上シャ海ンハ四イす馬ま路ろの夜よぎ霧りは濃こい。
黄いろい街灯の下をゴソゴソ匍はうように歩いている二ふた人りづ連れの人影があった。
﹁――うむ、首かし領らこの家いえですぜ。丁ちょ度うど七つ目の地ちか下そ窓うにあたりまさあ﹂
と、斜ななめに深い頬ほお傷きずのあるガッチリした男が、首領の袖そでをひっぱった。
﹁よし。じゃ入れ、ぬかるなよワーニャ﹂
と、首領と呼ばれた眼玉が魚のように大きい男は、懐中からマスクを出して、目にかけた。
合図の数だけ入口を叩くと、重い木製の扉ドアが静かに内に開あいた。
前ぜん室しつを通って、次の部屋にとびこむと、ここはガランとした広間だ。
ガランとしたこの室には、中央に大きな古い卓テー子ブルが一台。そのほかには隅に背の高い衝つい立たてが一つあるばかり。
﹁おお、――﹂
と声があって、その衝立のうしろから現われた異いよ様うな人物。長い中国服を着、その上に白い実験衣をフワリと着ている猫ねこ背ぜの男だった。頭とう髪はつも髭ひげものびっぱなしで、顔の中から出ているのは色の悪いソーセージのような大きな鼻だけだった。両りょ眼うがんの所あり在かは、煙けむ色りいろのレンズの入った眼鏡に遮さえぎられて、よくは見えない。服装や身体つきから見ると、中国人らしいところもあるが、大きな鼻や深い髭から見ると西洋人のようでもある。
﹁やあ、楊ヤン博はか士せ﹂とワーニャは、相手を楊博士とよび、﹁こっちが首領ウルスキー氏だ﹂
楊博士は、よろめくようにして卓子の縁ふちをつかんで、グッと顔を前につきだした。
﹁おお貴様だ。さあ盗んだものを早く返せ﹂
楊博士は髭をブルブルふるわせて叫んだ。
﹁うむ、これだろう﹂
と、ウルスキーは上着の下からピカピカ光る人の顔ほどある黄おう金ごんの環かんを出して、博士の方に見せた。
﹁あッ、それだッ﹂
と、博士が蛙かえるのようにとびついてゆくのをワーニャが横よこ合あいからとんできて、博士の身体をつきとばした。
博士はドンと尻しり餅もちをついて、蟾ひき蜍がえるのように膨ふくれた。
﹁ど、どっこい、そうはゆかないよ。見かけに似に合わ﹇#ルビ﹁にわ﹂はママ﹈わず、太い先生だ。これが欲しければ、約束どおり、あれを実験して見せろ。よく話をしてあった筈はずじゃないか﹂
博士は膝ひざ頭がしらに手をおいて、ヨロヨロと立ちあがったが、
﹁じゃあ、実験をして見せりゃ、必ず返すというんだナ﹂
﹁そうだ。待たせないで早くやらないか﹂
博士はシブシブと承知の色を示した。
彼は腰を折りまげて、卓テー子ブルの下を覗のぞきこむと、のろのろした立たち居いふ振るま舞いとはまるでちがった敏びん捷しょうな手つきで、一ひと抱かかえもあろうという大きな硝ガラ子スび壜んをとりだして、卓子の上に置いた。その壜は横に大きな口がついて、扁へん平ぺいな摺すり合あわせの蓋ふたがついていた。
﹁さあ、こっちへよって、よく見るがいい﹂
博士は手てま招ねきした。
首しゅ領りょうウルスキーは、それッとワーニャに目くばせをして、今のうちに、奥まった隅にある衝立の蔭を見ておけと合あい図ずをした。
ワーニャは楊博士が卓子の上の硝子壜に気をとられている間に、衝立のうしろを素早く覗いてみたが、そこには仕切られた土間と壁があるばかりで、外に何物も見えなかった。
ウルスキーはワーニャの答に、安心の色を見せた。怪博士楊よう羽うの魔術?には、これまでに幾度も苦い目にあっていたから。
