時計屋へ直しに遣やつてあつた八角形がたの柱時計が復また部屋の柱の上に掛つて、元のやうに音がし出した。その柱だけにも六年も掛つて居る時計だ。三年前に叔を母ばさんが産後の出血で急に亡くなつたのも、その時計の下だ。 姉のお節せつは外出した時で、妹のお栄えいは箒はうきを手にしながら散ちら乱かつた部屋の内を掃いて居た。斯この姉きや妹うだいが世話する叔を父ぢさんの子供は二人とも男の児で、年し少たの方は文ふみちやんと言つて、六歳の悪いた戯づら盛ざかりであつた。文ちやんが屋そ外とからお友達でも連れて来ると、何い時つでも斯の通り部屋を散ちら乱かして了しまふ。お栄は仏壇のある袋戸棚の下あたりを掃いて居ると、そこへ叔父さんが二階から下りて来た。 ﹁子供は奈ど何うしたい。﹂ と叔父さんが聞いた。叔父さんは昼寝から覚めたばかりの疲れた顔付で居た。 ﹁表へ遊びに行ゆきました。﹂とお栄は物静かな調子で答へた。 ﹁節は?﹂と復た叔父さんが聞いた。 ﹁姉さんはお墓参り。﹂ ﹁斯こ様んな暑い日によくそれでも出掛けて行つたなあ。﹂と言つて、叔父さんは半ば独ひと語りごとのやうに、﹁お墓参りには叔父さんもしばらく行かないナ……﹂終しまひに叔父さんは溜息を吐ついた。部屋には片隅にある箪たん笥すから其その上に載せた箱の類まで、叔母さんが生きて居た時分とちつとも違はずに置いてある。唯、壁を黄色く塗り変へたので部屋の内がいくらか明るくなつたのと、縁先の狭い庭の一部を板の間にして子供の遊ぶ場所に造つたのと、違つたと言へばそれ位のものだ。叔母さんの眼を楽ませた庭の八やつ手では幾本かあつた木が子供に酷ひどい目に逢はされて、枯れて了つた。中で一本だけ威勢の好いいのがズンズン生長して、その年も幹のうらのところに新しい若葉を着けて居る。叔父さんは縁先に出て、その葉の青い光を見て、復たお栄の方へ引返して来た。 ﹁へえ、時計が出来て来たネ。﹂ と言ひながら叔父さんはしばらく柱の下に立つて、親しいものゝ面おもてを仰ぐやうに、磨き直されて来た時計を見て居た。ネヂを掛ける二つの穴の周囲から羅ロー馬マ数字を画かいたあたりへかけて、手て摺ずれたり剥はげ落ちたりした痕あとが着いて、最も早うお婆ばあさんのやうな顔の時計であつた。でもまだ斯うして音はして居る。硝ガラ子スの蓋を通して見える真しん鍮ちゆう色の振子は相変らず静かに時を刻んで居る。 ﹁随分長くある時計だよ――叔母さんと一緒に初めて家うちを持つた時分から、あるんだからネ――阿あ部べの老おぢ爺いさん︵叔母さんの父おや親ぢ︶がわざ〳〵買つて提げて来て呉れた時計なんだからネ――﹂ 斯うお栄に話し聞かせて、やがて叔父さんは流なが許しもとで癖のやうに手や足を洗つて、復た二階へ上つて行つた。姉の結婚は次第に近づいて来て居た。お栄はそんなことを胸に浮べながら独りで部屋を片附け、それから勝手の方へ行つて笊ざるの中に入れてあつた馬じや鈴がい薯もの皮を剥むき始めた。 昼頃に姉のお節は細い柄の洋かう傘もりと黄色な薔ば薇らの花束を手にして帰つて来た。何い時つでもお節が墓参りに行くと、寺の近所の植木屋で何かしら西洋の草花を見つけて、それを買つては戻つて来た。 ﹁栄ちやん、斯ういふ好いいもの。﹂ とお節は妹の鼻の先へ土みや産げの薔薇を持つて行つて見せた。 お節が子供に隠れて外出したのを不平で居た文ちやんは、それと見て表口から入つて来た。そしていきなりお節に抱きついた。長ちやうちやん――兄の方の子供も学校から帰つて来た時で、鞄かばんをそこへ投出すが早いか、弟と同じやうにお節の手を引いたり、肩へつかまつたりした。 ﹁まあ左さ様う二人で取とツ附つかないで頂戴よ……姉さんを休ませて頂戴よ……暑くつて仕しや様うが無いんだから……﹂ さう言はれると、余計に母親の無い子供等は甘えた。 ﹁栄ちやん、栄ちやん――電車の中でそれは好いい人を見てよ。髪の恰好と言ひ、身から体だの容よう子すと言ひ――﹂ お節の若々しい快活な笑声と、子供等の騒ぎとでヒツソリとした家うちの中は急に賑にぎやかに成つた。お栄は姉から薔薇の花を受取つて、半分は勝手の棚の上に置き、半分は小さな大理石の花くわ瓶びんに入れて叔母さんの位牌の側そばへ持つて行つた。 日に幾度となく叔父さんは子供のことを心配して、二階から見廻りに下りて来た。叔父さんは仏壇のところへ首を突込んで、別にそれを拝むでもなく、唯金箔の剥げかゝつて来た位牌や、薄く塵ほこ埃りの溜つた過去帳などを眺めて、悄然として居た。 ﹁どうだネ、お墓は綺麗に成つて居たかネ。﹂と叔父さんは仏壇に倚より凭かゝりながら、お節に尋ねた。 ﹁えゝ、すつかり掃除がしてありましたよ。﹂とお節が答へた。 ﹁お墓も古くなつたらうネ。でも節は感心にお参りするよ。これで遠方へでも行くやうに成ると、またしばらくお参りも出来ないからネ。﹂ お節は黙つたまゝ立つて居た。 ﹁三年経たてばヒドイものぢやないか。﹂と叔父さんは寂しさうに笑つて、﹁叔母さんのことも余よほ程ど忘れて来た――正直な話が、左さ様うだ――﹂ お節は思出したやうに、﹁私がこの家うちへ帰つて来たのは丁度去年の今日でしたよ。﹂ ﹁さうだつけかなあ。﹂ ﹁私はお母つかさんの側には半はん歳とししか居ません。ホラ、叔父さんのとこから電報を寄よこして下すつたでせう。あの時はお母つかさんは私を離したくないやうな風でしたけれど……﹂ ﹁なにしろ彼あ様んな田舎にクスブつて居たんぢや仕様がないからと思つて、叔父さんが東京へ出られるやうにして遣つたんサ。愚図々々して居る時ぢやない、うつかりすると栄ちやんまでお嫁に行き損なつて了ふ。左さ様う思つたから、ドシンと一つ電報で驚かして呉れた。お前がずつと田舎に居て御覧、今度のやうなお嫁さんの話は聞かなかつたかも知れないぜ――女の一生といふものは、考へて見ると妙なものサネ。