを細ほそく削けづつて呉くれますと、それに父とうさんが御ごは飯んつ粒ぶで紙かみを張はりつけまして、鯣するめのかたちの凧たこを造つくりました。みんなのするやうに、凧たこの尾をには矢やは張り紙かみを長ながく切きつてさげました。末すゑ子こは學がく校かうの先せん生せい﹇＃ルビの﹁せんせい﹂は底本では﹁せうせい﹂﹈から手しゆ工こうを習ならひませう、自じぶ分んで紙かみの箱はこなどを造つくるのは、上じや手うずに出で來きても出で來きなくても、樂たのしみなものでせう。父とうさんが自じぶ分んで凧たこを造つくつたのは、丁ちや度うどお前まへ達たちの手しゆ工こうの樂たのしみでしたよ。細ほそい竹たけや紙かみでこしらへたものが、だん〳〵凧のたこのかたちに成なつて行いつた時ときは、どんなに父とうさんも嬉うれしかつたでせう。父とうさんはその凧たこに絲いと目めをつけまして、田たん圃ぼの方はうへ持もつて行ゆきました。﹃風かぜ﹇＃﹁風﹂は底本では﹁凧﹂﹈よ、來こい、來こい、凧たこ揚あがれ。﹄と言いつて、近きん所じよの子こど供もも手てづ造くりにした凧たこを揚あげに來きて居ゐます。田たん圃ぼわ側きの枯かれた草くさの中なかには、木ぼ瓜けの木きなぞが顏かほを出だして居ゐまして、遊あそび廻まはるには樂たのしい塲ばし所よでした。﹇＃﹁。﹂は底本では﹁、﹂﹈﹃あゝ好よい風かぜ﹇＃ルビの﹁かぜ﹂は底本では﹁たこ﹂﹈が來きました。この風かぜに早はやく揚あげて下ください。﹄と凧たこが言いひました。父とうさんが大おほ急いそぎで糸いとを出だしますと、凧たこは左さい右うに首くびを振ふつたり、長ながい紙かみの尾ををヒラ〳〵させたりしながら、さも心こゝ持ろもちよささうに揚あがつて行ゆきました。凧たこは空そらの方はうに居ゐて、父とうさんにいろ〳〵な注ちう文もんをします。﹃あゝわたしは面めん喰くらひそうになりました。もつと絲いとをたぐつて下ください。﹄と言いふ時ときには、父とうさんは凧たこの注ちう文もんする通とほりに絲いとをたぐつてやります。﹃今こん度どは左ひだりの方はうへ傾かしぎさうになりました。早はやく右みぎの方はうへ糸いとを引ひいて下ください。﹄と言いふ時ときには、父とうさんはまた凧たこの言いふ通とほりに右みぎの方はうへ糸いとを引ひいてやります。そのうちに凧たこは風かぜをうけて、高たかく高たかく、のして行ゆきました。﹃凧たこさん、よく揚あがりましたね。そんなに高たかいところへ揚あがつたらそこいらがよく見みえませう。﹄と父とうさんが下したから尋たづねますと、凧たこは高たかい空そらから見みえる谷たに底そこの話はなしをしました。﹃凧たこさん、何なにが見みえます。ほうぼうのお家うちが見みえますか。﹄﹇＃底本では﹁﹄﹂が脱字﹈﹃えゝ、石いしの載のせてあるお家うちの屋や根ねから、竹たけ藪やぶまで見みえます。馬うま籠かごの村むらが一目めに見みえます。荒あら町まちの鎭ちん守じゆの杜もりまで見みえます。﹄﹃お祖ぢ父いさんの好すきな惠ゑな那や山まは奈どん何なでせう。﹄﹃惠ゑな那や山まもよく見みえます。もつと向むかふの山やまも見みえます。高たかい山やまがいくつも〳〵見みえます。その山やまの向むかふには、見みわ渡たすかぎり廣ひろ々〴〵とした野のは原らがありますよ。何なにか光ひかつて見みえる河かはのやうなものもありますよ。﹄﹃それはきつとお隣となりの國くにです。﹄父とうさんの生うまれた田ゐな舍かは美み濃のの方はうへ降おりようとする峠たうげの上うへにありましたから、お家うちのお座ざし敷きからでもお隣となりの國くにが山やまの向むかふの方はうに見みえました。極ごくお天てん氣きの好よい日ひには、遠とほい近あふ江みの國くにの伊いぶ吹きや山ままで、かすかに見みえることがあると、祖おぢ父いさんが父とうさんに話はなして呉くれたこともありました。﹃お蔭かげで、高たかいところから見けん物ぶつしました。﹄と凧たこが言いひました。父とうさんも凧たこを揚あげたり、凧たこの話はなしを聞きいたりして、面おも白しろく遊あそびました。自じぶ分んの造つくつた凧たこがそんなによく揚あがつたのを見みるのも樂たのしみでした。﹃凧たこも見けん物ぶつで草くた臥びれました。もうそろ〳〵降おろして下ください。﹄と凧たこが言いふものですから、父とうさんが絲いとをたぐりますと、凧たこはフハ〳〵フハ〳〵空そらを舞まふやうにして、田たん圃ぼのところまで嬉うれしさうに降おりて來きました。　　　九　猿さる羽ばお織り猿さる羽ばお織りと言いつて、父とうさんの田ゐな舍かの子こど供もは、お猿さるさんの着きる袖そでの無ない羽はお織りのやうなものを着きました。寒さむくなるとそれを着きました。その猿さる羽ばお織りを着きて雪ゆきの中なかを飛とんで歩あるくのは、丁ちや度うど木き曾その山やまの中なかのお猿さるさんが、雪ゆきの中なかを飛とんで歩あるくやうなものでした。　　　十　雪ゆきは踊をどりつゝある父とうさんの田ゐな舍かでは、何ど處この家うちでも板いたで屋や根ねを葺ふいて、風かぜや雪ゆきをふせぐために大おほきな石いしが並ならべて屋や根ねの上うへに載のせてありました。なんと、あの石いしを載のせた板いた屋や根ねは山やまの中なかの住すま居ゐらしいでせう。山やまには大おほきな檜ひの木きの林はやしもありますから、その厚あつい檜ひの木きの皮かはを板いたのかはりにして、小こ屋やの屋や根ねなぞを葺ふくこともありました。雪ゆきが來くればさういふお家うちの屋や根ねも埋うづまつてしまひ、畠はたけも白しろくなり、竹やけ藪やぶも寢ねたやうになつてしまひます。元げん気きな雀すずめは、そんな歌うた﹇＃ママ﹈に頓とん着ちやくなしで、自じぶ分んのお宿やども忘れわすれたやうに雪ゆきと一緒しよに踊をどつて歩あるきます。坂さか路みちの多おほい父とうさんの村むらでは、氷こほ滑りすべりの出で來きる塲ばし所よが行ゆく先さきにありました。村むらの子こど供もはみな鳶とび口ぐちを持もつて凍こゞつた坂さか路みちを滑すべりました。この氷こほ滑りすべりが雪ゆきの日ひの樂たのしみの一つで、父とうさんも爺ぢいやに造つくつて貰もらつた鳶とび口ぐちを持もち出だしては近きん所じよの子こど供もと一緒しよに雪ゆきの降ふる中なかで遊あそびました。積つもつた雪ゆきを凍こゞつた土つちの上うへに集あつめて、それを下げ駄たの齒はでこするうちには、白しろいタヽキのやうな路みちが出でき來あ上がります。鳶とび口ぐちを手てにしながら坂さかの上うへの方はうから滑すべりますと、ツーイ〳〵と面おも白しろいやうに身から體だが行ゆきました。もしか滑すべり損そこねて鳶とび口ぐちで身から體だを支さゝへ損そこねた塲ばあ合ひには雪ゆきの中なかへ轉ころげこみます。さういふ度たびに子こど供もど同う志しの揚あげる笑わらひ聲ごゑを聞きくのも樂たのしみでした。自じぶ分んの着きも物のについた雪ゆきをはらつて復また滑すべりに行ゆくのも樂たのしみでした。どうかすると凍こゞつて鏡かゞみのやうに光ひかつて來きます。その上うへに白しろく雪ゆきでも降ふりかゝると氷こほ滑りすべりの塲ばし所よとも分わからないことがあります。村むらの人ひと達たちが通とほりかゝつて、知しらずに滑すべつて轉ころぶことなぞもありました。父とうさんはお前まへ達たちのやうに、竹たけ馬うまに乘のつて遊あぞび廻まはることも好すきでした。雪ゆきの日ひには殊ことにそれが樂たのしみでした。大だい黒こく屋やの鐵てつさん、問とひ屋やの三郎らうさんなどゝといふ近きん所じよの子こど供もが、竹たけ馬うまで一緒しよになるお友とも達だちでした。そんな日ひでも、馬うまが荷にも物つをつけ、合かつ羽ぱを着きた村むらの馬うま方かたに引ひかれて雪ゆきの路みちを通とほることもありました。父とうさんが竹たけ馬うまの上うへから﹃今こん日にちは。﹄と言いひますと、お馴なじ染みの馬うまは鼻はなから白しろい氣い息きを出だして笑わらひながら﹃やあ、今こん日にちは、お前まへさんも竹たけ馬うまですね。﹄と挨あい拶さつしました。美み濃のの中なか津つが川はといふ町まちの方はうから、いろ〳〵な物ものを脊せな中かにつけて來きて呉くれるのも、あの馬うまでした。時ときには父おうさんの村むらなぞに無ないめづらしい玩おも具ちやや、父とうさんの好すきな箱はこ入いりの羊やう羹かんを隣となりの國くにの方はうから土みや産げにつけて來きて呉くれるのも、あの馬うまでした。﹃雪ゆきが降ふつて樂たのしみでせうね。﹄と馬うまが言いひましたが、雪ゆきが降ふれば馬うまでも嬉うれしいかと父とうさんは思おもひました。山やまの中なかへ來くる冬ふゆやお正しや月うぐわつには、お前まへ達たちの知しらないやうな樂たのしさもありますね。氷こほ滑りすべりや竹たけ馬うまで凍こゞへた手てをお家うちの爐ろば邊たの火ひにあぶるのも樂たのしみでした。　　　一一　庄しや吉うき爺ちぢいさんお前まへ達たちは荒くわ神うじんさまを知しつて居ゐませう。ほら、臺だい所どころの竈かまどの上うへに祭まつる神かみさまのことを荒くわ神うじんさまと言いひませう。あゝして火ひを鎭しづめる神かみさまばかりでなく、父とうさんの田ゐな舍かでは種いろ々〳〵なものを祭まつりました。繭まゆ玉だまのかたちを、しんこで造つくつてそれを竹たけの枝えだにさげて、お飼かい蠶こさまを守まもつて下くださる神かみさまをも祭まつりました。病びや氣うきで倒たふれた馬うまのためには、馬ばと頭うく觀わん音おんを祭まつりました。歩あるいて通とほる旅たび人びとの無ぶ事じを祈いのるためには、道だう祖そじ神んを祭まつりました。父とうさんは爺ぢいやに連つれられて、山やまの神かみさまへお餅もちをあげに行いつた事ことを覺おぼえて居ゐます。湯ゆぶ舟ねざ澤はといふ方はうへ寄よつた山やまのはづれに、山やまの神かみさまが祭まつつてありました。その小ちひさな祠やしろの前まへに、米こめの粉こで造つくつたお餅もちをあげて來きました。その邊へんは、どつちを向むいても深ふかい山やまばかりで、爺ぢいやにでも隨ついて行ゆかなければ、とても幼ちひ少さな時じぶ分んの父とうさんが獨ひとりで行ゆかれるところではありませんでした。山やまや林はやしは父とうさんの故ふる郷さとです。父とうさんのやうに大おほきくなつても、忘わすれずに居ゐるのは、その故ふる郷さとです。父とうさんは爺ぢいやに連つれられて深ふかい林はやしの方はうへも行いつて見みました。そこへ行ゆくと爺ぢいやの伐きつた木きがありました。松まつ葉ばの積つんだのもありました。爺ぢいやはその木きを背し負よつたり、松まつ葉ばを背し負よつたりして、お家うちの木き小ご屋やの方はうへ歸かへつて來くるのでした。この爺ぢいやは庄しよ吉うきちといふ名なで、父とうさんの生うまれない前まへからお家うちに奉ほう公こうして居ゐました。﹃よ、どつこいしよ。﹄と爺ぢいやは山やまからかついで來きた木きをおろしました。木き小ご屋やのなかでそれを割わりました。この爺ぢいやの大おほきな手ては寒さむくなると、皸あかぎれが切きれて、まるで膏かう藥やくだらけのザラ〳〵とした手てをして居ゐましたが、でもその心こゝろは正しや直うぢきな、そして優やさしい老らう人じんでした。爺ぢいやは山やまから伐きつて來きた木きを木き小ご屋やにしまつて置おいて、焚たきつけにする松まつ葉ばもしまつて置おいて、要いるだけづゝお家うちの爐ろば邊たへ運はこびました。赤あか々〳〵とした火ひが毎まい日にち爐ろば邊たで燃もえました。曾ひい祖ば母あさん、祖おぢ父いさん、祖おば母あさん、伯お父ぢさん、伯お母ばさんの顏かほから、奉ほう公こうするお雛ひなの顏かほまで、家うち中ぢうのものゝ顏かほは焚たき火びに赤あかく映うつりました。その樂たのしい爐ろば邊たには、長ながい竹たけの筒つゝとお魚さかなの形かたと繩なはとで出で來きた煤すゝけた自じざ在いか鍵ぎが釣つるしてありまして、大おほきなお鍋なべで物ものを煮にる塲ばし所よでもあり家うち中ぢう集あつまつて御ごは飯んを食たべる塲ばし所よでもありました。父とうさんの田ゐな舍かでは寒さむくなると毎まい朝あさ芋いも焼やき餅もちといふものを燒やいて、朝あさだけ御ごは飯んのかはりに食たべました。蕎そ麥ばの粉こに里さと芋いもの子こをまぜて造つくつたその燒やき餅もちの焦こげたところへ大だい根こんおろしをつけて焚たき火びにあたりながらホク〳〵食たべるのは、どんなにおいしいでせう。その蕎そ麥ばの香にほひのする燒やきたてのお餅もちの中なかから大おほきな里さと芋いもの子こなぞが白しろく出でて來きた時ときは、どんなに嬉うれしいでせう。爺ぢいやは御ごは飯んの時ときでも、なんでも、草わら鞋ぢばきの土どそ足くのまゝで爐ろの片かた隅すみに足あしを投なげ入いれましたが、夕ゆふ方がた仕しご事との濟すむ頃ころから草わら鞋ぢをぬぎました。爐ろば邊たにある古ふるい屏べう風ぶの側わきが爺ぢいやの夜よなべをする塲ばし所よときまつて居ゐました。爺ぢいやはその屏べう風ぶの側わきに新あたらしい藁わらなぞを置おいて、父とうさんのために小ちひさな草ざう履りを造つくつたり、自じぶ分んではく草わら鞋ぢを造つくつたりしました。爺ぢいやのお伽とぎ話ばなしはその時ときに始はじまるのでした。父とうさんはこの好すきな老らう人じんから、畠はたけよりあらはれた狸たぬきや狢むじなの話はなし、山やまで飛とび出だした雉きじの話はなし、それから奧おく山やまの方はうに住すむといふ恐おそろしい狼おほかみや山やま犬いぬの話はなしなぞを聞ききましたが、そのうちに眠ねむくなつて、爺ぢいやの話はなしを聞ききながら爐ろば邊たでよく寢ねてしまひました。　　　一二　草くさ摘つみに父とうさんの幼ちひ少さな時じぶ分んには、お錢あしといふものを持もたせられませんでしたから、それが癖くせになつて、お錢あしは子こど供もの持もつものでないと思おもつて居ゐましたし、巾きん着ちやくからお錢あしを出だして自じぶ分んの好すきなものを買かふことも知しりませんでした。お家うちからお錢あしを貰もらつて行いつて何なにか買かふのは、村むらの祭おま禮つりの時ときぐらゐのものでした。そのかはり、お庭にはにある柿かきや梨なしなぞが生なりたての新あたらしい果くだ物ものを父とうさんに御ごち馳そ走うして呉くれました。祖おば母あさんが朴ほほの木きの葉はで包つゝんで下くださる※あつ﹇＃﹁熱﹂の左上が﹁幸﹂、50-3﹈い握おむ飯すびの香にほひでも嗅かいだ方はうが、お錢あしを出だして買かつたお菓くわ子しより餘よほ程どおいしく思おもひました。お家うちの外そとを歩あるき廻まはつても、石いし垣がきのところには黄きい色ろい木きい苺ちごの實みが生なつて居ゐるし、竹たけ籔やぶのかげの高たかい榎えの木きの下したには、香かんばしい小ちひさな實みが落おちて居ゐました。村むらのはづれには﹁けんぽ梨なし﹂といふ木きもあつて、高たかい枝えだの上うへに珊さん瑚ごじ珠ゆのやうな實みが生なる時じぶ分んには木き曽そ路ぢを通とほる旅たび人びとはめづらしさうに仰あう向むいて見みて行ゆきましたが、その實みも取とれば食たべられて甘うまい味あぢがしました。そればかりではありません、山やまにある木きの葉は、田たん圃ぼにある草くさの中なかにも﹃食たべられるからおあがり。﹄と言いつてくれるのもありました。﹁スイ葉は﹂と言いつて、青あをい木きの葉はの生なまで食たべられるものもありました。草くさでは﹁いたどり﹂や﹁すいこぎ﹂が食たべられましたが、あの﹁すいこぎ﹂の莖くきを採とつて來きてお家うちで鹽しほ漬づけをして遊あそぶこともありました。﹃手てをお出だし。私わたしもおいしいものを上あげますよ。﹄父とうさんが石いし垣がきの側そばを通とほる度たびに、蛇へび苺いちごが左さ樣う言いつては父とうさんを誘さそひました。蛇はび苺いちごは毒どくだと言いひます。それを父とうさんも聞きいて知しつて居ゐました。あの眼めのさめるやうな紅あかい蛇へび苺いちごの實みが甘うまいことを言いつてよく父とうさんを誘さそひましたが、そればかりは觸さはりませんでした。父とうさんの幼ちひ少さい時じぶ分んに抱だいたり背お負ぶつたりして呉くれたお雛ひなは、斯かういふ山やま家がに生うまれた女をんなでした。筍たけのこの皮かはを三角かくに疊たゝんで、中なかに紫し蘇その葉はの漬つけたのを入いれて、よくそれを父とうさんに呉くれたのもお雛ひなでした。それを吸すへば紫し蘇その味あぢがして、チユー〳〵吸すふうちに、だん〳〵筍たけのこの皮かはが赤あかく染そまつて來くるのも嬉うれしいものでした。このお雛ひなは村むらの髮かみ結ゆひの娘むすめでした。お雛ひなのお父とうさんは數かず衛ゑといふ名なで、男をとこの髮かみ結ゆひでしたが、村むら中ぢうで一番ばん汚きたないといふ評ひや判うばんの人ひとでした。その汚きたない髮かみ結ゆひの家いへのお雛ひなに育そだてられると言いつて、父とうさんは人ひとに調から戯かはれたものです。﹃やあ數かず衛ゑの子こだ。﹄こんなことを言いつて惡いた戯づら好ずきな人ひと達たちは父とうさんまで汚きたない髮かみ結ゆひの子こにしてしまひました。しかし、お雛ひなは幼ちひ少さい時じぶ分んの父とうさんをよく見みて呉くれました。お雛ひなの歌うたふ子こも守りう唄たは父とうさんの一番ばん好すきな唄うたでした。それを聞ききながら、父とうさんはお雛ひなの背せな中かで寢ねてしまふこともありました。