1
なにがさて、例の金きん博はか士せの存在は、現代に於ける最大奇蹟だ。
博士に頼みこむと、どんなむつかしそうに見える科学でも技術でも、解決しないものは一つもない。雲を呼んでくれと博士にいえば、博士はそこに並んでいる壜びんの栓せんを片かた端はしから抜く。抜けば、壜の中よりは、濛もう々もうたる怪しき白い霧、赤い霧、青い霧、そのほかいろいろが、竜たつ巻まきのような形であらわれ、ゆらゆらと揺ゆれているのを面白がっている間に、いつしか部屋の中は一面の霧の海と化かしてしまって、そのうちに博士がどこにいるやら、実験台がどこにあるやら、はては自分の蟇がま口ぐちがどこにあるやら、皆かい目もく分らなくなってしまうというようなわけで、結局金博士の智慧を験ためそうとした奴の蟇口の中身が空か虚らと相あい成なって、思いもかけぬ深しん刻こくな負けに終るのが不動の慣例だった。
﹁おいおい、ちょっとしずかになったと思ったら、ひどいことを書きおる。わしは瓦ガ斯スの研究をやっているから、赤い霧、青い霧の話はいいとして、蟇口がどうとかしたというくだりは、どうも人聞きが悪いじゃないか。わしの人格にかかわる﹂
いつの間にか、私の背うし後ろから金博士が、原稿用紙をのぞきこんでいたのを、私は知らなかった。
そこで私は、ペンを休ませないで、こういったものである。
﹁金博士、私があれほど教えてくださいと懇こん願がんしていることに博士が応こたえてくださらない限り、私は博士の有ること無いことを書きなぐって、パンの料しろにかえながらいつまでもこの上シャ海ンハイに頑がん張ばっている決心ですぞ﹂
そういって私は、前の卓テー子ブルに噛かじりつく真ま似ねをしてみせた。
すると博士は、人ひと並なみはずれた大おお頭あたまを左右にふりながら、
﹁はてさて困った男だ。まるで蒋しょ介うか石いせきみたいに攻こう勢せい的てき同どう情じょうを求めるわい。しかしいつまでもわしの部屋に頑張られても困るが、一体貴きこ公うの教わりたいという事項は、何じゃったね﹂
﹁あれぇ、金博士はもうそれをお忘れになったんですか。そんなことじゃ困りますね﹂
と、私は大おお袈げ裟さに呆あきれてみせて、ひとのいい博士の、急所に一ひと槍やり突つっ込こんだ。
﹁ああそれは済まんじゃった。はてそれは何のことだったか、ああそうか、殺人光線のエネルギー半はん減げん距きょ離りのことだったかね﹂
﹁いえ違いますよ。博士、私が教えてくださいといったのは、そんなむつかしい数学のことではありません。つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究きゅ極うきょくなる未来に於て、如い何かなる生せい活かつ様よう態たいをとるであろうか? その答を伺うかがいたいと申したのです﹂
﹁なんじゃ、もう一度いってくれ。何の呪じゅ文もんだか、さっぱりわしには通つうじない﹂
﹁何度でも申しますが、つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるものであろうか? どうです。今度は分りましたろう﹂
﹁何なん遍べん聞いても、分りそうもないわい。結けっ着ちゃくのところ、やがて人類はどんな風な暮し方をするかということなのじゃろう﹂
﹁そうですなあ。まず簡かん単たん粗そざ雑つにいうと、そういうところですねえ﹂
﹁そうか、そんな質問なら、答はわけのないことじゃ。ピポスコラ族と全まったく同じようになる。そして一万年か二万年たてば、われわれ人類にはネオピポスコラ族という名前がつくだろうな﹂
﹁ははあ。そのピポスコラ族というのは、何ですか。どこにいる民族ですか﹂
﹁それは、今わしがいっても、お前はとても信じないと思うから、いうのはよそう﹂
﹁博士、それは卑ひき怯ょうというものです。今までに民族学や人類学はずいぶん勉強しましたが、ピポスコラ族なんてものは聞いたことがありません。博士は出でた鱈ら目めをいっていられるのでしょう﹂
﹁莫ば迦かなことをいっちゃいかん。尤もっとも、パルプで慥こしらえたあのやすい本なんかには出とりゃせんだろうが、わしは嘘をいっているのではない﹂
