1
真夜中に、第九工場の大だい鉄てっ骨こつが、キーッと声を立てて泣く――
という噂が、チラリと、わしの耳に、入った。
﹁そんな、莫ば迦かな話が、あるもんか!﹂
わしは、検査ハンマーを振る手を停めて、カラカラと笑った。
﹁そう笑いなさるけどナ、組長さん﹂その噂を持ってきた職工は、慄おびえた眼を、わしの方に向けて云った。﹁昨夜のことなんだよ、それは……。火の番の、常つね爺じいが、両方の耳で、たしかに、そいつを聴いたよッて、蒼あおい顔をして、此このおいらに話したんだ。満まん更ざら、偽いつわりを云っているんだたァ、思えねぇ﹂
いつの間にか、わし達の周まわりには、大勢の職工が、集ってきた。
﹁組長さん、それァ本当なんだ﹂別の声が叫んだ。
﹁なんだとォ――﹂おれは、その声のする方を見た。﹁てめえは、雲うん的てきだな。雲的ともあろうものが、軽かる卒はずみなことを喋しゃべって、後で笑わらわれンな﹂
﹁大丈夫ですよ――﹂雲うん的てきは大いに自信ありげに、言葉をかえした。﹁それについちゃ、ちィっとばかり、手てめ前えの恥も、曝さらけださにゃならねえが、もう五日ほど前のことでさァ。徹よあ夜かし勝しょ負うぶのそれが、十二時を過ぎたばかりに、スッカラカンでヨ、場に貸してやろうてえ親切者もなしサ、やむなく、工場の宿しゅ直くちょく、たあさんのところへ、真夜中というのに、無むし心んに来たというわけ。さ、その無心を叶かなえて貰っての帰りさ、通り懸かかったのが今話しの第九工場の横手。だしぬけに、キーイッという軋きしるような物音を聴いた。︵オヤ、何処だろう︶と、あっしは立たち停どまった。暫しばらくは、何にも音がしねえ。︵空そら耳みみかな?︶と思って、歩きだそうとすると、そこへ、キーイッとな、又聞えたじゃねえか。物音のする場所は、たしかに判った。第九工場の内部からだッ。︵何の音だろう? 夜やぎ業ょうをやってんのかな︶そう思ったのであっしは、顔をあげて、硝ガラ子スの貼ってある工場の高窓を見上げたんだが、内部は真まっ暗くらと見えて、なんの光もうつらない。︵こりゃ、変だ!︶俄にわかに背筋が、ゾクゾクと寒くなってきた。そこへ又その怪しい物音が……。恐こわいとなると、尚なお聴きたい。重い鉄てっ扉ぴに耳みみ朶たぶをおっつけて、あっしァ、たしかに聴いた。キーイッ、カンカンカン、硬い金属が、軋きしみ合い、噛み合うような、鋭い悲鳴だった﹂
﹁大方、工場に、鼠ねずみが暴れてるんだろう﹂わしは、不機嫌に云い放った。
﹁どうして、組長!﹂雲うん的てきはハッキリ軽けい蔑べつの色を見せて、叫びかえした。﹁あっしにァ、あの物音が、どこから起るのか、ちゃんと見当がついてるのでサ﹂
﹁ンじゃ、早く喋しゃべれッてことよ﹂
﹁こう、みんなも聴けよ﹂彼は、周まわ囲りの南かぼ瓜ちゃ面づらを、ずーッと睨ねめまわした。﹁ありゃナ、クレーンが、動いている音さ!﹂
﹁なに、クレーンが﹂
一同が、思わず声を合わせて、叫んだ。
クレーンというのは、格かく納のう庫このように巨大な、あの第九工場の内部へ入って、高さが百尺近い天井を見上げると判るのだが、そこには逞たくましい鉄骨で組立てられた大きな橋きょ梁うりょうのような形の起きじ重ゅう車しゃが、南北の方向に渡しかけられている。それが、クレーンだった。その橋梁の下には、重い物体をひっかける化ばけ物もののようにでっかい鈎かぎが、太い撚より鋼ロー線プで吊つってあり、また橋梁の一いち隅ぐうには、鉄てっ板ぱんで囲った小屋が載のっていて、その中には、このクレーンを動かすモートルと其の制動機とが据すえてあった。制動機を動かすと、この鉄橋は、あたかも川の中で箸はしを横に流すように、広い第九工場の東とう端たんから西せい端たんまで、ゴーッと音をたてて横に動くのだった。
﹁おい、政まさッ!﹂わしは、クレーンの運転手をやっている男を、人垣の中に呼んだ。
﹁へえ――﹂政は、紙のように、白い顔をして、おずおずと、前へ出てきた。
﹁クレーンが、真夜中に動き出すてのは、本当かな﹂
﹁わたしは、ナなんにも、存ぞんじませんです。しかし、クレーンのスウィッチは、必ず切って帰りますで、真夜中に、ヒョロヒョロ動き出すなんて、そんな妙なことが……﹂
そこまで云った政は、発ほっ作さみたいな様子となり、言葉のあとをブツブツ口の中で呟つぶやいて、それから急に気がついたかのように、ワナワナ慄える両手を、周あ章わてて背後に隠したのだった。
﹁よォし。今夜は、一つ正しょ体うたいを確かめてやろう。いいか、みんな夜中の十二時を廻ったら、裏門前に集るんだ!﹂
2
合宿所の、三階の、廊下を、パタパタと音をさせて、近づいてくる跫あし音おとがあった。
﹁組長さん、おいでですか――﹂
その跫音は、﹁舎しゃ監かん居い間ま﹂と書いた木きふ札だを、釘で打ちつけてあるわしの室の入口の前で停るが早いか、そう、声をかけたのだった。
﹁おう。誰かい﹂
﹁栗くり原はらです。倉そう庫こが係かりの栗原ですて﹂
﹁栗原? 栗原が、なんの用だッ﹂
﹁へえ、ちょっと工場の用なんで……﹂
﹁なにッ。工場の用て、どんなことだか云ってみろ﹂
﹁へえ、実は――﹂栗原は、言い淀よどんでいる風だった。﹁先せん日じつお持ちになりました乙おつ型がたスウィッチが、急に入用になりましたんで、いただきに参ったんですが……﹂
﹁スウィッチなんか、明日にしろ﹂
﹁ところが生あい憎にく、工場で至急使うことになったんで、直ぐ持って行かないと困るんでして、実にその……﹂
﹁よォし、いま入口を開けるから、ちょっと待て﹂
暫くして、わしは、入口の扉とを、サッと開けた。