﹂ 叔父さんは仏壇の側そばを離れて、箪笥の置いてある方へ行つた。一番上の引出から叔母さんの遺して行つた着物を取出して見た。 ﹁どれ、お形見を一つ呉れようか。﹂と叔父さんが言つた。 ﹁叔母さんの着物も皆みんなに遣るうちに、段々少くなつちやつた。﹂ ﹁栄ちやん、被い入らつしやいつて。﹂とお節は妹を呼んだ。 其時叔父さんは叔母さんの長なが襦じゆ袢ばんだの襦袢だの其その他ほかこまごました物を姉きや妹うだいに分けて呉れた。 ﹁それはさうと、御ごし祝うげ言んの時の着物は奈ど何うするか。﹂と叔父さんが言出した。﹁四月の末に来るといふお婿むこさんが一月延びることに成つた。綿入の紋附を袷あはせに直して、またそれでも間に合はないなんて、大変な話だぞ。弱つたナ、こりや。﹂ ﹁根ねぎ岸しの伯を母ばさんにも相談して見ませう。多分間に合ひませう。﹂とお節が言つた。 ﹁でも五月の末となりや暑いんですよ……大抵単ひと衣えも物のよ。﹂とお栄が言葉をんだ。 ﹁待てよ。五月の末だなあ。俺は大丈夫と見た。もし暑かつたら成るべく曇つたやうな日を見立てゝ結婚するんだネ。晴天日ひの延べとやるか。﹂ 斯の叔父さんの串じや談うだんは姉きよ妹うだいの娘を笑はせた。 勝手の方からは涼しい風が通つて来た。お栄は古い簾すだれの外に出て、鉢植にしたシネラリヤの可愛らしい花を眺めたり、葉を撫でたりして居た。その草花もお節が根岸の伯母さんの家うちへ行つた序ついでに買つて来たものであつた。お節は長ちやんを膝の上に抱きながら、勝手の板の間に出掛けた。叔母さんのお墓へ行く途中で行き逢つた知らない顔……電車の窓から見た種いろ々〳〵な若い人の後姿……急いで熱い往来を過ぎ行く影……あれか、これかと思ひ比べて来た人のことが激しい日光の感じに混つて、お節の眼を眩くらむやうにさせた。今にもそこへ身を投出したいやうな、荒い、しかも娘らしい願ひが彼女の胸に湧き上つて来た。お節は自分の胸の鼓動がしつかりと抱いて居る子供の身から体だにまで伝はつて行くことを感じた。 ﹁長ちやん、好いものを嗅かがして進あげませうか。﹂ とお栄は流なが許しもとへ来て、棚の上にある黄色い薔薇の花を一ちよ寸つと自分で嗅いで見て、それから子供の鼻の先へ持つて行つた。 ﹁あゝ、好いい香にほ気ひだ。﹂と長ちやんは眼を細くした。 ﹁生意気ねえ。﹂とお節は笑つて、抱いて居る子供の身から体だを動ゆするやうにした。 ﹁長ちやんだつて、好いいものは好いわねえ。﹂とお栄も笑つた。 ﹁さう言へば、奈ど何んな兄さんが被い入らつしやるでせうねえ。﹂と復たお栄が言つた。 妹は血肥りのした娘らしい手で自分の乳房の辺を着物の上から押へて、遠くから海を越してやつて来るといふお婿さんのことを姉と一緒に想像した。 三年も独りで考へて居る二階から、復た叔父さんが下りて来た。叔父さんは流許へ行つて、水道の口から迸ほとばしるやうに出て来る冷い水を金かな盥だらひに受けて、それで顔を洗つた。 叔父さんは手てぬ拭ぐひで顔を拭き〳〵勝手に近く居る姉きや妹うだいの娘に向つて、 ﹁あゝ、あゝ、これでいくらか清々した……今日は阿部の老おぢ爺いさんに手紙を書いて、斯う自分の身の周まは囲りのことを報告しようと思つてサ……お園そのさん︵亡くなつた甥をひの妻︶もいよいよ東京へ嫁かたづいで来たし、節も近いうちにはお娵よめさんに成るし、皆みんな動いて来た……その中で自分ばかりは相変らず……なんて、そんなことを書いてるうちに、涙が出て来て困つた……﹂ 斯う言ひかけて、叔父さんは胸を突出しながら独りで荒い溜息を吐ついた。言葉を継いで、 ﹁でも、俺は未まだ泣ける――さう思つたら嬉しかつた……余計に涙が出て来た……今日は頬ほつ辺ぺたが紅くなるほど泣いちやつた。﹂ ﹁真ほん実とに。﹂ とお節は叔父さんの顔を覗のぞき込むやうにした。叔父さんは笑ひながら物を言つて居たが、その頬はめづらしく泣なき腫はれて居た。 狭い町の中で、風通しの好いいやうに表の戸を開けひろげると、日に反射する熱い往来の土が簾すだ越れごしに見える。勝手に近い処へ膳を据ゑて、そこで叔父さんは昼飯をやつた。 ﹁あれも仕なけりや成らない、これも仕なけりや成らない……仕なけりや成らないことは、ちやんともう解つてますけれど……気ばかり急せいちやつて、身から体だが動かないんですもの……﹂ 給仕しながらお節は笑つた。 叔父さんの側そばへは文ちやんが来て立つた。叔父さんはその頑ぐわ是んぜない容よう子すを見て、 ﹁ほんとに文ちやんも大きく成つたネ。﹂ ﹁あんなに着物が短くなつちまひました。﹂と勝手に居たお栄も子供の方を見て言つた。 ﹁姉さん達には余よつ程ぽど御礼を言はなけりやならないネ。﹂と叔父さんは自分の子供に言つた。 何を思ひ附いたか、急に文ちやんはお節の方へ行つて、身から体だをこすりつけるやうにした。 ﹁また愚ぐ図づり始める。誰も笑つたんぢやないの。あんたが大きくなつたつて、皆みんな褒めるんぢや有りませんか。﹂ とお節は子供を膝の上に載せた。 ﹁節の子供の時分に、叔父さんは一度お前の家うちへ訪ねて行つたが、覚えて居るかネ。﹂ ﹁覚えて居ますとも。﹂ ﹁幾いく歳つだつたらう。今の長ちやん位ぐらゐのものぢやないか。﹂ ﹁長ちやんよりはすこし大きかつたでせう。﹂ ﹁なにしろお前のところの老おぢ爺いさんが未だ達者で居た時分だ……あの薄い髯ひげを撫でゝ居た時分だ……何か好きな物を御馳走しよう、御風呂を焚いたから俺に入れなんて、老おぢ爺いさんが云つて呉れた時分だ……あの頃にお前は未だ髪の毛などを垂さげて居たよ、その人が最も早うお娵よめさんに行くんだからねえ。﹂ 多くの人から尊敬された老おぢ爺いさんの話が出る度に、お節は自分の学校友達などの知らないやうな誇りを感じた。 身内のものゝ話がそれからそれへと引出されて行つた。