﹁じゃ説明してください。或いは、私をそのピポスコラ族の前へ連れていってくだすってもかまいません﹂
﹁あはははは。うわはははは﹂
博士は、なぜか大声をたてて、からからと笑いだして、しばらくは笑いが停とまらなかった。そのうちにようやく笑いを停めると、こんどは笑いあきたか、急に熊くまの胆きもを嘗なめたようなむつかしい顔になって、
﹁では、こうしよう。来る八月八日を第一回目として、それから十年毎ごとの八月八日に、お前はその日の日記を認したためて、わしのところへ送ってきなさい﹂
﹁十年毎の間かん隔かくは、ちと永いですね﹂
﹁そうでもないよ。そうしてお前が、第八回目の手紙を書くようになったときには、お前は否いや応おうなしに、ピポスコラ族に出で会あった話を書かなければならないだろう。それまでわしは、ピポスコラ族のことも、又それと同じ生活様態になるわれわれ人類のことについても、喋しゃべらないことにする﹂
﹁まるでお伽とぎ噺ばなしに出てくる人間の姿をした神様の台せり辞ふみたいですね。そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……﹂
﹁云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ﹂
﹁いや、それはお許しねがいたい﹂
私は、蟇口を片手でおさえると、脱だっ兎とのように、博士の研究室を逃げだしたのであった。
――以上が、金博士に送った第一回の日記、つまりその年の八月八日の私の日記だったのである。
2
第二回目の日記は、それから十年たった十×年八月八日に於ける私の日記であった。これは第一回分のものとは違って、大だい分ぶ日記風になってきた。以下、これを再録しておく。
十×年八月八日 晴れ
小便に起きたついでに、明り取りの窓から暁の空を透すかしてみると、憎らしいほど霽はれ渡わたった悪天候である。
これでは今日も、日にっ本ぽん空くう軍ぐんのはげしい爆撃があるだろうと思って憂ゆう鬱うつになったとたんに、ぷーっという空くう襲しゅ警うけ報いほうのサイレンであった。
﹁うわーっ、つまらない予想が当りやがる﹂
私は、ぺっと唾をはくと、寝床へとって返した。ベッドの上の衣服と、その脇わきに吊つるしておいた非常袋を掴つかむが早いか、部屋をとびだして、街路を駈かけだした。目標の市しみ民んぼ防うく空うご壕うは、五百ヤードの先である。
息せき切って防空壕に辿たどりついたはいいが、ふと手を頸くびのところへやってみると、肝かん腎じんの入にゅ壕うご証うしょうがない。しまった。紐ひもをつけて頸にかけていたが、途中で切れてしまったらしい。といって引ひっ返かえしてまごまご探していようものなら、足の早い日本空軍の爆撃機は、私の知らぬうちに頭上へ現れるだろう。
私は泣き面つらに蜂はちの体ていたらくであった。
﹁入れてくださいよ。入壕証は、その辺で落として来たんですよ﹂
﹁その辺で落として来たんなら、これからいって拾ってくるがいいじゃないか﹂
﹁それが……﹂
役人は意地悪い顔つきで、私を睨にらみつけている。仕しよ様うがない。なけなしの財布の底をはたくより外ほかに途がない。
私は、非常袋の中へ手を入れて、五千元げんの法ほう幣へいを掴つかみだした。それをそっと、役人に握らせると、
﹁今日だけ、一つ頼みます﹂
﹁ううん。たった、これだけか。これだけでは……﹂
﹁ああ出します。もうこれで身しん代だい限かぎりなんです﹂
と、私は更に三千元の法幣を掴みだして、かの役人の手に握らせた。
﹁よろしい。今度だけ大目に見る。この次は二万元以下じゃ、見のがされんぞ﹂
﹁へい﹂
私は急いで、役人の腕の下をくぐって、防空壕の中にとびこんだ。すると、ずんずんずんずずーんと、大きな地響が聞えてきた。もう爆撃が始まったのである。ぐずぐずしていると、防空壕の入口が閉ってしまうところであった。
