冒ぼう頭とうに一応断ことわっておくがね、この話では、登場人物が次から次へとジャンジャン死ぬることになっている――というよりも﹁殺さつ戮りくされる﹂ことになっているといった方がいいかも知れない。そういう点に於おいて﹁グリーン家けの惨さん劇げき﹂以来、血に乾いている探偵小説の読者には、きっと受けることだろうと思うんだ。しかし小説ならば兎とに角かく、いやしくも実話であるこの物語に於て――たとえそれが秘ひ話わの一つとして大事にしまって置かれてあるものにせよ――あまりにも、次から次へと死ぬ奴がでてくるもんで、馬鹿馬鹿しいモダンチャンバラ劇をみているような気がしないのでもないのだ。だが、そんな気で、この秘話を聞き、今日の世相を甘く見ていると、飛んでもない間まち違がいが起ろうというものだ。たとえば今こん日にちアメリカに於おける自動車事故による惨ざん死しし者ゃの数字をみるがいい。一年に三万人の生せい霊れいが、この便利な機械文明に喰くわれてしまっている。日本に於ても浜はま尾おし子しゃ爵くか閣っ下かが﹁自動車轢れき殺さつ取とり締しまりをもっと峻しゅ厳んげんにせよ﹂と叫んで居られる。機械文明だけではない。あらゆる科学文明は人類に生活の﹁便コン宜ビニエンス﹂を与えると同時に、殺人の﹁便宜﹂までを景品として添そえることを忘れはしなかった。これまでの日本人には大変科学知識が欠けていたし、今でも科学知識の摂せっ取しゅを非常に苦しがっている。だが、若い日本人には、科学知識の豊富なものが随分と沢山できてきた。少年少女の理科知識に驚かされることが、しばしばある。若い男子や女子で、工場で科学器械のお守りをしながら飯を食っているというのがたいへん多くなってきたようだ。若い人々にとって科学知識は武器である。彼等はなにか事があったときに、その科学知識を善ぜん用ようもするであろうが、同時にまた悪あく用ようの魅みり力ょくにも打ち勝つことができないであろう。実際彼等のあるものから見れば殺人なんて、それこそ赤ン坊の手をねじるより楽なことなのだ。しかし彼等のそうした科学的殺人事件が、あまり世間に報ほう導どうせられないわけは、一つには彼等は殺人の容よう易いなることは知っていても、殺人の興味がないし、その味をも知らないことに原因する。また二つにはその方法処置が完全で、犯行の全然判らない点もあるし、たとえ判ったにしても犯人たるの証拠が全然残されていないことにも原因するのだ。……
いや、莫ば迦かに﹁論エッ文セイ﹂を述べたてちまったが、実は、この論文の要よう旨しは、僕の頭の中に浮びあがる以前に、これから話そうという﹁電でん気きき恐ょう怖ふび病ょう患かん者じゃ﹂の岡おか安やす巳みた太ろ郎う君が述べたてたものなんで、その聴きき手てだった僕は、爾じら来い大いに共きょ鳴うめいし、この論説の普ふき及ゅうにつとめているわけなんだが、全くその岡安巳太郎という男は、科学的殺人が便べん宜ぎになった現代に相ふさ応わしい一つの存在だった。岡安はいまも言うとおり、今日人殺しなんて容易に出来る、ところが自分は小学校時代から算術と理科がきらいで、中学生時代には代だい数すう、平へい面めん幾き何か、立りっ体たい幾何、三角法と物理化学に過度の神しん経けい消しょ耗うもうをやり、遂にＫ大学の理りざ財い科かを今から三年前に出た﹁お坊ちゃん﹂なのだ。科学知識とはまるで正反対の側に立っているという人間で、科学を呪のろうこと迚とてもはなはだしく、科学的殺人の便宜を指摘する夫ふう子し自じし身んはいつか屹きっ度とこの﹁便コン宜ビニエンス﹂の材料に使われて、自分はきっと天てん寿じゅを俟まつ迄もなく殺さつ害がいせられてしまうに決っていると確信しているのだから、実に困ったものだ。この先生は、機械文明にも一応恐怖心を表明しているが、更に始しま末つのわるいのは電気文明に対する絶対的の恐怖心である。機械文明の方は自動車にしても、汽車にしても、トロッコにしても︵彼は一度郊こう外がいで、赤あか土つちを一杯積んだトロッコに轢ひかれ損そこなったことがある︶、音響なり、速度のある車体の運動なりが、一応耳なり眼なりの感覚に危険を訴えて呉れるから、比較的安全だ。それに反して、電気文明の方は、電気の流れていることが、眼にも見えなければ、耳にも聞えやしない。そして誤って触れると、ビリビリッと来て、それでおしまいである。電気の来ていることが判った次の瞬間には、感電死で、自分の心臓はもうハタと停っている。一度停った心臓は時計とちがって二度と動いてくれない。電気を意識したときには、既に己おのれが生せい命めいは絶たれている。これほど、人情のない惨酷な存在が外にあろうか。しかも警視庁は、電気の来ていることについて何等の表示手段をとっていない。