父とうさんが獨ひとりでそこいらを遊あそび廻まはる時じぶ分んにはお雛ひなに連つれられてよく蓬よもぎを摘つみに行いつたこともあります。あたゝかい日ひの映あたつた田たん圃ぼの側そばで、蓬よもぎを摘つむのは樂たのしみでした。それをお家うちへ持もつて歸かへつて來きて、臼うすでつけば草くさ餅もちが出で來きました。　　　一三　燕つばめの來くる頃ころ燕つばめの來くる頃ころでした。澤たく山さんな燕つばめが父とうさんの村むらへも飛とんで來きました。一羽は、二羽は、三羽ば、四羽は――とても勘かん定ぢやうすることの出で來きない何なん十羽ぱといふ燕つばめが村むらへ着ついたばかりの時ときには、直すぐに人じん家かへ舞まひ降おりようとはしません。離はなれさうで離はなれない燕つばめの群むれは、細ほそ長ながい形かたちになつたり、圓まるい輪わの形かたちになつたりして、村むらの空そらの高たかいところを揃そろつて舞まつて居ゐます。そのうちに一羽は空そらから舞まひ降おりたかと思おもふと、何なん十羽ぱといふ燕つばめが一時じに村むらへ降おりて來きます。そして互たがひに嬉うれしさうな聲こゑで鳴なき合あつて、舊ふるい馴なじ染みの軒のき塲ばを尋たづね顏がほに、思おもひ〳〵に分わかれて飛とんで行ゆきます。父とうさんのお家うちへ飛とんで行ゆくのもあれば、お隣となりの大だい黒こく屋やへ飛とんで行ゆくのもあれば、そのまた一軒けん置おいてお隣となりの八やは幡た屋やの方はうへ飛とんで行ゆくのもあります。ずつと坂さかの下したの方はうの三浦うら屋やという宿やど屋やの方はうへ飛とんで行ゆくのもあります。村むらで染そめ物ものをする峯みね屋やへも、俵たは屋らやのお婆ばあさんの家うちへも、和いづ泉み屋やの和わた太ら郎うさんのお家うちへも飛とんで行ゆきました。父とうさんが村むら役やく塲ばの前まへを通とほりますと、そこへ來きて羽はねを休やすめて居ゐる燕つばめもありました。燕つばめは役やく塲ばの前まへに建たてゝある木きの標はし柱らを眺ながめて、さも〳〵遠とほい旅りよ行かうをして來きたやうな顏かほをして居ゐました。﹃長なが野のけ縣ん西にし筑ちく摩まご郡ほり木きそ曾みさ神か坂む村ら﹄とその木きの標はし柱らには書かいてあるのです。父とうさんは燕つばめの話はなしを聞きいて見みたいと思おもひまして、いろ〳〵に話はなしかけましたが、まるでこの燕つばめは異ゐじ人んでした。一向かうに言こと葉ばが通つうじませんでした。﹃もしもし、燕つばめさん、お前まへさんは一年ねんに一度どづゝ、この村むらへ來くるではありませんか。遠とほい國くにの方はうへ行いつて居ゐて、日にほ本んの言こと葉ばも忘わすれたのですか。﹄と父とうさんが言いひますと、燕つばめは懷なつかしい國くにの言こと葉ばで物ものを言いひたくても、それが言いへないといふ風ふうで、唯ただ、ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ、異ゐじ人んさんのやうな解わからないことを言いひました。燕つばめは嬉うれしさうに父とうさんを見みて尻しつ尾ぽの羽はねを左さい右うに振ふりながら、遠とほい空そらから漸やうやくこの山やまの中なかへ着ついたといふ話はなしでもするらしいのでした。それを國くにの言こと葉ばで言いへば、﹃皆みなさん、お變かはりもありませんか、あなたのお家うちの祖おぢ父いさんもお健たつ者しやですか。﹄と尋たづねるらしいのでしたが燕つばめの言いふことは早はや口ぐちで、﹃ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ。﹄としか父とうさんには聞きこえませんでした。斯かうした言こと葉ばの通つうじない燕つばめも、村むらに住すみ慣なれて、家いへ々〳〵の軒のきに巣すをつくり、くちばしの黄きい色ろい可かあ愛いい子こど供もを育そだてる時じぶ分んには、大だい分ぶ言こと葉ばがわかるやうになりました。燕つばめが父とうさんのところへ來きて何なにを言いふかと思おもひましたら、こんなことを言ひいました。﹃私わた共しどもは遠とほい國くにの方はうから參まゐるものですから、なか〳〵言こと葉ばが覺おぼえられません、でも、あなたがたが親しん切せつにして下くださるのを、何なにより有あり難がたく思おもひます。鶫つぐみといふ鳥とりや鶸ひわといふ鳥とりは、何なん百羽ぱ飛とんで參まゐりましても、みんな網あみや黐もちに掛かゝつてしまひますが、私わた共しどもにかぎつて軒のき先さきを貸かして下くだすつたり巣すをかけさせたりして下くださいます。それが嬉うれしさに、斯かうして毎まい年ねん旅たびをして參まゐるのです。﹄　　　一四　永えい昌しや寺うじ﹃今こん日にちは。﹄と狐きつねが永えい昌しや寺うじの庭にはへ來きて言いひました。永えい昌しや寺うじとは、父とうさんの村むらのお寺てらです。そのお寺てらに、桃たう林りん和をし尚やうといふ年としとつた和をし尚やうさんが住すんで居ゐました。この僧ばう侶さんは心こゝろの善よい人ひとでした。﹃お前まへは何なにしに來きました。﹄と桃たう林りん和をし尚やうが尋たづねますと、狐きつねの言いふことには、﹃わたしはお寺てらを拜はい見けんにあがりました。﹄父とうさんが初はじめてあがつた小せう學がく校かうも、この和をし尚やうさんの住すむお寺てらの近ちかくにありました。小せう學がく校かうの生せい徒とに狐きつねがついたと言いつて、一度ど大おほ騷さわぎをしたことがありました。父とうさんはその時じぶ分んはまだ幼ちひ少さくてなんにも知しりませんでしたが、その狐きつねのついたといふ生せい徒とは口くちから泡あわを出だし、顏かほ色いろも蒼あをざめ、ぶる〴〵震ふるへてしまひました。何なん度ども〳〵も名なま前へを呼よばれて、漸やうやくその生せい徒とは正しや氣うきに復かへつた事ことがありました。桃たう林りん和をし尚やうはその話はなしも聞きいて知しつて居をりましたから、いづれ狐きつねがまた何なにか惡いた戯づらをするためにお寺てらへ訪たづねて來きたに違ちがひないと、直すぐに感かんづきました。﹃和をし尚やうさん、和をし尚やうさん、こちらは大たい層そう好よいお住すま居ゐですね。この村むらに澤たく山さんお家うちがありましても、こちらにかなふところはありません。村むら中ぢう第だい一の建たて物ものです。こんなお住すま居ゐに被い入らしやる和をし尚やうさんは仕しあ合はせな方かたですね。﹄斯かう狐きつねは言いひました。狐きつねは調から戯かふつもりでわざと桃たう林りん和をし尚やうの機きげ嫌んを取とるやうにしましたが、賢かしこい和をし尚やうさんはなか〳〵その手てに乘のりませんでした。﹃ハイ、御ごら覽んの通とほり、村むらでは大おほきな建たて物ものです。しかしこのお寺てらは村むら中ぢうの人ひと達たちの爲ためにあるのです。私わたしはこゝに御ごほ奉うこ公うして居ゐるのです。お前まへさんは私わたしがこの住すま居ゐの御ごし主ゆじ人んのやうなことを言いひますが私わたしは唯たゞこゝの番ばん人にんです。﹄斯かう桃たう林りん和をし尚やうが答こたへましたので、狐きつねは頭あたまを掻かき〳〵裏うらの林はやしの方はうへこそ〳〵隱かくれて行ゆきました。桃たう林りん和をし尚やうが御ごほ奉うこ公うして居ゐた永えい昌しや寺うじは、小こだ高かい山やまの上うへにありました。そのお寺てらの高たかい屋や根ねは村むら中ぢうの家いへの一番ばん高たかいところでした。狐きつねが來きて言いつた通とほり、村むら中ぢう一番ばんの建けん築ちく物ぶつでもありました。そこで撞つく鐘かねの音おとは谷たにから谷たにへ響ひゞけて、何ど處この家いへへも傳つたはつて行ゆきました。その鐘かねの音おとは、年としとつた和をし尚やうさんの前まへの代だいにも撞つき、そのまた前まへの代だいにも撞ついて來きたのです。もう何なん百年ねんといふことなく、古ふるい鐘かねの音おとが山やまの中なかで鳴なつて居ゐたのです。永えい昌しや寺うじのある山やまの中ちう途とには、村むら中ぢうのお墓はかがありました。こんもりと茂しげつた杉すぎの林はやしの間あひだからは、石いしを載のせた村むらの板いた屋や根ねや、柿かきの木きや、竹たけ籔やぶや、窪くぼい谷たに間まの畠はたけまで、一目めに見みえました。そこには父とうさんのお家いへの御ごせ先ん祖ぞさま達たちも、紅あかい椿つばきの花はななぞの咲さくところで靜しづかに眠ねむつて居をりました。　　　一五　お茶ちやをつくる家いへ雀すずめが父とうさんのお家うちへ覗のぞきに來きました。丁ちや度うどお家うちではお茶ちやをつくる最さい中ちうでしたから、雀すずめがめづらしさうに覗のぞきに來きたのです。﹃お前まへさんのお家うちではお茶ちやをつくるんですか。﹄と雀すずめが言いひますから、﹃えゝ、私わたしの家うちではお茶ちやを買かつたことが有ありません。毎まい年ねん自じぶ分んの家うちでつくります。﹄と父とうさんが話はなしてやりました。その時とき、父とうさんが雀すずめに、あの大おほきなお釜かまの方はうを御ごら覽んと言いつて見みせました。そこではお家うちの畠はたけで取とれたお茶ちやの葉はを煮にて居ゐる人ひとがあります。あの莚むしろ﹇＃ルビの﹁むしろ﹂は底本では﹁むろ﹂﹈の上うへを御ごら覽んと言いつて見みせました。そこではお釜かまから出だしたお茶ちやの葉はをひろげて團うち扇はであほいで居ゐる人ひとがあります。あの焙ほい爐ろの方はうを御ごら覽んと言いつて見みせました。そこでは火ひの上うへにかけたお茶ちやの葉はを兩りや手うてで揉もんで居ゐる人ひとがあります。﹃チユウ、チユウ。﹄とめづらしいことの好すきな雀すずめが鳴なきました。そしてめづらしいことでさへあれば、雀すずめは喜よろこびました。お家うちでは祖おば母あさんや伯を母ば﹇＃ルビの﹁をば﹂は底本では﹁おば﹂﹈さんやお雛ひなまで手てぬ拭ぐひを冠かぶりまして、伯お父ぢさんや爺ぢいやと一緒しよに働はたらきました。近きん所ぢよから手てつ傳だひに來きて働はたらく人ひともありました。好よいお茶ちやの香にほひがするのと、家いへ中ぢうでみんな働はたらいて居をるので、父とうさんも雀すずめと一緒しよにそこいらを踊をどつて歩あるきました。父とうさんのお家うちではこのお茶ちやばかりでなく食たべる物ものも着きる物ものも自じぶ分んのところで造つくりました。お味み噌そも家うちで造つくり、お醤しや油うゆも家うちで造つくり、祖おば母あさんや伯を母ばさんの髮かみにつける油あぶらまで庭にはの椿つばきの樹きの實みを絞しぼつて造つくりました。林はやしにある小こな梨しの皮かはを取とつて來きて、黄きい色ろい汁しるで絲いとまで染そめました。父とうさんの子こど供もの時じぶ分んには祖おば母あさんの織おつて下くださる着きも物のを着き、爺ぢいやの造つくつて呉くれる草ざう履りをはいて、それで學がく校かうへ通かよひました。さうして、この手てづ造くりにしたものゝ樂たのしみを父とうさんに教をしへて呉くれたのは、祖おば母あさんでした。祖おば母あさんは働はたらくことが好すきで、みんなの先さきに立たつてお茶ちやもつくりましたし、着きも物のも根こん氣きに織おりました。祖おば母あさんは隣とな村りむらの妻つま籠かごといふところから、父とうさんのお家うちへお嫁よめに來きた人ひとで、曾ひい祖おば母あ﹇＃﹁ひいおばあ﹂は底本では﹁ひいおば﹂﹈さんほどの學がく問もんは無ないと言いひましたが、でもみんなに好すかれました。林りん檎ごのやうに紅あかい祖おば母あさんの頬ほゝぺたは、家いへ中ぢうのものゝ心こゝろをあたゝめました。祖おば母あさんの着きも物のを織おる塲ばし所よはお家うちの玄げん關くわんの側そばの板いたの間まと定きまつて居ゐました。そのお庭にはの見みえる明あかるい障しや子うじの側そばに祖おば母あさんの腰こし掛かけて織おる機はたが置おいてありました。﹃トン〳〵ハタリ、トンハタリ。﹄祖おば母あさんの筬をさが動うごく度たびに、さういふ音おとが聞きこえて來きます。父とうさんが玄げん關くわんの廣ひろい板いたの間まに居ゐて、その筬をさの音おとを聞ききながら遊あそんで居をりますと、そこへもよくめづらしいもの好ずきの雀すずめが覗のぞきに來きました。　　　一六　梨なしや柿かきはお友とも達だち父とうさんのお家うちの庭にはにはいろ〳〵な木きが植うゑてありました。父とうさんはその木きを自じぶ分んのお友とも達だちのやうに想おもつて大おほきくなりました。お前まへ達たちの祖おぢ父いさんのお部へ屋やの前まへにあつた古ふるい大おほきな松まつの樹きも、表おもての庭にはにあつた椿つばきの木きもみんな父とうさんのお友とも達だちでした。その椿つばきの木きの側そばには梨なしの木きもあつて、毎まい年ねん大おほきな梨なしがなりました。あの青あをい梨なしの實みのなつた樹きの下したへは父とうさんもよく見みに行い﹇＃ルビの﹁い﹂は底本では﹁ゆ﹂﹈つたものです。﹃もう食たべてもいゝかい。﹄と父さんが梨なしの木きに聞ききに行ゆきますと﹃まだ早はやい、まだ早はやい。﹄と梨なしの木きは言いつて、なか〳〵食たべてもいゝとは言いひませんでした。そして、その梨なしの實みが大おほきくなつて、色いろのつく時じぶ分んには、丁ちや度うど御ごし祝ふげ言んの晩ばんの花はな嫁よめさんのやうに、白しろい紙かみ袋ぶくろをかぶつて了しまひました。これは蜂はちが來きて梨なしをたべるものですから、蜂はちをよけるために紙かみ袋ぶくろをかぶせるのです。お勝かつ手ての横よこには祖おぢ父いさんの植うゑた桐きりの木きがありました。その桐きりの木きの下したは一面めんに桑くは畑ばたけでした。お隣となりの高たかい石いし垣がきや白しろい壁かべなぞがそこへ行ゆくとよく見みえました。桑くはの實みの生なる時じぶ分んには父とうさんは桑くはの木きの側そばへ行いつて﹃食たべてもいゝかい。﹄とたづねますと、桑くはの木きは見みかけによらない優やさしい木きでした。﹃あゝ、いゝとも。いゝとも。﹄と言いつて呉くれました。父とうさんはうれしくて、あの桑くはの木きに生なる紫むら色さきいろの可かあ愛いい小ちひさな實みを枝えだからちぎつて口くちに入いれました。土どざ藏うの前まへには、柿かきの木きもありました。父とうさんはよくその柿かきの木きの下したへ行いつて遊あそびました。柿かきの木きはまた梨なしや桐きりの木きとちがつて、にぎやかな木きで、父とうさんが遊あそびに行ゆく度たびに何なにかしら集あつめたいやうなものが木きの下したに落おちて居ゐました。柿かきの花はなの咲さく時じぶ分んに行ゆくと、あの甘あまい香にほひのする小ちひさな花はなが一ぱい落おちて居ゐます。實みの生なる時じぶ分んに行ゆくと、あの蔕へたのついた青あをい小ちひさな柿かきが澤たく山さん落おちて居ゐます。そろ〳〵木きの葉はの落おちる時じぶ分んに行ゆくと大おほきな色いろのついた柿かきの葉はがそこにもこゝにも落おちて居ゐます。父とうさんはそれを拾ひろ集ひあつめるのが樂たのしみでした。それに他ほかのお家うちの柿かきの木きへは登のぼらうと思おもつても登のぼれませんでしたが、自じぶ分んのお家うちの柿かきの木きばかりは惡わるい顏かほもせずに登のぼらせて呉くれました。父とうさんは枝えだから枝えだをつたつて登のぼつて、時ときにゆすつたりしても柿かきの木きは怒おこりもしないのみか、﹃もつと遊あそんでお出いで。もつと遊あそんでお出いで。﹄と父とうさんに言いひました。　　　一七　鳥とり獸けものもお友とも達だち山やまの中なかに育そだつた父とうさんは、いろいろな木きをお友とも達だちのやうに思おもつて大おほきくなつたばかりではありません。お前まへ達たちの好すきなお伽とぎ話ばなしの本ほんや雜ざつ誌しの中なかに出でて來くるやうな、鳥とりや獸けものまで幼ちひ少さい時じぶ分んの父とうさんにはお友とも達だちでした。お家うちにはおいしい玉たま子ごを御ごち馳そ走うして呉くれる鷄にはとりが飼かつてありました。父とうさんが裏うら庭にはに出でて、桐きりの木きの下したあたりを歩あるき廻まはつて居ゐますと、その邊へんには鷄にはとりも遊あそんで居ゐました。﹃コツ、コツ、コツ。﹄と鷄にはとりは父とうさんを見みかける度たびに挨あい拶さつします。時ときには鷄にはとりはお友とも達だちのしるしにと言いつて、白しろい羽はねや茶ちや色いろな羽はねの拔ぬけたのを父とうさんに置おいて行いつて呉くれることもありました。めづらしいお客きやくさまでもある時ときには、父とうさんのお家いへ﹇＃﹁いへ﹂はママ﹈では鷄にはとりの肉にくを御ごち馳そ走うしました。山やま家がのことですから、鷄にはとりの肉にくと言いへば大たいした御ごち馳そ走うでした。その度たびにお家いへに飼かつてある鷄にはとりが減へりました。あの締しめられた首くびを垂たれ眼めを白しろくしまして、羽はねをむしられる鷄にはとりを見みて居ゐますと、父とうさんはお腹なかの中なかでハラ〳〵しました。これはお客きやくさまの御ごち馳そ走うですから仕しか方たが無ないと思おもひましたが、近きん所じよのお家いへでは、鬪しや鷄もや鷄にはとりを締しめ殺ころして煮にて食くふといふことをよくやりました。村むらには隨ずゐ分ぶん惡いた戲づらの好すきな人ひと達たちがありました。