それが爆撃の皮切りであった。それから、始まって、息をつぐ間もなく、爆ばく裂れつ音おんが続いた。壕の天井や壁から、ばらばらと土が落ちて、戦おののき犇ひしめきあう避難民衆の頭の上に降った。あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。
中には、案外くそ落着きに落着いている奴もあるもんだと思ったが、私と肩を摺すり合わせている青年がいった。
﹁あの、どどーんという爆裂音と、あのずしんずしんという地響と、この二つを無くすることが出来ないものかな。あれを聞くと、生いの命ちが縮ちぢまる﹂
﹁それは無理だと思うね。この重じゅ慶うけいにいる限り、どうも仕様がないよ﹂
と私はいった。
﹁いや、私はまだ対策があると思うんだ。もっと防空壕を深く掘るとか、出入口の扉ドアを三重四重にするとか、政府が努力するつもりなら、もっといい防空壕が出来る筈だ。そう思いませんか﹂
﹁それはそうだね﹂と私は青年にさからわぬよう相あい槌づちをうった。
﹁とにかくわれわれは、世界中で最も勝すぐれた市民だということを忘れてはいかん﹂
青年の話が急にかわった。
﹁え、どうして?﹂
﹁え、だってそうだろうが。世界中で、われわれほど毎日のように猛爆をうけている市民はいない。従って、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、且かつ防空精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。そうでしょうが﹂
﹁あ、なるほど、なるほど。しかし、ずいぶん長期戦が続くものですなあ。もういい加減、日本空軍が鉄に困って木もく製せいや泥どろ製せいの爆弾を落としてもいい頃だと思うんだが、相変らず鉄の爆弾を落としとるですが、敵もさるものですなあ﹂
﹁いや。もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ﹂
﹁でも、木製爆弾なら、あんな逞たくましい音はしないでしょう﹂
﹁そうだね。今日の爆弾は音が、悪い……﹂
といっているとき、大きな音響と共に、目の前が火の海になったかと思ったら、私はそのまま気を失ってしまった。……
今日の日記はこれでおしまいである。なぜなれば、私が気がついたのは、その翌よく朝あさのことであったから、今日の日記としては、気を失ってしまった点々々というところで終りなのである。
3
金博士へ送る第三回目の日記。
前の日記から、また十年たったのである。
二十×年八月八日 晴れ
ラジオは、今朝は空が晴れているとアナウンスした。十年前のころは、夜が明けて、空が晴れていると、空襲があるという予想から、晴せい天てんを恨うらんだものである。この頃は、晴れていようが、曇っていようが、どっちでも大した差さ違いはない。どんな日でも、飛行機はとんで来て、正確に爆撃をしていくのだから。
しかしこの頃のように、われわれ市民は、地下へ潜もぐったきりで、一ヶ月に一度も、地上へ出て空を仰あおぐ機会が与えられていないと、なんだか天気のことなど、莫ば迦かくさくて、聞く気になれない。
食事をすませて、第三区行きの地下軌道にのり、会社に出勤した。今朝は、いきなり委員会議だ。
今日の議題は、地下都市の拡張工事について、掘り出した土を、どこの地上に押しだすかということである。うっかりどこにでも出そうものなら、たちまち敵国の空中スパイに発見されて、こっちの新しい地下都市の所しょ在ざいを突つき留とめられてしまう。
午後三時であったが、会議中、空襲警報が、睡むそうに鳴り響いた。
﹁またアメリカ空軍が爆撃にやってきたか。御苦労なことじゃ﹂
この頃の爆撃はラジオのアナウンスだけで、お仕し舞まいだから、頼たよりない。地下都市の構こう築ちく法ほうが完全になって、爆弾が落ちても、地響一つ聞えて来ないし、もちろん爆裂音なんか、全く耳にしようと思っても入らない。なにしろ地下都市も、今は百メートルの深さにあるのだから、安心したものである。
そんなことを思っていたとき、だしぬけにものすごい音響が聞え、同時に、壁がぴりぴりと震ふるえ、天井に長々と罅ひびが入った。