電線なんてものは皆鼠ねずみ色か黒くろ色で、銅どうが錆さびた色とあまりちがわない。こうした眼に立たない色だから、つい気がつかないで電線を握っちまったり、トタン塀べいを帯たい電でんさせたりするのだ。その危険きわまる電線が生命の唯一の安全地帯である住い家えの中まで、蜘く蛛もの巣すのように縦じゅ横うお無うむ尽じんにひっぱりまわされてある。スタンドだ、ヒーターだ、コーヒー沸わかしだ、シガレット・ライターだ、電気行あん火かだ、電気こてだと、電気が巣喰っている道具ばかりが出来て殺人の危険は、いよいよ増加してきた。それに最も戦せん慄りつを禁じ得ないのは、そうした電気器具がほとんど全部といっていいほど、金属で出来ていることだ。金属ほど電気をよく伝えるものはない。それになにをわざわざ、危険きわまる金属を選んで使用するのであるか、警視庁の保安課なんて、一体どんな仕事をやっているのかと言いたくなる。――岡安巳太郎は、色蒼ざめた顔を上下にふり乍ながら、よく憤ふん慨がいしたものさ。
岡安の電気恐怖病症状については、この上述べると際さい限げんがないので、この辺でよしたい。﹁俺は電気に殺されるに違いないんだ﹂と彼は口くち癖ぐせのように言っていたもんだ。その度たびに春ちゃん――これが例のカフェ・ネオンの女給で﹁カフェ・ネオンの惨マー劇ダー・ケース﹂の一花はな形がたであるわけだが――から﹁またオーさんのお十は八こ番よ﹇＃﹁お十は八こ番よ﹂は底本では﹁お十は八こ番よ﹂﹈。そんなに心配になるんなら、岩田の京ぼんに頼んで、いっそ一ひと思いに、感かん電でん殺ころしをやってもらえばいいじゃないの、オーさんッ﹂と、尻上りの黄色い声を浴びせかけられていたものさ。この岩田の京ぼん、本ほん名みょう京四郎というのは、カフェ・ネオンから一丁ほど先にある電気商の若主人で、ネオンの新築当時、電燈や電熱器の配線工事をやった関係があって、それからこっち、客になってはウイスキーを舐なめに来たり、また出でい入りの電気屋として配電の拡かく張ちょう工事や、問題のネオン・サインの電気看板の取付けにやって来たりなどして、どっちかと言うとカフェ・ネオンの特別客というわけだった。尤もっとも若い男のことだから、美しい女給の誰かにお思ぼし召めしのあったらしいことは言うだけ野や暮ぼである。話がどうやら脱線の模様だが、京ぼんに電気で殺して貰えなどと言われると、岡安先生は眼を一ぱい見開いたまま、一同から身を遠ざけるために、隅っこの羽はめ目い板たへペタンと身体をへばりつけてしまう。そのとき春ちゃんが﹁ホラ懐中電燈！ ホラ、電気よ！﹂と言って岡安の横腹を、ちょいと突つっつくと彼はキャッと言うような声をあげて三尺ばかり飛び上る、その恰好がとても面白いというので、春ちゃんが、退屈さましにときどき用いる。外ほかの女給も人の悪いのばかりで、めいめいの客をほったらかして置いてわざわざこれを見に来るという騒ぎさ。その騒ぎが大きくなりすぎたと思われる頃になると、鈴江という半はん玉ぎょくみたいな女給が青い顔をして皆のところへやって来る。﹁あたい、気味がわるいから、キャッキャッ言わせるの、よしてよ﹂そういうと春ちゃんが、鈴江をぎゅっと睨にらんで、何か呶ど鳴なりたいらしいんだが、そいつをモグモグと口の中に押しかえして黙っちまう。この気けは配いに一同もくさっちゃってそれぞれ元の客席へ退散という段取りになるのが例だった。この光景を、見ていて見ていないふりをしている奴に、カウンター兼給仕長の圭さんというのが居る。これは本名を鳥とり居いけ圭いぞ三うという三十五にもなる男でカフェ・ネオンの現げん業ぎょ員ういんの中でも最年長者なのだ。こいつは、内ない々ない春ちゃんに気があるらしい。もっとも春ちゃんはネオンのプリマドンナだから、お客といわず、従業員といわず、なんとかなるものなら是非一度は桃色のチャンスを持ちたいものをと願っていなかったものは無かろう。給仕長の圭さんは、白い上うわ着ぎを酒さけ瓶びんの蔭にかくしてなにか整頓に夢中になっているように見せて置いて、然しかるのち、その蔭に鈴江をよびこむと、春ちゃんの機嫌をわるくするようなことを言っちゃならねぇぞと、薄うす気き味みわるい表情と口調とで、訓くん戒かいを与えるのだった。面白いのは、訓戒を与えているのに、春ちゃんが気付くと、彼女は燕つばめのように忽たちまち圭さんの前にとんで行き、﹁余計なおせっかいだよ、すうちゃん、あっちへ行っといで……﹂と逆に圭さんに喰くってかかる。圭さんはなにも言わないで、ニヤニヤ笑っているところで幕になるのが、毎度のことであった。その圭さんは、この幕切れには納おさまりかねるものと見え、それから舞台裏のコック部屋へ入りこんで、コックの吉きち公こうと無駄口を叩きはじめる。吉公というのは祖そふ父えは江る春き吉ちが本名で、本来なら春公とか何とか言うのがあたりまえなんだが、彼がこのカフェに来る前に既に春ちゃんと呼ばれる女給が居た関係上、春吉の方は春公とは言わないで、吉公とよばれていた。圭さんと吉公とはまあ仲のいい方で、そして二人はカフェ・ネオンに於ける正まさしく男子現業員の全部で、そして気の毒にも一階受持ちの女給八人、二階受持ちの女給七人、合計十五人の娘ろう子しぐ軍んに対し、名実共に頭が上らなかったのである。