お節姉きや妹うだいは叔父さんの側そばでお父さんのことやお母つかさんのことや、それから年を取つた老おば婆あさん、叔父さんの子供と幾つも違はない末の弟の噂などをしきりとした。 ﹁しかし、お前達はまだ可いい。﹂と叔父さんが言つた。﹁叔父さんを御覧な。叔父さんは十三の年にお父さんに別れて了つたよ。お母さんとしみ〴〵暮して見たのも僅か二年位のものだ。その二年の間も二人で苦労ばかりして……それを思ふと、お前達は仕合せだ……なにしろ両親がピン〳〵して居るんだからネ……﹂ ﹁ほんとに、よく遅れる時計ね――栄ちやん、お肴さか屋なやさんへ行つて聞いて来て下さいな。﹂ と姉に言はれで、妹は家の向ひ側にある肴屋へ尋ねに行つた。 店みせ頭さきに刺身を造つて居た肴屋の亭主から正しい時間を聞いて来た後、お栄は年を取つた時計の下に立つて長針を直さうとして居た。呉服屋の番頭が入つて来た。それを聞いた叔父さんも下した座ざし敷きへ来て、チョイ〳〵外よそ出ゆきに着て行かれるやうな女物を見せて貰つた。番頭は糸織の反物、鬱うこ金んの布に巻いた帯地などを皆みんなの前に取出した。 ﹁節、どれが好い?﹂ ﹁どれでも……﹂ 叔父さんは自分の気に入つたやうな地味な反物ばかり出した。お栄も姉の側に居て、あれかそれかと一緒に評ひや定うぢやうした。 番頭は羽織の裏地になるやうな物までそこへ取出した。 ﹁節にはこれが好からう。﹂ と叔父さんが混まぜ返かへすやうな調子で言つて、皆みんなの前で択よつたのは変な紅い色の裏地だ。番頭まで笑つた。斯の叔父さんの串じや談うだんに、お節は胸が一ぱいに成つて独りで次の部屋の方へ逃出して了つた。 ﹁姉さん、自分で択よつたら可いぢやないの――そんなとこに居ないで。﹂ とお栄は姉を慰めた。 お節は機嫌を直して、手持無沙汰で居る叔父さんや番頭の方へ引返した。其時お節は白茶色に模様のある裏地を取つた。それには妹も賛成した。 番頭が帰つた後で、叔父さんは買取つた物をお節の前に押しすゝめて、 ﹁何なん物にも叔父さんから祝つて遣る物が無い。これをお前に祝ふとしよう。いろいろ子供も御世話に成りました。﹂ と言つて軽く御辞儀をした。 根岸の伯母さんもお節のことを心配して訪ねて来て呉れた。綿密な伯母さんは祝しう言げんの時の薄い色の紋附から白の重ね、長襦袢まで揃へて丁寧に縫つて呉れた。 ﹁何か私共でも節ちやんに祝つて進あげたいが……要りさうな物を左さ様う言つて下さいな……紋附の羽織にでもしませうか、それともこれからのことですから単ひと衣へのやうな物が可いか。﹂ 斯こ様んな話をして居るところへ叔父さんも一緒になつて、いろいろ打合せの相談が始まる。根岸の姉さんが結婚した時の話なども混つて出て来る。伯母さんの正直な打明け話は叔父さんを笑はせた。 ﹁一体、お娵よめに行く前の娘といふものは半分病人のやうなものですネ。﹂と叔父さんが言出した。 根岸の伯母さんは点うな頭づいて、﹁皆みんな左さ様うですよ。妙なもので、お娵に行けば大抵の人は強ぢや壮うぶになりますよ。﹂ 斯の伯母さんの調子には幾多の経験があるらしく聞えた。 斯ういふ時に亡くなつた叔母さんでも居たら、とは叔父さんの言ひ草ばかりでなく、お節はそれを自分の身に切に感じた。母親の無い子供等は奈ど様んな場合でもそんなことに頓着なしに、﹁節さん、節さん。﹂ と言つては纏まとひついた。殊に年し少たの方の文ちやんと来たら、聞きゝ分わけの無い年頃で、一度愚図々々言出さうものなら容易に泣止まない。 根岸の伯母さんが居なくなると、復たその子供の破れるやうな声が起つた。お栄がやさしく慰なぐ撫さめた位では聞入れなかつた。終しまひにはお栄は堅く袖に取とり縋すがらうとする文ちやんの手を払つて、あちこちの部屋の内を逃げて歩いた。 ﹁着物が切れちまふぢや有りませんか。﹂ お栄は庭の八やつ手でのある方へ隠れて、袖を顔に押当てゝ泣いた。 斯の光あり景さまを見兼ねて、お節は縫ひかけた自分の着物もそこそこに起たち上あがつた。今度は文ちやんはお節の方へ向つて来た。顔を真紅にして、怒つたやうな首筋まで顕して。斯の児の利かないにはお節もホト〳〵弱り果てた。 ﹁どうして左さ様うあんたは聞きゝ分わけが無いの?﹂ お節は子供を抱締めて、これも一緒に成つて泣いた。 急に叔父さんは二階から馳け下りて来た。叔父さんの顔色を見ると、お節は子供を袖で隠すやうにして、 ﹁もう泣きませんから、何どう卒ぞ御覧なすつて下さい。﹂ と子供に代つて詑びた。 文ちやんが余計にお節を慕つたのは、可こ恐はい思をした時とか、さもなければ酷ひどく叔父さんから叱られた時だ。﹁もうおねむに成つたんでせう、それで其そん様なな愚図愚図言ふんでせう。﹂そこへお節は気が着いて自分の膝を枕にさせて居るうちに、子供は泣じやくりを吐つきながら次第に眼を閉つぶりかけた。 ﹁さ温おと順なしくお昼寝なさい。姉さんが一緒にねんねして進あげますからネ。﹂ お栄は気を利かして箪笥の側そばへ子供の寝床を敷いた。そこへお節は文ちやんを抱いて行つた。斯の神経の強い子供は姉さんに抱かれなければ寝附かなかつた。そして半分眠つて居ながら、母親でも探すやうにお節の懐を探した。 ﹁まあ斯こ様んな冷い足あんよをしてるの?﹂ とお節は言つて、子供の頭を撫でゝ遣ると、まだ文ちやんは時々泣じやくりを吐ついた。お節が自分の肌に押当てゝ小さな足を温めてやつた時の子供の寝顔は、すこし前まで地ぢだ団ん太だ踏んで怒つたり戸を蹴つたりして激しく泣いた文ちやんと思はれないほどの愛らしさが有つた。好いい具合に眠つた子供の容よう子すを眺めて、やがてお節はソツと文ちやんの側そばを離れた。眼を覚まさせないやうに。 日に〳〵庭の八手は大きく葉を開いて行つた。それが透けて見える深い軒先に近く叔母さんの形見の裁たち物もの板いたも取出してあつた。復たお節は自分の縫物に取掛つた。