﹁うわーっ、めずらしいじゃないか、爆裂音だ。どうしてこんな地下まで、紛まぎれこんできたのかね﹂
議長さえ、まだそれほどの険けん悪あくな事態の中にあるとは考えないで、爆裂音を身近くに聞いたことを興きょうがっている。
だが、時間がたつに従って、一座は、今日の爆撃がたまたま地ちげ隙きを縫って、深い地下に達したというような紛まぐれあたりのものでないことに気がついたのだった。爆裂音は、次第に大きさを増し、そしてピッチを詰めてきた。
議長が、議案をそっちのけにして、びりびり震動する周囲の壁を見廻した。
﹁どうも今日の爆撃は変だね。いやに地底ふかく浸しん透とうするじゃないか。おい君、対空本部へ電話をかけて事情を聞いてみよ﹂
議長は私に命令した。
私は早さっ速そく、対空本部附つきの漢かん師しち長ょうを呼びだした。そして、いつもに似合わしからぬ爆弾の深しん度どば爆くれ裂つについてたずねたのである。
すると漢師長は、あたりを憚はばかるような口くち調ょうになって、私に云ったことに、
﹁それは、いつもと違っている筈だ。今日アメリカ軍が使っている爆弾は液体爆弾なんだ﹂
﹁液体爆弾? そんなものは初めて聞いたが、それは一体どんなものかね﹂
﹁つまり、アメリカが深い地下街爆撃用にと新あらたに作った爆弾で、A種弾とB種弾と二つに分れているんだ。まず初めにA種弾をどんどん墜おとすのさ。すると爆弾は土どち中ゅうで爆発すると、中からA液が出て来て、それが地隙や土どじ壌ょうの隙すき間まや通路などを通って、どんどん地中深く浸透してくるのさ。ちょうど砂すな地じに大雨が降ると、たちまち水が地中深く滲しみこんでいくようなものさ﹂
﹁なるほど。そして、そのA液は滲み込むと、爆発するのかね﹂
﹁いいや、A液だけでは、爆発はしないのだ。暫しばらく時間を置いて、丁ちょ度うどA液がうまく浸みこんだ頃ころ合あいを見はからって、こんどはB液の入ったB種弾が投下されるのだ。このB液も、さっきのA液と同様に、地下深く浸みこんでいくが、どこかで先に滲みこんでいるA液と出会うと、そこでたちまち、猛烈な化学反応が起って大爆裂をするというわけだ。おそろしい発明だよ、液体爆弾というやつは﹂
﹁ふーん、考えたもんだね。すると、われわれも今までのように、地下百メートルのところにあるからといって安心していられないわけだな﹂
﹁そうだよ。おお、君の今いる地区へも、既にA液弾が落ちて、今ずんずん地底へ向けて滲みこんでいるという報告が来ている。この上、B液弾が落ちれば、たいへんなことになるよ。大いに注意しなければいけない﹂
﹁大いに注意しろといって、どうするのかね﹂
﹁それはね、水はけ――ではない液えきはけをよくすることだ。上から滲みこんで来た液は、樋といとか下げす水いか管んのようなものに受けて、どんどん流してしまうことだ。しかしA液とB液とを一緒に流しては、さっき云ったとおりに爆発が起るから、その前に、濾ろ過か器きを据すえつけて、A液とB液とを濾こし分け、別々の排はい流りゅ管うかんに流しこまなければいけない﹂
﹁それはずいぶん面倒なことだね。急きゅ場うばの間に合わないや﹂
﹁でも、それをやって置かないと、君たちの生いの命ちに係かかわる﹂
﹁生命に係るのは分っているが、もうA液は天井のあたりまで滲みこんでいるのに、樋工事を始めたり、濾過器を取寄せたりするわけにいかんじゃないか﹂
﹁それもそうだな。じゃあ、仕方がない。ここから君たちの冥めい福ふくを祈っているよ。南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ!﹂
﹁おい、そんな薄はく情じょうなことをいうな。おーい、何とか助けてくれ。あ、電話を切っちゃいかん。……﹂
といっているとき、大だい音おん響きょうと大だい閃せん光こうとに着飾って好このましからぬ客がわれわれの頭の上からとび込んできたのであった。それ以来、私は人じん事じふ不せ省いとなり、全身ところきらわず火やけ傷どを負ったまま、翌よく朝ちょうまで昏こん々こんと死しせ生いの間を彷ほう徨こうしていたのである。