﹁さあ、この中を見るがいい。お前たちには何が見えるかナ﹂
二人の訪問客は、博士の指す硝子壜のなかを覗きこんだが、中は正まさしく空からっぽで、なにも見えなかった。
﹁なにもないじゃないか﹂
﹁そうだ。それでいい﹂と博士は髭に蔽おおわれた大きな口をひんまげて薄笑いをし﹁では待って居おれ。こうすると何か見えるかナ﹂
と、博士は壜の胴どう中なかについている蓋をひらいて、懐ふところから出した小さな紙袋から二匹の蠅はえをポンポンと壜の中に追いやり、そして蓋を締めた。
二匹の蠅はブンブン唸うなりながら、壜のなかを勢いきおいよく飛びまわっていた。
﹁なアんだ。蠅を入れたのじゃないか。それが見えなくてどうする﹂
ウルスキーは莫ば迦かにされたとでも思ったものか、腹立たしそうに叫んだ。
﹁蠅が二匹、たしかに見えるというのだナ。それでよしよし﹂楊博士は軽く肯うなずき﹁では暫く、この壜の中の蠅をよく見ておれ。よく見ておれば、今になにか異変を発見するじゃろう。そのときは、儂わしにいってくれ﹂
﹁なにか異変を、だって。うむ、ごま化かされるものか﹂
二人は顔を硝子壜のそばによせ、目玉をグルグルさせて、壜の中をとびまわる蠅の行ゆく方えを追いかけていた。
そのうちに二人は、
﹁オヤ、――﹂
と叫んだ。つづいて間もなく、
﹁オヤオヤ。これは変だ﹂
と愕おどろきの声をあげた。
﹁なにか起ったかナ﹂
﹁うむ。蠅が二匹とも、どこかに行ってしまった﹂
﹁蠅の姿が見えなくなったというわけだナ。どこへも行けやせんじゃないか。密閉した壜の中だ。どこへ行けよう。第一壜に耳をあてて、よく聞いてみるがいい。蠅はたしかに壜の中を飛んでいるのだ。翅はねの音が聞えるにちがいない﹂
二人は半信半疑で、大きな硝子壜に耳をつけてみた。
﹁なるほど、たしかに翅がブーンブーン唸うなっている。それにも拘かかわらず蠅の姿が見えない。これは変だ﹂
ウルスキーとワーニャは、互いに顔を見合わせて、怪けげ訝んな面おも持もちだった。
しばらくして二人は、云いあわせたようにホッと吐とい息きをついた。
﹁さあ、これで儂の﹃消しょ身うし法んほう﹄の実験は終ったのだ。約束どおり、その金きん環かんを返して貰もらおう﹂
と、楊博士はウルスキーの手から金環をふんだくった。ウルスキーは呆ぼう然ぜんとしている。
﹁これだこれだ。この金環だ。ああよくもわが手に帰ってきたものだ。わが生命よりも尊とうといこの世界の宝ほう物もつ! どれ、よく中を改めてみよう﹂
黄金の環が、その宝物かと思ったが、博士はその環の一部をしきりにねじった。すると環が縦に二つにパクリと割れた。博士はソッと片側の金環をとりのけた。中は空くう洞どうであった。つまりこの金環は、黄金の管くだを丸く曲げて環にしてあるものだった。
﹁ややッ。無いぞ無いぞ、大切な宝物がない。オイどうしたのだ。世界一の宝物を早くかえせ﹂
ウルスキーは気がついて、
﹁なにを喧やかましいことをいうんだ。黄おう金ごんの環かんはちゃんとお前の手に返っているじゃないか﹂
﹁金きん環かんが宝物だといってはいないじゃないか。この環の中に入れてあったものを返せ﹂
﹁なにも入っていなかったじゃないか﹂
﹁嘘をつけ。たしかに入っていた﹂
﹁なにをいうんだ。それじゃ一体何が入っていたというんだ﹂
﹁毛だ。毛が一本入っていた﹂
﹁毛だって? はッはッはッ。そうだ、ちぢれた毛が一本入ってたナ。その毛が何だ。毛なんてものは掃はくほどあるじゃないか﹂