さういふ人ひと達たちは生いきて居ゐる鬪しや鷄もの毛けをむしりまして、煮にて食くふ前まへに追おひ廻まはして面おも白しろがつたものです。あの赤あかはだかに毛けを拔ぬかれた鳥とりがヒヨイ〳〵飛とび歩あるくのを見みるほど、むごいものは無ないと思おもひました。父とうさんは子こど供もご心ゝろにも、そんな惡いた戲づらをする村むらの人ひと達たちを何なに程ほど憎にくんだか知しれません。お家うちの土どざ藏うには年としをとつた白しろい蛇へびも住すんで居をりました。その蛇へびは土どざ藏うの﹃主ぬし﹄だから、かまはずに置おけと言いつて、石いし一つ投なげつけるものもありませんでした。不ふ思し議ぎにもその年としとつた蛇へびは動どう物ぶつ園ゑんにでも居ゐるやうに温おと順なしくして居ゐてついぞ惡いた戲づらをしたといふことを聞ききません。父とうさんはめつたにその蛇へびを見みませんでしたが、どうかすると日ひの映あたつた土どざ藏うの石いし垣がきの間あひだに身から體だだけ出だしまして、頭あたまも尻しつ尾ぽも隱かくしながら日ひな向たぼつこをして居ゐるのを見みかけました。この土どざ藏うについて石いし段だんを降おりて行ゆきますと、お家うちの木き小ご屋やがありました。木き小ご屋やの前まへには池いけがあつて石いし垣がきの横よこに咲さいて居ゐる雪ゆきの下したや、そこいらに遊あそんで居ゐる蜂はちや蛙かへるなぞが、父とうさんの遊あそびに行ゆくのを待まつて居ゐました。裏うら木き戸どの外そとへ出でて見みますと、そこにはまたお稻いな荷りさまの赤あかい小ちひさな社やしろの側そばに大おほきな栗くりの木きが立たつて居ゐました。風かぜでも吹ふいて栗くりの枝えだの搖ゆれるやうな朝あさに父とうさんがお家うちから馳かけ出だして行いつて見みますと﹃誰たれも來こないうちに早はやくお拾ひろひ。﹄と栗くりの木きが言いつて、三つづゝ一組くみになつた栗くりの實みの毬いがと一緒しよに落おちたのを父とうさんに拾ひろはせて呉くれました。高たかいところを見みると、ワンと口くちを開あいた栗くりの毬いがが枝えだの上うへから父とうさんの方はうを笑わらつて見みて居ゐまして、わざと落おちた栗くりの在ある塲ばし所よも教をしへずに、父とうさんに探さがし廻まはらせては悦よろこんで居をりました。﹃あんなところに落おちて居ゐるのが、あれが見みえないのかナア。﹄とは栗くりの毬いががよく父とうさんに言いふことでした。栗くりの木きは花はなからして提ちや灯うちんをぶらさげたやうに滑こつ稽けいな木きでしたし、どうかすると青あをい栗くり虫むしなぞを落おとしてよこして、人ひとをびつくりさせることの好すきな木きでしたが、でも父とうさんの好すきな木きでした。　　　一八　榎えの木きの實みお家うちの裏うらにある榎えの木きの實みが落おちる時じぶ分んでした。父とうさんはそれを拾ひろふのを樂たのしみにして、まだあの實みが青あをくて食たべられない時じぶ分んから、早はやく紅あかくなれ早はやく紅あかくなれと言いつて待まつて居ゐました。爺ぢいやは山やまへも木きを伐きりに行ゆくし畑はたけへも野やさ菜いをつくりに行いつて、何なんでもよく知しつて居ゐましたから、﹃まだ榎えの木きの實みは澁しぶくて食たべられません。もう少すこしお待まちなさい。﹄とさう申まをしました。父とうさんは榎えの木きの實みの紅あかくなるのが待まつて居ゐられませんでした。爺ぢいやが止とめるのも聞きかずに、馳かけ出だして木きの實みを拾ひろひに行ゆきますと、高たかい枝えだの上うへに居ゐた一羽はの橿かし鳥どりが大おほきな聲こゑを出だしまして、﹃早はや過すぎた。早はや過すぎた。﹄と鳴なきました。父とうさんは、枝えだに生なつて居ゐるのを打うち落おとすつもりで、石いしころや棒ぼうを拾ひろつては投なげつけました。その度たびに、榎えの木きの實みが葉はと一緒しよになつて、パラ〳〵パラ〳〵落おちて來きましたが、どれもこれも、まだ青あをくて食たべられないのばかりでした。そのうちに復また父とうさんは出で掛かけて行ゆきました。﹃大だい丈ぢや夫うぶ、榎えの木きの實みはもう紅あかくなつて居ゐる。﹄と安あん心しんして、ゆつくり構かまへて出で掛かけて行ゆきました。木きの實みを拾ひろひに行ゆきますと、高たかい枝えだの上うへに居ゐた橿かし鳥どりがまた大おほきな聲こゑを出だしまして、　﹃遲おそ過すぎた。遲おそ過すぎた。﹄と鳴なきました。父とうさんは、しきりと木きの下したを探さがし廻まはりましたが、紅あかい榎えの木きの實みは一ひとつも見みつかりませんでした。ゆつくり出で掛かけて行ゆくうちに、木きの下したに落おちて居ゐたのを皆みんな他ほかの子こど供もに拾ひろはれてしまひました。父とうさんがこの話はなしを爺ぢいやにしましたら、爺ぢいやがさう申まをしました。﹃一いち度どはあんまり早はや過すぎたし、一いち度どはあんまり遲おそ過す﹇＃ルビの﹁おそす﹂は底本では﹁はやす﹂﹈ぎました。丁ちや度うど好いい時ときを知しらなければ、好いい榎えの木きの實みは拾ひろはれません。私わたしがその丁ちや度うど好いい時ときを教をしへてあげます。﹄と申まをしました。ある朝あさ、爺ぢいやが父とうさんに﹃さあ早はやく拾ひろひにお出いでなさい、丁ちや度うど好いい時ときが來きました。﹄と教をしへました。その朝あさは風かぜが吹ふいて、榎えの木きの枝えだが搖ゆれるやうな日ひでした。父とうさんが急いそいで木きの下したへ行ゆきますと、橿かし鳥どりが高たかい木きの上うへからそれを見みて居ゐまして、﹃丁ちや度うど好いい。丁ちや度うど好いい。﹄と鳴なきました。榎えの木きの下したには、紅あかい小ちひさな球たまのやうな實みが、そこにも、こゝにも、一ぱい落おちこぼれて居ゐました。父とうさんは木きの周まは圍りを廻まはつて、拾ひろつても、拾ひろつても、拾ひろひきれないほど、それを集あつめて樂たのしみました。橿かし鳥どりは首くびを傾かしげて、このありさまを見みて居ゐましたが、﹃なんとこの榎えの木きの下したには好いい實みが落おちて居ゐませう。澤たく山さんお拾ひろひなさい。序ついでに、私わたしも一ひとつ御ごは褒う美びを出だしますよ。それも拾ひろつて行いつて下ください。﹄と言いひながら青あをい斑ぶちの入はいつた小ちいさな羽はねを高たかい枝えだの上うへから落おとしてよこしました。父とうさんは榎えの木きの實みばかりでなく、橿かし鳥どりの美うつくしい羽はねを拾ひろひ、おまけにその大おほきな榎えの木きの下したで、﹃丁ちや度うど好いい時とき。﹄まで覺おぼえて歸かへつて來きました。　　　　一九　木き曾その蠅はい木き曾そは蠅はいの多おほいところです。木き曾そには毎まい年とし馬うま市いちが立たつくらゐに、諸はう方〴〵で馬うまを飼かひますから、それで蠅はいが多おほいといひます。蠅はいは何なんにでも行いつて取とりつきます。荷にも物つをつけて通とほる馬うまにも取とりつけば、旅たび人びとの着きも物のにも取とりつきます。蠅はいは誰たれとでも直すぐ懇こん意いになりますが、そのかはり誰たれにでもうるさがられます。こんなうるさい蠅はいでも、道みち連づれとなれば懐なつかしく思おもはれたかして、木き曾その蠅はいのことを發ほつ句くに讀よんだ昔むかしの旅たび人ゞともありましたつけ。　　　二○　蚋ぶよ似にて、違ちがふもの――蠅はいと蚋ぶよ。蠅はいはうるさがられ、蚋ぶよは恐こはがられて居ゐます。蚋ぶよは人ひとをも馬うまをも刺さします。あの長ながくて丈ぢや夫うぶな馬うまの尻しつ尾ぽの房ふさ々〳〵とした毛けは、蚋ぶよを追おひ拂ふはらのに役やくに立たつのです。父とうさんが幼ちひ少さな時じぶ分んに晝ひる寢ねをして居ゐますと、どうかするとこの蚋ぶよに食くはれることが有ありました。その度たびに、お前まへ達たちの祖おぢ父いさんが大おほきな掌てのひらで、蚋ぶよを打うち懲こらして呉くれました。　　　二一　木きそ曾う馬ま木き曾そのやうに山やま坂さかの多おほいところには、その土と地ちに適てきした馬うまがあります。いくら體たい格かくの好いい立りつ派ぱな馬うまでも、平へい地ちにばかり飼かはれた動どう物ぶつでは、木き曾そのやうな土と地ちには適てきしません。そこで、石いしころの多おほい坂さか路みちを歩あるいても疲つかれないやうな強つよい脚あしの力ちからが、木きそ曾う生まれの馬うまには自しぜ然んと具そなはつて居ゐるのです。木きそ曾う馬まは小ちひさいが、足あし腰こしが丈ぢや夫うぶで、よく働はたらくと言いつて、それを買かひに來くる博ばく勞らうが毎まい年ねん諸しよ國こくから集あつまります。博ばく勞らうとは馬うまの賣うり買かひを商しや賣うばいにする人ひとのことです。木き曾その山さん地ちに育そだつた眼めつ付きの可かあ愛いらしい動どう物ぶつがその博ばく勞らうに引ひかれながら、諸しよ國こくへ働はたらきに出でるのです。　　　二二　御おん嶽たけ參まゐり﹃チリン〳〵。チリン〳〵。﹄山やまが夏なつらしくなると、鈴すゞの音おとが聞きこえるやうに成なります。御おん嶽たけ山さんに登のぼらうとする人ひと達たちが幾いく組くみとなく父さんのお家うちの前まへを通とほるのです。馬うまに乘のるか、籠かごに乘のるか、さもなければ歩あるいて旅たびをした以いぜ前んの木きそ曾かい街だ道うの時じぶ分んには、父とうさんの生うまれた神みさ坂かむ村らも驛えきの名なを馬まご籠めと言いひました。汽きし車やや電でん車しやの着つくところが今こん日にちのステエシヨンなら、馬うまや籠かごの着ついた父とうさんの村むらは昔むかしの木きそ曾かい街だ道う時じぶ分んのステエシヨンのあつたところです。ほら、何なに々〳〵の驛えきといふことをよく言いふでは有ありませんか。木き曾その山やまの中なかにあつた小ちひさな馬まご籠めえ驛きでも、言こと葉ばの意い味みに變かはりは無ないのです。丁ちや度うど、お隣となりで美み濃のの國くにの方はうから木き曽そ路ぢへ入はひらうとする旅たび人びとのためには、一いち番ばん最さい初しよの入いり口ぐちのステエシヨンにあたつて居ゐたのが馬まご籠めえ驛きです。御おん嶽たけ參まゐりが西にしの方はうから斯この木き曾その入いり口くちに着つくには、六ろく曲きよ峠くたうげといふ峠たうげを越こして來こなければなりません。そこが信しな濃のと美み濃のの國くに境ざかひで、父とうさんの村むらのはづれに當あたつて居ゐます。馬まご籠めの驛えきまで來くれば御おん嶽たけ山さんはもう遠とほくはない、そのよろこびが皆みんなの胸むねにあるのです。あの白しろい着きも物のに、白しろい鉢はち巻まきをした山やま登のぼりの人ひと達たちが、腰こしにさげた鈴りんをちりん〳〵鳴ならしながら多おほ勢ぜい揃そろつて通とほるのは、勇いさましいものでした。　　　二三　芭ばせ蕉をお翁うの石せき碑ひお前まへ達たちは芭ばせ蕉をお翁うの名なを聞きいたことが有ありませう。あの芭ばせ蕉をお翁うの木き曾そで讀よんだ發ほつ句くが石いしに彫ほりつけてあります。その古ふるい石せき碑ひが馬まご籠めの村むらはづれに建たてゝあります。美み濃のの國くに境ざかひに近ちかいところに、それがあります。﹃朝あさを思おもひ、また夕ゆふを思おもふべし。﹄と芭ばせ蕉をお翁うは教をしへた人ひとです。　　　二四　お百ひや草くさう御おん嶽たけ山さんの方はうから歸かへる人ひと達たちは、お百ひや草くさうといふ藥くすりをよく土みや産げに持もつて來きました。お百ひや草くさうは、あの高たかい山やまの上うへで採とれるいろ〳〵な草くさの根ねから製せいした練ねり藥ぐすりで、それを竹たけの皮かはの上うへに延のべてあるのです。苦にがい〳〵藥くすりでしたが、お腹なかの痛いたい時ときなぞにそれを飮のむとすぐなほりました。お藥くすりはあんな高たかい山やまの土つちの中なかにも藏しまつてあるのですね。　　　二五　檜ひの木きか笠さ麥むぎ藁わらでさへ帽ばう子しが出で來きるのに、檜ひの木きで笠かさが造つくれるのは不ふ思し議ぎでもありません。木き曾そは檜ひの木き﹇＃﹁檜木﹂は底本では﹁榎木﹂﹈の名めい所しよですから、あの木きを薄うすい板いたに削けづりまして、笠かさに編あんで冠かぶります。その笠かさの新あたらしいのは、好いい檜ひの木きの香にほ氣ひがします。木き曾その檜ひの木きは﹇＃﹁は﹂は底本では﹁を﹂﹈材ざい木もくとして立りつ派ぱなばかりでなく、赤あか味みのある厚あつい木きの皮かはは屋やね根い板たの代かはりにもなります。まあ、あの一ト擁かゝへも二ふた擁かゝへもあるやうな檜ひの木きの側そばへ、お前まへ達たちを連つれて行いつて見みせたい。　　　二六　ふるさとの言こと葉ば山やまや林はやしは父とうさんのふるさとですと、お前まへ達たちにお話はなししましたらう。山やまや林はやしばかりでなく、言こと葉ばも父とうさんのふるさとです。邊へん鄙ぴな山やまの中なかの村むらですから、言こと葉ばのなまりも鄙ひなびては居ゐますが、人ひとの名なま前への呼よび方かたからして馬まご籠めは馬まご籠めらしいところが有あります。たとへば、末すゑ子このやうなちひさな女をんなの子こを呼よぶにも、﹃末すゑさま。﹄と言いつたり、もつと親したしい間あひ柄だがらで呼よぶ時ときには、﹃末すゑさ﹄と言いつたりしまして、鄙ひなびた言こと葉ばの中なかにも何ど處こか優やさしいところが無ないでもありません。父とうさんの田ゐな舍かには﹃どうねき﹄などといふ言こと葉ばもあります。もう仕しま末つにおへないやうな人ひとのことを﹃どうねき﹄と言いひます。こんな言こと葉ばは木き曾そにだけ有あつて、他ほかの土と地ちには無ないのだらうかと思おもひます。それから、﹃わやく﹄といふやうな言こと葉ばもあります。﹃いたずらな子こど供も﹄といふところを﹃わやくな子こど供も﹄などゝ言いひます。ふるさとの言こと葉ばはこひしい。それを聞きくと、父とうさんは自じぶ分んの子こど供もの時じぶ分んに歸かへつて行ゆくやうな氣きがします。お前まへ達たちの祖おぢ父いさんでも、祖おば母あさんでも、みんなその言こと葉ばの中なかに生いきていらつしやるやうな氣きがします。　　　二七　お百ひや姓くしやうの苗めう字じ父とうさんの田ゐな舍かの方はうには働はたらくことの好すきなお百ひや姓くしやうが住すんで居ゐます。今いまでこそあの人ひと達たちに苗めう字じの無ない人ひとはありませんが、昔むかしは庄しや吉うきちとか、春はる吉きちとかの名なま前へばかりで、苗めう字じの無ない人ひと達たちが澤たく山さんあつたさうです。明めい治ぢのはじめを御ごゐ維つし新んの時ときと言いひまして、あの御ごゐ維つし新んの時ときから、どんなお百ひや姓くしやうでも立りつ派ぱな苗めう字じをつけることに成なつたさうです。父とうさんのお家うちにも出でい入りのお百ひや姓くしやうがありまして、お餅もちをつくとか、お茶ちやをつくるとかいふ日ひには、屹きつ度とお手てつ傳だひに來きて呉くれました。あの人ひと達たちはお前まへ達たちの祖おぢ父いさんのことを﹃お師しし匠やうさま、お師しし匠やうさま﹄と呼よんで居ゐました。あの人ひと達たちが苗めう字じをつける時ときのことを今いまから思おもひますと、﹃お師しし匠やうさま、孫まご子こに傳つたはることでございますから、どうかまあ私わた共しどもにも好よささうな苗めう字じを一つお願ねがひ申まをします。﹄斯かうもあつたらうかと思おもひます。そして、大おほ脇わき﹇＃ルビの﹁おほわき﹂は底本では﹁おはわき﹂﹈の脇わきの字じを分わけて貰もらふとか、蜂はち谷やの谷やの字じを分わけて貰もらふとかして、いろ〳〵な苗めう字じが村むらにふえて行いつたらうかと思おもひます。　　　二八　狐きつねの身みの上うへ話ばなしお稻いな荷りさまは五ごこ穀くの神かみを祀まつつたものですとか。五ごこ穀くとは何なんと何なんでせう。米こめに、麥むぎに、粟あはに、黍きびに、それから豆まめです。粟あはは粟あは餅もちの粟あは、黍きびはお前まへ達たちのお馴なじ染みな桃もゝ太たら郎うが腰こしにさげて居ゐる黍きび團だん子ごの黍きびです。父とうさんのお家うちの裏うらにも、斯このお百ひや姓くしやうの神かみ樣さまが祀まつつてありました。赤あかい鳥とり居ゐの奧おくにある小ちひさな社やしろがそれです。二月ぐわつ初はつ午うまの日ひには、お家うちの爺ぢいやが大おほきな太たい鼓こを持もち出だして、その社やしろの側わきの櫻さくらの枝えだの木きに掛かけますと、そこへ近きん所じよの子こど供もが集あつまりました。父とうさんもその太たい鼓こを叩たゝくのを樂たのしみにしたものです。お前まへ達たちはあの繪ゑ馬まを知しつて居ゐますか。馬うまの繪ゑをかいた小ちひさな額がくが諸はう方〴〵の社やしろに掛かけてあるのを知しつて居ゐますか。あの額がくの中なかには﹃奉ほう納なふ﹄といふ文も字じと、それを進あげた人ひとの生うまれた年としなぞが書かいてあるのに氣きがつきましたか。父とうさんのお家うちの裏うらに祀まつつてあるお稻いな荷りさまの社やしろにも、あの繪ゑ馬まがいくつも掛かゝつて居ゐました。それから、白しろい狐きつねの姿すがたをあらはした置おき物ものも置おいてありました。その白しろ狐ぎつねはあたりまへの狐きつねでなくて、寶はう珠じゆの玉たまを口くちにくはへて居ゐました。﹃お前まへさんがお稻いな荷りさまですか。﹄と父とうさんがその狐きつねにきいて見みました。