4
それからまた十年たった。
今日は八月八日である。金博士へ対して、約束のとおり、第四回目の日記を送ることになった。次に示すのは、その日記のうつしである。
三十×年八月八日 室内温度、湿度、照明度すべて異状なし 配給も正確なり
本日は、地下千メートルを征服し、現在われわれの棲すんでいるこの極ごく楽らく地下街建設の満三ヶ年の記念日であるので、ラジオは朝から、じゃんじゃんと楽しい音楽を送ってくる。
あれからもう三年たったか。
われわれ人類も、空爆の威いり力ょくに圧おされて、だんだんと地底深く追いやられたが、初めはせいぜい地下二百五十メートルが人類の生活し得る限度で、それ以上になると、とても暑くて、生活は出来ないし、構こう築ちく物ぶつももたないといわれたものであるが、そうかといって、地下四五百メートルにまで達する深しん度どば爆くだ弾んの餌えじ食きになるのを待っていられないため、必死の耐熱建築の研究に国立研究所を動員し、遂ついに不可能と思われたる難問題を解決し、三年前にこの輝かがやかしき極楽地下街の完成を見たわけである。
私は、食事を済ますと、すぐさま圧あっ搾さく空くう気きき軌ど道うの管くだの中に入り、三分四十五秒ののちには、記念祝賀会場たるネオ極楽広場の人ひと混ごみの中に立っていた。
梁りょ首うし席ゅせきの巨きょ躯くが、壇だん上じょうに現れた。
われわれは一せいに手をあげた。
﹁本日の記念日に際し、余よは何よりも先まず第一に、敵国の空軍は本年に入って、殆んど新しい飛行機の補充をなさなくなったことを諸君の前に報告するの光栄を有ゆうするものである。いや、新機を補充しなくなったばかりか、これまで敵国が保有していた軍用機も、最近一年は、壊こわれ放題にしてある始しま末つである。これ乃すなわち、わが国が、完全なる防空力を有する地ちか殻く及び防ぼう空くう硬こう天てん井じょうの下に、かくの如く地下千メートルの地層に堅けん固ごなる地下街を建設したことによって、敵国は空中よりの爆弾が一いっ向こう効きき目めがなくなったことを確認し、そして遂に、その軍用機整備の縮小を決行するに至った次しだ第いであります。つまり、われわれが完全に地下に潜もぐることによって敵の空軍を全然無力化させることに成功したわけであって、これにより、われわれの国家は、いよいよ安全にして健康なる発展を遂とげることが約束されたわけである。先ず盃さかずきをあげて、今日の大勝利を祝って、乾盃したいと思います。皆さん、盃を……﹂
私は、久ひさ振しぶりに、飲み慣れない酒に酔ってしまって、それから以後のことを、よく覚おぼえていない。
5
それからまた十年たった。
第五回目の日記である。
四十×年八月八日
目が覚めると、今日は何をして退屈を凌しのごうかなと、それがまず気にかかる。
極楽生活は、飲食にも困らないし、着るものも充分だし、外がい敵てきの侵入の心配もなし、すべて充分だらけであるが、只一つ困ったことには、来る日来る日の退屈をどうして凌ぐか、これに悩まされる。
ところが今朝は如何なる吉きち日じつか、私は不ふ図と四十年前に、金博士から聞いた疑問の民族の名を思い出したのであった。
ピポスコラ族!
ピポスコラ族とは、どんな民族なのであろうか。あのときは空襲下に戦おののいていたときであったから、それがどんな族だか調べてみる余裕がなかった。よろしい、今日はあれを一つ古代図書館へいって調べてみよう。私は、俄にわかに元気づいた。
古代図書館に於て、完全に深夜まで暮した。しかしピポスコラ族が何ものであるかは、遂に手てが懸かりがなかった。私は更にそのまま、次の日にち暦れきの領域に入っても、調べを続けることにした。しかしそれは最もは早や八月八日分の日記ではなくなるから、ここで擱かく筆ひつする。
6
それからまた十年たった。五十×年八月八日となった。この日の日記は、従来の慣例を破って、遂に金博士の許もとへ届けられなかった。そのわけは、政府が突然、全国的に、通つう信しん杜とぜ絶つを号令したからである。
その理由は?