﹁その毛を返せ。あれは世界の宝物なのだ。十萬メートルの高空で採さい取しゅした珍らしい毛なんだ。それを材料にして調べると、他の遊ゆう星せいの生物のことがよく分るはずなんだ。世界に只一本の毛なんだ。これ、冗談はあとにして、その毛をかえせ﹂
﹁この﹃消身法﹄の実験装置ととりかえならネ﹂
﹁うむ、そんなことはいやだ﹂と楊博士は首をふった。
﹁ええい面倒くさい。話はこれだ﹂と、首領ウルスキーは懐中からピストルを出して、博士の胸もとにつきつけ﹁折せっ角かくかえしてやろうというのに、要いらなきゃ黄金の環もこっちへ貰って置く。おいワーニャ。お前はその﹃消身法﹄の硝ガラ子スび壜んを貰ってゆけ﹂
﹁へへえ、この気味のわるい硝子壜をですかい﹂
そのとき卓子の下から濛もう々もうと煙がふきだした。
﹁ほら、博士の奥の手が始まった。早く引きあげないと、またこの前のようにひどい目に遭あう、気をつけろ﹂
首領の怒鳴っているうちに隙すきがあったものか、博士はヒラリと身を翻ひるがえして、衝立のうしろに逃げこんだ。
﹁どこへ逃げる。こいつ、待てッ﹂
とウルスキーは博士を衝立のうしろに追いこんだ。だが、彼は衝立のうしろに、何にもない空間を発見したに過ぎなかった。そこへ逃げこんだにちがいない博士の姿がまるで煙のように消えてしまったのである。
﹁ワーニャ、硝子壜をもってすぐ逃げろ。ぐずぐずしていると、生命が危い﹂
ワーニャは決心して硝子壜を抱かかえあげた。壜はわりあいに重かった。
二人は出口の方へ向って走りだした。
とたんにガチャンと大きな音がした。
﹁失し敗まった﹂
とワーニャが叫んだが、もう遅かった。彼の抱えていた硝子壜は床の上に墜おちて、粉こな々ごなになった。
二人はワッといって、外に飛びだした。
どっちへ行ってよいかわからぬ四す馬ま路ろの濃い霧の中を、二人は前になり後になり、必死に駈けだした。
それでも、とにかく博士の追跡をのがれて、首かし領らウルスキーとワーニャは、一時間あまり後に仏ふつ租そか界いに聳そびえたつ大だい東とう新しん報ぽうビルの裏口の秘密扉ドアの前に辿たどりついた。
悪あっ漢かんウルスキーなる人物は、マスクを取ると、いま上シャ海ンハイ国際社交界の大おお立だて者ものとして知らぬ人なき大東新報社長ジョン・ウルランドその人に外ならなかった。ウルランド氏は、謹きん厳げんいやしくもせぬ模範的紳士として、社交界の物言う花から覘ねらいうちの標ま的ととなっていた人物だった。
秘密ボタンを押すと、扉ドアがひらいた。二人はビルの中へ転ころげこむように入っていった。
奥まった密室の安あん楽らく椅い子すのうえに身体をなげだすと、二人は顔を見みあ合わせた。
﹁おいワーニャ。なんだって、あれほど大切な壜を床の上に落したんだ。大きな苦心を積んで、やっと手に入れたと思ったのに、手前の腕も鈍にぶったな﹂
﹁鈍ったといわれちゃ、俺あっしも腹が立ちまさあ。なアに、あの壜には長なが紐ひもがついていて、その元を卓テー子ブルにくくりつけてあったんです。その紐てやつが、やっぱり目に見えないやつだったんで、俺だって化ばけ物ものじゃないから、見えやしません。腕からスポンとぬけて、足の下でガチャンといったときに、ハハア目に見えない紐がついてたんだなと、気がついてたってえわけです。化物でもなけりゃ、はじめから気がつく筈がない。――﹂