さうしましたら白しろ狐ぎつねの答こたへるには、﹃どうしまして。私わたしはお稻いな荷りさまの使つかひですよ。この社やしろの番ばん人にんですよ。私わたしもこれで若わかい時じぶ分んには隨ずゐ分ぶんいたずらな狐きつねでして、諸はう方〴〵の畠はたけを荒あらしました。一體たい、私わたしの幼ちひ少さな時じぶ分んには、ごく弱よわかつたものですから、この白しろ狐ぎつねはこれでも育そだつかしら、と皆みんなに言いはれたくらゐださうです。その私わたしを可かあ哀いさうに思おもつて、親おや狐ぎつねは私わたしの言いふなりに育そだてゝ呉くれましたとか。私わたしは他ひとの言いふことなぞを聞きかないで、自じぶ分んのしたい事ことをしました。鷄にはとりが食たべたければ、鷄にはとりを盜ぬすんで來きました。そんな眞ま似ねをして、もう我わた儘まゝ一いつぱいに振ふる舞まつて居をりますうちに、だん〴〵私わたしは﹇＃﹁は﹂は底本では﹁ば﹂﹈獨ひとりぼつちに成なつてしまひました。誰たれも私わたしとは交つき際あはなくなりました。私わたしの眼めが覺さめる時じぶ分んには、誰だれも私わたしの言いふことを本ほん當たうにして呉くれる者ものはありませんでした。御ごら覽んの通とほり、私わたしは今いま、お稻いな荷りさまの社やしろの番ばん人にんをして居ゐます。私わたしのやうな狐きつねでも生うまれ變かはつたやうになれば、斯かうして社やしろの番ばん人にんをさせて頂いたゞけるのです。私わたしがもう若わかい時じぶ分んのやうな惡いた戯づらな狐きつねでない證しよ據うこには、この私わたしの口くちを御ごら覽んになつても分ります。私わたしがお稻いな荷りさまのお使つかひをして歩あるく度たびに、この口くちにくはへて居ゐる寶はう珠じゆの玉たまが光ひかります。﹄とさう申まをしました。　　　二九　生せい徒とさん、今こん日にちは村むらの學がく校かうの生せい徒とが石いし垣がきの間あひだの細ほそい道みちを歸かへつて來きますと、こちらの石いし垣がきから向むかふの石いし垣がきの方はうへ通とほりぬけようとする鼠ねずみがありました。丁ちや度うど、村むらでは惡いた戯づらをした鼠ねずみの噂うはさが傳つたはつて居ゐる頃ころでした。いかにそゝツかしい山やま家がの鼠ねずみでも、そこに寢ねて居ゐる女をんなの人ひとの鼻はなを間まち違がへて、お芋いもかなんかのやうに食たべようとしたなんて、そんなことはめつたに聞きかない惡いた戯づらですから。學がく校かうの生せい徒とに逢あつた鼠ねずみは賢かしこい鼠ねずみでした。他よ所その鼠ねずみの惡いた戯づらから、自じぶ分んまでその仕しか返へしをされては堪たまらないと思おもひましたから、先まづ自じぶ分んの鼻はなを大だい事じ﹇＃ルビの﹁だいじ﹂は底本では﹁なだいじ﹂﹈さうにおさへて居ゐまして、それから斯かう挨あい拶さつしました。﹃生せい徒とさん、今こん日にちは。﹄　　　三○　黒くろい蝶てふ蝶てふある日ひのことでした。父とうさんはお家うちの裏うら木き戸どの外そとをさん〴〵遊あそび廻まはりまして、木き戸どのところまで歸かへつて來きますと、高たかい枳から殼たちの木きの上うへの方はうに卵たまごでも産うみつけようとして居ゐるやうな大おほきな黒くろい蝶てふ々〳〵を見みつけました。いろ〳〵な可かあ愛いらしい蝶てふ々〳〵も澤たく山さんある中なかで、あの大おほきな黒くろい蝶てふ々〳〵ばかりは氣き味みの惡わるいものです。あれは毛けむ蟲しの蝶てふ々〳〵だと言いひます。何なんの氣きなしに父とうさんはその蝶てふ々〳〵を打うち落おとすつもりで、木き戸どの内うちの方はうから長ながい竹たけ竿ざをを探さがして來きました。ほら、枳から殼たちといふやつは、あの通とほりトゲの出でた、枝えだの込こんだ木きでせう。父とうさんが蝶てふ々〳〵をめがけて竹たけ竿ざをを振ふる度たびに、それが枳から殼たちの枝えだを打うつて、青あをい葉はがバラ〳〵落おちました。そのうちに蝶てふ々〳〵は父とうさんの竹たけ竿ざをになやまされて、手てき傷ずを負おつたやうでしたが、まだそれでも逃にげて行いかうとはしませんでした。そこいらにはもう誰だれも人ひとの居ゐない頃ころで、木き戸どに近ちかいお稻いな荷りさまの小ちひさな社やしろから、お家うちの裏うら手てにある深ふかい竹たけ籔やぶの方はうへかけて、何なにもかも、ひつそりとして居ゐました。大おほきな蝶てふ々〳〵だけが氣き味みの惡わるい黒くろい羽はねをひろげて、枳から殼たちのまはりを飛とんで居ゐました。それを見みると、父とうさんはその蝶てふ々〳〵を殺ころしてしまはないうちは安あん心しんの出で來きないやうな氣きがして、手てにした竹たけ竿ざをで、滅めち茶や々／々＼に枳から殼たちの枝えだの方はうを打うつて置おいて、それから木き戸どの内うちへ逃にげ込こみました。未いまだに父とうさんはあの時ときのことを忘わすれません。母も屋やの石いし垣がきの下したにある古ふるい池いけの横よこ手てから、ひつそりとした木き小ご屋やの前まへを通とほり、井ゐ戸どの側わきの石いし段だんを馳かけ登のぼるやうにしまして、祖おば母あさん達たちの居ゐる方はうへ急いそいで歸かへつて行いつた時ときのことを忘わすれません。それにつけても、父とうさんはある亞あめ米り利か加じ人んの話はなしを思おもひ出だします。その亞あめ米り利か加じ人んがまだ子こど供もの時じぶ分んに龜かめの子こを打うつた話はなしを思おもひ出だします。生うまれて初はじめて﹃惡わるい﹄といふ事ことをほんたうに知しつた、自じぶ分んで惡わるいと思おもひながら復また棒ぼうを振ふり上あげ〳〵して龜かめの子こを打うつのに夢むち中うになつてしまつた、あんな心こゝ持ろもちは初はじめてだ、さう亞あめ米り利か加じ人んの話はなしの中なかに書かいてあつたことを思おもひ出だします。その亞あめ米り利か加じ人んが母はゝ親おやから言いはれた言こと葉ばを引ひいて、あれが自じぶ分んの﹃良りや心うしんの眼めざめ﹄だ、自じぶ分んが一生しやうの中うちのどんな出でき來ご事とでもあんなに深ふかく長なが續つゞきのして殘のこつたものはない、とその話はなしにも言いつてありましたつけ。　　　　三一　梨なしの木きの下した子こど供もが片かた足あしづゝ揚あげて遊あそぶことを、東とう京きやうでは﹃ちん〳〵まご〳〵﹄と言いひませう。土と地ちによつては﹃足あし拳けん﹄と言いふところも有あるさうです。父とうさんの田ゐな舍かの方ほうではあの遊あそびのことを﹃ちんぐら、はんぐら﹄と言いひます。問とん屋やの三郎らうさんは近きん所じよの子こど供もの中なかでも父とうさんと同おない年どしでして、好いい遊あそび友とも達だちでした。父とうさんがお家うちの表おもてに出でて遊あそんで居をりますと、何い時つでも坂さかの上うへの方はうから降おりて來きて一緒しよに成なるのは、この三郎らうさんでした。二ふた人りは片かた足あしづゝ揚あげまして、坂さかになつた村むらの往わう来らいを﹃ちんぐら、はんぐら﹄とよく遊あそびました。ある日ひの夕ゆふ方がたの事こと、父とうさんは何なにかの事ことで三郎らうさんと爭あらそひまして、この好よい遊あそび友とも達だちを泣なかせてしまひました。三郎らうさんの祖おば母あさんといふ人ひとは日ひご頃ろ三郎らうさんを可かあ愛いがつて居ゐましたから、大たい層そう立りつ腹ぷくして、父とうさんのお家うちへ捩ねじ込こんで來きたのです。問とん屋やの祖おば母あさんと言いへば、なか〳〵負まけては居ゐない人ひとでしたからね。父とうさんはお家うちへ歸かへればきつと叱しかられることを知しつて居ゐましたから、しょんぼりと門もんの内なかまで歸かへつて行いきました。お家うちには廣ひろい板いたの間まの玄げん關くわんと、田ゐな舍かふ風うな臺だい所どころの入いり口ぐちと、入いり口ぐちが二つになつて居ゐましたが、その臺だい所どころの入いり口ぐちから見みますと、爐ろば邊たではもう夕ゆふ飯はんが始はじまつて居ゐました。ところが誰だれも父とうさんに﹃お入はいり﹄と言いふ人ひとがありません。﹃早はやく御ごは飯んをおあがり﹄と言いつて呉くれる者ものも有ありません。父とうさんは自じぶ分んのしたことで、こんなに皆みんなを怒おこらせてしまつたかと思おもひました。そのうちに、﹃お前まへはそこに立たつてお出いで。﹄といふ伯お父ぢさんの聲こゑを聞ききつけました。あのお前まへ達たちの伯お父ぢさんが、父とうさんには一いち番ばん年う長への兄にいさんに當あたる人ひとです。父とうさんは問とん屋やの三郎らうさんを泣なかせた罰ばつとして、庭にはに立たたせられました。あか〳〵と燃もえる樂たのしさうな爐ろの火ひも、みんなが夕ゆふ飯はんを食たべるさまも、庭にはの梨なしの木きの下したからよく見みえました。爺ぢいやは心しん配ぱいして、父とうさんを言いひなだめに來きて呉くれましたが、父とうさんは誰だれの言いふ事ことも聞きき入いれずに、みんなの夕ゆふ飯はんの濟すむまでそこに立たちつくしました。斯かういう塲ばあ合ひに、いつでも父とうさんを連つれに來きて呉くれるのはあのお雛ひなで、お雛ひなは父とうさんのために御ごは飯んまでつけて呉くれましたが、到たう頭とうその晩ばんは父とうさんは食たべませんでした。愚おろかな父とうさんは、好い事ことでも惡わるい事ことでもそれを自じぶ分んでして見みた上うへでなければ、その意い味みをよく悟さとることが出で來きませんでした。そのかはり、一いち度ど懲こりたことは、めつたにそれを二に度どする氣きにならなかつたのは、あの梨なしの木きの下したに立たたせられた晩ばんのことをよく〳〵忘わすれずに居ゐたからでありませう。　　　三二　翫おも具ちやは野のにも畠はたけにも父とうさんの幼ちひ少さい時ときのやうに山やまの中なかに育そだつた子こど供もは、めつたに翫おも具ちやを買かふことが出で來きません。假たと令へ、欲ほしいと思おもひましても、それを賣うる店みせが村むらにはありませんでした。翫おも具ちやが欲ほしくなりますと、父とうさんは裏うらの竹たけ籔やぶの竹たけや、麥むぎ畠ばたけに乾ほしてある麥むぎ藁わらや、それから爺ぢいやが野やさ菜いの畠はたけの方はうから持もつて來くる茄な子すだの南たう瓜なすだのゝ中なかへよく探さがしに行ゆきました。爺ぢいやが畠はたけから持もつて來くる茄な子すは、父とうさんに蔕へたを呉くれました。その茄な子すの蔕へたを兩りや足うあしの親おや指ゆびの間あひだにはさみまして、爪つま先さきを立たてゝ歩あるきますと、丁ちや度うど小ちひさな沓くつをはいたやうで、嬉うれしく思おもひました。南たう瓜なすも父とうさんに、蔕へたを呉くれました。﹃御ごら覽ん、私わたしの蔕へたの堅かたいこと。まるで竹たけの根ねのやうです。これをお前まへさんの兄にいさんのところへ持もつて行いつて、この裏うらの平たひらなところへ何なにか彫ほつてお貰もらひなさい。それが出で來きたら、紙かみの上うへへ押おして御ごら覽んなさい。面おも白しろい印いん行ぎやうが出で來きますよ。﹄と南たう瓜なすが教をしへて呉くれました。裏うらの竹たけ籔やぶの竹たけは父とうさんに竹たけの子こを呉くれました。それで竹たけの子この手てを桶けを造つくれ、と言いつて呉れくました。﹃こいつも、おまけだ。﹄と細ほそく竹たけの割わつたのまで呉くれてよこしました。その細ほそい竹たけを削けづりまして、竹たけの子この手てを桶けに差さしますと、それで提さげられるやうに成なるのです。水みづも汲くめます。父とうさんは表おも庭てにはの梨なしの木きや椿つばきの木きの下したあたりへ小ちひさな川かはのかたちをこしらへました。寄よせ集あつめた砂すなや土つちを二ふた列れつに盛もりまして、その中なかへ水みづを流ながしては遊あそびました。竹たけの子この手てを桶けで提さげて行いつた水みづがその小ちひさな川かはを流ながれるのを樂たのしみました。麥むぎ畠ばたけに熟じゆくした麥むぎは、父とうさんに穗ほさ先きの方はうの細ほそい麥むぎ藁わらと、胴どう中なかの方はうの太ふとい麥むぎ藁わらとを呉くれました。﹃是これをどうするんですか。黄きい色ろい麥むぎ藁わらでなけりや不いけ可ないんですか。﹄と父とうさんが聞ききましたら、麥むぎの言いふには、﹃ナニ、青あをいんでもかまひませんが、なるなら黄きい色ろい方はうがいゝ。麥むぎは熟じゆくするほど丈ぢや夫うぶですからね。この細ほそい麥むぎ藁わらの穗ほさ先きの方はうを輕かるく折をつてお置おきなさい。氣きをつけてしないと、折をれて、とれてしまひますよ。それから太ふとい麥むぎ藁わらの節ふしのある下したのところを一寸すんばかりお前まへさんの爪つめでお裂さきなさい。これも氣きをつけてしないと、みんな裂さけてしまひますよ。太ふとい麥むぎ藁わらには必かならず一いつ方ぱうに節ふしのあるのが要いります。それが出で來きましたら、細ほそい方はうの麥むぎ藁わらを太ふとい麥むぎ藁わらの裂さけたところへ差さし込こむやうになさい。﹄成なる程ほど麥むぎの言いふ通とほりにしましたら、子こど供もらしい翫おも具ちやが出で來きました。細ほそい麥むぎ藁わらを下したから引ひく度たびに、麥むぎの穗ほさ先きが動うごきまして、﹃今こん日にちは、今こん日にちは﹄と言いふやうに見みえました。父とうさんは、種いろ々〳〵な翫おも具ちやが野のにも畠はたけにもある事ことを知しりました。竹たけ籔やぶから取とつて來きた青あをい竹たけの子こ、麥むぎ畠ばたけから取とつて來きた黄きい色ろい麥むぎ藁わらで、翫おも具ちやを手てづ造くりにする事ことの言いふに言いはれぬ樂たのしい心こゝ持ろもちを覺おぼえました。畠はたけの隅すみに堤ちや燈うちんをぶらさげたやうな酸ほゝ醤づきが、父とうさんに酸ほゝ醤づきの實みを呉くれまして、その心しんを出だしてしまつてから、古ふるい筆ふでの軸ぢくで吹ふいて御ごら覽んと教をしへて呉くれました。筆ふでの軸ぢくは先さきの方はうだけを小こが刀たなか何なにかで幾いくつにも割わりまして、朝あさ顏がほのかたちに折をり曲まげるといゝのです。その受うけ口くちへ玉たまのやうにふくらめた酸ほゝ醤づきをのせ、下したから吹ふきましたら、輕かるい酸ほゝ醤づきがくる〳〵と舞まひあがりました。そして朝あさ顏がほなりの管くだの上うへへ面おも白しろいやうに落おちて來きました。　　　三三　旅たびの飴あめ屋やさん父とうさんの村むらへも、たまには飴あめ屋やさんが通とほりました。旅たびの飴あめ屋やさんは、天てん平びん棒ぼうでかついて來きた荷にを村むらの石いし垣がきの側わきにおろして、面おも白しろをかしく笛ふえを吹ふきました。なんと、飴あめ屋やさんの上じや手うずに笛ふえを吹ふくこと。飴あめ屋やさんは棒ぼうの先さきに卷まきつけた飴あめを父とうさんにも賣うつて呉くれまして、それから斯かう言いひました。﹃さあ、おいしい飴あめですよ。これを食たべて、おとなしくして居ゐて下くださると、復また私わたしが飴あめをかついで來きてあげますよ。﹄日ひに燒やけて旅たびをして歩あるく斯この飴あめ屋やさんは、何ど處こか遠とほいところからかついで來きた荷にを復また肩かたに掛かけて、笛ふえを吹ふき〳〵出で掛かけました。あの飴あめ屋やさんの吹ふく笛ふえは、そこいらの石いし垣がきへ浸しみて行いくやうな音ねい色ろでした。　　　三四　水すゐ晶しやうのお土み産やある日ひ、父とうさんは人ひとに連つれられて梵ぼん天てん山やまといふ方はうへ行いきました。赤あかい躑つゝ躅じの花はななぞの咲さいて居ゐる山やま路みちを通とほりまして、その梵ぼん天てん山やまへ行いつて見みますと、そこは水すゐ晶しやうの出でる山やまでした。父とうさんはめづらしく思おもひまして、あちこちと見みて歩あるいて居ゐますと、路みちばたに大おほきな岩いはがありました。その岩いはが父とうさんに、彼あそ處こを御がら覽ん、こゝを御ごら覽ん、と言いひまして、半はん分ぶん土つちのついた水すゐ晶しやうがそこいらに散ちらばつて居ゐるのを指さして見みせました。﹃あそこにも水すゐ晶しやうの塊かたまりがありますよ。﹄とまた岩いはが父とうさんに指さして見みせました。その水すゐ晶しやうは千せん本ぼん濕しめ地ぢといふ茸きのこのかたまつて生はえたやうに、枝えだに枝えだがさしたやうになつて居ゐまして、その枝えだの一つ一つが、みんな水すゐ晶しやうの形かたちをして居ゐました。﹃こんなところから水すゐ晶しやうが出でるんですか。﹄と父とうさんが聞ききましたら、﹃えゝ﹇＃﹁ゝ﹂は底本では﹁う﹂﹈、さうです。水すゐ晶しやうはみんな斯かうして生うまれて來きます。人ひとは遠とほいところにばかり眼めをつけて、足あし許もとに落おちて居ゐる寶ほう石せきを知しらずに居ゐますよ。さういふお前まへさんは、この山やまは初はじめてゞすか。よく來きて下くださいました。山やまの土みや産げに、あそこに落おちて居ゐる美うつくしい水すゐ晶しやうでも一つ拾ひろつて行いつて下ください。﹄斯かうその岩いはが答こたへました。父とうさんはそこいらを探さがし廻まはりまして、眼めについた水すゐ晶しやうの中なかでも一いち番ばん光ひかつたのを土みや産げに持もつて歸かへりました。　　　三五　雄おん鷄どりの冒ばう險けん若わかい雄おん鷄どりがありました。他ほかの鷄にはとりと同おなじやうに、この雄おん鷄どりも人ひとの家うちに飼かはれて大おほきくなりました。