その理由は、そのときには何のことだか、全く分らなかったが、それから一年半ほどたって、漸ようやくぼんやりしたその輪りん郭かくだけがわかった。それは白はく人じん帝てい国こくが、ひそかに抱サン合ドイ兵ッチ団へいだんをもって、わが国攻略を狙っているという情報が入ったため非常警戒となり、遂に通信厳げん禁きんとなった由よしである。
しからば、その抱サン合ドイッチ兵団とは、どんなものであるか。それが分っていれば、政府もそれほど狼ろう狽ばいする必要はなかったのである。分らなかったから、騒ぎが大きくなったのであった。その抱サン合ドイッチ兵団のことは、次の日記において、初めて全ぜん貌ぼうが明めい瞭りょうとなるであろう。
7
六十×年八月八日 最小限生活に追いこまれあり、食慾ことの外ほか興奮して、治おさめるのに困難を感ず、非常時ゆえ、仕方なけれど……。
前夜から、われわれは、リュックサックを肩に負い、必死で、縦たて井い戸どを登とう攀はんしつつあるのであるが、老人である私には、腕の力も腰の力も弱くて、一向はかがいかない。一時間もかかって、やっと五メートル登るのがせきのやまである。
しかも、気をゆるめていようものなら、下から上って来た乱暴な市民のため、われは邪じゃ魔まあ扱つかいにされて、まるで壁にへばりついているやもりを叩きおとすように、われ等の身体は奈なら落くへ投げおとされるのである。
奈落へ墜つい落らくすれば、どっち道、死あるのみである。岩かどに頭をぶっつけるか、そうでなくて死にもせず、元の極楽地下街まで墜おちついたとすれば、そこには白人帝国軍の地ちて底いせ戦んし車ゃた隊いが待っていて、たちまち身はお煎せん餅べいの如く伸のされてしまうのである。であるから、どっちにしても死の頤おとがいを逃れることは出来ない。
ああ、今になってぶつぶついっても仕方がないが、どうしてわが当局は、抱サン合ドイ兵ッチ団へいだんの攻略に気がつかなかったのであろうか。およそ攻撃目標たるわれわれが、敵軍の空中からの爆撃を避さけて地下に潜もぐり、空爆更さらに効果なしと分れば、敵軍はこんどは手をかえ、地中深くからわれわれの住居地を攻撃するであろうことは、素しろ人うとにも分ることではないか。
何を今いま更さら、五万台にのぼる敵の地底戦車兵団をわれわれの足の下に迎え、あれよあれよと騒いで間に合うものか。
﹁市民たちは、即そっ刻こく地上に避難せよ。地上に出た方が、まだ被害程度が軽いであろう﹂
そういって、わが護衛司令官は布ふこ告くをしたが、それもいい加かげ減んの対策だったことが、間もなく判明した。なぜといって、何十年ぶりかで市民たちが地上へ頭を出したとたん、待っていましたとばかり、敵白人帝国の空中兵団は、われわれ同どう胞ほうの上へ襲いかかったのである。猛爆、また猛爆、その惨さん状じょうは聞くにたえないものがあった。
地底へ下りれば、敵の地底兵団あり、地上へ出れば、敵の空中兵団あり、上と下とからの抱サン合ドイッチ兵団の攻撃にあっては、われわれは上のぼりも下くだりも出来ず、文字どおり進しん退たい谷きわまってしまった次第である。
﹁ああしまった﹂
ああ痛い。とんだ愚ぐ痴ちをのべている間に、私は折せっ角かく二日がかりで登った八メートルばかりの縦井戸を下に滑すべりおちてしまった。でも幸さいわいに、そこで地下道が水平に折れ曲っていたからそれ以上墜落しないですんだ。もう愚痴はよそう。そして私は、もう上るのも降りるのもよした。もうその気力がない。前途に対する希望は、ここでしずかに餓が死しするばかりである……。
と考えこんでいたとき、不意に私の肩を突つっ付つく者があった。私はびっくりして目を開いた。すると目の前に、逞たくましい顔の青年が、前まえ屈かがみになって、私の顔をのぞきこんでいた。
﹁おお、君は洪こう君﹂