﹁どうも相あい済すみません﹂栗原は、わしの顔を見るなり、ペコリと頭を下げた。
﹁お前、この間、そう云ったじゃねえか。このスウィッチは、当とう分ぶん不ふよ用うだから、いつまでもお使いなさい、とな﹂
﹁申訳がありませんです﹂栗原は、ひどく恐きょ縮うしゅくしている態ていで、ペコペコ頭を下げた。﹁組長さんは、スウィッチの図面を書きたいから御持ちになるというので、そんな簡単な御用ならと、栗原は帳簿に書かないで、御貸ししたんです。ところが、今急に、拡かく張ちょう工事係の方から、在ざい庫こになっている乙おつ型がたスウィッチは全部数を揃えて出せという命令なんで。どうも已やむを得ず、ソノ……﹂
﹁文句はいいや。さア、早く持ってゆけ﹂
わしは、抱かかえていた乙型スウィッチを、彼の前に、さしだした。
乙型スウィッチというのは、長さ一尺五寸、幅はば七寸の、細長い木きば箱こに収められた大きなスウィッチで、硝ガラ子ス蓋を開くと、大だい理りせ石きの底てい盤ばんの上に幅の広い銅どうリボンでできた電気断だん続ぞく用ようの刃はがテカテカ光り、エボナイト製の、しっかりした把ハン手ドルがついていた。このスウィッチ一つで、鳥ちょ渡っとしたモートルの開閉は充分できるのであった。
﹁栗原さん、俺が持ってゆくよ﹂
横の方から、思いがけない、違った声がして、頭かみ髪のけをモシャモシャにした若い男が、姿を現した。
﹁だッ、誰だ。手てめ前えは……﹂
わしは、戸口の蔭から、イキナリ飛び出した男に、駭おどろいた。
﹁こいつは、横よこ瀬せといいましてネ﹂若い男の代りに栗原が弁解した。﹁この栗原の遠とお縁えんのものです﹂
﹁何故ひっぱってきたんだ﹂
﹁いまお願いして、倉庫で、私の下を働かせて、いただいてるのです。というのは、下した町まちの薬やく種しゅ屋やで働いていたのが、馘く首びになりましてナ、栗原のところへ、転ころがりこんできたのです﹂
﹁ふウん、お前さん、薬屋かア﹂
珍らしそうに、スウィッチの表や裏を、眺めている若い男に、わしは、声をかけた。
﹁薬屋だったんです﹂その横瀬は、ぶっきら棒の返事をした。
﹁どうだろうな。わしは、お前さんに、ちょっと頼みたいことがあるんだが﹂
﹁骨の折れねえことなら、手伝いますよ﹂
﹁これッ――﹂栗原が駭おどろいて、横瀬の汚い職工服を、ひっぱった。
﹁骨は折れねえことだ。じゃ、栗原、お前の若い衆を、ちょいと借りたぜ﹂
﹁へえ、ようがす﹂
栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。
﹁さあ、こっちへ、入んねえ﹂
﹁はあ――﹂
﹁わしは、鳥ちょ渡っと、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ﹂
﹁俺に、判るかなァ﹂
﹁ものは、これなんだ﹂わしは、机の抽ひき斗だしの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。
﹁この硝ガラ子スで出来たものはなんだね﹂わしは、それを横瀬に手渡した。
﹁これは、注射器の一部分ですよ﹂
﹁注射器? そうだろうな、わしも、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい﹂
﹁さァ――﹂横瀬は、モシャモシャ頭かみ髪のけを、指でゴシゴシ掻かいた。﹁注射器は判るが、尖さ端きについている針が無いから、見けん当とうがつかねえ﹂
﹁じゃ、此こ処こんとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい﹂
﹁うん、なんか附いてはいるが――﹂若い男は注射器を、明り窓の方に透すかして、その茶色の汚おて点んに眺め入った。﹁電灯は点つきませんか﹂
﹁生あい憎にく、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ﹂
初しょ夏かの夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。
﹁さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、血けっ痕こんのようでもあり……﹂
わしは、グッと唾つばを呑みこんだ。
﹁もう一つ、見て貰いたいものがある﹂わしは、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。﹁これは何かね﹂
﹁こんなもの、どっから持って来たんです﹂横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。
﹁何に使う品物かね﹂わしは、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。
﹁一口に云えば――﹂と、わしの顔をジロリと見て、﹁子しき宮ゅう鏡きょうという、産婦人科の道具だね﹂
﹁よし、判った﹂わしは、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。
﹁いや、御苦労だった﹂と、わしは挨あい拶さつをした。﹁ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが﹂
﹁あるんなら、早く出しなせえ﹂
横瀬は、面倒くさそうに、云った。
﹁ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ﹂
﹁ようがす。ドッコイショ﹂