こうした風景が、カフェ・ネオンにおいて表面は案外平凡にくりかえされているうちに、突如として大だい惨さん劇げきの黒くろ雲くもが、この家の上に舞い下くだった。それは月も氷こおるという大たい寒かんが、ミシミシと音をたてて廂ひさしの上を渡ってゆく二月のはじめの夜中の出来ごとだった。カフェ・ネオンの三階の寝室で、春ちゃんが惨ざん殺さつされてしまったのである。その寝室には春ちゃんの外ほかに四人の女給が、思い思いの方向に枕を置いて寝ていたのであるが、不思議なことに、彼女達は、春ちゃんの殺されたことを朝の十一時まで全く知らなかったのである。丁ちょ度うどその時刻のすこし前に給仕長の圭さんが出勤して来て、階下のコック室べやに独ひと寝りねをしていた吉公を叩たたき起すと、その勢いで三階の娘子軍の寝室までかけ上ったところ、蒲団をまくられても寝ている方がましだという頑強な反抗に遭い、温おと和なしく階下へおりて彼女の代りに店の窓をあけたりしていると三十分も経ってから、この三階建てのビルディングが崩くずれるような音をたてて、四人の生残り女給が悲鳴と共に駈かけ下おりて来た。その恰好は話にも絵にもならない。滑こっ稽けいと悲惨とが隣り合わせに棲すんでいたことにはじめて気がつくような異常な光景だった。その四人の女給は鈴江、ふみ子、お千代、とし子でみんな古くから居る連中ばかりである。
三階へ行ってみると、表の窓際に床をとって寝ていた春江が、仰あお向むけに白い胸を高く聳そびやかして死んでいた。その左の乳下には一本の短刀が垂直に突つっ立たち天あまの逆しゃ鉾ちほこのような形に見えた。どす黒い血潮が胸半分に拡がりそれから腋わきの下へと流れ落ちているらしかった。右の乳房はどうしたものか、彼女の右の手で堅く握りしめていた。しかし全体の姿勢から言って、彼女は即死を遂げたものの如く、蒲団の中に行儀よく横たわっていた。彼女の死後、犯人は蒲ふと団んを頭の上からスポリと被かぶせて行ったので、一層発見がおくれたものらしい。だからその朝一度その室を訪れた圭さんも気がつかなかったものと考えられる。
警視庁の活動は、はじまった。死体は即そっ刻こく大学へ廻され、剖ぼう検けんされた。結果としてその早そう暁ぎょう二時と三時との間に殺さつ害がいされたことが判明した。死因は刺しさ殺つで、刃物は美みご事とに心臓に達している。尚なお死の前後に暴行をうけた形跡が存在しているが、被害者の肢しせ勢いから考えて死後に於て加えられたものとする方が理窟に合う。勿もち論ろん、兇行原因は痴ちじ情ょう関かん係けいによることは明らかである。しかしながら殺人犯人の見当は中々はっきりついては来なかった。第一、証拠が全くのこされていない。短刀の柄えにも指紋はない。被害者は無抵抗で即死したような訳だから、犯人の着ちゃ衣くいの一部をもぎとってもいない。死体の右手は右の乳房から離され、一応掌ての中を改めてみたが、此こ処こにもなんの異常もなく、春ちゃんは単に乳房を握りしめていたというに過ぎないと観察された。圭さんと吉公は、厳重な取調べをうけたが、勿論ボロを出さずにすんだ。しかし二人の現げん状じょ不うふ在ざい証しょ拠うこ法ほうはすこし根拠が薄弱である。というのが、圭さんの方は当時、鰥やも夫めぐ暮らしで、二人のよく睡る子供と一緒に睡っていたというし、吉公の方は一時就寝、十時起床で、その間、寝ていたには相そう違いないが、それを証明するに途みちのない独ひとり者ものだった。女たちも調べられたが、皆々昼間の疲れで熟睡したと申立てるばかりで、春ちゃんが殺された前後についての陳ちん述じゅつに、これぞと思う有力な事実が判明しなかった。ただふみ子という皆の中では一番年の多い女給が申立てたところによると、店がひけてから三丁ほど先に在るカフェ・ネオンの別荘︵というと体てい裁さいがいいが、その実、このカフェの持主の喜きた多むら村じ次ろ郎うの邸てい宅たくにして同時に五人ばかりの女給が宿泊するように出来ている家で、実は彼女等の特殊な取引が行われるために存在する家だともいう︶へ着物のことで行き、その用事がすんでカフェへ帰って寝たのが一時半だった。そのときに春江はじめ四人の女給はもう寝ていたが春江の寝すがたが莫ば迦かに細っそりしているので不思議に思い、側そばによってよく改めて見ると、春江の身体は無く寝ねま衣きや枕が身体の代りに入っていたと述べた。これは警視庁にとって唯一の参考材料となった。春江はどこかへ行って一時半には寝床にいなかった。春江はその時刻、どこでなにをしていたろう。