お栄も側へ来て、姉きや妹うだい一緒に暮せる日数の段々少くなつた話などをした。 めつきり蒸暑い晩もあつた。鳥が啼ないたかと聞き違へるやうな調子の高い物売の笛に驚かされて、お節は文ちやんの側に眼が覚めることが有つた。悩ましい夢心地で聞いた物音は支し那な蕎そ麦ばを売りに来たのだと気が着いて見ると、夜の更けたことが知れた。二人の子供等は人形を並べたやうに正体もなくなつて居る。お栄もまだ寝ねま衣きも着更へずに疲れて横に成つて居る。蒸される髪の臭にほ気ひもする。部屋の内の空気は何となく沈鬱だ。 五月はじめの晩らしい、町の白壁と暗い青葉とに薄く映さした月の光がお節の眼に浮んで来た。その忘れ難がたい晩には、いよいよお婿さんが出掛けて来るといふ手紙の着いたことを思出した。彼女の一生が真ほん実たうに其一晩で定きまつたことを思出した。その晩は姉きや妹うだい二人して眠らなかつたことを思出した。子供と添そひ寝ねをしながら、お節はそんなことを考へて、復たウト〳〵して居た。ふと、そんなところへ来る筈の無い老お祖ば母あさんの顔が彼女の眼めの前まへに顕れた。 ﹁栄ちやん……栄ちやん……﹂ お節は絶え入りでもしさうな苦しい息づかひをして、妹を呼んだ。お栄が眼を覚まして跳はね起おきて見ると、姉は床の上に突つツ伏ぷして、身から体だを震はせて居た。 ﹁叔父さん、一寸被いら入しつて下さいませんか。姉あねさんが奈ど様うかしましたから。﹂ とお栄は楼はし梯ごだんの下のところへ行つて声を掛けた。 叔父さんも下りて来た。お栄は姉の背中を撫さすりながら、叔父さんに向つて、﹁なんでも吾う家ちの祖おば母あさんの顔がつとそこへ出て来たんですツて……﹂と話し聞かせた。 ﹁国に居る人が枕まく頭らもとへ出て来るなんて――馬鹿な――シツカリしろ。﹂と叔父さんは叱つた。 ﹁だつて、仕様が無いんですもの。﹂とお節は打うつ伏ぶしのまゝ苦しさうに答へた。 刹那に来る恐怖は叔父さんの心をも捉へた。叔父さんは娘達を励ますやうに無理に笑つたが、その叔父さんもいくらかドギマギして居た。叔父さんは薬だの水だのを持つて来てお節にすゝめた。 ﹁栄ちやん、もう難あり有がたう。﹂とお節は背中の方に居る妹に言つて、それから横に成つた。﹁アヽ、苦しかつた……祖おば母あさんの顔が出て来たら、急に私は身から体だがゾーとして来た……﹂ ﹁真ほん実たうにお前達には時々吃びつ驚くりさせられるぜ。﹂ 斯う叔父さんは言ひ捨てゝ置いて、やがて一段づゝ楼はし梯ごだんを上つて行く音をさせた。 幻は消えた。しかし寒い戦みぶ慄るひはまだお節の身から体だに残つて居た。足は氷のやうに成つた。何事も知らずに眠つて居る子供の側そばで、枕紙に額を押当てゝ見た時は、漸くお節も我に返ることが出来た。早くお婿さんが来て自分を一緒に遠いところへ連れて行つて欲しい、斯の熱くなつたり冷くなつたりするやうな繊ひよ柔わい自分をもつと奈ど様うかして欲しいと願つた。 ﹁叔父さんの家うちに居るのも最も早う僅かに成つたネ。﹂ その叔父さんの話が食後に出る頃、お節の結婚も眼めの前まへに迫つて来た。 お父さんも急いで東京へ出て来た。お父さんは旅館の方から叔父さんの家うちを訪ねて来た。お父さんの手から帽子やインバネスを預る時のお節は髪も島田に結ひ替へて居た。 ﹁節――お父さんに慥こしらへて頂いた物を出してお目に掛けな――諸はう方〴〵から祝つて頂いた物もお目に掛けたら可よからう。﹂ と叔父さんも娘達親子の居るところへ来て言葉を添へた。 祝の仕度もほゞ揃つた。根岸の姉さんがお節のために見立てゝ呉れた流行帯おび揚あげの淡うす紅あかな色ばかりでも、妹を羨うらやませるには十分であつた。これは根岸の伯母さんから、これは叔父さんの懇意な人からと、水みづ引ひきのかゝつた諸方からの贈物をお節はお父さんの前に置き、根岸の姉さんから別に祝つて呉れた帯なども取出して見せた。 お父さんは叔父さんと種いろ々〳〵な打うち合あはせをした後で、そこ〳〵にして起ちかけた、 ﹁それぢや俺はこれから媒なか妁う人どのところへ寄つて、式場の方の都合も問合せる――今度はその為に出て来たんだから寄れたら根岸へも寄る。復た来ます。﹂ お父さんの話は何い時つでも簡かん短たんで、そして明瞭だ。 お婿さんの新橋の停ステ車ーシ場ョンへ着いたといふ日、お父さんはその話を持つて、出迎へらしい羽織袴の姿で復た訪ねて来た。叔父さんと二人で二階へ上つて、打合せに来る根岸の伯母さんを待受けた。高いお父さんの話は階し下たに居て聞くことが出来る。﹁先せんに鈴すゞ木き︵お婿さん︶に逢つた時はまだ書生だと思つて居たが、今度来て見ると……どうしてナカ〳〵立派なものだよ……﹂姉きや妹うだいの耳には聞き遁のがせないやうな話が後あとから後から出て来る。﹁親が先づ惚れて、自分の娘を呉れようといふ位の人物だから……﹂ 根岸の伯母さんも見えた。伯母さんは階し下たで一服やつて、お娵よめさんの心得に成るやうなことをお節に言つて聞かせる、それから女持の煙草入を手にしながらお父さん達の仰おつしやる方へ行つた。 談はな話し半ばに叔父さんは一寸階し下たへ下りて来た。 ﹁子供は?﹂ と部屋を見廻した。 ﹁お婿さんに式の済むまでは叔父さんの許とこへ訪ねて来ないやうにツて、今お父さんに頼んで置いた――お娵よめさんがそこへ取次に出るなんて、可を笑かしなものだからね――﹂ 斯こ様んなことを立話して、姉きや妹うだいの娘と一緒に笑つて、復た二階の方へ相談に上つて行つた。 お父さんはその翌日も一寸顔を見せた。﹁鈴木が言ふには、洋食といふものはあれで本式にすると六むつヶしい作法がある。媒なか妁う人どが媒なか妁う人どだから、下手なことをすると笑はれる。誰の隣に誰を据ゑて、誰の向ふを誰の席にして――左さ様うなつて来ると、これでナカ〳〵面倒だ。