横瀬は、﹁ひびき﹂を一本、衣ポケ嚢ットから出して口に銜くわえると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。
﹁何を見てるんだ﹂わしは、訊きいた。
﹁マッチは無いのかね﹂と彼は云った。
3
合宿の門を出ると、溝どぶくさい露ろ路じに、夕方の、気ぜわしい人の往ゆき来きがあった。初夏とは云っても、遅おくれた梅つ雨ゆの、湿しめりがトップリ、長なが坂いた塀べいに浸しみこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
道では、逢う誰だれ彼かれが、挨拶をして行った。
向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱かかえてやってきた。
﹁お前さん﹂と其の女は、わしの連れを、チラリと睨にらみながら、云った。﹁これから、何処へゆくんだい﹂
﹁お前こそ、どこへ行くんだい﹂
﹁ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ﹂
﹁夜業か。まァしっかり、やんねえ﹂
﹁お前さんの方は、どこへ行くのさァ﹂その女は、一歩近よって、云った。
﹁ちょいと、この仁じんと、用よう達たしに﹂
﹁そうかい、あのネ﹂女は、口を、わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁ささやいた。
﹁……﹂わしは、黙って、肯うなずいた。
女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわしに声をかけた。
﹁今の若いひとは、なかなか、美いい女ですネ﹂
﹁そうかね﹂
﹁何て名前です﹂
﹁おせい﹂
﹁大将の、なにに当るんです﹂
﹁馬鹿!﹂
露路を二三度、曲った末に、わし達は、目的の家の前へ来たのだった。
わしは、雨戸を引かれた、表の格こう子しま窓どに近づいて、家の内部の様子を窺うかがった。幸さいわいこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋ふく小ろこ路うじのこととて、人通りも無く、この怪あやしげな振ふる舞まいも、人に咎とがめられることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わしは、連つれを促うながして、裏手に廻った。
勝手元の引ひき戸どに、家の割には、たいへん頑がん丈じょうで大きい錠じょ前うまえが、懸かかっていた。わしは、懐ふと中ころを探って、一つの鍵をとり出すと、鍵かぎ孔あなにさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
障しょ子うじと襖ふすまとを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体たい臭しゅうが、プーンと漂ただよっていた。壁にかけてあるセルの単ひと衣えに、合わせてある桃色の襦じゅ袢ばんの襟えりが、重苦しく艶なまめいて見えた。
﹁いいのかね。こう上りこんでいても﹂
横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
﹁叱しッ――﹂わしは、睨にらみつけた。
わしは、逡しゅ巡んじゅんするところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲ふと団んを、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖あなぐらがポッカリ明いた。そこでわしは、両手を差入れて、天井裏を探さぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手てぶ文ん庫こらしい古ぼけた函はこを一つ抱かかえ下ろしてきたときには、横瀬は呆あっ気けにとられたような顔をしていた。
わしは、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸こせ籍きと謄うほ本んらしいものや、黴かびの生えた写真や、其その他た二三冊の絵本などが入っていたが、わしが横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一いち隅ぐうに立ててあった二い〇り入の硝ガラ子スび壜んだった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
﹁さァ、こいつだ﹂わしはソッと壜を横瀬に渡した。﹁最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは﹂
﹁そうだね、これは――﹂横瀬は、十燭しょくの電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
﹁判らねえのかい﹂
﹁うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど﹂
﹁じゃ、何て薬だい﹂
﹁そいつは、云うのを憚はばかる――﹂
﹁教えねえというのだな﹂
﹁仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御ごは法っ度との薬品なんだ﹂
﹁御法度であろうと無かろうと、わしは、訊きかにゃ、唯ただでは置かねえ﹂