春江の客や情じょ人うじんの探索が、虱しらみつぶしに調べられて行った。岡安巳太郎や、岩田の京ぼんも、調べられた一人だった。これも自宅に於て睡眠中だったそうで、格別材料になるようなものが発見せられなかった。事件は文字どおりに、迷めい宮きゅうへ陥おちいって行ったのである。
春江の初しょ七日かが来た。その夜、カフェ・ネオンの三階に於て、またまた惨劇が演ぜられた。不幸な籤くじを引きあてたのはふみ子という例の年とし増ま女給だった。殺害状況は、前の春ちゃんの惨ざん殺さつの時のと、まるで写真にとったように同じ状況を再演した。強しいて相違の個所を挙げるならば、こんなことになる。
一 同室に就寝していた女給は、前回と同じ顔触れの鈴江、お千代、とし子の三人と外ほかに清子、かおるの二人の新しん顔がおが加わっていた。
二 被害者ふみ子の身体には暴行の跡が発見されなかった。
三 被害者ふみ子は、春江の場合の如く右手で右の乳房を握ってはいず、右手は正しく伸ばされていた。
四 被害者ふみ子の寝床は、春江の場合に於けるが如く、表向きの窓際にはなく、それと九十度だけ右廻りに廻った壁ぎわに寝ていた。
（因 に、春江の位置に寝ていたのは、鈴江であった）
この外の点は、皆おなじ事で、不思譲なことに、殺害の時間も、短刀の大きさも、致命傷の位置も同じで、ただ創きず痕あとの深さが、すこし深いように報告されていた。
第二の惨劇の日につづく一両日の間に、僕の耳に入った特殊事項について二三のことを述べて置こう。
なに、君はこの事件に、どんな役目をしていたのだか言えというのかい。それは判りきっているじゃないか。どうせ終りまで聞けば、判るにきまっていることなのさ。僕が誰だって、この物語の進行には一向差さし支つかえないわけじゃないか。
鈴江が、捜査係長に訊たずねられた一いち事じがある。それは第二の犠牲者たるふみ子の肩のところに貼ってある万ばん創そう膏こうについて生せい前ぜんふみ子が、おできが出来たとか、傷が出来たとか言っていなかったかという質問である。鈴江は知らないと答えた。同じ質問が次にお千代に発せられた。お千代は細い引き眉まゆ毛げをしかめながら何か思い出そうとしているようだったが﹁ふうちゃんの首のところには、おできも傷もなかったようですわ、あの日のおひるっころ、ふうちゃんと蛇じゃ骨こつ湯ゆへ一緒に入ったんですがそのときお互たが様いさまに、洗ながしっくらをしたんですのよ。わたしはふうちゃんの首のところに小さい黒ほく子ろがあるのを見付けたものですから、ちょいとおイタをしてやれと思ってふうちゃんの頸くびんとこをギュウギュウこすってやったんです。ふうちゃんは、あんたいたいわよ、血が出るじゃないのといいましたから、でもこの小ちいちゃい黒子が、どうしてもとれやしないのよと言って笑ったんですの、そのときによく注意していたと思いますが、別に傷もおできも見えなかった、ような気がしますけれど……﹂と陳ちん述じゅつした。清子、かおる、とし子の三人も知らないと、順々に答えた。
この訊じん問もんが終ったあとで、係官の間に、こんな会話が行われるのを聞いた。
﹁ふみ子の首の万ばん創そう膏こうをとって見たが、穴が相当深くあいていた。沃ヨジ度ウム丁・チ幾ンキをつけてあるが、おできのあとともすこしちがうような気がするんだが、大学の鑑定事項の中へ、穴ぼこが意味する病名を指摘するように書き加えて置いて呉れ給え﹂
﹁不思議ですな、前の春江の場合にも、やっぱり首のところに万創膏が小さく貼ってあったじゃありませんか？﹂
﹁なに、それは本当か。――ウーンすると、ことによると犯行に関係ある穴ぼこかも知れない。だがそうなるとあの万創膏は犯人が貼ちょ付うふしたことになるわけだ。さあ、失し敗まった。あの万創膏を捨ててしまった。あれを顕微鏡にかければ、たとえ犯人が手袋をはめてあれを貼りつけたものとしても、ゴムがペタペタしているために、手袋の繊維をすくなくとも数十本は喰くわえこんでいる筈だ、それから手てが懸かりが出るかも知れなかったのだ。莫ば迦かなことをしてしまった﹂係長のなげきは、なかなか一と通りではないようにみえた。