小ちひさな雛ひよツ子この時じふ分んから、雄おん鷄どりは自じぶ分んで飛とべないものとばかり思おもつて居ゐましたが、だん〴〵大おほきくなるうちに、自じぶ分んに生はえて居ゐる羽はねを見みてびつくりしました。雄おん鷄どりはまだ若わかくて元げん氣きがありましたから、こんな立りつ派ぱな羽はねがあるなら一つこれで飛とんで見みたいと思おもふやうに成なりました。そこで林はやしの方はうへ出で掛かけて行いきまして、他ほかの鳥とりと同おなじやうに飛とばうとしました。林はやしには百も舌ずが遊あそんで居ゐました。百も舌ずは雄おん鷄どりの方はうを見みては笑わらひました。そこへ鶸ひはも舞まつて來きました。鶸ひはは雄おん鷄どりの方はうを見みて、百も舌ずと同おなじやうに笑わらひました。何なん度ども何なん度ども雄おん鷄どりは木きの枝えだへ上のぼりまして、そこから飛とばうとしましたが、その度たびに羽はねをばた〴〵させて舞まひ降おりてしまひました。百も舌ずには笑わらはれる、鶸ひはにも笑わらはれる、そのうちに雄おん鷄どりは餌えを欲ほしくなりましたが、林はやしの中なかにある木きの實みや虫むしはみんな他ほかの鳥とりに早はやく拾ひろはれてしまひました。誰だれも雄おん鷄どりのために米こめ粒つぶ一ひとつまいて呉くれるものも有ありませんでした。でも、この雄おん鷄どりは若わかかつたものですから、どうかして飛とんで見みたいと思おもひまして、木きの枝えだへ上のぼつて行いつては羽はねをひろげました。その度たびに舞まひ降おりるばかりでした。雄おん鷄どりはもう高たかい聲こゑで閧ときをつくるやうな勇ゆう氣きも挫くじけまして、﹃クウ〳〵、クウ〳〵。﹄と拾ひろふ餌えもなくて鳴なきました。そこへ山やま鳩ばとが通とほりかゝりました。山やま鳩ばとは林はやしの中なかに聞きき慣なれない鷄にはとりの鳴なき聲ごゑを聞ききつけまして、傍そばへ飛とんで來きました。百も舌ずや鶸ひはとちがひ、山やま鳩ばとは見みず知しらずの雄おん鷄どりをいたはりました。﹃もうすこしの辛しん抱ぼう――もうすこしの辛しん抱ぼう――﹄と鳴ないて、山やま鳩ばとは林はやしの奧おくの方はうへ飛とんで行いきました。饑かつえた雄おん鷄どりは一いつ生しや懸うけ命んめいに餌えを探さがしはじめました。他ほかの鳥とりに拾ひろはれないうちに、自じぶ分んで木きの實みや虫むしを見みつけるためには、否いやでも應おうでも飛とばなければ成なりませんでした。その時ときになつて、初はじめて雄おん鷄どりの羽はねが動うごいて來きました。そして餌えらしい餌えにありつきました。雄おん鷄どりはこの林はやしへ飛とびに來きて見みて、鷹たかがあんな高たかい空そらを舞まつて歩あるくのも、自じぶ分んで餌えを見みつけに行いくのだといふことを知しりました。　　　三六　たなばたさま三月ぐわつ、五月ぐわつのお節せつ句くは、樂たのしい子こど供ものお祭まつりです。五月ぐわつのお節せつ句くには、父とうさんのお家うちでも石いしを載のせた板いた屋や根ねへ菖しや蒲うぶをかけ、爺ぢいやが松まつ林ばやしの方はうから採とつて來くる笹さゝの葉はで粽ちまきをつくりました。七月ぐわつになりますと、又また、たなばたさまのお祭まつりの日ひが山やまの中なかの村むらへも來きました。たなばたさまのお祭まつりに飾かざる竹たけは、あれは外ぐわ國いこくの田ゐな舍か家やで飾かざるといふクリスマスの木きにも比くらべて見みたいやうなものです。墨すみや紅べにを流ながして染そめた色いろ紙がみ、または赤あかや黄きや青あをの色いろ紙がみを短たん册ざくの形かたちに切きつて、あの青あをい竹たけの葉はの間あひだに釣つつたのは、子こど供もご心ゝろにも優やさしく思おもはれるものです。　　　三七　巴はた且んき杏やう巴はた且んき杏やうの生なる時じぶ分んには、お家うちの裏うらのお稻いな荷りさまの横よこ手てにある古ふるい木きにも、あの實みが密かた集まつて生なりました。父とうさんは自じぶ分んの子こど供もの時じぶ分んと、あの巴はた且んき杏やうの生なる時じぶ分んとを、別べつ々〳〵にして思おもひ出だせないくらゐです。巴はた且んき杏やうは李すもゝより大おほきく、味あぢも李すもゝのやうに酸すくはありません。あの木きは、先さきの方はうの少すこし尖とがつて角つのの出でたやうな、見みたばかりでもおいしさうに熟じゆくしたやつを毎まい年ねんどつさり父とうさんに御ごち馳そ走うして呉くれましたつけ。　　　三八　鰍かじかすくひ父とうさんの兄きや弟うだいの中なかに三つ年としの上うへな友とも伯を父ぢさんといふ人ひとがありました。この友とも伯を父ぢさんに、隣とな家りの大だい黒こく屋やの鐵てつさん――この人ひと達たちについて、父とうさんもよく鰍かじかすくひと出で掛かけました。胡くる桃み、澤さは胡くる桃みなどゝいふ木きは、山ぶ毛な欅の木きなぞと同おなじやうに、深ふかい林はやしの中なかには生はえないで、村むら里さとに寄よつた方はうに生はえて居ゐる木きです。漆うるしの葉はを大おほきくしたやうなあの胡くる桃みの葉はの茂しげつたところは、鰍かじかの在あり所かを知しらせるやうなものでした。何な故ぜかといひますに、胡くる桃みの生はえて居ゐるところへ行いつて見みますと、きまりでその邊へんには水みづが流ながれて居ゐましたから。父とうさん達たちは笊ざるを持もつて行ゆきまして、石いしの間あひだに隱かくれて居ゐる鰍かじかを追おひました。もしかして笊ざるのかはりに釣つり竿ざををかついで、何なにかもつと他ほかの魚さかなをも釣つりたいと思おもふ時ときには、爺ぢいやに頼たのんで釣つり竿ざをを造つくつて貰もらひました。斯かういふ遊あそびにかけては、友とも伯を父ぢさんはなか〳〵※ねつ心しん﹇＃﹁熱﹂の左上が﹁幸﹂、142-2﹈でした。なにしろ父とうさんの村むらには釣つりの道だう具ぐ一つ賣うる店みせもなかつたものですから、釣つり竿ざをの先さきにつける糸いとでも何なんでもみんな友とも伯を父ぢ﹇＃﹁友伯父﹂は底本では﹁及伯父﹂﹈さんが爺ぢいやに手てつ傳だつて貰もらつて造つくりました。糸いとは栗くりの木きの虫むしから取とりました。その栗くりの木きの虫むしから取とれた糸いとを酢すに浸つけて、引ひき延のばしますと、木き小ご屋やの前まへに立たつ爺ぢいやの手てから向むかふの古ふるい池いけの側わきに立たつ友とも伯を父ぢさんの手てに屆とゞくほどの長ながさがありました。それを日ひに乾ほして、釣つり竿ざをの糸いとに造つくることなどは、友とも伯を父ぢさんも好すきでよくやりました。斯この釣つりの道だう具ぐを提さげて、友とも伯を父ぢさん達たちと一いつ緒しよに復また胡くる桃みの木きの見みえる谷たに間あひへ出で掛かけますと、何い時つでも父とうさんは魚さかなに餌えを取とられてしまふか、さもなければもう面めん倒だう臭くさくなつて釣つり竿ざをで石いしの間あひだをかき廻まはすかしてしまひました。そしてお家うちの方はうへ歸かへつて來くる度たびに、﹃釣つり竿ざをばかりでは、魚さかなは釣つれませんよ。﹄と爺ぢいやに笑わらはれました。　　　三九　祖おば母あさんの鍵かぎお前まへ達たちの祖おば母あさんのことは、前まへにもすこしお話はなし﹇＃ルビの﹁はなし﹂は底本では﹁はなた﹂﹈したと思おもひます。祖おば母あさんは、父とうさんが子こど供もの時じぶ分んの着きも物のや帶おびまで自じぶ分んで織おつたばかりでなく、食たべるもの――お味み噌そからお醤しや油うゆの類たぐひまでお家うちで造つくり祖おば母あさんが自じぶ分んの髮かみにつける油あぶらまで庭にはの椿つばきの實みから絞しぼりまして、物ものを手てづ造くりにすることの樂たのしみを父とうさんに教をしへて呉くれました。﹃質しつ素そ﹄を愛あいするといふことを、いろ〳〵な事ことで父とうさんに教をしへて見みせて呉くれたのも祖おば母あさんでした。祖おば母あさんはよく※あつ﹇＃﹁熱﹂の左上が﹁幸﹂、145-2﹈い鹽しほのおむすびを庭にはの朴はうの木きの葉はにつゝみまして、父とうさんに呉くれました。握にぎりたてのおむすびが彼あ樣うすると手てにくツつきませんし、その朴はうの葉はの香にほ氣ひを嗅かぎながらおむすびを食たべるのは樂たのしみでした。この祖おば母あさんと言いへば、廣ひろい玄げん關くわんの側わきの板いたの間まで機はたを織おりながら腰こし掛かけて居ゐる人ひとと、味みそ噌ぐ藏らの側わきの土どざ藏うの前まへに立たつて大おほきな鍵かぎを手てにして居ゐる人ひととが、今いまでもすぐに父とうさんの眼めに浮うかんで來きます。祖おば母あさんの鍵かぎは金かな網あみの張はつてある重おもい藏くらの戸とを開あける鍵かぎで、紐ひもと板いた片きれをつけた鍵かぎで、いろ〳〵な箱はこに入はひつた器うつ物はを藏くらから取とり出だす鍵かぎでした。祖おば母あさんがおよめに來きた時ときの古ふるい長なが持もちから、お前まへ達たちの祖おぢ父いさんの集あつめた澤たく山さんな本ほん箱ばこまで、その藏くらの二階かいにしまつて有ありました。祖おば母あさんはあの鍵かぎの用ようが濟すむと、藏くらの前まへの石いし段だんを降おりて、柿かきの木きの間あひだを通とほりましたが、そこに父とうさんがよく遊あそんで居ゐたのです。味みそ噌ぐ藏らの階う上へには住すま居ゐに出で來きた二階かいがありました。そこがお前まへ達たちの曾ひい祖おば母あさんの隱ゐん居きよ部べ屋やになつて居ゐました。　　　四○　祖おぢ父いさんの好すきな御ごへ幣いも餅ち木き曾その御ごへ幣いも餅ちとは、平ひらたく握にぎつたおむすびの小ちいさいのを二つ三つぐらゐづゝ串くしにさし、胡くる桃みし醤やう油ゆうをかけ、爐ろの火ひで燒やいたのを言いひます。その形かたちが似にて居ゐるから御ごへ幣いも餅ちでせう。人ひと々〴〵は爐ろば邊たに集あつまりまして、燒やきたてのおいしいところを食たべるのです。お前まへ達たちの祖おぢ父いさんは、この御ごへ幣いも餅ちが好すきでした。日ひご頃ろ村むらの人ひと達たちから﹃お師しし匠やうさま、お師しし匠やうさま。﹄と親したしさうに呼よばれて居ゐたのも、この御ごへ幣いも餅ちの好すきな祖おぢ父いさんでした。祖おぢ父いさんは學がく問もんの人ひとでしたから、﹃三さん字も文じ﹄だの﹃勸くわ學んが篇くへん﹄だのといふものを自じぶ分んで書かいて、それを少せう年ねんの讀とく本ほんのやうにして、幼ちひ少さな時じぶ分んの父とうさんに教をしへて呉くれました。山やまの中なかにあつた父とうさんのお家うちでは、何なにから何なにまで手てせ製いでした。手てな習らひのお手てほ本んから讀とく本ほんまで、祖おぢ父いさんの手てせ製いでした。　　　四一　お隣となりの人ひと達たちお隣となりの大だい黒こく屋やは酒さけを造つくる家うちでした。そこの家うちでお風ふ呂ろが立たてば父とうさんのお家うちへ呼よびに來きましたし、父とうさんのお家うちでお風ふ呂ろが立たてばお隣となりりからも呼よばれて入はひりに來きました。田ゐな舍かのことで、日ひが暮くれてからお隣となりまでお風ふ呂ろを呼よばれに行いくにも、祖おば母あさん達たちは提ちや灯うちんつけて通かよひました。二軒けんの家うちのものは、それほど親したしく往いつたり來きたりしましたから、子こど供もど同う志しも互たがひに親したしい遊あそび友とも達だちでした。それに、お隣となりの鐵てつさんでも、その妹いもうとのお勇ゆうさんでも、祖おぢ父いさんのお弟で子しとして父とうさんのお家うちへ通かよつて來きました。父とうさんのお家うちの方はうから見みますと、大だい黒こく屋やは一いち段だんと高たかい石いし垣がきの上うへにありまして、その石いし垣がきのすぐ下したのところまで父とうさんのお家うちの桑くは畠ばたけが續つゞいて居ゐましたから、朝あさ日ひでもさして來くるとお隣となりの家うちの白しろい壁かべがよく光ひかりました。父とうさんはこゝでお前まへ達たちに、自じぶ分んの生うま﹇＃ルビの﹁うま﹂は底本では﹁う﹂﹈れたお家うちのこともすこしお話はなししようと思おもひます。父とうさんのお家うちは昔むかしは本ほん陣ぢんと言いひまして、村むらでも舊ふるい〳〵お家うちでした。父とうさんの幼ちひ少さな時じぶ分んには、昔むかしのお大だい名みやうが木き曽そ路ぢを通とほる時ときに泊とまつたといふ古ふる﹇＃ルビの﹁ふる﹂は底本では﹁ふ﹂﹈い部へ屋やまで殘のこつて居ゐました。部へ屋や々／々＼には、いろ〳〵な名なま前へが昔むかしからつけてありまして、上じや段うだんの間ま、奧おくの間ま、中なかの間ま、次つぎの間ま、それから寛くつろぎの間まなぞといふのが有ありました。祖おぢ父いさんはいつでも書しよ院ゐんに居ゐました。父とうさんもその書しよ院ゐんに寢ねましたが、曾ひい祖おば母あさんが獨ひとりで寂さびしいといふ時ときには離はなれの隱ゐん居きよ部べ屋やへも泊とま﹇＃ルビの﹁とま﹂は底本では﹁ま﹂﹈りに行いくことが有ありました。祖おぢ父いさんの書しよ院ゐんの前まへには、白しろい大おほきな花はなの咲さく牡ぼた丹んがあり、古ふるい松まつの樹きもありました。月つきのいゝ晩ばんなぞには松まつの樹きの影かげが部へ屋やの障しや子うじに映うつりました。この書しよ院ゐんから中なかの間まへつゞく廊らう下かのあたりは、父とうさんのよく遊あそんだところです。中なかの間まはお家うちのなかでも一番ばん明あかるい部へ屋やでして、遠とほく美み濃のの國くにの方はうの空そらまでその部へ屋やから見みえました。祖おば母あさんや伯を母ばさんが針はり仕しご事とをひろげるのもその部へ屋やでしたし、父とうさんが武むし者や繪ゑの敷しき寫うつしなどをして遊あそぶのもその部へ屋やでしたし、お隣となりのお勇ゆうさんが手てな習らひに來きて祖おぢ父いさんの書かいたお手てほ本んを習ならふのもその部へ屋やでした。お隣となりの鐵てつさんは、父とうさんのお家うちの友とも伯を父ぢさんと同おない年どしぐらゐで、一いつ緒しよに遊あそぶにも父とうさんの方はうがいくらか弟おとうとのやうに思おもはれるところが有ありました。近きん所じよの子こど供もの中なかで、遊あそんで氣きの置おけないのは、問とん屋やの三郎らうさんに、お隣となりのお勇ゆうさんでした。この人ひと達たちは父とうさんと同おない年どしでした。祖おぢ父いさんは字じを書かくことが好すきで、赤あかい毛まう氈せんの上うへへ大おほきな紙かみをひろげて、夜よ遲おそくなるまで何なにかよく書かきましたが、その度たびに眠ねむい眼めをこすり〳〵蝋らふ燭そくを持もたせられるのはお勇ゆうさんや父とうさんの役やく目めでした。末すゑ子こよ。お前まへは﹃おばこ﹄といふ草くさの葉はを採とつて遊あそんだことが有ありますか。あの草くさの葉はは糸いとにぬいて、みんなよく織おる真ま似ねをして遊あそびませう。お隣となりのお勇ゆうさんもあの﹃おばこ﹄を採とつて來きて織おることを樂たのしみにするやうな幼をさない年とし頃ごろでした。　　　四二　屋やが號うどこの田ゐな舍かにもあるやうに、父とうさんの村むらでも家いへ毎ごとに屋やが號うがありました。大だい黒こく屋や、俵たは屋らや、八やは幡た屋や、和いづ泉み屋や、笹さゝ屋や、それから扇あふ屋ぎやといふやうに。笹さゝ屋やとは笹さゝのやうに繁しげる家いへ、扇あふ屋ぎやとは扇あふぎのやうに末すゑの廣ひろがる家いへといふ意い味みからでせう。でも笹さゝ屋やと言いつてもそれを﹃笹さゝの家や﹄と思おもふものもなく、扇あふ屋ぎやと言いつても﹃扇あふぎの家や﹄と思おもふものはありません。屋やが號うといふものは、その家いへ々〳〵の符ふて牒ふのやうに思おもはれて居ゐるものでした。　　　四三　お墓はか參まゐりの道みち村むらの人ひと達たち――殊ことに女をんなの人ひと達たちの通とほる裏うら道みちは並ならんだ人じん家かに添そふて村むらの裏うら側がはに細ほそくついて居ゐました。父とうさんのお家うちの裏うら木き戸どから、竹たけ籔やぶについて廻まはりますと、その細ほそい裏うら道みちへ出でました。祖おば母あさんに連つれられて、父とうさんはよくその道みちをお墓はかの方はうへ通かよひました。お墓はかへ行いく道みちは、村むらのものだけが通とほる道みちです。旅たび人びとの知しらない道みちです。田たは畠たけに出でて働はたらく人ひと達たちの見みえる樂たのしい靜しづかな道みちです。父とうさんのお家うちのお墓はかは永えい昌しや寺うじまで登のぼる坂さかの途とち中うを左ひだりの方はうへ曲まがつて行いつたところにありました。これが誰だれだ、あれが誰だれだ、と言いつて祖おば母あさんの教おしへて呉くれるお墓はかの中なかには、戒かい名みやうの文も字じを赤あかくしたのが有ありました。その赤あかい戒かい名みやうはまだこの世よに生いきて居ゐる人ひとで、旦だん那なさんだけ亡なくなつた曾ひい祖おば母あさんのやうな人ひとのお墓はかでした。祖おば母あさんは古ふるい苔こけの生はえたお墓はかのいくつも並ならんだ石いし壇だんの上うへを綺きれ麗いに掃はいたり、水みづをまいたりして、﹃御ごせ先ん祖ぞさま、今こん日にちは。﹄と言いふやうにお花はなを上あげました。祖おば母あさんがお墓はかの竹たけ箒ぼほぎを立たてかけて置おくところは大おほきな杉すぎの木きの根ねキでしたが、その杉すぎの木きの間あひだから馬まご籠めの村むらが見みえました。お墓はかにある御ごせ先ん祖ぞさまは永えい昌しや院うゐ殿んどんと言いひました。