それよりは矢やつ張ぱり日本料理に願ひたいトサ。﹂ ﹁成なる程ほどねえ。本場から来ると左さ様う思ふでせうなあ。﹂ 混雑した中で、お父さんと叔父さんは話を遣つたり取つたりした。 ﹁それぢや小せう常とき磐はの方は宜よろ敷しく頼んだよ。式が済んだら新夫婦に写真を撮らせて、直たゞちに料理屋へ廻らせる。よし。﹂ そこ〳〵にしてお父さんは出て行つた。 いよ〳〵祝のあるといふ前の晩に、叔父さんの家うちではお節のために小さな送別の食事をした。子供はかはる〴〵来てお節の側そばを離れなかつた。 ﹁文ちやんは厭――姉さんの懐へ手などを入れて。﹂とお節は叱つて見せて、着物の襟えりを掻かき合あはせた。﹁ほんとに、文ちやんは子供のやうぢや無い。﹂ ﹁あんたは子供ぢや無いわねえ。大人と子供の相あひの児こだわねえ。﹂とお栄も傍そばに居て戯れた。 ﹁復た愚図る。﹂とお節は子供を抱取つて、羽はが翅ひで締めるやうにした。﹁相の児だつて言はれたのが其そん様なに口く惜やしいの? そんなら温おと順なしく成さいナ。それ、くすぐつて遣れ――さうめん――にうめん――大根おろし〳〵。﹂ 年う長への長ちやんは学校へ行き始めてから急に兄さんらしく成つたと言はれて居るが、何となくその日は萎しをれた顔付で、背うし後ろからお節にすがりついた。 ﹁長ちやん、左さ様う人に取とツ附つくものぢやないの――いやよ――いやよ――御覧なさいナ、髪がこはれるぢや有りませんか。﹂ お節は大事な島田を気にして居た。すると長ちやんは顔を寄せて、いきなり姉さんの額のところへキスする真似をした。 ﹁生意気。﹂ と言つてお節は妹と共に笑つたが、その子供の頬へ軽いキスを返した。文ちやんは膝に倚りながら、姉さんの口くち唇びるの鳴るのを聞いて居た。 仏壇には燈とう明みやうが点ついて、その光が花に映つて居た。何かこしらへたものも具そなへてあつた。叔父さんは庭口の方から其前を通つて皆みんなの居るところへ来た。 ﹁どうだ、姉さんはお娵よめに行つて了ふが可いいかい。﹂ と叔父さんが子供等に言つた。お節は置いて行くのが可哀想だといふ顔付で、 ﹁そんなこと言ふの御止しなさいよ。﹂ ﹁行つても、可いよ。﹂ と文ちやんは下口唇を突出した。 ﹁あまえる人が居なくなると、一寸これが困るだらうなあ。﹂ と叔父さんは独ひと語りごとのやうに言つた。 お節のためにはコマ〳〵した買物が残つて居た。姉きや妹うだいの娘は早く子供等の寝静まるのを待つた。その晩は叔父さんもめづらしく長く下の部屋に坐つて、翌あ日すの仕度の話をした。 ﹁叔父さんも多いそ忙がしいよ。叔母さんの分まで引受けなくちや成らないんだから。﹂ と叔父さんが笑つた。 ﹁男に成つたり、女に成つたり。﹂とお栄も横から。 ﹁まだ種いろ々〳〵な物が要るぜ。紙かみ白おし粉ろいなども用意するが可いぜ。﹂ ﹁彼あ様んなものを知つてるかと思ふと、可を笑かしいわねえ。﹂とお節は妹に。 ﹁叔父さんだつて紙白粉ぐらゐ知つてらあ――﹂ 叔父さんは斯こ様んな串じや談うだんを言ふかと思ふと、急に調子を変へてお節の方へ切込んで来た。 ﹁どうだネ、栄ちやんのところへも、貰つた物でも分けて置いてツたら。﹂ ﹁私はあんまり人が好よ過すぎるなんて言はれますから……今度は何なん物にも置いて行きません。﹂ お節は一生懸命だつた。一枚でも多く持つて、これからお婿さんと一緒に新規な生活を始めなければ成らなかつた。有あり体ていに言へば、妹のことなどは関かまつて居られなかつた。 ﹁行くものはサツサと行け。﹂ 叔父さんは餞せん別べつの言葉でも呉れるやうな調子に変つて行つた。 年を取つた近所の女髪結が来た。早や祝の日が来た。その日は根岸の伯母さんも紋附を着てお娵よめさんの手伝ひに出掛けて来て呉れた。根岸の伯母さんは自分が縫つた式の時の着物をお節に着せて見るのが自慢だつた。 ﹁文ちやん、いやよ、さう人の帯を引張つちや。﹂とお節は長い着物の裾を引摺りながら。 ﹁お娵に行くんだ、やい。やい。﹂ と文ちやんは滑稽な調子で、姉さんの方へ指差して、皆みんなを笑はせた。 ﹁その着物でウマく坐れるか。﹂ いそがしさうに叔父さんはお節の仕度したところを見に来て言つた。斯の叔父さんが自分で着て居る礼服は十五年前に亡くなつた叔母さんと結婚した時からあるものだ。お節は極ごく張詰めた心で、やがて皆なと一緒に叔父さんの家うちの敷居をまたいだ。 一台の馬車が子供等の遊んで居る狭い町中で停つた。お婿さんは外国仕立の新調のフロック・コオト、お娵さんの方は華やかな櫛くし笄かうがいで髪を飾つて、一緒にその馬車から下りた。新夫婦は結婚の翌日諸方へ礼廻りをして、午後の一時頃に叔父さんの家うちへ来た。 ﹁長ちやん。﹂ とお節は車から下りると、直ぐ子供に声を掛けた。 ﹁これが文ちやんだネ。﹂ お婿さんは早や子供の名前を聞いて知つて居て、片手に外ぐわ套いたうを持ち、片手に子供の手を引きながら門の内へ入つた。 お節が旅館から妹へ通じて寄よこした電話で、叔父さんのところでは馳走振の鰻うな飯ぎめしを冷くして待つて居た。お婿さんの外国土産などもそこへ取出された。叔父さんは片附けた二階へ新夫婦を案内して、そこでお腹なかの空すいた人達に先づ昼飯を振舞つた。叔父さんとお婿さんの間には十年も附合つて居る人達のやうな話が始まつた。 ﹁文ちやんも欲しいの? 残したんでも、姉さんのだから食べて頂戴な。﹂ とお節は自分の食べ残した物を持つて、それから下座敷に居る妹や子供等と一緒に成つた。 ﹁立派な兄さんねえ。﹂ 斯の妹の一語は何を祝はれるよりも姉に取つて嬉しかつた。 二階では話がはずんで、まだこれから根岸の伯母さんの方へ廻り外にもう一軒礼に寄らなければならないところが有るのにと、終しまひにはお節が心配し始めたほどで有つた。 ﹁俥くるまツて言ふと途中で車夫などを取替へる面倒が起りますし、ナカ〳〵一日で東京を廻るなんて訳にゆきません。