もう一つの面白い事実は、ふみ子の死んだという日のお午ひる下さがりに、岡安巳太郎が、ヒョックリとカフェの扉ドアをおして入ってきたことだ。警視庁では、相続いて起った殺人事件に証拠材料があまりに貧弱で、考えようによっては、犯人の容易ならぬ周しゅ到うとうぶりが浮んでみえるようなので、なにか手懸りを得るまでは、このカフェ・ネオンに営業を休んではならぬと言い渡してあった。そしてふみ子の死体は、別荘の方で葬そう儀ぎ万ばん端たんを扱うこととし、カフェ・ネオンはいつものように昼間から、桃色の薄暗い電灯が点ともっていたのである。なにも知らぬ岡安は、はりこんでいる刑事の間を、すれすれにくぐりぬけてきたことも知らずに、いつもの定じょ席うせきに腰を下した。すると奥から鈴江があたふたと出て来るなり岡安の前へペタンと坐って、﹁オーさん、大変よ。きいても大きな声をだしちゃいやあよ。今けさ暁が方た、また、ふうちゃんが殺されちゃったの。ええ、三階でね、もうせんのと同じ手で……。だもんで、うちの外も︵と、あたりに気をくばりながら特に声をひそめて︶中にも刑事が張りこんでいるわ、あんた、変な声なんか出さないでちょうだいね﹂とやさしく睨にらんだ。一体、鈴江という女は、春ちゃんの死後そのいいひとだった岡安と馬鹿に仲よくなったようだ。この女は、半はん玉ぎょくみたいな外観を呈しているかと思うと、年増女の言うような口をきくことがあった。恐らく顔や身体の割には、ずいぶん年と齢しをとっているのじゃないかと思われた。今のところ、岡安も春ちゃんのことは、夢のように忘れちまったらしく、鈴江と肝かん胆たん相あい照てらしている様子は、側はたから見ていて此のような社会の出来ごととしても余り気持のよいことじゃなかったのである。
﹁すうちゃん。けさ、ふうちゃんが殺された時間は、いつ頃だったの﹂
﹁さあ、よくはわからないけど、二時と三時との間だという話よ。どうしてサ﹂
﹁じゃ二時二十分――たしかに、あれだ﹂と岡安は急に眼を大きく見開いたまま、ふるえる細い手を額ひたいの上へ持って行った。﹁すうちゃん、このカフェは呪のろわれているんだよ、君も早くほかへ棲すみかえをするといい。僕は見たんだ。たしかに此の眼で見たんだ、しかも時刻は正まさに二時二十分――丁ちょ度うどふみちゃんが殺された時間だ﹂
﹁オーさん。あんた知ってんの、言ってごらんなさい。言ってよ、なにもかも、さ早く﹂
﹁いや、怖ろしいことだ。君、このカフェ・ネオンの三階に懸かかっている電気看板は、ただの電気看板じゃないんだぜ。あいつは生きてる！ 本当だ、生きてる。あの電気看板には人間の魂がのりうつっているのに違いないんだ。きっと、あいつだ﹂
﹁なにを寝ねご言とみたいなことを言ってんのよ。早くおきかせなさいな、けさがた、あんたの見たということを……もしかしたら、オーさんは、けさがた此こ処この家へ……﹂
﹁あの電気看板は、早く壊こわしてしまうがいいぞ。おい、すうちゃん、あの電気看板はいつも桃色の線でカフェ・ネオンという文字を画えがいている。あれは普通の仁じん丹たん広告塔のように、点ついたり消えたり出来ない式のネオン・サインなのだ。そしてあの電気看板は毎晩、あのようにして点けっぱなしになっている。僕んちはここから十三丁も離れているが、高たか台だいに在るせいか、家の屋上からあのネオン・サインがよく見える。それは朱しゅ色いろの入いれ墨ずみのように、無ぶ気き味みで、ちっとも動かない。また動くわけがないのだ、それだのに、けさ方がた、二時二十分にあの電気看板が、ほんの一秒間ほどパッと消えちまったのだ。そのあとは又元のように点ついていたが……。停電なら、外ほかに点ともっている沢山の電燈も一緒に消えるはずじゃないか。ところが、パッと消えたのはここの電気看板だけさ。二時二十分にふみちゃんが殺される。電気看板がビクリと瞬またたく――気味がわるいじゃないか。僕は、はっきり言う。あの電気看板には神経があって、人間の殺されるのが判っていたのだ。そして僕にその変へん事じを知らせたのに違いないんだ。あんな怖ろしい電気看板は、今日のうちに壊してしまわなくちゃいけない﹂
﹁オーさん、そのことは黙っていた方がいいことよ﹂とこの話をきいてから死人のように真まっ蒼さおに﹇＃﹁真まっ蒼さおに﹂は底本では﹁蒼まっ蒼さおに﹂﹈なっている鈴江が、皺しわ枯がれた声を無理に咽の喉どからはき出すようにして叫んだ。﹁その話はオーさんの挙動に、ある疑いを起させるばかりに役立つわ。あたいは、なにもかも知っているのよ。たとえば、死んだ春ちゃんとあんたが、密会の打合わせをあの電気看板の点てん滅めつでやっていたこともよく知ってるわ。さア今いま更さら驚くに当りやしない。春ちゃんは、毎晩十二時になると、あの電気看板のスイッチを切ったり入れたりして、電信のような信号をすると、ご自分の家の屋上でその信号を判断しては、その夜よ更ふけ、ここのうちの裏梯子から三階の屋根裏の物置へあんたが忍んで来るのだったわネ。電気看板の信号なんかは使わないけれど、其その外ほかは丁ちょ度うどこのごろ、あんたとあたいが繰くりかえしている深夜のランデヴウみたいにネ。まあ、くやしい。どうして忘れるもんか、あの春ちゃんが殺される日、あたいは屋根裏の物置の中に鼠かなんかのように蠢うごめいている﹇＃﹁蠢うごめいている﹂は底本では﹁蠢うごめめいている﹂﹈あんた達を見せつけられて、あたし……。オーさん。今の話をすると、とんだ騒ぎができますよ。黙っているのよ、わかって﹂