﹁脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸しん蝕しょくする力がある﹂
﹁そうか、柔い皮膚を、抉えぐりとるのだな﹂
﹁それ以上は、言えねえ﹂
﹁ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附ふち着ゃく物ぶつは、この薬じゃなかったかい﹂
﹁さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう﹂
﹁それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当とう座ざのお礼だ﹂
そう云って、わしは、十円紙さ幣つを、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口くち止どめだということを、云いきかせたのだった。
4
いよいよ、夜は更ふけわたった。
月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように寂さびしい真まよ夜な中かだった。
かねて手ては筈ずのとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の濁だく音おんを、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、組くみ下したの若者が、十名あまり、集ってきた。わしは、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、構こう内ないを、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を匍はうレールの上には、既に、冷い夜よつ露ゆが、しっとりと、下りていた。
﹁電ケー纜ブル工こう場ばは、夜業をやってるぜ﹂
﹁満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ﹂
誰かの声に、そっちを見ると、電纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、鉛なまりを鎔とかす炉ろの熱ねっ火かが、赫あか々あかと反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ其その凄すさまじい色彩は、湯のように沸たぎっている熔よう融ゆう炉ろの、高温度を、警告しているかのようであった。
﹁組長さん﹂組下の源太が云った。﹁おせいさんは、もう身体は、いいのですかい﹂
おせいは、実は、わしの妾めかけだった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、わしの顔で、電ケー纜ブルのペー紙パー捲まきという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、身みつ粧くろいをして、合宿から抜け出してくるわしを迎えて、普通の妾となった。
﹁うん、もういいようだ。今夜も、あの電ケ纜ー工ブ場ルで、稼かせいでいる位だァ﹂
﹁うふ。組長は、万ばん事じぬかりが、ねえな﹂
﹁なんだとォ――﹂わしは、ピリピリする神経を、やっとのことで抑おさえつけた。﹁ちょっと電ケ纜ー工ブ場ルへ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて呉くれ﹂
わしは、間もなく出てきた。
電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。
漆しっ黒こくの夜空の下に、巨大な建物が、黙もく々もくとして、立ち並んでいた。饐すえくさい錆さび鉄てつの匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。
﹁うわッ!﹂
建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。
﹁な、な、なんだッ﹂
﹁工場に、蟇がまがえるが出るなんて、知らなかったもんで……﹂
きまりわるそうな、低い声だった、
﹁ドーン﹂
二三間先の、鉄てっ扉ぴが、鈍い音を立てて鳴った。
﹁ウウ、出たッ!﹂
﹁や、喧やかましいやい!﹂
わしは呶ど鳴なった。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。
ひイ、ふウ、みッつ!
やっと、第九工場の、入口が見える。
ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。
錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを外はずさせた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。
﹁さァ皆、懐中電灯を消すんだ﹂わしは扉との前に突立って云った。﹁静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな吃びっ驚くりするようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、わしが命令するまでは、どんなことがあっても、点つけるなよッ。折せっ角かくの化物を、遁にがしちまうからな。いいかッ﹂
一同は、それぞれ、肯うなずいた。