﹁ワーニャ、愚ぐ痴ちをいうのはよせ。いまさらグズグズいったって、元にかえりゃしない﹂
ウルスキーは腹立たしそうに、太い葉巻をガリガリと噛んだ。
﹁ねえ、首かし領ら﹂とワーニャは機嫌をとるようにいった。﹁楊博士の奴は、ひどく悄しょ気げてたじゃないですか。たかが、たった一本の毛のことでねえ。莫ば迦からしいっちゃないや﹂
﹁うん。学者なんてものは、おかしなものさ。だが――﹂と彼は起き直って﹁あれがほんとに十萬メートルの上空で採さい取しゅしたもので、火星の生物の毛ででもあったら、こいつは素晴らしい新聞の特とく種だねだ。よオし、こいつは儲もうけ仕事だ。オイ、ワーニャ、お前すぐ編集次長のカメネフを電話でよびだせ﹂
﹁でも首領﹂とワーニャは急に不安な顔をして﹁そいつは大きに考え物ですぜ。あの宝物の毛をなくしたことについて博士は千萬ドルの紙幣を焼かれたようにブルブル慄ふるえて怒っていましたぜ。あいつはきっと復讐せずにいないでしょう。ああそれなのに、あの火かせ星いじ獣ゅうの毛のことをうちの新聞に素っぱぬくなんて、彼奴の憤ふん慨がいの火に油を注そそぐようなものですよ。そしてもしか、社長がギャングの大将だと嗅かぎつけられてごらんなさい。そのときは新聞の読者は半分以下に減へりますよ。これは考えなおしたがいい﹂
﹁なにを臆おく病びょうなことをいいだすんだ。こんな素晴らしいチャンスを逃がすなんてえことが出来ると思うかい。引込んでいろ﹂
﹁だって首領。あの楊博士と来た日にゃ……﹂
﹁うるさい。黙ってろ﹂
ウルスキーは肘ひじ掛かけ椅い子すからバネ人形のようにとびあがって、喫いかけの葉巻を力一杯床ゆかにたたきつけた。
その夜は無事に過ぎた。
次の日のお昼休みにレーキス・ホテルに出かけたウルスキーならぬ大東新報社長ウルランド氏は、午後二時になっても社へ戻ってこなかった。十分すぎに、例の火星獣の毛の原稿を抱かかえて待っていた次長が、遂に待ちかねてホテルに電話をかけた。すると意外なる話にぶつかった。
﹁ウルランド氏の姿が、貸切りの休憩室に見えなくなっているんです。部屋には内側からチャンと鍵がかかっているのに、どうされたんでしょうか。これから警務部へ電話をして、警官に来て貰おうと思っていたところです﹂
﹁なんでもいいから早く社長を探してくれ。急ぎの原稿があるんだ。社長に早く見せないと、乃お公れは馘くびになるんだ﹂
そういった次長も、上うわ衣ぎをつかむが早いかすぐエレベーターの方に駛はしっていた。社長を至急探しださねばならない。
工部局の警官隊がロッジ部長に引いん率そつされて、レーキス・ホテルにのりこんできた。休憩室の扉ドアは、華はなやかに外からうち壊こわされた。一行は、誰もいない室内に入ったときに、なんだか低い唸うなり声ごえを聞いたように思ったが、室内を探してみると、猫一匹いなかった。全くの空あき室しつだった。
﹁いいかね。ウルランド氏は室内に入ると、内側から鍵をかけて、上衣をこの椅子の上にかけ、靴をぬぎ揃えてこっちのベッドに長々と寝た。――それだけは推理で分っとる﹂
とロッジ部長は得意そうに、あたりを見廻したが、事実ウルランド氏の靴も上着も、そこには見えなかったのである。社長は服装ごと、どこかに姿を消してしまったのである。
ウルランド氏の失しっ踪そう事じけ件んは、たちまち上シャ海ンハイの全市に知れわたった。
﹁大東新報社長、白はく昼ちゅうレーキス・ホテルの密室内に行方不明となる!﹂