﹁春ちゃんを殺したのは、僕じゃない。ふうちゃんを殺したのも、亦また僕じゃないんだ﹂
﹁そんなことを訊きいているんじゃないじゃないの。いやあなひとね。ここの中にはそりゃとても怖ろしい人が居るのよ。人間の生いき血ちでも啜すすりかねない人がネ。今にわかるわ、畜生﹂
﹁すうちゃんは、人殺しをやった奴を知っているのかい﹂
新しい客がドヤドヤと扉ドアのうちへ流れこんで来て、岡安の隣のボックスを占領してしまったので、きわどい話も先ずそれまでだった。
その日の午後四時になって警視庁へ大学からの報告が届くと、捜そう索さく方ほう針しんが一変した。朝から拘こう引いんされていた給仕長の圭さんと、コックの吉公とが、夕方になって一先まず帰きた店くを許され、これと入れかわりに電気商岩田京四郎が、検あ挙げられてしまった。調べ室は金モールの眩まぶしい主しゅ脳のう警官と、人相のよくない刑事連中の間に、京ぼんを挿はさんで場面はいとも緊張している。
岩田京四郎はなかなか白状しない。しかしそれはもう時間の問題であると係官の方ではたかをくくっていた。というわけは、大学の報告で初めて判った新事実によると、第二の犠牲者ふみ子の死体剖検の結果、兇器を刺しとおしたため出来た傷口の外ほかに、それと丁ちょ度うど相あい重かさなって、兇器によるとは思われない皮膚と筋肉との損そん壊かい状態を発見したことにある。その部は、鋭い爪でひきさいたような形になって居て、尚なおそのうえ、皮膚と筋肉の一部に連続的な黄色い燃焼の跡のようなものがある。これはおかしいと更に解剖をすすめたところ、遂にふみ子の死因が、短刀による心しん臓ぞう部ぶ刺しし傷ょうであると判断せられていたのは大間違いで、実は高圧電気による感電死であり、その高圧電気は、ふみ子の乳ちち下したと、万創膏の貼はりつけてあった首の後部とに電でん極きょくを置かれて放電せられたもので、相当強い電流が心臓を刺し其の場に即死をとげたことが判明した。この驚くべき事実が報告されてみると、警視庁では、第一の犠牲者の春江惨ざん殺さつ事件に於ても同様の手段がとられたものと確信をもつようになった。それは、春江の場合には頸けい部ぶに、小さい万創膏が貼りつけられてあったのを覚えている係官が居たことから判って来たのである。ここに電気商岩田京四郎は非常な不利な立場となりカフェ・ネオンの頻ひん繁ぱんな電気工事の詳細について手てき厳びしい訊じん問もんが始まった。無論、女給殺しの電気は、何万ボルトという高圧電気を使っている三階のネオンサイン電気看板から、被害者の身体へ導かれたものであり、そうした思い付きや、高圧電気の取扱いは、岩田京四郎を除いて外ほかの誰もが出来そうにないことから当然、二回に亙わたる電気殺人の犯人として彼が睨にらまれたのも致いた方しかたないことであった。
電気商の京ぼんが翌日の取調べ続行のため冷い留置場の古ぼけた腰掛の上に、睡りもやらぬ一夜を送った其の翌よく朝あさのことだった。事件急迫のために、宿直室で雑ざ魚こ寝ねをしていた係官一同は﹁カフェ・ネオンに第三の犠牲者現わる﹂という急報に叩き起されて、夜やら来いの睡眠不足も一時にどこへやら消しとんでしまった。第三の犠牲者は、眉まゆ毛げの細いお千代だった。捜査係長は、喪そう心しんの態ていで、宿直室の床の上へ起き直ったまま、なかなか室から出て来そうな気けは色いもみせなかった。
第三の犠牲者のお千代の殺さつ害がい惨さん状じょうはあまりにも悲ひさ惨んだった。女給一同は、第二の惨劇以来というものは、カフェ・ネオンに宿泊するのをいやがって、みな別荘の方へ行って寝ることにしていた。ただ気づよいコックの吉きち公こうだけは、このカフェを無ぶに人んにも出来まいというので、依然として階下のコック室べやに泊っていた。しかし室の内部からしんばりをかったりして真まひ昼る女給たちから小しょ心うしんを嗤わらわれたものだ。その夜、お千代は当番で、最後まで店にのこっていたものらしい。勿もち論ろん彼女は別荘へ帰ってゆくに違いなかったのだが、とうとう其の夜は別荘に姿を見せなかった。事件以来、他へ泊りに行くこともちょいちょいあるので大たいして問題にされなかったが、朝になって女給たちが、昨ゆう夜べの疲れを拭ぬぐわれて起き出でた頃には、お千代が昨夜かえって来なかったことについて不吉な問題が一同の間に燃え拡がって行った。
﹁あら、すうちゃんが見えないじゃないの﹂
と叫んだ娘がいる。