重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル慄ふるえている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後にわしが入って、扉をソッと閉めた。
工こう場ばの中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、絶ぜっ対たい暗あん黒こくであった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、喉のど首くびをグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。
誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。わしは、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を数かぞえて行った。彼等は、わしの手が触さわる度たびに、非常に驚きょ愕うがくしている様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を繋つなぎ合わせていた。
﹁十三人!﹂たしかに、全員が、入口に近い壁かべ際ぎわに、鮃ひらめのように、ピッタリ、附着しているのであった。
それから、時タイムが軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに随したがって、一秒また一秒と、恐怖の水すい準じゅ線んせんが、グイグイと昇ってくるのだった。
二分、三分、四分、五分――
夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、腋わきの下に滲にじみ出して、軈やがてタラリと肋あば骨らぼねを、駆け下りた。
﹁キィーッ﹂
一同は、はッと、呼い吸きをつめた。
﹁キィーッ、キィーッ﹂
呀あッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓こま膜くの底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
﹁キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ﹂
彼等は、見えない眼を閉じた。
﹁キ、キ、キ、キ、キィーッ﹂
もう堪たまりかねたものか、一行のうちから、サッと、懐中電灯の光こう芒ぼうが、射るように、高い天井を照した。
﹁がーッ、がーッ……﹂
一同は、その怪音のする方を、等ひとしく見上げた。
﹁呀あッ!﹂
﹁ク、クレーンが……﹂
懐中電灯の薄ら明りに、はじめて照し出された怪物は何であったろうか。それはあの巨大な鉄骨で組立てられたクレーンが、物もの凄すさまじい響きをあげて、呀ッという間に、全速力で一同の頭上を通り過ぎたのであった。
﹁ひえーッ﹂
というなり、彼等は、折せっ角かく手にした懐中電灯も其その場ばに抛ほうり出して、云いあわせたように、ペタペタと、地上に尻餅をついてしまった。
﹁電灯を、点けろッ﹂
わしは、クレーンがまだ動いている裡うちだったが、決心をして、号令をかけた。そして真先に、懐中電灯を照して、一同の方へ向けた。彼等の顔は、いずれも、泣かんばかりの表情をして見えた。
﹁しっかりしろ、探険は、これからだッ﹂
わしは、一同を激げき励れいした。
皆の懐中電灯が、揃って点くと、大だい分ぶ場じょ内うないが明るくなって、元気がついたようだった。
﹁クレーンを動かすスウィッチが、入っているかどうかを調べるんだ。オイ、政まさはいるかッ﹂わしは、クレーン係の、若い男を呼んだ。
﹁へええ﹂と政は、死人のような顔を、こっちへ向けた。﹁どうか、その役割は、勘弁しとくんなさい﹂そう云って、彼は、手を合わせて、こっちを拝おがんだ。
﹁莫ば迦かいうな﹂わしは叱りつけた。﹁手てめ前えが、調べねえじゃ、係りで無えコチトラには訳が判らねえじゃねえか﹂
尻込みする政を、両りょ脇うわきから引立てて、捜査に取懸った。
﹁このスウィッチは、開いている﹂一同が入った入口の側の壁上で、その入口から六、七間奥まったところに大きいスウィッチが取附けられてあった。その硝ガラ子スぶ蓋たの上から指ゆびさしながら、クレーン係の政が呻うなった。﹁このスウィッチが、開いているなら、クレーンの上へ、電気が行きっこ無いんです﹂
﹁だが可お怪かしいぞ﹂とわしは云った。﹁クレーンは確かに動いたんだ。クレーンはモートルでしか動けないんだ。このスウィッチが開いていて動く筈はない。開いているようでも何処か、電気が通うようになってるんじゃないか。よく中を開けて調べて見ろ﹂
カチャカチャと音をさせて、スウィッチの硝子蓋を開いてみたが、それは普通のスウィッチが、明らかに開かれた状態になっていて、外にインチキな接続は発見せられなかった。
﹁たしかに、このスウィッチは開いています﹂政は泣き声で云った。
﹁よし、では念のために、クレーンの上へ昇ってみよう﹂わしは云った。
﹁なに、クレーンへ昇る――﹂
一同は、互たがいに顔を見合わせて、恐怖の色を濃こくした。
﹁政、昇れ!﹂
﹁いやァ、救たすけて下さい﹂政は、ポロポロ泪なみだを出して、喚わめくのであった。
﹁じゃ、わしが先せん登とうに昇るから、直ぐうしろから、ついて来い。いいかッ﹂
わしはそういうなり、壁際へ進んで、クレーンに攀よじ昇のぼる冷い鉄タラ梯ッ子プへ、手をかけた。
5