馬車の方が反つて簡単です。左さ様う思つて借りて来ました。﹂ お婿さんは外国で苦労して来た人らしいことを言つて、叔父さんと一緒に階し下たへ来てまで種いろ々〳〵な話をした。 ﹁長ちやん、一緒に馬車で行きませうか。﹂ 左さ様ういふお婿さんの調子には、内地にばかり引込んで居る若者と違つて、コセコセして居ないやうなところが有つた。 お節は夫の外套を持つて車に上のつた。 ﹁文ちやん、復た来ますよ。﹂ と彼女が幌ほろの内から顔を出して子供の方を見た頃は、車は動き始めた。 それから四五日の間を、お節はお婿さんと一緒に新婚の旅で暮して、お婿さんの生さ家との方にも居て、復た一旦東京の方へ引返して来た。最も早うお婿さんでも無かつた。旦那さんで可よかつた。旦那さんは勤め先の用で、旅からまた旅に出掛けなければ成らない程の多いそ忙がしい身を持つて来て居た。で、一月ばかりの留守の間、お節は叔父さんの家うちの方へ預けられることに成つた。旦那さんが独りで遠い旅に立つ日、お節は旅館の方から妹の側そばへ引移つて来た。結婚したばかりの旦那さんは復た旅立の仕度にいそがしかつた。発たつにも叔父さんの家うちから発つた。 ﹁まるで叔父さんのところはお前達の家うちみたやうなものだ。﹂ と叔父さんはお節やお栄に話して笑つた。 新しい細君に成つて帰つて来たお節は、何となく容よう子すも大人びた。それに張詰めた気は、まだ緩まないといふ風で旦那さんに代つて訪ねなければ成らない家うちがあり、言付けられた用があり、書くべき手紙の数からして増えた。新たに親が出来、弟が出来、妹が出来た。 旅館に滞在するお父さんが鈴木の家の様子などを聞きに来ると、お節は叔父さんのお母つかさん︵彼女の祖おぢ父いさんの妹︶に何ど処こか似たやうな快活な調子で地方にある大きな家庭の光あり景さまを話して聞かせた。 ﹁栄ちやん、何を其そん様なに考へ込んでるんだネ――﹂ とある日、叔父さんは台所へ来て言つた。お節は外出して居なかつた。 ﹁姉さんのことぢやないか。﹂と復た叔父さんが立つて居て言つた。﹁――姉さんも変つて来たよ。﹂ ﹁お娵よめさんに成れば皆みんな変るつて言ひますけれども、あんなに急に変らうとは思はなかつた。﹂とお栄が答へた。 ﹁仕方が無いサ――姉さんは最も早うお前さんの姉さんぢや無くて、兄さんの姉さんなんだもの――妹の懐には居ようたつて居られない人なんだもの。﹂ 叔父さんは勝手に近く置いてある鼠ねず不みい入らずの前へ行つて立つた。 ﹁こゝにお金を置くよ。﹂ と、その上に月々の会計のうちを置いた。 ﹁一旦娵よめに行つた人を預つたのは俺の手落ちだつた。どうしても節は鈴木の方に置くべき人だ。﹂ 斯う叔父さんは言つて居たが、しかし急激な動揺――新婚の為に起つて来た――が次第に沈まり、張詰めた気も緩むにつれて、お節は平いつ素もの調子を回とり復かへした。矢やつ張ぱりお節はお節であつた。何となく彼女はサバけて来た。のみならず、焦いら々〳〵した学校時代などには半分夢中で附合つて居た人、名前は知らなくても毎日叔父さんの家うちの前を通る人、噂に聞いた人、其その他ほか種いろ々〳〵な女の人を真実に見分るやうに成つた。例へば同じ学校時代から続いた友達でも、田舎から養生に出て来て居る人とか――養子が出て行つて了つた後で、独りで嬰あか児んぼを擁かゝへて居る人とか――まだ何処へも嫁とつがずに長唄の稽古に通つて居る人とか――医者の家うちに雇はれて、立派にして町を歩いて居る人とか―― 遠い旅に出掛けた旦那さんからは途中からよく便りが有つた。六月の二十日頃に出た手紙は、海の暴あれるのと霧が深いのとで未だ同じ港に滞在して、目的の地を踏むことも出来ずに居ると言つて寄よこした。お節は待遠しい思をした。旦那さんが叔父さんの家うちへ預けて置いて行つた外国製の立派な鞄かばんを見るにつけても。彼女は表の庭口の方へ行つて見た。八手の葉は傘でもひろげたやうに大きく成つた。開けひろげてある庭の入口を通して、直ぐ向ふに肴屋の店みせ頭さきが見える。鮭さけなどが吊るしてある乾いた町へは急に夏らしい雨が来た。 板囲ひをした家々は見る間に濡れて行つた。往来へ向いた窓も戸も、廂ひさしも、乾燥し切つた瓦屋根も。お節はしばらくそこに立つて、ボンヤリと腕組して居る肴屋の小僧の顔などを眺めながら、旅にある夫の事を思ひやつた。雨に打たれる塵ほこ埃りの臭にほ気ひは部屋の内までも入つて来た。引返して勝手の方へ行つて見ると、叔父さんは流なが許しもとで雨を見て居るし、長ちやんは板の間へ画ぐわ学がく紙しと色鉛筆を持出して何かしきりと子供らしい画をかいて居る。お栄は草花の鉢を取込んだところであつた。 ﹁鈴木さんはまだ旅やど舎やに逗留して居るんださうだなあ。あんなに長くなるんなら、叔母さんの生さ家とへ紹介して遣るんだつた。﹂と叔父さんが言つた。 ﹁ほんとに。﹂とお節も思ひやるやうな眼付をする。 お栄は姉の前へ手にした鉢を置いた。叔父さんはその方を見て、 ﹁何だツけねえ、その罌け粟しみたやうな奴は。叔父さんは何度聞いても忘れちまふ。﹂ ﹁アネモネぢや有りませんか。﹂とお節が笑つた。 ﹁むゝ、アネモネさ。お前達はよくそれでも其そ様んな名前を知つてるよ。﹂ ﹁花の名ぐらゐ知らなくツて――ねえ、栄ちやん。﹂とお節は妹に。 ﹁叔父さん、これを御覧なさい、甘い椿のやうな香にほ気ひがするでせう。﹂とお栄はチュウリップの咲いた鉢を持つて来て見せた。 ﹁左さ様う言へば、お肴屋さんへ来て居た小さな娘は奈ど何うしたらう。﹂と話し〳〵叔父さんは水道の水で手を洗つて﹁――お前達のところへよく髪を結つて貰ひに来た。まるで俺の家うちは幼稚園だ。でも彼あ様ゝいふ娘も一寸めづらしいナ。皆みんなに厭がられて居ながら自分ぢや一番可愛がられてる積りかなんかで、有るぜ。