﹁昨夜ここへ泊ったわよ、ほら、その蒲団があの人のじゃないの。お小こよ用うにでもいったんじゃないかしら、だけどこうなると、一々気味がわるいわねえ﹂
鈴江の行方については兎とも角かくも、一方お千代の惨ざん死した体いが、又もやカフェ・ネオンの三階に発見されて大騒ぎが始まった。またしても言うが、お千代の最後は惨さん鼻びの極きょくだった。彼女はどうしたものか、夜中に開かれた表向きの窓から、半身を逆さかさに外へのり出し、丁ちょ度うど窓と電気看板との間に挿はさまって死んでいた。だから暁あけ方がたになってようやく通行人が、電気看板の上じょ端うたんからのぞいている蒼あお白じろい脛はぎや、女の着ちゃ衣くいの一部や、看板の下から生なま首くびを転ころがしでもしたかのように、さかさまになってクワッと眼を開いている女の首と、その首の半分にふりみだれた黒髪とを発見して大騒動になった。お千代は晴着をつけたまま殺されていた。矢や張はり心臓には短刀がプスリと突きたてられ、警視庁で眼をつけていた万ばん創そう膏こうも肩のあたりに発見せられた。すべて同一手法の殺人である。そして電気殺人たることは判っているのにもかかわらず、それを瞞まん著ちゃくしようとてか短刀を乳房の下に刺しとおしてあるではないか。係官は犯人の嘲ちょ弄うろうに悲ひふ憤んの泪なみだをのんだ。そして即時、このビルディングの徹底的家宅捜索の命令が発せられた。
その取調べの最中に、フラフラとやって来た岡安巳太郎が苦もなく刑事の手にとり押えられたのは、気の毒にも滑こっ稽けいであった。
﹁ゆうべ、誰かがカフェ・ネオンで殺されたでしょう、刑事さん、僕は知っとる。だから、こんな化ばけ物もののような電気看板は壊こわしてしまえと僕は忠告しといたのです。それにひとの言う事を信用しないものだから、又誰かが殺されちまったじゃないか。今度は誰です。え、お千代、千代ちゃんか。すうちゃんはまだ生きていますかネ。可か哀わいそうな千代ちゃん。あの子の死んだのは、やっぱり今朝の二時二十分です。僕はちゃんとこの眼で、現在みていたんだからな。この看板のやつ、また瞬まばたきをしやがった、この化物め！﹂刑事がこの厄やっ介かいな男を制する間もなく、岡安は路ろぼ傍うの大きな石を拾い上げると、パッとネオン・サインを目がけてうちつけた。恐ろしい物音がして、サインの硝ガラ子スが砕くだけ、電気看板が壁へき体たいからグッと右の方へ傾くと、まだその儘ままにしてあったお千代の屍体がぬっと白はく日じつのもとに露出してきたもんだから、見て居た係官や群衆は、わっと声をあげると共に、顔の色を真まっ蒼さおにしてしまった。その隙すきに岡安はとび上って何だかわけのわからぬことを呶ど鳴なりちらしては暴れていた。﹁春はる公こうの怨おん霊りょうめ、電気看板に化けこんだって、僕はちゃんと知っているぞ。僕が殺せるんなら、サアここまでやって来て殺してみろ！﹂彼は電気看板を春ちゃんの死しり霊ょうと思い誤あやまっているのであった。警官は、この気が変になってしまったらしい岡安を手とり足とり連れて行ってしまった。騒ぎがますます大きくなってゆく内に、女給の鈴江と、コックの吉公とが、全く行方不明になっていることが報告された。それ以来、今こん日にちに至るまで二人の消息は、警視庁にとどかないのである。警視庁では、その夜、電気商の京ぼんを釈しゃ放くほうし、圭さんの嫌うた疑がいも晴れた。岡安巳太郎は気がすこし鎮しずまったところで、色々と訊じん問もんをうけたが、電気的知識に乏しいばかりか、大きい恐怖さえ感じている岡安に、電気殺人ができる筈はないというので、犯人たるの嫌けん疑ぎは薄くなった。それに係官は彼のために、電気看板が瞬まばたくように見えるのも、その途とた端んに電気抵抗のすくない人じん体たいの方へ電気が流れるため、電気看板の方には電気が通らぬこととなり、それで一ちょ寸っと消えるのだと説明してやっても彼には、サッパリ理解がつかなかった。兎とも角かくも春江惨ざん殺さつの夜の岡安の行動には、尚なおいくぶんのうたがいが残されている。又、彼が、何なに故ゆえに、この寒い二時三時という深夜にひとり起きいでて屋上に立ち、カフェ・ネオンの電気看板を眺めくらしているものか、これについて岡安の語るところによると、春江と電気看板の点てん滅めつを合図に逢おう瀬せを楽しんでいたことが忘れられず、今は鈴江と仲のよくなった今日も、毎晩のように十三丁も遠えん方ぽうから、あの桃色のネオン・サインをうっとり見み詰つめていたそうで、そうした生活が、なにより、彼にとって楽しい時間であり、寒さもなにも感じないと答えた。