﹁そうです、洪です。先生、ぐずぐずしていられませんぞ。私と一緒に逃げてください﹂
﹁君の親切は感謝するが、もう迚とても駄目だよ。上へ出ても下へ降りても殺されるものなら、ここでしずかにわが生涯を閉じたいのだよ。わしをかまわんで呉くれ﹂
﹁先生、そんな気の弱いことでは、駄目じゃありませんか。敵の手に至いたらず、まだ逃げていくところが残っていますぞ﹂
﹁へえ、本当かね。それはどこだね﹂
﹁それはつまり、深く地底にも降りず、そうかといって地上にもとびださず、丁ちょ度うどその中間のところ、つまりサンドウィッチでいえば、パンのところではなく、パンに挟まれたハムのところを狙って、どこまでも横に逃げていくのです。横へ逃げれば、まだ今のうちなら、無限にちかいほど、逃げていく場所があります。そのうち、どこかで落ちついて、穴けっ居きょ生活を始めるんですよ﹂
﹁しかしなあ洪君、横に逃げるといって、穴を掘っていかなければならんじゃないか﹂
﹁そうです。穴掘り機械が入いり用ようです。ここに私が持っているのが、人工ラジウム応用の長距離鑿さく岩がん車しゃです。さあ、安心して、この上におのりなさい﹂
﹁そうかね。それは実に大したもんだ﹂
と、私は鑿岩車に足をかけ、洪君のうしろの席へ腰を下ろした。そのとき丁度、私のリュックの中で、目ざましが午後十二時をうった。
8
それから十年のち、すなわち七十×年八月八日、私は日記を書く代かわりに、金博士に対して次のような手紙を書いたのだった。
炯けい眼がんなる金先生足そっ下か。まず何よりも、先生の御ごよ予げ言んが遂に適てき中ちゅうしたことを御報告し、且かつ驚嘆するものです。
金先生足下。ピポスコラ族には、遂に昨日面接しました。それは全く唐だし突ぬけのことでありました。
私は洪こう青年と、長距離鑿さく岩がん車しゃにのって、十年ほど前から、地ちち中ゅう放ほう浪ろうの旅にのぼりましたが、昨日の昼頃、車を停めてしばし休憩をしていますと、ふしぎにも、地中のどこかで、どすんどすんと地響がするではありませんか。私たちはおどろいて、顔の色をかえました。
私は、遂に敵の地底戦車にとり囲かこまれたのだと悲観しましたのに対し、洪青年は、こんなところに地底戦車隊がいるとは思えないと主張してゆずらず、その揚あげ句く、遂に洪青年の意に従って、われわれは敢かん然ぜん、鑿岩車を駆って、怪かい音おんのする地点に向け、最後の突撃を試みました。
やがて、一段と大きく岩の崩くずれる音とともに、われわれは思いもかけない明るい部屋の中に突入したのです。私は愕おどろきの目をみはりました。そこは大きな洞どう窟くつで、猿とも人ともつかぬふしぎな動物が居合わせました。しかしその動物は別にわれわれに危害を加える様子はありませんでした。
私の予かねて勉強しておいた前ぜん世せい古こだ代い語ごが役にたって嬉しいことでした。彼等は自みずから、これがピポスコラ族であることを申立てました。彼等は二十万年前に、地中へ潜もぐったと申して居りました。その当時は、地上や空には恐きょ竜うりゅうなどの恐ろしく大きな動物が猛もう威いをふるい、地底深くには大おお土もぐ竜ら︵それが退化して今日残っているのが例のもぐらもちです︶に攻めたてられ、遂に上じょ下うげ谷きわまって横に向いて逃げるうち、このところに安あん全ぜん洞どうを見出して、穴けっ居きょ動物となり果はてたことが分りました。
すべて、金先生の仰おっ有しゃったとおりです。そこで私は洪君とはかり、これから何とかしてこの土地でピポスコラ族にならい穴居生活をつづけることになりました。もしもどこかで、洪君のためによき配はい偶ぐうが見つかるならば、われわれ人類は、やがてネオピポスコラ族という新しい種しゅ族ぞくをつくり、この地中に、繁栄することでありましょう。