﹁矢張り、クレーンのスウィッチも、開いています﹂
三人の男にさんざん世話をやかせ、漸ようやくわしのあとから、クレーンの上まで担かつぎあげられた政は、モートルの横の、配電盤をひと目見ると、恐おそろしそうに、そう云った。
﹁そうか。確たしかに、それと間まち違がいが無けりゃ、降りることにしよう﹂
わし達は、また困難な鉄タラ梯ッ子プを、永い時間かかって、一段一段と、下りて行った。
下まで降りきらない裡うちから、残っていた連中は、クレーンの上のスウィッチが開いていたか、どうかについて、尋たずねるのであった。
﹁政に見て貰もらったがな﹂わしは一同の顔を、ずッと見みま廻わした。
﹁クレーンのスウィッチも開いていたよ﹂
﹁それじゃ、いよいよあのクレーンは……﹂そこまで云った職工の一人は、自ら恐おそろしくなって、言葉を切ってしまった。
﹁……電気の力で動いたのでは無い、ということになる﹂とわしは、代りに、云った。
﹁誰が、動かしたんだッ﹂
﹁上って、四しほ方うに気をつけて見たが、隠れてる人間も居なかった。なァ、源げん太た、友とも三ぞう、雲うん的てき﹂
﹁そうだ、そうだ﹂
﹁もっとも、人間一人で動くようなクレーンじゃない﹂
﹁ああ、すると誰が動かしたんだ﹂
﹁組長さん。もう我慢が出来なくなった。どうか、ここから出して下せえ﹂
﹁俺も、出るッ﹂
﹁いや、出ることならぬ﹂わしは呶ど鳴なった。﹁クレーンを動かした者が、判らぬ限り﹂
﹁組長さん、そりゃ無理だよ﹂源太が泣き声を出した。﹁ありゃ、生きてる人間のせいじゃないんだ﹂
﹁なんだとォ――﹂
﹁あのクレーンには、何か怨おん霊りょうが憑ついていて、そいつがクレーンの上で、泣いたり、クレーンを動かしたりするんだ﹂
﹁ああッ――﹂
それを聞くと、誰もが、痛いところへ触さわられたように、跳とび上って駭おどろいた。
﹁おお、組長﹂雲うん的てきが云った。﹁誰かが、外で喚いているようですぜ﹂
﹁なに、外で喚いているッ﹂わしは、予期しないことに吃びっ驚くりして云った。なるほど、多勢の声で、何やら喚いているのが、遥はるかに聞こえるのであった。﹁じゃ、みんな、外へ出よう﹂
一同は、ワッといって、入口の扉との方へ、先を争って駆けだした。ガラガラと、重い鉄てっ扉ぴが、遠えん慮りょ会えし釈ゃくなく、引き開けられる物音がした。
﹁おう、組長、大変だア﹂疳かん高だかい声で叫ぶものがある。
わしは、ギクリとした。
﹁組長﹂わしの胸むな倉ぐらに縋すがりついたのは、電ケー纜ブル工こう場じょうの伍ごち長ょうをしている男だった。﹁おせいさんが、大変だッ﹂
﹁なに、おせいが、一体どうしたというんだ﹂
﹁おせいさんが――﹂伍長は、苦しそうに言い澱よどんだ。﹁おせいさんが、熔キュ融ーポ炉ラへ、真まっ逆さかさまに、飛びこんでしまった﹂
﹁熔融炉へ、飛びこんだ、というのかッ﹂
わしは、それを聞くなり、おせいの働いていた電纜工場めがけて、矢のように駆け出した。
わしのあとには、組下のものや、惨さん事じを報しらせに来た連中が、バタバタと追いついて来るのであった。
電纜工場の入口を一歩入ると、凄せい惨さん極きわまりなき事件の、息詰まるような雰ふん囲い気きが、感ぜられるのだった。皎こう々こうたる水銀灯の光の下で仕事をする人々は、技師といわず、職工といわず、場内の一いち隅ぐうに据えられた、高さ五十尺の太い熔キュ融ーポ炉ラの周まわ囲りを取巻いて、一斉に上を見上げていた。熔融炉の側には、松の樹を仆たおしたような大だい電ケー纜ブルが、長々と横よこわっていたが、これは忘れられたように誰一人ついているものは無かった。
﹁駄目だァ、何にも見めえねえ﹂
﹁着物の端も、残っていねえよ﹂
そんなことを叫びながら、熔融炉の頂上に昇っていたらしい男だん工こう達が、悲痛な面持をして降りて来た。白い手術着を着て駈けつけた医い務む部ぶの連中も、形のない怪けが我に人んに対して、策の施ほどこしようも無く、皆と一緒に、まごまごしているだけだった。
﹁どうも、お気の毒でしたが﹂工場長が、わしの傍へ近づくと、興奮した語調で云った。﹁気がついたときは、おせいさんが、もう熔キュ融ーポ炉ラの、殆んど頂上まで、昇っていたんです。でも、それと気がついて、︵停めろ、下りろ︶と、下から叫びましたが、何も聞えない風で、アレヨ、アレヨと云っているうちに、火かえ焔んの中へ飛びこまれたようなわけで……﹂
わしは、云うべき言葉もなかった。
﹁おせいさんは、覚悟の自殺を、やったらしいですよ。どうした訳か判りませんが﹂この工場の組長が、続いて口を挟はさんだ。
そこへ、ドヤドヤと皆みんなを掻かきわけて、前へ、飛び出した者があった。
﹁ああ、死んじまった。おせいさん、俺を残して、何故死んでしまったのだ﹂
気が変になったように喚いているのは、クレーン係の政だった。
﹁オイ、政。どこへ行くんだ﹂政に追い縋すがっているのは、雲うん的てきや源太だった。
﹁おお、おせいちゃん。おれも、直ぐ行くよォ――﹂
﹁おい、待てと云ったら﹂
政は、恐ろしい力を出して、源太を投げとばすと、呀あッという間に、熔キュ融ーポ炉ラの梯子の上へ、ヒラリと飛び上った。
工場の人々は、まだ生なま々なましい惨事のあとに続いて、どんなことが起ろうとしているかを、早くも悟さとって、戦せん慄りつの悲鳴をあげた。
﹁早く、あの男を捉つかまえろ!﹂
﹁引ずり下ろせ、あいつは死ぬつもりだぞ!﹂
﹁誰か、助けてえ――﹂
わしは、身体を動かした。邪魔になる人を押しのけて、熔キュ融ーポ炉ラの梯子の下まで来たときに、一足早く、雲的の奴が、梯はし子ごに手をかけていた。