﹁ウルランド氏の失踪。ギャング団ウルスキー一味の仕しわ業ざと見て、目下手配中!﹂
などと、新聞やラジオでは、刻々にその捜索模様を報道して、町の人気をあおりたてた。騒ぎは、ますます大きくなってゆく。
工部局の活動、秘密警察の協力、素人探偵の競演――などと、物すごいウルランド氏捜索の手がつくされたが、ウルランド氏の消息は更にわからなかった。
今日こそは、明日こそはと、市民たちもウルランド氏の発見を期待していたが、すべては空むなしく外はずれてしまい、やがて二週間の日が流れた。ウルランド氏の生命は、誰の目にも、まず絶望と見られた。
ところがここに一人、ウルランド氏の生命の安全なることを知っている人物があった。それは当のウルランド氏そのひとに外ほかならなかった。
彼は、もうかれこれ十日あまりも、町の騒そう擾じょうを見てくらしているのだった。彼は、ショーウインドーらしき大きな硝ガラ子スをとおして、一部始終を眺めて暮らしているのだった。彼の前には、紛まぎれもなく賑にぎやかな上シャ海ンハイ、南ナン京キン路ろの雑ざっ沓とうが展開しているのだった。それも暁あかつきの南京路の光景から、明あける陽ひをうけた繁はん華かな時間の光景から、やがて陽は西に傾かたむき夜の幕とばりが降りて、いよいよ夜の全世界と化かした光景、さては夜も更ふけて酔すい漢かんと、彼の手下どもが徘はい徊かいする深夜の光景に至るまで、大だい小しょ洩うもれなく、南京路の街頭を見つくし見み飽あきているのだった。
どうしたことからこうなったのか、彼には始まりがよく分らなかった。
ともかくも、捕ほり虜ょになったなと気がついたときは、今から十日ほど前のことだ。彼はこのショーウインドーの中に長々と伸びていたのだ。
それからこの細長いショーウインドーの中の生活が始まった。彼は一歩もその中から出されなかったのだ。
彼の目の前を過ぎゆく人に向って、SOSを叫んだ。硝子をドンドン叩いて、通行の人の注意を喚かん起きした。しかし誰一人、彼の方を見る者がなかった。
﹁変だなア。なぜ、こっちを見てくれないんだろう﹂
彼は諒りょ解うかいに苦しんだ。彼の鼻の先に男や女がとおるのである。それにも拘かかわらず、誰もこっちを向いてくれない。こんな情なさけない話はなかった。
或るときは、市民の一人がショーウインドーに背をもたせかけて、大東新報を読みだした。彼は自分の失踪事件がデカデカとでてるのを知った。
﹁おい、ウルランドはここにいるんだ﹂
とその男の背中と思うあたりの硝子を破われんばかりに叩いたが、彼は背中に蚤のみがゴソゴソ動いたほども感じないで、やがて向うへいってしまった。
三日目に、手下のワーニャが乾こぶ分んをつれてゾロゾロと通っていった。彼は必死になって、手をふり足を動かし、ゴリラのように喚わめいたが、それもやっぱり無駄に終った。
雑沓のなかの無人島に、彼はとりのこされているのだ。普通の無人島ならば、救いの船がとおりかかることもある。だが、この細長い巷ちまたの無人島は、完全に人間界を絶ぜつ縁えんされてあった。
三度三度の食事だけは、妙な孔あなからチャンと差入れられた。それは子供が食べるほどの少量だったので、彼はいつもガツガツ喰った。