永えい昌しや寺うじのお寺てらと同おなじ名なでした。あの御ごせ先ん祖ぞさまが馬まご籠めの村むらも開ひらけば、お寺てらも建たてたといふことです。あれは父とうさんのお家うちの御ごせ先ん祖ぞさまといふばかりでなく、村むらの御ごせ先ん祖ぞさまでもあるといふことです。なんと、あの御ごせ先ん祖ぞさまのやうに、開ひらかうと思おもへばこんな村むらも開ひらけて行ゆきますし、建たてようと思おもへば永えい昌しや寺うじのやうなお寺てらが建たつて、それが父とうさんの代だいまで續つゞいて來きて居ゐます。先まづ、思おもへ。何なにもかもそこから始はじまります。御ごせ先ん祖ぞさまがさう思おもつてこんな山やまの中なかへ村むらを開ひらきはじめたといふことには、大おほきな力ちからがありますね。　　　四四　蜂はちの子こ地ぢば蜂ちといふ蜂はちは、よく〳〵土つちのにほひが好すきと見みえまして、地ぢべたの中なかへ巣すをかけます。土ど手ての側わきのやうなところへ巣すの入いり口ぐちの穴あなをつくつて置おきます。蜜みつ蜂ばち、赤あか蜂ばち、土つち蜂ばち、熊くまン蜂ばち、地ぢば蜂ち――木き曾そのやうな山やまの中なかにはいろ〳〵な蜂はちが巣すをかけますが、その中なかでも大おほきな巣すをつくるのは熊くまン蜂ばちと地ぢば蜂ちです。熊くまン蜂ばちは古ふるい土どへ塀いの屋や根ねの下したのやうなところに大おほきな巣すをかけますが、地ぢば蜂ちの巣すもそれに劣おとらないほどの堅けん固ごなもので、三階がいにも四階かいにもなつて居ゐて、それが漆うるしの柱はしらで支さゝへてあります。こんなに地ぢば蜂ちの巣す﹇＃﹁巣す﹂は底本では﹁親おや﹂﹈は大おほきいのですが、地ぢば蜂ちの親おやといふものは小ちひさな蜂はちで、熊くまン蜂ばちの半はん分ぶんもありません。あの小ちひさな建けん築ちく技ぎ師しが三階がいも四階かいもある巣すを建たてゝ、一階かい毎ごとに澤たく山さんな部へ屋やを造つくるのですから、そこには餘よほ程どの協あはせた力ちからといふものが入はいつて居ゐるのでせう。父とうさんの田ゐな舍かの方はうではあの蜂はちの子こを佃つく煮だにのやうにして大たい層そう賞しや美うびすると聞きいたら、お前まへ達たちは驚おどろくでせうか。一ひと口くちに蜂はちの子こと言いひましても、木き曾そで賞しや美うびするのは地ぢば蜂ちの巣すから取とつた子こだけです。蜂はちの親おやは食たべませんが、どうかするとあの巣すの中なかからは親おやに成なりかけたのが出でて來きます。それを食たべます。お前まへ達たちはそこいらに居ゐる蜂はちが庭にはなぞへ飛とんで來きて花はなの蕋しべを出でたり入はいつたりするのを見みかけるでせう。それからあの黄きい色ろい蓋ふたのしてある蜂はちの巣すの見みご事とに出で來きたのを見みかけることも有あるでせう。蜂はちは汚きたないものでは有ありません。もしお前まへ達たちが木き曾そでいふ﹃蜂はちの子こ﹄を食たべ慣なれて、あたゝかい御ごは飯んの上うへにのせて食たべる時ときの味あぢを覺おぼえたら、﹃父とうさん、こんなにおいしものですか。﹄と言いふやうに成なるでせう。ある日ひ、友とも伯を父じさんは裏うらの木き小ご屋やの近ちかくにある古ふるい池いけで蛙かへるをつかまへました。土と地ちのものが地ぢば蜂ちの巣すを見みつけるには、先まづ蛙かへるの肉にくを餌えにします。それを友とも伯を父ぢさんはよく知しつて居ゐましたから、細ほそい竿さをの先さきに蛙かへるの肉にくを差さし、飛とんで來くる蜂はちの眼めにつきさうな塲ばし處よに立てゝ、別べつに餌えにする小ちひさな肉にくには紙かみの片きれをしばりつけて出だして置おきました。丁ちや度うど釣つりをするものが魚さかなを待まつて居ゐるやうに、友とも伯を父ぢさんは蜂はちの來くるのを待まつて居ゐました。蛙かへるの肉にくを食たべに來きた蜂はちは餌えをくはへて巣すの方はうへ飛とんで行いきますが、その小ちひさな蛙かへるの肉にくについた紙かみの片きれで巣すの行ゆく衛ゑを見みさ定だめるのです。斯かうして友とも伯を父ぢさんは近きん所じよの子こど供もた達ちと一緒しよに、ある地ぢば蜂ちの巣すを見みつけたことが有ありました。地ぢば蜂ちの巣すを取とりに行ゆくものは、巣すの出でい入りぐ口ちへ火くわ藥やくを打うち込こんで、澤たく山さんな親おや蜂ばちが眼めを廻まはして居ゐる間まに獲えも物のを手てに入いれるのだと聞ききました。そして巣すを持もつて逃にげ歸かへるのだと聞ききました。どうかすると蘇いき生かへつた蜂はちに追おはれて刺さされたといふ人ひとの話はなしも聞ききました。さうなると鐵てつ砲ぱうをかついで獸けものを打うちに行ゆくも同おなじやうなものです。　　　四五　青あをい柿かき﹃もうお前まへさんはそんなに赤あかくなつたのですか。﹄とまだ青あをくて居ゐる柿かきが、お隣となりの柿かきに言いひました。この青あをい柿かきと、赤あかい柿かきとは、お百ひや姓くしやうの家うちの庭にはにある二本ほんの柿かきの木きの枝えだに生なつて居ゐました。赤あかい柿かきは青あをい柿かきを慰なぐさめようと思おもひまして、﹃さう、力ちからを落おとすものでは有ありません。お前まへさんだつても今いまに、私わたしのやうに好いい色いろがつきますよ。﹄と言いひましたら、青あをい柿かきは首くびを振ふりまして、﹃いえ、あのお猿さるさんが蟹かににぶつけたのも、きつと私わたしのやうな澁しぶい柿かきで、自じぶ分んで取とつて食たべたといふのはお前まへさんのやうな甘あまい柿かきですよ。﹄と力ちからを落おとしたやうに言いひました。お百ひや姓くしやうは庭にはへ見みま廻はりに來きまして、赤あかい柿かきを大おほきな笊ざるに入いれて持もつて行いつてしまひました。その木きの枝えだの高たかい上うへの方はうには、たつた一つだけ柿かきの赤あかいのが殘のこつて居ゐました。殘のこつた赤あかい柿かきが高たかいところからお隣となりの柿かきを見みますと、まだ一つも色いろのついたのが有ありませんでしたから、﹃どうしてお前まへさんは、そんなに愚ぐ圖づ々／々＼して居ゐるんですか。﹄と尋たづねました。さう言いはれると、青あをい柿かきはまた力ちからを落おとしたやうに、﹃澁しぶい柿かきは何い時つまでたつても澁しぶいと言いひますよ。さういへば節せつ分ぶんの日ひに、棒ぼうを持もつた人ひとが來きて、﹃さあ、生なると申まをすか、生ならぬと申まをすか﹄と言いつて、柿かきの木きを打うちませう。その時とき、もう一ひと人りの人ひとが柿かきの木きに代かはつて、﹃生なります、生なります﹄と答こたへますね。あの棒ぼうで強つよく打うたれゝば打うたれるほど、柿かきは甘あまくなるとかき聞ききました。どうも私わたしは節せつ分ぶんの日ひに、棒ぼうで打うたれ方かたが足たりなかつたと思おもひます。﹄と答こたへました。柿かきの好すきなお百ひや姓くしやうの子こど供もは青あをい柿かきを見みに來きましたが、取とつて食たべて見みる度たびに澁しぶさうな顏かほをして、食たべかけのを捨すてゝしまひました。それからお隣となりの赤あかい柿かきの方はうへ行いつて、たつた一ひとつだけ高たかいところに殘のこつて居ゐたのを長ながい竿さをで落おとしました。もうお隣となりの木きの枝えだには一つも赤あかい柿かきがありません。それを見みると、青あをい柿かきは自じぶ分ん獨ひとり取とり殘のこされたやうに、よけいに力ちからを落おとしました。そのうちに、お百ひや姓くしやうが復また庭にはへ見みま廻はりに來きました。今こん度どは青あをい柿かきの生なつた木きの下したへ來きまして、斯かう聲こゑを掛かけました。﹃御ごら覽ん、甘あまい柿かきはもう一つもなくなつてしまひました。今こん度どはお前まへさんの番ばんに廻まはつて來きましたよ。どんな柿かきの澁しぶいのでも、霜しもが來くれば甘あまくなります。皮かはをむいて軒のき下したに釣つるして置おいても甘あまくなります。澁しぶい柿かきはもつとそこに辛しん抱ばうしてお出いでなさい。そして時ときの力ちからといふのをお待まちなさい。﹄　　　四六　小こと鳥りの先せん達だつ小こと鳥りの來くる頃ころになりますと、いろ〳〵な種しゆ類るゐの小こと鳥りが山やまを通とほりました。鶫つぐみ、鶸ひは、

子あと鳥り、深み山や鳥ま、頬ほゝ白じろ、山やま雀がら、四しじ十ふか雀ら――とても數かぞへつくすことが出で來きません。あの足あしの色いろが赤あかくて、羽はねに青あをい斑ふの入はいつた斑いか鳩るも、他ほかの小こと鳥りの中なかにまじつて、好すきな榎えの木きの實みを食たべに來きました。木き曾その山やまの中なかは小こと鳥りの通とほり路みちだと言いふことでして、毎まい朝あさ々／々＼、夜よのあけがたには驚おどろくばかり澤たく山さんな小こと鳥りの群むれが山やまを通とほります。その中なかでも、群むれをなして多おほく通とほるのは鶫つぐみ、鶸ひはなどです。この小こと鳥りの群むれには、必かならず一羽ぱづゝ先せん達だつの鳥とりがあります。その鳥とりが空そらの案あん内ない者しやです。澤たく山さんに隨ついて行ゆく鳥とりの群むれは案あん内ないする鳥とりの行ゆく方はうへ行ゆきます。もしかして案あん内ないする鳥とりが方はう角がくを間まち違がへて、鳥と屋やの網あみにでもかゝらうものなら、隨ついて行ゆく鳥とりは何なん十羽ぱありましても皆みな同おなじやうにその網あみへ首くびを突つゝ込こんでしまひます。﹃さあ、皆みなさん、お支した度くは出で來きましたか。﹄そんなことを案あん内ないする小こと鳥りが言いつて、澤たく山さんな鳥とり仲なか間まの先さきに立たつて出で掛かけるのだらうと思おもひます。鳥とりにも先せん達だつはありますね。　　　四七　鳥と屋や村むらの人ひと達たちに連つれられて、山やまの上うへの方はうの鳥と屋やへ遊あそびに行いつた時ときのことをお話はなししませう。鳥と屋やは小こと鳥りを捕とるために造つくつてある小こ屋やのことです。何どつ方ちを向むいても山やまばかりのやうなところに、その小こ屋やが建たてゝあります。屋や根ねの上うへは木きの葉はで隱かくして、空そらを通とほる小こと鳥りの眼めにつかないやうにしてあります。その小こ屋やの周まは圍りに、細ほそい丈ぢや夫うぶな糸いとで編あんだ鳥とり網あみの大おほきなのが二つも三つも張はつてあるのです。網あみを張はつた高たかい竹たけ竿ざをには鳥とり籠かごが掛かゝつて居ゐました。その中なかには囮をとりが飼かつてありまして、小こと鳥りの群むれが空そらを通とほる度たびに好いい聲こゑで呼よびました。﹃もし〳〵、鶫つぐみさん。﹄この囮をとりになる鳥とりの呼よび聲ごゑは、春はる先さきから稽けい古こをした聲こゑですから、高たかい空そらの方はうまでよく徹とほりました。それを聞ききつけた小こと鳥りの先せん達だつが好いい聲こゑに誘さそはれて降おりて來きますと、他ほかの小こと鳥りも同おなじやうに空そらから舞まひ降おりて來きます。その時とき、降おりて來きた小こと鳥りをびつくりさせるものは、急きふに横よこ合あひから飛とび出だす薄うす黒ぐろいものと、鷹たかの羽はお音とでもあるやうなプウ〳〵唸うなつて來くる音おとです。﹃これは堪たまらん。﹄と小こと鳥りの先せん達だつは張はつてある網あみの中なかへ飛とび込こみます。他ほかの小こと鳥りもあはてまして、みんな網あみの中なかへ飛とび込こみます。鳥と屋やで捕とれる小こと鳥りはこんな風ふうにして網あみにかゝりますが、小こと鳥りをびつくりさせたのは他ほかのものでも有ありません。横よこ合あひから飛とび出だした薄うす黒くろいものは、鳥と屋やで人ひとの振ふる竹たけ竿ざをの先さきについた古ふるい手てぬ拭ぐひか何なにかの布きれでした。鷹たかの羽はお音とでもあるやうに唸うなつて來きた音おとは、その竹たけ竿ざをを手てにした人ひとが口くち端ばたを尖とがらせてプウ〳〵何なにか吹ふく眞ま似ねをして見みせた聲こゑでした。鳥と屋やで捕とれる小こと鳥りは、一ひと朝あさに六十羽ぱや七十羽ぱではきかないと言いひました。この小こと鳥りの捕とれる頃ころには、村むらの子こど供もはそろ〳〵猿さる羽ばお織りを着きました。急きふに降ふつて來きて、また急きふに止やんでしまふやうな雨あめも、深ふかい林はやしを通とほりました。　　　四八　爐ろば邊た爺ぢいやが山やまから茸きのこを採とつて來きたり、栗くりを拾ひろつて來きたりする頃ころは、お家うちの爐ろば邊たの樂たのしい時ときでした。爺ぢいやは爐ろで栗くりを燒やいて、友ともさんや父とうさんに分わけて呉くれるのを樂たのしみにして居ゐました。ある晩ばん、爺ぢいやが裏うらのお稻いな荷りさまの側わきから拾ひろつて來きた大おほきな栗くりを爐ろにくべまして、おいしさうな燒やき栗ぐりのにほひをさせて居ゐますと、それを爐ろば邊たの板いたの上うへで羨うらやましさうに見みて居ゐた澁しぶ柿かきがありました。﹃庄しや吉うき爺ちぢいさん、栗くりの澁しびが燒やけてそんなに香かうばしさうになるものなら、一ひとつ私わたくしも燒やいて見みて呉くれませんか。﹄とその澁しぶ柿かきが言いひました。爺ぢいやは父とう﹇＃ルビの﹁とう﹂は底本では﹁う﹂﹈さんの見みて居ゐる前まへで、爐ろば邊たにある太ふとい鐵てつの火ひば箸しを取とり出だしました。それで澁しぶ柿かきに穴あなをあけました。栗くりを燒やくと同おなじやうにその澁しぶ柿かきを爐ろにくべました。そのうちに、※あつ﹇＃﹁熱﹂の左上が﹁幸﹂、178-8﹈い灰はひの中なかに埋うまつて居ゐた柿かきの穴あなからは、ぷう〳〵澁しぶを吹ふき出だしまして、燒やけた柿かきがそこへ出でき來あ上がりました。﹃さあ、私わたくしも食たべて見みて下ください。﹄とその柿かきが父とうさんに御ごち馳さ走うして呉くれるのを貰もらひまして、黒くろく燒や﹇＃﹁ルビの﹁や﹂は底本では﹁た﹂﹈けた柿かきの皮かはをむきましたら、軒のき下したに釣つるして乾ほした柿かきでもなく、霜しもに逢あつて甘あまくなつた柿かきでもなく、その爐ろば邊たでなければ食たべられないやうな、おいしい變かはつた味あぢの柿かきでした。　　　四九　山やまの中なかへ來くる冬ふゆ東とう京きやうで﹃ネツキ﹄といふ子こど供もの遊あそびのことを父とうさんの田ゐな舍かでは﹃シヨクノ﹄と言いひます。山やまの中なかは山やまの中なかなりに子こど供もの遊あそびにも流はや行りがありまして、一ひと頃ころ﹃シヨクノ﹄が村むら中ぢうに流は行やりました。どこの田たん圃ぼわ側きへ行いつて見みても、どこの畠はたけの隅すみへ行いつて見みても、子こど供もといふ子こど供もの集あつまつて居ゐるところでは、その遊あそびが始はじまつて居ゐました。枯かれ々〴〵とした裏うら庭にはに出でて、父とうさん達たちは﹃シヨクノ﹄の遊あそびにする細こまかい木きを探さがしたり、それを手てごろの長ながさに切きつたり、地ぢべたへよく打うちこめるやうに先さきの方はうを尖とがらせたり、時ときにはもう幾いく度たびか勝しや負うぶ﹇＃ルビの﹁しやうぶ﹂は底本では﹁やうぶ﹂﹈をした揚あげ句くに土つちのついて齒はのこぼれたやつを削けづり直なしたりして遊あそびました。父とうさん達たちがそんな子こど供もらしいことをして居ゐる間まに、爺ぢいやはまた木きそ曾ふ風うな背しよ負ひば梯し子ごを肩かたにかけ、鉈なたを腰こしに差さしまして、木きの枝えだをおろすために林はやしの方はうへと出で掛かけました。山やまの中なかへ來くる冬ふゆは、斯かうして冬ふゆごもりの支した度くにかゝる爺ぢいやのところへも、﹃シヨクノ﹄の遊あそびに夢むち中うになつて居ゐる父とうさん達たちのところへも一緒しよにやつて來きました。黒くろい枯かれ枝えだや黒くろい木きの見みえるお家うちの裏うらの桑くは畠ばたけの側わきで、毎まい朝あさ爺ぢいやはそこいらから集あつめて來きた落おち葉ばを焚たきました。朝あさの焚たき火びは、寒さむい冬ふゆの來くるのを樂たのしく思おもはせました。　　　五○　木き曾その燒やき米ごめ木き曾その燒やき米ごめといふものは青あをいやわらかい稻いねの香にほ氣ひがします。﹃お師しし匠やうさまが好すきだから。﹄と言いつて、お勇ゆうさんの家うちからも、つきたての燒やき米ごめをよく祖おぢ父いさんのところへ貰もらひました。父とうさんのお家うちの祖おぢ父いさんは好すきな燒やき米ごめをかみながら、本ほんを讀よんで居ゐたやうな人かと思おもひます。お勇ゆうさんの家うちでは毎まい年ねん酒さけを造つくりましたから、裏うらの酒さか藏ぐらの前まへの大おほきな釜かまでお米こめを蒸むしました。それを﹃うむし﹄と言いつて、重ぢゆ箱うばこにつめては父とうさんのお家うちへも分わけて呉くれました。あの﹃うむし﹄も、父とうさんの子こど供もの時じぶ分んに好すきなものでした。　　　五一　屋や根ねの石いしと水すゐ車しや屋や根ねの石いしは、村むらはづれにある水すゐ車しや小ご屋やの板いた屋や根ねの上うへの石いしでした。この石いしは自じぶ分んの載のつて居ゐる板いた屋や根ねの上うへから、毎まい日にち々／々＼水すゐ車しやの廻まはるのを眺ながめて居ゐました。﹃お前まへさんは毎まい日にち動うごいて居ゐますね。﹄と石いしが言いひましたら、﹃さういふお前まへさんは又また、毎まい日にち座すわつたきりですね。﹄と水すゐ車しやが答こたへました。