どうかすると左さ様ういふ人は有る。そこへ行くと鈴木さんなどは年は若くても物が分つてらあね。﹂ お節は何か言ひかけたが、急に長ちやんがそれを遮さへぎつた。 ﹁黙つといで――黙つといで――学校の先生と大将と何どつ方ちが強い?﹂ 斯の子供の﹁何どつ方ちが強い﹂には娘達はさん〴〵弱らせられて居る。 ﹁お前の旦那さんはナカ〳〵話せる。﹂と復た叔父さんはお節に話した。 ﹁それぢや、今度帰つて来たら話して遣りませう――叔父さんが褒めて居ましたツて。﹂ ﹁でも、何だなあ、新婚早々直ぐに遠い処へ行かなくちやならないなんて、御役目とは言ひ乍ら残酷な話だナ。﹂ ﹁黙つといで。﹂と長ちやんは姉さんに物を言はせなかつた。 ﹁巡おま査はりさんと兵隊さんと何どつ方ちが強い?﹂ ﹁何どつ方ちも。﹂とお節は返事に困つた。 雨が小降に成つた。文ちやんは隣の家うちの小娘と一緒に傘をさしかけて表口から入つて来た。二度目にお節が斯の家うちへ預けられてからは、叔父さんはあまり子供を抱かせなかつた。 ﹁関かまはないで置いて呉れ――関はないで置いて呉れ――独りで遊ばせるやうな癖をつけて置かないと、後の者が困る。﹂ それを叔父さんに言はれる度に、お節は便りの無い子供を唯膝に腰掛けさせて、涙ぐんだ。 長いこと叔父さんの家うちで探して居た田舎出の婆やが来て台所を稼かせぐやうに成つてから、お節は一層快活に成つて行つた。賑かな笑声が絶えなかつた。強ぢや壮うぶ一式を自慢にして来た婆やは、来たてには、いくらか姉さん達を馬鹿にした気味であつたが、その若いものが﹁やはらかもの﹂でも何でもズン〳〵独りで仕立てることを知つて居たには、眼を剥むいた。裁縫の得意なお節は大抵のものは自分で造つた。彼女は以前から見ると、さう良いい物でないまでも新しくて自分の好みに適かなつたやうな物を着て居た。細君と成つてから大分着物も出来た。妹の方はまだ質素な娘の服な装りで居なければ成らなかつたが…… ﹁栄ちやんが時々寝たりなんかするのは、私にはちやんと解つてる。﹂ とお節が言ふと、叔父さんは、 ﹁生きてる人間だもの、それ位のことは有らあ。﹂ と言つて取合はなかつた。 途中で三週間近くも延びた旦那さんの旅の日数を勘定すると、お節は七月末あたりまでも叔父さんの家うちの世話に成つて居なければならなかつた。彼女は旦那さんの帰りを待佗びて、暑苦しくて堪たまらないやうな日には妹とかはりばんこに横に成つた。 ﹁栄ちやん、叔父さんは?﹂ ﹁お舟よ。﹂ 七月に入つてからのある朝のことであつた。姉きや妹うだいは流なが許しもとで手てう洗づをつかひながら話した。お栄の方は水道の前に蹲しや踞がんで冷たい柔かな水でもつて寝起の顔を洗つて居た。お節は両手をうしろの首筋の方へ廻して細い黄つ楊げの櫛くしで髪をときつけながら立つて居た。物置の戸口と柱一つを界さかひにして小窓が切つてある其外には手てう洗づば鉢ちが置いてある。お節は勝手の草ざう履りを穿いたまゝ其小窓のところへ行つた。無いち花じ果くの枝、漆うるしの葉、裏長屋の屋根などが雑ごち然や〳〵入組んで見える町裏を通して朝らしい光を帯びた鱗うろ形こがたの雲が望まれた。 勝手口の簾すだれへ日が射して来た頃、叔父さんは汗ばんだ顔付をして舟ふな漕こぎから帰つて来た。 ﹁今朝の隅田川はまるで湖水のやうだつた。どうも実に好いい心こゝ地ろもちだつた。﹂ と叔父さんは部屋の内まで冠かぶつて入つて来た夏帽子を壁に掛けながら言つた。 ﹁お舟はいかゞでした。﹂ と勝手の方から来て声を掛けるお栄に挨拶した後、叔父さんはめづらしく活気づいた調子であちこちと時計の下や仏壇の前を歩き廻つた。 ﹁河の中まん流なかへ出て見ると、好いよ。都会の中の空気とは思はれない。﹂ とお栄に言つて聞かせて、叔父さんはホツと荒い息を吐ついた。 毎日々々二階に坐つて考へてばかり居た叔父さんが舟でも漕がうといふ人に成つたことは、姉きや妹うだいのものを悦ばせた。お節は朝あさ飯はん前の茶を入れて茶好きな叔父さんにすゝめた。 ﹁斯ういふ好いい運動が有るなら、もつと早く気が附くんだツけ。野蛮人は必要に依つて動く。俺も矢やつ張ぱりその方だ……奈ど様うにも斯か様うにも仕様が無くなつたもんだから始めた……この分ぢや、叔父さんも未だ死ねさうも無い……﹂ ﹁死にさうな顔でも無いわ――ねえ栄ちやん。﹂とお節はやや皮肉な調子で。 ﹁ほんとに串じや談うだんぢや無いよ。斯ういふことが有るが奈ど何うだい――心を起さうと思へば、先づ身を起せツて。それだ。﹂と言つて叔父さんは熱心に姉きや妹うだいの顔を眺めて ﹁どうして少しばかり散歩なんかしたつて駄目サ……物を考へながら歩いてる……運動にも何にも成りやしない……そこへ行くと舟は好いよ……ア、向ふから帆掛船が遣つて来たぞ、あいつに一つ衝つき突あたらないやうに、其そ様んなことを思ふだけサ……第一、河に近いのが何よりだ。いくら好いい運動だつて近くなけりや駄目だね。﹂ お栄がそこへ朝あさ飯はんの膳を運んで来た。姉は飯をつけて出し、妹は味噌汁を膳の上に置いた。 其朝は叔父さんは膳を前に置いて坐り直したり、飯を食ひかけては復た話を始めた。 ﹁このまあ半はん歳としばかりの間、俺は一体何をして居たらう……ホ……十日も十五日も真ほん実たうにボンヤリして孤す坐わつてたことが有るんだよ、それでも自分ぢや何か為てる積りかなんかで……そりや到とて底も叔父さんの心持を節やなんかに話さうたつて、話せるもんぢやない……生せいの焔ツてことが有るが、叔父さんは生の氷といふことを経験した。Ice of Life――栄ちやん、奈ど何うだい、叔父さんの洒しや落れは解るかい。﹂ 姉きや妹うだいは顔を見合せて、黙つて微ゑ笑みを換かはした。 長ちやんが表口から飛んで入つて来た。文ちやんも婆やに連れられて来た。 ﹁何処へ行つてたの? さあ、御飯をお上り。﹂ と叔父さんが言つた。 ﹁父さん、お舟――﹂と長ちやんは叔父さんの側そばへ行つて身からだを擦すり附つけた。 ﹁復たこの次に連れてツて下さいな。﹂ ﹁叔父さん、私達も一度連れてツて下さいな。﹂ とお栄が頼んだ。 ﹁連れてツて下さらないつて、ねえ栄ちやん、随ついてくからいゝ。叔父さんは三年も前から約束しといて、一度もお舟を奢おごつて下さらないんですもの。﹂ お節も物をねだるやうに言つた。 叔父さんの家から船宿のあるところまでは露地を通り抜けて行けば二町と無い位だ。屋根の上を鳴いて通る烏からすの声を聞いたゞけでも、河に近く住む心地をさせる。 その翌朝早く姉きや妹うだいは身仕度し、子供等にも単ひと衣へを着更へさせ、婆やに留守を頼んで置いて、冷すゞしいうちに家を出た。長ちやんは近道をよく知つて居てズン〳〵先へ歩いて行く。皆みんな河の岸で一緒に成つた頃、その辺に遊んで居た子供は長ちやんを見つけて呼んだ。 ﹁長ちやんは斯こ様んな方まで遊びに来るのよ。﹂ とお節は妹に話した。 叔父さんがよく借りて行くといふ船宿の子は長ちやんと同じ学校へ通ふ上の組の生徒であつた。其朝は割合に波の立つ日で、一時間ばかり水の上で揺られて復た舟から陸をかの上、潮風の為に皆なの着物はいくらかベト〳〵した。姉きや妹うだいは子供等の手を引きながら、まだ戸を閉めた家のある町を廻つて帰つた。 ﹁アヽ草くた臥びれた。﹂ とばかりでお節は部屋へ上ると直ぐ着物も着更へずに柱に倚より凭かゝる、お栄も酷ひどくガツカリした様子をして隅の方に足を投出す。二人とも溜息ばかり吐ついた。 ﹁そんなに皆みんな草くた臥びれたのか。﹂ 叔父さんは二人の様子を見て笑つた。 ﹁だつて、彼あん様なに舟が揺れるんですもの、もつと叔父さんは上手かと思つた。﹂とお節はそこへ身を投出すやうにして。 ﹁そりやお前、今け朝さは風があつたからサ。ずつと吹きつけられちやつた。あの波ぢや堪たまらない。﹂ ﹁でも、あの小僧さんの方は巧く漕いだわねえ。﹂とお栄はさも草くた臥びれたらしく、肩まで一つ息をした。 ﹁小僧さんが漕いだ時はあまり揺れなかつた。﹂ ﹁さうかなあ。叔父さんの船頭には皆な懲こりちやつたかなあ。﹂と言つて、叔父さんは頭を掻いた。 姉さん達がまだ舟に揺られて居るやうな眼付をして居る中で、長ちやんは床の間の方から机を持出した。それを部屋の真中に覆ひつくりかへして、早速舟を漕ぐ真似を始めた。麻の夏蒲団は蓆ご筵ざの代りに成つた。小さな畳の上の船頭は団うち扇はか掛けに長い尺もの度さしを結ゆはひ着けて、それで櫓ろの形を造つた。 多分東京へ帰るのは八月の六日頃に成るだらう、と手紙で叔父さんのところへ言つて来た鈴木からは七月の末に急に電報を打つて寄よこした。その電報で、早や途中まで帰つて来て居ることが知れた。お節は妹と連立つて上野の停ステ車ーシ場ョンへ迎へに出掛けた。心待ちにした日よりは一週間ほど早く、遠い旅から帰つて来た人に逢ふことが出来た。夫は左さほ程ど日に焼けもせず、相変らずの元気で、東京へ着いた晩に旅館から叔父さんの家うちまでお栄を送りに行つて、夜の十時頃までも叔父さんと二人で話し込んだ位だ。 旦那さんと一緒に復た旅館の方へ移つてからのお節は、今度は自分等二人の本当の旅仕度やら買物やらで、急にいそがしい身からだに成つた。その中うちでも妹の顔を見に叔父さんの家うちへ立寄つて、 ﹁兄さんは矢やつ張ぱり叔母さんの生さ家とへ知らずに買物に行つたのよ。三度も。なんでもハイカラな娘が居たなんて――必きつとお君きみさん︵叔母さんの姪めひ︶のことよ。﹂ 斯こ様んな話をして置いて、またそこ〳〵に引返して行つた。 ある日は髪を結ひに寄つた。我わが儘まゝの言へる妹の傍そばで、お節は髪結が来るまでの僅かばかりの時を送らうとして、 ﹁栄ちやん、御免なさいよ、すこし横に成るから――草くた臥びれたやら、眠いやらで。﹃意い気く地ぢが無いね﹄なんて、兄さんに笑はれちやつた。﹂ いよ〳〵遠いところへ行くといふ前の日には妹のところへ来るには来たが、物の十分と話して行かなかつた。 お父さんは到頭一夏旅館に滞在して、新夫婦しての旅立を見送らうと言つて呉れた。お節が旦那さんと一緒に東京を発つにも矢やつ張ぱり叔父さんの家うちから発つことに成つた。 ﹁人一人送り出すといふのはナカ〳〵容易ぢや有りません。﹂ と叔父さんは二階から降りて、お節の髪を丸まる髷まげに結ひに来た髪結に話した。 黄色く塗更へたばかりの深い床の壁には、長ちやんが鉛筆でもつて、大きな波だの舟だの変な顔の曲つた船頭だのを一面に画いて了つた。その側そばで、旦那さんはお節の丸髷の出来るのを待ちながら、 ﹁私が今行つてるところは、外国と言つても非常に単調な、極く寂しい感じのするところなんです。何か宗教でも無ければ居をられないやうな処なんです。﹂ 若い輝きをもつた大きな目は言葉で言へないところを補つた。 ﹁宗教と言ひますと。﹂と叔父さんは問返した。 ﹁まあ自分は自分だけの宗教に安心を求めるんですネ――他たり力きとでも言つたやうな。﹂斯う旦那さんが答へた。 根岸では伯母さんも姉さんも停ステ車ーシ場ョンまで見送つて呉れるといふ。叔父さんの家うちでは、叔父さん一人だけ留守居で、余あとのものは皆みんな送つて行くことに成つた。婆やまで仕度した。 若い細君に似合はしいお節の髪が出来た。 ﹁文ちやん、もう一度抱つこして見ませう。﹂ と言つて年し少たの子供を抱きあげ、それから長ちやんの方も抱いて見た。 ﹁ほんとに二人とも大きく成つた。﹂ と復たお節が言ふと、長ちやんは鼻へ皺を寄せて、さも嬉しさうな容よう子すをした。 ﹁大きくなつたと言はれるのが其そん様なに嬉しいの?﹂ とお栄もその側そばに居て言つた。頼んで置いた車夫が来てそろ〳〵旅の鞄などを運び始めた。