排はい泄せつ作さよ用うが起ったときには、そこに差入れてある便べん器きに果はたした。はじめは雑ざっ沓とうする大通りを前にして、とてもそんな恥はずかしいことは出来なかったが、どうやらこっちから往来が見えても、外からこっちが見えないと分ってからは、すこし気が楽になった。そのうち彼は往来を檻おりの中の猿のようにジロジロ眺ながめながら用を足すまでになった。
通行人の新聞面を見ていると、いよいよ彼ウルランド氏の生命は絶望となったと出ていた。彼はもうすっかり弱りきって、腹を立てる元気もなかった。
十一日目に、はじめて彼のうしろの壁から人の声が聞えてきた。
﹁悪あっ漢かんウルスキーよ。その硝ガラ子スば函この居いご心こ地ちはどうじゃネ﹂
﹁あッ、――﹂とウルランド氏は顔色をかえた。それは正まさに、例の楊ヤン博はか士せの皺しわ枯がれ声ごえに相違なかったのである。
﹁はッはッはッ。今ぞ知ったか。消しょ身うし法んほうの偉いり力ょくを﹂
﹁なにッ﹂
﹁汝なんじの手に触ふれる板硝子と、往来から見える板硝子との間には、五十センチの間かん隙げきがある。その間隙に、儂わしの発明になる電気廻かい折せつ鏡きょうをつかった消身装置が廻っているのだ。汝なんじの方から見れば外が見えるが、外から見ると何も見えないのだ。どうだ分ったか﹂
ウルランド氏は蒼そう白はくになって戦せん慄りつした。
﹁おいひどいことをするな。早くここから出してくれ。貴様の云うことは何でも聞くからここからすぐ出してくれ﹂
楊博士は薄笑いをして、
﹁まあ当分そこに逗とう留りゅうするがいい。だが町もいい加かげ減ん見み飽あきたろうから、消してやろう﹂
そういった声の下に、今まで見えていた往おう来らいが、まるで日暮れのように暗くなり、やがて真まっ暗くらなあやめも分らぬ闇と変りはてた。その代り電灯が一つポツンとついた。
それと入れ代って、繁はん華かな南ナン京キン路ろの往来では、俄にわかに騒ぎがはじまった。ショーウインドーの中で、半はん裸らた体いになった紳士が、いかがわしい動作を通行人に見せているというので、たいへんな人だかりだった。
そのうちに、何だあれは行方不明のウルランド氏ではないかといい出した者があり、それは一大事だと騒ぎはますます大きくなっていった。これは楊博士が、消身装置の廻折鏡を反対に廻したために、今まで見えていたショーウインドー外がいの光景が見えなくなり、その代り今まで外から見えなかったショーウインドーの内部が明らさまに見えるようになったのだった。そういうこととはしらず、ショーウインドーの中のウルランド氏は悠々と公衆の面前で用をたしている。市民は愕おどろきかつ呆あきれ、やがてはとめどもなく笑いだした。なんという無む恥ちであろうか。
警官隊が駈けつけたが、そのウルランド氏を堅けん固ごな硝ガラ子スば函この中から救いだすには、まる一日かかった。二枚の板硝子の間に仕掛けられていた楊博士の消身装置は、その救助作業のうちに壊こわされてしまった。
救い出されたウルランド氏は、転ころんでも只ただは起きない覚悟で、遭難記を自分の大東新報に掲かかげたが、それは市民たちの侮ぶべ蔑つを買っただけであった。社交界にウルランド氏が現れたときは、さすがの貴婦人たちも、一せいに背中を向けた。誰も彼もニュース映画によってウルランド氏の生理現象を詳つまびらかに見ていたので、そういう人物と握手しようとは、誰一人として思わなかったのである。
ここに於おいて楊博士の復ふく讐しゅうは、ようやく成ったようであるが、その後、この広い上シャ海ンハイのなかに博士の姿を見た者は只の一人もなかった。