この水すゐ車しやは物ものを言いふにも、ぢつとして居ゐないで、廻まはりながら返へん事じをして居ゐました。風かぜや雪ゆきで水すゐ車しや小ご屋やの埋うまつてしまひさうな日ひが來きました。石いしは毎まい日にち座すわつて居ゐるどころか、どうかすると風かぜに吹ふき飛とばされて、板いた屋や根ねの上うへから轉ころがり落おちさうに成なりました。水すゐ車しやは毎まい日にち動うごいて居ゐるどころか、吹ふきつける雪ゆきに埋うづめられまして、まるで車くるまの廻まはらなくなつてしまつたことも有ありました。この恐おそろしい目めに逢あつた後あとで、屋や根ねの石いしと水すゐ車しやとが復また顏かほを合あはせました。石いしはもう水すゐ車しやに向むかつて、﹃お前まへさんは毎まい日にち動うごいて居ゐますね。﹄とは言いはなくなりました。水すゐ車しやも、もう屋や根ねの石いしに向むかつて、﹃お前まへさんは毎まい日にち座すわつたきりですね。﹄とは言いはなくなりました。　　　五二　炬こた燵ついろ〳〵な話はなしの出でる山やま家がのあたゝかい炬こた燵つ。鳥とりがとまりに行ゆくところは木きです。子こど供もが冷つめたいからだを温あたゝめに行ゆくところは、家うちのものゝ顏かほの見みられる炬こた燵つです。　　　五三　唄うたの好すきな石いし臼うす石いし臼うすぐらゐ唄うたの好すきなものは有ありません。石いし臼うすぐらゐ、又また、居ゐね眠むりの好すきなものも有ありません。冬ふゆの夜よな長がに、粉こな挽ひき唄うたの一つも歌うたつてやつて御ごら覽んなさい。唄うたの好すきな石いし臼うすは夢むち中うになつて、いくら挽ひいても草くた臥ぶれるといふことを知しりません。ごろ〳〵ごろ〳〵石いし臼うすが言いふのは、あれは好いい心こゝ持ろもちだからです。もつと、もつと、と唄うたを催さい促そくして居ゐるのです。そのかはり、すこし手てでもゆるめてやつて御ごら覽んなさい。居ゐね眠むりの好すきな石いし臼うすは何い時つの間まにか動うごかなくなつて居ゐます。そして何い時つまでゞも居ゐね眠むりをして居ゐます。父とうさんのお家うちの石いし臼うすは青あを豆まめを挽ひくのが自じま慢んでした。それを黄きな粉こにして、家うち中ぢうのものに御ごち馳さ走うするのが自じま慢んでした。山やま家がそ育だちの石いし臼うすは爐ろば邊たで夜よな業べをするのが好すきで、皸ひゞや﹃あかぎれ﹄の切きれた手ても厭いとはずに働はたらくものゝ好よいお友とも達だちでした。　　　五四　冬ふゆの贈おくり物もの峠たうげの上うへから村むらの小せう學がく校かうへ通かよふ生せい徒とがありました。近ちかいところから通かよふ他ほかの生せい徒とと違ちがひまして、子こど供もの足あしで毎まい日にち峠たうげの上うへから通かよふのはなか〳〵骨ほねが折おれました。でも、この生せい徒とは家うちから學がく校かうまで歩あるいて行ゆく路みちが好すきで、降ふつても照てつても通かよひました。寒さむい、寒さむい日ひに、この生せい徒とが遠とほ路みちを通かよつて行ゆきますと、途とち中うで知しらないお婆ばあさんに逢あひました。﹃生せい徒とさん、今こん日ちは。﹄とそのお婆ばあさんが聲こゑを掛かけました。お婆ばあさんは通とほり過すぎて行いつてしまはないで、﹃生せい徒とさん、今け日ふも學がく校かうですか。この寒さむいのに、よくお通かよひですね。毎まい日にち々／々＼さうして精せい出だして下くださると、このお婆ばあさんも御ごほ褒う美びをあげますよ。﹄と言いひました。知しらないお婆ばあさんは見みかけによらない優やさしい人でして、學がく校かう通かよひをする生せい徒とがかじかんだ手てをして居ゐましたら、それをお婆ばあさんは自じぶ分んの手てで温あたゝめて呉くれました。﹃まあ、斯こ樣んなかじかんだ手てをして、よく寒さむくありませんね。そのかはり、お前まへさんが遠とほ路みちを通かよふものですから、丈ぢや夫うぶさうに成なりましたよ。御ごら覽ん、お前まへさんの頬ほゝぺたの色いろの好よくなつて來きたこと。﹄とさう言いひました。生せい徒とは知しらない人ひとから斯こ樣んなことを言いはれたものですから、そのお婆ばあさんをよく見みましたら、右みぎの手てには山やまからでも伐きつて來きたやうな細ほそい木きの杖つえをついて、左ひだりの手てには籠かごを提さげて居ゐました。籠かごの中なかには、青あを々〳〵とした蕗ふきの蕾つぼみが一ぱい入はひつて居ゐました。そのお婆ばあさんは、まるでお伽とぎ話ばなしの中なかにでも出でて來きさうなお婆ばあさんでした。﹃お前まへさんは誰だれですか。﹄と生せい徒とが尋たづねましたら、お婆ばあさんはニツコリしながら、提さげて居ゐる籠かごの中なかの蕗ふきの蕾つぼみを見みせまして﹃私わたしは﹁冬ふゆ﹂といふものですよ。﹄と生せい徒とに言いつて聞きかせました。夫それから、こんな事ことも言いひました。﹃お家うちへ歸かへつたら、父とうさんや母かあさんに見みてお貰もらひなさい。お前まへさんの頬ほつぺたの紅あかい色いろもこのお婆ばあさんのこゝろざしですよ。﹄　　　五五　少せう年ねんの遊いう学がく父とうさんは九つの歳としまで、祖おぢ父いさんや祖おば母あさんの膝ひざ下もとに居ゐましたがその歳としの秋あきに祖おぢ父いさんのいゝつけで、東とう京きやうへ學がく問もんの修しう業げふに出でることに成なりました。父とうさんは友とも伯を父ぢさんと一緒しよにお家うちの伯を父ぢさんに連つれられて行ゆくことに成なりました。﹃二ふた人りとも東とう京きやうへ修しう業げふに行ゆくんだよ。﹄と伯を父ぢさんに言いはれて、父とうさんは子こど供もご心ゝろにも東とう京きやうのやうなところへ行ゆかれることを樂たのしみに思おもひました。父とうさんより三つ年とし長うへの友とも伯を父ぢさんが、その時ときやうやく十二歳さいでした。今いまから思おもへば祖おば母あさんもよくそんな幼ちひ少さな兄きや弟うだいの子こど供もを東とう京きやうへ出だす氣きになつたものですね。その時ときの父とうさんは今いまの末すゑ子こより年としが二つも下したでしたからね。この東とう京きや行うゆきは、父とうさんが生うまれて初はじめての旅たびでした。父とうさんが荷にも物つの用よう意いといへば、小ちひさな翫おも具ちやの鞄かばんでした。それは美み濃のの中なか津つが川はといふ町まちの方はうから翫おも具ちやの商あき人んどが來きた時ときに、祖おば母あさんが買かつて呉くれたものでした。﹃お前まへが東とう京きやうへ行ゆく時ときには、この鞄かばんへ金こん米ぺい糖たうを一ぱいつめてあげますよ。﹄と祖おば母あさんは言いひました。父とうさんもその小ちひさな鞄かばんに金こん米ぺい糖たうを入いれてもらつて、それを持もつて東とう京きやうに出でることを樂たのしみにしたやうなそんな幼ちひ少さな時じぶ分んでした。　　　五六　祖おぢ父いさんと祖おば母あさんのおせんべつ祖おば母あさんは、おせんべつのしるしにと言いつて、東とう京きやうへ出でる父とうさんのために羽はお織りや帶おびを織おつて呉くれました。﹃トン〳〵ハタリ、トンハタリ。﹄と祖おば母あさんは例れいの玄げん關くわんの側わきにある機はたに腰こし掛かけまして、羽はお織りにする黄き八丈ぢやうの反たん物ものと、子こど供もらしい帶おび地ぢとを根こん氣きに織おつて呉くれました。﹃トン〳〵ハタリ、トンハタリ。﹄その祖おば母あさんのおせんべつが織おれる時じぶ分んには、父とうさんが生うまれて初はじめての旅たびに出でる時ときも近ちかくなつて來きました。祖おぢ父いさんは、父とうさんに書かいた物ものを呉くれました。好すきな燒やき米ごめでも食たべながら田ゐな舍か﹇＃ルビの﹁ゐなか﹂は底本では﹁ゐか﹂﹈で本ほんを讀よまうといふ祖おぢ父いさんのことですから、父とうさんが東とう京きやうへ行いつてから時とき々〴〵出だして見みるやうにと言いひまして、少せう年ねんのためになるやうな教をし訓へを七枚まいばかりの短たん冊ざくに書かいて呉くれました。﹇＃底本では﹁。﹂が脱字﹈それを紙かみに包つゝみまして、紙かみの上うへにも父とうさんを送おくる言こと葉ばを書かいて呉くれました。﹃これは大だい事じにして置おくがいゝ。東とう京きやうへ行いつたら、お前まへの本ほん箱ばこのひきだしにでも入いれて置おくがいゝ。﹄と言いつて呉くれました。それが祖おぢ父いさんのおせんべつでした。　　　五七　伯を父ぢさんの床とこ屋や東とう京きやうをさして學がく問もんに行ゆかうといふ頃ころの友とも伯を父ぢさんも、父とうさんも、まだ二ふた人りとも馬まご籠めふ風うに髮かみを長ながくして居ゐました。友とも伯を父ぢさんはもう十二歳さいでしたから、そんな山やまの中なかの子こど供ものやうな髮かみをして行つて東とう京きやうで笑わらはれては成ならないと、お家うちの人ひと達たちが言いひました。そこで友とも伯を父ぢさんだけは頭あたまを五分ぶが刈りにして行ゆくことに成なりました。﹇＃底本では﹁。﹂が脱字﹈ところが、村むらには床とこ屋やといふものが有ありません。仕しか方たなしに、伯を父ぢさんが裏うらの桐きりの木きの下したへ友とも伯を父ぢさんを連つれて行ゆきまして、伯を父ぢさんが自じぶ分んで床とこ屋やをつとめました。面おも白しろい床とこ屋やがそこへ出で來きました。腰こし掛かけはお家うちの踏ふみ臺だいで間まに合あひ、胸むねに掛かける布きれは大おほきな風ふろ呂し敷きで間まに合あひました。床とこ屋やをつとめる伯を父ぢさんの鋏はさみは、祖おば母あさん達たちが針はり仕しご事とをする時ときに平ふだ常ん使つかふ鋏はさみでした。この伯を父ぢさんは若わかい時じぶ分んから神みさ坂かむ村らの村そん長ちやうをつとめたくらゐの人ひとでしたが、なにしろ床とこ屋やの方はうは素しろ人うとでしたから、友とも伯を父ぢさんの髮かみをヂヨキ〳〵とやるうちに、長ながいところと短みじかいところが出で來きて、すつかり奇きれ麗いに刈かりあげるのはなか〳〵大たい變へんな仕しこ事とでした。鷄にはとりは驚おどろいて、桐きりの木きの下したに頭あたまをさげて居ゐる友とも伯を父ぢさんの方はうへ飛とんで來きました。そして、髮かみを刈かつて貰もらつて居ゐる友とも伯を父ぢさんの側わきで鳴なきました。長ながいことお馴なじ染みの友とも伯を父ぢさんが東とう京きやうへ行いつてしまふので、お家うちの鷄にはとりもお別わかれを惜をしんで居ゐたのでせう。　　　五八　お別わかれ山やま家がでは何なにかある度たびにお客きやくさまをして、互たがひに呼よんだり呼よばれたりします。﹇＃底本では﹁。﹂が脱字﹈いよ〳〵父とうさん達たちが東とう京きや行うゆきの日ひもきまりましたので、お隣となりのお勇ゆうさんの家うちでは父とうさん達たちをお客きやくさまにして呼よんで呉くれました。その晩ばんは伯を父ぢさんも友とも伯を父ぢさんも呼よばれて行ゆきましたが、﹃押おう飯はん﹄と言いつて鳥とりの肉にくのお露つゆで味あぢをつけた御ごは飯んの御ごち馳さ走うがありましたつけ。父とうさんはお雛ひなの家うちへも遊あそびに行いつて見みました。幼ちひ少さい時じぶ分んから父とうさんを抱だいたり負おぶつたりして呉くれたあのお雛ひなの家うちへも、もう遊あそびに行ゆかれないかと思おもひまして、お別わかれを告つげるつもりもなく遊あそびに行ゆく氣きになつたのです。お雛ひなの父ちゝ親おやの名なは數かず衛ゑと言いつて村むらでもきたないので評ひや判うばんな髮かみ結ゆひですとは、前まへにもお話はなしして置おいたと思おもひます。日ひご頃ろ父とうさんはそのきたない髮かみ結ゆひの子こに育そだてられたと言いつて村むら﹇＃ルビの﹁むら﹂は底本では﹁む﹂﹈の人ひと達たちにからかはれて居ゐましたから、數かず衛ゑの家うちへ遊あそびに行ゆくところを誰たれかに見みつけられたら、復また人ひとにからかはれると思おもひました。そこで父とうさんはお墓はか參まゐりに行ゆく道みちの方はうから、成なるべく知しつた人ひとに逢あはない田たん圃ぼの側わきを通とほりまして、こつそりと出で掛かけて行ゆきました。數かず衛ゑの家うちは村むらの中なかでもずつと坂さかの下したの方はうにありました。父とうさんの小せう學がく校かう友とも達だちに扇あふ屋ぎやの金きん太たら郎うさんといふ子こど供もがありましたが、その金きん太たら郎うさんの家うちよりもまだずつと下したの方はうでした。父とうさんが遊あそびに行ゆきましたら、數かず衛ゑは大たい層そうよろこびまして、爐ろにかけたお鍋なべで菜なめ飯しをたいて呉くれました。それからお茄な子すの味おみ噌おつ汁けをもこしらへまして、お別わかれに御ごち馳さ走うして呉くれました。藁わらで編あんだ莚むしろの敷しいてある爐ろば邊たで、數かず衛ゑのこしらへて呉くれた味おみ噌おつ汁けはお茄な子すの皮かはもむかずに入いれてありました。たゞそれが輪わ切ぎりにしてありました。しかし父とうさんは後あとにも前まへにも、あんなおいしい味おみ噌おつ汁けを食たべたと思おもつたことは有ありません。　　　五九　さやうならお家うちを出でる日ひが來きました。その前まへの日ひに、曾ひい祖おば母あさんは友とも伯を父ぢ﹇＃ルビの﹁ともをぢ﹂は底本では﹁ともぢ﹂﹈さんと父とうさんを側そばへ呼よびましてお家うちの爐ろば邊たでいろ〳〵なことを言いつて聞きかせて呉くれました。父とうさんはこの年としとつた曾ひい祖おば母あさんがお膳ぜんにむかひながら、お別わかれの涙なみだを流ながしたことをよく覺おぼえて居ゐます。でも曾ひい祖おば母あさんはしつかりとした氣きし象やうの人ひとで、父とうさん達たちがお家うちを出でる日ひには、もう涙なみだを見みせませんでした。伯を父ぢさんに附ついて東とう京きやうへ行ゆく父とうさんの道みち連づれには、吉きちさんといふ少せう年ねんもありました。吉きちさんはお隣となりの大だい黒こく屋やの子むす息こさんで、鐵てつさんやお勇ゆうさんの兄にいさんに當あたる人ひとでした。この人ひとは父とうさん達たちと違ちがひまして、眼めの療れう治ぢに東とう京きやうまで出で掛か﹇＃ルビの﹁でか﹂は底本では﹁でかけ﹂﹈けるといふことでした。なにしろ父とうさんはまだ九歳さいの少せう年ねんでしたから、草わら鞋ぢをはくといふ事ことも出で來きません。そこで爺ぢいやが小ちひさな麻あさ裏うら草ざう履りを見みつけて來きまして、踵かゞとの方はうに紐ひもをつけて呉くれました。父とうさんはその新あたらしい草ざう履りをはいた足あしで、お家うちの臺だい所どころの外そとに遊あそんで居ゐる鷄にはとりを見みに行ゆきました。大おほきな玉たま子ごをよく父とうさんに御ごち馳さ走うして呉くれた鷄にはとりは、﹃コツ、コツ、コツ、コツ。﹄とお名なご殘りを惜をしむやうに鳴なきました。その邊へんにはお馴なじ染みの桐きりの木きも立たつて居ゐました。その桐きりの木きは背せいこそ高たかくても、まだ木きの子こど供もでして、﹃いよ〳〵東とう京きやうの方はうへ行ゆくんですか。私わたしも大おほきくなつてお前まへさんを待まつて居ゐます。御ごら覽ん、あそこにはお前まへさんに桑くはの實みを御ごち馳そ走うした桑くはの木きも居ゐます。お前まへさんのよく登のぼつた柿かきの木きも居ゐます。あの土どざ藏うの横よこ手ての石いし垣がきの間あひだには、土どざ藏うの番ばんをする年としとつた蛇へびが居ゐて、今いまでも居ゐね眠むりをして居ゐます。私わた達したちはみんなお前まへさんのお友とも達だちです。﹇＃底本では﹁。﹂は脱字﹈私わた達したちをよく覺おぼえて居ゐて下くださいよ。﹄と言いひました。父とうさんはその草ざう履り﹇＃ルビの﹁ざうり﹂は底本では﹁ざいり﹂﹈で、表おも庭てにはの門もんの内うちにある梨なし﹇＃ルビの﹁なし﹂は底本では﹁なり﹂﹈の木きの側わきへも行いきました。﹃まあ、好いい草ざう履りを買かつて貰もらひましたね。その草ざう履りには紐ひもが結むすんでありますね。お前まへさんが大おほきくなつて歸かへつて來きたら、私わたしもまた大おほきな梨なしをどつさり御ごち馳さ走うしますよ。﹄とその梨なしの木きが言いひました。伯を父ぢさんは父とうさん達たちを引ひき連つれまして、日ひご頃ろ親したしくする近きん所じよの家うち々〳〵へ挨あい拶さつに寄よりました。大だい黒こく屋やへ寄よれば小を母ば﹇＃﹁小母﹂は底本では﹁小毎﹂﹈さん達たちが家うちの外そとまで出でて見みお送くり、俵たは屋らやへ寄よればお婆ばあさんが出でて見みお送くつて呉くれました。八やは幡た屋や、和いづ泉み屋や、丸まる龜かめ屋や、まだその他ほかにも伯を父ぢさんの挨あい拶さつに寄よつた家うちは澤たく山さんありましたが、その度たびに父とうさん達たちは坂さかになつた村むらの道みちを峠たうげの上うへの方はうへ登のぼつて行いきました。馬まご籠めの村むらはづれまで出でますと、その峠たうげの上うへの高たかいところにも耕たがやした畠はたけがありました。そこにも伯を父ぢさんに聲こゑを掛かけるお百ひや姓くしやうがありました。父とうさんが遊あそび廻まはつた谷たに間まと、谷たに間まの向むかふの林はやしも、その邊へんからよく見みえました。山やまと山やまの重かさなり合あつた向むかふの方はうには、祖おぢ父いさんの好すきな惠ゑな那ざ山んが一番ばん高たかい所ところに見みえました。祖おぢ父いさんも、祖おば母あ﹇＃﹁祖母﹂は底本では﹁祖毎﹂﹈さんも、さやうなら。馬まご籠めも、さやうなら。