﹁うぬッ﹂
わしは、雲的を、つきとばした。
﹁わしが助ける﹂
鉄梯子に掴つかまって、上を見ると、政は、気きそ息くえ奄んえ々んたる形であるが、早くも半分ばかりの高さまで登っていた。わしは、ウンと、腰骨に力を入れると、トントンと、手拍子と足拍子と合わせて、梯子をスルスルと攀のぼっていった。見る見る政とわしとの距離は、短縮されて行った。もう一息で、政の身体に手が届くというところで、わしはツルリと、左足を滑らせた。ワッという溜ため息いきが、下の方から、聞えてきた。もう余すところは、五六尺しかない。ワンワン、ガヤガヤと、焦もど燥かしそうな群衆の声が聞える。わしは、速スピ力ードをグッと速めた。
気が気じゃなく、上を見ると、政はすでに熔キュ融ーポ炉ラの縁ふちから上へ、上半身を出している。機チャ会ンスは、今を措おいて、絶対に無い。しかしわしの手は、まだ三尺下にしか届かない。
ワンワン、ガヤガヤの声も、耳に入らなくなった。
政は身体を、くの字なりに、ぐっと曲げていよいよ飛びこむ用意をした。
﹁やッ!﹂
懸かけ声ごえ諸もろ共とも、わしは、身体を宙に浮かせて、左ゆん手でをウンと、さしのべると、ここぞと思う空間を、グッと掴んだ。――
手応えはあった。
工場の屋根が、吹きとぶほど大きな歓声が、ドッと下の方から湧きあがった。
だが、こっちは、右手一本で、熔融炉の鉄梯子を握りしめ、全身を宙に跳ねあげたもんだから、左ゆん手でに政の足首を握った儘まま、どどッと、下へ墜おちていった。右手を放しては、こっちが、たまらない。ガンと、横よこ腹ばらを、鉄てつ梯ばし子ごに打ちつけたがそのとき、幸運にも右脚が、ヒョイと梯子に引懸った。
︵しめたッ︶
と思った瞬間、頭の上からバッサリ、熱くて重いものが、わしを、突き墜おとすように、落ちてきた。そして、呀あッという間に、ヌラヌラと、顔や腕を撫でて、下へ墜落していった。それは、政の身体だった。辛うじてわしが掴んだ政の身体だった。︵これを離しては……︶と私は懸命に怺こらえたが、その恐ろしい重力に勝つことが出来ず、遂ついにツルリと、わしの指の間から脱けて、あいつの身体は、ヒラヒラと風呂敷のように、コンクリートの床を目懸けて、落ちていった。いや、全まったく、政の身体は風呂敷のように、舞いながら、墜ちて行ったのだった。わしは、どうしたものか、急に笑いたくなって、クッ、クッ、ウフウフと、鉄梯子に、しがみついた儘まま、暫くは、動くことが出来ない程だった。
6
﹁これは横瀬さん。珍らしいね。さァ、こっちへ入ったり、入ったり﹂
わしは、珍客の来訪にあって、だだっ広い、合宿の舎しゃ監かん居間の一室へ招しょうじ入れた。
﹁今日は、何の御用かな﹂わしは尋たずねた。
﹁実は一つ聴いていただきたいことがあるのでして……﹂横瀬は、例のモジャモジャ頭か髪みに五本の指を突込むと、ゴシゴシと掻かいた。
﹁どんな話かしらぬが、言ってごらんなせえな﹂わしはチラリと、置時計の方を見たが、もう午後十時に近かった。
﹁じゃ、聴いて貰いますか﹂そう云って横瀬は、莨たばこを一本、口に銜くわえた。﹁これは、俺おれの知っている、或る男の、素晴らしい計画なんだ。ねえ、その男は、自分の情おん婦なを、若い男に失敬されちまったんだ。いや、おまけに、情婦というのが、若い男の胤たねを宿しちまった。いいですか。これが普通の場合だったら、旦那どの胤だと、胡ご魔ま化かせるんだが、生あい憎にくと、その旦那どのというのは、女に子を産ませる力がないことが医学的に判っているのだ。それで、胎はらの子を、胡魔化しようもないので、若い二人は秘ひそかに会って泣きながら相談した。いい智恵も見付からぬ裡うちに、女の身体はだんだんと隠せない程、変ってくる。とうとう仕方なしに、胎の子には罪なことだが、堕だた胎いをすることに決心をした。若い男は、堕胎道具と、薬品を、さるところで手に入れて、女を呼びだした。二人は非常に人目を忍ぶ事情にあるというのが、これが鳥ちょ渡っとでも、旦那どのの耳に入れば、二人とも殺されてしまうに、きまってる。そこで誰にも知られぬ秘密の逢あい場所というのが必要だったが、それは、たった一つあった。どこだと云うと、若い男の勤つとめている工場の、クレーンの上だった。若い男は、クレーンの運転手なんだ。工場が引けてしまうと、あの広い内部が、がらん胴どうだ。幸い女も、工場の案内を知っていた。というのが、その女も工場に働いていたのだ。女は恋しい男に逢いたいばっかりに、真まっ暗くらな工場に忍び入り、非常に高い鉄梯ばし子ごを女の力で昇ったり、降りたりしたのだ。さて堕胎手術も、勿もち論ろんその高いクレーンの上で、やることになった。若い男は教わって来たとおり、道具を女の身体に、挿さし入れて、或る薬液を注入した。それは或る時間の後になって、成功したことが始めて判った。しかし女は、暫くの間、工場を休み、病びょ臥うがしなければならなかった。だが折せっ角かくの二人の苦心も水の泡だった。というのが、旦那どのが、女の様子から、疑惑を生じたためだった。その男は非常に嫉しっ妬と深い奴やつだったが、人一倍、利口な男なので、それと色には出さず、さまざまの苦心をして、情おん婦なをめぐる疑ぎう雲んについて、発見につとめた。鬼きじ神んのような其その男は、なにもかも知ってしまった。二人の身しん辺ぺんから、歴然たる証拠も掴つかんだのだった。それより、ずっと前、旦那どのは、大体の輪りん廓かくを知ったので、憎むべき二人に対して、どんな復ふく讐しゅうをしようかと、画かく策さくした。その結果、考え出したのは、世にも恐ろしい二人の自じめ滅つ計画だった。