そこでいよいよ取っておきの話をするが、実はカフェ・ネオンの惨さん劇げきの犯人と目される春吉と鈴江の関係について、僕が知っていることがある。鈴江は自分の惚ほれている岡安と情じょ人うじんたる春江とのよい仲に極きょ度くどの嫉しっ妬とをおこし、二人の逢おう瀬せが度たび々たび屋根裏の物置で行われているのを知ったもので、とうとうたまりかねて、春江を殺す決心をした。彼女はだれにも洩もらさなかったが昔、××電気会社で高圧係の女工だった関係で電気の取扱い方を知っていたので、それを利用したというわけだ。兇きょ行うこ前うぜん、同室に熟睡中の同僚を麻ます睡いや薬くを嗅かがせてよく睡らせてしまい、兇行後には自分もみずからこの薬の力を借りて熟睡に陥り巧みにみんなの眼をごまかしていたものである。
コックの春吉は、実は殺された春江の従いと兄こにあたる男だが、その関係を隠してカフェ・ネオンにやとわれていた。春江が鈴江に覘ねらわれていることを感付いてはいたが、とうとう彼の注意の届かないうちに春江は殺されてしまった。鈴江は春江を殺しただけではなく、春江の情じょ人うじんたる岡安を完全に手に入れ、岡安も春江のことなどを忘れてしまったかのように鈴江と喃なん々なん喋ちょ々うちょうの態度をとった。それでコックの春吉はすっかり憤ふん慨がいし、この復ふく讐しゅうを計画したわけなのだ。彼は元もと々もと、極端な享きょ楽うら児くじで、趣味のために、いろいろな職業を選び、転てん々てんとして漂さす泊らいをした。その間にも電気の職工にもなって高圧電気の取扱いも知っていた。更にわるいことは、従いと妹この春江の感電死に遭あったために、彼の享楽主義は、怪奇趣味にめらめらと燃え上った。復讐手段としては、鈴江を直ちに殺さずに鈴江のやったと同じ手段で、次から次へと若い女を殺して行き、だんだんと嫌疑が鈴江の方に向いて来るような途みちをとらせ、思う存ぞん分ぶん、鈴江を脅迫し恐怖させた上で、最後に惨ざん殺さつしてやろうと思ったのである。ところが、その手はじめとしてふみ子を殺してみると、鈴江はたちまち犯人が彼であることを感付いてしまった。二人は睨にらみ合あいの状態となり、お互たがいに持つ兇きょ状うじょうは、二人を奇怪きわまる共きょ軛うや関くか係んけいに結びつけてしまった。第三の惨さん劇げきもコックの春吉の手で行われたが、それは鈴江への脅迫材料になると共に、又自分の重おも荷ににもなってしまった。二人はお互たがいの行動について極度の注意を払った。一方が、その筋へ一方を訴えて死刑台へ送れば、次の日には自分も必ず捉とらえられて死刑台へ送られねばならなかったのである。二人は、別々に、この点について理解し、相手から脱のがれる方法に苦心し合った。その結論は、唯一つあった。相手の生命をとってしまうことだ。この外ほかに、生きる途みちはないと知った彼等は、お互に相手の隙すきを覘ねらい合った。だが第三の惨劇で、いよいよこれ迄の犯はん跡せきが曝ばく露ろしそうになったのをみてとった彼等二人は、朝の太陽が東の地平線から顔を出す前にこのカフェから手をたづさえて遁とん走そうしてしまったのである。いや、この市街から永遠に去って行ったのである。敵かたき同士の不思議な旅が始まった。怪奇に充ちた生活がはじまった。彼等は、外ほかから見れば、羨うらやましいほど仲のよい、そして慎つつしみのある若い男と女とであった。しかし人目を離れて二人っきりの世界になると、慎しん恚い﹇＃﹁慎しん恚い﹂はママ﹈のほむらは天に冲ちゅうするかと思われ、相手の兇きょ手うしゅから脱れるために警戒の神経を注射針のように尖とがらせた。若い彼等二人は、仲なか睦むつまじそうに、一つ蒲団に抱き合って寝た。相手の腕が自分の肢した態いにしっかり、からみついている間は、安心して睡った。
﹁剣を抱いだいて寝る﹂
と春吉は在る夜ふとそうした文句を口の中で言ってみた。彼は只今の生活に、彼のあらゆる精力と神経とを消しょ耗うもうしつくしていた。恐ろしい生活、しかし今日までさまざまの享きょ楽うらくを求めてきた身にとって、一面に於て、これほど異常なエクスタシーを与えてくれるものはなかった。これほど生命の価値を感じたことはなかった。これほど神を想ったことはなかったのである。
﹁﹃剣を抱いて寝る﹄といったわね﹂機嫌のわるいと思っていた鈴江が、細い声で彼の耳元にしずかに囁ささやいた。鈴江の顔の下に重かさなっていた彼の頬に、ポタリポタリと、なま暖いものが落ちて来てくすぐるかのように、彼の唇の下をとおって枕の下におちて行った。
彼は鈴江の腕がギュッと身体をしめつけて来るのを感じた。彼はいつもとはまるで反対の気持で、鈴江の強い握あく力りょくに、かぎりなき愛あい着ちゃくを感じてゆくのであった。
と、まアこういう話なんだがね、そのうちに、妻もお湯から帰ってくるだろうから、そうしたら、晩ばん飯めしでも御馳走することにしようよ。
もう今日がお別れになるかも知れないんだ、ゆっくりして行きたまえ。