惠えな那ざ山んも、さやうなら。　　　六〇　峠たうげの馬うまの挨あい拶さつ馬まご籠めの村むらはづれには、杉すぎの木きの生はえた澤さはを境さかひにしまして、別べつに峠たうげといふ名なま前への小ちいさな村むらがあります。この峠たうげに、馬まご籠めに、湯ゆぶ舟ねざ澤はと、それだけの三さんヶ村そんを一いつ緒しよにして神みさ坂かむ村らと言いひました。﹃名めい物ぶつ、栗くりこはめし――御おや休すみ處どころ。﹄こんな看かん板ばんを掛かけた家うちが一軒けんしかない程ほど、峠たうげは小ちいさな村むらでした。そこに住すむ人ひと達たちはいづれも山やまの上うへを耕たがやすお百ひや姓くしやうばかりでした。その村むらにも伯を父ぢさんが寄よつて挨あい拶さつして行ゆく家うちがありましたが、入いり口ぐちの柱はしらのところに繋つながれて居ゐた馬うまは父とうさん達たちの方はうを見みまして、﹃お揃そろひで、東とう京きやうの方はうへお出で掛かけですか。﹄﹇＃底本では始めと終わりの二重かぎ括弧が脱字﹈と聲こゑを掛かけました。この馬うまは背せな中かに荷にも物つをつけて父とうさんのお家うちへ來きたこともある馬うまでした。やがて父とうさんは伯を父ぢさんの後あとに附ついて、めづらしい初はつ旅たびに上のぼりました。父とうさんが歩あるいて行ゆく道みちを木き曽そ路ぢとも、木きそ曾かい街だ道うともいふ道みちでした。　　　六一　初はつ旅たび﹃もし〳〵、お前まへさんの草ざう履りの紐ひもが解とけて居ゐますよ。﹄と路みちばたに咲さいて居ゐた龍りん膽だうの花はなが父とうさんに聲こゑを掛かけて呉くれました。龍りん膽だうは桔きき梗やうに似にた小ちいさな草くさ花ばなで、よく山やま道みちなぞに咲さいて居ゐるのを見みかけるものです。父とうさんがその小ちいさな紫むらさきいろの花はなの前まへで自じぶ分んの草ざう履りの紐ひもを結むすばうとして居をりますと、伯を父ぢさんは父とうさんの側そばへ來きて、腰こしを曲こゞめて手てつ傳だつて呉くれました。慣なれない旅たびですから、おまけに馬まご籠めから隣とな村りむらの妻つま籠ごへ行ゆく二里りの間あひだは石いしころの多おほい山やま道みちですから、父とうさんの草ざう履りの紐ひもはよく解とけました。その度たびに伯を父ぢさんが足あしをとめては紐ひもを結むすんで呉くれました。　　　六二　木きそ曽が川は隣とな村りむらの妻つま籠ごには、お前まへ達たちの祖おば母あ﹇＃﹁祖母﹂は底本では﹁祖毎﹂﹈さんの生うまれたお家うちがありました。妻つま籠ごの祖おぢ父いさんといふ人もまだ達たつ者しやな時じぶ分んで、父とうさん達たちをよろこんで迎むかへて呉くれました。そこで、初はじめの日ひは妻つま籠ごに泊とまりまして翌よく朝あさまた伯を父ぢ﹇＃ルビの﹁をぢ﹂は底本では﹁おぢ﹂﹈さんに連つれられて出で掛かけました。妻つま籠ごの吾あづ妻まば橋しといふ橋はしの手てま前へまで行いきますと、鶺せき鴒れいが飛とんで居ゐました。その鶺せき鴒れいはあつちの大おほきな岩いはの上うへ﹇＃ルビの﹁うへ﹂は底本では﹁う﹂﹈へ飛とんだり、こつちの大おほきな岩いはの上うへへ飛とんだりして、﹃どうです。妻つま籠ごには大おほきな川かはがあるでせう。﹄と言いつて見みせました。父とうさんも、そんな大おほきな川かはを見みるのは初はじめてでした。青あをい、どろんとした水みづは渦うづを卷まいて、大おほきな岩いはの間あひだを流ながれて居ゐました。﹃これが木きそ曽が川はですか。﹄と父とうさんが尋たづねましたら、鶺せい鴒きれは尻しつ尾ぽを振ふつて、﹃いえ、これは蘭あらゝぎの山やま奧おくの方はうから流ながれて來くる川かはです。木きそ曽が川はへ入はいる川かはです。﹄と教をしへて呉れました。吾あづ妻まば橋しの手てま前へで見みた川かはが大おほきいと思おもひましたら、木きそ曽が川ははそれよりも大おほきな川かはでした。　　　六三　御おん休やす處みどころ何なんといふ深ふかい山やまや谷たにが父とうさんの行ゆく先さきにありましたらう。父とうさんは木きそ曽が川はの見みえる谷たに間あひについて、林はやしの中なかを歩あるいて行ゆくやうなものでした。どうかすると晝ひる間までも暗くらいやうな檜ひの木きや杉すぎのしん〳〵と生はえて居ゐるところを通とほることもありました。あゝこれが三みと留め野のといふところか、これが須すは原らといふところか、と思おもひまして、初はじめて見みる村むら々〳〵が父とうさんにはめづらしく思おもはれました。何なにもかも父とうさんには初はじめてゞした。高たかい山やまの上うへの方はうから村むらはづれの街かい道だうのところまで押おし寄よせて來きて居ゐる黒くろい岩いはだの石いしだのを見みるのも初はじめてゞした。父とうさんが東とう京きやうへ出でる時じぶ分んには、鐵てつ道だうのない頃ころですから、是ぜ非ひとも木き曽そ路ぢを歩あるかなければ成なりませんでした。もう好いい加かげ減ん歩あるいて行いつて、谷たにがお仕しま舞ひになつたかと思おもふ時じぶ分んには、また向むかふの方はうの谷たに間まの板いた屋や根ねから煙けむりの立たち登のぼるのが見みえました。さういふ煙けむりの見みえるところにかぎつて、旅たび人びとの腰こし掛かけて休やすんで行ゆく休やす茶みぢ屋ややがありました。﹃御おん休やす處みどころ﹄として、白しろいところに黒くろい太ふとい字じで書かいてある看かん板ばんは、父とうさん達たちにも寄よつて休やすんで行ゆけと言いふやうに見みえました。さういふ休やす茶みぢ屋ややには、きまりで﹃御おん嶽たけ講かう﹄の文も字じを染そめぬいた布きれがいくつも軒のき下したに釣つるしてありました。樂たのしい御おん休やす處みどころ。父とうさんが祖おば母あさんから貰もらつて來きた金こん米ぺい糖たうなぞを小ちひさな鞄かばんから取とり出だすのも、その御おん休やす處みどころでした。塲ばし處よによりましては、冷つめたい清しみ水づが樋とひをつたつて休やす茶みぢ屋ややのすぐ側わきへ流ながれて來きて居ゐます。さういふ清しみ水づはいくらでも父とうさんに飮のませて呉くれました。　　　六四　寢ねざ覺めの蕎そ麥ば屋や寢ねざ覺めといふところには名なだ高かい蕎そ麥ば屋やがありました。木き曽そ路ぢを通とほるもので、その蕎そ麥ば屋やを知しらないものはないと、伯を父ぢさんが父とうさん達たちに話はなして呉くれました。そこは蕎そ麥ば屋やとも思おもへないやうな家うちでした。多おほ勢ぜいの旅たび人びとが腰こし掛かけて、めづらしさうにお蕎そ麥ばのおかはりをして居ゐました。伯を父ぢさんは父とうさん達たちにも山やまのやうに盛もりあげたお蕎そ麥ばを奢をごりまして、草くた臥ぶれて行ゆつた足あしを休やすませて呉くれました。　　　六五﹇＃﹁五﹂は底本では﹁七﹂﹈　浦うら島しま太たら郎うの釣つり竿ざを寢ねざ覺めには、浦うら島しま太たら郎うの釣つり竿ざをといふものが有ありました。それも伯を父ぢさんの話はなして呉くれたことですが、浦うら島しま太たら郎うの釣つりをしたといふ岩いはもありました。それから、あの浦うら島しま太たら郎うが龍りう宮ぐうから歸かへつて來きまして自じぶ分んの姿すがたをうつして見みたといふ池いけもありました。木き曾その人ひとは昔むかしからお伽とぎ話ばなしが好すきだつたと見みえますね。岩いはにも、池いけにも、釣つり竿ざをにも、こんなお伽とぎ話ばなしが殘のこつて、それを昔むかしから言いひ傳つたへて居ゐます。　　　六六　棧かけ橋はしの猿さる﹃もし〳〵、お前まへさんの背せな中かに負しよつて居ゐるのは何なんですか。﹄木き曾その棧かけ橋はしといふところの休やす茶みぢ屋ややに飼かつてあるお猿さるさんが、そんなことを父とうさんに尋ねたづねました。父とうさんは小ちひさな鞄かばんを風ふろ呂しき敷づゝ包みにしまして、それを自じぶ分んの背せな中かに負しよつて居ゐましたから、﹃お猿さるさん、これは祖おば母あさんがおせんべつに呉くれてよこしたのです。途とち中うで退たい屈くつした時ときにおあがりと言いつて、祖おば母あさんが呉くれてよこした金こん米ぺい糖たうです。わたしはこれから東とう京きやうへ修しう業げふに行ゆくところですが、この棧かけ橋はしまで來くるうちに、金こん米ぺい糖たうも大だい分ぶすくなくなりました。﹄とお猿さるさんに話はなして聞きかせました。このお猿さるさんの飼かつてあるところは高たかい崖がけの下したでした。橋はしの下したを流ながれる木きそ曽が川はがよく見みえて、深ふかい山やまの中なからしい、景けし色きの好いいところでした。街かい道だうを通とほる旅たび人びとは誰たれでもその休やす茶みぢ屋ややで休やすんで行ゆくと見みえて、お猿さるさんもよく人ひとに慣なれて居ゐました。父とうさんが東とう京きやうへ行ゆく話はなしをしましたら、お猿さるさんも羨うらやましさうに、﹃わたしも一ひとつ金こん米ぺい糖たうでも頂いたゞいて、皆みなさんのお供ともをしたいものです。御ごら覽んの通とほり、わたしはこの棧かけ橋はしの番ばん人にんでして、皆みなさんのお供ともをしたいにも、こゝを置おいては行ゆかれません。まあ、この山やまの中なかの土みや産げば話なしに、そこにある古ふるい石いしでもよく見みて行いつて下ください。これから東とう京きやうへお出いでになりましたら、その石いしに發ほつ句くが一つ彫ほつてあつたとお話はなし下ください。その發ほつ句くをつくつたのは昔むかし﹇＃ルビの﹁むかし﹂は底本では﹁むか﹂﹈の芭ばせ蕉をを翁うといふ人だとお話はなし下ください。﹄と言いひました。伯を父ぢさんも、吉きちさんも、友とも伯を父ぢさんも、みんなお猿さるさんの側わきへ來きまして、崖がけの下したにある古ふるい石せき碑ひの文も字じを讀よみました。それには、﹃かけはしやいのちをからむ蔦つたかづら﹄としてありました　　　六七　山やま越ごしやがて、父とうさんは伯を父ぢさんに連つれられて、﹃みさやま峠たうげ﹄といふ山やまを越こしにかゝりました。父とうさんも馬まご籠めのやうな村むらに育そだつた子こど供もです。山やま道みちを歩あるくのに慣なれては居ゐます。それにしても、﹃みさやま峠たうげ﹄は見み上あげるやうな險けはしい山やま坂さかでした。大おと人なの足あしでもなか〳〵骨ほねが折をれるといふくらゐのところでした。何な故ぜ、伯を父ぢさんがそんな山やま越ごしにかゝつたかといふに、早はやく皆みんなを連れて馬ばし車やのあるところまで出でたいと考かんがへたからです。木き曾そは山やまに圍かこまれた深ふかい谷たに間あひのやうなところですから、どうしても峠たうげ一ひとつだけは越こさなければ成ならなかつたのです。何なんと言いつても父とうさんはまだ幼ちひ少さかつたものですから、友とも伯を父ぢさんや吉きちさんのやうには歩あるけませんでした。﹃さあ、金こん米ぺい糖たうを出だすから、もつと早はやくお歩あるき。﹄と伯を父ぢさんに言いはれましても、父とうさんの足あしはなか〳〵前まへ﹇＃﹁ルビの﹁まへ﹂は底本では﹁まい﹂﹈へ進すゝまなくなりました。伯を父ぢさんの金こん米ぺい糖たうに勵はげまされて、復また父とうさんも石いしころの多おほい山やま坂さかを登のぼつて行いきましたが、そのうちに日ひが暮くれかゝりさうに成なつて來きました。伯を父ぢさんはもう困こまつてしまつて、父とうさんの締しめて居ゐる帶おびに手てぬ拭ぐひを結ゆはひつけ、その手てぬ拭ぐひで父とうさんを引ひいて行いくやうにして呉くれました。　　　六八　沓くつ掛かけの温をん泉せん宿やど今いまだに父とうさんはあの﹃みさやま峠たうげ﹄の山やま越ごしを忘わすれません。草くた臥ぶれた足あしをひきずつて行いきまして、日ひく暮れが方たの山やまの裾すその方はうにチラ〳〵チラ〳〵燈あか火りのつくのを望のぞんだ時ときの嬉うれしかつた心こゝ持ろもちをも忘わすれません。その燈あか火りのついて居ゐるところが、沓くつ掛かけの温をん泉せん宿やどでした。　　　六九　乘のり合あひ馬ばし車や沓くつ掛かけまで行いきましたら、やうやくその邊へんから中なか仙せん道だうを通かよふ乘のり合あひ馬ばし車やがありました。それから父とうさんは伯を父ぢさんや吉きちさんや友とも伯を父ぢさんと一いつ緒しよに東とう京きや行うゆきの馬ばし車やに乘のりまして、長ながい長ながい中なか仙せん道だうの街かい道だうを晝ひるも夜よるも乘のりつゞけに乘のつて行いきました。やがて馬ばし車やがある町まちを通とほりました時ときに、父とうさんは初はじめて消ひ防け夫しの梯はし子ごの登ぼりといふものを見みました。高たかい梯はし子ごに乘のつた人ひとが町まちの空そらで手てあ足しを動うごかして居ゐました。父とうさんは馬ばし車やの上うへからそれを眺ながめて、子こど供もご心ゝろにめづらしく思おもつて行いきました。伯を父ぢさんの話はなしで、そこが上じや州うしうの松まつ井ゐ田だといふ町まちだといふことも知しりました。またそれから飽あきるほど乘のつて行ゆくうちに、馬ばし車やはある川かはの岸きしへ出でました。川かはにかけた橋はしの落おちた時ときとかで、伯を父ぢさんでも誰たれでも皆みなその馬ばし車やから降おりて、水みづの淺あさい所ところを渉わたりました。父とうさんは馬べつ丁たうの背せな中かに負おぶさつて、川かはを越こしました。その川かはは烏から川すがはといふ川かはだと聞ききました。まあ、父さんも、どんなに幼ちひ少さい子こど供もだつたでせう。東とう京きや行うゆきの馬ばし車やの中なかには、一いつ緒しよに乘のり合あはせた他よ所その小を母ばさんもありました。その知しらない小を母ばさんが旅たびの袋ふくろからお菓くわ子しなぞを出だしまして、それを父とうさんにおあがりと言いつて呉くれたこともありました。いくら乘のつても乘のつても、なか〳〵東とう京きやうへは着つかないものですから、しまひには父とうさんも馬ばし車やに退たい屈くつしまして、他よ所その小を母ばさんに抱だかれながらその膝ひざの上うへに眠ねむつてしまつたことも有ありました。　　　七〇　終をはりの話はなしこんな風ふうにして父とうさんは自じぶ分んの生うまれたふるさとを幼ちひ少さな時じぶ分んに出でて來きたものです。それから長ながい年とし月つきの間あひだを置おいては、木き曾そへ歸かへつて見みますと、その度たびにあの山やまの中なかも變かはつて居ゐました。しかし父とうさんの子こど供もの時じぶ分んに飮のんだふるさとのお乳ちゝの味あぢは父とうさんの中なかに變かはらずにありますよ。太たら郎うよ、次じら郎うよ、お前まへ達たちも大おほきくなつたら父とうさんの田ゐな舍かを訪たづねて見みて下ください。﹇＃改ページ﹈　　　　　　ふるさとの後のちにこの本ほんは前まへに出だした﹃幼をさなきものに﹄と姉しま妹いのやうにして出だします。あの佛ふら蘭ん西す土みや産げには、父とうさんのお話はなしばかりでなく、佛ふら蘭ん西すの方ほうで聞きいて來きたいろ〳〵なお話はなしも入いれて置おきましたが、この﹃ふるさと﹄には父とうさんのお話はなしばかりを集あつめました。この本ほんが出で來きましたら、木き曾その伯を父ぢさんの家うちに勉べん強きやうして居ゐる三郎らうのところへも一册さつ﹇＃ルビの﹁さつ﹂は底本では﹁さい﹂﹈送おくりたいと思おもひます﹇＃﹁ます﹂は底本では﹁すま﹂﹈。父とうさんはこの少せう年ねんの讀とく本ほんを書かかうと思おもひ立たつた頃ころに、別べつにつくつて置おいたお話はなしが一つあります。それは﹃兄きや弟うだい﹄のお話はなしです。それをこの本ほんの後のちに添そへようと思おもひます。こゝにそのお話はなしがあります。早はやく眼めがさめても何い時つまでも寢ねて居ゐるのがいゝか、遲おそく眼めがさめてもむつくり起おきるのがいゝか、そのことで兄きや弟うだいが爭あらそつて居ゐました。そこへこの兄きや弟うだいの祖おぢ父いさんが來きまして、﹃まあ、お前まへ達たちは何なにをそんなに爭あらそつて居ゐるのです。﹄と尋たづねました。兄あにが言いふには、﹃祖おぢ父いさん、私わたしは早はやく眼めがさめました。そのかはり何い時つまでも寢ねて居ゐました。弟おとうとは遲おそく眼めがさめました。そのかはり私わたしより先さきに起おきました。私わた達したちは今いまそのことで言いひ合あつて居ゐるところです。﹄﹃私わたしは遲おそく眼めがさめても、兄にいさんのやうに長ながく寢ねて居ゐないで、むつくり起おきた方はうがいゝと思おもひます。﹄と弟おとうとが言いひました。すると、兄あにが言いふには、﹃弟おとうとがあんなことを言いつて威ゐ張ばつて居ゐます。そのくせ、私わたしが早はやく眼めのさめた時じぶ分んには、弟おとうとはまだなんにも知しらないでグウ〴〵グウ〴〵と眠ねむつて居ゐました。私わたしは鷄にはとりの鳴ないたのを知しつて居ゐます。夜よの明あけたのも知しつて居ゐます。﹄﹃そんなことを言いつて兄にいさんが威ゐ張ばつても、何い時つまでも兄にいさんのやうに寢ねて居ゐたら、眼めがさめないのも同おなじことです。﹄とまた弟おとうとが言いひました。祖おぢ父いさんはこの兄きや弟うだいの爭あらそひを聞きいて笑わらひ出だしました。さうして斯かう言ひました。﹃馬ば鹿かな兄きや弟うだいだ。お前まへ達たちがそんなことを言いつて爭あらそつて居ゐるうちに、太おて陽んとうさまはもう出でてしまつたぢやないか。﹄︵終︶