彼は、二人が堕胎を計った第九工場というのに、︵夜よ泣なき鉄てっ骨こつ︶という怪談を植うえつけた。その実、彼がコッソリ、夜中になると、工場へ忍びこみ、自分で、クレーンをキィキィ云わせたのだ。最後に、彼自身が、化物探険隊の先せん登とうに立って、真しん偽ぎを確たしかめたが、上と下とのスウィッチが、どっちも開あいているのに、クレーンが、轟ごう々ごうと動いたというので、これはいよいよ、怨おん霊りょうの仕しわ業ざということに極きまった。その実、その旦那先生が、先に立って、一々スウィッチを外はずして置いたのだ。怨霊の仕業ということになると、一番戦せん慄りつを感じたのは、若い男と、例の女だ。二人とも大いに思い当るところがある。というのは、自分達が手を下して闇から闇へ送ってしまった胎たい児じの怨霊のせいに違いないと思いこんでしまう。さァ、こうなると、旦那どのの計画は、いよいよ思う壺つぼに嵌はまっていったというわけだ。探険の結果、これは怨霊の外ほかに、理由がつかないと決定した夜のこと、旦那どのは、夜やぎ業ょうをしている情おん婦なのところへ行って、遂に引いん導どうの言葉を渡してきた。それは、のっぴきならぬ証拠を手に入れたので、明日になったら、警察へ告発するぞと脅おどしたのだ。情婦は、思い余あまって、自殺の意を決し、自分の働いている工場の熔キュ融ーポ炉ラに飛びこんで、ドロドロに熔とけた鉛なまりの湯の中に跡あと方かたもなく死んでしまった。こんどは、若い男の番だった。旦那どのは、探険隊の中に、その男を入れることを忘れなかった。若い男を、ジリジリと苦しめてゆくのが、たまらなく快感を唆そそったのだった。若い男は、クレーンが独ひとりで動き出す大だい恐きょ怖うふの前に、永い間、ひき据すえられていた。更さらに、戦せん慄りつを禁きんじ得えないクレーンの上へ、引張り上げられたり、又降ろされたりした。そこへ、突如として、女の自殺を聞いた。それには旦那どのも遽あわてた位だ。若い男は、女の飛込んだ熔融炉目懸けて、駈け出して行った。彼も女の跡を追って、この炉の中で死のうと決心した。そう思うと、彼は脱だっ兎とのように熔融炉の鉄梯子を、かけ上ったのだ。友人の一人が助けようとして、後から上ろうとすると、そこへ旦那どのが、飛び出して、彼をつきとばした。そして、旦那どのは、恨うらみ重なる男のあとにつづいて梯子を上って行ったのだ。これを見ていた人々は喝かっ采さいした。それもそうだろう。いやたった一人を除いてはネ。そいつは、工場の隅すみから、コッソリこの場の光景を眺めていた俺によく似た男さ、はッはッはッ。だが、その男にも、旦那どのの復讐が、どのように行われるのか、見当がつかなかった。ひょっとすると、旦那どのは、わざと梯子昇りの速スピ力ードを落として、︵残念ながら、追いつけなくて、若い男を殺してしまった!︶と云いわけするのかと思っていたが、見ていると、どうやら、そうではない。いや、それは、鬼のように恐ろしい計画だった。旦那どのの考えは若い男が一旦飛び込んで、熱ねつ鉛えんのため赤あか爛れに爛ただれたところで若い男の死骸をひっぱり出すことにあった。俺は旦那どのが、梯子の上で嬉しそうに笑っているのに感付いた唯ゆい一いつの人間だったかも知れない。若い男は、彼の手を離れて、コンクリートの床の上に叩きつけられたが、二た眼と見られた態ざまじゃなかった。旦那どのは、別に咎とがめられもしなかった﹂
﹁面白い話だなァ、若わけえの﹂わしは、静かに云った。﹁だが一つ腑ふに落ちねえことがあるから尋ねるが、探険隊が工場の暗闇の中にいたとき、クレーンが轟ごう々ごうと動いた。直ぐ灯あかりをつけたが、下のスウィッチは外はずれていた。いくら其の悪人が器用でも、電気なしで、あのクレーンは動かせないだろうぜ﹂
﹁そんなトリックに気がつかない俺ではないよ。その旦那どのは、クレーンを動かすスウィッチと、同じ型の、ソレ乙おつ型がたスウィッチよ、あれを工場の栗原さんから借りて、暗闇で音をたてずスウィッチの開閉をすることを練習したんだ﹂
﹁出でた鱈ら目めを云うな﹂
﹁出鱈目ではない。では、証拠を出そうかね。その旦那どのは、工場の入口と、スウィッチまでの距離と、その取付けの高さとを正確に測って来て、この舎監居間の前の廊下に、それと同じ遠えん近きんに、借りて来たスウィッチをひっかけ、真夜中になると、暗闇の中で、練習をしたのだ。嘘と思うなら、舎監居間の戸口から六間先き、廊下から六尺の高さのところに、二本の釘くぎ跡あとがあるが、その寸法と、工場のスウィッチの位置とを較べて見ねえ。ぴったりと同じことだ。それから二本の釘の距離は、その旦那どのが借りていたスウィッチの二つの孔あなの間かん隔かくと同じことだが、実はそのスウィッチは製作の際に間違えて、孔の間隔を広くしすぎたので、この廊下の釘の距離も、普通のスウィッチには見られない特別の間かん隔かくになっている筈はずだ。ここらも、宿しゅ命くめ的いてきな証拠といえば言えるだろう。ウン、ぎゃーッ﹂
わしの手には、お喋しゃべり探偵の脳のう天てんを叩き破ったハンマーが、血にまみれて、握られていた。それは、彼氏がお喋りに夢中になっている間に、卓テー子ブルの蔭から、コッソリ取出したものだった。だが、此この男を殺してしまったお蔭で、隠いん忍にん十年、殺さつ人じん癖へきから遠去かっていた此このわしの身体には、久しく眠っていた悪あく血けつが、一時に飢うえに目覚めて、湧わきあがってきたようだ。わしの名か? ﹁片眼の岩いわ﹂と云やァ、ちっとは人に知られた吾わが儘まま者ものだなア。